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『復活!パート2』

2012.4.22(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
使徒の働き4章32節~33節

『信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。』


 ハレルヤ!おはようございます。みなさんの前でメッセージを語らせていただけます恵みを、心から感謝します。
 人生にはいろいろとハプニングがあるものですけれど、菊地陽子さんのデビュー賛美を前に、ちょっと音響のハプニングがありましたけれど、彼女は落ち着いてうまくこなしました。素晴らしい透き通る声で、心洗われるような賛美でした。
 今も出てきましたけれど、太陽、月を創られた神様がおられます。宇宙を創造された方がおられるのです。すべてを貫いておられる、主が、今ここにおられます。
しかし、一般の人たちは太陽や星、そして、宇宙そのものが神でり、星の世界と自分の運命が関わりがあるかのように考えています。
 今日は午後から「霊的戦いセミナー」を行いますから、ぜひ出席してみてください。今回のテーマは重要なテーマだと思います。現在、私が最も強く主から教えられているテーマです。それは「占星術」についてです。世界は、太陽や星を神にしたり、運命を共有しているかのように考え、古代から占星術を行って来ました。全ての偶像礼拝の根源に、占星術があります。これは世界を支配している最も巨大な力かもしれません。その分野を主のみ名によって勝ち取る時、世界に大きな勝利があると思います。そのことについて、午後から語らせていただきます。私たちは天地宇宙を造られた、ただ一人の神、イエス・キリストを信じ、礼拝できることを感謝したいと思います。

 二週間前は復活祭がありました。イエス様がよみがえってくださったことを記念して、お祝いの集会を持ちました。イエス様がよみがえられたという事実は、私たちの信仰の中心であるとお話ししました。もしもイエス様がよみがえったことが事実でないならば、我々の信仰のすべてが崩れ去ります。しかし、復活が事実ならば、聖書に記されているすべてが成り立つとお話ししました。そして今日は、その続きを語らせていただきたいと願っています。
 第一コリント十五章十三節~十四節、

『もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。』

 イエス・キリストがよみがえったことが事実ならば、私たちの信仰には大きな意味があります。しかしそれが嘘ならば、むなしいことです。第一コリント十五章十九節には、

『もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。』

 イエスという一人の聖人が歴史の中に出て、いろいろとすばらしい教えはしたけれど、死んで、二千年間死んだままならば、それはただの人です。そんな死んでしまった人に希望を置いていても、何も起きませんし哀れです。
 しかし、イエス様が今も生きておられるならば、私たちの信仰は最も力強いものです。私たちの神は死んだ神ではなく、死を打ち破って、今も生きておられる神です。

 二週間前も話したのですが、世界にはいろいろな宗教があり、世界宗教という形で大きく拡がった宗教は、そのほとんどが権力者と共に拡がりました。日本の仏教もしかり、神道もしかりです。
 仏教が日本に入る時は戦争まで起きて、仏教を受容すべきか、拒否すべきかで、蘇我氏と物部氏が戦って、仏教擁護派の蘇我氏が勝ち、日本に仏教が入ったわけです。神道も明治政府によって導入されました。イスラムも、その他すべて、大きくなった宗教は、権力者が関わっています。

 しかし、キリスト教においては、その原点においては、激しい迫害のただ中で、拡がって行きました。どうしてそんなパワーがあったのかというと、弟子たちがイエス・キリストの復活という事実に接し、その感動があまりにも大きかったからです。彼らは、迫害をものともせずに、すべてを投げうって復活の主を人々に知らせたいという情熱で出て行ったわけです。
 今日も読んだ主題の御言葉を見ますと、使徒の働き四章三十二節、

