『もう一度、確認しよう!』
2013.6.23 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書 10章17節~24節
『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」』
ハレルヤ!すばらしいダンスを見せていただきました。私たちの時代には、ああいうタイプのダンスはありませんでした。学校で新城音頭という、変な盆踊りみたいのを踊らされたのを覚えています。今の中高生は私たちとは違った領域に住んでいるようです。しかし、人生はあっという間に過ぎ去って行きます。
若い頃の思い出は、大切にする必要があります。主を信じて歩んでいると、振り返ると「主が偉大なことを成してくださった」と気づくわけです。
私は若い頃、グロリア・シンガースというバンドをやっていました。近頃、その頃のことをよく話しますが、「こどもの頃の思い出」という曲を作りました。あの頃は若かったはずなのに、さらに幼い頃を思って曲を作ったようです。今から三十年も前の曲です。その頃の私たちの心境が歌われています。今日、子どもたちのダンスも見て、若い頃を思い出しました。この曲は私が作ったのではなく、私の弟の一人が作りました。でも一緒に演奏しています。この頃この曲を聴き直して「振り返ると、神様の御業を見ることができる!」と感動しました。主の働きは、後からになって確認出来ます。私のメッセージの前に、その曲を聴いていただきたいと思います。「こどもの頃の思い出」という曲です。
♪空に浮かんだ雲を野原に寝転び数えた
鮫や鯨や魚が心の海を泳いだ
子どもの頃の思い出 鮮やかによみがえる
大きな空を造った 神様がそこにいる
あの頃僕の家は四軒長屋の片隅
時には思わぬ出来事 お米もお金も底をつく
子どもの頃の思い出 鮮やかによみがえる
米びつ囲み祈った そして僕がここにいる
子どもの頃に宿った 神様への思いは
大きく強く育って いのち燃やしてる
いのち燃やしてる♪
このような曲ですが、私たちが実体験したことを歌にしました。私たちの幼い頃は本当に貧乏でした。新城中学校の後に住んでいて、教会は四軒長屋の片隅にありました。今のように、多くの人が集まっているわけではありませんでした。家族と一握りの人々でした。
当時は食糧難で、食べる物が無くなる事もありました。それで、家族みんなで米びつに手を置いて祈ったことがありました。
米びつって知ってますか?ほとんどの人が知らないかもしれません。その上に手を置いて「神様、お米を与えてください!」と祈った記憶があります。そうすると、開けてみるとどうでしょう。お米が増えていた、ということはありませんでした。
でも、誰かがお米を持って来てくれたりして、支えられ生き抜く事が出来ました。戦後のどさくさを生き抜いた方々は、皆、同じ体験をしたのかもしれません。今のようにコンビニがあって、すぐに欲しい物が手に入るなんて、夢のまた夢のような時代でした。
そんなただ中でも、ただ主にだけ信頼して、生きて来ました。年月を経て振り返るとき、主が私たちを支えてくださったことが分かるのです。
「こどもの心に宿った、神様への思いは、大きく強く育っていのち燃やしている…」と歌われていました。今から三十年前に歌ったわけですが、それから三十年が経って、私の心に、その火は今もなお熱く燃えています。
信仰とは、すぐに結果が出ないような気がする時もあります。時には、「なんで私の思った通りに行かないんだろう…」という時もあるかもしれません。しかし三十年、四十年、五十年と経って振り返ると、「実に主は、すばらしいことをしてくださった!」と気づき、主を賛美するのです。
今日も若者たちがダンスをしてくれましたが、彼らもやがて、年を取ります。その時、気が付くと思います。「あの頃燃えていた火が、今も心の中に燃えている!」と。その火は決して消えることはありません。
先週も私はここでお話ししました。クリスチャンは、本当にすばらしいです。なぜなら、行く所が分かっているからです。私たちは永遠まで続く道を知っています。日本人が真面目に、自分たちの信じているものと聖書の福音を比べたら、絶対にこの方がいいと分かるはずです。そのことを、私たちは広く伝えなければなりません。
六月も終わり、七月になります。早いですね。先日、ここで新年の集会をやったと思ったら、あっという間に半年が過ぎました。
暑い夏に入りますが、この夏はすばらしいプログラムがあります。今日、みなさんのお手元に、チラシが手渡されたと思います。このコンサートは新城教会の「ヘブンリー・キングダム」のコンサートです。
しかし、そこに来るゲストたちがすごいのです。是非とも、ヘブンリー・キングダムの方々は、ゲストに喰われないようにしていただきたいです。すでに十分、喰われているかもしれませんが、すごい人たちが来ます。
