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『すべては神様の栄光のために

2013.2.17 (日)
新城教会牧師 岡本信弘
コリント人への手紙第一10章31節

『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』


 ハレルヤ! 今日もこの場所に立ち、皆さんとともに主を礼拝できることを感謝いたします。まだ寒い日が続いていますが、皆さんお元気ですか? 今朝、礼拝前に同級生の兄弟に、「元気か?」と聞かれたので、「絶好調だよ!」と答えると「いいなぁ~」と言われました。その兄弟は先日入院していました。
 私も一年前に、風邪で一週間ほど寝込んだことを思い出しますが、それ以降、皆さんのお祈りに支えられて、守られてきたことを感謝します。皆さんにも、心も体も健康で過ごしていただきたいと願っています。

 さて、今日は、先ほど読んでいただいた御言葉から、「すべては神様の栄光のために」というタイトルでお話をしたいと思います。
 「栄光」という言葉を辞書でひくと、「人が成功・勝利などによって他人から得る好意的な評価」と書いてあります。
 スポーツの世界を見るならよくわかると思いますが、選手たちは栄光を得るために忍耐し、血のにじむような努力をしています。それは勝つか負けるか結果がすべてあり、その結果次第でその後の人生が大きく変わるのです。
 たとえば、女子サッカーはどうでしょう。私は数年前まで女子サッカー選手の名前など、誰一人知りませんでした。しかし、オリンピックでメダルを獲得した彼らは一躍有名になりました。今や誰もが知っている国民的なスターとなり、CMにも出演しています。
 また、栄光を得るための裏の部分ともいえる体罰問題が、最近クローズアップされています。勝負に勝てば有名になり、栄光を手にすることができる。自分の指導者としての名声や学校の名誉のために躍起になり、行きすぎた行動に出てしまうのでしょう。
 このように、世の栄光は結果がすべてであり、自分の満足、自分を誇るものにすぎず、神様の栄光を現すものではありません。では、神の栄光を現すとは、どのようにすることなのでしょうか。

 私は昨年末のカウントダウン聖会で、二〇一三年に対するテーマの言葉として、「あわれみ」について語らせていただきました。人生はいつも順調で、幸せであるとはかぎりません。むしろ幸せと思えるときのほうが少ないのかもしれません。
 私は、今まで恵みの中で五十数年間を生きてきました。振り返ってみると、保育園、小・中・高校と欠席したことはほとんどなく、また、怪我や病気で入院したこともなく、健康が守られてきました。
 亡くなった母親が「おまえは、大した人間にはなれない。明先生のように苦労をしていないから、そこそこの人間にしかなれない」と、よく言われました。母の言うように、私は大した苦労もなく生きてきたので、そこそこの者ですが、神様の恵みをたくさんいただいていこてこられたことを、心から感謝しています。
 そんな恵まれた生活の中で与えられた「あわれみ」というキーワードは、今の私にとって一番足りない部分だと教えられ、これから何をなすべきか、どうしていくべきかを祈りながら、導かれたことを忠実に行おうと思っています。
 カウントダウンでは、「恵みとは、神の一方的な好意」であり、「神の愛、あわれみとは、恵みに基づく具体的な神の行動」だと学びました。神様からの祝福が、恵みとあわれみと平安とあるように、あわれみは、神様からの愛のメッセージであり、あなたへの愛の行動です。
 まず、私たちが神様にあわれみを切に願い求め、叫び続けて祈ることが重要であると聖書は教えています。

 この教会に聖霊が激しく注がれて二十一年が満ち、二月十三日は、県民の森で記念の祈祷会が開かれました。私も出かけていき、力一杯大声で賛美し祈りました。そのときにリードしていた開先生が、「今日はこの場所に、甲子園ミッションを知らない若い十代の兄弟姉妹が大勢参加してくれています」と言ったのを聞いて、何か不思議な感じがしました。考えてみれば甲子園ミッションから二十年が経っているわけですから、当たり前なのですが・・・。と同時に、甲子園ミッションを知らない世代の若者と、この場で共に賛美し、祈ることができていることを感謝しました。また、これからこの若い兄弟姉妹がリバイバルを担い、新しい扉が開かれることを期待して、主に祈らせていただきました。
 皆さんも若者に負けず、今も生きておられ、祈りに応えてくださる真実なる神様に、「主よ、あわれんでください」と熱心に叫び求めて祈ってください。そして、若者たちのためにも祈っていただきたいと思います。

