「宣教70周年-2020 明日に向かって「将来と希望」パート15 
~主よ。祈りを教えてください!❺
 聖霊によって祈る~」

2020年11月1日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
エペソ人への手紙 6章18~19節

『あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。』

 ハレルヤ!おはようございます。礼拝で奉仕をさせていただけます恵みを、心より感謝します。
 今の菊池さんの賛美、良かったですね。よく聞くと、霊的戦いの歌です。一部礼拝では気づかなかったのですが、苦しみ悩みの中から、夜更けに戦い歌うという内容でした。
 私たちは日々、祈りが必要な時代に生きています。今週は、大きな祈りの課題があります。それは「アメリカ大統領選挙」です。「アメリカのことだから関係ない!」では済まされないのです。日本は、アメリカの、こんな言葉は使ってはいけないかもしれませんが、属国です。アメリカの言う通りに日本は動きます。ですから、大統領選挙の行く末が、日本の未来を決めるのです。
 トランプはあまり人格的に良くないイメージがありますが、トランプがやるのか、バイデンがやるのかというよりも、共和党か民主党かという選択です。
 教会は民主党のオバマ政権の時に大きな問題を投げ込まれました。同性婚が法制化されて反キリスト的な政策が教会にぶつけられました。
 トランプは、「教会はエッセンシャル、どうしても必要な存在だ。」と語り、コロナの中でも教会を励ましています。共和党政権でないと教会は立場が悪くなる可能性もあるわけです。
 ですから是非とも祈っていただきたいです。トランプはメディアを敵にしていますから、バイデンが優勢となっていますが、私は個人として真剣に祈っています。

 また新型コロナの問題も深刻です。ヨーロッパは再度ロックダウンする状況になっています。日本もこれから冬場に向かいますから、祈らなければいけない季節です。新城教会でも感染対策を進めていますが、主に守っていただけるよう、祈らなくてはいけないと思います。
 皆さんに祈っていただいていますホルヘ先生も、一時は駄目かというところまでいきましたが、主がいやして下さいました。彼は死の霊が近づいてきたのが分かったと言っていました。
 彼のための支援献金、早速送らせていただきました。
 日本のためにもコロナが拡大しないように祈らなければいけないですね。

 気がつけば十一月。あっという間の一年だったと思います。とはいえ、あと二月ありますが。私は十一月を迎えて、ある意味、感無量です。なぜならば、去年の十月二十五日に、家内はあと三ヶ月・四ヶ月しかもちませんという、余命宣告を受けたからです。でも家内は今、元気に一緒に暮らしています。本当に嬉しいなぁ、と思っています。
 テレビなどで余命宣告の場面は見ていたのですが、所詮、他人ごとみたいなところがあったのですが、自分がその場面に立ち会うと、本当に気持ちの持って行き場がありませんでした。「長くもって三ヶ月、四ヶ月の命ですかね〜」と。
 しかしクリスチャンで良かったです。まだ天が開いていたからです。私は人生をかけて、主に祈ってみよう!と診察を聞きながら決意しました。
 皆さんにもお祈りをお願いして、一年が過ぎました。今でも彼女が側にいてくれるのは、本当に嬉しいです。祈りは確実に主の元に届くということです。

