「宣教70周年-2020 明日に向かって「将来と希望」パート16 
~主よ。祈りを教えてください!❻ 
わざわいではなく、将来と希望!」

2020年11月15日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
エレミヤ書29章10〜12節

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。
 今もアルメニアからの賛美を聞くことができて感謝です。新城教会の方々が世界に散って、それぞれの場所で祈り、主を賛美しておられるのを見て、励まされます。
 現在、世界中の教会が、同じテーマを共有して祈りをささげています。こういうことは歴史の中でそう多くはないです。もしかしたら、歴史上、初めてかもしれません。昔はメディアが発達していませんでしたから、一つのことを世界中で共有することはなかったかもしれません。しかし今、新型コロナの問題で、世界中が神に祈りをささげています。
 我々が信じている神さまは、わざわいの神ではなくて、将来と希望の神さまです。

 聖書は、世界で最も多く読まれている書物です。それはその内容において、世界中の人たちが共感する部分が数多くあるからです。聖書はイスラエルという一つの国を取り上げて、その国の動向、神との関わり、ふるまいによって、個人の人生も含めて、どのように変化するのかを、歴史を通して教えています。
 良い意味においても、悪い意味においても、イスラエルを手本にして、私たちの人生にも適用できるのです。

 エレミヤ書二十九章で、

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

 「わたし」と平仮名で訳されているのは、神ご自身のことです。神が私たちの為に立てておられる計画があるのです。
 日本の神々には「気まぐれの神々」という性格があります。しかし聖書の神さまは、計画性を持った神さまです。永遠から永遠まで、神は計画をお持ちです。その計画の根底は何かというと、「わざわいではない」というのです。あなたに私に、「将来と希望を約束する」ものだと述べられています。
 実はこのことばは、一義的にはユダ王国の人たちに対して語られました。イスラエルは北イスラエルと南ユダに分裂して、両国は、それぞれの歴史を刻むわけですが、ユダ王国はやがてバビロニア帝国に捕囚されて、国の中心的な人たちは首都バビロンに移され、奴隷生活が始まりました。全く希望がないただ中で、預言者たちが神のことばを語りました。それは「七十年が満ちたら、あなたがたを元の場所に返してあげます。」という約束でした。
 これは私たちにも適用されると私は信じています。

 私たちの教会、今年は宣教七十周年を迎えています。毎回語っていますが、新城教会と共に歩んでいるリバイバルミッションは五十周年です。またプレイズ出版の働きは三十年です。七十年、五十年、三十年とうまく揃う年もなかなかないです。併せて百五十年の働きがなされてきたわけです。今まで主が守ってくださったことを心から感謝しています。

 聖書の中で、「七十」という数字は、大変重要な数字であると言われます。一つの意味合いにおいては、「バラバラになる」という意味があるそうです。人生を振り返っても、一つのことがとどまっている事は少なく、バラバラになってしまうことが多いのではないかと思います。
 この教会の歴史、七十年を振り返っても、ある意味で、よくぞここまでやってこれたなという感想です。しかし、神はそのままで放っておかないのです。七十年経ったら、もう一度、あなたがたを集めて、元いた所に戻してあげますよと告げているわけです。このことばを信頼したいですね。

 そして、そのための条件が記されているのですが、その条件が何であるかと言うと、

『あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

と書かれています。その条件は「祈り」です。

 毎回語っていますが、昨年の十月二十五日、私の家内に膵臓癌が発見されました。あと三ヶ月、四ヶ月の命だと言われました。その時は緊急性があり、いつ死ぬか分からないくらいの状況でした。目の前が真っ暗になりました。四方塞がれてしまった気持ちでした。
 でもその時に、このみことばを握りました。私たちの神さまは、わざわいではなくて将来と希望を与えてくださる神さまだと。祈ったら、その祈りに応えて報いてくださる神さまだともう一度、心をとめて、真剣に祈る決断をしました。
 緊急入院した家内が、ちょっとだけ外出できた日に、子どもたちを呼んで、この教会の十字架の下に家族全員が集まって、真剣に祈りました。あと三ヶ月くらいしたら家内がいなくなって、家族もバラバラになってしまうのではないかという、不安な気持ちがありました。しかしこころを合わせて真剣に祈った時、一つのみことばを強く印象づけて下さいました。
 それも家内に、主が語ってくださったのです。それが、今日のみ言葉、「エレミヤ書二十九章十〜十二節」でした。「わざわいではなく、将来と希望を与える」と主が語ってくださいました。そして「それを得るためには祈りなさい」と主は語られました。

