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『究極の勝利を目指して パート4

2013.4.21 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの福音書14章1節〜6節

『「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。


 ハレルヤ!おはようございます。ワンウェイ・ボーイズの演奏、すばらしかったですね!私に気をつかってくれたのか、グロリア・シンガーズの往年の名曲を披露してくれました。アレンジまで、そのまま再現しようとしていましたけれど、このように世代を超えて賛美が受け継がれ、信仰が受け継がれていることは、本当にすばらしいことだと思います。今日も共に集まって、主を礼拝できますことを、心から感謝します。
 時代はどんどん過ぎ去って行きます。以前もお話ししたように、百年もしたら人類は総入れ替えです。それでも教会が同じ霊的流れの中、聖霊に満たされて代々信仰を受け継げたらすばらしいですよね。

 「ひとつの道」という歌を歌ってくれましたが、今、読んでくださった聖書の箇所に、『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』とありました。「イエス様だけがひとつの道」という、このみ言葉から曲を作りました。
 私たちクリスチャンはどこへ行くのか、行く所が分かっています。しかし一般に聞くと、「行く所が分からない」という人が結構多いです。誰かが死んだりすると、死者を一生懸命拝むのです。なぜなら、「拝んであげないと、死者が行く所に行けない」というのです。行く所が分かっていない人に、死んでから行く道を拝んでもらっても、どこにも行くことはできないのです。しかし、私たちは行く所が分かっています。それは本当に感謝なことです。

 先週と先々週、この教会では二つの葬式がありました。先々週は、この教会で二十五年間、一緒に信仰を守っていた白井姉妹が天に帰られました。寂しく思います。いつも共に礼拝を守っておられた方が天に帰られたのです。八十三歳という、高齢ではあったわけですが、私は一月十四日に、孫たちを連れてお邪魔しました。その時はまだ元気でした。
 また先週は秦さんという方が天に帰られました。その方はご病気で病院で主を信じ、洗礼を受けられました。一緒にお祈りして、家族や親族も集まり、永遠の希望に燃えておられました。しかし天に帰って行かれました。ちょっと寂しいな、と思います。
 私たちは、一つの道を歩んでいます。行く所がちゃんと分かっています。そして、神の計画の中で、全てが導かれるのです。
 ヨハネの福音書十四章は、イエス様が十字架で死ぬ前に、ある意味、遺言のように語られた箇所です。ヨハネの福音書十四章一節〜三節、

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』

 イエス様が十字架で死なれたのは、私たちの罪の身代わりであり、もう一つ、私たちのために場所を備える為でした。場所を備えたら、もう一度戻って来て、私たちをその場所に迎えてくださるというのです。
 『わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』と語られました。やがて私たちは地上から出て行く日が来ます。しかし、行くべき場所が備えられているのです。場所の用意ができたら、主が私たちを迎えて下さるのです。
 二人の方々が、先週、先々週と天に帰られたのですが、寿命だったとか、病気だったと人は言うのですが、そうではありません。その方々の場所が、天に用意されたからです。「あなたの場所が整いました。さぁ、おいでください」と、天からのお迎えが来たのです。ですから心配することはありません。

 二週間前の月曜日、白井姉妹が入院されたことを聞きました。一回、お見舞いに行きたいと願っていたのですが、二週間前はリバイバル聖書神学校が新学期で、結構忙しかったのです。それで木曜日の午前中に、訪問を計画しました。前日の水曜日、水曜主日礼拝が終わり、その後、神学校の卒業生の為の祈りを頼まれたりしていました。ある方と、祈りのためにお話ししている最中、主が私に「今からすぐに白井姉妹が入院している病院に行きなさい」と語られたような気がしました。それで私は「すみません。ちょっと今から病院に訪問に行かなければならない気がします。お話は途中ですが、ここでストップさせていただいていいですか?」と断って、午後二時半くらいでしたが家内と一緒に、蒲郡市民病院に行きました。
 病室に入ったら、意識ははっきりしていないようでした。「白井さん!順が来ましたよ。」と耳元で言ったら、少し頷いた感じでした。長い時間は話すことができない様子でしたので「主よ。何か良い御言葉を与えてください」とお祈りした時、ふっと心に浮かんだのがヨハネ十四章の御言葉でした。それで耳元で『あなたがたは心を騒がしてはなりません。』とお読みし、そして「場所が備えられたら、イエス様が迎えに来て下さいますよ」と話して、最後にお祈りしてお別れしました。
 帰って来てしばらくしたら、お電話がありました。「先ほど、安らかに天に召されました」と。「本当に行って良かった!」と思いました。聖霊様が「今から行きなさい」と語られた声に従って良かったです。最後にお会いすることができ、このような御言葉も主からいただきました。白井姉妹は、この御言葉を耳元で聞き、安心したかのように天に帰って行かれました。神は計画の中で働いておられると感じました。

