HOME > メッセージバックナンバー > 2012年バックナンバー > 1月 > メッセージ2012年1月8日

『新しい年に期待せよ!パート2』

2012.1.8(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
黙示録12章7節〜11節

『さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」』


 ハレルヤ!おはようございます。かずき君の演奏、すごかったですね。演奏を聴く度に、彼は成長しています。私も今年、彼のように毎回成長したいと思います。「順先生のメッセージも、毎回成長しているな」と言われるようになりたいと願っています。今年も主に期待して歩んで行きたいと願っています。
 今日は新城市の成人式に「ヘブンリー・キングダム」が招かれて賛美します。これは大きな勝利ではないかと思います。教会は地域に食い込んで行かなければないのです。教会が街をリードするようにならなければならないと、いつも思うのですが、街の成人式にゴスペルを歌ってくれと依頼されたことは大きな勝利だと思います。ゴスペルの意味をわかっているのかどうかと思いますが、きっとよくわかっていないから頼んだのかもしれませんが、これは素晴らしいことだと思います。
 みなさん、ぜひとも、とりなして祈っていただきたいと思います。主の臨在が街に訪れるように祈っていただきたいと思います。

 二〇一二年が始まって八日経ちました。先週の日曜日は新年の特別集会、また日曜日の礼拝が重なったのですが、あっという間に八日間経ってしまいました。
 先週はリバイバルミッションで、「リバイバル新年会」と称して二十四時間の賛美集会がありました。私にとっては大変忙しい一週間でしたけれども、みなさんもあっという間に一週間経ってしまったかもしれません。
 受験生の方々がおられますが、受験生のみなさんは、年末も年始もなく最後の追い込みでがんばっておられるかもしれません。今日は成人を迎える方々もおられます。その方々の祝福を祈っていただきたいと思います。

 受験生についてこんな小話がありました。「入試当日、友人から、『滑り出し順調』というメールが届いた。良いのか悪いのかわからない。」
 「入試が終わった時、試験監督官の先生が、『ではまた来年!』と言って教室を出て行った。」不吉な予感ですよね。
 「英語の時間、『I live in Tokyo.を過去形にしろ』と言われ、『I live in Edo.』と答えた。」これじゃ駄目ですね。

 みなさんも今年、いろんな目標を持っておられるかもしれません。「『今年の夏は二十キロ絶対に痩せてやるわよ!』と意気込む妻は『一週間に四キロ痩せる』という本を五冊注文していた。」これも駄目ですね。
 「母は出かける時、飼っている犬に『お母さん行って来るからね』と声をかける。それを見た父が一言。『おまえは犬を生んだのか。』」
 今年も楽しくやっていきたいと思います。

 十二月三十一日には、カウントダウンワーシップがありまして、私以外の六名の先生方が、一年の指針となる御言葉を語ってくださいました。私は今年の御言葉を読み返して、本当に主が指針となる御言葉を教会に与えてくださったと感謝しました。今日、みなさんにカウントダウンワーシップのメッセージ集が手渡されますから、是非とも受け取ってよく読んでいただきたいと思います。
 人間には、ガイドライン、指針がないと不安なものです。私は去年の九月にネパールに行きました。ネパールの山岳民族の所に行きました。そこで集会をしました。帰る時、山を下りるだけなので案外気楽なんですが、初めて会った現地の牧師について山を下りて行きました。すると、すごいジャングルの中に入って行って、去年通った道とは全く違う道でした。私はちょっと不安になりました。そこは虎がよく出る道で「ここに虎を置いたらぴったり」というような雰囲気の森に入っていきました。ちょっと不安になりました。みんなも、「このおっさん、本当に道、知ってんのか。ちょっと聞いて」と言うので、「この道知ってますか?」と聞くと、「うーん、二回目だけどね、多分、大丈夫」とか言って、彼もよく知らないようでした。本当に麓に着くのかなという感じで、やはり予想した場所とは違う所に出てしまいました。ガイドラインがあることはすごく重要です。

 このような不確定な時代にあっても、私たちには聖書というガイドラインがあります。本当に素晴らしい事です。また、それと共に、主は御言葉の剣の中から、特に私たちが一年を歩むに当たり、必要な御言葉を抜き出してくださるわけです。御言葉に頼って一年を歩んでいただきたいと思います。