『信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。』

 すべてを共有にできるほどのエネルギーは、どこから湧いてきたのでしょうか。今の私たちはどうでしょうか。いくらイエス・キリストを信じ、感動したって、財産全て持ち寄って、仕事も全てやめて、「イエス様のことを日本中に広げるために、命をかけましょう!」という原動力は、なかなか湧いてきません。もしもそんなことしたら、「ちょっと、カルトになっちゃったんじゃないの」と言われると思います。
 でも、彼らは、自分の仕事も全て投げうって、持ち物も全て共有にするほど、復活に感動したのです。使徒たちは、主イエスの復活を「非常に力強く証し」、大きな恵みがそのすべての者の上にあったと記録されています。死からよみがえられたイエス様と出会ったことが、あまりにもインパクトの強い出来事だったのです。
イエス様は復活後、四十日間人々の前に現れて、天に帰られてしまいました。それにもかかわらず、迫害のただ中で、彼らは福音を世界に宣べ伝えたのです。
 弟子たちは復活の目撃者であったのです。使徒の働き十章三十九節~四十一節を読みますと、

『私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。』

 彼らはイエス様が十字架で死んだのも目撃し、葬られたのも目撃し、よみがえりも目撃したのです。そして、なんと、よみがえったイエス様と一緒に「飯まで食った」というのです。それは本当にすごい体験だったと思います。
 そんな体験の中で、彼らはよみがえりの主を「世界に告げ知らせる事に専念しよう!」と決意したのです。復活を原動力に、世界に福音を宣べ伝えたわけです。

 キリスト教宣教は、初代ではこのように、イエス様のよみがえりを目撃した感動から始まりました。そして当時の大国、ローマ帝国の中枢にまで福音は届いたわけです。
 しかし、その後、ローマにおいて、キリスト教が国教として受け入れられ、キリスト教は権力者と結びつくわけです。その中で建てられた教会がローマ・カトリック教会です。
 その後、キリスト教はどうなったかと言うと、全く霊的力がなくなってしまったのです。ローマ・カトリックは聖書を読むことも禁じ、聖書に書いてない事を教え、人民を強く支配するようになりました。免罪符を売ったり様々なおかしな事をやるようになったわけです。その歴史が千年以上も続いたのです。
 しかし、そんなただ中から改革運動が起こって来ました。十六世紀、マルチン・ルターや、カルビンという人物が出て、改革の叫び声をあげるようになりました。
ルターという人物は、ローマカトリック教会の修道士でした。ローマカトリックを通してでなければ、法王を通してでなければ、救われない、という教えのただ中にいました。聖書を読むことも禁じられていたのですが、彼はこっそりと禁断の書である聖書を読んでみたのです。
 すると、「ローマ・カトリック教会の教えはおかしい。ローマ・カトリック教会によってではなく、信仰によって義と認められる」と気づいたわけです。それで宗教改革運動が始まりました。ヨーロッパは長い間、国王と法王が結びついて人々は支配されていたのですが、その巨大な権威に対して戦いが起こったのです。

 しかし、その改革は困難を極めました。ルターは改革を始めたけれど、うまくいかず落ち込んでしまいました。ある日、あまりにもその闘いが厳しく、彼は部屋の中で黙り込んで椅子に座っていたそうです。
 その時、奥さんのカタリーナが、「あなたどうしたんですか?」と声をかけました。しかし彼は下を向いたまま何も答えなかったそうです。するとカタリーナは、そこから去って、もう一度ルターの前に出て来たというのです。どんな格好で出て来たかというと、彼女は喪服を着て出て来たというのです。喪服を着て、葬式に出かける格好をして、ルターの前に出て来たそうです。
 その姿を見てルターは「誰か死んだのか?」と聞きました。するとカタリーナは、「今から私はお葬式に行ってまいります。」「誰の葬式だ?」「あなたの神様の葬式です。」と答えたそうです。
 「神様がお亡くなりになりました。ですから、私は神様の葬式に行って来ます。」と答えると、ルターは怒って、「神が死ぬわけないじゃないか。なんでおまえはそんな事を言うんだ!」と怒ると、カタリーナが答えたそうです。「あなたの顔を見てると、あなたの神様は死んだようにしか見えない。」
 その時にルターは、はっとさせられたそうです。「そうだ!私たちの神は生きておられる!」と、もう一度気づかされ、その困難な仕事を成し遂げたと言われます。