 主から「行きなさい」と声をかけられたら、すぐに行かなければなりません。その声に忠実に従って行きたいです。クリスチャンひとりひとりには、主の計画があります。
 私たちは「行く所が分からない」のではなく、「行く所がはっきりしている」のです。

 引っ越しをされた体験があると思います。例えば家が古くなって、倒れそうなら、新しい家を作り引っ越します。
 私の引っ越しは今までに一度だけです。結婚して、ずっと同じ家に三十数年住んでいたのですが、ある夏の日、お風呂場を開けると、羽アリがびっしり付いていました。ぞっとしました。どこから入って来たのかなと思ったら、彼らは家を食料として食べているようでした。「これは危ない」ということで、今は新しい牧師館が建ち、引っ越しました。

 引っ越しって結構大変ですね。でも、引っ越す時に分かるのは「なんて、いらない物が多いのだろう…」という事です。日本人は、物を捨てるのが不得意な国民らしいです。みなさんはどうでしょうか?物を買ったら、火事になって燃えるまで置いておくようなところがあるかもしれません。
 そもそも、一ヶ月ほとんど触らない物は、その後も、あまり使わないそうです。一年間使っていない物は、今後も、ほとんど使わないそうです。しかしなかなか整理できません。それは日本人の性格でしょうか。
 しかし、引っ越しの時は思い切って、いらない物は処分します。すると三分の一くらい捨てる時もあります。いらないものは全て捨て、必要なものは引き継ぎ、新しい家具を入れて快適な生活になるわけです。

 人生も同じだと思います。やがて私たちはこの地上の人生を終えて、出ていくのですが、出て行く時、何が起こるのでしょうか。地上では悪い物がたくさんあります。悪い記憶や経験など、いらない物が多くあるじゃないですか。しかしそれら、悪い物は全て捨て去り、良い物だけが天に受け継がれるはずです。
 ある人は「うちのじいちゃん。大酒飲みで悪い人だった。だけどぎりぎりでイエス様を信じて天国に行った。天国に行ったら、またあのじいちゃんと会わなければいけないの…」と思わないでください。悪い物は全て地上に残し、良い物だけが引き継がれているからです。天の良い資産が加えられ、すばらしいおじいちゃんと会うのです。
 「行く所がはっきり分かっている」それは本当に感謝なことです。
 今日、もしも行く先が分からない方がおられたら、主イエス様を信じてください。『わたしが道であり、真理であり、いのちです』と言われたのですから、この道を歩めば、間違いはありません。こんな言葉を語ることができるのは、神様か、世界で一番頭の狂った人物かのどちらかです。私なら絶対に言えません。言ったなら「あの人は頭がおかしいぞ」と言われます。
 イエス様はこの言葉を語られて、二千年間従う人が絶えないのです。ここに道があるのです。私たちは真理の道を選択しなければならないのです。

 葬式で初めて教会に来られる方も多いですから、この事をいつもお話しすることにしています。「みなさんは行く所、ちゃんと分かっていますか?どの道に行くのですか?」と話します。
 日本人は死んだら何もなくなってしまうと考えている人もいれば、輪廻すると考える人もいます。また、先祖の霊となって草場の陰に隠れ、拝んでくれないと鬼になって祟ると考える人もいます。様々です。死後どうなるのか、はっきりと分かっていないのです。
 しかし、私たちクリスチャンには、永遠の道が備えられています。みなさんはどの道を選択されますか?死んで無くなる道ですか。それとも輪廻ですか。輪廻はおっかけっこですから、二度と愛する人と会うことは出来ません。人間になれるのか、動物になるのか、夜叉になるのか、全く分かりません。先祖の霊になり、行く所が分からず、石塔の陰や仏壇に漂うのは嫌ですね。拝んでくれなかったら、愛する家族にさえ害を与えるのです。そんな霊には絶対になりたくありません。永遠の国、天国に家が用意されたら、そこに移って行く、その道を選びたいものです。

 私たちはこの道を皆に紹介しなければなりません。誰に紹介するのか。まずは家族に話しましょう。
 先週は「明ミニストリー」の一貫で、この教会に島田から来られている大石さんのお宅で、ロン・ブラウンとティム・ケプラーを招いて家庭コンサートがおこなわれました。みなさんも一回、家族の救いのために、やったらよろしいのではないでしょうか。どんな家庭集会だったのでしょうか?

