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『どちらがいいですか?
~明日への不安と、明日への希望~』

2013.12.29 (日)
新城教会 主任牧師 滝元順
マタイの福音書6章33~34節

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

 ハレルヤ!おはようございます。今も、すばらしいピアノの演奏を聴かせていただきましたけれど、私たちの神は死を打ち破り、よみがえってくださったお方です。
 先週はイエスさまがお生まれになったクリスマスを喜びました。しかし、私たちは「イエスさまが生まれました」と過去の事を喜ぶだけでなく、やがてこの地に帰って来られる「マラナタ。主よ帰って来てください!」という祈りと共に、主を待ち望まなければなりません。この方と共に生きることができるとは、この上ない喜びです。

 二〇一三年も今週で終わりですね。一年は早いものです。先日、始まったと思ったら、もう終わりという感じです。しかし来る二〇一四年はどんな年になるだろうと、期待よりも、不安の方が多いのではないかと思います。
 私はよくサラリーマン川柳をみなさんに紹介するのですが、二〇一三年サラリーマン川柳第七位に入賞した作品は、
 「人生にカーナビあれば楽なのに」でした。転職するのか、独立するのか、家業をやるのか、いろいろな道があるけれど、人生にカーナビがあれば便利だと思います。
 しかし、私たちクリスチャンにはカーナビがあります。それは、聖霊様です。聖霊様が私たちと一緒にいてくださるなら、人生の岐路に立たされた時にも、導きを得ることができます。
 他のサラリーマン川柳にこんなのもありました。

「すぐキレる 妻よ見習え LED」
「ダルビッシュ 一球だけで 我が月給」本当にいやになっちゃいますね。
「何かをね 忘れたことは 覚えてる」

 私も、もしかしたらこの域です。よく、「それ、それ、あれ、あれ」と代名詞で話します。昔、岡本キヨさんが、「あれ、あれ」とすべて代名詞でしゃべるもんだから、全く分かりませんでした。あの頃は「あれって何よ」と言っていましたが、私も近頃妻に「あれって何?」と指摘されるようになりました。「あれってあれよ」としか答えようがない時があります。人生って早いですよね。あっという間に過ぎ去ります。

 今日のタイトルは、「どちらがいいですか?~明日への不安と、明日への希望~」です。「そんなタイトルつけるなよ。決まってるじゃないか。わざわざ聞くな」と言われそうですが、明日への不安より、明日への希望の方がいいに決まっています。
 しかし内側を見れば、希望よりも、明日への不安でいっぱいです。しばらく前に、アメリカのニューズ・ウィークという雑誌に、「不安列島、日本」という記事がありました。日本で現在、最もよく聞かれる言葉のベストファイブに、「不安」という言葉は必ず入ります。
 地震の不安もありますし、津波も不安です。放射能、年金、少子化、消費税などなど、限りなく続きます。
 知っておられますか?来年は消費税が上がります。現在は五パーセントですが、二〇一四年四月からは八パーセントになります。しかし、二〇一五年十月には、十パーセントになるそうです。始めは三パーセントから始まりましたが、あっという間に十パーセントです。まだまだ上がるそうです。これからやっていけるのかという感じです。

 ニューヨークの広告代理店が、先進十一カ国を調査したそうです。「現在、不安はありますか?」という項目は、主要先進国の中、日本は他国を大きく引き離してトップだったそうです。九十パーセント以上の人たちが「不安だ」と答えたそうです。日本は不安でいっぱいです。不安列島日本と言われても仕方ありません。将来のことを考えたら、希望よりも、不安の方が多いのです。
 しかし、私たちクリスチャンは、不安列島に住んでいても、「明日への希望」があるのです。そのことを知っておられますか。

 今日読んだ聖書のみ言葉は、大変有名なみ言葉です。マタイの福音書六章三十三節、三十四節です。ご一緒に読んでみましょうか。

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

 労苦は、『その日その日に、十分あります』とありますが、聖書が言うとおり、毎日十分あります。明日のことを心配していたら、やりきれません。しかし、イエスさまは言われました。「あすのための心配は無用です。」と。
 そのためには何をしたらいいのか、それは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、すべてのものは与えられます」と述べられたのです。マタイ六章三十三節の言葉は賛美にもなっています。ご存じでしょうか?