 時々、私たちもいろいろな問題があったりしますと、イエス様がよみがえられた証拠まであるのに、ルターのように落ち込んでしまうことがあるかもしれません。しかしどんな時でも、私たちが持たなければいけない信仰は「よみがえりの信仰」です。
 弟子たちが、イエス様のよみがえりに接して、困難な中でもいつも力を得て、福音を伝えて行った原動力を共有しなければなりません。イエス様は今も生きておられます。
私たちの神は生きておられます。生きておられる方に仕えることができるのは、何と、すばらしいことでしょうか。
 今日も私たちは、生きておられる神に礼拝を捧げるために、この場所に集まりました。新城教会は田舎にあり、こんな雨の日の足下の悪い中、なぜここまで集まられたのかと言えば、それは、生きておられる神、イエス・キリストを礼拝するためです。

 先週は日本においてというか、この新城教会においてもハッピーなことがありました。それは何かというと、四月十四日に新東名が開通したからです。新東名の開通は新城教会にとっても、大きな福音です。なんとこの田舎に、インターチェンジがやがて出来るからです。現在は御殿場から浜松引佐まで開通しましたが、二年後は豊田までつながります。
 私は、先週、東京の教会で奉仕がありました。それが終わった後、新城教会の東京集会があり、それに出席して、スタッフと一緒に車で帰って来ました。それで初めて新東名を通りましたが、いい道ですね。本当にいい道ができました。

<新東名>

 今、浜松引佐まで開通しました。ここから新城までは、下道でだいたい二十五分です。案外近いです。そして、二〇一四年には豊田東まで結ばれます。新城にインターチェンジですよ。信じられません。神様は国さえも動かし、教会のために、また、日本のリバイバルのために準備しておられると思います。
 この教会には遠く、島田の方から来てくださる方々がおられ、感動しています。しかし新東名が開通し、あまり「遠い」とは言えなくなってしまったというのです。約一時間で教会まで来られるというのです。インターチェンジが出来たらどうでしょうか。四十分くらいに短縮されるのではないでしょうか。

 しかしなぜ、集まるのかと言うと、それは、よみがえってくださった方、今も生きておられる主、イエス・キリストを礼拝するために集まっています。

 「死からのよみがえり」と簡単に言いますが、それはとてつもなくすごいことです。
 教会は結婚式もあれば、今日は献児式もあります。それは神様からいただいた子供を、もう一度、お献げしますという式です。
 しかし、牧師をやっていますと、臨終の場にも行かなければなりません。また、葬式の司式も多いわけです。
 人は案外簡単に死んでいくもんだと時々思います。「俺も死ぬ時には、結構、簡単に死ぬんだろうな」と思うのですが、特にクリスチャンの死は眠ったような、安らかな顔で天に帰って行かれます。本当に眠っているようで、「起きて」と言ったら目を覚ましそうな雰囲気です。みなさんも今までに、誰かが亡くなった姿を見たことがあるかもしれません。

 しかし、死に顔は眠ったように見えますが、実は、死と同時に内側ではすごいことが起こっているのです。死は、表面的には穏やかに見えるかもしれませんが、体内では究極的崩壊が起こっているのです。それは不可逆的崩壊です。不可逆的というのは、二度と元に戻らないという意味です。そのような崩壊が体内で起こっているのです。
 死の判定、定義はなかなか難しいのですが、現代においては、呼吸と心臓の停止を「死」と定義します。しかし、近頃では脳が機能しなくなったら死であると、「脳死」という定義もあります。
 死は表面的には穏やかに見えるのですが、生理学的に言いますと、息が止まって、心臓が止まった瞬間、酸素の供給が途絶え、全身の細胞が壊れて行くのです。それは死後、数分以内にどんどん壊れて行くそうです。それは不可逆的変化だというのです。細胞が一度壊れたら二度と元に戻らないのです。
 心臓は血液を常に送っているのですが、止まった瞬間に血管内の血液は動かなくなり、三十分から一時間以内に永久に非凝固性、血清に近い状態になるというのです。血液は分離すると二度と元に戻らないそうです。
 人は死んだ瞬間、顔は穏やかに見えるけれど、内側では究極的崩壊が起こっているわけです。いろいろな崩壊があるかもしれないけれど、死ほど大きな崩壊はないのかもしれません。