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 家庭集会にしては、大勢の人が来ましたね。家も大きいですね。

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 これは家庭集会の域を超えております。別部屋にプロジェクターで映像を送って百人以上が参加したというのです。村の一大イベントになってしまったようです。今週は加子母村であります。家族の救いを願って、いろいろな機会を通して福音を伝える事が重要です。

 「私の家族、一生懸命伝道しているけど、なかなか救われない。本当に頑なだ」という人もいるかもしれません。聖書は『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます』と告げています。神は「家族」に特別な目を注いでおられます。
 家族の中で誰か一人がクリスチャンになることは、家族全員の救いにつながるのです。ですから、機会を捉えて証することはすごく重要です。
 聖書を見ると洪水の時、ノアだけが神様との関係が良かったわけです。しかし救われたのはノアの家族八人でした。「船」という字はおもしろいですね。小さい「舟」が、大きい「船」になると「八と口がつきます。ノアの家族八人が全員入り口から箱船に入り救われたのです。家族のために救いの箱船を作ることは、重要です。救われていない家族のために、真剣に心を砕き祈りましょう。

 「この人、天国に行ったのかな。地獄に行っちゃったかな」と、時々心配になることがあります。しかし日頃伝えておけば、神様はちゃんと、家族を省みてくれるはずです。
 今からもう三十年前くらい前になるでしょうか。この教会に一人のおばあちゃんが来られていました。でも、じいちゃんは頑なな人で、教会の悪口ばかり言っていました。この近くに住んでいた人でした。私もそのじいちゃんと会ったことがありますが、「教会なんか嫌いだ」と言って、悪口をいっぱい言われました。体は小さいけれど、口だけは達者なじいちゃんでした。おばあちゃんはいつも、そのじいちゃんに苦しめられていました。教会に行こうとすると妨害するし、大変なじいちゃんでした。
 しかしある夜、真夜中に我が家に電話がかかって来ました。「じいさんがトイレに行く途中で倒れた!」と言うのです。私はすぐにその家に飛んで行きました。じいちゃんの鼻に手を当てたら、息をしていないようでした。じいちゃんは夜中にトイレに立って数歩歩いて倒れ、そのまま死んでしまったのです。
 「悪口ばっかり言っていた人だから、天国に行けなかったんじゃないか。」と思いました。おばあちゃんも放心状態で、座り込んでおりました。「この人はイエス様の悪口ばっかり言っていたからね…」と嘆いておられました。私もそんな風に思いました。

 しかし、おばあちゃんは自分の連れ合いでしたから、心配だったらしいのです。「神様。うちのじいちゃんは地獄に行ったのですか。天国に行けましたか。教えてください」と祈っていたそうです。
 そうしたらある夜、夢を見たというのです。どんな夢を見たのかというと、それは天国の夢だったそうです。どんな光景だったかというと、新城教会から天に帰った人たちが、みんな集まってがやがやと楽しそうに話をしていたそうです。
 新城教会は六十年くらい経ちましたから、今や天に帰られた方々は多いです。納骨堂もかなりいっぱいになってきました。下の会衆より、上の会衆が多くなるのはちょっとまずいなと思っていますが。
 天国で新城からの人たちが集まって楽しそうに話していた中で、自分の旦那がいるかどうか見わたしたそうです。「うちのじいちゃんはいるかな・・。いるかな?」と。
 すると、やっぱりそこにはいなかったそうです。「あぁ駄目だ…」と本当にがっかりしたそうです。

 そうしたら、天国の道路を、「レレレのレー」という感じで、竹ぼうきで掃除している人がいたというのです。その人をよく見たら、自分のご主人だったというのです。
 これは神学的に正しいかどうかは別にして、ばあちゃんに分かり易く教えてくれたのだと思います。
 「あなたのご主人はちゃんと天国に入りましたよ」と。「最後まで反発していたけれど、あなたがいつもわたしのことを家で話していたから、天国に入れてあげましたよ」と。
 いくら反対されても、常に家族に福音を伝える事は大切です。