♪神の国と神の義をまず求めなさい
そうすれば、みな、与えられる
ハレル ハレルヤ

 私たち人類には二つの選択肢があります。それは「明日への不安」と、「明日への希望」です。多くの人たちは、「明日への不安」という道を選んでしまっています。現実を見れば不安でいっぱいだからです。
 みなさんは個人的に、借金はありますか?ないですか?教会には借金があります。実は、国の借金は、二〇一三年度末に「一千百七兆円」くらいになるそうのです。国民一人あたりで割ると「八百万円」くらいになります。赤ちゃんからお年寄りまで、日本に住んでいれば、外国人の方も残念でした。日本に住んでいれば、一人あたり八百万円近い借金があるのです。「これから果たして、大丈夫かな?」と思います。
 私もちょっと調べてみました。よく「財政赤字、財政赤字」と言うじゃないですか、あれはなんでしょうか。

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これが財政赤字のグラフです。上の赤い線は、日本の支出です。下の折れ線グラフが収入である税金です。税金が集まっていないのに、こんなにも政府は支出しているのです。この支出と収入の中間の領域を、財政赤字と呼びます。それがたまりにたまって、一千百兆円にもなっています。これからどうなるのでしょう。

 しかし現在、なんとかなっているのはなぜでしょうか。不思議です。それは日本人には貯金があるからです。日本人って、貯金がかなり多いらしいのです。みなさんにはどのくらいの貯金がありますか?これは貯金額を表しているグラフだそうですが、三十歳以下でも何百万円か貯金があるようです。

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 一番貯め込んでいるのは、六十から六十九歳代。二千五百万円くらいの貯金があるそうです。すごいなと、どこで誰が貯めているのかなと思います。平均したら一人一千万円以上、積み立てているそうです。
 この教会にも銀行で働いている方がおられますが、銀行にお金を積むのも、良し悪しです。財政赤字は、何で埋められているのかというと、私たちの預金によって埋められているのです。国は赤字になると、財務省から国債を発行し、それを銀行が、私たちの預金を勝手に投資して、買っているのです。みんなの金で勝手に買っているわけです。
 赤字国債は、銀行からさらに日本銀行に渡り、紙幣が発行されます。なにか狐につままれたような話ですね。

 日本人の不安を分析してみると、やはり、経済的な不安が九割以上だというのです。お金を貯めているかもしれませんが、不安です。貯蓄は、本来、何らかの目的があってするものです。
 「貯蓄に目的がありますか?」という問いに対し、アメリカ人は七十一・三パーセントの人が「目的がある」と答えるそうです。また、中国の調査では、五十四パーセントの人が、「目的があって貯金している」と答えるそうです。しかし日本人は、「目的がある」と答えた人は、たった二十三・三パーセントだそうです。あとの七十六・七パーセントの人たちは、「念のため」という答えだったそうです。それは、経済的に大きな不安を抱えている証拠です。

 マタイ六章三十三節で、『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。』ここに、「だから」という接続詞があります。「だからなんなのよ」ということになります。それはマタイ六章三十三節に至るまで、六章の始めから読んで理解しなければなりません。マタイの福音書六章十九節〜二十五節、

『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。』

 ここで述べられている事柄を読めば、当時の人たちの最も大きな関心事と、不安が何であったかが分かります。それは「経済的不安」であったみたいです。人類の根源に、「経済的不安」が重くのしかかっているのです。

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

 「だから」というのは、当時の人たちの経済的不安を受けて語られた言葉です。人々は様々な不安を抱えていたわけですが、「経済的不安」が最も大きな不安でした。そんなただ中で、「神の国と神の義をまず第一に求めなさい。そうしたらすべてのものが与えられます」とイエスさまは語られたわけです。
 当時の状況と、今の状況と合わせてみれば、現代人も同じであることがわかります。ゆえに、この御言葉は、現代を生きる私たちにとっても、大変重要な御言葉です。特に、不安列島に住んでいる日本人にとっては重要です。問題を解決し、勝利するためには「神の国と神の義を第一に求める」必要があるのです。
 「神の国を求めなさい」とは、簡単に言えば、「イエス・キリストを中心として歩みなさい」ということにつきます。

