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『天国をめざして』

2012.6.17(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘
ヨハネの黙示録21章1~4節

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」


 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。
 梅雨に入り、季節の変わり目で体調を崩しやすい時期ですが、皆さんお元気でしょうか。今日も元気で皆さんと共に、主を礼拝できる恵みを心から感謝します。
 私は、年に数回しか講壇に立たないので、皆さんが心配してくださって、今朝、何人かの方から、「今日は礼拝メッセージですね。先生のために、先週は特に祈っていました」と声をかけていただきました。そのように、祈ってくださる方々に支えられて、守られているんだなぁと、感謝しています。

 さて今日は、先程読んでいただいたヨハネの黙示録二十一章一~四節の御言葉から『天国をめざして』というテーマで、皆さんにお分かちしたいと思います。 

 皆さんにはそれぞれいろいろ夢があり、かなえたい希望があると思います。もっと出世して金持ちになりたい。ここにはあまり金持ちの人はいなさそうですが…(笑)。金持ちになりたいと思うことは、悪いことではありません。たくさん儲けて、たくさん神様のためにささげたらいいのです。ですから、皆さん金持ちになってください。
 ある人は、素晴らしい家に住みたい、またある人は、高級車に乗りたいと思っているかもしれません。子どもたちの中には、最新ゲームソフトが欲しいと思っている子もいるでしょう。
 行ったことのない国に行ってみたいという方もいらっしゃるでしょう。私は、今までにイスラエルには五、六回行きました。そのほか、韓国やアメリカ、カナダにも行ったことがあります。もう三十年ほど前になりますが、明先生ご夫妻とインドネシアのカリマンタンのジャングルにも行ったことがあります。今年は、台湾とベトナムにおいてリバイバルミッションが計画されています。皆さんにも是非行っていただいて、その場所で祈り、集会で恵まれ、観光もして旅を満喫していただきたいと思います。
 私は、台湾にもベトナムにも行ったことがありません。行ったことのない国に行こうとするとき、様々な資料を見て調べたり、人から聞いたりして準備をします。そして、こんなところだろうと想像したりしますが、想像と違うことが多々あります。

 さて、私たちクリスチャンにとって共通の目標の一つ、それは、天国に行くことだと思います。ここにいらっしゃるほとんどの方が、天国行きの切符を持っておられますね。天国とはどんなところでしょう。
 私は、五十歳を過ぎて、体のあちらこちらが痛くなったり、物忘れが激しくなってきました。家族から「お父さん、大丈夫?」と言われ、本当に年をとったなぁと思うと同時に、時々、あと何年生きられるのかな、などと考えます。私の母も生前、「早く天国に行きたい」とよく言っていて、その声が耳に残っています。母はもともと元気な人だったのですが、事故で足が不自由になり、ベッドで過ごすことが多くなってから、そのように言うようになりました。私は、今回のメッセージの準備をしているとき、母のその言葉を思い出し、「おっかさんは本当に天国がどんなところか知っていたのかな?」と、ふと考えました。皆さんがどのように天国のことをイメージされているかわかりませんが、聖書の中から、天国がどんなところなのかを見ていきたいと思います。

 天国に関する記事はたくさんありますが、まず、マタイによる福音書十三章を見てみましょう。ここでは、『天の御国は、畑に隠された宝のようなものだ』とあります。
 天国は、見たことのないような財宝のある場所、思いもつかないような豊かな生活ができる場所、というイメージが湧きます。人は幸せを感じるとき、「天国のようだ」と表現することがあります。私はそのような言葉を使ったことがないのですが、たとえば、主婦の方が高級ホテルに泊まり、食事の支度や片づけなどの家事一切から解放されて、ゆっくり過ごせたら、天国のような気分だと言われるかもしれません。
 人それぞれ、天国のイメージ、天国のような気分、というものは違うと思いますが、友人に「クリスチャンにとって天国とはどんなところなの?」と聞かれたら、皆さんはどう答えますか。「いいところです」と答えることはできると思いますが、「天国は、こうこうこういうところです。本当に素晴らしいところですから、あなたも一緒に行きましょう」と、すぐに説明することができるでしょうか。