 最近、「主よ。祈りを教えてください!」というタイトルで、メッセージを語っています。今後も、どのように祈ったらいいのか、主から教えていただかなければいけないと強く感じています。
 家内の病気が発覚した時、なんでもいいから真剣に祈ろうと思いました。もちろん私たちの神さま、イエスさまにです。しかし私たちの神は三位一体なる神です。父なる神さま、子なるイエスさま、聖霊なる神さまの三位一体の神ですが、父なる神さまでも、子なるイエスさまでも、聖霊さまでも。その中の一人でも動いてくれて、家内を癒やしてくれ!みたいな祈りでした。日夜真剣に涙と共に叫び求め、祈り続けました。しかしそんな中、祈りを整理するように主から教えられました。
 我々の神は三位一体なる神です。祈りは、イエスさまの名前を通して、聖霊の助けによって、父なる神に祈るのです。弟子たちが「主よ、祈りを教えてください。」とイエスさまに願った時、「わたしが神だから、わたしになんでも祈りなさい。」とは言われませんでした。「父よ。」と呼びかけるよう、教えられました。
 初代教会も、イエスさまが救い主であり、神であることを理解しましたが、祈りは父なる神にささげていました。
 三位一体の神は、各位、ご自分の役割をしっかりとわきまえた上で働いておられます。祈りは、父なる神の前に祈らなければいけないことを教えられました。
 昇天後のイエスさまの天での役割は、「大祭司」としての役割です。大祭司とは仲介者です。神の前に出る時の仲介者がイエスさまです。かつて大祭司が仲介する時には必ず、いけにえの血が必要でした。イエスさまは、ご自分の十字架の血を、父なる神さまの前に届けてくださったのです。また、助け主聖霊さまによって、私たちは、父なる神を「アバ!」と親しく呼びかけられるようになったのです。ゆえに我々は、父なる神さまの前に、自由に出ることができるのです。

 そして前回は、祈りは人だけでなく、被造物全体のものであるとお話ししました。被造物が苦しめば、人も苦しむ。人のうめきと、被造物のうめきはシンクロしているのです。祈りの中で、被造物を味方にして祈ることについてお話させていただきました。

 そして、今日は、強調点として、聖霊さまの位置をしっかりと理解して祈るというポイントでお話しします。
 先ほど読んでいただきましたみことばの中に、

『あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。』

とあります。ここに「御霊によって祈りなさい。」とあります。
 私は「御霊」という用語が好きではありません。なぜなら、日本語で「御霊」とは、本来、「荒魂・和魂などの魂の様相を指す、神道用語」です。結局、訳語に困って神道用語を使っていると思うのですが、「聖霊によって祈る」ということです。
 英語の聖書では、”Pray in the Spirit”と訳されています。これは三位一体の中の「聖霊さま」のただ中で祈れ!という命令です。
 聖霊さまのただ中で祈るならば、祈りは父の元に届き、正しい答えが与えられるという祈りの法則です。

 コリント人への手紙第一、十四章十五節でパウロは、

『それではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。』

 この箇所は、聖霊が与える賜物である「異言」で祈り、賛美することと、知性での祈りと賛美についての言及です。「聖霊によって祈る」とは、「異言によって祈る」事と同一視し、強調されることもあります。しかし、異言はあくまでも聖霊さまが与えてくださる「賜物の一つ」です。もちろん異言での祈りは、聖霊さまご自身を意識する事につながりますが、「Pray in the Spirit」とは、「The Spirit」すなわち、三位一体なる神の一位格、「聖霊」のただ中で祈ることを意味します。与えられた賜物で祈ることを越えて、聖霊さまという、ご人格のただ中に身を置いて祈ることを教えているわけです。

 エペソ人への手紙六章十八節のみことばを、ある神学者が次のように解説していました。

 “この祈りは先に述べられている霊的戦いと直結している。ギリシャ語原文では、十七節から続く一文となっている。自らが霊的戦いのただ中にいることを十分に意識し、切迫感を抱きながら熱心に祈り続ける姿である。すべての祈りと願いとは、切なる思いを持って、主に願いを申し立てる姿である。”

 先ほど十八節を読みましたが、本来、ギリシャ語の原文におきましては、十七節で区切り、十八節で区切る文章構造ではないというのです。十七節〜十八節は、一文だというのです。