 その状態が三日間続いた後に、よみがえるというのは、普通じゃ絶対にありえないことです。それが聖書に記されている事柄です。不可逆的な崩壊状態が三日間続いた後、イエス様は墓から出て来たというのです。これはただ事じゃありません。
 死んだというのは、眠っていた状態の人が目を開いたように考えますが、それとは全く違います。無茶苦茶に破壊されていたのが新しくなり、元通りになって命を吹き返したことです。この復活が、私たちの信仰の根源にあるということです。
 「究極的破壊からの回復」という事実が、私たちの信仰の根源にあることを、もう一度よく考える必要があります。
 私たちは「イエス様がよみがえりました」というのを、眠っていた状態から起き上がったように、いとも簡単に考えているかもしれないけれど、そうではないのです。一度死んだということはすごいことです。そこからよみがえるのは、全てが新たにされない限り、ありえないのです。細胞も含めて、血液も何もかも、すべてが新しくならない限りあり得ないのです。復活とは、すべてが新しくなった証拠です。

 私たちがイエス・キリストを信じて救われるとは、何が起こるのか。コロサイ人への手紙二章十二節、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』

 私たちがイエス・キリストを信じるとは、「信じてバプテスマを受ける者は救われる」とありますが、信じ、バプテスマを受けた瞬間、古いものが死んで、新たに復活するのです。死と復活が瞬間的に連続して起こるのです。それは、すべてが新しくなることを意味します。人生に、イエス様の復活と同じことが起こるのです。それを私たちは、果たしてどのくらい認識しているのだろうかと思います。

 実は、私は、先週は東京の炎リバイバル教会という教会で奉仕しました。その教会に私は何度も行っているのですが、その教会の牧師先生の奥さんはずっと腎臓が悪くて、いつも土色の顔をしておられました。人工透析をするしかないということで、人工透析になりました。それも限界があって、腎臓移植しかないとなったそうです。「祈ってください」と言われて、私も祈っていたのですが、誰の腎臓を移植するかになって、やっぱりご主人には愛がありますよね。「私の腎臓を妻にあげます」と申し出ました。それで病院で検査をしたのですが、ご主人の腎臓は奥さんに適合しないという事でした。
 移植とは車が壊れた時、他の車の部品を取ってきて付けるようなものです。この頃の医学の世界はすごいですね。腎臓を移植するというのです。しかし、いろいろ調べたけれど適合する腎臓はなかったというのです。
 そうしたら、奥さんのお父さん、その方はもう七十過ぎのおじいちゃんですが、「私の腎臓がもし適合したら娘にあげたい」と言って調べたら、ぴったりでした。「では、お父さんの腎臓を娘に移植しましょう」ということで、精密検査をしたそうです。
 七十過ぎの父親が精密検査を受けたら、なんと前立腺と肺に癌が見つかったそうです。「これは腎臓移植どころの話じゃない。癌を治さなかったら、あなたの命にも関わります」と言われたそうです。
 せっかく娘に腎臓をあげようと、精密検査をしたらそれどころではなく、自分の命さえも危ないということでした。それで、東京虎ノ門病院に検査入院をしたそうです。
 虎ノ門病院とは、天下の虎ノ門病院と言われ、そんな検査は毎日のようにしています。おじいちゃんが検査入院したら、牧師の所に病院から緊急電話がかかって来たそうです。「すぐに病院に来てください!何でもいいから、すぐに来てください!」
ということで、病院に飛んで行ったら、なんとおじいちゃん、検査の途中、これは医療ミスだと思うんですが、医者が細胞を取る時に間違えて動脈をぶっ刺してしまったのです。
 それで大出血を起こして、血圧が上が三十、下がゼロになったそうです。ほとんど死んだのと同じ状態になっていたそうです。「危篤状態です」というのです。
 こんなことになったもんだから、病院は各部署の腕利きの医師全員を集めて、おじいちゃんを甦生したそうです。真剣になって生かすために努力したそうです。
 それが功を奏し、死ぬ寸前だったおじいちゃんは助かったというのです。死ぬ寸前どころか、血圧が下がゼロになりましたから、死んだのと同然です。それを聞いて検査も恐いなと思いました。だから誓約書なんか書かされるのだと思うのですが、おじいちゃんは九死に一生を得たというのです。
 しかし、このおじいちゃん、一回死んで生き返った後、再度検査をしたら、なんと前立腺の癌が消えていたそうです。そして、肺の癌も消えていたそうです。なんと全身の細胞が新しくなったようで、腎臓の提供手術も出来るようになったのです。そして今年の二月、めでたく腎臓を取って、娘に移植手術をしたのです。
 移植手術をした時、医者が言ったそうです。「こんな状態のいい腎臓は見たことがない。今までの手術の中で、一番うまく行きましたよ」と。
 今回、おじいちゃんもぴんぴんしていました。また、先生の奥さんも腎臓が新しくなって、部品が交換されたもんだから、若返って顔色も良くなって元気になっていて、びっくりしました。
 あの時におじいちゃんが一度死ななかったなら、また生き返らなかったならば、この奇跡は起きなかったというのです。
 私はそれを聞いて、「人は一回死んで、よみがえらなきゃいかんな」と思いました。