なんとアメリカのロサンジェルス、パサディナから、パサディナ・チャーチ・セレブレーションクワイヤーという、本場のブラックゴスペルの方々が、三十数名、新城教会に来られます。
八月三日、豊橋に遠征して行われるこのコンサートに、是非とも多くのお友達をお誘いいただきたいです。友だちにうまく福音を語れなくても、このような集会に連れて来たらいいのです。その中で、分かり易く福音が語られます。是非とも友達を連れて来て下さい。本当にパワフルなコンサートになると思います。
ロンさんも駆けつけてくださいます。このコンサートがあれば、クリスマスコンサートはいらないんじゃないか、というくらいのすごい企画です。
今回のコンサートは「Prayer・祈り」という題が付いています。祈りを込めて、是非とも多くの人たちに、案内を差し上げたいと思っています。
前売りが千五百円、当日二千円ですけれど、ローソンやピアゴでも買うことができます。是非よろしくお願いします。
今日は、「もう一度、確認しよう!」というタイトルをつけさせていただきました。
毎年、私たちは、一年の指針となる御言葉を新年に受け取ってその年を始めます。
ちょっと前に、その御言葉を受け取ったと思ったけれど、あっという間に半年も過ぎてしまいました。
さて、みなさんどうでしょうか。今年の初めに語られた御言葉を、覚えておられるでしょうか。「なんだったけ。忘れちゃったな…」と言うかもしれません。しかし、それを今日はもう一度、確認したいのです。
日本という国は、偶像に対して、すなわち悪霊に対して強い祈りが捧げられている国です。特に年間二回、暗闇の力に全国民が膝をかがめる時期があります。
ある民俗学者が、日本の習俗、習慣を「陰・陽」というテーマで見るとよくわかると言いました。陰・陽とは「光と闇が一つになる」考え方です。日本の神々とは、闇と光が一つとなった神々です。一生懸命拝んだら神になるけれど、放っておくと鬼になるという神です。神になったり、鬼になったり、行ったり来たりするわけです。これは陰・陽の世界です。
年間二回というのは、正月と盆です。正月には国民の八割・九割が初詣に行きます。初詣とは歳神といって「光の神」という性格を持つそうです。しかし、それは本物の光ではありません。
もう一回は、盆です。盆はこの辺では八月ですが、本来は七月です。一月から見て七月はちょうど一年の半分になります。一月が陽ならば、七月は陰になります。正月に陽の神々に関わったら、今度は陰の神々にも同じように関わらなければいけないと言うのです。それが何かといったら、死の霊、先祖の霊です。盆に先祖を拝むのは陰・陽の「陰」の部分だと言われます。それが合体して、初めてバランスが取れて完成するというのです。
国民的に二回も、大きな暗闇の力に関わるのです。その結果、国は悪しき契約下に入ってしまうのではないかと思われます。
しかし、私たちは、決して、陰・陽の世界に生きる者であってはならないのです。
聖書の神はどういうお方でしょうか。『神は光であって、その中に何一つ暗い部分がない』と書かれています。私たちの神様は、暗い部分は何一つないのです。
ある時は光るけれど、ある時は暗くなるような蛍みたいな神ではありません。私たちが信じる神様は、一点の陰りもないお方です。私たちに対する約束は決して変わりません。
聖書の中には。人生に対する約束が込められています。この約束は決して変わりません。
聖書の他の箇所には、私たちの神様はイエスとノーが混同するような神ではないと語っています。イエスと言ったら最後までイエスです。ノーと言われたら、最後までノーです。
私たちは、イエスと言ってみたり、ノーと言ってみたり、約束しても途中で気が変わったりしますけれど、神様は絶対に気が変わりません。「人類に約束を与えたけれど、ちょっと気が変わった。やめとこうか…」と途中で変わってしまう神ではないとのです。イエスと言ったら、永遠の世界まで態度は変わらない神様です。
この世では光と闇が交互に出たり入ったり、混同しています。光と思っているものも、光ではないのです。
私たちは、七月を前にして、神様の約束をもういちどしっかりと握り、理解することが重要ではないかと思います。
昨年の十二月三十一日、私以外の六人の先生方が御言葉を語ってくれました。その御言葉を、みなさんは覚えておられますか?私は毎年だいたい、この時期になると忘れていました。年末になって「どんな御言葉だったっけ?」と振り返る事が多かったです。しかし今年はそうではないのです。
私は毎日、私を含めて他の六人の先生方が語ってくれた御言葉を、必ず、自分の祈りの中に入れて祈るようにしています。だからよく覚えています。
