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『あなたこそ私の主です!

2013.7.21 (日)
新城教会 主任牧師 滝元順
マタイによる福音書 十六章十三節〜十九節

『さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』


 ハレルヤ!おはようございます。みなさんと共に礼拝を守ることができて、心から感謝します。
 子どもたちも夏休みに入り、何かリラックス・ムードもありますが、日本にはいろんな問題があり、これからどういう方向に向いて行くのか、ちょっと心配もあります。
 しかし私たちは、今の賛美にもあったように、風に助けられながら、聖霊様に助けられながら、一歩一歩、歩んで行きたいと願っています。

 先週は「全日本リバイバルミッション」主催のトラクト配布がありました。今年は和歌山において、リバイバルミッションが開かれるのですが、和歌山県、那智勝浦町に行ってトラクト配布をしました。
 是非、和歌山リバイバルミッションのために、祈っていただきたいと思います。和歌山ってどこにあるのか知っていますか?日本人なら、知っていると思いますが、ちょっと地図を出してみます。

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 これは紀伊半島です。先週は那智勝浦という漁村でトラクト配布が行われました。この場所は一昨年、大きな洪水があったりして、大被害を受けたわけです。そこには教会があります。私のよく知っている稲葉先生が牧師です。リバイバル聖書神学校でも教えてくれているのですが、先生は牧師を引退して、この町に牧師がいないという事で、ご夫妻で伝道に入りました。

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 そんな小さな町での宣教を助けるために、新城教会から二十名以上の方々が行ってくださいました。また各地からも、応援に来てくださいました。トラクト配布の前にみんなで集まり、祈って備えているところです。

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 その後、町に出て行ってトラクト配布をしました。
 教会のまわりは家が密集しているのですが、ちょっと離れると閑散としています。この日は本当に暑かったです。体感温度四十度くらいでした。私は太地町という、隣町で配りました。
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 四、五人のメンバーで行きました。本当に暑くて、頭がくらくらする感じでした。私と一緒に行ったのが、今年病み上がりのSさん。

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 彼は携帯電話を持っていないので、大変心配しました。今回の和歌山リバイバルミッションのテーマソングをご存知でしょうか?「焼け付く日照りの中でも…あなたが倒れないように…」という歌詞ですが、その歌が頭の中をずっと回っていました。今回のトラクト配布のために作られた歌みたいだと思いました。

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 海が近く、このあたりは海抜が各所に出ています。ここは海抜二・四メートルです。津波が来たら一瞬にして飲み込まれてしまうような場所です。津波が来ないように、この町が主を知るように祈りながら、配布することが出来ました。
 日本が天地宇宙を造られた神様に用いられる国になるように、祈らされました。

 今日、みなさんと一緒に学びたい箇所は、マタイ十六章です。ここは以前に開いたことがありますから、思い出していただきたいと思うのですが、大変有名な箇所です。
 イエス様が弟子たちを、ある場所に連れて行き、ご自分について質問されました。
 『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか・・・』と。その時、ペテロの答えが、先ほど読んだ十六章十六節です。
 『シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」』

 ペテロは弟子たちを代表し、この質問に答えたのです。この質問は、取りも直さず、私たち一人ひとりにも投げかけられている質問です。いや、人類全体に対しての質問でもあります。イエス様は「あなたはわたしのことを誰だと言いますか?」と問われるのです。

 その時、どのように答えられるでしょうか。ある人は「イエス・キリスト?そりゃ、世界の偉人の一人じゃない」とか、「世界の三大宗教の教祖さんの一人だ」と答えるかもしれません。または、「歴史の中に登場する有名人だ」と答えるのかもしれません。
 しかし、私たちが答えなければいけない答えは、ペテロと同じように、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えなければなりません。そのように答えることが出来たら幸いです。
 ここにおられるほとんどの方々は、「あなたこそわたしの主です!」と答えられるはずです。この答えは、私たちの永遠を変える、大きなテーマを含んでいます。