 先週も、六人の先生方のメッセージを要約して話させていただいたのですが、開先生が語ったのは、「私はすべてのことを福音のためにしています」という言葉でした。私たちもこの一年、すべて福音のため「イエス・キリストのための人生」という、中心軸を決して揺るがしてはならないのです。私たちはいろんな仕事に就いているかもしれませんが、イエス・キリストを信じる者たちは、皆、福音のために生きているのです。神の国の拡大のために生きているのです。

 フェルナンド先生は、『ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。』と語りましたけれど、「地上の王座を見るのではなくて、天の王座をいつも見続けましょう」と勧められました。私たちはどんな時にも、天の王座、主イエスさまが座っておられる王座を見て歩んでいきたいと思います。

 信弘先生と明先生が語った御言葉は同じテーマでしたが、明先生はルカの十六章十節〜十二節から、

『小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。』

と語りました。小さなことに忠実ということは重要です。私も、今年は働きの中で、小さなことに忠実でありたいと願っています。どんな働きでも、小さなことに忠実である時、大きなものを任せてくださるのです。
 『あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。』とありますが、このような資本主義経済の中にあり、ある意味で、私たちは「不正の富」に仕えています。会社の方針やその働きは、聖書の世界観とは違い、利益追求が中心軸です。神の国の拡大を追求するのとは違った価値観の世界に生きているわけです。それはある意味で、「不正の富に仕える」という領域です。けれども、そのような領域にあっても「忠実に仕えていきなさい」と言われています。不正の富に仕えるような社会においても、「そこにも忠実でありなさい」と主は言われます。自分に与えられた仕事を、精一杯働いて行くことも、結果的に神の国の拡大に繋がるのです。
 『あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。』とありますが、自分のことよりも、他人のことを思いやることが重要だと教えられました。また、マタイ 二十四章四十五節、

『主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。 』

という言葉も語られました。私たち一人一人に任された領域を、百パーセント満たしていくなら、『主人が全財産を任せてくれる』とあります。日本のリバイバルに関しても同じだと思います。私たちがただ自分たちの教会の祝福だけでなくて、日本全体、いや、世界の教会に仕える時、気がついたら、自分たちも祝福されているのです。今年は、小さなことに忠実でありたいです。その時、大きな領域にも目を向けさせ、働かせてくださるのです。

 また、雅也先生が語ったルカの十二章四十九節は、

『わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。』

 イエスさまは「燃えている」ことを願っておられます。燃えるというのは酸化作用だと言いましたけれど、これは通常のことではなく非日常です。通常では何十年もかかる酸化作用が、燃えることによって、瞬間に終わるのです。私たちは燃えるクリスチャンにならなければいけないと思います。聖霊の火に燃える、一年でありたいと願います。
 今日は午後から愛知県民の森に行ってみんなで祈ることにしています。「一月の午後のプログラムを何にしたらいいのか」と祈っていた時、一月は礼拝が終わってから祈りに行きなさいと示されました。あと四回日曜日がありますが、県民の森に行って、祈りから一年を始めたいと願っています。ぜひとも一回でもお時間を作って愛知県民の森に行ってください。「一時が万事」という言葉がありますけれど、年の初めに神の前に出て祈っておくか否かが、一年を決めるのです。やはり祈りから始めていくべきだと思います。その一回が一年を決めるならば、一日を神に捧げる時、主が燃える火を注いでくださると信じます。

 また、実先生が語った「詩篇八十五篇十二節〜十三節」の言葉も素晴らしい御言葉でした。

『まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。』

 私たちは『主の足跡を道とします。』と、主の足跡を道として行くならば、人生、間違いはないのです。
 今年、主が通られる道があるはずです。私たちは今年、主が通られる足跡を道として歩んで行くなら間違いはありません。また、聖書にはすでに主が通られた道についても記されています。御言葉と共に二〇一二年、主が歩まれる道を、私たちの道として歩んでいきましょう。

 六人の牧師たちを通して語られた御言葉は、この教会に今年必要な言葉であると確信します。これらをガイドラインして歩んで行くならば、間違いはないはずです。この混沌とした不確定な時代にあって、主の足跡を道とすることが最も大切です。