『救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。』

 「聖霊のただ中で祈る」とは、「霊的戦いそのものである」ということです。
 注解者が述べていたように、自らが霊的戦いのただ中にいることを十分に認識し、切迫感をいだきながら、熱心に祈り続ける姿、それこそが聖霊による祈りです。
 祈りとは、イエスさまを意識し、聖霊さまを意識し、父なる神さまに語りかける事ですが、その中で、聖霊によって祈るとは、霊的戦いを意識して祈ることです。
 案外、祈りとはお願いの領域だけで捉えやすいです。祈りには、神への陳情のようなイメージがあります。一人で神さまの所に行って、「助けてください」と祈ってもなかなか難しいので、祈りのデモ隊と一緒に「神さま、助けてくれ!」と談判するようなイメージがありますが、祈りとは、神に対するベクトルと共に、敵に対して立ち向かうという、教会全体をあげての権威の領域、霊的戦いの方向性があるのです。
 教会が一丸となって悪魔に立ち向かう時に、聖霊のただ中での祈りが実現し、祈りは父なる神に届き、答えがやってくるのです。そこに被造物全体も参加し、うめきに同調して戦うのです。このような祈りの秘訣を握る時、真の答えがやってくるはずです。

 ご存じのようにエペソ六章は、パウロが霊的戦いについて強調しているところです。有名な箇所は、エペソ人への手紙六章十節〜十二節です。

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 パウロという人物は現代の教会を支える神学を作った重要な人物です。そんな中、エペソ人への手紙は「教会論」、すなわち、教会とは何かを定義する上で重要な書簡です。パウロがいなかったら、今日の教会は存在していないと言っても過言ではありません。
 パウロがエペソ人への手紙を書いたのは、彼の晩年でした。ローマにおいて捕らえられて牢獄で書いたと言われます。それで獄中書簡とも言われます。彼は獄中で自分の人生を振り返る時間がありました。そこで、人生にさまざまな事件が起こった背景に、暗闇の力が関わっていたことに、はっきりと気づかされたのです。それで、「私たちの戦いは血肉の戦いではない!」と、彼は明言したのです。

 エペソ人への手紙において、パウロがどのように霊的戦いを理解させられたのかと言いますと、ある神学者が次のように注解しています。

 “血肉ではない悪霊どもとの霊的な戦いは、すでにパウロ書簡でも語られている。ただしそこではまだ、それらの悪霊の働きが人間存在と関連付けられていて、自分と他人とを含む人を通じて現れる悪との格闘として捉えられている。しかしここエペソ人への手紙六章では、「血肉との戦いではない」と明言されることによって、人間を越えた「宇宙論的な範疇」で捉えられているのが特徴である。”

 パウロは以前にも霊的戦いを体験していたのですが、エペソ人への手紙では、霊的戦いの理解が飛躍的に拡大しているというのです。それは、宇宙的に拡大しているというのです。
 それまで彼は、悪霊どもは人を背景に働くと理解していました。どうでしょうか。「あの人が来ると、なんとなくざわざわしますね。」とか、「ああいう人物がいるから、霊的事件が起きるんだ。」とか、悪魔・悪霊とは人を介在して、人の背後で働くという理解が強いです。
 しかし、ここでパウロは、「人なんかいなくても宇宙的に悪霊は働いている」と気づかされたというのです。これは今までとは、全く違った視点で霊的戦いを捉えているというのです。
 「主権、力」という表現は、「人間社会の社会政治学的な構造」と関わり働く悪霊どもの勢力という意味です。これは地上レベルの霊的戦いを現します。エペソ人への手紙以外では、パウロは霊的戦いをそのように理解していたのです。しかしエペソの手紙六章では、「主権、力」に加えて、「暗闇の世界の支配者たち」という勢力について言及しています。これは原語では、「コスモクラトール」と表現され、占星術を意味します。
 当時、占星術は天文学と一体でした。それは当時の最先端科学だと考えられていました。占星術ほど、未来を正確に予知する技術は当時、他にありませんでした。占星術で未来が分かるというのです。しかしパウロは、それは悪霊の仕業だと気づいたのです。当時の世界で最先端科学だと考えられていた占星術が、実は、悪霊の働きだった、それはショッキングな発言でした。
 例えて言えば、現代社会の最先端科学は、インターネットでしょうか。この礼拝もネット中継されています。しかし「インターネット技術は悪霊の働きによって成り立っています。」なんて私が言ったら、「ちょっとあんた、頭おかしくないか・・」と言われます。まさに「コスモクラトール」に言及しているのは、当時の社会においては、そのくらいのインパクトがあったはずです。