 「天国」を辞書で調べてみると、「キリスト教における天国」と書かれたところがあり、そこにこのように書かれていました。
 「天国とは、神の愛と祝福からなる超自然的な幸福の場所。およびキリストが昇天した栄光の座を指す。旧約聖書では、天国では神の玉座が天使の軍勢に囲まれており、王として地上を見下ろして支配する場所。また、天国は、天と地と水の三つの空間における、神の支配領域および天使たちの住処でもある。メシアを王とし、終末に神によって建てられる王国と見なされるようになった。」これを読んで、「なるほど、上手に表現されているなぁ」と思いました。
 それでは、聖書には何と書かれているでしょう。
 ヨハネの黙示録二十一章と二十二章に、天国の様子が書かれています。黙示録は、聖書のいちばん最後に書かれていて、難解の書と呼ばれるほど理解しにくいところです。皆さんも、読んではいるけど、意味がわからないままでいるところが多いかと思いますが、それにはそれで、意味があるように思います。
 この二十一、二十二章を何度か読んで、気がついたことがありました。それは、ここには天国がどのようなところかが書かれているのですが、「天国にはないもの」についても書かれているということです。
 黙示録は、イエス様の弟子のひとりであるヨハネが記したものです。先程お話ししたように、行ったことのない場所をいくらイメージして表現しようとしてもなかなかできないように、ましてや天国という場所を言葉で説明することは、とても難しいことです。ヨハネは実際に天国に行ってそれを書き表しているわけですが、私たちの想像をはるかに超えたことです。
 しかし、私たちの生活の中にあるもので、天国にないものという表現をされるならば、理解しやすいのです。

 ヨハネは「天国にないもの」として、七つの事柄を挙げています。
 一つ目は、黙示録二十一章一節に『もはや海もない』と記されています。天国には海がないのです。
 海とはいったいどんなものでしょうか。海はこの地球の大部分を占めており、私たちの生活に重要な役割を果たしています。私たちは海によって、生きるために必要な魚や資源などの恵みを受けます。また、海は、太陽から得た熱を地球全体へと送り出し、海面からの水蒸気を大気へと送り水分を供給しているのです。ですから、海がなければ植物も育たなかいわけです。
 しかし、反対に、海は非常に恐ろしいものでもあります。昨年の東日本大震災大震災で、津波が起こりました。これが地震だけであれば、あれほどに大きな被害を与えなかったと思いますが、津波によって町々が一瞬にして押し流され、飲み込まれてしまいました。そのように、海は不安定なものの象徴でもあります。その海が、天国にはないというのです。

 二つ目に天国には「死がない」とあります。
 神様によって造られた初めの人間、アダムとエバには死がありませんでした。しかし、人間が罪を犯した結果、人類は死の恐怖の奴隷となり、絶えず死の恐れと不安にさいなまれるようになりました。しかし、イエス様が十字架に死に、人類の誰もが打ち破ることができなかった死を滅ぼし、三日目によみがえられたことによって、天国には「死がない」のです。

 天国にないものの三つ目から五つ目は、「悲しみ」「叫び」「苦しみ」だと書かれています。この三つとも、やはり、アダムとエバの罪の結果、人類に入ってきたものです。イエス様は、人の悲しみ、苦しみを理解されていました。あのゲッセマネの園では『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです』と祈られました。
 日本はまだ恵まれていますが、世界には今も飢えている人が大勢おり、戦争によって親を失った子どもたちが嘆き、悲しんでいる、そんな悲痛な叫びが聞こえてくるようです。イエス様は、そんな私たちのすべての悲しみを、叫びを、悲しみを背負って、十字架にかかって死んでくださいました。そして、そのすべてを滅ぼされたのです。

 六つ目に、黙示録二十二章三節に『もはや、のろわれるものは何もない。』と書いてあるように、「のろわれるものがない」のです。人類に「のろわれるもの」が入ってきたのは、やはり人間の罪の結果なのです。
 創世記三章十七節には『あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。』とあります。
 こののろいにより、女性には、生みの苦しみが増し、男性は、苦しんで食を得なければならなくなったのです。エデンの園では、土地が潤されていて耕すことなく、自由に食べることができていましたが、人が罪を犯したことによって土地がのろわれ、人は土地を耕し、種を蒔き、苦労して食を得なければならなくなりました。
 しかし、十字架の死により、のろいさえも身代わりに受けて滅ぼし、復活により回復してくださったので、天国ではもはや過去のものとされるのです。

