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『霊的維新2013
~天に名が記されている者たち~

2013.1.20 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書 10章17節~20節

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』


 ハレルヤ!みなさんおはようございます。今日も御言葉を語らせていただけますことを、心から感謝します。もう一月二十日です。早いですね。あっという間に一年が終わってしまいそうな感じです。皆で主を礼拝できる特権を心から感謝します。

 今も祈っていただいたのですが、私は明日から、カンボジアに行きます。初めて行きます。
 今、「全日本リバイバルミッション」では「アジア・環太平洋ミッション」という働きを展開しています。アジアの諸国と環太平洋に出て行って宣教の働きを進めるように導かれています。ちょっと地図を出したいと思います。

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カンボジアですのプノンペンに行きます。 今、新城教会の礼拝に服部宣教師夫妻が出席されています。彼らはカンボジアで長いこと働いておられました。ちょうど一月にカンボジアに戻られるということで「一緒に行きませんか」と誘われ、全日本リバイバルミッションでは、今年、タイでミッションを開くことにしています。それで隣国カンボジアも将来、ミッションが開けたらと祈っています。
 是非とも祈っていただきたいのですが、現在、タイにおける開催時期についても交渉中です。こちらとしては十一月にやりたいと願っています。又、八月には国内、和歌山でリバイバルミッションが開催されます。去年は台湾で開きましたが、主はアジアに扉を開いてくださっています。カンボジアでも、将来、リバイバルミッションが開けたらいいなと願っています。
今回、カンボジアでいろいろな教会を訪問させていただき、現地の先生方ともお話をしたり、集会でも奉仕させていただくことになっています。
 明日の朝、日本を発って、金曜日には帰って来ます。主が用意された出会いがあるように是非、祈っていただきたいと思います。
 カンボジアは仏教国で、大きな寺院が有名です。

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 教会でこんな寺院はどうでもいいのですが、ちょっと田舎に行きますと、農村地帯が広がっていて、高床式の家に住んでいる人たちもいるようです。

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 今回はプノンペンと共に、農村地帯にも行き、実情を見て、とりなしの祈りもしたいと願っています。
 私たちは日本で生活しているわけですが、同じアジアの中でもカンボジアの歴史は戦争と殺戮の連続です。それが十五、六世紀から始まり、近年においてはフランスに支配され、第二次世界大戦中は日本が支配し、日本が去ったらまたフランスが入って来て、その後、ベトナム戦争が始まり、ポル・ポト政権によって二百万人から三百万人が殺されたと言われます。これは信じられない数です。カンボジア全土に地雷が敷設され、国民一人当たり二つ分くらいの地雷が埋められたというのです。子どもたちが足や命を失ったり、二百万人、三百万人が殺されました。
 近ごろは治安が回復して、日系の企業なんかも多く入っているようです。本当に熱心な仏教国です。熱心に神々に祈りを捧げている人々です。しかし歴史は「死と破壊」の一色です。それは普通ではありません。背後に働く、霊的な敵の力以外の何者でもないのです。

 日本は現時点においては平和で、世界と比べたら安全な国です。それは、心から感謝しなければならないと思います。今も戦争が続いている国もあります。様々な問題の中で、現実的に苦しんでいる人々が多くおられます。私たち教会は、ただ自分たちの足下だけを見るのではなく、世界を見てとりなし、実際に働くものになりたいと願っています。
 新城教会は田舎の教会ではありますが、そのような使命が与えられていると信じます。特に一九九三年の甲子園ミッションを皮切りに、リバイバルのために日本全国、アジアに主は働きを広げてくだいました。それは他でもなく、神の御心であると信じます。
 その延長線上に、気がつくと日本にも大きなリバイバルが起ると信じます。是非とも今週、良き出会いがあり、良き働きができるように祈っていただきたいと思います。また、風邪など引かず、全員が元気に暮らすことができますよう、祈っています。

 今年、与えられている御言葉が実現するよう、共に祈り続けたいと思います。一月は与えられた御言葉を中心に、メッセージを語らせていただいています。今日も、ルカ十章十七節から二十節を中心に、お話させていただます。タイトルは「霊的維新2013、天に名が記されている者たち」とさせていただきました。ルカ十章十七節~二十節をもう一度読ませていただきたいと思います。

