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『「新しい戒め」の中に生きよう!

2013.8.18 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの福音書 十三章三十四節

『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』


 ハレルヤ!おはようございます。「暑いですね!」というのが、この頃の挨拶かもしれませんが、元気に礼拝を守ることができますことを、心から感謝します。

 今、「数えてみよ主の恵み」という、すばらしい賛美を聴きましたが、この夏は新城教会において多くのイベントがありました。しかし数えてみれば一つ一つすばらしい祝福をいただき、主を誉めたたえることができて感謝します。
 八月三日。ヘブンリー・キングダムのコンサートは本当にすごかったですね。感動しました。私は心配していました。アメリカから、あのような強力なクワイヤーが来たら、ヘブンリーキングダムは喰われてしまうのではないかと心配しました。しかし全く喰われていなかったです。長いこと一つになって、このコンサートの為だけにがんばって来た、ヘブンリーの方々に感動し、誇りに思いました。ヘブンリーのみなさんに大きな拍手をして下さい!おつかれさまでした。

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 私が撮った写真ですが、多くの方たちが来て、すばらしいコンサートでした。皆さんの祈りのおかげです。

 また先週はサマー・フェスティバルでしたが、それにも多く地域の方たちが集まって下さいました。この頃は教会が市民権を得て、文化の中心となって来た感じです。
 教会とは、神の国の文化を地域に広げて行く拠点でなくてはなりません。日本やどこかの国の文化を、キリスト教風にアレンジして伝えるのではなく、神の国の文化、そのものを発信する場所にならなければならないのです。

 今週は、長く祈ってまいりました「和歌山リバイバルミッション」が開かれます。是非ともみなさん、祈りに覚えていただくと共に、応援に来れる方は是非とも来てください。こちらに残られる方は、金・土の二日間、真剣にお祈りをしていただきたいと思っています。

 さて、今日はみなさんと共に「新しい戒めの中に生きよう!」という主題でお話をさせていただきたいと思います。
 最近、我が家で十年以上使って来た電気釜が壊れました。壊れたといいますか、食べているとご飯が粉っぽく、家内に聞きましたら、焚いている途中に蓋が開くというのです。すぐに閉めるけれど、三回くらい起こるというのです。十年以上使っていると、そういうことになるわけです。蓋をずっと手で押さえているわけにも行かず、粉々したご飯でした。「これじゃ駄目だね。新しいの買わないと」と言って、先日、私と家内で電気屋さんに行きました。
 十数年ぶりに電気釜を見に行きましたら、びっくりしました。一番高いのは家庭用でも十五万円くらいするのです。すごいハイテクで、訳の分からない機能がいっぱい付いて十五万くらいするのです。でも十数年使うなら、一年で約一万円。日割にしたらコストは安くなるので、十五万円でもいいかなと私はちょっと思いました。家内に相談したら「駄目」でした。
 それでいろいろ検討した結果、四万五千円の電気釜があったのです。しかもそれが値下げで三万六千円になっていて、さらに九月から新しいモデルが出らしく、展示品だと、一万数千円になっていました。最終的には一万五千円で新しい電気釜を買って来ました。

 途中で蓋がぱかっと開く電気釜と比べて、本当に飯がうまいのです。新しい物は違うな、と感動しました。やはり、古きは過ぎ去って新しい電気釜が来ると、味も全然違うわけです。古い物から新しい物に変えられると、グレードアップするのです。

 聖書も旧約聖書と新約聖書の二つがあります。旧約聖書とは、訳し方が古いというのではなく、古い約束ということです。しかし、イエス・キリストがこの地上に来られて、十字架にかかり、三日目によみがえってくださったことにより、古い契約が新しい契約に置き換えられたのです。
 私たちは聖書を学ぶ時、古い契約を知りながら、新しい契約を知る時、神からの祝福を受けることができます。さながら、蓋がぱかっと開くような電気釜から、新しい高性能の電気釜になるような祝福を受けるわけです。

