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『神のことばによって生きよう!』

2012.10.21 (SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
マタイの福音書4章1節〜4節

『さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」』



 ハレルヤ!おはようございます。今日は素晴らしい秋晴れの元、心から主を礼拝できますことを感謝しています。
 秋になりまして、「食欲の秋」ということで、みなさんも食欲が進んでおられると思います。また、秋は運動の秋、来週は新城教会恒例の運動会もありますから、体力をつけておいてください。急に走ったりしますと、ケガの元ですから今週はストレッチをしたり、ウォーキングをしたりして、備えていただきたいと思います。

 秋は食べ物もおいしい季節です。だから私は秋が大好きです。特に寿司が好きです。ちょっと寿司の写真を持って参りました。

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 嫌な色の寿司が並んでいますね。外国人の方が寿司屋に行き会計をしようと、「ハウ・マッチ?」と聞いたら「ハマチ」が出て来たそうです。これは言葉が通じていないと、今度は日本語で「いくら?」と聞いたら、「イクラ」が出て来たそうです。なかなか日本語は難しいです。

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 「ソーセージマルメターノ」という商品名。なかなかうまく付けたと思います。ただソーセージを丸めただけです。

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 北海道のじゃがいもなんかもおいしい季節です。ちょっとやばそうなジャガイモが一つ混じっていますから気をつけてください。

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 いちご寿司はあまりおいしそうではありません。おもしろ写真を子どもたちにいつも要求されますから、私は必死に探すのですが、こんなのもありました。

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 おまえのことじゃないかと、言われそうです。また、こんなのはどうでしょうか。

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 居眠りめがねと言うそうです。

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 運動会にこんなスニーカーはいかがでしょうか。人食いスニーカーみたいです。

 写真はここまでにして、今日は「神のことばによって生きる」という題名でお話しします。おもしろ写真で生きるのではなく、今週も神のことばによって生きていきたいです。
 前回、ここで語らせていただいた時、「主の祈り」を学びました。先ほども共に祈りましたが、そこで「我らの日用の糧を今日もお与えください」と祈りました。この祈りは、ただ単に「パンをください」という祈りではなく、「糧」とは、いのちのパンである「神のことば」を表しているとお話ししました。
 イエス様は『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と語られたのですが、これは旧約聖書、申命記からの引用です。この言葉によって、悪魔に打ち勝ったのです。

 人生は霊的な戦いだと聖書は教えています。もしも霊的な世界が見える眼鏡をドラえもんから借りて来たら、周囲は悪霊だらけでびっくりすることでしょう。見えたら生活できなくなってしまうかもしれません。私たちは暗闇の世界のまっただ中に、身を置いているのです。しかし悪魔に打ち勝つことが、人生勝利の秘訣です。
 教会に来ると神様のことも分かりますし、同時に、敵がいることもわります。しかし一般の人たちは、それがわからないのです。
 教会に来て、神様のことだけ知るのでは、不十分です。神様のことを知ったならば、どうやってこの地で生き抜いて行くのか、その秘訣を知らなければなりません。それは敵について、知らなければいけないのです。

 イエス様は神でしたけれど、この地上には「完全な人」として来てくださいました。ゆえに神の子であるのにも関わらず、悪魔の試みを受けられたのです。
 それは私たちの人生そのものを表しています。イエス様がどのようにして悪魔に打ち勝たれたのかが、福音書に記されています。イエス様が悪魔に打ち勝った方法を私たちも身につけるなら、日々の生活でも悪魔に打ち勝ち、雄々しく生きることができるはずです。
 ここでイエス様は『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』という、聖書のことばによって悪魔に打ち勝ったのです。

 これはどういう意味でしょうか。聖書の理解は、前後関係が重要です。どういうシチュエーションでイエス様がこのことばを語られたのかと言いますと、四章二節に、『四十日四十夜断食したあとで、悪魔が近づいて来た』とあります。