 私たちも同じです。イエス・キリストを信じる時、古い人が死んでよみがえるのです。しかし一度は死ぬのです。そして何が起こるのかといったら、キリストと共によみがえるのです。コロサイ人の手紙に書かれていることは、二章十二節~十五節、

『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

 イエス・キリストを信じ、バプテスマを受ける時、イエス様と共に一度死んで、復活するのです。その結果何が起こるのかというと、まずは「罪が赦される」というのです。イエス様は私たちの罪の身代わりとなって、死んでくださり、よみがえってくださったのです。その同じ行程を、信じてバプテスマを受ける時に辿るわけです。

 この世の法律でも、犯罪者が死んだらそれで罪は消えるのです。一度犯罪を犯すと犯罪者のリストに載るそうですが、その人が死んだ時、リストから削除されるそうです。また、ある事件で容疑者が捕まって捜査中でも、容疑者が死んだ時、捜査は終了するのです。もちろん関連は調べるけれど、その人を罪に定める必要は無くなるのです。
 三年前、韓国でリバイバルミッションを行ったのですが、そのただ中で、盧武鉉元大統領が死にました。あれは本当に大きな事件でした。彼にはいろいろな疑惑があって、もう少しで逮捕される寸前でした。しかしその直前に彼は死にました。それまでは当局が活発に動いて捜査していたのですが、彼が死んだその日に、すべての捜査は終了されました。今までの罪は全てちゃらです。
 私たちにも多くの罪があるかもしれませんが、イエス様と共に、私たちも死んで、よみがえったらどうでしょうか。私たちの罪はすべて赦されるのです。