 人間に与えられている様々な能力の中で、最もすぐれた能力は何かというと、それは「祈り」です。「祈り心」は、どの宗教の中にもあります。ということは、すべての人の中に、祈り心があるということです。どうにもならない危機に直面したら、人は誰かに向かって祈り始めます。絶対者に向かって、祈り始める性格があります。それは、どこかに本物の神がいて、祈りを受け取ってくださる証拠です。本物の神さまを特定して、祈りさえすれば、祈りは神に届くのです。
 聖書の神さまは、手で造った神ではなく、世界を造り、宇宙を造られた創造主なる神さまです。その方に私たちが祈り始める時、神は祈りに答えてくださるのです。
 聖書の神さまは、不思議な神さまです。それは、三位一体なる神だからです。三人おられて、同時に、お一人です。

 キリスト教の祈りとはどういうものかというと、イエスさまの名前によって、聖霊の助けにより、父なる神に祈るのが、キリスト教の祈りです。イエスさまは救い主であり、仲介者です。聖霊さまは助け主なる神さまです。イエスさまの名によって祈る時に、祈りは父なる神さまの所に届くのです。
 父なる神さまは、神ご自身の性格をお持ちの神さまです。イエスさまも聖霊さまも神さまですが、自ら、ご自分の神としての全能の権限を制限され、三位にして一体として成り立っておられる神さまです。私たちがイエス・キリストの名前で、父なる神さまに祈る時、神の霊である聖霊さまが助けを与えて、父なる神から答えがやってくるのです。
 日本人は「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」方式で、様々な神々に拝んで頼んでみればどこかで当たるのではないかと考えています。

 以前も一度、話したことがあるのですが、数年前、私は一人でアメリカに行ったことがあります。去年まで、私は飛行機に乗る機会が多かったです。長距離路線に乗る時、一番問題になるのが座席です。ビジネスクラスとかで行けたらいいのですが、だいたい格安で行きますから、どの席であるのかが重要です。
 特に最悪なのが、三席の中での真ん中です。この頃の飛行機は、三席、三席、センターが四席くらいの座席配列が多いです。なんとか、窓側か、通路側席が欲しいのですが、時によっては、真ん中に入ってしまうことがあります。
 その時は残念ながら、三席の真ん中に席が決められてしまいました。幸いなことに、最前列だったので足は伸びました。指定された席に行きましたら、すでにタイ人のおばさんが窓際にドンッと座っていました。そのおばさん、自分の荷物を私の座席において、化粧道具を広げてお化粧を直していました。私はちょっとムッとしたのですが、「おばちゃん、これ僕の座席。」と言ったら、不機嫌な顔をして片付けてくれて、私は座りました。
 私は「右側の席に誰も来ませんように!」と祈っていました。しかしその祈りも虚しく、しばらくしたら光り物をいっぱいつけた、イメルダ婦人のようなフィリピン人のおばちゃんが私の横にどんっと座りました。そのおばちゃん、香水がきつくて、タイ人のおばさんは香辛料のようなにおいがして、酔ってしまいそうでした。「いや〜これで十時間かぁ。大変だなぁ。」
 でもフィリピン人のおばさん、本当によくしゃべる人で、私にいろいろとしゃべりかけて来ました。「あぁ、疲れた。」とか言って、いろんなことを話し始めました。話すとちょっとは気が紛れるので良いのですが、話ししないと十時間、忍の一文字です。
 おばちゃんはいろいろと話して、挙げ句の果て、「あんたの職業は何?」と聞くのです。私は「牧師をやっている。」と答えました。そうしたら、そのおばちゃん、「やった!」と言うのです。「今日は運がいい。隣に牧師が座ったから、この飛行機は落ちない。」と言うのです。
 誰でも、落ちるわけないと信じて乗り込むわけですが、しばらくしたら、すごい乱気流で揺れ始めました。私は乱気流は何度も遭遇しましたので、ほとんどびびりません。でもその時はすごかったです。上がったり下がったり、上がったり下がったり、機内は騒然としました。どうなっちゃうのかなと・・。
 そうしたら、左側のタイ人のおばさんはバックの中から数珠をとり出して、「仏様〜!」みたいに拝み始めました。右側のイメルダ婦人はカトリックで、バックの中からマリア像を取り出して、「マリア様〜!」みたいに拝みだして、私は真ん中で、「イエスさま〜!」と祈っていました。そういう状況になると祈り始めるのは、人間の本能です。どこかに私たちの祈りを受け取ってくださる神がいることを、本能的には分かっているのです。
 そうしたらフィリピンのおばちゃんが私をつつくのです。「あんた牧師でしょ。祈ってよ。あんたはそのために、私の隣に来たんだから。」と言うわけです。だから私は声に出して、「私たちの信じるイエスさま!今、あなたの名前で父なる神に祈ります。揺れよ止まれ!」と祈ったら、揺れがぴたりと止まりました。そうしたらおばちゃんたち、「やったー!やっぱりあんたが乗ってて正解だわ!」と喜んでくれました。
 私もそのおばさんに「あなたはどんな職業ですか?」と聞いたら、「私はフィリピンでは有名な、心臓外科医だよ。」と言いました。本当かなぁ?と思ったのですが、そんなことを話しました。