 ペテロと同じように答えることができるでしょうか。今日は、「あなたこそ私の主です!」とタイトルを付けさせていただきました。心の底から「あなたこそ私の主です!」と告白できるなら、あなたには永遠のいのちがあります。
 どんな時代が来ようとも、焼け付く日照りの中にあっても、津波が来ようとも、経済的にどんなに悪くなろうとも、社会がどんなに変わったとしても、イエス・キリストを主として歩んでいくならば、不安はありません。力強い言葉です。
 「あなたこそ私の主です!」と大きな声で宣言してみましょう!今日の週報はちょっと修正してあります。修正箇所を剥がすと「当たり」とか「ハズレ」とかありそうです。一文字間違っていました。誰が悪いのかというと私です。「あなた」の「あ」と「な」の間に「か」が入っていて、「あかなたこそ」となっていました。それで修正しました。
 でも人は、頭と最後の文字だけ読んで、単語を認識しているそうです。中の文字が入れ替わっても、読めるそうです。
 もう一度、「あなたこそ私の主です!」と大きな声で、主の前に宣言しましょう!イエス様に大きな拍手をいたしましょう!あなたにとっての神は、イエス・キリスト以外、ありません!

 さて、このような信仰告白を導くため、イエス様は弟子たちを連れて旅をされました。ここにイエス様がおられた当時の地図があります。

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 以前にも見せたと思いますが、イエス様が活動していたのは、ガリラヤ湖近辺でした。イスラエルにはもう一つ有名な死海という湖があります。ここはどんな金槌も泳ぐことが出来ます。塩分濃度が半端ではなく、沈もうと思っても沈むことは出来ません。私は何回も、死海に行って泳いだことがあります。泳ぐというよりも、得体の知れない液体に浮く感じです。ここに来る魚は、塩鮭みたいになってしまうと言うよりも、住むことはできません。
 エルサレムはこの辺です。これがイスラエルの地図です。イエス様はガリラヤ地方で伝道活動をされました。しかし、「あなたこそ私の主です!」と弟子たちに告白させるために、「ピリポ・カイザリヤ」という街まで弟子たちを連れて行かれました。

 イスラエル旅行に行って、距離を実感しますと、聖書が理解しやすくなります。どのくらいの距離かが分かります。ピリポ・カイザリアまではガリラヤ湖からバスで二時間近くかかります。曲がりくねった道を上り、二時間近くかかってピリポ・カイザリヤに着きます。ということは、歩いて行ったら一日以上かかると思います。
 イエス様は弟子たちを、わざわざそこまで連れて行って「あなたはわたしのことを誰だと思いますか?」と聞かれました。そのことが十六章十三節に記されていました。

『さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」』

 まずは「人々はどのようにイエス様を評価しているのか」と質問されました。しかし最後には、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と問いかけられました。
 なぜ、イエス様は弟子たちを、ピリポ・カイザリヤにまでわざわざ時間をかけて連れていかれたのだろうかと思います。夏休みだからでしょうか。ピリポ・カイザリヤがイエス様がおられた当時、どのような街であったのかを調べると、その理由が分る気がします。

 ピリポ・カイザリヤはガリラヤ湖の水源となっています。綺麗な水が湧き出ている所です。

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 どの国にも水源があるのですが、日本にも水源地がたくさんあります。新城市も豊川が流れていますが、豊川の水源に行ったことがあるでしょうか。日本の水源地は、ほとんど偶像があります。不動明王や観音像が置かれていたり、様々な、手で造られた神々が水源に置かれているのです。ピリポ・カイザリヤも同じような環境でした。
 ピリポ・カイザリヤは、世界史の中でローマ時代にできたギリシャ風の街でした。ギリシャ人たちは、オリンポス山の十二神という、神話の神々を祀っていました。現在、その場所に行きますと、現在、大きな穴になっています。

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 今は廃墟になっていますが、昔は、なんらかの建物が建っていたことが分かります。
 イエス様の時代、この水源地はどのような状況であったかというと、こんな状況でした。

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 そこには、ギリシャ神話の何を中心的に祀っていたのかというと、腰から上が人間、腰から下が羊のような「パン神」が祀られていました。神社のようなギリシャ神殿には、周りの街々・村々から、いや、全国から人々が来て、神として拝むために巡礼に来ていたのです。
 イエス様は弟子たちを、そんな場所にまでわざわざ連れて行き、「あなたは私のことを誰だと言いますか?」と尋ねられたのです。ここには大きな意味が込められています。
 どのような場所で「あなたこそ、私の主です!」と告白しなければいけないのかというと、教会の中で告白するというよりも、異教の神々の面前で、「あなたこそ私の主です!」と告白する事が要求されるのです。