 七つ目に、天国には「夜がない」のです。
 黙示録二十二章五節に『もはや夜はない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。』とあります。
 夜がないと聞いて、夜はゆっくり休みたいのに…とがっかりする人がいるかもしれません(笑)。この地上には、地球の自転により、朝・昼・夜があり、一日は二十四時間あります。昼は働いて夜は休むというサイクルがあるからこそ、私たちの健康が保たれているのです。夜がなくて休むことができなかったら、私たちはどうなってしまうでしょうか。
 しかし、天国には夜がないのです。それは、『都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。』(黙示録二十一章二十三節)からです。
 夜は、暗やみを象徴しています。神様が、やみを照らす光となってくださるので、天国で私たちは、光の中に住むことができるのです。

 さて、ここまで、天国にないものについてお話ししてきました。天国が素晴らしいところであるということが少しはおわかりいただけたかと思います。しかし、それだけではありません。
 私たちが生活する上で、どんなにお金があっても、どんなに健康であっても、愛する人と、愛する家族と離ればなれになってしまっているなら、本当の意味で幸せとは言えないのではないでしょうか。同じように、天国においていちばん素晴らしいことは、そこに、父なる神様と、私たちのために十字架にかかり死んで復活してくださった、子なるイエス様がおられることです。そして、そこで私たちの身代わりになって死んでくださるほど私たちを愛してくださっている神様と、一緒に住むことができる。それこそが、天国に行く最大の素晴らしさであり、最高の喜びだと思います。
 イエス様はご自分が十字架にかかる前に弟子たちを励まし、次のように言われました。
 『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』(ヨハネの福音書十四章一~三節)
 この地上において、私たちは心騒がせることがたくさんあります。しかし、イエス様は、神を信じ、またわたしを信じなさいと声をかけてくださるだけでなく、わたしはあなたがたのために住まいを備えているんですよと、私たちを励ましてくださっています。

 天国の素晴らしさは、言葉で表現することはなかなか難しいですが、パウロは天国を、「第三の天」(第二コリント十二章二節)と表現しています。パウロが大きな試練の中にあって落胆していたときに、神様は彼を第三の天まで引き上げ、パラダイスを見させてくださったのです。
 第二ペテロ三章十三節には『私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。』とあり、ペテロが天国を待ち望んでいたことが記されています。
 また、ピリピ人への手紙三章二十一節には、『けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。』と書かれています。素晴らしい約束です。
 ここには、日本の国籍の方がほとんどですが、他の国籍を持っておられる方もいらっしゃいます。しかしイエス様を信じた私たちは、天に国籍が与えられていると教えています。
 天国についてお話ししていますが、実際に見ていないので、本当のところはわかりません。しかし、この世には、一時的に死んで天国に行って戻ってくるという臨死体験をされた方がいらっしゃいます。その方たちの多くは、聖書に書かれているとおり、「透き通った川や金で作られた都があり、人と天使が一緒に楽しみ、喜びに溢れた生活を送っていたのを見た」と、証言しているのです。
 インターネットを見ていたとき、「天国へ行ってきた少年」というタイトルで、こんな記事が載っているのを見つけました。
 あるアメリカのテレビ番組に、コルトン君という一人の少年が出演して、天国に行ってきた体験を語りました。コルトン君は四歳の誕生日前に、虫垂炎の手術中に生死の境をさまよっていましたが、その後元気になりました。
 彼が退院して何ヶ月もたったてから、コルトン君は、「青紫の服を着たイエス様がいて、不安になると天使が僕のために歌ってくれた」と語り出しました。しかし最初は誰も信じませんでした。
 牧師である父親のトッドは、そのことを聞いて、初めは「はいはい」と聞き流していたそうです。しかし、コルトン君が「手術しているとき、ママは別の部屋で電話してたよね。パパは小さな部屋で僕のために祈りをしていたね。僕はイエス様の膝に乗って見てたよ」と言うのでびっくり仰天。「息子の手術中、どこで私が祈っていたかについては、医者も知らないし看護婦も妻も知らなかったのに、息子が知っていたので驚きですよ」と語りました。さらに「ママ、僕には姉妹がいたんだね。お腹で死んだ赤ちゃんがいたんでしょ。天国で元気にしてたよ」と言ったので、「なんでそんなこと知ってるの?」となり、この子が天国に行って帰ってきたことを信じたそうです。
 司会者がコルトン君に、「天国では年寄りは一人もいないんだって?」と聞くと「そうだね、いちばん年寄りでも二十代か三十代だった」。また、「たくさんの色があって、たくさんの人がいた。動物もたくさんいた」と語りました。
 そして、一人の男性が近づいてきて、「君はトッドの息子かい?」と聞くので、「そうだよ」と答えると、その男性は「僕はトッドのお父さんだよ」と名乗った、とコルトン君は、そのときのことを鮮明に語ったそうです。