 さらに大きなインパクトを与えたのが、「天にいる諸々の悪霊」という表現でした。なぜびっくりしたかというと、「天」とは、「天国」のことを意味するからです。
 皆さん、どうでしょうか。やがて天国に行って、「おぉー!すばらしい!」と思ったら、そこに悪魔・悪霊どもが待っていて、「ようこそ!」と出迎えたら、びっくり仰天です。
 「天(諸天)にいる」とは、同じ表現です。初代教会、また初代の教父と呼ばれる人たちは、「これは一体、どういう意味だろうか?」と悩んだそうです。「なんとか違った訳ができないものか?」ということも、試みられたほどでした。
 しかし確実にパウロは、「天に悪霊どもがいる」と語っているのです。そして、パウロは、そこで起こる霊的戦いが最も激しい戦いだ!と理解したわけです。
 実は、旧約聖書を見ると、その例を見ることが出来ます。ヨブという人物、「義人」でした。しかし、あのような人物でも、天で訴えられたのです。天の神の会議の中にサタンが入って来て、ヨブを訴え、地上では悲惨なことが起こりました。まさか天にサタンがいるなんて誰も考えません。しかしパウロは、エペソ6章でそのことに言及したのです。
 これはどういう事かについて、前回、お話しさせていただきました。地上にある神殿は、天にある神殿のコピーだとヘブル人への手紙では述べられています。
 そして、イエスさまは本物の模型に過ぎない手で作った至聖所に入られたのではなく、天そのものに入り、天の神殿で仕えておられるとヘブル人への手紙の記者は告げています。
 地上の神殿を見れば、天の神殿がどんなものかが分かるのです。
<>
 地上の神殿の中に、サンヘドリンという場所がありました。それは裁判所としての機能でした。裁判所が神殿の中にあって、大祭司をはじめ、祭司たちは、裁判官でもあったのです。
 これが天の神殿のコピーならば、何が言えるのでしょうか。天の神殿には、天のサンヘドリン、天の法廷があって、悪魔は天に存在する悪霊どもを通して、神に訴えることができるということです。それはちょうど、日本国内に他国の大使館があるのと同じ構図だと思います。大使館は、主権国家である日本に対して、様々なことを合法的に訴える機能を持っているからです。

 しかしながら私たちは、このような訴えがあったとしても、それに打ち勝つ権限が与えられているのです。それが教会です。そして、教会の偉大さを述べているのが、エペソ人への手紙でもあるのです。

 先週は、増山先生が来て下さり、エペソ人への手紙一章十九節〜二十節を語って下さいました。教会は捨てたもんじゃないと。すごい権限がある場所であると語られました。「エクレシアそれは神の栄光の輝き」と語られ、たいへん恵まれました。
 エペソ人への手紙一章二十三節、

『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

 教会とは、神のすべての権威がイエスさまを通して与えられている存在です。そして、私たちはキリストのからだの各部分です。「一人一人が神様に愛されていますよ〜」という雰囲気でキリストの体を捉えやすいのですが、実は、教会とは、私たちのイメージとは全く違うものです。
 旧約聖書の教会概念に新約聖書の教会概念を加えると、教会本来の意味が分かります。旧約聖書で「教会」の概念は、「カーハール」、「呼び集める」という意味があります。そしてギリシャ語的な教会は、「エクレシア」です。よくご存じだと思いますが、それはどんなものであったのかと言うと、ギリシャ社会の議会で、「種々の軍事行動に対する作戦と宣戦布告の決定機関」であったというのです。ゆえに教会とは、「戦いのために呼び出された者たちの群れ」とう意味になります。
 神は教会を通して霊的戦いをされるのです。教会とは、本来、「戦会」、「戦う為の会衆」です。イエスさまは、私たちの王として、軍隊を率いて、暗闇に立ち向かわれるのです。その軍隊こそ「教会」です。