 長いこと座席から立てませんでしたが、揺れが止まったのでトイレに行きました。するとトイレは長蛇の列でした。待っていると、目の前の人がパタンッと倒れました。すごい勢いで。私は、私の油注ぎが強くて倒れたのかな・・・と思ったけれど、そうではなくて、なんかの病気で倒れたみたいでした。またもや機内は騒然として、係の人たちが来て、その人を近くの座席に寝かしました。そしてアナウンスが入りました。「この中に、お医者さんか、看護士さんはいませんか?今、急患が出ましたから来てください。」というアナウンスでした。
 私はイメルダ婦人のような人に言いました。「あなたは医者でしょう?行っておいでよ。」と、ちょっと試して、そう言ったら、「分かった!その前に、祈ってくれる?」と言うので、そのおばちゃんの為に祈りました。「神さま、この医者おばちゃんに力を与えてあげてください。」と祈りました。
 しばらくしたら彼女が戻ってきました。「あの人、助かったよ!あんたが祈ってくれたから良かった。」と言いました。このおばさん、本当に医者だったんだ!と。航空会社のレポートにも、いろいろ記入していましたから、本当に医者だったみたいです。究極的なところにいけば、祈りがすべてだなぁと思いました。

 人生は決して平坦ではありません。突然、さまざまなことが起こります。家内も私も、病院に行く日まで、膵臓癌なんて全く考えてもいませんでした。ちょっと調子が悪いくらいで、その日もスケジュールがあったのですが、病院に受診してから行こうと思っていたくらいです。なんとその日に診断が下されて、「あなたの奧さんは、膵臓癌末期。あと三ヶ月か四ヶ月の命です。薬も、多分、ほとんど効かないでしょう。どう生きるか考えてください。」というような感じでした。でも私たちは、クリスチャンで良かったなぁと思いました。「天が開いている。真剣に祈ってみよう。」と決断しました。
 しかし同時に、来年の紅葉は一緒に見ることはできないだろうな・・・、と思いました。けれども、主にこころから感謝しています。家内は元気になって、今年も一緒に紅葉を見に行くことができました。私はあまり紅葉とかより、花より団子のほうですから、あまり詩的なところはないのですが、今年は本当に感激しています。神さまが本当に祈りを聞いてくださったからです。いつも家内についてレポートしていますように、主が祈りを聞いてくださっています。

 祈りは不思議なものです。三浦綾子というクリスチャン作家がおられました。彼女はすでに亡くなりましたが、祈りについてこんなことを書いています。

“祈りというものは不思議なものだとつくづく思う。朝起きて一分祈る人、五分祈る人、一時間祈る人と、時間は別々だが祈る時間が多い人ほどさらにその祈りの時間を増やしていく。一日も欠かすことがない。反対に祈る時間が少ない人は、毎日祈ることを次第に止め、三日に一度、十日に一度というように、間遠くなり、ついには祈ることを止めてしまう。歴史上の信仰者たちの生活を見ても、大きな仕事をした人ほど毎日、長い時間をかけて祈っている。こうした人たちは例外なく多忙な人たちだ。ところが祈りが少ない人ほど、不思議に暇があるのである。「忙しくて祈れない」という弁解はどうも成り立ちそうもないのである。”