最初に、上條実先生が話してくれました。「今年は、預言者サムエルのように、神様が語って下さる言葉を常に聞けるように」という話でした。
サムエルは、三回ほど「サムエルよ。サムエルよ…」と語りかけられたけれど、全然分からなかったのです。預言者エリのアドバイスによって「それは主からの語りかけかもしれません。主よ、私はここにいます、お語り下さいと、答えてごらんなさい」と言われました。その通りにすると、それは主からの語りかけだったのです。
主は私たちに、常に語りかけて下さっています。私たちは、その語りかけを常に聞けるようになりましょう、というおすすめでした。
私も毎日の祈りの中で、主からの語りかけを、常に受け取ることが出来るようにと祈っています。
次に滝元明牧師がメッセージを取り次ぎました。それはヨナ書から、ニネベという街に大きなリバイバルが起こったことを話しました。ニネベという街は、アッシリアの都でした。ユダヤ人から見たら、異教の神々が満ちた敵の国の首都でした。
しかし、その街に一番大きな変革が起こったのです。ヨナ書 四章十一節に、
『まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。』
ニネベの当時の人口が、考古学の発掘で分かって来ました。私たちは都市というと、すぐに百万人都市だとか、一千万人都市のような、巨大都市のイメージがあるのですが、昔はそんな大きな街はありませんでした。
ニネベの人口は十七万人から十八万人くらいではなかったかと言われています。その中で十二万もの人たちが、「右も左もわきまえていなかった」状況であったのです。
アッシリアは恐ろしい民族が住んでいると、周辺諸国から恐れられていました。外から見たら、そのように見えたのですが、実は、そこに住んでいる人たちの大多数は、一部の支配者階級に支配され、右も左も分からない状態でした。わけもわからずに諸国を侵略することを繰り返していたのです。
周辺から見たら、どうにもならないような人たちと思われていましたが、神様の目は公平でした。「ほとんどの人たちは支配され、右も左もわきまえていない人たちだ…。この人たちを救ってあげなくちゃ…」と、主は、その街に大リバイバルを起こされたのです。乞食から王様まで、皆、悔い改めて救われたと記録されてます。
これを日本に当てはめると、まさに日本はニネベと同じようです。日本は何でも自由に見えるし、何でも揃っているように見えますが、世界で最もマインド・コントロールされている国は、もしかしたら、日本ではないかと思います。
「そんなこと絶対に嘘だ!」と言うかもしれませんが、その「嘘だ!」という言葉の中に、恐ろしさが潜んでいるのです。
日本ではどうでしょう。正月には放っておいても、誰もかけ声をかけなくても、八千万人、九千万人という人たちが初詣に出かけて行きます。それは、海外の宗教学者たちから見ると、異様に、また、恐ろしく映るそうです。
国が「さあ、正月には神社に行きましょう!」「みんなで行きましょう!」と呼びかけもしないのに、誰にも何も言われないのに、八千万人、九千万人という巨大な群衆が、自然と神社に来るとは、本当に日本は恐ろしいというのです。
以前にも話しましたが、最も初詣客が集まるのが、東京の明治神宮です。今年は三百十五万人集まったそうです。すごい数です。明治神宮は誰を祭っているかというと「明治天皇」です。今、日本で最も有名な歌手がコンサートを開催しても、せいぜい集まって数万人です。それは、その歌手が大好きで集まるわけです。
しかし三百万人以上の人たちに「明治神宮になぜ来たのですか?」と聞くと、「明治神宮最高!」「明治天皇、超かっこいい!」「御利益びんびん!」とか、誰も言いません。なんで来たのかを聞くと「別に…。原宿に遊びに来たから、ちょっと寄った…」という人たちがほとんどです。
何も考えないで、皆、同じ行動をとっています。それはマインド・コントロールされている意外、考えられないのです。その背後に、闇の力が働いていなければありえない事です。
初詣は自動運転です。それはいつから始まったかと言いますと、明治時代から始まりました。江戸時代には、誰も初詣なんかには行っていません。明治時代から急に始まったのです。
そして現在まで続いているということは、「日本国民はどうなっているの?」という感じです。
そのような霊的マインド・コントロールから解かれないといけないと思います。神様は、日本をあわれんでおられます。日本に大きなリバイバルを起こしてくださるはずです。「日本は罪深いからもう駄目だ」というのではなく、ニネベという、当時最悪の国であった、アッシリアの首都にリバイバルが起こされたように、日本も神の目から見放されていないのです。