 断食ってしたことありますか?断食とは、毎日三食食べるでしょ?「いや、私は四食です」という方もおられるかと思いますが、食べないで、神様に祈るという戦術です。
 神様に祈りを聞いて欲しい時は、断食して祈ることは、神から与えられた戦術ですから試して下さい、とは言いながら私は断食に弱いです。人間は様々な欲望があって生きています。
 欲望は決して、悪い物ではなく、人間の生きる底力でもあります。しかし、欲望をコントロールできなくなると、それらは悪になります。
 人間には様々な欲望があるのですが、それをどのようにコントロールしたらよいかの秘訣が、聖書には記されています。欲望をコントロールできたら、神から本来与えられている潜在的能力を、百パーセント引き出すことが出来ます。しかしコントロールできないと、人生は破滅します。
 人にはいろんな欲望がありますけれど、どの欲望が一番強いのかと突き詰めていけば、やはり「食欲」です。

 みなさんもどうでしょうか?何がなくても、食べ物さえあれば私たちは生きることができます。やはり食欲が欲望の原点です。と言うことは、食欲をコントロールし、打ち勝つのは、人生最大のテーマかもしれません。
 考えてみれば、皆様もそうではないでしょうか?私もそうです。もっと痩せなきゃいけない、といつも思っているのですが、なかなか難しいですよね。「夜九時以降は食べてはいけない」と言うのです。「九時以降食べると、それはすべてあなたの身になる」と言うのです。しかし私は「もう十時だ。でも一時間時差のある国に住んでいると思えばいい・・・」とか言い訳して、食べてしまいます。
 いつも月曜日の夜は愛知県民の森祈祷会です。みんなで祈って帰って来ると、夜中の十二時になります。たいへんおなかが空きます。「こんな時間に食べたら、絶対にだめだ」と思いますが、寝るのは一時くらいになりますから、「これを朝ご飯としよう!」と言って食べてしまいます。食欲には勝てないですよね。食欲って、やはり最大の欲望です。

 イエス様が『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と語られたのは、どういう状況下で語られたのかというと、四十日四十夜、断食をした後だというのです。
 四十日四十夜断食したら、最優先はなんでしょうか?何を捨て置いても「飯食いたい!」という事ではないでしょうか?
 私も今までの人生で、断食して祈ったことが何回かあります。しかし、最大三日です。うちの父親は十日間くらい断食して祈ったりしますが、私はたった三日です。
 しかし三日やって見て、「もう二度とやるものか」と思いました。二日目くらいから祈りの中に現れるのは、イエス様の御顔では無く、カツ丼、天丼、焼き肉、うどんとか食べ物ばかりでした。たまらない感じでした。祈ると食べ物メニューのオンパレードという感じでした。
 三日間、心を決めて断食し、リバイバルのために祈ろうとしましたが、断食が終わった途端、焼き肉屋に飛んで行きました。それで食べ過ぎてお腹を壊しました。
 普通どうでしょうか?四十日四十夜も断食したら、一番の関心事は、「何か食べたい!」ということではないでしょうか。

 しかし、イエス様はすごいですね。この時に語られたのが「人はパンだけで生きるのではない」と、語られたからです。イエス様は石だってパンに変える能力があるわけです。一番食欲が高まって「その能力を使いたい!」という時に、イエス様は、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」と語られ、食欲に打ち勝ち、このことばで悪魔に打ち勝たれたのです。
 自分が最も欲している物の上に、神のことばによって生きるのだ!と宣言することが、結局、悪魔に打ち勝つ秘訣だということです。

 さて、みなさん、今日はどうでしょうか?今一番、何を願っていますか?「私は昼ご飯を食べたい!」という人もいるでしょうし、様々な望み、祈りの課題があると思います。しかしそれを越えて、最優先にしなければならないのは、神の口から出る一つ一つのことばによって生かされている、という宣言です。「神をどんな時にも最優先にしなさい。それが悪魔に打ち勝つ秘訣ですよ」とイエス様は身をもって、教えられたのです。