 先週の礼拝では、順牧師がルカの福音書から語っておられました。
 十一章九節だけお読みします。
 『わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』
 有名な御言葉です。ここにあるように、私たちが切に神を求めるなら、あなたは、聖霊に満たされ日々、喜びに満たされたクリスチャン生活を送ることができるのです。同時に、あなたが何事でも信仰を持って祈り続けるならば、必ず神様からの答えがくることを皆さん、知っておられることと思います。
 私は、カウントダウンのとき、「あわれみ」についてもう一つ、恵みとあわれみを受けた私たちが、自分のためではなく、誰かのためにあわれみをかけ、とりなしていくべきことが重要であるとお話しました。
 「あわれみ」には、「受けるあわれみ」と「与えるあわれみ」がありますが、この二つには共通点があります。それは、どちらも結果として、そこに神の栄光が現される、ということです。ということは、私たちがあわれみを持つなら、私たちの行動をとおして神の愛が表され、そのことが結果的に、神の栄光を現すことになるのです。
どんなに驚くような癒しや奇跡が起こっても、素晴らしい働きをして多くの人々からどんなに称賛されたとしても、そこに神の栄光が現されなかったら何の意味もありません。自己満足に終わってしまいます。
 ここにいる皆さんが、私は神様を愛していると言えることでしょう。でも知ってください。神様がまずあなたを愛してくださり、あなたが神様を愛している以上に、あたなのことを愛してくださり、あなたに恵みと祝福を与えたいと思っておられます。
 昨年のクリスマス集会に来られたひと組の親子(お母さんと小学生の娘さん)に声を掛けました。そのお二人は、教会に初めて来られたということでしたので、「今日は、いかがでしたか?」と聞くと、お母さんが、「私は、地域の色々なサークルにも参加していますが、ここにきてビックリしました。このように小さな子どもからお年寄りまでが一堂に介し、年齢の壁を超えてみんなが楽しく歌ったり話をしているのを見て、感動しました」と言われました。私たちにとっては見慣れた光景ですが、言われてみれば、確かにすごいことだなぁと思わされました。
 教会は、一つの神の家族です。時には、クリスチャンでない自分の家族に話すことのできないようなこと、悩みを分かち合い、お互いに祈り合えるところが本当に素晴らしいと思います。
 昨日、ある方からメールいただきました。「明日の日曜日は礼拝メッセージですね。祈っています。フレー、フレー信先生」と書かれてあり、愛を感じて大変励まされました(どなたかは想像にお任せしますが・・・)。
 このように、教会には愛があります。
 
 皆さんは、キリスト教の愛についてはよくご存知だと思いますが、仏教の愛は、どんなものだと思いますか? ある本に、「仏教とキリスト教の愛の捉え方の違い」についての記事が載っていたのを、私は興味深く読みました。
 「今の仏教の教えには、慈しみを意味する『慈悲』という言葉がありますが、出家主義の古代仏教では、他の人々との関係は重視されず、そこには『慈悲』という考えが入り込む余地もなく、仏教での『愛』は、異性、お金、名声などへの『執着心』を意味する」とありました。そして、仏教の考え方を説明するために、よく次のようなたとえが使われるそうです。
 「ここに、幅の広い流れの急な川があったとしましょう。川のこちら側は、私たちのいる迷いの世界であり、煩悩の世界です。川を渡った向こう岸は、悟りの世界であり、生死の苦しみの消え去った静けさの境地です。仏教では、この場所を「涅槃(ねはん)」と呼んでいます。仏教の目的は、人々がこの川を渡って、彼岸である涅槃に達することを目標としています」とありました。
 そして、この川を渡るには泳いでいかなければならないのです。流れの急な川を泳いで渡るには、何かを背負っていては溺れてしまいます。いくら財産を持っていても、それを背負っては行けませんから、まず財産を捨てて着ているものを脱いで裸になり、家族とも別れていきます。自分一人が泳いで渡るのがやっとなのです。それでも、渡れる人と渡れない人がいるそうです。渡っていけた人が涅槃に達する。それが「出家」するということだそうです。
 こうした出家主義によると、自分しか救われません。人の手を引いていては、自分まで溺れてしまいます。人のことなど構っていられないのです。これが、小乗仏教といわれる考えです。しかし、こうした出家主義の仏教を独善的だと批判し、出家していない信者にも、彼岸に渡れる可能性があると説いたのが大乗仏教で、他の人のことも考えるというところから、「慈悲」という教えが生まれたということです。そして、この記事の最後には、「一説によると、この教えは聖書から盗み取ったのではないか」と書かれていました。真偽のほどはわかりませんが・・・。
 仏教の愛の教えがどうであれ、私たちが信じているイエス様の愛は、人の努力や鍛錬で得るものでもなければ、人を蹴落として得るものでもありません。ただただ、神の恵みによるのです。お金がなくても、小さな子どもからお年寄りまで誰でも等しく、ただ主を信じるだけで救われ、愛を受け取ることができるのです。
 ヨハネ第一の手紙四章七~十節をお読みします。
 『愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』
 イエス様は、あなたを救い出すために十字架にかかって死んでくださり、愛を示してくださったのです。私はイエス様を信じて何十年も経っていますが、バカをみたと思ったことは一度もありません。皆さんも、そうだと思います。もっと早く信じればよかったとさえ思っておられるでしょう。