 天国の生活は、この地上とまったく違うと考える人と、この地上の生活の延長線上にあると考える人がいると思います。私は、延長線上にあるのではないかと思っています。とは言え、やはり大きな違いがあります。天国は完ぺきな世界ですから。地上にあるような美しさや喜びをすべて満喫でき、悲しみやむなしさ、恐れから解放されたところ、この世界にはびこっている欲や破壊もないところです。
 皆さんは、「これがなかったら幸せなのになあ」と思うことがあるかもしれません。とすれば、皆さんが、なければいいと思っているものがなくなったとき、それが天国の状態と近いのかもしれません。天国にあるのは、愛、喜び、平安と互いへの思いやりです。そして、私たちのことを誰よりも愛してくださっている神様の愛によって、すべてが包まれているところなのです。神の住まいである天国は、愛に満ちていて、痛みも、悲しみも、孤独もなく、愛だけが存在するところなのです。

 天国を描いたものに、ハープを奏でている絵がありました。なんとも平和で、のどかな光景です。ある人にとっては、天国って退屈な場所だ、と思われるかもしれませんが…(笑)。天国には、ストレスや悩みや競争はなく、あくせくする必要もありませんから、無駄な時間を過ごすことがなく、かえって忙しくなるかもしれません。
 新城教会始まって六十数年の間に、すでに天国に凱旋していった方々が大勢いらっしゃいます。私は臨死体験をしたことがないので、天国での生活についてはっきりはわかりませんが、ひとつ確信していることは、先に天国に行った皆さんの家族、友人が、私たちのために、とりなし祈りってくれているということです。いつも正しい決断ができるように、幸せになるのを手助けしたいと願っていると思います。

 黙示録二十一章十六~十八節を見てみましょう。天国の様子が記されています。

 『都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。』

 ここに、スタディオンという単位が出てきますが、一万二千スタディオンを計算すると、二千四百キロとなります。それは、アメリカの半分くらいの広さです。そう考えると、今まで召された人が全員その広さの中に入るのは無理じゃないかと思ったのですが、ここに「高さも同じ」とあり、天国の高さ・長さ・幅がいずれも二千四百キロ巨大な黄金の都なのです。
 日本は狭い島国ですが、上を向いたら何もありません。二千四百キロもの空を仕切ったら、どれだけの層ができるでしょう。人は、地上を歩くことしかできませんが、天国は、私たちの理解を超えているところですから、空中のどこでも行き来することができるということでしょうか。ということで、その注解書には、二千四百キロの立方体の中には、何百億という人も入ることができると、書いてありました。
 また、都の通りには金が敷きつめられ、都の城壁の土台は十二種類の宝石でできていて、私たちはそこに大邸宅(これもどの程度かわかりませんが・・・)を持って、家族や愛する人と共に暮らすのです。住まいだけではなく、子どもたちが遊ぶ遊園地もあり、いつも賛美が溢れており、神様が崇められていることでしょう。
 また、私たちはキリストに似たものに変えられるとあります。今は体の調子が悪かったり、どんなに年をとっていても、先程のコルトン君の話の中にあったように、二十代、三十代に戻って、若々しくなり、疲れも知らず、元気な体に変えられるでしょう。休みたければ休めるし、食べたいときに食べられる。天国は、この地上の延長のようでありながら、地上とは比べられないほど楽しい、満たされた生活がおくれるに違いありません。
 これだけ説明したら、「天国っていいところだなぁ。早く行きたい」と思われた方がいらっしゃるかもしれませんが、この地上の生活はどうでもいい、ということではありません。
 かつてイスラエルの民は、エジプトを出て、約束の地であるカナンに向けて喜び勇んで進んでいきました。しかし、結果的には、ヨシュアとカレブ以外のエジプトから出てきた人たちは、誰も約束の地に入ることはできませんでした。主に対する信頼を持ち続けたなら、約束の地に入れたにもかかわらず、彼らは、いろいろな問題、誘惑といった目の前の困難に負けてしまったのです。自ら祝福を放棄してしまったのです。
 パウロは、テモテへの手紙で次のように語っています。