 毎週日曜日に集まって、神のことばを受け取り、一週間生きていくわけですが、今週、どんな自分の願望があったとしても、それ以上に、神のことばによって生かされていることを宣言し、意識して生きていくことが重要です。
 イエス様は四十日も断食した後で、このことを語られたということは、ちょっとやそっとのことではなく、究極的な状況の中で神を選択されたのです。悪魔の誘惑を拒否し「神を第一にした」ということで、悪魔に打ち勝ったのです。ここから霊的戦いの戦術を教えてくださっています。

 実は『人はパンだけで生きるのではなく』という言葉は、旧約聖書からの引用です。申命記八章一節〜三節に引用元が記されています。旧約聖書と新約聖書、両方を読みながら御言葉を理解する事が大切です。

『私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。』

 これはモーセが語った言葉ですが、実はイスラエルの人たちはエジプトから脱出したのですが、荒野で四十年間さまよったと書かれています。
 イエス様は四十日、荒野で断食され、悪魔から誘惑されたとありますが、この四十という数字を踏襲しています。
 なぜイスラエルは四十年間苦しめられたのかというと、様々な困難な中で、彼らは最終的に神を第一にする訓練をされたというのです。
 『それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。』と述べられています。
 パンも水もない極限の地で、なんと神が与えるパン、「マナ」が降って来て、彼らは生きることができました。また神が水を与えてくださいました。何もない焼けつく荒野で、「頼ることができるのはただ、主だけだ!」ということを、イスラエルに知らせるためには、四十年も時間を要したというのです。
 彼らが最終的に悟らなければならなかった事は、「人はパンだけで生きるのではない。神様の口から出ることばによって生きる」という事であり、「神が生かしてくださっている」という事を悟らせる為に、苦しみがあったというのです。

 私たちも、時々、人生の中、焼けつく砂漠の真ん中に放り出されるような時があります。そのような体験をされたか、あるいは、「そのまっただ中」という方もいるかもしれません。
 そこでどんなメッセージが語られているのかというと、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つのことばによる。」いう神からのメッセージです。神を人生の中心としなさい。すなわち、イエス・キリストを中心としなさいということを主は語っておられるのです。
 様々なことがある中で、人生の優先順位が変わっていくわけです。自分や誰かに頼ることができる時はいいですけれど、段々その道が塞がれ、「これはやばいぞ。もう頼るものがない。」
 しかし最終的に、天地宇宙を造られたただひとりの神、イエス・キリストにたどり着くのです。それが荒野の目的です。
 私たちの人生の中心を、天地宇宙を造られた神、イエス・キリストにおくならば、焼け付く荒野でも生き抜くことができます。そこで新しい道が開かれていきます。

 イエス様が四十日四十夜、断食された後、一番人間的に苦しかったのは、やはりお腹が減ったことだと思います。私たちも様々な最優先課題があるとは思いますが、最優先課題の上に、「主を求める」、イエス・キリストを置くことを決断し、宣言して一週間を始めたいと願っています。

 今も「食べる」ことが人間最大の欲望だと語りましたが、聖書を見ると、人類の戦いはサタンの食べる誘惑から始まっています。その主張は初めから一貫しています。
 『初めに神が天と地を想像した』と創世記一章に書かれていますけれど、その後、人間が創造され、神は人をエデンの園に住まわせたのですが、その時に人間の食糧として、様々なフルーツを用意して下さいました。そんな園の中で、目立つ二本の木があったことがわかります。創世記二章九節、