 ヨハネの福音書十三章三十四節でイエス様が、

『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』

と語られました。
 イエス様は弟子たちに向かって、十字架にかかり死なれる前に、さながら遺言のように語られたのがこの言葉です。「あなたがたに新しい戒めをあげます。これを守ったら幸せになることができますよ」という意味です。その中心的なことは何かというと、「互いに愛し合う」ことです。
 教会は、一般にはない社会だと思います。一人ひとりの背景を見たらみな違います。しかし、ここにはキリストの愛によって結ばれたコミュニティーがあるのです。これはどの世界にもない、強力な神の国のコミュニティーです。教会は神が造られた社会だから、その基本は「互いに愛し合う」という、神の愛を基本としています。
 八月にいろんなイベントがありましたけれど、その根底に流れていたのは、神様の愛です。神の愛を伝えたい…。また神の愛によって結ばれているコミュニティーがどんなものであるのかを、社会に発信するための働きでした。

 それをイエス様は「新しい戒め」として与えたわけです。
 しかし、聖書を詳しく読んでみますと「互いに愛し合いなさい」という戒めは、別に新しい戒めと言わなくても、旧約聖書の中にも出て来る戒めです。
 では、なぜ、イエス様は「新しい戒め」という言葉をあえて使われたのでしょうか。そのところを学んでみたいと思います。
 旧約聖書のレビ記十九章十七節〜十八節に、こんな言葉があります。

『心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。』

 このように、『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』この言葉は、イエス様が取り立てて言わなくても、旧約聖書にある戒めです。
 ではなぜ、イエス様はそう言われたのでしょうか。また、どこに古い契約と、新しい契約の違いがあるのでしょうか。

 旧約聖書の内容を見て行くと、まずは『心の中であなたの身内の者を憎んではならない』とあります。みなさんにも家族があると思いますが、誰とトラブルが起きやすいのかというと、遠くの人とはあまり起こりません。近くの人と起こるのです。日本に住んでいながら、ブラジルに住んでいる人とはもめないのです。すぐ近くに住んでいる人ともめるのです。最も近い関係は、やはり身内です。身内を憎んではいけないと書かれています。身内にいざこざがあると、幸せになれないからです。

 十八節には『あなたの国の人々を恨んではならない』とあります。毎日のニュース等を見ますと、やはり国内問題が中心です。
 『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』とという言葉は、すごく重要な教えです。
 誰でも自分がかわいいです。自分を愛しています。しかしそれと同じように、自分を愛するのと同じ気持ちで、隣人を愛しなさいというのです。
 この言葉が社会一般に通用するようになったら、事件なんか起きなくなります。私たちが気に掛けなければならないのは、「この事をやったら、また、自分にやられたらどう感じるだろう」と、自分に置き換えて物事を考えることは重要です。『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。』という教えは、最高の戒めだと聖書は告げています。

 これはレビ記十九章に書かれているのですが、イエス様はヨハネによる福音書十三章三十四節で、

『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』

 これが新しい戒めだというのです。しかし「何が新しいんじゃい。同じじゃないか…」と思います。けれども、よく比べて読んでみると違うのです。
 旧約の時代では、『あなたの隣人を「あなた自身のように」愛しなさい』となっています。これは自分が中心です。自分の価値観で隣人を愛したらいいという事です。
 しかしイエス様は『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』と言われたのです。どこが違うのでしょうか。
 隣人を「自分自身のように愛する」のではなくて、「イエス様が隣人を愛したように、私たちも愛する」という点が新しいのです。自分にして欲しいように、人にもしてあげろという自分が中心ではなく、イエス様が人々を愛されたように、人々を愛しなさいと、中心軸が自分からイエス様に移っているのです。これが「新しい戒め」です。

 自分がして欲しいように、人にもしてあげる以上に、イエス様が隣人をどのように愛されたのかを学んで、それを実行するのが新しい戒めです。それが真の祝福となるのです。ここに新しい戒めの奥義があります。ヤコブの手紙二章八節〜九節。

『もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。』

 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という戒めは旧約聖書中の、最高の律法だと告げています。しかしここではもう一つ付け加え『しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。』となっています。
 新約時代では、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』だけでは不完全で、イエス様が愛されたように、隣人を愛するという領域に進まなければならないのです。その時、本当の幸せがあるのです。
 ここでは「えこひいきするな」とちくっと刺しています。
 自分を中心として、自分のして欲しいことを隣人にすれば、やはりそこにはおせっかいもあるし、えこひいきもあります。自己中心はどうしても否めません。
 しかし、私たちが目を向けなければならないのは、「イエス様はどのように、隣人を愛されたのか」です。