 多くの仕事があればあるほど、祈りに時間を費やすべきです。先ほども申しましたが、祈りとは、神が人類に与えた武器です。
 本物の神さまを特定して祈ったら、祈りは答えられます!本物の神さまはわざわいの神ではなくて、将来と希望を与える神です。

 この頃、祈りのメッセージが続いていますが、先日もこのみことばが紹介されました。マタイの福音書十八章十九〜二十節です。

『まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。』

 ここでもイエスさまの名前で父なる神さまに祈る、「祈りの原則」が述べられています。一人で祈るより、二人か三人、イエスさまの名によって集まると、そこにイエスさまが来てくださるのです。そしてそこでの祈りは、父なる神さまに届けられるのです。今、イエスさまの働きは、「唯一の仲介者」です。大祭司としての働きをしておられます。私たちが集まって祈ることは、大変重要なことです。

 私事ですので、ちょっとお話しするのもどうかと思うのですが、私の息子は東京でミュージシャンをしているのですが、是非、ミュージシャンの方々のためにお祈りしていただきたいと思います。
 今日は感謝なことに、洗礼式があります。日下ゆうりさんが洗礼を受けられます。彼女は歌手です。以前にも、ここで賛美してくださった方です。大変、うまいです。でも、昨日もお聞きしたら、本当に仕事が少ないそうです。なぜならばライブとかイベントがなくなってしまっているからです。
 私の息子も、もう一年くらい、仕事がありません。子どもたちもいるし、これからお金がかかる時期なのに、大丈夫かと心配です。しかしこのような危機的な状況は、祈りのチャンスでもあるわけです。だから息子も奧さんと一緒に、真剣に祈っているみたいです。

 先日、私の所に電話がかかってきました。「祈ってほしいことがある。」と言いました。なぜかと言いますと、先週、TBSの「CDTV! LIVE! LIVE!」という番組、ご存じかもしれませんが、出演するというのです。
 どういう具合に出演するのかと聞くと、三浦大知という歌手がいますが、彼のバックで演奏するというのです。普通はバンド編成で支えるのですが、三浦大知とほかには、ミュージシャンは二人だけだというのです。誰かというと、私の息子と、もう一人、ギターで上條先生の息子の頌の三人での生放送だというのです。これは大きなリスクです。相当自信がないと、三人で生はできません。誰か一人失敗したら、全てが崩れます。信頼関係がないとできないです。三浦大知はなかなかの挑戦者で、「ぜひ堅志と頌に支えてもらって歌いたい。」と言うのです。
 それも教会でやるというのです。事前に分かってしまうとファンが集まって大変なことになるので、放送までは秘密でした。教会でやるのは、堅志と頌がクリスチャンということも関係していました。これは預言的なことかもしれないと思って、世界宣教にも流させていただき祈っていただきました。
 先週の月曜日、私はちょうど県民の森祈祷会に行っていたので生では見られませんでしたが、録画を見たら、本当にすばらしい演奏でした。すごく評価が良かったみたいです。他のバンドと比べると聖らかに感じて、いい感じでした。
 堅志と頌が現場で、心を合わせて祈ったから良かったと思います。息子が、「なんかリバイバルミッションの決起大会に来ているみたいだ。」と言って来ました。教会の事務所が控え室になっていました。なんか懐かしい場所みたいでした。さまざまな部署に、さまざまな領域に、主はクリスチャンを送って、そこで二人、三人、心を一つにして祈るように導かれていると思います。
 二人、三人、職場で集まって祈ったら、そこにイエスさまが来てくださって、神の国が現れます。その祈りは天の神に届き、答えがやってくるのです。だから家族がクリスチャンになって、家族が心を一つにして祈るのは、ものすごいパワーです。
 私も家内のことで、家族が一緒に祈ってくれ、また、神の家族が一緒に祈って下さったのが奇跡を呼んでいると信じています。一人だけでなく、家族がクリスチャンになるのは、イエスさまがその家族に来てくださることを表すわけです。

 エレミヤ書はエレミヤが書いたのですが、バビロンに捕囚された捕囚の民を思いながら、彼は語りました。同時期に、イザヤという預言者も活躍したのですが、また違った角度で、ユダの民のために預言を語りました。その有名な箇所がイザヤ書六十一章一〜三節に書かれています。