そのためには、先に救われたクリスチャンたちが、義のくびきを負って働かなければなりません。そのことを、四元雅也先生が語ってくれました。
イエス様が私たちに与えるくびきは、重い物ではなく軽い物だと言われます。くびきとは「支配」を表すと語られました。私たちが、誰の支配を受けているのかが重要です。今まで、暗闇のくびきを負っていた者たちが、義のくびき、すなわち真の神様とペアになって、この世にインパクトを与えるのです。
来たる八月三日のコンサートも、義のくびきを負った者たちが、この地に光を投げ込む為に働かなければなりません。
続いて語ってくれたのが、滝元開先生でした。第一テサロニケ五章十六節~十九節から語りました。これはよく知っている御言葉かと思います。このみ言葉を心に留めましょう。
『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』
神様は私たちに対して、どう考えておられるのかと時々考えます。しかし、ここに確実な言葉があります。『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。』これが神が私たちに望んでいることなのです。
いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝できたら、どんなにすばらしいでしょうか。
続いてフェルナンド先生が語ってくれたのは、「今年は約束が実現する年になります!」という言葉でした。私はそれを握っています。今年は、今まで長いこと祈って来た祈りが、実現する年になると堅く信じます!私は毎日、それを告白して祈っています。みなさん信じますか?アーメン!
私は今週、韓国に行きます。水曜日から土曜日まで韓国に行き、土・日と、埼玉の教会で奉仕をします。今週のスケジュールのために、是非とも祈っていただきたいと思います。特に水曜日に春川に行きます。どうしても来て欲しいと言ってくださいました。そこまで言ってくださるのなら、行かなくてはなりません。今週、春川で祈りの集会があります。
それはどういう集会かというと、現在、お隣の朝鮮半島は、北朝鮮と韓国に別れています。春川から十数キロ行くと三十八度線という、北朝鮮との国境線があります。お互いに、銃口を向け合っているのです。本当に悲しい現実です。しかし、政治的とか、軍事的に統一されるのは、本当に危険なことです。聖霊によって、神の力によって統一されるようにと、月火水の三日間、街の多くの教会が集まってそのために祈るそうです。その最後の集会に、私がメッセージを語る事になっています。日本人の私に、何ができるだろうかと思いますが、日本人にしか語れないことがあると思います。是非とも、みなさんで祈っていただきたいと思います。
イエス様が「隣人を愛しなさい」と語られました。これは聖書の重要な教えであり、テーマです。この「隣人」は、ただのお隣さんではないのです。それは自分と隣り合わせに住んでいる「隣の民族」という意味です。良きサマリヤ人の例えに表されているように、ユダヤ人とサマリヤ人という、最も近くに住んでいて対立している二つの民族に対して、互いに「隣人になりなさい。愛を表しなさい。」と語られたのです。それが、神の愛を表すことであると語られました。
日本が「日本だけ」という立場に立っていたら、決して祝福されません。日本の社会を見ると、なんだか「俺たちは特別だ」という意識が蔓延している気がします。しかしその延長線には、決して幸せはないのです。
日本がもっと隣に住む、民族や国家の祝福を祈らなくてはなりません。私たちが韓国や北朝鮮に住む方々を愛して祈ることが、神の愛を表すことになるわけです。
神様からのメッセージが与えられるように、祈っていただきたいと思います。みなさんが、私の為にいつもとりなして祈ってくださっているのが、よく分かります。「祈りによって支えられている!」と感じています。
私には毎日、いろんな働きがあってあまり次の仕事の準備が出来ません。落ち着いて、机に座る時間がありません。パンを食べながら、片手で本を読んでいるような事が多いです。何を語っていいのかなと考えます。しかし、主がその場で御言葉を与えて下さる経験が良くあります。それはとりなしの祈りがあるゆえだと、深く感謝しています。今年は約束が実現する年になる、これを堅く信じて歩んで行きましょう。
次に岡本信弘先生が「あわれみの心を持って働く者になりなさい」と語りました。「あわれみ」とは聖書的に言いますと、「恵みとあわれみ」という言葉がありますが、「恵み」とは「神様からの一方的な行為」「あわれみ」とは「恵みに基づく神の行動」と語られました。神様は一方的に、私たちを愛してくださり、その中で働いてくださっているのです。その基本的な土台の上で、私たちもあわれみの心と共に、人々に関わっていくことが重要であると語られました。
