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『神の力を認めよ』

2012.9.23 (SUN)
新城教会牧師 上條実
詩篇68篇34節~35節

『神の力を認めよ。みいつはイスラエルの上に、御力は雲の上にある。神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。』



 ハレルヤ!お祈り頂いております台湾リバイバルミッションは祝福されているそうです。参加人数は百五十人ほど集っているそうです。新城教会からも約三十名の方々が行かれていると思います。今日の午後は台湾リバイバルミッションの映像を送って頂いていますので、ぜひ祈りつつご覧下されば幸いです。台湾から写真が何枚か送られて来ておりますので、ご紹介しています。

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 今回会場となったのは台北市にある中山基督長老教会です。この近所には日本人が住んでいる場所らしいです。

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 初日はウエルカムパーティーから始まりました。日本の方々が六十名ほど参加し、費用はすべて中山基督長老教会が負担して下さいました。

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 ゲストのAsiahさんです。すばらしい賛美をしてくださっています。


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 中山基督長老教会の方々のハーモニカ演奏です。

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 これは昨日の土曜日の午後台湾国立博物館に行き、見学ととりなしの時が持たれました。

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これは多分博物館の中で賛美している所だと思います。

写真は以上ですが、続けてお祈りください。今日の集会は二時半からと七時からです。日本との時差は一時間ありますから、日本時間では、午後三時半からと八時から始まります。是非その時間になりましたらお祈りいただければと思います。

 今回の台湾リバイバルミッションを準備させて頂きましたが、その間私は心配でなりませんでした。当初なかなか日程と会場が決まらず、急遽、今年の七月二、三、四日と三日間、私は岡本先生と台湾に出かけました。一度はこの中山基督長老教会で開催して下さる予定でしたが、九月は難しいといわれて、準備が暗礁に乗り上げてしまいました。そんな中、私たちは、ただ中山基督長老教会の会堂を見せて頂こうと思い、約束もなく出かけて行き、会堂を見学させて頂きました。その時、教会の方に、「全日本リバイバルミッションの者です」とお伝えした所「今、牧師はいない」と言われました。しかし、その後、お忙しい中わざわざ林牧師先生が来て下さり、お話しをすることが出来ました。そして、もう一度説明させていただき最後には開催できるようになりました。
 ですから、七月からたった三ヶ月間の準備でしたので大変さを覚えました。
台湾リバイバルミッションはこちらの主催ですが、中山基督長老教会も「自分の教会が主催だ」という思いで協力して下さり、いろいろと助けられました。しかし、様々なトラブルもありました。私はすごく不安がありましたので、朝早く教会に来てお祈りさせて頂きました。そうしたら一つのみことばが与えられました。それはヨハネの福音書の五章二十五節です。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。』

 これはありえないことですが、『死人が神の子の声を聞く時が来ます』とあります。当たり前ですが、死人は聞くことができません。しかし、今回の台湾リバイバルミッションでは、死人が神の子の声を聞くような、大きな神のわざがあらわされると教えられました。
台湾はとても親日家だと言われますが、過去日本は、台湾に対して様々な悪事をしてきました。また、今中国でも台湾でも、尖閣諸島の問題が湧き上がりました。台北市でも今日はデモがあるとの報道があります。そんな日本と台湾の間で、まだ死んでいるような領域があります。特に両国の間で働いている暗闇の力によって、殺されているような状況にさせられています。しかし主が触れて下さり、その部分が生かされ、「死人が神の子の声を聞く時が来ます」という時が来るというみことばを頂きました。またもう一つのみことばを頂きました。それは有名なみことばで、ヘブル人への手紙十一章一節です。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

 このみことばが与えられて、「もう一度信じなければいけないな」と思わされました。リビングバイブルで読んでみると、

『信仰を、どう定義したらよいでしょう。 それは、願い事が必ずかなえられるという、不動の確信です。 また、何が起こるかわからない行く手にも、望みどおりのことが必ず待ち受けていると信じて、疑わないことです。』