 この頃、ここでよく話をしていますが、今の時代は、世の終わりが間近な時代だと思われます。何度もお話ししましたが、今から二千年前、イエス様は世の終わりのサインについて預言されました。「どんな事があるんですか?」と弟子たちが聞いたら、「方々に戦争や飢饉があり、地震がある」と言われました。戦争・飢饉・地震を今の時代に当てはめたら、ぴったりです。
 この頃、戦争の噂が絶えないです。一触即発というか、ちょっとでも誰かが判断を誤ったら、世界は瓦礫の山となります。第三次世界大戦に発展してしまうかもしれない危機が、毎日のようにメディアから発信されています。これからどうなってしまうのだろうか…と思います。それはイエス様が語られた、世の終わりのサインの一つです。
 もう一つ、飢饉があるとイエス様は語られました。「日本に飢饉なんかないよ。食べ物なんて、捨てるほどある」と言いますが、日本はたくさん食べ物があるように見えるだけです。今の時代は、すべて流通によって成り立っています。一端、流通が止まったら、すべてアウトです。三・一一の時も、道路が寸断され、流通が止まり、水や食料が、あっという間になくなりました。今の流通は日本だけでなく、世界ネットワークです。この頃、TPPだかLEDだか、なんだか、訳の分からない横文字が多くなりました。TPPで貿易が自由化されたら、グローバルな流通ネットワークがさらに強化されるわけです。戦争や災害が世界のどこかに起これば、あっという間に物資が入って来ないことになります。それは飢饉です。

 地震はどうでしょう。大きな地震が、この頃増えて来たのではないでしょうか。東の方で起こっていた地震が今や降りてきています。我々は西に位置していて、二年前はなんとか助かった所がありますが、震源地がだんだん西の方に降りて来ている感じがしませんか?先週も、三宅島や淡路島で大きな地震があり、ちょっと大丈夫かなという感じです。
 イエス様は「地震が多くなる」と言われましたが、イエス様の預言は確かです。

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 これはマグニチュード六から八クラスの地震が、世界でどのくらい起きているのかを示すグラフです。紀元二〇〇〇年から、今までとは比べものにならない程、多くなっています。これは何のサインでしょうか?やはり、世の終わりのサインではないでしょうか。

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 三連動地震が起こったら、どういうことになるでしょうか。一六〇〇年代、七〇〇年代、八〇〇年代、九〇〇年代と三連動地震が起こっています。一番怖いのは東海地方です。近頃ずっと空白です。貯金が満期になっても、なかなか下ろしに来ないみたいです。これからどうなってしまうのかと。

 今こそ、真剣に神に祈らなければなりません。そして、福音を伝えなければなりません。いつ終わりが来るのか分からない今日この頃です。
 イエス様の弟子たちも、常に緊迫感を持っていました。「主が帰って来られる、終わりの日が来る」という緊迫感を持って、福音を伝えました。私たちはさらなる緊迫感を持ち、福音を伝える必要があります。
 マタイの福音書二十四章十四節。

『この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。』

 「福音宣教」は何のためでしょうか。それは第一に、誰一人として滅びないためです。しかしもう一つは、全世界に福音が伝えると、イエス様がもう一度帰って来られるからです。
 近頃「主が帰って来られる」という、再臨に関して話すように主から強く導かれています。イエス様が帰って来られる日に、何が起こるのか、それはすべての支配や権威が一掃され、主が世界を治められるのです。神の国の到来です。それはクリスチャンが一番待ち望んでいるものです。
 リバイバルとは、国に主が訪れられ、支配されることですが、それは後に来るモデルです。イエス様が帰って来られる日、再臨後に起こる事柄のしるしです。主が帰られる日、終わりの日、それは主が世界を支配される日です。

 その日を早めるために、何をしなければならないのでしょうか。御国の福音を全世界に宣べ伝えなければならないのです。ゴールを目指して進んで行かなければなりません。
 今日は礼拝の後、ギデオン協会の働きの献金があります。みなさんの中で「私はギデオン協会の聖書をもらったことがある」という方、どのくらいおられますか?