『神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。』

 一つは園の中央にある「いのちの木」、そしてもう一つが「善悪の知識の木」でした。そして、創世記二章十五節〜十七節。

『神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」』

 神様は一つだけ、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」と言われました。しかし「他は何んでも食べてもいい」と。
 特に、園の真ん中には「いのちの木」があったみたいです。すごいですね。いのちの木というのは、それさえ食べていれば永遠に生きることができる木の実だったようです。
 今でもそんな木があったら嬉しいです。ちょっと鏡を見て「ふけてしまったな。そうだ!いのちの木の実を食べよう」と、スーパーマーケットのいのちの木の実コーナーに行って買って食べたら、一瞬にして若返るのです。今でもそんな実があったら本当にいいな、と思います。
 どのスーパーに行っても「いのちの木の実のコーナー」があり、注意書きがある事でしょう。「食べ方には、くれぐれもご注意ください。特に、食べ過ぎにご注意ください。食べ過ぎると赤ちゃんになります」というような、「年齢に応じてどれだけの分量を食べてください」というような、マニュアルが書店には多く出ていて、それさえ食べれば毛が抜けても生えますし、肌だってすべすべになります。死にそうな人も生き返ってしまうのです。そんな木の実があったら、私は絶対に買いに行きたいと思っています。

 でも、もう一つ神様から、厳重注意を受けたのは、善悪の知識の木の実は「それは食べてはいけない」と言われたのです。食べたら死ぬと言われました。
 そのようなことは私たちの人生の中にもあります。「これは取って食べてはいけませんよ」と。
 私の小さい頃、小学生の時によく言われました。道ばたにヘビイチゴというのがあって、「それは食べるな。食べると蛇になる」と言われていました。でもたいへんうまそうでした。私は昭和二十六年生まれですから、本物のいちごなんて食べる機会はあまりありませんでした。しかし道ばたには、ヘビイチゴがあるのです。でもみんなが言うのです。「ヘビイチゴは食うな。食ったら蛇になるぞ」と。
 本当かなと思って、私は友達に食べさせてみました。しかし別に、友達は蛇にはなりませんでした。これなら大丈夫かなと思いましたが、自分では食べる勇気はありませんでした。悪いですね。
 生活のただ中には「食べちゃだめだぞ」というような物があるわけです。だから神様がこういう物を造ったって、いいと思うわけです。しかし人間って「やっちゃだめだぞ」と言われると、やりたくなるのが常です。

 そんな時に「食べてみろ」と誘惑した存在がありました。それが創世記三章に書かれています。創世記三章一節〜四節、

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。』

 この実を食べたら「あなたがたは必ず死ぬ」と神は言われたのですが、悪魔が来て「食べても大丈夫だよ。あなたがたは決して死にません」と、真反対のことを言いました。
 すでにアダムとエバが善悪の知識の木を見て、魅了されていた心情も聖書は記しています。『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と、神様が始めに言われたことばとは、結構ニュアンスが異なっています。目で見ていろいろ誘惑を受けたのでしょう。
 彼らは「食べたいな」という気持ちはあったかもしれないけれど、手は出していませんでした。
 しかし、手を出した極めつけは、誰が原因していたかというと「蛇」でした。蛇が誘惑し、手を出しました。
 私たちはよく知らなければいけません。クリスチャン生活にも時々罪の誘惑がありますけれど、最終的に罪に手を出させられる背後に、蛇、すなわち、悪魔・悪霊どもの存在があるのです。
 イエス様も四十日四十夜断食した時、蛇であるサタンが誘惑しました。これも創世記の一章の創造ストーリーと韻を踏んでいます。聖書というのは旧約聖書と新約聖書が一体となっている姿を見ることができます。
 今日は午後からサンデースクールがありますから、聖書を詳しく語ってくれる山崎先生がうちの教会にはおられますから、是非とも、みなさん講義を受けないと損ですから受けて下さい。旧約と新約を立体的に読めるようになると、結構、聖書を読むのが楽しくなります。