 信じたら、何が起こるかわからない行く手にも、望みどおりのことが必ず待ち受けているとあります。何が起こるかわからない行く手にも、望みどおりのことを起こして下さる。ただ信じなくてはいけない、疑ってはいけないと教えられました。今までのリバイバルミッションは、多くの決起大会をして来ました。しかし今回は、なんと決起大会は一カ所もできませんでした。それがとても不安でした。また多くの問題がありましたが、あと三日となった先週の火曜日の事ですが、お願いしていた通訳の先生のお一人が、「できなくなった」と言われたのです。今回二人の通訳者を探すのに約一ヶ月間費やしました。しかし三日前に、一人の先生ができなくなり、どうしようかと心騒ぎました。そんな中『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものだ』というみことばを思い出し、祈りつつ新たな通訳者を探しました。なんと感謝なことに、ある日本の宣教師を思いだし、失礼とは思いましたが電話をさせて頂きました。すると、自分でも良いけど、もっと上手な先生がいるからと言われ、宣教師から、ある方の電話番号を頂き電話させて頂きました。そうしたら何と快く引き受けて下さいました。その先生が「来週の金土日でしたら日本に行く予定があり無理だったんです。しかし今週は大丈夫です。」と言って下さいました。なんと三時間後に、主は通訳者を備えて下さいました。
私は、初め台湾語があることすら知りませんでした。だから中国語の通訳者を二人用意していました。しかし台湾の長老教会は、中国語ではなく台湾語で礼拝をしているそうです。だから初めに通訳は中国語だと言いましたら、難色を示されてしまいました。しかし、今回お願いできた先生は、何と中国語も台湾語もでき、今回は台湾語で通訳して下さっています。「主の山に備えあり」というみことばがありますが、大変な問題が起きたと思いましたが、主が更に素晴らしい祝福を与えて下さいました。

 先ほど読んだ詩篇六十八篇の三十四節を読みたいと思います。

『神の力を認めよ。みいつはイスラエルの上に、御力は雲の上にある。』

 台湾リバイバルミッションでは様々な不安がありましたが、すべて祝福に変えて下さいました。「主の力を認めよ」、私たちの神はどんな神であるかをもう一度信じ直さなければいけないと思わされました。
私たちはイエス・キリストを救い主と信じて、救われました。何でもできる主。救い主、いやし主、助け主と先ほども賛美しましたが、全能なる主だと理解しています。しかし暗闇の力に、問題を見させられ、私たちは信仰がなくなり、小さな小さな神さまになってしまっています。他の方からあなたのかみさまはどんな神さまですか?と聞かれると、「はい、なんでもできる方です」と私たちは答えます。救い、いやし、問題解決、喜びを下さる方、永遠の命を与えて下さる方、祈りを聞いて下さる方、等言うことができます。しかし悪魔、悪霊にまんまとだまされ、問題に振り回されてしまいます。そして神さまはこんな方だと言いながら、問題に悩まされて、いざというときに神の力を認めることができないのです。神さまが小さくなり、いやイエス様が死んでしまうのです。サタンの策略です。悪魔、悪霊は、私たちが信じてしまったら、大変なことになることを一番知っています。だから私たちが問題を見るように、目の前に大変な出来事を見せてくるのです。しかし『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる』のです。信じることが力となります。詩篇十一編三十三節~三十四節には、リビングバイブルでお読みしますと、

『彼らはみな、神様を信じました。 その信仰によって、戦いに勝ち、国々を征服し、正義の政治を行ない、神様が約束されたものを受け取ることができました。 ライオンの穴に投げ込まれても危害を受けず、燃えさかる炉に投げ込まれても、やけど一つしませんでした。 ある人は、危うく刀で切り殺されるところを救われました。 ある人は病弱の身であったのに、健康な体に変えられました。 ある人は、戦いでめざましい力を与えられ、攻め寄せる敵の軍隊をことごとく退散させ、大勝利を収めました。』

 信じたら、今のみことばのように大勝利を下さる主です。 みなさんが今まで祈ってきた祈りは、無駄だったんですか?今回の台湾リバイバルミッションは、日本中で多くの方々が祈って下さっています。また皆さんもお祈りして下さいました。しかし通訳者がいなくなったり、多くの問題が出てくると悪魔は信じても駄目だぞと問題を見せてきます。しかし私たちはもう一度静まって『神の力を認めなさい』というみことばを信じて、神の力がどんなものであるかを信じ、認めなくてはいけません。エペソ人への手紙一章十九節、

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

とあります。『神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか』とあります。この神のすぐれた力とはいったいなんでしょう、新約聖書はギリシャ語で書かれています。この「すぐれた力」というのはギリシャ語では「デュナミス」と言います。これがダイナマイトという言葉の語源となりました。神の御力はダイナマイトのように強力です。神のすぐれた力はダイナマイトのような力だと信じましょう。もう一度エペソ人への手紙一章十九節を読んでみましょう、