 では私たちは、愛を実践してくださったイエス様に、どのようにして愛を示し、神様の栄光を現すことができるでしょうか。
 ヨハネ第一の手紙五章三節に、『 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。』とあります。
 「命令」と聞くと、何か独断的で嫌だなと思うことがありますが、自分が愛している人のお願いであれば、喜んでやってあげるでしょう。とすれば、私を愛してくださっている、私たちの愛する神様の命令は、重荷ではないのです。私たちが神の命令を守り、愛を実践していくことが、神の栄光につながることです。

 聖書に、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、人々を分ける」という、たとえ話があります。
 『人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」』(マタイの福音書二十五章三一~三四節)
 もし皆さんが、御前に集められたとき、あなたは羊の群れに入れてもらえるでしょうか。

 よきサマリヤ人のたとえを考えてみたいのですが・・・。
 ここには、祭司・レビ人・サマリヤ人の三人が登場しますが、「この人たちは、羊と山羊のどちらの群れに属しますか?」と問われたら、皆さんは、「サマリヤ人は羊の群れに属し、祭司とレビ人は、山羊の群れに属する」と答えるかもしれません。では、皆さん自身はどうでしょうか。このよきサマリヤ人のようになり、羊の群れに属する者になれるでしょうか。
 私はイスラエルに何度も行ったことがあります。イスラエルは、砂漠地帯が多いのですが、日中と夜の寒暖の差が激しく、日が落ちると急激に冷え込むのです。
 昔は、道に灯りなどなかったでしょうから、夜になると真っ暗で、このたとえの場所は、頻繁に強盗が出るような、ゆっくりと旅を楽しみたいとは思えない、できるだけ早く通り過ぎたい所だったでしょう。
 ここに出てくる祭司やレビ人がどのような状況にあったかはっきりしませんが、ある人から見れば、愛のかけらもないひどい人たちだ、と思うかもしれません。しかし、この祭司やレビ人(今で言うなら、牧師やスタッフでしょう)も、普段は人々に愛を説き、誰かに問題が起きたときには、実際に手を差し伸べていたと思います。しかし、祭司やレビ人は、この倒れている人を助けることをせず、見て見ぬふりをして反対側を通り過ぎてしまいました。これは、私たち一人ひとりの姿を現しているかもしれません。
 皆さんも、愛する家族や友人なら自分の命に代えてでも助けるでしょうし、誰かがどこかから見ていたら、助けたほうがいいかな、と思って行動するかもしれません。しかし、誰も見ていないし、ぐずぐずしていたら自分もいつ強盗に襲われるかわからない、自分の命が危うい。そんな中で、助けることができるでしょうか。
 この祭司とレビ人は、できませんでした。でも、サマリヤ人は自分と敵対関係にあるユダヤ人を助け、宿屋に連れて行き介抱し、お金まで支払ってあげたのでした。
 そこまで愛を表すことが今の自分にできるでだろうかと思います。このところから、皆さんも、どれだけ愛をかけることができるかを祈り、考えてみてください。