 私に主が語ってくださった御言葉も先週も紹介しましたが、それは「新しい年に期待せよ!」という言葉でした。主が、一二月二二日の明け方、まだ暗いうちに語ってくださいました。「新しい年に期待しなさい!」と。
 そして、もう一つ語られたのは、「竜を打ち落とせ!」という言葉でした。それもみなさんに紹介しました。それと共に与えられた御言葉がイザヤ書二十七章一節でした。

『その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。』

 先週私が語らせていただいたメッセージも印刷されたり、インターネットにアップされていますので、ぜひお読みになって下さい。
 先週は、ヨブ記からも語らせていただきました。ヨブという人物は、たいへん祝福されていた人物でした。忠実な主のしもべであり、多くの持ち物を持っていたのですが、ある日一瞬にして、すべてを失ったのです。自分の財産も、十人の子供たちも、健康さえも失ってしまったのです。踏んだり蹴ったりの人生に転落したのです。
 そんなことが起きたので、彼の三人の友が来て、なぜそんな悲惨な事件が起こったのかと論議が始まるわけです。しかし苦しみは長く続いていきました。一章から始まって、最後の四十二章まで苦しみは続きます。
 しかし最後の最後、彼は突然、神から二倍の回復を受けるのです。どんな苦しみがあっても、神に対する信頼と信仰を失わなければ、主は人生を回復して下さるという、我々の信仰の基本路線をヨブ記は示しています。神が彼の人生を二倍にして取り戻してくれたというハッピーエンドで最終章は終わっています。

 これは私たちの信仰の姿勢の基本を表していると思います。今年、いろんなことがあるのかもしれないけれど、ヨブと同じように、常にどんな時にも希望を失うことなく、主に対する信仰を告白し、信仰を貫き通して行くならば、必ず、最後には神が二倍の祝福を与え助けてくだると信じます。
 しかし、先週もお話したのですが、ヨブの悲劇とは何かというと、「ヨブ記に登場する登場人物の誰一人として、ヨブにこのような試練を与えた真犯人について語らなかったことだ。神さえも、そのことについて言及しなかった」と、ある注解書に書かれていました。そして、「真犯人について気づくことができるのは、ただ、読者だけだ」と結ばれていました。

 ヨブがこれほどの大きな試練に出会った根本的原因は、天においてサタンに訴えられた結果でした。天におけるサタンの訴えが神の前に通ってしまったことによって、なんと、地上では大きな試練として反映されたのです。天における戦いに敗北する時、地上においてそれが結果として現されるということを表していると思います。
 私たちは、今年、天における戦いに勝利しなければなりません。『天の王座をいつも意識していなさい』とありますが、天で訴える者たちが打ち破られるなら、この地上は守られるはずです。私たちは常に、見えない世界に注目しなければいけないのです。

 神はヨブに真犯人について告げなかったと言うのですが、実は告げていないことはなかったのです。ヨブ記四十一章に「レビヤタン」という生物が出て来るのですが、レビヤタンの別名は「竜」と呼ばれます。レビヤタン、竜とは、架空の生物のように思うのですが、実在の生物であると聖書は教えています。ヨブ記四十一章二十五節〜二十六節、

『それが起き上がると、力ある者もおじけづき、ぎょっとしてとまどう。それを剣で襲っても、ききめがなく、槍も投げ槍も矢じりもききめがない。』

 レビヤタンと普通の戦いをしてみても、決して勝ち目はないのです。どんなに力ある者でも、レビヤタンと出会ったらおじけづいてしまうのです。『二度と手を出すな』とも言われています。
 ヨブ記四十一章三十三節〜三十四節には、

『地の上には、これと似たものはなく、恐れを知らないものとして造られた。それは、すべて高いものを見おろし、それは、すべての誇り高い獣の王である。』

と結ばれているくらいです。『すべての獣の王』、誰も勝つことのできないレビヤタン。実はそれが、天でヨブを訴えていた真犯人でした。
 そのような背景を通して新約聖書を読みますと、なんと、この誰も勝つことのできなかったレビヤタン、竜に対して、イエス・キリストが勝利して下さったという結論です。先週も引用したのですが、ヘブル書二章十四節〜十五節、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

 実にイエスさまの到来と、十字架と復活は、人類、誰も勝つことのできなかった竜、レビヤタンに対する勝利でした。一生涯、死の恐怖に繋がれて、レビヤタンの奴隷となっていた人々を解放するために、イエスさまはこの地上に来てくださったのです。
 そして、今日、読んでいただきました黙示録十二章七節〜十一節は、主イエスさまの十字架と復活によってレビヤタンが打ち破られ、天で告発する者が消え去ったと告げています。それは十字架の勝利を現している箇所であります。もう一度、黙示録十二章七節〜十一節を読んでみましょう。既にイエスさまが十字架の上で成し遂げてくださった救いについて、確認してみたいと思います。

『さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。』

 十字架と復活によって何が起こったのかと言うと、『私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えていた者が投げ落とされた』とあるのです。かつてあれほど信仰深かったヨブでも、告発され、大きな試練を受けたのです。誰も打ち勝つことのできなかった獣の王「レビヤタン」に、イエスさまが打ち勝ってくださったのです。天で告発していた竜どもが地に投げ落とされたというのです。彼らが持っていた権威が打ち破られ、天で訴える権利がなくなってしまったのです。

 今年、この御言葉を私たちの中心に据えたいと思います。私たちを天で告発する者は、すでに打ち破られたのだと。彼らは打ち落とされたのだと。「その竜は打ち落とされた」と宣言して一年を歩むならば守られるはずです。
 黙示録十二章十一節、

『兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。』

とあります。竜、レビヤタンに勝つことができるのは、イエスさまが十字架で流してくださった血潮によって勝利だというのです。そして、『自分たちのあかしのことばのゆえに』とありますから、私たちが「主を信じる」という信仰告白によって勝利するのです。どんな所でも恐れず、大胆に主の御名を宣言していく時、私たちは勝利し続けることができるのです。

 しかし十七節を見ますと、竜がこの地上に投げ落とされたのですが、竜がどうなっているのかを見ることができます。黙示録十二章十七節、

『すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。』

 十字架と復活によって、竜は権威を失って天から落とされたのですが、この戦いは、まだ終結していない事がわかります。天において私たちを勝手に告発することはできないにしても、竜は未だに生き続けているのです。そして、竜は誰に対して激しく怒っているのかというと、「女」に対して激しく怒っているというのです。
 今日、みなさんの中で「私は女です」という方は、どのくらいおられるでしょうか?会衆の半分くらいはおられると思います。ここを読むと、私は男で良かったと思います。女性の方は気をつけて下さいね。ちょっと竜に狙われているのかもしれないですから。
 しかし、この『女』とは、性別ではないのです。『女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者』とありますから、女とは「クリスチャン」です。さて、みなさんはイエスさまを信じていますか?イエスさまを信じているということは、おめでとうございます。竜があなたに対して、激しく怒っているのです。
 「私は誰からも嫌われていませんよ?」という人がいるかもしれません。しかしあなたがクリスチャンならば、あなたはかなり嫌われています。私なんか、かなり激しく嫌われていると思います。それは竜から嫌われているのです。女とは、「キリストの花嫁」であるクリスチャンの事なのです。そのことをよく覚えておいてください。悪魔や悪霊どもは誰を憎んでいるのか。他でもない、私たち、主を信じるクリスチャンを激しく嫌っているのです。ある意味、クリスチャンが竜のターゲットなのです。
 「そんな事なら、クリスチャンなんか止めたほうがいい。私は女でクリスチャン。最悪だ!!」なんて言わないでください。

 「女」とは、さらなる意味があるのです。それは『あかしの言葉を保っている者たち』と、『たち』と、複数になっています。それは何かと言いますと、「女」とは「教会」を意味しています。
 今日、みなさんはどこにおられますか?教会ですね。教会とは、世界で最悪の場所です。なぜならば、人類の誰も打ち勝つことのできなかった存在、竜が、激しく憎み、常に意識している場所だからです。現在竜は女たち、すなわち、教会と戦おうとして地上に君臨しているのです。天においては権威が打ち破られ、告発できないにしても、地上に落とされた竜、レビヤタンは誰を狙っているかというと、教会を狙っているのです。えらい所に来ちまったもんですね。

 聖書を読んでたいへんな現実に気づくわけです。しかし、ご安心ください。教会とは、それほど力強い存在だということです。みなさん、今日、教会に来られているのは、絶対に偶然ではありません。神の選びの中で、ここに座っているのです。教会とは、規模が大きいとか小さいとか、外見は強い、弱いとか見えますが、本質は、たいへん力強く、重要な存在です。「教会の行動が歴史を左右する」と言っても過言ではないと私は思います。その国にある教会が、どのような行動を取るかで、国の歴史は変わるくらいの大きな存在なのです。
 竜が、常に教会を狙っていることからも、それがわかります。テモテ第一、三章十四節〜十五節、