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」』

 今年は特に、十九節の御言葉をテーマとしていただいています。先週は上條先生が「イエスの名によって宣言しよう!」というメッセージを語って下さいました。それで、ルカ十章十九節の御言葉をみんなで宣言しました。またイザヤ書六十五章も宣言しました。日頃の生活の中で、御言葉の剣を受け取って宣言していくことは、重要だと思います。

 二十節の『だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』という意味についてもお話しさせていただきました。
 それは、「私たちの本質が天にあるゆえに、地上においても、イエス様と同じような働きが出来る」と話しました。
 今日、イエス・キリストを信じているならば『名前が天に書き記されている』のです。それは「あなたの本質は天にあります!この地上の権威ではなく、天においても地においても一切の権威を受け取ったイエス様のただ中で生きている」事を意味します。それを忘れないでください。

 『名が天に書き記されている』という意味は、ギリシャ語では「刻んで書き込む」という意味だそうです。新約聖書はギリシャ語で記されました。なぜなら当時の世界は、ローマの支配のただ中にあったからです。ローマ帝国はギリシャ帝国の延長線上で、ギリシャ、ローマ、イスラエルは石の文化です。
 ローマ帝国の時代は今から二千年以上も前になるわけですが、結構いろんな文書が残っています。それに比べて日本はどうでしょうか?二千年も前の文書は一つも残っていません。なぜなら日本は木の文化だからです。すべて火で燃えてしまうわけです。しかし、向こうは石の文化なので残るのです。
 「書き記す」とは紙に書くとか、ワープロで打つのではなく、石碑に刻み込んだのです。古代ギリシャの書写材料で、一番多かったのが石碑だそうです。パピルスだとか蜜鑞とか、陶片、羊皮紙などもあったようですが、重要な情報は石碑に書き込まれました。
 石碑は経年変化に強いのに加え、政治形態が変わっても、その場所に捨てられていたり、他に転用されて使われたりして、ずっと彫り込まれた文字は残ったわけです。ですから、二千年前と言えども、いろんな資料が残ったわけです。
 この『天に名が記される』とは、当時のギリシャ的な文化の中で一番保存が長い方法は石碑だったわけで、彫り込むという表現を使ったわけです。
 『私たちの名が天に書き記されている』とは雑巾で拭いたら消えてしまうというようなもじではなく、刻みこまれているという意味です。

想像してみてください。神の前の石碑に、あなたの名前が刻み込まれている光景を。どんなに時代が変わろうとも、それは消えないのです。永遠に消えないように、あなたの名が深く刻まれていることを喜べというのです。
 そして、名は体を表しますから、私たちの「実態は天にある」のです。

 十章十七節から見ると、『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」』とありますが、イエス様には多くの弟子たちがいました。一番有名なのは「十二弟子」です。イエス様が最初に選ばれた弟子たちです。
 しかし、それだけでなく、バームクーヘンのように同心円状に他にも七十人の弟子とか、百二十人とか、様々な形態でイエス様に仕える取り巻きが居たみたいです。その中心が十二人の弟子でした。その人たちの名前は聖書に記されていますよね。

 イエス様の十二人の弟子の名前をご存じですか?「私はイエス様の十二弟子の名前を空で暗記している!」という方はどのくらいいますか?
私の子どもの頃、子ども賛美歌というのがありまして、「十二弟子の歌」というのがありました。それで私は覚えました。それを歌うと十二人の弟子の名前をすぐに暗記できます。ちょっとみなさんで歌ってみましょうか。

ところで、今日のリソスは良かったですね。彼らの演奏を聞きながら、私も、もう一度グロリアシンガーズをやりたいなと思いました。リソスの演奏は何かJポップスのような感じがしました。もちろん、JポップスのJはJAPANじゃなくてJesusですよ。
私もまたやりたいなという感じですが、この真ん中にノゾを加えればグロリアシンガーズです。でも、あいつは出て来るかなという感じですが、ちょつと十二弟子の歌、開先生と一緒にやってみたいと思います。彼は現役です。私は職種が変わってしまいました。十二弟子の歌、歌ってみましょう。