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 結構おられますね。すばらしいです。聖書をもらって御言葉に接するのです。簡単にもらいますけれど、何を目標にこの働きを行っているのかと言えば、イエス様が帰られる日をゴールにして、やっているのです。
 全ての人が救われて、主が帰って来られるのではなく、福音がすべての国民に証しされ、それから終わりの日が来るのです。福音を知らせることが大切です。聖書を受け取れば、読めば真理に出会うわけです。ヨハネ十四章を読んだら、真理がイエス様であることが分かります。聖書がある人の手に渡ったら、ある意味、その人の自己責任です。積極的に協力しなければならないと思います。本当は、この働きは教会がやらなければいけない仕事です。しかし教会に代わって、ギデオン協会の方々が行って下さっています。私の高校生の頃も、ギデオンの方々が来て、高校で聖書を配っていました。聖書配布は、イエス様が帰って来られる日を早めるためです。

 家族にイエス様のことを伝えるのも、主が帰って来られる日を目指しているのです。福音宣教の進展と共に、主の帰られる日が近くなったり、遠のいたりするのではないでしょうか。
 ヨハネ十四章の、『わたしはあなた方の所に帰って来ます』とは、イエス様の復活だけでなく、再臨の日をイメージして語られたのです。
 主は再び帰って来られます。この事は事実です。そしてその日は間近です!

 誰かが救われるのは、暗闇の支配・サタンの支配から、神の支配下に移されることであり、霊的戦いそのものです。
 前回もお話ししましたが、教会にはどのような使命が与えられているのでしょうか。エペソ人への手紙三章八節〜十一節を共に学びました。

『すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。』

 パウロの使命は異邦人に福音を伝えることでした。それと共に、『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるため』と告げています。それが『神の永遠のご計画によること』だというのです。
 「天にある支配と権威」とは、「悪魔と悪霊どもの組織」です。そこに教会が立ち向かって行く時、暗闇の力が打ち破られ、宣教は進展し、同時に、イエス様が帰って来られる日が近づくのです。

 リバイバルミッションは、今年、和歌山でミッションを開くことにしています。和歌山は太平洋に面しています。今、リバイバルミッションの全体的構想として、「アジア・環太平洋ミッション」があります。アジアと環太平洋に福音を伝えるようにと、主が語ってくださっています。
 ある人が福音が伝わっていない地域と、暗闇の要塞の本部がどこにあるのかを調べました。悪魔・悪霊どもが強く働いている拠点を調べたら、一つの結論に至りました。

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 北緯十度から四十度の窓、テン・フォーティ・ウィンドウと言います。その中に救われていない多くの人たちと、暗闇の要塞の本部があることに気づかされました。茶色になっているところ、これが北緯十度から四十度の窓です。ここにはアジア全体が含まれます。また、福音化が難しいイスラム圏も拡がっています。北緯十度から四十度の中に、イスラム教の聖地と呼ばれるメッカもあり、仏教、ヒンズー、儒教、道教、神道、様々なオカルトの拠点があります。悪魔の拠点が北緯十度から四十度の間にあるのです。
 この窓に対して、私たちは福音を伝え、悪魔の要塞を打ち破る必要があります。この地域に霊的戦いを広げなければならないのです。
 その時何が起こるのか。それは、天の司令官であるイエス様が、この地に帰って来られるのです。

 イエス様は「すぐに帰って来る」と言われたけれど、二千年も経ってしまいました。どこに原因があるのか。神様側の理由は分かりません。しかし教会がまだ使命を果たしていないところも、あるのではと思います。福音宣教は一生懸命がんばってきたけれど、福音宣教に伴う霊的な戦い、目に見えない暗闇の組織に立ち向かう意識が欠けているからではないでしょうか。
 アジアに大きな霊的拠点があるのにも関わらず、それに気づいていないなら、教会の使命は果たされていません。
 世の終わりの時代、主は天で来られる日を準備しておられます。その為に、教会を励ましておられるのです。「もう一つ重要なことがありますよ。暗闇の力に立ち向かってください。そうしたらわたしは帰って来ます!」と主が、世界中の教会にサインを送っておられるのではないかと思います。

 新城教会に一九九二年、突然霊的戦いが開かれました。それはなんの為でしょうか。地域のリバイバルとか、日本のリバイバルもありますけれど、究極的な目的は、「主が帰って来られる日のための準備」として賜物を与え、扉を開いてくださったのです。大きな目的と使命の中にあることを、知らなければなりません。
 もしかしたら、私たちは地上でイエス様をお迎えできるのかもしれないです。私たちが地上にいる間に、主が帰って来られたら、どんなにすばらしいでしょうか。そのためには、教会が敵と戦う視点を持ちながら、福音を伝えることが重要です。