『私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。それは、たとい私がおそくなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。』

 今、私たちは神の家、神の教会に属しているのですが、『教会とは、真理の柱また土台』とあります。
 「真理」とは一つしかないものです。真理の土台の上にしか、柱は立ちません。真理を土台とし、真理を柱として家、または国をを立てるならば、決して倒れることはないのです。そして真理の柱と土台を持っているのが、他でもない、教会なのです。主を信じる者たちの共同体、教会がそれを持っているのです。
 新城市の真の土台、真理の柱は、教会以外にないのです。日本という巨大化した国の土台と柱になりうるのは、実は、教会以外にないのです。表面的にはそうは見えないのかもしれません。しかしそれは事実です。

 先週テレビを見ていたら、ちょっとがっかりしました。なぜなら、隣町の豊川市にある豊川稲荷のことです。豊川稲荷に、正月三が日でなんと「百十八万人」が参拝に来たというのです。百十八万人です。あんな狭い所に人々がひしめきあって、百万以上の人が来たというのです。新城教会は豊川市の隣にあるのに、四百人足らずです。なんと、向こうには百万人以上です。「すげ~」と思いました。誰もが豊川市に行ったら、豊川市の土台は「豊川稲荷だ」と思うはずです。百何万人も集まるからです。豊川市に行ったら教会は、小さな教会がぽつぽつあるくらいかもしれません。
 しかし、真理を持っているのは、教会しかないのです。豊川市の真理の土台は、豊川市にある教会です。どの街でも、教会が街の土台と支柱なのです。なぜならば、真理以外は、決して永久に街を支えることができないからです。そのことを、竜はよく知っています。それで教会に対して怒って攻撃をしかけているのです。教会さえ壊してしまえば、神の御心はその街に、国に現されないからです。
 今年、日本の教会が、規模やに関わらず、真理の土台として、柱として、役割を果たすことができるように祈っていかなければならないと思います。

 実は、今年のリバイバルミッションの働きのために、祈っていただきたいと思います。リバイバルミッションの働きは、一九九三年の甲子園ミッションから始まったのですが、神が日本のリバイバルのために働きなさいと語られて、その一点で私たちは働いて参りました。本当に皆様方の、熱い祈りと支えがあって、今までやって来ることができました。二〇〇七年には、ハワイで初めて海外ミッションが開かれました。そして二〇〇九年には、韓国で開かれました。昨年も韓国で開催されました。
 そのような中で、神の預言的な働きがあることを感じ取っています。そして、日本のリバイバルのために何をしなければならないのか、その点について教えられているように思います。
 私は日本のリバイバルのためには、日本だけを真剣にみつめて、日本のために真剣に働くべきだと思っていました。
 しかし、徐々にそうではないことがわかってきました。日本に神の国をもたらすためには、日本以外の国々に日本を繋ぎ止めている杭が打ってあることに気づき始めました。それを発見して、杭を砕いていかなければならないと教えられました。

 そして特に、日本が明治時代からこの方、世界に対して犯して来た罪を認識して、罪を悔い改めなければならないことにも気づかされました。韓国に行けば、日本が韓半島を植民地支配しましたから、私は植民地支配に関わったことがない、戦後生まれの男ですが、韓国の人々は私を日本人だと言うことで、ある人は憎しみの目を向けてくるわけです。「日本がかつて犯した罪が、現在の私にも影響を与えている。日本人としてその罪を悔い改める必要がある」と感じました。

 それと共に、日本が、韓国だけでなく、アジアの諸国に対しても大きな野望を持ち、「大東亜共栄圏」という領域を設定し、諸国に出て行った歴史もあるのです。前にもちょっとお見せしましたが、一九四二年の時点で「日本」はどういう地図を持っていたのか。現在、「日本地図」と言ったら、北海道から沖縄までを思い浮かべるのですが、この写真を見てください。

スライド1.JPG

 これが日本だったのです。実に、日本はこんなに広い地域を支配し、または支配しようとしていたのです。それが大東亜共栄圏と呼ばれた地域でした。この事実を知っている方々はかなり少なくなったと思われます。日本は日本神話から「八紘一宇」という思想を持って世界に出て、多くの人を支配したのです。そのような悪しき帝国主義の歴史があるわけです。