 私の家内の病が発覚して一年が経ちました。ここまで来られた事を、心から皆様に感謝したいと思います。病発覚以来、家内は、神に従うことと共に、「悪魔に立ち向かえ!」と主から語られました。後、三ヶ月、四ヶ月の命と言われ、腹水、胸水も溜まっているただ中で、彼女は退院後、毎朝早く起きて、豊川の河川敷に行って、悪魔と戦う祈りをしました。そんな中、教会の祈りが加わり、今の勝利につながったと信じます。
 今日は家内の挨拶のビデオを作りましたので、ご覧いただきたいと思います。一年守られてきたことを、夫婦共々、心から感謝いたします。

===
 ハレルヤ!私の病が発覚した昨年の秋以来、私のために、また夫のために、皆さまが熱き祈りをささげてくださり、共に戦ってくださったことを本当に心から感謝をいたします。
 本来は皆さまお一人お一人にお会いしてお礼を申し上げるのが本意ですけれども、今日はこの動画にて失礼をさせていただきます。
 膵臓癌末期、余命三ヶ月、四ヶ月との宣告を医師から受け、ちょうどこの十月で一年を迎えました。数々の戦いがこれまでありましたが、振り返ると神さまの奇跡の足跡を多く見ることができます。今日はこれまでの詳細については触れる時間もないのですが、改めて、この道のりの全容を皆さまにお伝えできればと願っています。
 今日、私の元気な姿を皆さまに見ていただけるのは、一重にこれまで皆さまの熱きお祈りと、サポートがあってこそのことです。この一年間、私を、また私の夫を支えてくださったことを、本当に心より感謝をいたします。
 まだ最終的な出口がしっかりと見えているわけではありませんけれども、ここまで奇跡のみ手を持って導いてくださった主が、これからも同じように導いてくださることを信じています。そのためにもお祈りいただけると感謝です。
 そしてこの奇跡が、またこの癒やしが、私だけにとどまらずに、今後、多くの人々の癒やし、また奇跡の扉を開いていく、きっかけになればと本当に願っています。皆さまのお祈りを、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
 今日はこのような機会をいただいて、映像で皆さまにご挨拶させていただくことができて、本当に感謝をいたします。どうもありがとうございました。

==

 一年間生かされてきたのは皆さんのお祈りの結果であることを、本当に感謝します。
 それと共に、「祈りとは何か」を主が示してくださり、特に「聖霊によって祈る」ことが霊的戦いであることに気づかされ、実践した中に一つの鍵があったのではないかと思います。
 もしも主が、霊的戦いの剣を与えて下さらなかったら、きっと私は今ごろ、ひとりぼっちではないかと思います。共に戦いに参加してくださって、暗闇の勢力に、教会を通して戦ってくださった結果、このようなことが起こっていると信じています。
 まだまだ、出口がはっきり見えたわけではありません。しかし一年という区切りの中で、主が成してくださったことを、皆さんにお伝えできることを、心から感謝しています。
 二年目は、二年目の戦いを戦っていかなければいけないと思っています。

 一つ祈っていただきたい事があるのですが、毎月、私たち夫婦は絞首台に上るような気分になります。それはCTを撮って結果が出ますし、血液検査で腫瘍マーカーの数値が出るからでいす。本当に心が休まる日がありません。
 ちょっと祈っていただきたいのですが、腫瘍マーカー値がずっと安定していたのですが、今回、基準よりも、ちょっとだけ上がりました。次回に下がれば別にどうってことはないのですが、本当に一喜一憂します。ですから今度は、正常値になってほしいと強く願っています。
 もっと上がると再発の可能性もあることになるので、教会の祈りがどうしても必要です。