♪ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとトマスとマタイたち
ヤコブとタダイ、シモンとユダ、バルトロマイが十二弟子
弟子たちはイエス様のお手伝いをしたのです
僕たちもイエス様のお手伝いをいたしましょう♪

 ハレルヤ!これで十二人の名前をすべて覚えましたね。十二人の弟子は名前が記されています。十二人を集めた時の様子が、マルコ三章十三節~十五節に書かれています。

『さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』

 イエス様が十二弟子を選んだ目的は、「彼らを遣わして福音を宣べさせ」とあります。しかし、福音を宣べるためにどうしても欠かすことのできない権威がありました。それが「悪霊を追い出す権威」だったのです。
 十二人は『彼らを身近に置き』とありますから、イエス様のそばで直接、訓練を受けたわけです。私も十二弟子の一人に加えてもらいたいと思います。
 私も霊的戦いをやっていますから、イエス様の十二弟子の一人として、イエス様の側で訓練をしてもらいたい、と思います。そうしたら、イエス様のやり方をつぶさに見て、研究し、学ぶことができます。そうしたら来週の「霊的戦い専門課程」なんかへっちゃらです。しかし、十二弟子ではないですから、苦労しています。十二弟子はイエス様の側にくっついて、金魚の糞のようにどこでも行って奇跡を見て、興奮の連続だったと思われます。私もそんな体験をしたいと思います。

 イエス様が弟子たちを選んだ目的は、「彼らを遣わすため」だったのです。遣わして福音を宣べ伝えさせるためだったのです。それはただ彼らを自分の側に置く、サポーターではなく、彼らを訓練して遣わすためだったのです。

 二千年のキリスト教の歴史を見るならば、遣わされた者たちによって福音は拡がったのです。イスラエルから見るなら、日本は東の果ての果てです。これ以上東に進んでも、人は住んでいない場所、そんな日本まで福音が伝わったのは、十二弟子から始まって、遣わされた者たちによって伝わって来たのです。

 ということは、私たちもイエス様の弟子となり、遣わされて行くことが 重要なわけです。十二人の弟子たちも、七十人の弟子たちも、遣わされて行きました。
また使徒の働きの時代になりますと、今度は聖霊を受けた百二十人、そして、パウロが特に大きな使命を受け取り、世界に福音を宣べ伝えたわけです。

 イエス様は彼らと共に出かけませんでしたが、皆、天に名が記されていたがゆえに、本質が天にあるゆえに、どんな状況があっても、問題をもろともせずに乗り越え、世界に福音を伝えました。それで今があるのです。

 パウロとシラスという弟子が、ピリピという街に行った時、彼らは牢屋にぶち込まれてしまいました。あわや処刑されるかもしれない危機に陥ったのですが、そんなただ中でも、やはり彼らは天に名が記されていたのです。大地震が起こり、彼らが入っていた牢屋が壊れて助け出されたのです。使徒の働き十六章二十六節~三十三節、

『ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。』

 ピリピの街に大地震が発生し牢屋が潰れてしまったのです。この看守はたいへん責任感が強い男でした。でもこの責任感はちょっと異常です。なぜなら牢屋が壊れたのは彼の不注意ではなく、地震で倒れたからです。それはどうしようもないです。でもピリピの街の看守は日本人によく似ていました。囚人が全部逃げたんじゃないかと、責任を感じて剣を抜いて自殺する寸前だったわけです。

 日本もこの頃自殺が多いです。三万人以上の人たちが一年に自殺すると言われます。自殺にはいろんな理由があるかもしれませんが、自分が悩んでいる原因、責任を取ろうとしている事柄を分析すれば、すべてその人に責任があるわけではありません。いろんな周囲の要因が関わっているのです。別に自分だけが責任を感じて、死ななくてもいいのです。
 聖書の神様は、死のうとしている人たちに対して、『自害してはいけない。私たちはみなここにいる』と叫んでいるのです。教会が福音を伝えることによって、自殺しかけている人たちが死なないで救われるといいと強く思います。
 今日、この中にはそんな人はいないと思いますが、「死にたい」という人がいたら、絶対に死んではいけません。皆、一緒にいますから。そして最悪な事柄を通してさえも、神は人を救い出し、家族全体を救うという、大きな勝利に繋げてくださるのです。
 いつもお話ししていますが、教会に来るきっかけは喜ばしい事で来る人は少ないです。いろんな問題があって、苦しいことや悲しいことがあって教会に来るのですが、それがきっかけとなって、やがて、家族全体が救われるようになるのです。