 このように日本が帝国主義の思想において、アジアに出て行った時、その働きを強力にサポートした様々な団体があるのですが、ある意味で一番大きな悪い役割を果たしたのが他でもない、日本の教会でした。日本の教会が、神社参拝、天皇崇拝を「罪ではない」と説得し、アジアの諸教会を偶像礼拝に引き込んだのです。それは「日本教会の罪」として神の前にあり、地上における竜の格好の攻撃材料となっていることでしょう。
 これは日本の教会が犯した罪ですから、日本の教会が悔い改めなければいけないと私は思いました。その為には日本の教会が大東亜共栄圏と呼ばれた地域に出向き、悔い改め、とりなし、福音宣教の為に働かなければならないのです。それまで罪は神の前にあり、悪魔は教会を攻撃出来るはずです。真理の土台であるはずの教会が犯した罪に関しては、竜は激しく攻撃を加えるはずです。
 それゆえに、日本に大きな問題が起きたり、教会がなかなかうまくいかない原因になっているのではないかと思うのです。

 そんな中、神が今年、リバイバルミッションに託されていることは、「アジア・環太平洋ミッション」というビジョンです。ぜひとも祈っていただきたいと思います。

 先週、リバイバル新年会の時にもお話しさせていただいたんですが、

アジア・環太平洋ミッション構想.jpg

今年は、東北、韓国、台湾、フィリピン、ベトナムでリバイバルミッションを開く為の交渉中です。こちらに出ているリストは、かつて日本が大東亜共栄圏の中で侵略し、支配した国々です。そこに私たちはとりなしと、悔い改め、和解、そして、福音宣教をさせていただきたいのです。規模はともかくとして、何らかの行動をとらせていただきたいと願っています。ぜひとも祈っていただきたいと思います。

 日本教会は、これらの国々にある「真理の土台と真理の柱を壊す働きをした」のです。そこに大きな罪があるのです。この働きは今年だけでは終わりませんから、継続して、来年も再来年も、働いていきたいと願っています。みなさんのお祈りを、どうしても必要としています。現在、韓国、ベトナム、台湾、フィリピン等で何ができるかを打診中です。主の御心が現されるように、祈っていただきたいと思います。

 しかし、神がこういう計画をなさる時には、必ず、なんらかのしるしを与え、励ましてくれます。私がアジアのことを考え始め、祈り始めたとき、アジアの諸国に、日本が悪しき足を踏み入れた原因について考え祈っていました。
 なぜ、日本がそんな無謀な行動を取ったのかというと、それにも背景があるのです。実は、日本は独自に、何の理由もなく出て行ったわけではないのです。食うか食われるかの恐怖心の故、アジアに出て行ったのです。
 当時、世界はどのような状況にあったのかと言うと、イギリス帝国主義の脅威の中にありました。ご存知のように、当時、中国は「清」という国が支配していたのですが、イギリスはいち早くインドを植民地化し、次に清を植民地化する為に狙っていました。どういう策略を取ったかというと、インドでアヘンを栽培し、中国に麻薬を送り込んで、中国人たちを麻薬でへろへろにしたのです。清はそれを禁止した為に「アヘン戦争」が起こりました。その戦争に清は負けたのです。そうすれば、次に狙われるのは日本である事は明らかです。日本はイギリス帝国主義を始め欧米の勢力に対して大きな恐怖心を持ちました。それで、日本も自ら帝国主義の衣をまとい、日清、日露、やがて太平洋戦争まで突き進んでいったのです。
 その根源にイギリス帝国主義などが関わっているのです。悪魔は世界を計画的に破壊する為に働いているのです。日本帝国主義も、背後にイギリス帝国主義があったのです。その歴史について勉強しなければならないと思わされました。そして、やがてイギリスのためにも、とりなし、祈らなくちゃいけないと思わされていました。私はイギリスなんか全然知らないし、つながりもありません。
 十二月に、「主よ。イギリスのために、どう祈ったらいいんですか」と祈っていたら、なんと、私のところにイギリスから招きが来ました。そして、二月に私はイギリスで奉仕することになりました。不思議です。
 イギリスで働いている韓国の宣教師が「是非、イギリスに来てください」といって招いてくれました。神様の世界規模の動きがあると感じています。