 しかしそれとは別に、今回、一つ大きな奇跡も見せていただきました。先週、そのことについてちょっとだけ、お話しさせていただいたのですが、私の家内、膵頭部癌といって、大きさが一センチ以上になったら、手術ができず、死が確定するような病です。家内に癌が発見された時に、それはすでに三センチ以上ありました。その後撮ったCTでは、五センチに成長していました。急速に大きくなる癌で、十二指腸を圧迫し、まもなく食物は通らなくなると言われました。癌は胆管を強く圧迫しており、胆管が潰れて、すでに胆汁が流れなくなっていました。その結果、黄疸が出て、肝臓の数値がすごく上がり、いつ死ぬか分かりませんと宣告されました。膵臓癌って、本当に怖いです。大きくなるまで、自覚症状がないのです。見つけるのが大変だそうです。見つかる人は健康診断で、たまたま見つかるだけだそうです。
 それで家内は、緊急に胆管にステントを通しました。これを通すのも、何度も何度も失敗して、死ぬ思いをしました。近くの病院ではできなくて、最終的には藤田医科大学病院に行き、医者たちが総力をあげて、家内の胆管にステントを通してくれました。
<>
 それは金属製で、先が尖っていて、自分で広がります。セルフ・エクスパンディング・メタルといって、押し寄せる癌を押しのけて、胆管を広げる力を持っているステントです。それを挿入するだけでも、ものすごく苦労して、家内は七転八倒の苦しみでしたが、なんとか成功し、一命を取り留めました。
 しかしステントは三ヶ月か四ヶ月に一度は詰まるのです。そうすると高熱が出て、緊急で内視鏡で掃除したりしなければなりません。ステントは金属製で、挿入したら二度と取れないというのです。「三ヶ月か四ヶ月で絶対に詰まりますから。」と、何度も言われました。
 しかし皆さんの祈りによって、不思議と十ヶ月くらい経っても詰まりませんでした。医者も「おかしいなぁ。詰まるはずなんだけどな。詰まらなければおかしいんだけど・・。」なんて言うのです。癌が治っても、こいつは外せないから一生物だというのです。これからどうするのかな・・・とね。本当に困ったものだと思いました。これでは遠くには行けません。もしも詰まったら、即、病院に駆けつけないといけないからです。いや〜、本当に困りました。

 ある時、私の娘とその件について話したら、娘がこう言うのです。「私はステントが消えるように祈ってるよ!」。
 一瞬私は、何を馬鹿な祈りしているのか!?と思いました。「そんなの消えるわけないじゃん!」と言いました。私は毎月、ステントのCTを見せられていて、胆管にしっかりと食い込んでいるを見ていますから、消えるはずがないと思いました。一生付き合っていくしかないと失望していました。

 しかし今回、CTを撮って、CTレポートをもらって唖然としました。そこには、「胆管ステントは抜去後状態にある」という一文が入っていたからです。なんと、家内の胆管に入っていたステントが消えていました。エキスパンディング・メタルですから、普通ならば絶対に外れないと言われていたのが消えていたのです。
 「どうして消えたんですか?」と聞いたら、「後ろの癌が限りなく後退したから、なんらかの拍子で外れて、便と共に出たんでしょう。」みたいな説明でした。「だけど、こういうのは聞いたことないなぁ〜」と医者が言っていました。ステントは全長、八センチもあって、それが胆管から飛び出し、小腸、大腸を経て、最後に、「いてっ!」となりそうですが、医学的にはそれしか考えられないそうです。
 しかし神さまは物質の根源ですから、パッとステントを消してくれたのかもしれません。神は鉄だって消すことができるはずです。神さまが鉄を作った張本人ですから。鉄を肉に変えることだって可能だと思います。
 いずれにしても、ステントが家内の体内から消滅したことは確かです。これで外に出て行っても大丈夫ということになります。
 しかし一方では、何かアクシデントで外れて、また癌が大きくなったらどうしよう・・・なんていう不信仰も湧いて来ます。
 今回の件に関して、もしも神が関わったとしたら、癌だって消してくれたはずです。癌は横において、「こいつは知らんぞ。ステントだけは消してやる。」とは言われないと思います。だから私も、「信仰を持って祈り続けよう!」と決断した次第です。