 悪魔の誘惑で、アダムとエバは善悪を知る知識の木から、実を取って食べてしまったというのが、人類が不幸になった原因です。悪魔は神様の言う事と「真反対」の事を言うのです。
 私たちは神様のことばを知り、見分けていくことが重要です。私たちは情報の時代に生きています。多くの情報が入って来ますけれど、悪魔の語る真反対のことを見分け、それに打ち勝っていくのです。そのためには、神のことばが必要です。
 現代社会ほど、神のことばが必要な時代はないのかもしれません。私たちは情報の洪水の中に生きていますが、神様から来た情報なら受け取り、そうでない情報をはね除ける必要があるからです。神の口から出る一つ一つのことばによらなければ、一瞬たりとも生きていけない時代に、私たちは生きているわけです。

 しかし一方では、神様がなぜ「善悪の知識の実を取って食べるな」と言われたのかと不思議に思います。
 今、世界のいろんな問題を突き詰めていけば、やはり善悪の基準がないからです。もう少し善悪の基準をしっかり持って欲しいものだと思います。
 今、教育の現場も荒れています。もしも善悪の知識の木の実が今でもあったら、給食にこの実をデザートに付けておけばいいと思います。子どもたちが善悪を知る知識の木の実を食べれば、何がいい、何が悪いかが分かりますから。
 しかし神様は「それを取って食べたら死ぬ」と言うのです。どういうことなのだろうかと思います。

 実は二年前にも、このことをお話しさせていただいたのですが、善悪の基準を持っておられるのは、人ではなくて神のみです。善・悪というのは右から左まで、「全幅」という意味もあります。
 善悪の知識というのは、「人が神のようになれる」という誘惑であったのです。人が「神のようになれますよ」という誘惑を悪魔から受けた時、そこに心を寄せてしまったのです。それが不幸の原因となったのです。
 その結果、人は自分の基準で善悪を決めるようになりました。善・悪の絶対基準が現代社会にはありません。何が善であるのか、悪であるのか分からない時代に、私たちは生きています。
 この間、こんな二冊の本を見つけました。

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 「サラリーマンなんかすぐ止めなさい」という本と、「一番いいのはサラリーマン」という本です。さてどっちが正しく間違っているのかわかりません。選択が難しい時代です。

 善悪の基準に絶対的な基準がないので、多くの争いがあります。夫婦の間ではどうでしょうか?ご主人はご主人の善悪の物差しを持っていますし、奥さんは奥さんで善悪の物差しを持っています。お互いのメジャーで計り合うわけです。ご主人の善というメジャーで奥さんを計ると、奥さんは悪になります。また奥さんの持っている善というメジャーでご主人を測ると「極悪」となるわけです。難しいところです。
 様々なメジャーを持っています。国と国の間でもそうです。日本と韓国、日本と中国、ロシア、それぞれのメジャーがあります。善と悪の基準により、領土問題も完全に分かれるわけです。
 やはり善悪の知識の木の実を食べたゆえに、人間は各自それぞれが善悪の基準となってしまいました。それによって死に至っています。
 善悪の絶対基準をお持ちの方は、天地宇宙を造られた神だけです。私たちが神ご自身を中心としたら、問題も解決するということです。
 もしも、もめているご夫婦がおられたら、奥さんとご主人が持っている善悪の基準を捨てて、神を第一にし、イエス・キリストを信じて、善悪の基準を神のことばとするならば、共通の物差しが与えられますから、うまくいくのです。
 教会は一般社会と比べたら、夫婦間もうまくいっていると思います。それは同じ価値基準を持つからです。教会に来るのは、奥さんだけ来るとか、ご主人だけ来るのではなく、全員が来ることが重要です。同じ物差しを神様から貰えるからです。

 人類が善悪の知識の木から実を取って食べたゆえに、死への道を歩み出したのです。善悪の知識の木とは、訳し直せば「知恵の木」です。
 人類が今まで求めてきた物は、創世以来、神を求めるよりも、知恵を求める、知識を求める、ということでした。そしてこの時代は、最先端を走っているのです。
 この頃は、人類が五千年かけて蓄えた知識を、一年で更新してしまうと言われます。一年あれば、今までの五千年くらいの知識量を更新してしまうような、知恵と知識があふれている時代に、私たちは生きているのです。
 しかし、知恵、知識を第一に求めるとどこに行き着くかというと、「死に至ります」と神は語られたのです。しかし悪魔は「いや、死にません」とウソを言いました。
 この善悪の知識の木から実を取って食べた後、神様は何をされたかというと、それが創世記三章二十二節〜二十四節に書かれています。