 教会とは、見かけの規模には関わりなく、真理の土台であり、柱です。教会の行動が歴史をも左右するのです。そのような重要な存在が教会です。ゆえに、悪魔も真剣になって、教会に攻撃をしかけている現実があるのです。我々はそのことを深く知る必要があるわけです。

 私たち教会が何をしたらいいのか、次の箇所で教えられています。エペソ人への手紙三章八節〜十一節、

『すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。』

 神は万物を造られたのですが、万物を創造した中で、代々隠されてきた奥義があるのです。万物を創造した中で、神が最も造りたかった存在は何か。それが「教会」です。
 では、なんのために?それが三章の十節、『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるため』と理由が述べられています。
 『天にある支配と権威』とは、悪魔と悪霊どもの組織のことです。地にたたき落とされたあの竜、レビヤタンと子分たちに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるのです。教会の宣教という業を通して、万物を創造した神の中に代々隠されていた奥義が実現するのです。私たちはこの使命を果たさなければいけないです。
 同じく、エペソ人への手紙一章十九節〜二十三節には、このように書かれています。

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』

 私たちは何気なく教会に属しているのですが、この御言葉を見る時に、『神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』と、教会とはパワフルな所であることがわかります。
 このような機能を持った教会に対して、竜が放っておくはずがないのです。しかし、教会が神の前に立ち上がる時、何が起こるのでしょうか?天にある支配と権威とに対して教会を通して神の豊かな知恵が示されるのです。
 第一コリント十二章二十七節、

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』

 教会とは、イエスさまが頭で、私たちはキリストの体に属する各器官なのです。今日、ここに来られた方々、私も含めて、皆、偶然かのように新城教会にお集りになったのかもしれません。「あの事がなかったら、私はこの教会に来ていません。」ということが、いくらでもあったと思います。
 しかし、そんな中にも神の偉大な計画があって、あなたと新城教会にしかできない使命と賜物が与えられているのです。頭はイエスさまで、今日、ここにおられるお一人お一人はキリストの体を構成する、各器官なのです。
 人間の体は、たくさんの器官によって構成されています。一つ一つの器官が正常に動く時に、健康な働きができます。病気になる時は、どこかの器官が壊れたり、機能を失ったりする時です。そうすると正常な生活ができないわけです。
 教会も同じです。私たちはキリストの体の各器官の一つなのです。体全体で神が成し遂げたいと願っておられることがあるのです。

 教会を通して何をするのかといったら、地に落とされたレビヤタンを打ち破る働きです。どうしたらレビヤタンに勝つことができるのかといったら、霊的戦いは、個人戦ではなく、「教会とレビヤタンとの戦い」です。教会という権威の中で、レビヤタンは打ち破られていくのです。

 私たちがキリストを頭として、各器官にしっかりとおさまり、機能する時、レビヤタンは打ち破られていくのです。ローマ人への手紙十二章三節〜八節、

『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。』

 今日、ここにおられるお一人一人には、神から与えられている特殊な能力、「聖霊の賜物」が与えられています。ある人は言います。「私にはそんなものはありません。そういうものを与えられているのは、特殊な人です」と。
 でも、そうではないのです。人間として生まれたならば、神からの特殊な能力が全員に与えられているのです。
 先日、ここでメッセージを語ってくださったロンさんと一緒に来た、ケイラブ・クウェイ先生が以前、ミュージックセミナーで語っていました。そのメッセージを忘れることができません。
 人間として生まれたからには、全員に賜物がある。それは一生涯、取り消すことはできないというのです。でも、それが神の手に渡ったら祝福されるけれど、それを自分で持っていたり、悪魔の手に渡すと、自分に与えられている賜物のゆえに、その人は苦しめられるという話をしました。

 実に、それは本当だと思いました。みなさん、人間として生まれたということは、元々、キリストの体の各器官の一つとして、特殊能力を持って生まれたわけです。この能力を、神に渡さなければならないのです。そのように生きる為には、キリストの体にしっかりと植わることです。それがなく単独でいると、悪魔の攻撃にさらされます。
 マイケル・ジャクソンという歌手がいて、彼は本当に歌がうまく、踊りも天才的にうまかったのです。彼は世界で名声を博しました。しかし彼は突然死んでしまいました。なぜ、彼は若くて死ななければならなかったのか。それは彼には賜物があったからです。うまく歌う、踊る、という能力は誰が与えたのでしょうか。他でもない、神が与えた能力でした。それが、神のために用いられたら、相当、彼によって神の国は広がったでしょう。でも、それが、自分の名声のためや、お金のために使われた時に、その賜物が自分を苦しめたわけです。マイケル・ジャクソンが歌が下手で、踊りが下手だったら、今ごろ、どこかで生きている事でしょう。ロサンジェルスの黒人街かなんかで生きている事でしょう。あれだけ能力があったからこそ、苦しめられたわけです。