 日本はどうでしょうか。教会の中で「あなたこそ私の主です」と告白することは容易ですけれど、一歩外に出て「イエス様だけが主です!」と告白するのは、たいへんな環境があります。今お見せしましたのと同じように、異教の神々の面前で告白することになります。
 弟子たちは、ギリシャ神殿になだれ込んでいく人々の参道に立たされて、イエス様から「あなたはわたしのことを誰だと言うのですか?」と問いかけられたのだと思われます。

 夏は日本において、様々な偶像礼拝が行われます。クリスチャンが教会から一歩外に出て、「あなたこそ私の主です」と告白するのは、弟子たちと同じような環境があります。日本でクリスチャンをやっていくのは、ちょっぴり大変かもしれません。しかしそこに、信仰告白の真の意味があるのです。
 その時にイエス様はなんと言われたのかというと、十六章十七節に、

『するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。』

 日本においては、ほとんどの人たちが古来からの神々と言われる神社や、仏像など、手で作った神々を主として仕えています。しかしそんな環境でイエス・キリストと出会ったのは、たまたまイエス・キリストを知るようになったとか、クリスチャンホームに生まれたから自動的にクリスチャンになったとか、様々な理由を考えるわけですが、そうではないのです。
 『このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です』と言われるのです。

 異教の神々のただ中で、イエス様以外、救いはない、「あなたこそ私の主です!」と宣言できるのは、「天の神様が、ご自分を紹介された」からです。すごいことではないでしょうか。
 「私は教会に長く来ているけれど、神様に出会っていません」なんていう人に時々出会いますが、「あなたこそ私の主です!」と信じることは、天の父なる神様にすでに出会っている証拠です。
 今日ここにおられるお一人一人、私たちを造ってくださり、生かしてくださり、全宇宙を支配しておられる神様に直接触れていただいたのです。ゆえに、異教の神々のただ中においても、「あなたこそ私の主です」と告白できるのです。

 そんな告白したペテロと弟子たちに対して、イエス様は十八節からこのように語られました。

『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。』

 『この岩の上』とは何を意味するのでしょうか。岩とは、救いの岩であるイエス・キリストを意味します。
 キリスト教会には、私たちのようなプロテスタント教会に属する派と、ローマ・カトリックの流れもあります。日本人の多くは、カトリックなのかプロテスタントなのか分かりませんから、「新城教会はどっちですか?」とよく聞かれます。また、カトリック教会と、プロテスタント教会の違いについても聞かれます。その違いは岩の理解にあります。
 私たちプロテスタント教会は、「この岩の上にわたしの教会を建てる」という、「岩」とは「イエス・キリストである」と信じています。永遠に変わらない岩、それはイエス・キリスト以外にありません。
 しかしローマ・カトリック教会は、「岩」を「ペテロ」としています。「ペテロ」とは「岩」という意味もありますので、「ペテロの上に教会が建てられた」と主張するわけです。

 ローマに行きますと「サン・ピエトロ寺院」がありまして、「聖ペテロ教会」と言います。そこにはペテロの墓場があります。人々はペテロの墓を拝んでいます。なぜなら、「ペテロの上に教会が建てられて、ペテロに救いの鍵が渡された」と言うからです。しかし聖書は決して、そのように言っていません。
 前後関係をちゃんと読んだら、「岩」が、ペテロではなく、「イエス・キリスト」であることは明らかです。「イエス・キリスト以外に救いはない」のです。
 ですから私たちプロテスタント教会は、イエス様以外は礼拝はしません。聖人を礼拝したり、マリアを礼拝したりするのは、大きな間違いです。私たちにとって、救いの岩は、イエス・キリスト以外にないのです。

 『わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません』と言われました。
 「ハデス」とは、聖書辞典で調べてみますと「死者が住む処」とか、「悪魔・悪霊どもの住処」と注解されています。
 「ハデス」とは、元々、ギリシャ神話に十二の神々が出て来るのですが、その中の「冥界の王」、日本的に言えば「閻魔大王」みたいな存在です。それが先ほど見せた、岩の神殿の奥に祀られていたのだろうと私は考えています。