 マタイの福音書二十五章のたとえ話に、この祭司やレビ人を当てはめてみましょう。
 イエス様が祭司やレビ人に対して『おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』(四二~四三節)と言ったとしたら、彼らは何と答えますか。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』(四四節)と言うのではないかと思います。それに対して、『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』そして最後に、『 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。』(四五~四六節)と結ばれています。
 「この最も小さい者たち」とは、誰のことでしょうか。
 ひとりは、イエス様ご自身です。 イエス様が地上に来られた人生を振り返ってみると、決して華やかなものではなく、この世の栄光とは逆行しているようなものでした。イザヤ書五十三章一~三節には、このように預言されています。
 『私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。』
 当時の人から見れば、イエスは、みすぼらしい馬小屋に生まれ、大工の息子として育ち、三年ほどの伝道活動をしたものの、最後には十字架にかかって死んでいった惨めな人と、敗北の烙印を押された者だったかもしれません。
 また、「この最も小さい者たち」は、強盗に襲われて瀕死の状態にあったユダヤ人、そのままにしておいたら死んでしまうかもしれない人たち。そのように傷ついた人、病気の人たちのことを指していると思います。そして、肉体的な病だけでなく、霊的に傷つき、病んでいる人々、滅びに向かっている人のことも指しています。
 まだほかにも、皆さんが気付いていないだけで、あなたの周りにも「この最も小さい者たち」が必ずいるはずです。聖書の記事は、単に二千年前の話ではなく、現代を生きる私たちに主が語っておられることです。
 私たちは、毎週御言葉を聞いて恵みを受けていますが、どんなに素晴らしい教えを聞いたとしても、それを実行していかなければ何にもなりません。そのことは、ヤコブ書二章十四~十七節に記されています。
 『私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。』
 この祭司やレビ人も神に仕える者であり、信仰もあり多くの賜物を持っていたことでしょう。しかし、どんなに素晴らしい信仰を持っていても行動が伴わなかったら、神様からの期待を裏切ることになってしまうのではないでしょうか。私たちは、神様に選ばれた者ですから、神様に対して、選ばれた者としての義務を果たさなければなりません。
 皆さんの周りには、優しい人、素晴らしい人はたくさんいるでしょう。クリスチャンでなくても多くの施しをし、慈善事業をしている人、ボランティア活動を熱心にしている人も大勢いるでしょう。そういった人たちを見て、あなたは、そんなことは私にはとてもできない、と思いますか。人間的には、弱さを覚えることがあり、なんて力のない者、愛の足りない者だと感じるときがあります。しかし、私たちには生きて働いてくださる神が共にいてくださり、聖霊の力により神からの賜物をいただき、主の勇士とされているのですから、私たちは決して弱い者、力のない者ではないことを覚えてください。一人ひとりが主によって生かされていることを忘れてはなりません。

 そして、私たちには神様からの賜物が与えられています。ローマ人への手紙十二章六~八節には、賜物について書かれています。
 『私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。』
 賜物というのは、預言や異言のように聖霊の注ぎとともに突然現されるものと、あなたに与えられている能力を、神様のために使うときに花開いていくものがあると思います。皆さんは気づいておられないかもしれませんが、神は主を信じるすべての人に賜物を与えておられます。そして大事なことは、あなたが岐路に立たされたとき、人生の選択を迫られたとき、あなたに与えられているその賜物を、使うことができるかどうかだと思います。賜物を使うなら、神の栄光を現していくことができるのです。
     