 我々も同じです。神様から渡されている能力を百パーセント、神に渡す必要があります。具体的に、その能力が生かされるのは、キリストを頭にした教会というキリストの体の中に植わることが、生かされる秘訣です。そして、キリストの体が完成するとき、レビヤタンとの戦いに勝利できるのです。教会を通して、天にある支配と権威に立ち向かうことができるわけです。

 みなさん、今年は、すでに与えられている賜物を、キリストの体の中で「ここぞ!」というところに植えていただきましょう。自分一人じゃどうにもできませんけれども、周りの機能と有機的につながり、レビヤタンに立ち向かう時、日本に大きな勝利が来る事でしょう。そうしたら、この国の将来には望みがあるのです。
 ですから、キリストの体を深く意識することが重要なのです。それが私自身、この頃、主から教えられているメッセージです。
 今年は、アジアに霊的戦いのために出て行く必要があります。そのために必要なのが、キリストの体の確立です。教会が真理の体と柱として、しっかりと機能する時、敵は打ち破られていくわけです。

 聖霊によって、「あなたはここで働くために創造されたのですよ」と言われるところに、がっちりと植えられるとき、あなた自身も守られ、また全体にも勝利が来るのです。その結果として、今年は勝利を受け取っていきたいと願っています。
 この賜物についてさらに、第一コリント十四章一節〜十四節に書かれています。

『愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。』

 体は愛という血液でまとめられ、教会全体では預言することを求めなさいというのです。みなさん、是非とも祈っていただきたいのですが、この教会に預言の賜物が加えられるように祈っていただきたいと思います。それは「私はあなたの将来について予言してあげますよ」というようなものではなく、教会自体に預言の油注ぎがあるなら、イエスさまの足跡を道として歩くことができるはずです。預言的にならなければなりません。個人的にも預言の油注ぎをもらったら、不確定な時代の中にあっても、安全な道を歩むことができるはずです。
 異言の賜物は、知らないうちに自分の霊で奥義を話していると言われます。異言の賜物をお持ちですか?持っていなかったら、今日、県民の森で祈ろうじゃありませんか。異言の賜物は、知らないうちに知らない言葉で神の奥義を語るのです。異言は重要です。
 この新城教会で霊的戦いが始まる最初のきっかけは、異言の解き明かしの賜物が某少年に与えられたことから始まりました。確かにその内容は、とりなしです。私たちがとりなすことのできない領域を、聖霊自らとりなして下さっているのが異言の賜物です。私はよく異言で祈っているのですが、異言の賜物とは、とりなしの祈りでもあります。
 しかし預言の賜物によって、教会は定められた場所に向かって進んで行くのです。預言的な油によって主の勝利が現され、レビヤタンが打ち破られる年になると私は信じています。
 今年、イエスさまという頭に繋がり、一人一人が各器官として体が完成し、レビヤタンが撃ち落とされるという勝利を見ようではありませんか。

 今日は今からイエスさまの十字架の血潮をあおいで、聖餐式を行ないますが、先週も「キリストのからだに属する」ということで聖餐式を行ないましたが、「主よ、どうか私をキリストのからだの各器官の一つとして、しっかりと植えてください」と祈り、「主の業が現されますように」と祈りたいと思います。
 今から、聖餐の時を持ちます。「子羊の血と証の言葉によって彼らに打ち勝った」とありますけれど、教会という真理の土台と柱が堅く立てられ、主の勝利が現されますように、みなさんでお祈りの時を持ちたいと思います。では、一言お祈りします。


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝致します。今あなたがここにおられますから感謝します。あなたが頭であることを心から感謝を致します。今、私たちはキリストの体に属し、一人一人の賜物が生かされることを願います。主よ、教会が真理の土台、柱として機能できますようにお願い致します。イエスさまの御名を通して祈ります。アーメン。