 そして、「不利な債務証書」が無効になるとあります。罪が赦されるだけでなく、私たちを責め立てる債務証書が無効になるというのです。

 私たちも生きている間は、様々な契約関係の中で生きています。
 この頃、年金問題が大きく取りただされていますけれど、年金をなぜ受け取ることができるのかと言うと、それは個人と国との契約関係があるからです。「これだけ私はお金を忠実に振り込みましたから、その契約によって毎月、年金をください」という契約が成り立っているから受け取ることが出来るのです。年金は六十歳からか六十五歳からでしょうか。私ももらえるのかなと思って、楽しみにしていたら「もらえない」と言われました。現在六十一ですけれどだめみたいです。でも、私にも国との契約関係がありますから、やがて年金をもらうことができるわけです。
 でも、どうでしょうか。人が死んだ途端、その契約は無効になるわけです。「じいちゃんが死んでしまった。でも、私がじいちゃんの代わりに年金をもらいに行こう」と言っても「ダメ・ダメ!契約終了です」となるのです。
 財産をどれだけ持っておられるのか知りませんが、「私は土地を多く所有しています。不動産をこんなに持っていますよ」と言っても、所有権も、個人と国家との契約関係で成り立っているわけです。死んでしまったらどうでしょう。死んだら所有権は消滅します。その土地は、他の誰かが相続しなければならないわけです。所有権が宙に浮くものだから、相続でいろいろと問題が起こるのです。
 死んだら、今までの契約は無効になるわけです。生命保険だって、車の保険だって、契約は死んだ時点で無効になります。

 私たちも、人生のただ中で、不利な債務証書が発行されます。罪を犯すと、神との間にも悪い債務証書が発行され、神から見捨てられるような面もあるし、また一方では悪魔との契約が成立します。
 そんな不利な債務証書があったとしても、私たちが死んだら、その契約は全部解除です。そして、新たに復活するわけですから、イエス・キリストを信じるとはすごいことです。
 罪が赦され、不利な債務証書が無効になったら、何が起こるのかといったら、二章十五節を見ると「すべての支配と権威の武装が解除される」のです。悪魔と悪霊どもは武器を持って私たちを責め立てます。なんで責め立てることができるのかといったら、債務証書があるからです。
 借金取りに負われた経験があるならば、なんで借金取りが来るのかというと、債務証書があるから来るわけです。でも、債務証書が無効になったらどうでしょうか。敵は来ることができなくなるわけです。敵の武装は解除され、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられるとあります。なんと、悪魔と悪霊どもが捕虜となって、二度と立ち上がることはできないのです。
 それは、死んでよみがえる時に始まるのです。私たちがイエス・キリストを信じて、バプテスマを受けるとはすごいことです。『信じてバプテスマを受ける者は救われる』と、バプテスマ、洗礼は本当に重要です。
 みなさんの中で「バプテスマまでは・・・」と躊躇しておられたら、ぜひともイエス様を信じ、バプテスマを受けて欲しいです。水の中に入るのは、一度死んだことを意味し、水から上がるのはよみがえりを意味します。これは「神秘」です。

 その時、罪は赦され、債務証書は無効にされるのです。私は小学校二年生の時に、バプテスマを受けました。昔、新城教会の聖餐式は、教会員しか受けさせてくれませんでした。特にバプテスマを受けたクリスチャンだけという条件がありました。しかし聖書をよく読むと、「信じたら聖餐式を受けていい」と私は信じています。「聖餐論」は各教会、各教派、いろいろな神学的見解がありますから、どの考えを採択するかは、各教会に任されているわけです。私たちは「主イエスを信じたら、どうぞお受けください」と言います。けれども昔は、バプテスマを受けなかったら聖餐式を受け取ることができませんでした。
 私が幼い頃、クリスチャンの数も少なかったですから、ぶどうのジュースもパンも結構大きかったです。私は昭和二十六年生まれ、食糧難の時代。私が小学校の頃、本当に腹をすかした少年でした。聖餐式はお昼ちょっと前、呼び水のように行われるわけです。蓋を取った時、甘いジュースの香りが狭い部屋に立ちこめて、お腹が鳴って、「俺にも食べさせてくれ!」と言うと、「だめだ、バプテスマを受けてないから」と言われ「じゃ、俺受けるわ!」と言って、バプテスマを受けました。本当に不謹慎です。
 冬は寒いから八月がいいと私は八月に、桜淵でバプテスマをやってもらいました。そうしたら「バプテスマの後にそのまま泳ぎに行ける」と思ったからです。そんな感じでバプテスマを受けました。その頃、バプテスマについて、今のような理解はありませんでした。
信仰とは理解と共に前進します。私たちが信じてバプテスマを受けるとすごいことが起こっているのです。それは死からの復活です。
 復活が起こったなら、全てが新しくされるのです。罪が赦され、債務証書が無効になり、すべての支配の武装が解除され、悪霊どもが捕虜となるのです。