私たちが常に、イエス様と同じ視点を持ち、社会、国、世界を見ていかなければいけません。そして、その原点に「あわれみ」というキーワードがなければなりません。
六人の先生方から、新年に語られた御言葉を、今一度確認したいと思います。
サムエルのように、常に主からの言葉を聞くことができるように。
ニネベに起こったような大リバイバルが日本にも起きるように。
義のくびきを負って歩むことができるように。
いつも喜び絶えず祈り、すべてのことについて感謝できるように。
今年は主が祈りに答えてくださるように。
常にあわれみの心を持って歩むことができるように。
私はいつもこの事柄を思いながら祈っています。
そしてもう一つ、私に与えられた御言葉も紹介させていただきました。今年主から与えられた御言葉は、今日読んでいただいた中に含まれています。ルカ十章十九節の御言葉でした。みなさん覚えておられますか?
イエス様には弟子たちがいました。一番有名な弟子たちは「十二人の弟子たち」です。十二名、すべて名前も分かっていますし、性格さえ、つかみ取ることができます。
しかしこの七十人の弟子たちは聖書の中に数は記録されていますが、どういう人たちがいたのか、記されていません。
また聖書の保存や翻訳の為には「根本」があって、昔は印刷技術がなかったので誰かが写したわけです。ある人が写したものは「七十人」となっていますが、他の人が写したものには「七十二人」となっています。
七十人か七十二人か分からないような、名前も記されていない弟子たちでした。彼らに対するイエス様の評価は、どんなものであったのでしょうか。それは「この人たちはまだ成長していない。幼子のようだ。あまり知恵がない」と見られていたようです。
しかしこの七十人の弟子たちの中に、新約聖書中、最も偉大な奇跡が起こったのです。そして最も偉大な権威が授けられたのです。それが十章十九節です。
今年の始めに、この言葉をみんなで暗唱しましたね。まだ、覚えていますでしょうか。うちの三歳の孫も、私の家に来てよく暗唱してくれましたが、どうもこの頃、彼女も忘れちゃったのかもしれません。あまり言わなくなりました。
でも今一度確認しましょう!私たちは十二人の弟子には入ることはできないかもしれないけれど、七十人の弟子は名前が書いてないですから、そこに名前を入れちゃってもいいのではないでしょうか。
また、七十人の弟子たちと同じように、私も弱い、成長していない、あまり知恵がないと思うのですが、それは、自分に語られている言葉として、受け取ってよいのではないでしょうか。
特にこの七月、暗闇が日本を押さえつける前に、主が語ってくださった御言葉をしっかりと掴んで、み言葉の剣を掴んで乗り切るならば、いや、乗り切るどころか暗闇を引き裂く働きをしなければいけないと思います。
大きな声で、十九節を宣言して読んでみましょう。ルカの福音書十章十九節、
『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』
なんと力強い言葉ではないでしょうか。もう一度みなさんで大きな声で読んでみましょう。
『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』
ハレルヤ!主に大きな拍手を捧げましょう。この御言葉は、みなさんのものです!しっかりと、この剣を握りましょう。
先ほどの六人の先生方が語った御言葉と、この剣を持っていることを確認するならば、今年の後半は、大きな勝利を見ることができるはずです。
聖書は神様から全人類に与えられたプレゼントです。しかしそれをただ単なる小説のように読むのではなく、私たち自身に語ってくださった言葉として受け取る時、勝利が訪れるのです。
この七十人の弟子たちは、先ほども読みましたように、ある意味で、一軍ではなくて二軍選手だったのです。野球も一軍選手は有名ですが、二軍選手なんてあまり目に留めないですよね。観客も少ないです。皆、一軍を目指して戦っているわけです。
しかし主は一軍ではなく、二軍に大勝利を現されました。十章一節から見ると、十章一節~五節、
『その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。』
七十人の弟子たちは、イエス様から二人ずつ組にされ、イエス様がやがて行くであろう、街や村に先に遣わされたのです。
イエス様は師匠です。イエス様が共に行くなら、エキサイティングな体験ができるはずです。しかしよりによって二軍に、イエス様がやがて行くであろう街や村に、二人ペアで先に入って行けというのです。