 「義」という言葉は、なかなか難しい言葉です。
 「義」という漢字は、本当にうまくできていますね。「我」の上に「羊」がのっています。「義」とは、「正しさ」という意味だと思うのですが、自分の上に羊を乗せたらいいのです。それは牧場にいる羊じゃありません。聖い神の子羊、イエスさまを、私たちの上に乗せることです。中国には景教と呼ばれるキリスト教が大きな影響を与えました。漢字ができる背景に、聖書があるのです。
 私たちの人生の上に、羊を載せる。人類のために犠牲になってくださったイエスさまを置くなら、すべてがうまくいきます。人生の様々な選択の中に、常に、神の子羊イエスさまを最優先にするとき、すべてがうまくいきます。

 教会とは、何をするところかと言えば、この世の価値観や優先順位ではなく、神の国と神の義を最優先にするように修正する場所です。毎週日曜日、教会に来て、神の国と神の義を第一に求めるのです。そのとき人生は軌道修正がなされ、すべてが備えられ、与えられますと告げています。

 二〇一四年に向けて、不安は山積みかもしれません。しかし私たちは、神の国と神の義を第一に生きるなら、必ずうまくいきます。自分、我の上に「羊」を乗せると、子ども達もよく覚えておいてくださいね。

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 先ほど、不安という話をしましたが、これは年代別調査表ですが、一番不安を覚えているのは二十代の女性らしいです。ここにも二十代の女性の方々がおられますが、かなり不安らしいですね。しかし六十代くらいになりますと、ふっきれています。「えぃ。どうにでもなれ!」という感じで、不安率はかなり下がるようです。男性でもやはり三十代くらいが、将来に対する不安が強いみたいです。

 イエスさまが地上におられた時も、人々の一番の関心事は、経済的な事柄でした。いかにしてお金を儲けるのかに終始していました。現代社会も同じです。一円でも多く稼ごうということが、中心になっています。
 以前にもお話ししましたが、すべての事柄は経済に集約されます。教育も、医療も、科学技術も、宗教さえも、より良い経済活動のための手段と言っても過言ではありません。
 いにしえから現代まで、経済活動がすべての営みの中心です。人々は、金に関して最も関心があります。
 しかし、イエスさまは言われました。『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。』と。

 二〇一四年に向かい、私たちは、経済活動のただ中で過ごすことになります。しかし私たちの価値観の中心は、あくまでも、神の国と神の義とするとき、結果的に経済的にも祝福され、明日への不安ではなくて、明日への希望につながるのです。

 日曜日の朝十時半から二時間くらい、教会で過ごすのは、本当に重要なことだと私は信じています。私は牧師だから、人を集めたくて言っているわけではありません。私は教会の息子として生まれ、今年で早六十二年になります。六十二年間、教会を見ていて過ごしてきました。忙しいかもしれないけれど、礼拝をしっかり守り、神の国と神の義を求めている人で、人生がおかしくなった人を、ほとんど見た事がありません。みんなスムーズに人生は動いています。
 人生には、一つの法則があります。人間は、神によって造られていますから、神による法則にのらないとうまくいきません。この世の法則ではなく、神の国の法則を見つけなければいけないのです。

 この頃は見かけなくなりましたが、昔はどこの家にも「雨戸」がありました。最近は雨戸もシャッターみたいになって、簡単に下ろすことができるようになりましたが、昔の雨戸は面倒くさかったです。
 夕方になると親父が、「おい。雨戸をたってこい」とか言って、子どもたちが雨戸を閉めるのです。雨戸は、昼間は戸袋の中に入っていて、夜になると出し、朝になると元の戸袋に戻すのです。雨戸は冬は寒さから守る為に重要です。
 朝になると、「雨戸を片付けろ」と言われます。「うるせぇな、めんどくせぇな・・・」と、最初の一本目を適当に入れると、二本、三本くらいまで入りますが後が入らなくなるのです。すると親父から「一本目をちゃんと入れないからこうなるじゃないか!」と怒られて、全部出して一本目をきちんと収めてから順序よく入れると、ばっちり入るのです。
 人生も同じです。最初の一本目がしっかりと収まるかで、次が入るか否かが決まります。