 今から、三十数年前でしょうか。一人の奥さんが教会に来られました。涙を流しながら「我が家は真っ暗です。大変です。助けてください」と言われました。なぜかと聞くと、「我が家に一人、やんちゃな息子がいて、それもやんちゃすぎて家の中はぐちゃぐちゃだ」と言うのです。家族全員、死にたいくらいの状況だったそうです。それで教会に来られたのです。
 「どうか息子と話して、何とかしてくれませんか?教会に誘ってくれませんか?」と言われました。私は「はい。わかりました」と言いましたが、私以外のスタッフをやんちゃな息子の所に送ろうと思いました。
それで教会のスタッフ会で「こういう男がいるんだけど、誰か訪問に行ってくれない?」と言うと、しーんとして誰も答えてくれませんでした。行きたいという人は誰もいませんでした。
 「なんだ、誰もいないのか。怖いのか?」なんて言ったら「おまえこそ怖いんじゃないのか?」という声が心に響いて来ました。
「しょうがないな。こういう時にこそ、がんばらなくてはいけない」と思って、私一人で彼の家に行きました。
 あまり気が進みませんでしたが、お母さんに「息子さんに会いに来ました」と言ました。
息子は二階に住んでいるようでした。二階の部屋を見たらガラスが割れていて、割れた所からタバコの煙が出ていました。
 お母さんが言いました。「じゅんさんが来ましたよ」と言うと、その答えを今でも覚えています。「何?じゅんさ?俺は巡査が嫌いだ!」という怒鳴り声でした。私は「順さん」なんですが彼は「巡査」が嫌いな男だったのです。
 ちょっとどうなるかなと思いましたが、家に入って彼といろいろ話をしました。本当にどこから話したらいいのか、住んでいる世界が違うと言うか、取り付く島がない感じでした。
 でも最後に彼がポツリと言いました。「俺にはツレは多いけど、友達はいない・・・」と言いました。それを聞いて、これはイケるかもしれないと思いました。
そんなことがきっかけで、家族の中に福音の光がちょっと入りました。それから色々なことがあって、徐々に徐々に福音が浸透し、今や、その家族は全員救われました。また、親族も救われました。
 教会に来ても、結果がすぐに出る場合と、出ない場合がありますが、出なくても心配しなくてもいいのです。二十年、三十年、四十年経って振り返ると、「絶妙のタイミングで、主が結果を出して下さった!」とわかります。

 実は先週、一人の方が病床でバプテスマを受けられました。Hさんと言われるのですが、ちょっとその写真を見せたいと思います。座っておられる方がバプテスマを受けられたのですが、実はこの一族の中に、かつてやんちゃだったその息子がいます。誰か分からないですよね。みんな天使のような顔をしていますから。Mさんの家族です。今回は、Mさんのご親族がクリスチャンになりました。本当に不思議です。
 あの時にMさんの家に行って良かったな、と思います。彼は巡査が嫌いでしたけれども、今は順さんも好きになってくれました。本当に嬉しいです。
『主イエスを信じなさい。そうしたらあなたもあなたの家族も救われます』と。彼のお母さんは「もう死にたい」と思っていたかもしれませんが、今やこんなに麗しい家族になって、救いは親族にまで拡がりました。今日、本人も聞いていると思いますが、誰が張本人かは言っていませんからね。もう分かっちゃったかもしれませんが。

 いずれにしても、遣わされた人たちによって福音は拡るのです。みなさんによってしか、伝えることのできない人たちが絶対にいます。
 洗礼を受けられたHさんも、Mさんの家族が一生懸命、愛を表し、伝道したことによって心を開き、イエス様を信じたわけです。他の人では、そこまで行けないわけです。遣わされる者になりたいと思います。
 そして、伝えるタイミングがあるわけです。今週も、主はみなさんを遣わしたいと願っておられます。そのタイミングを掴まなければいけません。神様が与えてくださるタイミングを掴まないと、チャンスが過ぎちゃうわけです。なんでもタイミングだと思います。人生はタイミングを掴むか掴まないかで、大きく変わります。