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 ハデスという冥界の王、死の世界を司るギリシャ神話の神の所に、人々は入って行ったのです。
 しかしイエス様は何と言われたのかというと、『わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません』と語られました。『ハデスの門』とはギリシャ神殿を指しています。しかし冥界の王と呼ばれる死の力も、教会には対抗できないのです。
 ギリシャ神話の神々の背後には悪魔・悪霊どもがいたのです。偶像の神々は、人々を死に至らせる巨大な力と強力につながっているのです。悪魔が網を張って待っているのです。礼拝の為に、その門に入ってはいけないことを意味します。

 日本人は手で作った神々の所に、なだれ込んでいます。それはハデスに至る道なのです。後ろに控えているのは、決して人を幸せにしてくれる霊ではなく、神のふりをした悪魔と悪霊どもです。それはハデスに至る門、死に至る門です。しかし、教会はハデスを打ち破るために建てられたと、イエス様は語っておられます。

 教会は「ハデスの門前」に建てられていて、人々がハデスに落ち込んでいく、死の力に吸い込まれて行くのを、助け出す役目です。
 教会は、歴史を見てみても、常に、その国の霊的勢力と対峙しながら、迫害の中で発展してきました。それは常に、異教の神々との戦いでした。

 今日はちょっと不安があります。不安というより、嫌な気持ちがあります。なぜかというと、今日は参議院選挙の日だからです。だいたい結果は分かっています。
 予想だと、自民党がかなり勢力を拡大をするであろうと言われます。国会のねじれが解消するというわけですが、それは言い換えれば、この国が一党独裁のような状態になる事を意味します。
 今、世界の幸せの基準は何かと言うと、すべて経済です。これは本当におかしいと私は思います。経済が幸せのすべての基準です。経済が良いのか、悪いのか。お金があるのか、ないのか。それで一喜一憂しています。幸せってそんなもんじゃないはずです。アメリカでも、日本でも、世界でも、経済が良いか悪いかが、すべての基準になっています。
 ですから、自民党が政権を回復した時、経済を最重要課題として取り組んだ訳です。現在、少し経済が良くなって来たぞ…という、期待感を持たされています。

 これで明日、体制が判明したら、続いて出てくる論議は、ご存知のように、憲法改正問題です。これは確実に出て来ます。
 憲法が改正されると、日本がどういう状態になるのか心配です。かつて、日本は帝国主義の衣をまとい、世界を侵略しました。その時と同じ体制に戻ってしまう危険性があります。
 自民党は元々、そのような意図によって結成された党ですから、憲法九十六条が改正され、なし崩し的にどんどん変えられる危険性があります。
 そうなると昔と同じように、迫害の時代が来ないとも限りません。今、憲法の草案が出されていますけれど、そのまま実行されたら、確実に教会が迫害される道に進んで行きます。

 まず、私たちは心を強くし、覚悟を決めなければいけません。現在、私たちは自由に教会に来て、礼拝を守ることができるわけですが、将来は迫害の時代が来るかもしれないからです。
 「おまえは、イエス・キリストのことをどう思うんだ」と政府から問われる時代が来ないとも限りません。

 今から七十年も遡ったら、まさに日本のキリスト教会は、迫害のただ中にありました。多くの牧師たちが逮捕され、「おまえは天皇のことをどう考えているんだ、イエス・キリストとどっちが偉い」と問いかけられました。「イエス様以外に神はありません」と答えたら、「天皇は神じゃないというのか!」と、逮捕された時代がありました。それはそんなに古くはなく、七十年も遡ればそんな時代があったのです。

 新しい憲法の草案には、「天皇は日本の元首である」と最初にうたわれています。「天皇をどう思いますか?」「天皇はただの人間です」と答えたら、逮捕されてしまった時代に戻りかねないです。
 私たちは人ごとのように考えていますけれど、近い将来、この路線で日本が進んで行くと、大変なことになりかねないのです。私たちは心をして、覚悟を決めて、どんな時代が来ても、「あなたこそ、私の主です!」とはっきりと宣言する覚悟を決めてください。
 どんな時代が来ても、信仰を決して捨てることなく、イエス様に従っていこうじゃありませんか!アーメンですか?「アーメン!!」力強い答えに感謝です。