 ふっと考えると、「日曜日の午前中に教会に行って礼拝を守るなんて、面倒くさいな〜。新城かぁ。田舎だな」と思うかも知れません。
 でも、来年度から新城に新東名のインターができます。神様が新城教会のために作って下さったのではないかと思うくらいです。日曜日に、まず主を礼拝して、一週間を始めるのは、何にもまして、人生に祝福をもたらすものです。
 二〇一四年を迎えるにあたって、すでに心に決めておられると思いますが、来年はさらに、神の国と神の義を求める決断をしたいと思います。

 私たちは経済活動のただ中にあるのですが、それがどういうものかも説明しています。これも先日、お話しさせていただきました。マタイの福音書六章二十四節、

『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』

 世の中には、ふたりの主人が存在するのです。ひとりは、天地宇宙を造られた、まことの神さまです。しかしもう一人、「この世の神」と呼ばれる主人が存在します。それは「サタン」です。悪魔・悪霊どもの勢力があります。私たちは、地上で生きなければなりませんが、この世は悪魔の支配下にあるのです。最も強い軍団が展開している場所についても、以前にもお話ししました。それが経済界です。そこには最も強い軍団が働いていると思われます。

 悪魔は悪霊どもを使って、組織的に働いています。その組織は、どうしてできたのかと言うと、人間の歴史の中で、悪魔は自分の組織を拡大して来ました。
 ネブカデネザルという、バビロニア帝国の王が、ある夜、忘れることができない夢を見ました。それをダニエルという預言者が解き明かしたのですが、それは金属で出来た巨大な像でした。

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 頭が金、胸が銀、腰が銅、すねが鉄、足が鉄と粘土という、巨大な像でした。これは、何を表しているのかというと、歴史を通して拡大してきた悪魔の組織であると思われます。
 バビロニア帝国の次に、メド・ペルシャ帝国ができ、次に、ギリシャ帝国が同じ地域を支配し、やがてローマ帝国が治めました。次々と新しい権力者が同じ地域に侵入して治めたわけです。普通ならどうでしょうか。ローマ帝国の時代から見たら、バビロニア帝国の時代なんて、遠い昔です。六百年も前の話です。
 しかし、その地域を最初に支配を置いた帝国が、金の頭となり、司令塔となって支配されていたのです。そこには各時代に侵入した、霊的組織が関係していたと思われます。
 ということは、歴史を貫いて悪魔・悪霊どもが人々を縛っているということです。
 歴史の最先端で、人々は常にサタンに踏みつけられているのです。そして最先端の領域は何かとかいうと、それが「経済界」です。

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 経済界が「足の裏」となり、人々は踏まれているわけです。そこは鉄と粘土が混じりあった弱さを持つ領域でもあります。
 足の裏とは何か、それが経済界です。マタイ六章はそれを解き明かしていると思います。

 私たちは経済のただ中で、働かなければいけないわけです。しかし経済の領域には悪霊の軍団がいます。その名は「マモン」。ギリシャ語では、マモーナス、ヘブライ語では、アーマンと呼ぶそうですが、アラム語では「マモン」と呼ばれ、シリア人の神となっていました。
 ギリシャ語のマモーナスという言葉は、「信頼する、委任する、委託する」という意味から来ているそうです。それは人が全信頼をおいている存在を意味します。
 人はこの世において、金に最も信頼を置いているのかもしれません。イエスさまの時代もそうでした。
 そんな中イエスさまは、「ふたりの主人に同時に仕えることはできない」と断言されたのです。この「仕える」という言葉は、「奴隷がその主人に仕える」時に使われる言葉だそうです。私たちが神のしもべとなり、神に全幅の信頼を置いて支配されるのか、もしくは、悪魔とその勢力、特に、マモンと呼ばれる経済界の中に働く霊に支配され、心奪われ、生きていくのかで、人生の方向性は全く変わります。
 私たちは、どんな時にも、「神にのみ信頼する」者にならなければなりません。