『また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』

 「神の力」ダイナマイトです。しかし、その前に見てください。『私たち信じる者に働く』と書いてあります。今の現状がどうであろうとも、主は必ず私たちが信じた時に働き始めるのです。ですから神様が良くしてくださるということを、しっかり信じていかなくてはいけません。

 一つの映像を見ていただきたいと思います。小さな小さなダイナマイトでも、大きな何十階建ての建物を壊すことができます。私たちが自分で蹴ったり、ハンマーで叩いてもびくともしません。しかしダイナマイトを使うと一瞬のうちに倒れてしまう映像です。



 ダイナマイトを使ったら大きな建物でも壊すことができると言うことです。神のすぐれた力。それはデュナミスです。ダイナマイトです。私たちは悪魔が必死に「無理だ無理だ」と言ってきたとしても、ダイナマイトをもって簡単に、一瞬に崩すことができます。今、あなたが信仰を持ったら、私たちは何か特別な者じゃなくても、神が力を持っていて、あなたが信じたらどんな動かない問題も一瞬で解決して下さるのです。

今原子力が大きな問題となっていますが、原子力発電、火力発電、水力発電などで電気を起こし、電線を伝わって、ここにも、各家庭にも電気を通じさせています。今みなさん家を留守にしています。しかし、電源が入っていたら冷蔵庫で食材を冷やしています。あなたは電気の仕組みがどのようになっているかご存じですか?あなたの家のコンセントに、本当に電気が来ているだろうかなどと毎回心配して電気器具を使う前に、電気が今どうやって作られているか、送られてくるのか?我が家の電気は、どこの発電所からどの電線を伝わってくるのかなどを細かく調べて出なくては、電気は使わないなんていう人はいますか?誰もいません。なにも考えずに、コンセントに差し込みます。神の力は理屈ではありません。調べてみなくては分からないのでもありません。あなたが信じて、神のみことばによって問題も心配も病気も神のコンセントにつなげばいいのです。私たちのために、あなたのために十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえってくださった神。あなたを愛し、高価で尊いと言ってくださっている神、その神がデュナミス。ダイナマイトです。必ず答えて下さいます。単純に信じて神のコンセントにつなぐだけです。神の側ではすでに力を持っています。今度は私たちがコンセントにさせばいいだけです。そしたら電気はつながります。

 前にもお話をしたかもしれませんが、新幹線で東京に行こうと思う時に、新幹線の特急券と乗車券を買って出かけます。私たちクリスチャンは全員、グリーンのチケットをもっています。グリーンチケットそれが神の力です。しかしグリーン車には乗らずに、二百パーセントの乗車率である、自由席に問題という荷物を山積み背負って、駅員が押さなければ入れないような自由席に乗り込みます。私たちクリスチャンの状況はそんな状況だと思います。荷物も下ろすことができず、疲れ果てながら、意識もうろうとしつつ、フラフラになりながら目的地に向かっています。あなたがそのような人を見たら、なぜグリーン車の指定座席に座らないの?と教えるはずです。聖書は私たちに

「神の力を認めよ」
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」などなど、私たちに教えて下さっています。信仰とはグリーン車に乗って、荷物を下ろし、ゆっくりくつろぎながら、食事をしながら、景色を見ながら、楽しい語らいをしながら、あるときはゆっくり眠りながら旅を楽しむようなものです。
 私たちのクリスチャン生活のイメージはどんなですか?なんでこんなに、重たい荷物を持って生きなくては入れないのか、なんでこんなに苦しまなくては行けないのか?などつぶやきながら、祈っている方がいらっしゃいませんか?神は力はダイナマイトです。あなたが力を出して働くのではありません。すべて神の力によって祝福を頂けます。また神の山に備えありです。神の時が有ります。
 私たちは問題を「信じなさい」と言われても目の前の状況に惑わされ、ビクビクして、自分勝手に行って、自分の力で解決方法を求めてしまいます。しかし私たちの神は「神の力を認めよ」と言っています。

 イエス様が福音書の中で、様々な方法で癒やしを行っています。あるときは手を置いて癒やし、あるときはツバキで泥を作って目に塗っていやしたり、様々です。しかし、一ヶ所を見てみたいと思います。それはマタイの福音書八章五節~十節です。

『イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」』『イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』

 この百人隊長が求めた癒やしというのは、自分の癒やしではなくて、自分のしもべに対してです。自分の奴隷、しもべの中風が癒やされるようにと言っています。当時奴隷というのは物の数に入らない、人間としては扱われないようなものです。駄目だったら取り替えればいい。次の人に変えればいい。というようなしもべに対して、わざわざ百人隊長がイエス様に懇願しました。その百人隊長はイエス様に