 イエス様の再臨に遭遇するならば、何を目撃するのでしょう。イエス様は、先に天に帰ったすべての聖徒たちを連れて来られます。彼らが最初に復活します。それに続き、私たちも一瞬にして栄光のからだに変えられるのです。今日、主が帰られたら、ここにいる皆が一瞬にして栄光のからだに変えられるのです。

 一九九二年七月、霊的戦いが始まって、私は少しへこんでいました。それは突然起こりましたから、「これから、どうなっちゃうのか…」と心が暗かった時、七月三十一日のことでした。名古屋に家庭集会があって、まだ時間が早かったので木陰で寝ていました。
 そしたら急にみょうな風が吹いて来て、なんだろと思って天を見上げたら、雲の中から十字架が飛び出て来たのです。

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 こんな感じでした。今から考えると、もしかしたら、あれは主が帰られる日が間近であることを、知らせてくれたのかなと思います。その日、イエス・キリストの十字架の勝利をはっきりと教えられました。私が今まで霊的戦いを続けることができたのは、もちろん御言葉の励ましによってですが、一番大変な日に、天に十字架を見せられたからです。
 十字架は二回見えました。私はあまりにも突然で、びっくりしたので、周りの人たちに言えませんでした。その日の運転手は、若き日の四元雅也先生でした。
 その日の家庭集会の帰りに彼が言いました。「順先生。今日なんかあったでしょ?何か見たでしょ?」と言うのです。なぜかと聞くと「目が点になっとった」と言いました。彼は私の顔を見ていて、私は十字架を見ていたのです。十字架を空に見たのです。主がやがて帰られる日のサインだったのかもしれません。

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 Jesus will come again!もう一度帰って来られます。

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 ラッパが鳴り響く時、聖徒たちはよみがえり、私たちは栄光のからだに瞬間的に変えられるのです。そんな日が未来に待っているのです!
 第一コリント人への手紙十五章五十節〜五十四節にこんな言葉があります。

『兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。』

 イエス様がよみがえってくださったのは、初穂としてよみがえってくださったと何度もお話ししました。初穂とは最初に出る穂です。その後、どんどん穂が出て来ます。イエス様はなぜよみがえったのか、それは私たちもやがて、よみがえる日が来るのです。
 イエス様は死を打ち破ってくださったのです。でも、私たちは寿命が来ると死んでしまうのです。「イエス様は死を打ち破ったって言うけれど、俺たちは死んでしまう。それでは救いでもなんでもない」と言う人もいます。しかしキリスト教の救いは完璧です。私たちも、よみがえるのです。よみがえりの日、『死はいのちにのまれた』という、この御言葉が実現するのです。

 イエス様のよみがえりは初穂で、私たちがよみがえる日、それが究極的勝利の日です。ということは、イエス様の十字架から、イエス様が帰られるその日の間は、教会時代であり、戦いの時代です。その事をよく知らなければなりません。私たちがよみがえるその日、それが人類にとっての究極的勝利の日です。

 第一コリント人への手紙十五章五十五節〜五十八節、

『「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。』

 時々牧師をやっていて、いろんなお仕事をさせていただきますが、ある方のいやしを真剣に祈っても、いやされないで天に帰る人もいます。期待通りの祈りの答えが手に入らない場合があります。みなさんも経験されたことがあると思います。「なぜだろう…」と。「今まで一生懸命やってきたことは、なんだったんだ」と。
 「私は一生懸命、家族の救いのために戦って来た。しかしまだ救われていない。問題は依然として残っている。戦いが続いている…」ということがあります。「今までの働きは無駄だったのでは…」と思うことがあります。しかし、そうではないのです。
 一つ一つの働きは重要な霊的戦いです。一つの問題に対して教会が背後に働く暗闇の力に立ち向かって行く。それは、結果はどうであれ、戦いは決して無駄ではありません。その戦いによって、主が帰って来られる日が早められるのです。
 ある人が病で、そのために真剣に悪しき力に立ち向かって祈ったけれど、天に帰ってしまったとしても、そこで戦った戦いが、主の再臨を早め、その人の復活を早めるなら、大きな意味があります。究極的な勝利は『死がいのちにのまれた』という、御言葉の実現の日です。イエス様が再臨され、人々がよみがえるその日に実現するのです。
 どんな小さく見える戦いでも、すべて、究極的勝利を目指しての戦いです。