 マタイ六章には、平行記事がありまして、それがルカ十九章です。そこにはまた別の角度でレポートされています。ルカの福音書十六章九節〜十三節、

『そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』

 マタイとルカの記事を合体させると、不思議なことが分かってきます。私たちの生きる社会は、まさに「不正の富」で形作られた社会です。ある意味、私たちクリスチャンも、不正の富を友としなければならない社会に、生きなければならない厳しい現実もあるのです。
 ここでは『不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。』と語られています。
 私たちは不正の富の領域にも、忠実さが要求されているのです。来年も会社で働かなければなりません。不正の富のただ中で働くわけです。けれども、私たちは、そこで忠実に働くことが必要です。

 そしてそこには、不正の富を友としながら、まことの富に導かれるという、不思議な道が用意されているのです。ここには、「不正の富」バーサス「まことの富」の対立構造を示しています。ふたりの主人が存在しています。けれども、不正の富から、まことの富へと続く道もあるのです。

『不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。』

 聖書の中でもこの箇所は解釈が難しく、いろいろな解釈があるようです。しかし一つ言えるのは、この世は、悪魔の支配下にあり、最も強い悪霊どもの軍団が「経済界」で働いていると言うことです。鉄と粘土の足で私たちを踏みつけ、苦しめています。ですから、経済活動をに携わるのは、大きな霊的戦いでもあるのです。

 以前にもお話したように、そもそも、金融システムができたこと自体に、偽りと詐欺があります。偽りがあるところには、必ず、偽りの父、悪魔が働いているわけです。
 先ほど国民一人あたりの借金が八百万円くらいと言いましたが、本当に驚く額ですが、どうして八百万円も借金ができたのかについて、先ほど話しました。しかし、この借金のカラクリも、よく考えてみれば何か騙されているような気がします。
 財政赤字を埋めるために、政府は国債を発行し、それを銀行に利息つきで売るわけです。「国債を買ってください。買ってくれたら、利息をあげますよ」と売るわけです。銀行はなぜ、国債を買うことができるのかと言えば、我々が銀行に金を預けているからです。
 銀行は国から買った国債をどうするのかといったら、それをまた日本銀行に売りつけます。それが「日銀による買いオペ」と呼ばれるものです。すると、日本銀行は、国債に見合った利息付きの「日本銀行券」、すなわち紙幣を社会に流通させるわけです。政府は、それによって資金を得、銀行も、日本銀行も利益を得るわけです。
 考えてみれば、日本銀行は、「国債という紙切れ」をだけを受け取るわけです。財務省から回ってきた紙切れを受け取り、また、紙幣という紙切れを印刷して渡します。両方とも紙っぺらです。実際に労働力を使ってお金を生んだのは、政府でも、銀行でも、日銀でもなく、「国民」です。しかし、国民一人頭、八百万円の借金があると言われるのは、おかしくありませんか。
 この流れでいきますと、本当は政府の借金です。しかし国民一人あたり借金が八百万円なんて言われると、なんか自分たちが悪いのかのように思ってしまいます。「俺たち国民が悪いのかな…」って。
 国民には国債を発行する力はありません。国債により、資金を調達することもできない無力なものです。紙っぺらの国債から紙幣が印刷され、借金は国民のものと言われます。すると、「消費税が上がってもしょうがないかな…」となるわけです。この社会って、どうなっているの。一体、誰がもうけているの、と言うことになります。

 もしもプレイズ出版が、紙幣を印刷する権利をもらったら、すごいことになるでしょう。でもプレイズ出版が紙幣を印刷したら、偽札印刷で、信弘先生はすぐに逮捕されます。でも、日銀が紙幣を印刷しても罪にならないのです。一万円札を刷るのに、原価は三円くらいだそうです。国債も紙っぺら。一万円札も紙っぺら。
 私たちは、紙っぺらに苦しめられ、銀行から金を借りて返済が出来なければ、現物を取られるのです。家を取られたり、土地を取られたりします。なんかこの辺のカラクリ、おかしいと思いませんか。経済システムというのは、すでに出来上がっていますから、誰も疑いませんし、そこで生きるしかないのです。
 システムというのは、最初に作った人が利益を受けるようにできているわけです。誰かにしてやられているわけです。経済界には偽りが、ちりばめられているわけです。
 ということはどうでしょうか。そこに最も強い悪魔の軍団が働いていないはずがありません。この世は、悪魔の支配下にあり、経済界には、最も強い力が働いています。