『神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。』

 善悪の知識の木から実を取って食べたために、いのちの木への道を塞がれてしまったというのです。先ほども言いましたように、いのちの木の実を食べることができるなら、人類は永遠に生きるように造られていたのに、なんと、死ぬようになってしまったわけです。
 この頃は寿命が延びて、日本は特に長寿の国です。八十年、九十年と、生きることができる時代となりました。でもやがて死ぬ日が来るわけです。
 しかし人類、死ぬことがなかったら、大変なことになると思います。なぜならば、みんなが善悪の尺度を持っているからです。国々は、権力者が絶対的な尺度を持って国を治めるわけです。
 日本も、今から七十年前、本当に大変な時代でした。当時の善は、今から考えたら邪悪なことです。太平洋戦争で日本人は三百万人死にました。その時のイデオロギーを善とされ続けたら、今頃どうなっているかと思います。
 もしも人が死なないでずっと生き続き、いにしえの支配者たちが生き続けていたら大変なことです。死ぬ事により、それまでの善悪の物差しが折れて、リセットされるので何とかなっています。しかし世の中は常に、混乱のただ中にあるわけです。
 罪故にいのちの木への道が塞がれてしまったのです。人が神を求めるのではなく、知識や知恵を第一に求め、神から離れる時、いのちの木への道は塞がれ、死への道へと進んでしまったのです。

 しかし、そんなただ中で神が語られるのは、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きる。』と言われます。そのことをもう一度認識しなさい、というのです。
 知恵と知識が溢れる時代にあって、もう一度神のことばを意識しなければならないと思うのです。

 現代社会は、知恵と知識の最先端です。実はこの頃、日本で大きな話題となっているニュースがあります。それは夢のような話です。それは何かというと、京都大学の山中教授がノーベル賞をもらうからです。なぜもらうのかというと、iPS細胞というのを作り出したからです。それで大きな話題となっています。
 みなさん、iPS細胞って何か知っていますか?私もあまり知りませんが、少し調べて来ましたが、こういう物らしいです。

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 iPS細胞とは「人工多能性幹細胞」と呼びます。英語で言うとこういう風になるそうです。読める人は読んでください。iはiPadとかiPhoneのiの文字をまねたそうです。
 何かというと、人間はもともと、一つの細胞からすべての臓器が出来るというのです。心臓でも、腸でも、胃でも、脳でも、初めは一つの幹細胞からできるというのです。
 でも、一回幹細胞が心臓になったら、元には戻りません。臓器に変わってしまったわけですから、元には戻れないわけです。時間は経過したら、元に戻ることはできないのと同じです。
 しかしこの山中教授が作った細胞は、「細胞の初期化」といって、たとえば心臓になってしまった幹細胞を元に戻す技術なのです。ということは、元に戻せば、何でも作れるというのです。すごいじゃないですか。
 「iPS細胞を分かり易く説明してください」と山中教授に頼んだら、人間をサイボーグに例えるなら、サイボーグはいろんな部品でできているわけですが、一つの部品が壊れたら、部品を取り替えるなら、元通りのサイボーグが動くというのです。人間はたくさんの部品でできているわけですが、「心臓が悪くなりましたね。取り替えましょう」「あっ、肌がちょっと古くなりましたね。すべすべの新しい肌に取り替えますね。」「あっ、目がちょっとかすんできましたね。新しい目と交換しますね」と、そういう具合に、交換できる時代が来るというのです。はっきりいってそれは医学の革命であり、人類にとって大きな福音です。
 iPS細胞の再生医療は、皮膚から神経細胞にも幹細胞にも心筋細胞にも、なんでもできちゃうというのです。失った器官を取り戻すことができるというのです。
 私も取り替えて欲しいところが、いっぱいあります。iPSが実用化して欲しい、この領域の知恵と知識がさらに発展して欲しい、と願っている一人です。