 『私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。』(第二テモテ四章七~八節)

 私たちのクリスチャン生活は、時に出エジプトしたイスラエル人にたとえられます。彼らは、目に見えるご利益だけを求めたことにより、問題が起きたり、病気になったり、食料がなくなったときに、神様に対する信頼を一瞬のうちに捨て去ってしまったのです。
 この時期、家の回りに様々な花が咲いているのを見ます。その花々も、突然咲くわけではありません。蒔かれた種が、土の中で養分と水を吸収して、まず根を出し、次に芽が出ます。根が十分に張ったときに芽は上に向かってぐんぐん成長して、多くのきれいな花を咲かせることができるのです。見えない土の中でしっかりと根を下ろすことができていなかったら、ちょっとした雨、風で倒れて枯れてしまいます。
 クリスチャン生活もそれと同じです。パウロには、何度も死線を越えた戦いがありましたが、主に対する信頼は揺るぎませんでした。死線を越えるほどの戦いを皆さんはまだされていないと思いますが、どんなときにも主に信頼して、主と共に歩んでいきたいと思います。
 ここにいるほとんどの方が、すでに天国行きのチケットを手にしています。持ち続けているなら、必ず天国に入ることができます。しかし、まれにその切符を手放してしまう人がいるのは残念なことです。
 私たちがこの地上に生きているということは、託された使命があるということです。使命がなくなったら、イエス様はあなたを天国に呼ぶでしょう。私たちは、日本の、そして世界のリバイバルを求め、祈っています。それは、イエス様の切なる願いでもあります。世の終わりが近い今、私たちがクリスチャンとしてここに生かされていることは大きな意味があり、イエス様は、あなたにリバイバルの働きの一端をになってほしいと願っておられるのです。そのことを行っていくとき、天において大きな報いがあると約束されています。

 『見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。』(黙示録二十二章十二節)

 私は、どれだけの報いを頂けるかなぁと考えてみたのですが、少しは献金したし、少しは奉仕したけれど、たくさんの恵みを頂いているから、今はまだプラスマイナス ゼロかな、と思います。
 今までのクリスチャン人生を振り返るとき、いろいろ大変なときもあったと思います。これからも、いつ何が起こるかわかりません。信仰を揺り動かすほどの大きな試練に遭うかもしれません。そのとき、しっかりとした土台の上に、いかにこの信仰を建て上げていけるかどうかが重要です。
 信仰は、目に見えませんから、その強さをグラフで表すことはできません。目に見えるところの豊かさや恵みも大事ですが、目に見えないもの(天国もそうですが)が、より大切です。
 第二コリント四章十八節には、『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』とあります。
 一人では、なかなか乗り越えられない問題があるかもしれませんが、皆さんには祈って支えてくれる信仰の友がいて、神の家族がいます。教会も、あなたをサポートします。私たちがかかわったからといって、すべての問題の解決ができるわけではありません。しかし、祈ることができます。私たちを愛してくださっている神様が、私たちに答えを与え、解決を与え、恵みを与えてくださいます。目に見えないけれど確かなもの、それが神の愛です。目には見えないけれど、神様はあなたを愛してくださっており、あなたのそばにいて、あなたを祝福しようとしておられます。
 有名な御言葉に『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』とあります。神様は、ありのままのあなたを愛してくださっています。私は良いことをしていないから、たくさん献金していないから、天国に入れないという人は誰もいません。「イエス様は私の主です、イエス様が私の身代わりとなって十字架にかかり死んでくださった」と信じる人は誰でも、天国に行くことができます。
 主のために働いていください。喜んで主に仕えていくならば、主が必ず大いなる恵み、祝福を注いでくださいます。

 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』(エレミヤ三十三章三節)

 天国は、私たちの理解を超えたところにあります。わからないことばかりですが、それでいいんです。でも私たちが信じている神様は、真実な方であり、私たちがわからなくても、私たちが知らなくても、私たちに祝福を与え恵みを与えることができる神様であることを忘れないでください。
 最後に黙示録二十二章二十、二十一節をお読みします。

『これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。』

 神は私たちを愛しておられ、天国で永遠にあなたと共に暮らすのを楽しみにしておられます。ですから私たちは、この地上で主に信頼して、イエス様の期待に応えられるよう、天国をめざして進んでまいりましょう。