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』

 これはイエス・キリストが生まれる、七百年前に一義的にはバビロンに連れて行かれ、捕虜となる同胞、エルサレムに残される民のために語った預言です。全く希望を失い、国を失い、将来が見えないただ中で、「やがて良い知らせがあなたがたに届きますよ!」と語りました。教会では「福音」という言葉をよく使いますが、それは「良いしらせ」という意味です。
 どんな良い知らせなのかと言えば、捕らわれ人が解放される、バビロンに捕らわれた人たちが解放されて帰る日が来る、七十年間、傷を受けていたけれど、心の傷が癒やされる日が来ると預言しました。主の恵みの年が宣言される、これは「ヨベルの年」を表しています。
『シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』と預言しました。

 このイザヤの預言通りに、バビロン捕囚七十年後に、ユダの民は解放されて故郷に戻ることができ、この預言は実現しました。

 イエスさまの時代、それはイザヤの時代の七百年後です。イエスさまがある日、ナザレというご自分の育たれた町で、イザヤ書を受け取って、この箇所を読まれました。読んだ後に、何と言われたのかというと、ルカの福音書四章二十〜二十一節、

『イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」』

 イザヤ書のみことばが、「今日」実現したと宣言されたのです。この預言は、すでに実現したんじゃないのか?と思いますよね。
 しかし、この預言の真の意味は、イエスさまにあったのです。そしてイエスさまによって、完全に実現したのです。それは何を意味するのかというと、現代を生きる我々にも同じことが起きますよ!という意味です。
 我々がイエス・キリストに出会い、イエス・キリストによって、父なる神さまに祈る時、何が起こるのか、それは貧しい者に良い知らせが伝えられるのです。心の傷が癒やされるのです。
 教会に来てイエスさまを受け入れると、過去から引きずっていた心の傷の癒やしが与えられます。それは不思議なことです。教会に来て、何か特別な薬をもらうわけではありません。古い薬ですよ。これは旧約です。新しい薬が入りました。新約です。・・これが分かるようになると、だいぶ癒やされた証拠なわけですが、イエスさまは私たちを、癒やしてくださいます。体も癒やしてくださいます。

 私の家内の癒やしの知らせを聞いて、多くの方々が励まされたと言ってくれています。私の一年の戦いも、無駄ではなかったかなと、感謝しています。今後も奇跡が続くように、真剣にがんばって戦おうと決意しています。私たちの神さまは、生きて働いてくださる神さまです。心とからだの癒やし主です。
 そしてここで述べられているように、悲しみから喜びに置き換えてくださるのです。悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるというのです。私たちに「喜びの歌」を与えてくれるのです。

 先週も語られていましたが、家内が余命宣告をされたその日に、開先生夫妻が来て「Oh! Jesus is wonderful!」という出来たてほやほやの歌を病室で歌ってくれました。その時、本当に励まされましたが、信じられないところもありました。「そうは言うけれど、ここまで進行したものが良くなることはありえないだろう・・・。」と思いました。しかし、預言的な歌として受け取りました。
 今まさに、主が支えてくださっている現実を見る時に、我々の祈りは、確実に神の元に届くことを知るのです。
 イエスさまの名前を通して、聖霊の助けによって、父なる神さまに祈ってください。「イエスさまの名前を通して祈ります!」というのは、イエスさまの名前を通して、父なる神さまに祈りをささげるという意味です。そこには聖霊さまの助けがあります。
 どんな細かいことでも、祈っていいのです。毎日祈り深くあるならば、さまざまな問題に勝利できます。私はこの一年間で、本当にそれを体験させていただいております。昔以上に、私は確信を持って語ることができます。

 しかし人類は、古代から真の神に祈ることをしないで、何に対して多く祈ってきたかというと、「星に祈る」人が多かったのです。「星に願いを」みたいにな歌もあります。皆さん、星に祈るのはやめてください。
 私たち人類は、被造物の管理人です。星々の世界も含めてすべて管理する役割があります。ですから被造物は、人の足下にあるのです。神は人に権威を授けているのです。だから権威下のものに祈りをささげると、祈りがねじれるのです。