 この間もiPS細胞の研究者たちの座談会を聞いたのですが、近い将来に実現するそうです。その研究はすごいスピードで進んでいるそうです。臓器を新しくする技術が確立されたら、人の寿命も伸びるというのです。今まで最大百年生きていたのが、百五十年くらい生きる時代が来るというのです。すごいですね。
 私は今六十一歳ですが、まだ人生半ばどころか三分の一です。みなさんどうでしょうか。八十の方、まだ半分くらいです。まだまだこれからだという感じです。
 しかし、実用化されると、いろいろと社会制度も変えなければいけないというのです。今、定年は六十とか六十五です。しかしiPS技術が確立したら65才はまだ青年です。ぴんぴんしていますから、社会制度を変えなくてはいけないのです。年金が六十、六十五といっても、そんなに早くから年金を出したら、みんな遊んで国は破綻します。すべての社会制度が変わるというのです。
 一つの技術が確立した時点で、社会制度からモラルまで始めは論議があっても、自動的に変わってくというのです。善悪の基準も、変わっていくというのです。

 私たちはめまぐるしく変わる、先端技術のただ中に生きているわけですけれど、そんな中で、神様からの知恵をいただいて、先にとりなし祈っておかなければならないテーマがあります。
 私たちは神の知恵によって、技術革新のただ中で、見分け、良い物は受け取っても、決して、悪しき蛇の力が働くことがないように、あらかじめ祈っておかなければならないのです。

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 実はここに2匹のねずみがいますけれど、このねずみは、人工的に作り出されたねずみだというのです。iPS細胞は、人の体の臓器を治してしまう明るい技術ですが、一方では、いのちの木への小道に入り込む領域もあるのです。
 山中教授がインタビューの中で「私がこれからやろうとすることは、神の領域に入ることだ」と言いました。
 いのちの木への道は塞がれているのです。そこに「剣がある」と書かれています。このような技術革新の時代、一方では明るいニュースですが、一方では人類が自ら神が剣を置かれた、いのちの木に至る小道に迷い込んでいるわけです。そこにあるのは剣のみです。
 このねずみは、どうやって作られたのかというと、なんとiPS細胞から、精子と卵子を人工的に作って、それを人工的に受精させ、生まれたというのです。いのちの元となる卵子と精子を作り出し、新しいいのちが誕生したというのです。そして人工的に誕生したねずみたちを使い、新しいねずみが産まれたというのです。そして、この原則は人に対しても同じだというのです。
 これから子どもを産むのに、父・母はいらない時代が来るかもしれません。そこらに落ちている髪の毛一本拾ってくれば、そこからiPS細胞を作り、精子と卵子に変化させ、試験管の中で受精させたら子どもが産まれるというのです。
 髪の毛一本落とせない時代になりました。落とす髪の毛がない者は幸いです。ここにある一本の髪の毛、こっちに落ちていた一本の髪の毛、それで命の源を作られたらどうでしょうか?
 「ちょっとすいません。この子はあなたの子どもですけれど。」「えっ?冗談じゃありませんよ。私は結婚していませんよ。」「いや、あなたの遺伝子を調べてみてくださいよ。この子は確実にあなたと、あの人の間の子どもですよ」となるわけです。
 また、子どもが産まれるのに、男性と女性はいらないのです。男の皮膚から精子と卵子の両方作れるし、女性の皮膚からも両方作れ、新しい命を誕生させることが出来るというのです。
 私はその座談会を聞いていて、これはちゃんとあらかじめ祈っておかなければいけない領域だと思いました。いのちの木への小道に、善悪を知る知識の木の実の力で、人類が侵入したという印象を受けました。これは終末の時代ではないかと思います。
 このまま人類が突き進んでいけば、一方ではすばらしいこともあるかもしれないけれど、一方では、今まで見たことも、聞いたことも、思ったこともないような、悪しき剣が、人類に入ってくる可能性もあるのです。