 イエス様が隣人を愛するということを、具体的に示された箇所がルカ十章の「良きサマリヤ人の例え」に現されています。もうみなさん、すでにご存知だと思うので、読まなくてもいいのかもしれませんが、ちょっと読んでみます。ルカの福音書十章二十九節〜三十七節、

『しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

 これが、イエス様が隣人を愛する姿です。
 エルサレムからエリコに下る道は、大変険しい道でした。よく追いはぎや、強盗が出没しました。道ばたに一人の旅人が倒れていたわけです。その側を通りかかると、やっかいな事件には巻き込まれたくないから、通り過ぎていたのです。
 でも一人のサマリヤ人が旅の途中、自分の目的があるのにも関わらず、全てを投げ出して、倒れていた人をとことん助けたのです。これが、イエス様が隣人に対して現した愛です。

 けれども、このストーリーにはさらなる深い歴史的内容を含んでいます。エルサレムからエリコに至る道は、隣り合う二つの民族が共に使っていた道でした。それが「ユダヤ人とサマリヤ人」という、隣り合う民族でした。
 この内容は、もちろん倒れていた旅人をとことん助ける内容ですが、倒れていたユダヤ人をサマリヤ人が助けるところに、ストーリーの奥義があるのです。
 これは何を語っているのかというと、隣人を愛するとは、旧約聖書のように、『あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』と、自分の民族は愛するけれども、隣国に住む民族は対象外だという視点ではいけないと言うことです。

 何処でも、隣に住む民族とは関係が悪いものです。遠い国の民族ではなく、近い民族との関係が悪いのです。旧約聖書は、そのような視点が不足していました。他民族を愛する愛は、ユダヤ人の中に最も欠けていた部分でした。
 しかし、イエス様が現れて『わたしがあなた方を愛したようにあなた方も互いに愛し合いなさい』と言われました。それは、突き詰めると、「ユダヤ人とサマリヤ人」という、民族を越えて愛を表す所に真の神の愛が表されると教えているのです。そこに、真の隣人の姿が浮き彫りにされているのです。

 日本と関係が悪い国々は、遠い国々ではありません。南米の諸国とか、地球の裏側にある国々とは、関係は悪くありません。しかし一番関係が悪いのは、お隣の朝鮮半島の国々、中国、そして周辺諸国です。
 日本に生まれ、日本人としてのアイデンティティを持っていれば、周辺諸国の人たちに対して愛を表すのは、中々難しいです。しかし神の愛とは、自国民だけの間では現れないのです。隣に住む、あまり関係のよくない民族との間に現されるのです。隣合わせに住んでいる民族に目を向ける時、神の愛と勝利を見ることができると教えています。
 聖書を学ぶ時、まずは大枠を押さえておき、それから内側に目を向けていかないと、真理に出会うことはできないように思います。

 私はこの夏は大変忙しかったです。先週は韓国に行きました。四日間、韓国で奉仕をさせていただきました。集会数は四日間で八回ありました。先週、韓国は、すごく暑くて大変でした。
 私は今まで、韓国に何十回と行っているわけですが、今までの旅の中で今回ほど感動した旅はなかったです。本当に恵まれました。
 
 今回、どういう集会だったのかというと、韓国は大きな問題を抱えています。それは何かというと、朝鮮半島が南北に分断しているからです。

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 韓国と北朝鮮が対立し、分断しているのです。今は休戦中です。韓国教会の一番激しい祈りは、民族が二つに分かれてしまっているので、統一のために真剣に祈っています。
 今回、春川でジュビリーという合同祈祷会があったのですが、六月にも私はそういう集会に招かれメッセージを語りました。今回も、同様な祈祷会に招かれたのです。日本人が何を話たらいいのかという感じです。

 そしてその後の集会がどういう集会であったのかと言いますと、この言葉をしっていますか。「脱北者」…それは、北朝鮮から逃げて、南に来た人たちのことです。
 先ほども言いましたが、北朝鮮はすごく大変な状況です。多くの人たちが中国との国境から中国側に逃げています。中国側の国境線では、韓国教会が脱北者を支援しています。北京の韓国大使館に逃げ込ませ、最終的に南に連れて来ているのです。
 今、韓国にどのくらいの脱北者が暮らしているのか、ご存じですか。なんと、「二万五千人」もの脱北者たちが暮らしています。大勢の人たちが脱北して、韓国側で暮らしています。韓国教会は脱北者のために一生懸命愛を表しています。
 脱北者の中には、子どもや若者たちもいます。脱北者の子どもたちや若者たちを集めてのキャンプがあったのですが、そのキャンプの講師がなんと私でした。そもそも、脱北者の集会の講師がなぜ私なのか不思議です。
 今回、脱北者たちの口から北朝鮮について聞き、ショッキングでした。私は奉仕させていただいて、日本も真剣に、南北統一と北朝鮮の為に祈らなくてはいけないと思いました。