その上、なんと言われたのかというと、『わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです』と脅されたのです。狼の中に子羊を送り出すようなもの、それは、日本風に言うならば、「鴨が葱をしょって行く」ようなものと訳すことができるかもしれません。私たちの所に、鴨が葱をしょって来たらどうでしょうか。私ならば、即、鴨鍋にして食べちゃいます。
先週はインターナショナル集会でメッセージを語りました。私は、「ブラジル人に牛を送るようなものだ」と語りました。みんなバーベキューにして食べてしまうのです。狼の中に羊を送ったら、絶対に喰われるじゃないですか。
ある意味で、私たちの人生は狼の中に入っていく子羊のようです。そんな弱い存在かもしれません。先が分からない、何が起きるのか分からない、喰われてしまうかもしれない現実が待っているのです。しかしそんな脅し文句と共に遣わされた七十人、または七十二人の弟子たち。しかも、二人ずつペアにして遣わされたのですから、三十五組。あるいは三十六組です。
彼らが帰って来た時のレポートが、ルカの福音書 十章十七節~十九節
『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』
その結果は、喰われるどころか、悪霊どもをぶっ倒し、なぎ倒し、なんと『あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』という、華々しい勝利をひっさげて、全組もれなく帰って来たのですから驚きです。
これはもちろん一義的には七十人の弟子たちですが、同時に今を生きる、私たちに共通することなのです。
半年が過ぎて、次の半年、日本に何が起きるのだろうかと、いろいろ不安もあります。狼の中に入っていく羊のようですが、イエス様は言われるのです。
『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』
「だから」という接続詞は、前の節を当然のこととして受けて、次の節へと続ける接続詞です。『だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』というのです。私たちに害を加えるものは、人ではなく、蛇やさそりです。
蛇やさそりというのは、見えるものではありません。悪魔や悪霊どもの勢力です。それが悪の根源です。
霊的な戦いに目覚めるのは聖書の中で、ある意味で奥義です。クリスチャンでもなかなか、霊的な戦いに目覚めないゆえに、敗北している人が多いと思われます。
私たちには蛇やさそり、すなわち悪魔や悪霊どもに打ち勝つ権威が授けられていることを意識して、狼の中、この世の中に入っていくなら、決して私たちに害を加えるものは何一つないのです。このことを、しっかり理解しておかなければならないのです。
弟子たちのレポートの後、二十節でこのように語られています。
『だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』
この言葉は「悪魔や悪霊が服従するからといって喜んでちゃだめだよ。あんたの名前が天に書きしるされている、永遠のいのちをもらったこと、そっちを喜べ」と一般的には解釈するのですが、文脈を見て、また当時のユダヤ人の世界観を加味して理解すると、そのような意味ではありません。そのことを、前にもお話しさせていただきました。
私はある先生から、そのメッセージを聞いてたいへん感動しました。私が霊的戦いを強調すると、このみ言葉を引用され「順先生。悪魔や悪霊どもが服従することを話しているけれど、そんなことを喜んじゃいけませんよ。天に名前が書かれていることの方を喜べと書いてあるじゃないですか」とよく言われたのですが、そうではないことがわかりました。
この意味はどういうことかというと、「天に名がしるされている」とは、当時のユダヤ人は、「名前とは、その人自身のすべてを表す」という世界観を持っていました。
今の人たちの名前は、ある意味で記号です。私は順と言いますが「順!」と言われたら振り向くわけです。名前は私を呼び出すサインみたいに使っているのですが、ユダヤ人たちは、そうではなかったのです。名前とは、その人自身であったわけです。
「天に名が記されている」とは、私たちの名前が、「イエス様の名前のただ中に含まれている」ことを表している、と前にもお話しさせていただきました。
七十人の弟子たちが「主よ、あなたの御名を使うと悪霊どもでさえ、私たちに服従します」と訳されているこの箇所も、注意深く訳すと、「あなたの御名においては、悪霊どもでさえ、あなたに服従させられます」となります。それは、「私たちの名前が天に書きしるされている」事を意味します。
イエス・キリストを信じると、イエス様の霊的ポジションのただ中に、すなわち、名前の中に含まれるのです。名は体を表しますから、私たちの行動イコール、イエス様の行動そのものになるのです。