 私はコロサイ二章は霊的戦いの真理を教えていると考えています。私はコロサイ二章十二節~十四節を、勝手に「コロサイ二章保険事務所」と名前をつけて使っています。
 「コロサイ二章保険事務所」一階は罪の赦し事務所です。二階は債務証書が無効にされる事務所です。三階は問題解決セクション。四階は完全勝利を保証する事務所です。
 それは死んで復活する時に与えられる権利です。案外、教会は、罪の赦し事務所、一階しか使ってないように思います。イエス様を信じたら罪が赦されるということは強調しますが、二階にも事務所があるのです。一階でハンコウをもらったら、二階に書類を廻さなければいけないのです。
 一九九二年に霊的戦いが始まって教えられたことは、「罪の赦しと共に、不利な債務証書を無効にする手続きをしなさい」ということでした。二階事務所で手続きをする祈りをするようになりました。
 そうしたら書類が自動的に三階に行きました。なんといろいろな問題が解決するようになったのです。今まで解決しなかったようなややこしい問題が「あれ?解決したぞ!」と。
 私は、「悪魔・悪霊どもと戦うなんて大変だ」と思っていたけれど、悪霊どもを捕虜にできる、完全勝利にまで進むことができることに気づかされたのです。「恐れることはない!」と、「復活し新しくなった者たちは、完全勝利まで戦い切ることができる!」と気づかされたのです。
 イエス・キリストを信じ、さらに進んでバプテスマを受けるなら、「死んで、よみがえった」存在です。保険事務所の一階から四階までのサービスを全てお使いになることができるのです。素晴らしいですね。
 なぜなら、その根源に、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださった、いや、死んだだけではなく、よみがえってくださったという事実があるからです。その事実があるゆえに、復活の権利を受け取ることができるわけです。
 イエス様は私たちの全ての罪をその身に負って下さいました。そして身代わりとなって死んでくださったと教えています。
 第一ペテロ二章二十二節~二十四節(新共同訳)、

『「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。』

 イエス様が私たちの罪をその身に担ってくださり、死んで、死んだだけではなく、よみがえってくださったのです。その結果、私たちの罪も一度死んだのです。その後、よみがえったことは、私たちが義に生きるようになるためでした。そして『そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました』と。
 この箇所を見ますと、イエス様が一度死んでくださり、よみがえってくださった背景に、深い深い真理が隠されていたことがわかります。

 案外、私たちは、イエス様が私たちの罪のために死んでくださった、よみがえってくださったと、簡単に考えていますけれど、それはすごいことです。それは私たちの信仰の原点です。
 この事実に接した弟子たちが何もかも捨てて、よみがえりのイエス様を伝えることに専念し、集中していったことも分かる気がします。

 弟子たちのメッセージの中心は、イエス様がよみがえってくださったことを人々に力強く証しました。使徒の働き十章三十九節~四十一節、

『私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。』

 イエス様がよみがえった事実を人々に力強く語ったのです。その時、何が起こったのかというと、その続き、使徒の働き十章四十四節~四十六節を見ますと、

『ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。』

 なんと、弟子たちがよみがえりのイエス様について力強く語っている最中に、聞いている人たちに聖霊が注がれたというのです。それも、異邦人に注がれたのです。異邦人とはユダヤ人以外の国々の人たちです。それは日本人も含みます。そして異邦人伝道が続いて行ったわけです。

 今日、私たちは聖霊を受けることを切に願って集まっていますが、イエス様のよみがえりに焦点を当て、イエス様の復活に関して語る時、聞いているただ中に聖霊が注がれ、異邦人に聖霊が注がれたのです。
よみがえったイエス様に目を向けて行く事は、リバイバルの秘訣です。