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 この女の子、何歳だと思いますか?たぶん十歳くらいに見えるでしょう。この子は今、十九歳です。子どもが一人います。なんでこんなに、体が小さいのかというと、理由があるのです。
 彼女は北朝鮮の市場でストリート・チルドレンとして七年間、野外で寝ていたそうです。

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 北朝鮮にはストリートチルドレンが多く、本当に飢えているそうです。これはネットに載っていた写真です。
 彼女もきっとこんな格好していたのでしょう。何を食べていたのかと聞くと、朝になると市が立って、市場の人たちがご飯を食べるというのです。そして食べ残しを水たまりに捨てるというのです。水たまりに捨てられたそうめんとか、くずを食べるというのです。初めはとてもじゃないけれど、食べられないそうです。でも食べるしか、生きる方法がないから、無理して食べていると食べられるようになるというのです。また野菜のくずなどを拾って七年間、外で生活したと言うのです。
 私は彼女に聞きました。「あなたは特殊な存在ですか?」と、すると「全然特殊じゃない。いくらでもいる」と言っていました。「北朝鮮に対する報道を、注意して受け取らなければいけないと思うけど、どう理解して受け取ったらいい」と聞いたら「報道されている内容は事実です」と言っていました。信じられない過酷な環境で、彼女らは生き抜いて来たのです。

 彼女は脱北して三回捕まって、政治犯が収容される収容所に入れられたというのです。子どもだと、六ヶ月間の強制労働の後、釈放されるそうです。釈放されたらまた脱北するというのです。その理由を聞くと「生きる為だ」と答えました。
 中国との国境には川があって、渡れば中国側に行くことができるので、逃げるというのです。でも、中国側には脱北した不良少年たちが待っていて、たかられるというのです。そんなこんなで三回も、収容所に入れられたけれど、四回目に逃げた先で、韓国の宣教師に出会ったというのです。それで、中国経由で大使館に逃げ込んで、韓国に来たというのです。
 生の声を今回、脱北者の方々から直接聞かせていただきました。
 私たちの隣の半島には、そのような人たちが多く暮らしていることに関して、私たちはどのくらい関心を持ち、愛を持って祈っていたのかと強く問われました。
 日本人はただ、テレビの画面の中のことのように考えて、現実味がありません。それではいけないと思いました。私たちも真剣に、そのような人たちのために祈らなくてはいけません。
 普通は誰かが脱北すると、家族が狙われ家族も収容所に入れられるので、家族がばらばらになってしまうというのです。
 彼女も四歳の時から家族とはばらばらで、親戚やいろんな所を転々として、最終的に行く所がなくなって、ストリートに寝泊まりするしかなくなったというのです。だから、一番栄養が必要な時に、栄養が不足していたから、あのような小さな体だというのです。やはり体が小さい子が多いです。
 彼女に質問したら、淡々と信じられないようなことを一時間でも、二時間でも話し続けるのです。

 今回、感謝なことに、この脱北者の少女たちがイエス様を信じて、バプテスマを受けました。私もそのバプテスマ式を共に司式させていただきました。

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 一人は十八歳だと言っていました。この子の弟は現在、北朝鮮の収容所に入っていると言いました。「弟はどうなったのか」と聞くと、全然、消息が分からないと言っていました。
 そのような人たちが隣国にいることを、私たちはどのくらい知って祈っているのかと問われました。

 イエス様は『わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも隣人を愛しなさい』と語られました。イエス様はユダヤ人だけでなく、隣の民族サマリヤにも福音を伝え、多くの苦しんでいる人、悲しんでいる人の友となりました。私たちも同じ気持ちで祈らなければならないことを、今回の奉仕を通して教えられました。