 これが霊的戦いの中で起こされた奇跡であることを私自身、体験させていただき、本当に感謝します。まさに、エペソ六章十八節のみことばは、霊的戦いそのものです。そして聖霊による祈りが加わらないと、祈りは完成しないのです。

 霊的戦いは「やってもいいし、やらなくてもいい・・、君のオプションだよ。」みたいなことではなくて、「マスト」なのです。
 多くのクリスチャンが、戦場のただ中にいながら、ピクニックに来ているような錯覚をしているのです。戦場のただ中でピクニックなんかしていたら、絶対にやられちゃいます。

 聖書は「この世は悪魔の支配下にある」とはっきりと告げています。この戦いに勝利するためにはどうしたらいいのか。それは、教会に与えられている権威です。戦いのために呼び出された者たちの群れが必要なのです。この軍隊の長は、王であるイエスさまご自身です。
 そして聖霊さまの助けの中で、暗闇の世界に立ち向かう時、地上だけでなく、宇宙も含めて、緒天も含めて、天の法廷に訴える暗闇の勢力に「ノー!」と宣言できるのです。
 私たちクリスチャンは、イエスさまと共によみがえらされて、共に天の所に座らされているからです。

 祈りの全容を我々が理解して、主の前に出る時、祈りの答えが地上に実現します。私は二年目の戦いに入りながら、主が二年目を、完全大勝利として下さると信じています。完全大勝利を家内に与えて下さると信じています。それがただ、家内だけでなく、すべての方々に共有される「一般公式」となるように、心から願っています。

 最後に感謝をこめて、一言お祈りをさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。祈りについて主が教えてくださって感謝をいたします。聖霊さまのただ中で祈れと、語ってくださっています。そのためには目を覚ましていて、すべての聖徒のため、忍耐の限りを尽くして祈れと要請されています。
 これは霊的戦いそのものだと語らせていただきました。
 今日こうしてこの場に集ってくださっている兄弟姉妹、またインターネットで共有してくださっている兄弟姉妹に同じ祝福がありますように。 主のみ名によって、アーメン。

 皆さんの目の前に聖餐式が並べられているかもしれません。また会衆の皆さんは家に帰ってから聖餐式をされるかもしれませんが、ちょっと手を出してくださいますか。その手に教会に与えられている権限があります。パンとぶどうのジュースを祝福する時に、イエスさまのからだと血となり、新しい契約、それも大祭司イエスさまが、父なる神さまに渡し、その血を新しい契約として与えてくださるようにお祈ります。

 父なる神さま、感謝します。あなたがみ子イエスさまから尊い血潮を受け取って、私たちに新しい契約をそなえてくださって感謝します。家に帰ってから行う聖餐式の為に、神の権威を授けてください。
 イエスさまの新しい契約と共に、聖霊によって戦い、祈ることができますように。被造物全体の回復のために、用いてください。
 今日ここにおられるすべての兄弟姉妹、ネットで主の前に出ておられる兄弟姉妹、全員に祝福がありますように。また誕生日を迎える兄弟姉妹、その他すべての領域に祝福を与え、今日、苦しみと悲しみの中にある兄弟姉妹に、私の家内の中に主が現してくださった勝利を共有させてください。
 この七十周年、大きな勝利を見せてくださることを信じて、主に、すべての栄光をお返しして、イエスさまのみ名により祈りをおささげいたします。アーメン。