 先週の日曜日は、東京で集会がありました。東京にも新城教会に集っておられる方が結構おられます。そこに一つの教会があるくらいのサイズになりました。多い時には三十名くらいの方々が来られます。先週も、ある方が来られました。そして本当に感謝して証しをしておられました。
 奥さんと娘さんが来られたのですが、その奥さんのご主人は去年亡くなられました。私と上條先生が葬式を行いましたが、ご主人は長らく、芸能関係の仕事をされていた人で、業界の人で、無神論者でした。「神なんかいない」という人でした。奥さんも家族も熱心なクリスチャンですが、ご主人はイエス様のイの字を出しただけでも怒るような人でした。
 病気になっても「俺は病院になんか行かない」と言っていましたが、病名が分かった時には癌で手遅れでした。どうにもならなくて入院しました。それでも、家族が「お父さん、イエス様を信じましょう」と言っても、「うるさい!俺は無神論だ」という人でした。
 いよいよ死ぬ日が近くなって、奥さんが私に電話をくれました。「主人はあまり長くもたないと思います。」その方の入院しているのは川崎でした。そこまで行っても、彼は無神論だから、どんな話をしたらいいのかと思いました。
 でもすぐに行った方がいいと思ったので、ちょっと無理して土曜日の朝一番に出て一人で川崎まで行きました。病室の前まで行ったら奥さんが出て来て、「順先生。病室に入って失礼があるかもしれませんが許してくださいね。」と言われました。私は病室に入るだけで聖霊様が一緒に入って、何らか直接的に触れてくださるようにと祈って入って行きました。
 お会いすると、痩せ細っていて「あんまり長くないだろうな・・・ 」という感じでした。私は何を話していいのか分かりませんでした。「私、滝元と申します。愛知県から来ました」と言うと「愛知県?何回も行ったよ」という感じで、全く話にならないわけです。こちらから話を投げても、ぽとんと落ちるのです。前に壁があって落ちる感じでした。どうしようかなと思っていたのですが、あげくの果てに「私は無神論だから」と言うのです。そして「俺もそうは長くない。死んだらすべて消えるんだ」と言われました。
 私は神を信じる者で、永遠のいのちがあると信じています。彼は「私は無神論。死んだら全てが消える」と初めから言うわけです。いくら話しても、線路と同じ、ずっと平行線です。これは無理だなと思いました。お祈りをしようにも、祈りもできない感じでした。「そうですか。それじゃまた」と帰ろうかなと思ったけど、ちょっと敗北感を感じました。「神様どうしたらいいでしょうか・・・」と、心の中で祈りました。

 そうしたら彼がぽつっと「俺は無神論だけど、今回、病気になって、初めて家族の愛を体験した」と言われました。「娘たちが、妻が、いろいろと世話をしてくれて、家族の愛っていいもんだなと初めて思った」と言われました。私は「ということは、今は人生である意味、一番いい感じの時間ですね」と言うと、「そうなんだ。病気にはなったけど、家族の愛を感じて幸せだ」と言われました。
 私はその言葉を聞いた時、すかさず「家族の愛はすばらしいですよね。でも、お父さんの考え方から言えば、死んだらこのすばらしい愛も全て砕け散って、どこにも残らないし、永遠に家族は再会できない、寂しいですね」と言いました。すると、「そうなんだな・・・」と寂しそうに言われました。
 私は「この愛が永遠に続く方法があったら、試してみたいと思いませんか?」と言いました。すると「もしも、そんなの事が出来たらどんなに素晴らしいか」と言われました。
そこで、「実は一つだけあるんですよ。イエス様を信じたら永遠のいのちをもらって、順番に死んで行くのかもしれないけれど、消えるのではなく、みんな天国に集まって再会して、愛が回復するどころか、もっと大きくなって永遠に続くのですよ。砕け散って消えるのと、愛が永遠に続くのとどっちがよろしいですか?」と言ったら「そりゃ、永遠に続くなら、そんな嬉しいことはないね。」と言われました。「そんなのがあったら受け取りたい」と言いました。「やった!」と思いました。
 それで私は「イエス様を自分の救い主として受け入れ、告白したら救われますよ。簡単ですよ。だから一緒に祈りましょう!」と言って私の後について祈ってもらいました。家族も涙々で、一緒に告白に加わってくださいました。