 生まれた国によって人の人生は大きく変わります。私たちには多くの食べ物があり、暑かったら冷房があり、寒かったら暖房があり、ちょっと病気になったらすぐに病院があり、五分間以内に何でも手に入るような社会が普通のように思っていますが、決して普通だと思ってはいけないのです。世界には、苦しんでいる人たちが多くいます。
 韓国の教会は脱北者の方々に、一生懸命愛を表し、キャンプには韓国中からボランティアの人たちが集まって世話をしていました。本当に良い集会でした。

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 これはご飯の時の様子です。
 しかし、このような貧困を与えている真犯人は誰かということです。突き詰めたら、霊的な問題以外の何ものでもないように感じました。背後に、悪魔・悪霊どもが働いていて、民族を苦しめ、対立させ、滅ぼしているのです。盗み、殺し、滅ぼすという目的を持って働いている、敵を意識しなかったら解決はないのです。
 私は脱北してきた青年たちが霊的戦いに目覚め、悪魔に立ち向かうことができるように、また、集まったすべての人が勇士になるようにという視点で、奉仕をさせていただきました。みんなで聖霊の油注ぎを受け、御言葉の剣を受けて悪魔に立ち向かう祈りの時を持たせていただきました。
 人類が共通の敵に目を向けない限り、世界平和はありえないと思います。世界を苦しめている共通の敵に立ち向かう、勇士として働いていかなければいけないのです。
 特にお隣の国の為に、真剣に祈っていかなければいけないということを、思わされました。

 エペソ人への手紙の六章は、よくご存知の霊的戦いについて教えている、重要な箇所です。十節から霊的戦いについて書かれているのですが、九節から読んでみたいと思います。エペソ人への手紙六章九節〜十二節、

『主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 パウロが最終的に、自分の働きを終えた上で主から知らされたことが「霊的戦い」でした。彼は人生で数々の問題に直面しましたが、それらは血肉に対する戦いではない、霊的戦いであったと気づかされ、この手紙を書いて諸教会宛てに送りました。
 人々を不幸にしている背後に、暗闇の力が関わっていることを深く意識し、そこに御言葉の剣を向けて行かなければいけないことを、教えられるわけであります。

 国と国の間に働き、国の中に働き、人々を苦しめている敵の力にイエス様の愛の動機付けで、立ち向かうためには、何が必要なのかについても、今回、深く教えられたような気がします。

 私たちが霊的戦いのことを学ぶ時、六章十節から学んでしまうことが多いわけですが、聖書は全体的に学ばなければいけません。特に、九節は重要です。何が書かれているのかというと、

『主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。』

 実は、パウロが生きていた時代は、今では考えられない違った社会構造の中に人々は生きていました。それは「奴隷制度」があたかも文化のようになっていたからです。主人は奴隷を使うのが当然でした。奴隷という身分に生まれたら、ずっと奴隷として生きなければなりませんでした。奴隷制度は文化のようになっていて、当然の制度として、社会に受け入れられていたわけです。
 しかしそんな社会制度の中、ある意味、その制度を認めながら、「主人はおどすことをしてはいけません。また奴隷は、主人に心から仕えなさい」と言いつつも、パウロは最後に何と語っているのでしょうか。

『彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから』

『主は人を差別されることがない』と語っています。
 この言葉は、当時の、奴隷制度が文化のように受け入れられていたただ中で、衝撃的な言葉でした。
 この言葉を語った後に、霊的な戦いに入っていくことが述べられているのです。私たちが霊的戦いを前にして準備しなければならない、最も大きな事柄はどこにあるのでしょうか。それは、もしかしたらここにあるのかもしれません。…「神は人を差別されない」
 私たちの内側に、差別意識があったら霊的戦いはできないことを、告げているのではないかと思います。

 日本に生まれれば、教育の中で知らないうちに、周りの国々に対して差別的な意識が生まれます。日本はどうでしょうか。一般的には、本当に悲しいことですけれども、アジアの諸国に対して、どのような気持ちを持っているでしょうか。またアメリカやヨーロッパに対しては、どういう意識を持っているか…。アメリカやヨーロッパの人たちに対しては、「あこがれ」を持っていて、アジアの人たちに対しては優越意識を持っている自分がいます。あこがれも差別の一種です。誰かを低く見る事も、差別です。
 その究極の姿、奴隷制度のただ中で、「神は誰一人として差別される方ではない」とパウロは語ったのです。私たちが霊的戦いに勝利するためには、文化の中ですり込まれている「差別という意識」から解放されないと、主権的な力に対して立ち向かうことはできません、と教えているように思います。