「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」

と自分も権威があり、部下はそれに従う。だからイエス様の権威を表し、ことばだけ下さいと言っています。そして癒されました。ここで私たちが注目していかなければいけないのは、イエス様は、百人隊長はすごいと言ったかというと、そうではなく十節を見て下さい。

『イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』

 「百人隊長、こんなすばらしい人を見たことがありません」じゃなくて、『このような信仰を見たことがありません』と言っています。「信仰」が素晴らしいと言っています。

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』

信仰を持てば、その通りになります。イザヤ書五十五章十節~十一節、

『雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』

 必ず雨が降れば、必ず地を潤し、芽を出させる。必ずみことばはその通りなる。私たちはただ信じるだけ、ただ信じる時に必ず事を成就してくださるのです。そして有名なみことばで、ルカの福音書一章三十七節、

『神にとって不可能なことは一つもありません。』

 そして、第一コリント人への手紙一章十八節、

『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』

 十字架を信じた時、私たちに神の力を下さるのです。ダイナマイトのような力で、私たちを潤して下さいます。主に期待しましょう。今がどんな最悪な状況であったとしても、祈った祈りは必ず答えてくださる神。信じたらその通りになる。信じなさいと言っています。最後に、詩篇六十八篇三十五節にこういう御言葉があります。

『神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。』

 イエス様は聖なる所におられます。更に聖さを求めておられます。もう一度原点に帰り、罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じ、そしてイエス・キリストを神と信じて、必ず良くしてくださるということを信じていきましょう。もう時が遅いじゃないの、もう最悪の状況になっていると思っても、どんな状況下でも、主は「信じなさい」です。信じたら、「神の力を認めよ」あなたが認めたら祝福され、解決され、そして勝利します。しかし罪を持ったままなら、神の力が私たちに注がれて私たちは滅びてしまいます。罪を徹底的に悔い改めて信じて下さい。神を恐れましょう。人を恐れ、このことを悔い改め告白したら自分の立場がなくなってしまう、とか、恥ずかしいから、などの理由で悔い改めなかったら、罪に定められてしまいます。ですから、今日しっかり悔い改めて、今から聖餐をいただきたいと思います。
と第一コリント人への手紙十一章には、聖餐のことが書かれています。二十七節~三十一節をリビングバイブルで読んでみると

『ですから、もしふさわしくない態度でこのパンを食べ、主の杯を飲む人がいれば、彼は、主の体と血とに対して罪を犯すことになります。ですから、聖餐に臨む前に、めいめいが注意深く、自分を反省しなければなりません。もしキリスト様の体を気にもかけず、その意味を考えもせずに、ふさわしくないままでパンを食べ、杯を飲むなら、神様のさばきを招くはめになります。キリスト様の死をもてあそんだわけですから。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、また死者も出たのは、そのためです。しかし、食べる前に、注意深く自分を反省するなら、さばきや懲らしめを受けることはありません。』

 今日、罪を隠し持ったままでいたら、大変なことになります。私たちは「永遠をどこで過ごすか」ということを軽く考えずに、信仰を持ってイエスを神と信じて生活しましょう。神の前にへりくだって、自分の罪を言い表したらその罪を赦してくださる。これが神の約束です。告白したら主は必ずその罪を赦してくださいます。
 「神の力を認めなさい。」これが今日のみことばです。「あなたが何かしなさい。このよう動きなさい。断食しなさい。献金しなさい。祈りなさい。」そんなことは一切言っていません。ただ「神を認めなさい。」「神の力を認めなさい。」これが聖書のみことばです。 最後に私の大好きなみことば、Ⅰコリント人への手紙二章九節

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

信じたら、目が見たことのない、耳が聞いたことのない、また心で思い浮かんだことのないものを主が備えてくださっていると書いてあります。もう「あなた」という一人のために主は備えてくださっています。次はあなたが信じることです。今も生きて働いている神です。神の力を認めていきましょう。最後にお祈りして、聖餐の時をもちましょう。

<祈り>
 愛する天のお父様。神の力を今認めます。私はあなたを信じた時、永遠のいのちが与えられたことを信じます。今生きて働くあなたに求めます。私たちには様々な問題があります。病があります。自分の力ではどうすることもできません。あなたの力を私に、教会に、日本に表して下さい。暗闇の力が介入することがなく、勝利の中あなたの力を体験できますように。今日あなたを信じる信仰を、この聖餐を通して与えて下さい。主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。