 先日私は、アメリカでベストセラーになった『レッツ・ロール』という本の記事を読みました。アメリカで起きた同時多発テロ事件は、全世界の人々に大きな衝撃を与えました。この本には、そのときにハイジャックされた飛行機の一機の中で起こったことが書かれています。
 この飛行機は、ホワイト・ハウス、あるいは国会議事堂に突っ込むことになっていたそうです。四十人近くの乗客は、飛行機の中で世界貿易センタービルが攻撃されたという情報を得、テロリストが企んでいることを知りました。そこで、非常に危ない賭けでしたが、操縦室に閉じこもっていたテロリストに、皆で襲いかかったのです。飛行機が突っ込めば生存する可能性はありませんが、テロリストをやっつければ、自分たちで何とか飛行機を無事に着陸させることができるのではないかという望みがありました。操継室のドアを打ち破り、テロリストを抑えることに成功したものの、うまく飛行機の操縦ができず、残念ながら、乗客全員が死亡してしまったそうでうす。
 しかし、乗客の勇気ある行動が、アメリカのシンボルを守っただけでなく、多くの命をも救いました。テロリストの陰謀が成功したら、さらにアメリカに決定的な打撃を与えただろうとも推測されています。悪に立ち向かった乗客は国民の英雄になり、リーダー的役割を果たしたトッドさんがたたえられました。
 彼は三十一歳で、二人の息子さんがいました。アメリカのマスコミはすぐに、彼の奥さんであるリサさんに、「あなたのご主人はどうして、あんなことができたのですか」と質問をしたそうです。彼女は、深い悲しみの中にありましたが、ご主人ともども敬虔なクリスチャンでしたので、二度とない証しのチャンスだと思い、テレビやラジオ、新聞のインタビューに進んで応じたそうです。
 リサさんはそのとき妊娠六ヵ月でしたが、インタビューの中で、ご主人がキリストによって変えられて、いつも人のために生きようとしていたこと、やがて天国でご主人に会える希望があること、また、どんな悲劇の中にも神様の目的があるはずだということをしっかりと伝えたそうです。彼女の証しはアメリカの全土に反響を呼び、ブッシュ大統領に招かれその栄誉をたたえられたそうです。その数カ月後、リサさんは無事に女の子を出産し、その後、この本を書きました。
 『レッツ・ロール』には、「さあ仕事に取り掛かろう」という意味があり、トッドさんの口ぐせであり、彼がテロリストに立ち向かう前に発した言葉だそうです。携帯に録音されていたこの言葉をリサさんは、タイトルにしたのです。この本はベストセラーとなり、さらに多くの人々に感銘を与えたそうです。
 私たち一人ひとりが、いざというときにどういった行動をとるか、本物のクリスチャンとは何か、と問われるような記事でした。

 『レッツ・ロール』の著者であるリサさんは、この本の中で、ローマ人への手紙八章二十八節の御言葉『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』をもって、こう証ししています。
 「私はよく人から、どうして憎しみやうらみを持たないのかと聞かれます。正直なところ、もし目の前にテロリストたちが立っていたら、彼らに向かって体が動くのを、きっと抑えることができないでしょう。でも、同時に私は凶悪な攻撃をしてきた人たちをただ憎んだり、うらんだりすることに、無駄な時間やエネルギーを費やしては来ませんでした。もっと大切なのは、聖書に「神を愛する人々に、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と約束されていることです。
 すべてが最初から益なのではなく、益としてくださる神がおられる、ということなのです。私たちが神を信じていても、この世の理不尽な悲しみや苦しみがなくなるわけではありません。神は、『わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたのであって『あなたの人生を楽にしよう』と言われたのではないのです。苦しみも、悲しみも、すべてのことをかならず益としてくださるという神の約束にこそ、希望があるのです」
 聖書に、このような御言葉があります。
 『あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。』(ピリピ人への手紙一章二九節)
 私たちには苦しみもあります。しかし、それは苦しむだけで終わるものではありません。リサさんが言うように、神はすべてのことを益としてくださり、さらに祝福を与えてくだいます。すべては神の栄光のためなのです。
『また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。』(エペソ人への手紙一章一八~一九節)
 私は祈るとき、「神様の力はこんなものじゃない、このくらいで終わるものじゃない!」と神様に期待して祈っています。今読んだ御言葉のように、私たちにはその力が、その働きが託されており、神様のために行動を起こすなら、神のすぐれた力を知ることができるのです。

 最後にもう一度 コリント人への手紙第一 十章三一節をお読みします。
 『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』
 私たちの家庭、学校や会社での日々の生活、食べること、飲むこと、何をするにも、そのすべてのことにおいて、主を仰ぎつつ、どんなことでもその時々に私たちに任せられたことを喜んで行っていくなら、主が御業を現してくださり、そこに主の栄光を現してくださると信じています。主の栄光を現すために、共に祈り、前進していきましょう。