 私はこの頃、日本人として、日本人の中にある差別意識を本当に申し訳なく思っています。リバイバルが起きるためには、日本の教会から、またクリスチャンの中から、まず差別意識を取り去らない限り、リバイバルは起きないのではないかと思います。
 私は日本人として、韓国の方々に悔い改めなければならないのは、一九一〇年から一九四五年まで、日本が朝鮮半島を植民地化し、半島の人たちを差別して扱った事でした。その罪を日本人として悔い改めなければならないと、話しました。
 一九四五年八月一五日、日本は戦争に負けました。その結果、前回も話しましたが、その時、日本に取り残された朝鮮半島の方々が、二百万人くらいいました。その方々は日本において「在日コリアン」というコミュニティーを作りました。そのようなコミュニティーがなぜ出来たのかに対して、日本ではほとんど教育がなされてなく、多くの偏見があります。一般的には、その方々に対して差別的な意識を持っています。それが大きな罪だと教えられ、私は心から悔い改めると共に、その壁を取り去らないと、日本にリバイバルは起きないと韓国でお話しさせていただきました。
 日本にリバイバルを願うなら、内側から、海外の方々に対する差別や、特に日本国内の在日コリアンの方々に対しての差別意識を捨て、心から受け入れる事がない限り、日本のリバイバルは難しいと、今回、強く感じました。

 リバイバルの鍵は、遠い所に落ちているのではなく、結構、私たちの足下にあるのではないかと思いました。日本人の心の中にある問題を解決する必要があります。

 イエス様が『あなたの隣人を愛しなさい』という事柄を「新しい戒め」として語られたのは、旧約聖書の中の『あなたの国々の人々を憎んではならない』とか、『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』というような、自分を中心とする視点の隣人愛を越える為でした。
 『わたしがあなた方を愛したように、あなた方も隣人を愛しなさい。』隣に住む民族の方々のために愛を表し、国内に住んでおられる海外の方々や、一緒に住んでいる、日本が原因となって出来たコミュニティーの方々に、愛の手を差し伸ばし、政治がらみではなく、神の愛によって受け入れることが、新しい戒めです。その時に、日本のリバイバル、世界のリバイバルにつなかっていくと信じます。

 最後に、みなさんと一緒にお祈りしたいと思います。私たちには、いろんな差別意識があると思います。そんな差別意識を捨てないと、神様の愛も、隣人を愛する事に隠されている真理も、引き出すことができないで、今日は内側にある差別意識を悔い改めようじゃありませんか。
 特に、今日、日本人のみなさんにおすすめしたいのですが、日本人として生まれて、知らないうちに培われた他民族に対する差別を悔い改めてましょう。教会には、絶対にそういう差別がないようにしたいです。
 また他の国々から来られた方も、もしかしたら、日本の社会に対して、様々なことに対して、複雑な思いがあるかもしれないけれど、それも捨てて、心を一つにして愛し合うことを主は願っておられます。それは霊的戦いの準備の中で、最も重要な準備です。
 今日は、新しい戒め、『わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい。』という、イエス様の視点で、隣人を愛するという者にならせていただきたいと、心から願っています。一言お祈りさせていただきます。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝をいたします。あなたは私たちを愛してくださっていることを、心から感謝します。今日は新しい戒めの中で、あなたが私たちを愛してくださっているように、私たちも隣人を愛することができるようにしてください。
 私たち日本人に一番欠けている所を、補ってくださいますように。アジアの諸国に対して、差別的な思いを持ったり、国内に住んでおられる他民族の方々に対して良くない思いを持っていた罪を赦してください。
 今日は私たちの内側から、民族的差別意識を捨て去ります。主よ、私たちを受け入れてください。
 イエス様の愛によって一つにされ、主の前に出ることが出来ますようにお願いします。
 今日、差別的な意識の中に働いている悪魔の力が打ち砕かれますように。この国が他の国々の人たちを、心から愛し、仕える国と変えられますように。
 今から、あなたが流してくださった十字架の血潮と新しい契約をいただきますけれど、その中で、深い悔い改めをお与えください。イエス様の御名を通し、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。