 私たちは、神の国の軍隊として地上に派遣された地上軍です。戦う相手は、暗闇の支配者、悪魔と悪霊どもの組織です。しかし、神の国の軍隊は必ず勝つのです。局地戦においては、様々な苦労があるかもしれません。しかしそれは何のための戦いかと言えば、国の勝利を背負っているわけです。
 かつて日本が太平洋戦争の時、アジアに出て戦いました。この中でも、兵士として戦った方もおられます。青年たちが赤紙一枚で、戦地に送られました。彼らは目前の敵と、血みどろになって戦ったのです。大勢の人が死にました。「この戦いは何だったんだろう…」と思ったでしょう。
 しかしその戦いは、個人戦ではなく、国の戦いだったのです。連合軍側でも、多くの人たちが命を落としました。日本の特攻隊に突っ込まれて、死んだ人も多くいるわけです。局地戦では、いろいろな事があったけれど、やがて国と国との戦いは終結し、最終的に連合軍側が勝利したわけです。私たちの霊的戦いも同じです。
 局地戦だけ見ると「なんてこった。神様は祈りを聞いてくれていないじゃないか。」と失望することがあります。
 しかし、私たちは神の国の戦いを戦っています。それらの戦いはすべて、来たるべき完全勝利の日につながるのです。
 ゆえに、どんなに小さく見える、また、あまり価値が無いように見える戦いでも、それが神の国の戦いにつながっているならば、真剣に戦い抜かなくてはならないのです。そして、人間の目にあまり大きく見えない戦いが、実際は大きな勝利につながるのです。

 私たちは日々の戦いを、やがて来るべき完全勝利の日を早めるために、戦っている事実を知る必要があります。パウロは次のように語っています。

『ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。』

 私たちは何一つ無駄はないのです。主の御名による働きは、何一つ無駄にはならないのです。私たちの目には、無駄に見えるかもしれないけど、決してそうではない。やがて主が帰って来られる日、悪魔の力は完全に打ち砕かれるのです。

 それから千年の間、よみがえった者たちはイエス様と共に、この地を支配するのです。そもそも人間は造られた時、『地を支配しなさい』と言われたのです。この地の支配者として、神は人間を造られました。しかし蛇に支配権を奪われました。けれども、イエス様の十字架と復活、やがて来たるべき主の再臨により、主は私たちと共に地を治めるのです。ヨハネの黙示録二十章一節〜六節、

『また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。』

 イエス様が帰って来られたら、聖徒たちは千年の間、主と共にこの地を治めるのです。エデンの園で失った、地を治める権威がここで回復されるのです。気の遠くなるような話ですが、私たちの未来にその日が含まれています。
 そして私たちは日々、「主の道を用意する者」として、この地上に存在しています。
 イエス様の公生涯が始まる前、バプテスマのヨハネが現れました。彼は、主が来られる道を用意する者でした。これは預言的なことでした。やがてイエス様が帰って来られる日を表しています。バプテスマのヨハネとは、私たちクリスチャンと教会を表しています。マタイの福音書三章一節〜三節、

『そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。』

 私たちクリスチャンは、バプテスマのヨハネと同じ、主が帰って来られる道を用意し、その道をまっすぐにするために救われたのです。道備えをする者、それがクリスチャンであり、教会です。
 主が帰って来られる道をまっすぐにし、用意する者でありたいと願います。『わたしが道であり、真理であり、いのちです』とイエス様は語られましたが、この真理の道をまっすぐに進み、暗闇の力を打ち破る時、主の道は用意され、主が帰られる日が早められると信じます。

 最後にみなさんと共に、聖餐式を行いたいと思います。ご一緒にお祈りをしたいと思います。バプテスマのヨハネは荒野で叫ぶ声でしたが、私たちも荒野で叫ぶ声です。
 主が帰って来られる道を用意し、主が帰って来られる日のための戦いであることを意識して、感謝と共に聖餐にあずかりたいと思います。


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。私たちは主が帰って来られる道を用意するために、この地上に生きていることを感謝します。主よ、一刻も早く、この地に帰って来てください。そのために私たちはこの地で福音を伝えます。暗闇の力に立ち向かいます。一人ひとりに、力を与えてください。
 私たちの先駆けとしてよみがえってくださったイエス様、私たちは聖餐にあずかります。もう一度、決意を新たにする時となりますように。今からの時を祝福してください。イエス・キリストの御名によって、聖餐式を始めます。アーメン。