 このような時代の分岐点に立っているのですが、未来を変えるのも、このまま進むのも、教会にその鍵があることを知らなければなりません。

 なぜなら今、読んだ聖書の箇所に「迫害で苦しむ」のではなく、『わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません』と書かれているからです。どんなに悪霊どもが信仰告白を妨害し、働いたとしても、教会がハデスの門前に立ち向かうならば、ハデスの門は教会を攻めることはできないのです。
 今こそ教会が、ハデスの門前に建てられていることを意識し、人ではなく、悪魔・悪霊どもに立ち向かわなければなりません。

 日本には、伝統的な神々を国神とする国に戻りたいという考えが、根源にあります。新憲法の草案には、「政府は宗教活動はしてはいけない」となっているのですが、「伝統文化の中で人々が受け入れて来た神々は、その範疇にない」と言っています。
 ということは、神社の神々は宗教ではないというのです。日本古来の神々は宗教ではない、伝統文化だというのです。それを国家が護持しても問題にならないという考えです。
 ということは、国家神道の時代に、もう一度戻したいのです。

 しかし日本の背後に控えているのは、政治家でもなく、伝統文化ではなく、悪霊どもです。日本をもう一度、苦しめようと企んでいるのです。
 私たちは『ハデスの門もそれには打ち勝てません』という、御言葉をしっかりと握らなければなりません。

 それと共に、『わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』と語られました。
 教会が、ハデスの門前に建てられている事を意識し、その背後に働いているハデス、死の力に立ち向かうならば「つないだり、解いたりするかぎをあげます」と言われました。
 マタイ十六章十八節〜十九節を、リビングバイブルで読むとこのようになっています。

『あなたはペテロ(岩)です。 わたしはこの大きな岩の上にわたしの教会を建てます。地獄のどんな恐ろしい力も、わたしの教会に打ち勝つことはできません。あなたに天国のかぎをあげましょう。 あなたが地上でかぎをかける戸は、みな、天でも閉じられ、あなたが地上でかぎを開ける戸はみな、天でも開かれるのです。」』

 『この大きな岩の上にわたしの教会を建てます。』これは何を意味しているのでしょうか。パンの神殿は、大きな岩をくりぬいて作られていました。

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 古代の人々は、大岩が神だと考えていました。すぐ近くにある神社も、大岩が神になっていますけれど同じです。この上に教会は建つとは、悪魔・悪霊どもの権威の上に、教会は建てられるのです。
 そして『あなたが地上でかぎをかける戸は、みな、天でも閉じられ、あなたが地上でかぎを開ける戸はみな、天でも開かれる』というのです。教会にはこのような権威の鍵が与えられているのです。教会は、地上に開いている悪魔のドアを閉め、神の国のドアを開く働きをしなければならないのです。

 今まさに、そのような決断が教会に迫られているのではないかと思います。
 未来は、どこが鍵を持っているのかというと、政府でもなく、政治家でもなく、悪魔でもなく、「神を信じる民たち」が持っていることを、深く認識する必要があるのです。

 イスラエルの歴史に、様々な事件が起こっていますが、王様が神に立ち返った時、国が変えられた歴史を多くレポートしています。これは何を意味するのか。それは、現代における教会が、時代の背後に働いている暗闇に対して目を留め、自ら国を代表して罪を悔い改め、暗闇の力に立ち向かう時、未来が変えられる事を意味しています。
 教会が、未来を造る神から与えられた鍵を行使する必要があるのです。

 日本のリバイバルを祈っているのにも関わらず、なぜ日本でクリスチャンが増えないのか。日本の為に多くの祈りが捧げられているのにも関わらず、なぜ、悪い方向に向かって行くのか。その理由をよく主に聞き、罪を悔い改めることが重要ではないかと思われます。

 実は、この頃、聖書の中の一つのストーリーが、私の心の中に響いています。
 ヨシュア記には、イスラエルがカナンの地に帰ってから、カナンの民族を制覇し、国を作っていく過程が記録されています。
 ヨシュアは、カナン人たちの勢力をどんどん打ち破って行きました。しかしその中でただ一つの部族が、滅ぼされずに、イスラエルの中に住むことを許されました。
 その人たちを「ギブオン人」と言います。いろんな経緯があって、イスラエルのただ中に、ユダヤ人ではない民族が住むようになりました。その後彼らは、ユダヤ人と共に生活しました。

 イスラエルはやがて王制に移行し、サウルという男が初代の王となりました。その間、二百年くらい経っています。そうしたら、初めの意図とはだいぶ事情が変わって来ました。
 サウルの次に、ダビデという王様が国を治めました。しかしダビデの時代に、三年にもわたってききんが起こり、国民は苦しめられたのです。第二サムエル記二十一章一節、

『ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。「サウルとその一族に、血を流した罪がある。彼がギブオン人たちを殺したからだ。」そこで王はギブオン人たちを呼び出して、彼らに言った。──ギブオンの人たちはイスラエル人ではなく、エモリ人の生き残りであって、イスラエル人は、彼らと盟約を結んでいたのであるが、サウルが、イスラエルとユダの人々への熱心のあまり、彼らを打ち殺してしまおうとしたのであった。──』

 ユダヤ人たちは、民族意識がたいへん強い人たちでした。そこにギブオン人たちが入って共に住みました。
 しかし、二百年くらい経ったら、自分たちの中に共に住むことを許可した少数民族、ギブオン人たちを差別したり、いじめたり、殺そうとさえしました。
 その結果、どういうことが起こったのかというと、三年に渡って日照りが続き、国が苦しめられたのです。
 それでダビデが、「神様、なぜでしょうか」と聞いたら、「それはサウルの時代に、ギブオン人たちに対して悪いことをしたからだ。」と語られたのです。

 ダビデはそのことに気づかされ、悔い改めを実行したのです。ストーリーの前後は、時間がありませんので説明しませんが、読んでおいて下さい。第二サムエル記二十一章十四節、

『こうして、彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。』

 イスラエルの中の少数の他民族に対し、差別したり、いじめたり、殺したりしたその罪が、後の時代に祝福を失う原因となったのです。
 しかし、イスラエルがその罪を悔い改めた時、国が回復した事をここで見ることができます。

 これは今から三千年以上前の出来事ですから、そのまま現在の日本に適用することはできないかもしれません。しかしある意味、聖書は普遍的な原則を教えています。どのようにしたら、国が祝福されるのかの原則です。
 私たちも、神の原則をしっかりと捉え、原則に沿った歩みをするならば、回復するということです。
 日本の教会が一生懸命、日本のリバイバルのために祈っているけれど、なかなか日本が変わらない隠れた理由があるのではないかと、考えさせられました。
 日本の教会、クリスチャンたちが、日本を代表し、神の前に悔い改めなければいけない罪がいくつかあるのではないかと思います。

 その一つが何かと言ったら、前にもお話ししたのですが、日本の中に住んでいる外国人の方々を差別をしたり、片隅に追いやったり、悪い思いを持つなら、祝福されないということです。
 国がどのような政策、態度を取ったとしても、クリスチャンは、共に住んでいる他民族の方々の祝福を祈らなければいけないのです。
 教会の足下に、リバイバルを引き留める理由があるのです。その結果、この国に霊的飢饉が起こるのです。

 日本の未来を考える時、心配になります。しかし未来を変えていく鍵は、教会にあるのです。
 私たちクリスチャンは、一般の人たちと同じ考え方をしていてはいけません。聖書に基づいた価値観で働いていかなければなりません。その時に主は動かれます。
 この時代にあって、教会が敵の門前に建てられていて、神の国の鍵を持った存在であることを、しっかり捉えて行動する時、主が、大きな勝利を与えて下さるのです。

 今から、みなさんと共に聖餐式にあずかりたいと思います。敵の門前に立つ者として、祈りましょう。もしも心の中に、日本国内に住んでおられる他民族の方々に対し、今までの教育や体験の中、差別的な思いを持っていたり、悪い感情を持っていたら悔い改めなければなりません。
 特に、日本がアジア諸国に対し、侵略をしたり苦しめた罪を悔い改め、十字架の血潮によって赦していただき、日本に大きな勝利が与えられるように、祈っていきたいと思います。一言祈ります。


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめ、心から感謝します。今日はすばらしい時を与えてくださったことを、心から感謝します。私たちの祈りに答えてくださったことを感謝します。
 主よ、私たちは今日、時代が変わる谷間に住んでいます。一方では暗い面も見えますが、主の大きな勝利を見せてくださり、心から感謝します。
 今から私たちはイエス様の十字架の血潮を仰ぎ、聖餐式を行います。この時を祝してください。私たちの全ての罪を赦し、この国の未来を変える鍵を持つ者として行動させてください。イエス・キリストの御名によって、祈りを御前におささげします。アーメン。