なんと、先ほどまで無神論と言っていた人が、イエス様を信じる祈りをしたのです。本当に危機一髪でした。主が道を開いてくださいました。やった!と思いました。

 その方はお会いした二十四時間後に、天に帰って行かれました。でも一緒にお祈りした後、家族と一緒に賛美をしたり、祈ったりして、最後は眠るように天に帰って行かれたそうです。本当にあのタイミングを掴んで良かった、と思いました。

 その奥さんが先週は東京集会に来てくださったのです。「本当に感謝します!私の主人が救われるなんて、絶対に考えられなかったけれど、救われて喜んで天国に帰って行きました!」と言われました。私も良かったと思いました。あの時に「ちょっと忙しいから行くの止める」と言って病院に行かなかったら、私は一生その家族と顔を合わすことができません。時を掴んで良かったなと思います。あれは主が「行きなさい!」と私を遣わしてくださったのだと信じます。
 神の声にいつも従順でありたいです。遣わされた者たちによって福音は世界中に拡がり続けています。

 イエス様は十二人を選ばれて、身近において訓練されました。そして遣わされるための心構えと、準備を語りました。ルカ九章一節~三節を見るとこんな風に書かれています。

『イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。イエスは、こう言われた。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。』

宣教に遣わされる時、旅のために何も持って行くなというのです。杖も、袋も、パンも、金も、下着も二枚はいらないというのです。私は今朝、ここを読んでドキッとました。明日からカンボジアへ行くのですが、私はスーツケースにすでに、下着を五枚入れていたからです。二枚しかだめなのか・・・。二枚のパンツを交互にはくしかないのかなと思いましたが、弟子たちはすごいですよね。何も持たないで行ったのですから。
 イエス様から厳しいことを言われたのですが、十二弟子はイエス様の教えを受け取って出て行き、なんと六節を見ると、

『十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した。』

すごいですね。この十二人はイエス様から身近に訓練を受けていたので、かなり信仰があったのです。

 ルカ九章は、十二人の弟子が遣わされて行った様子が書かれているのですが、十章になると今度は、「七十人の弟子たち」が遣わされて行きます。
ルカ十章一節~四節、

『その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。』

 十二弟子に与えた注意と同じように、イエス様は七十人の弟子にも同じ注意を与えました。条件は同じだったのです。十二人の弟子たちの名前は全員、聖書に記されていますし、イエス様の側で訓練を受けた人たちでした。

 しかしこの「七十人の弟子たち」は、名前も人柄も全くわかりません。新改訳聖書では「七十人」という所に*星印が付いていまして、欄外に「異本では七十二人」となっているのです。聖書を訳す根本によっては、七十人となっているものもあれば、七十二人と記録されているのもあるのです。
 口語訳聖書や新共同訳聖書では七十二人が採用されています。しかし新改訳は七十人です。これは何が言えるのでしょうか。勘定したら「七十人だったかな、七十二人だったかな?」と、物の数に入らないような人物もいたということです。ここでは十二弟子のように、名前が分かっている人なんか、一人もいないわけです。どこの誰だか分からないのです。
 十二弟子のように、イエス様の華々しい働きを全て見た上で、「財布を持って行くな。下着を持って行くな」と言われるのならいいですけれど、イエス様の近くに四六時中いたわけでもないのに、遣わされる為の条件は十二弟子と同じでした。
 財布も旅行袋も持たず、靴も履かずに、誰にも挨拶してはいけないというのです。ちょっと、その姿を想像してみてください。何も持たないで裸足で、しかも二人ずつの小チームで、知らない街や村に行かされ、出会っても「こんにちは!」と挨拶してはいけないのです。これでは、ほとんど変人の域です。
伝道は愛想が大事ですよね。私が明日から何も持たないで、裸足でこのような格好でカンボジアに行ったら「帰ってください」と言われると思います。
 しかし、十二弟子よりも、この七十人だか、七十二人か分からない弟子たちの方が、すごい事が起こったのです。それが、今日読んだルカの福音書十章十七節~十九節です。