 いのちの木への道は塞がれてしまったのですが、一つだけそのゲートを開く方法があります。それがイエス・キリストです。ヨハネ十四章六節、

『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』

 いのちの木に至る道に、人が安全に入るには、イエス・キリスト道だけです。そこから入れば、だれでも入ることができるけれど、科学技術や知識によって開かれた道から入っていけば、そこで待っているのは「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」のみです。
 このような現代の状況は、ある意味、人類の最終章なのかもしれません。世の終わりが近いとイエス様も言われましたが、まさに人類は世の終わりに差し掛かっているのではないでしょうか。
 なぜなら、絶対に開けてはならないような扉を、人類が開けようとしているからです。

 日本では今、iPS細胞によって人の精子と卵子を作ることは、不妊治療のために許可されています。しかし、法律で、受精させる事は禁じられています。
 でも、みなさんどうでしょうか。人というのは、アダムとエバの例からも分かるように、「取って食べちゃだめだよ。やっちゃだめだよ」と言われれば言われるほど、やりたくなるものです。悪魔の誘惑によって、絶対、誰かがやるはずです。
 独裁者にこの技術が渡ったり、テロリストに渡ったら、将来、何をされるかわかりません。

 このような時にこそ、最先端技術の上に「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」という御言葉を宣言しなければなりません。また、その役割が、私たちクリスチャンにあるのです。
 私たちが神からの情報をいただいて、あらかじめ宣言をしておくならば、主が守ってくださるに違いないと思います。どんなに科学技術が発展したとしても、その上に神のことばを置かない限り、人は幸せになることはできないのです。

 様々な事柄の最優先として、神ご自身を置くことが重要です。先週もニュースに接しながら祈らされました。また人類に誘惑をしかけてくる敵の存在についてよく知って、打ち勝つためには、「人はパンだけで生きるのではなく神の口から出る一つ一つのことばによる」という、神のことばをしっかりと受け取る必要があることがわかります。
 最優先のさらにその上に、イエス・キリストを置いて、いのちの源は神ご自身にある事を宣言し、主の前に出て行きたいと願っています。その時、主が御業を現してくださると信じます。

 どんなに不可能に見えることがあっても、神にはできないことはありません。この信仰を私たちはしっかり持つべきです。今日みなさんの中で「もう私は八方塞がりだ」という方がおられたとしても、イエス・キリストに希望を置くなら、必ず道は開かれます。なぜなら、イエス様は「わたしが道であり真理でありいのちだからです」と語られたからです。
 イエス様を私たちの人生の最優先として、生きていきたいと願います。最後に一言お祈りして、聖餐式に移っていきたいと思います。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝をいたします。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と語られていることを心から感謝をいたします。
 今、私たちの人生の様々な関心や優先順位のさらなる上に、イエス様、あなたご自身をお招きします。主よ、あなたが私の最優先になってください。
 私たちは知識の氾濫している時代に生きています。そんなただ中で、主よ、この世界を守ってくださいますよう、お願いします。
 様々な明るいニュース、暗いニュースがありますけれど、そのただ中に、神の声を聞かせてください。あなたご自身の声を聞いて、私たちが善悪を判断することができますように。先に祈りを置かなければいけない領域に、祈りを置かせてください。
 あなたがこの日本に、新しい季節を与えてください。日本のただ中に、一番上に来てください。あなたが私たちの身代わりとなって死んでくださり、いのちへの道を開いてくださったことを感謝します。いのちへの道はあなた以外にありません。
 今から聖餐式を持ちます。あなたを第一とする宣言です。尊いイエス・キリストの御名によって、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。