 古来から星に祈る人たちが多くいました。イエスさまが誕生した時代も、そのような世界であった事が分かります。
 今日の午後から、賛美と霊的戦いのセミナーがあります。是非とも出てください。被造物全体を巻き込んで主を賛美することが、いかにすばらしいかを知ることができます。
 来週は私がセミナーを持たせていただきます。星に祈る危険性について語らせていただきます。
 イエスさまがお生まれになった時、東の博士たちが来て、一言言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?その方を拝みたいのですが。」と。
 見ず知らずの三人が来たと言われるのですが、人数は聖書には書かれていません。全く知らない人が来て、尋ねただけです。しかしそのことを聞いた、王様も、エルサレムの人々も、皆、動揺したのです。
 ありえますか?知らない人ですよ。イエスさまが生まれたのも、当時は、誰も知りませんでした。
 なぜ動揺したのか、その原因です。来週セミナーの中でお話しさせていただきたいと思います。「動揺する」という言葉は、「タラッソー」という言葉が使われていて、その語源は「水が沸騰する」という意味です。時に、我々、不安で、こころが沸騰するような時があります。王様も、地域の人たちも、皆同じようにこころが沸騰したのです。それは当時の占星術が、未来を予知する最新技術だったからです。

 その後、何が起こったのかと言いますと、良いことは起こりませんでした。博士たちが来たことによって、ベツレヘムと、その近隣の二歳以下の男の子が一人残らず、殺されるという悲惨な事件に発展したのです。
 なぜかというと、星に祈ると、神のふりをした暗闇の力が祈りを受け取るからです。後の結果が悪いのです。祈りを、悪魔に届けてはいけないのです。天地宇宙を造られた神に祈りなさいと告げています。
 星に祈ると、悪魔に祈りが届いてしまうと聖書は教えています。「私は星には祈ったことはありません。」と言うかもしれませんが、日本人って、生まれた時から星にささげられています。
 干支って、すぐに言えるのではないでしょうか。「干支を教えてください。」『えーっと、何かな?』という人は少ないと思います。すぐ言えますよね。これは星占いの一つです。西洋に行くと黄道十二宮という星座に置き換えられます。星が自分たちの運命を握っていると考えるのです。星は私たちの運命を握っていません。天の父なる神さまが握っているのです。
 そのような偽りを私たちが受け入れてしまうと、将来と希望システムが、神ではなく、敵の手に渡るのです。結果として、敵に操られることになり、人生に悲惨なことが起こりやすいのです。

 ですから、祈りは、誰に祈るのかが一番重要です。私たちは知っています。天地宇宙を造られた神さま、父なる神さまに、イエスさまの名前によって祈るのです。また、二、三人で集まって祈ってみてください。そこに神の国が現れます。


 最後に一言お祈りさせていただいて、私のメッセージに代えさせていただきます。聖餐式の祝福の祈りもさせていただきたいと思います。パンとぶどうのジュースを、イエスさまのからだと血としていただくわけですが、まさしく神の国の訪れの瞬間です。家族が集まって聖餐式ができたら、確実に神の国がそこに訪れます。

一言、お祈りしましょう。

 ハレルヤ、天の父なる神さま、み名をあがめて感謝します。私たち人類に「祈り」というすばらしい武器を与えてくださったことを感謝します。今日私たちは、イエスさま、あなたのお名前で天地宇宙を造られた父の元に祈ります。どうか祈りを受け取ってください。聖霊さま、後押しして助けてください。

 父なる神さま、今、私たちは手を出して、あなたが私たちに被造物の管理人としての権威・権限を受け取らせてください。今週、私たちが手をあげて祈る時に、主よ、あなたが聞いて答えてください。
 パンとぶどうのジュースを祝福する時に、イエスさまが来てくださり、傷ついたみ手を持って、父なる神さまから新しい契約の血を手渡してください。お一人お一人の上に、その権限を宣言します!天の軍勢も一人一人を支えますように。
 今日心傷ついている方がおられたら、その心の傷を超自然的にいやしてください。病の方々にも癒やしを与えてください。家内に触れてくださったように、新城教会に属する、すべての兄弟姉妹に癒やしを宣言します。さまざまな問題の苦しみは、必ず、将来と希望につながる鍵になりますから感謝いたします。
 今日、この場所での祈りを心から感謝し、すべての栄光をお返しして、尊いイエスさまのみ名によって父なる神さまに祈ります。アーメン。