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 このレポートはいつもイエス様のすぐ近くにいて、イエス様の働きをつぶさに見ていた有名な十二人の弟子たちからではなく、七十人だか七十二人だか分からない弟子たちの集団によって、もたらされたのです。彼らによって、このようなすばらしい勝利が現されたのです。
 このレポートを聞いて、イエス様はなんと言われたのでしょう。十章二十一節から、

『ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』

ここで『賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。』とは、誰を指しているのでしょうか?文脈を読めば、「幼子」というのが「七十人の弟子たち」を指しているのは明らかです。
 十二人の弟子たちの集団に入ることができなかった、名前も記されていない、七十人、七十二人の弟子たちは、あまり頭も良くなかったみたいです。弟子選考から落ちたのかどうか分かりませんが、そんなに目立つ人たちではなかったようです。イエス様から見たら「なんだ幼子みたいだな・・・」というような、あまり能力がないように見えたのかもしれません。
しかしそこに、神の国の真理が現されたのです。すごいことじゃないでしょうか。十章二十四節で、七十人の弟子たちになんと言われたかというと、

『あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。』

 多くの預言者たち、王たちがこの場面を見たかったと言うのです。びくびくしながら、二人チームで出て行った、名も無い弟子たちによって、悪魔・悪霊どもが打ち破られ、奇跡が起こり、主の業が拡がって行くという、まさに、この光景を古の預言者や王たちは見たいと願っていた、とイエス様は告げられたのです。

 この箇所は、霊的維新を現している箇所だと前回もお話しさせていただきました。実に、この七十人の弟子に起こったことの延長線上に「私たちもいる」ということではないでしょうか。私たちも何もできない弱い者ではあります。またイエス様が目に見える形で、一緒に居てくれればいいですけれども、姿は見えません。

 日本の教会が世界に出て行って奉仕をするような財布は、どこにもありません。何もない中で世界に出て行くのかもしれません。けれども、そんな中で神の御業が現れるのです。それこそ、昔の預言者たちが、王たちが切に見たいと願っていたことなのです。そのように、イエス様は喜びに溢れて語られたわけです。

 私たちは、十二人の弟子たちのように、名前が残り、イエス様の近くで教えを受ける者になりたいと願うのですが、神様の方法はちょっと違うのです。名も知られていないような、あまり利口じゃない、幼子のように見える人々に権威を授けられるのです。なぜなら「天に名が記されているから」です。

 今日、私たちも七十人か七十二人の弟子の一人になって、この二〇一三年を歩んで行きたいと願います。その時に主は、偉大な御業を現してくださるはずです。
『だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』
「あなたの実態は天にある。イエス様の名前のただ中にあるがゆえに、あなたが出て行く時、悪霊どもでさえ服従する、イエス様と同じ業が伴います」と。

 私たちも、七十人の弟子たちに与えられた権威を受け取り、歩んでいきたいと願います。
最後に一言お祈りしたいと思います。聖餐式を行いますが、聖餐式の中で、もう一度、私たちはイエス様のただ中にいることを確認し、心に刻み、歩み出して行きたいと願います。一言祈ります。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。私たちは七十人の弟子の一人として加えられていることを、心から感謝します。私たちは日本において、名もない、能力もない者です。しかし天に名が記されているがゆえに、あなたと同じ勝利があることを、心から感謝します。あなたも私たちの働きによって、サタンが天から落ちるのを見て喜んでくださっていることを、心から感謝いたします。
 これからの日本にどういう事が起こるのか分かりませんが、天に名が深く刻み込まれた者として、実態が天にある者として、歩むことができますように。
今日はその証拠である、聖餐を受け取ることが出来て感謝します。もう一度私たちの心に御言葉を刻んでください。主よ感謝します。
 今日、ここにおられるお一人お一人、七十人の弟子の一人として任命してくださり、遣わしてくださることを心から感謝します。私たちしか届くことができない人がいます。どうか、タイミングを掴めるように導いてください。今日のこの時を心から感謝し、イエス様の御名によって、聖霊によって、聖餐にあずかります。アーメン。