イエス様が一緒に来てくれなくても、名がしるされているがゆえに、私たちはイエス様の権威を共有しており、私たちが出て行くだけで、なんとイエス様が最前線に出て戦うのと同じ、いやそれ以上の業が起きますよと告げているのです。
名が天に書きしるされている、「しるされる」とは「石碑に刻む」という言葉が使われているそうです。
私はワープロでプリントアウトして原稿を見ていますけれど、こんなのは雨が降ったら消えてしまいます。一番長いこと情報を後世に伝える方法は、紙や木に書いても駄目です。現代でも、石碑です。日本は木の文化なので、古い文書は残っていません。全部燃えてなくなっていますから。時々、平安時代の文書とかが木の切れ端に墨文字でちょっと残っているくらいです。二千年前、三千年前の文書は日本には残っていません。
しかし、イスラエルやエジプト、中近東の文化は石の文化で、重要な文書は石に彫って書きしるされたわけです。支配者が変わると、石碑なんか壊されてしまうのですが、彫り物は残るわけです。その石碑が他に転用されても、残ります。それゆえ、今でも二千年前とか、三千年前の情報を得ることができるわけです。
「書きしるす」とは「石碑に刻む」という言葉を使い、当時一番長持ちする方法で、私たちの名前は天に書きしるされているとルカは記したのです。
今日、私たちはイメージしなければなりません。天国の石碑に私なら、「滝元順」と彫り込まれているということです。イエス様を信じた者たちは、皆、天に名前が書きしるされているのです。それはただ単にマークやリストではないのです。記号でもないのです。名は体を表す、天の権威があなたのものを意味します。イエス様は天の権威でこの地上に来てくださった方です。その権威を、私たちは共有しているのです。
ゆえに七十人の弟子たちは、イエス様と行動を共にしなくても、悪霊どもが服従したのです。私たちは、そのような権威の中で生きていることを知らなければなりません。
この事が最も偉大なことだとイエス様は語られました。ルカの福音書十章二十四節、
『あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。』
この言葉はどういう意味かといいますと、預言者や王たちが、天の権威が地上を生きる者たちに付与されること、主を信じる者たちが出て行く時、現場で天の権威が行使される光景を見たいと願っていたけれど、見られなかったというのです。しかし、あなた方はそれを見ていますよと!
この偉大な奥義の実現が、誰に起こったのかというと、二軍の七十人の弟子たちの中に起こったのです。有名な十二人の弟子にではなくて、名前も分からない、数も定かでない弟子たちのただ中に起こったのです。
それは言い換えれば、今を生きるクリスチャンのことを表しています。
これから続いて行く二〇一三年後半、この権威を今一度確認したいと思います。
イエス・キリストを信じる者たちは、天に名が記されている。すなわち、天の権威を共有している、イエス様の名前のただ中にあるがゆえに、狼の中に入っていくようでも、イエス様が共に行く以上のことが起きるのです。主はそれを喜んでくださっていることが、十章に見ることができます。
今一度、今年語られた聖書の御言葉を確認し、自分のものとして、後半戦を生き抜いていきたいと願っています。
この後半戦に主が偉大な御業をみなさんのただ中に起こしてくださることを信じ、今から聖餐式を行いたいと思います。
主が今年、教会に与えてくださった御言葉を、もう一度、確認して主の前に出たいと思います。一言お祈りをさせていただきたいと思います。
ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。あなたが今年すばらしい御言葉を、この教会に与えてくださっていることを心から感謝します。
教会に属するすべての兄弟姉妹が、今年語られたみ言葉をしっかりと今一度、確認することができますように。
『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』と語られた約束の言葉を心から感謝します。
今日はイエス様、私たちの名前が天の石碑に書き込まれている、その事を確認します。その意味においても、今から聖餐式を行います。どうか一人ひとり天の権威の中で生きることができるよう、整えてください。
ある人は様々な戦いの中にいるかもしれません。主よ。あなたから与えられた権威によって勝利を与えて下さい。
イエス・キリストの御名によって、祈りを御前におささげいたします。アーメン。




































6月30日