 二週間前も語ったのですが、今年は主がこの国に、また、私たちに回復を用意されていると信じています。主が今、日本に新しい事を始めようとされていると思います。いやすでに、日本に何かを始められたと思います。現在、未だかつてないほどの混乱が日本にありますけれど、これは神自ら日本に手を差し伸ばしておられる証拠です。それは私たちのただ中にも御手が延べられていることです。私たちは回復の主に期待しなければなりません。

 しかし、もちろん回復の主でありますけれど、回復を越えて、「復活の主」であるのです。私たちの主は、復活されたお方であり、私たちの信仰の中心は主イエスの復活にあるのです。
 回復とは、「風邪を引きましたけど回復しました」、「こんな問題がありましたけど回復しました。」と言います。回復とは、まだ命があります。命はあるけれど弱っている、しかし回復する、それを回復と呼ぶわけです。
 しかし、復活とは何でしょう。全く息が途絶え、血流も止まり、細胞にも不可逆的崩壊が起こっているただ中で、息を吹き返すことが復活です。私たちの主は「復活の主」です。

 私たちの中にも、「これは回復不可能だ。死んでしまっている。この領域には命がない。」という領域があります。日本のいろんな領域を見るならば、「これは回復不可能だ、命さえ失っている」というところが多く見受けられます。「諦めるしかない。」というような問題も多くあります。
 しかし、私たちの信仰の原点は復活にあります。回復を越えて、復活です。主が最も得意とされる分野は、復活です。主は復活の力を持って、私たちのところに臨んで来られるのです。
 「あなた方が回復を求める以上に、復活の信仰を求めなさい」と今、主が私たちに語ってくださっているような気がするのです。

 今日私たちはここで聖餐式を行います。聖餐式も神秘です。それはイエス・キリストの十字架の死を告げ知らせるものです。イエス様が私たちの罪の身代わりに死んで下さったことを心に留めるのです。
 しかしそれだけではいけないのです。案外、教会は、信仰の中心を十字架にします。それは間違いではないのですが、決して十字架だけを中心にしてはいけないのです。復活の事実をそれ以上に、深く心に刻まなければならないのです。

 聖餐式を思い出させる出来事が、聖書にはいくつかあります。まずは、イエス様が十字架にかかる前、弟子たちと一緒に食事をした「最後の晩餐」を思い出させます。
 しかし、それだけに終わってはいないのです。弟子たちはイエス様が復活してから、「私たちは復活された主と一緒に飯を食った!」と証言しています。よみがえりの主と共に食事をしているのです。
 聖餐式とは、ただ単に、十字架の死だけに目を留めるのではなく、よみがえられた主と共に食事をするという、「よみがえりの主との出会い」を含んでいるのです。

 今日、私たちは聖餐式を持ちます。罪が赦されただけでなく、債務証書も無効になり、すべての武装が解除され、敵が捕虜となるという、究極的勝利はなぜ与えられたのか。それは、イエス様の復活によるのです。主を信じる者たちは同じ死とよみがえりを体験しているのです。そして、よみがえりの主と一緒に食事する、それが聖餐式でもあります。

 私たちの主は、生きておられる神です。よみがえりの主に注目したいと願っています。
 最後に一言お祈りして、ご一緒に、よみがえりの主と共に食事をする聖餐式にあずかりたいと思います。一言祈ります。


 ハレルヤ、天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。あなたは死を打ち破り、よみがえってくださったことを心から感謝します。今日はよみがえりの主を見上げて、心に留めて聖餐式を行います。
 主よ、私たちのただ中に、来てください。私たちの内側に、回復を越えて、よみがえりの力を現してください。
 息をしていないような、死んでしまったような領域がたくさんあります。私たちの周りにも、私たちのただ中にも、息をしていないような、死んでしまった領域が多くあります。けれども、復活の主が、それらを生かしてくださることを心から感謝します。
 今日は、復活の主に心を留めます。よみがえってくださったイエス様、今日は私たちと一緒に食事をしてください。
 今、この聖餐を、御言葉と聖霊によって祝福します。よみがえりの主と共に、食事する時としてくださいますように。すべてを感謝し、イエス・キリストの御名によって祈りをみ前にお捧げします。アーメン。