 しかし一方では、このような「不正の富」を友とすることが勧められているのです。それが、永遠のいのちにまでつながるというのですから、驚きです。これは一体、どういうこっちゃ、ということになります。

 二月にタイでリバイバルミッションが開かれます。是非ともみなさん、祈っていただきたいと思います。今度はタイモードでがんばらなくちゃいけないと思っています。是非、タイ・リバイバルミッションのために祈りましょう。
 チェンマイという都市でも集会をしますが、山の中でも開催されます。山岳民族の中です。
 日本人の祖先の大多数は、中国・朝鮮半島を経て日本に来たのです。日本は稲作をやっていますが、稲作は、どの辺から始まったかというと、タイの付近らしいです。そこに日本人の根源があるのではないかという説があります。
 タイには多くの部族が存在するのですが、その一つに「アカ族」と呼ばれる人たちがいます。これがアカ族の家です。見てください。神社みたいです。

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 アカ族の部落に入るには、鳥居によく似たゲートがあるのです。

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 これを見ると、日本の神社とか、鳥居は、向こうから来たものであることがわかります。日本独自のものではないのです。

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 アカ族の子どもたちの写真です。誰かに似ている感じですよね。日本人と同じような顔つきをしています。日本のルーツで働くことは、重要な働きであると思います。金の頭、原点を勝ち取らなければなりません。
 先ほども話しましたように、金の頭から悪魔は指令を出していますから、日本のリバイバルは、アジアのリバイバルとつながっています。

 それにつけても、このような働きをするのに必要なのは、「金」です。金がないと、海外のミッションはできないのです。タイでミッションをやっても、経済的には一円も得になりません。なんでやらなくちゃいけないのかなと思うのですが、でも、神の国の拡大の為には必要です。しかし、経済的な必要があるのです。
 ある意味、不正の富と仲良くなる中で、人は永遠のいのちにつながっていくのです。ということは、経済という社会の中で、背後に働いている暗闇の力と戦いながら、マモンに渡った金を勝ち取り、神の国のために使えば神の国は拡大するのです。

 是非とも来年は、経済的に豊かになっていただきたいです。自分の欲のために金を使う人たちに金が渡るのではなく、クリスチャンが経済的に祝福され、金持ちにならなければなりません。けれども、金に捕らわれたらおしまいです。そこにはマモンがいるからです。
 ならば、どうしたらいいのか。どうしたら、マモンに勝利しながら、経済的に豊になれるのか。

 教会に来ますと、献金があります。私は最近、「献金って、大きな霊的な戦いだ」と思うようになりました。経済の世界の背後、不正の富の後ろで働いている悪魔に立ち向かう最も大きな戦いが、もしかしたら「献金」なのかもしれません。
 みなさんが献げてくださる献金で、タイにおけるミッションも開かれ、教会も運営されます。それは不正の富が使われるのです。しかしそれにより、人々は永遠のいのちを得るのです。これは本当に不思議なことです。

 献金は、ちょっと躊躇する時もあります。ここに千円札がありますが、たとえば一万円を献金するとしたらどうでしょうか。なかなか献金しにくいですよね。じっと諭吉君と目を合わせ、「短いおつきあいでしたね。また戻って来てくださいね。」と、名残惜しく献げるかもしれません。
 不正の富の中から、神のために献げる行為は、現代社会の中で、最も激しい戦いかもしれないです。
 献金について、パウロは次のように述べています。第二コリント人への手紙九章六節〜七節、

『私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。』

 また第一コリント人への手紙十六章一節〜二節、

『さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。』

 献金は、経済の中に働く暗闇の力を打ち破るために重要です。神の国と神の義を第一にするとは、具体的には一体何なのか。不正の富を勝ち取って、神のために献げることは、神の国と神の義を第一にする、大変重要な行為であると思います。

 旧約聖書、マラキ書三章の中に、「十分の一の奉納物」ということが書かれています。この頃、キリスト教界の中で、「十分の一の献げ物は、旧約聖書のことだから、強調しない方がいい」という考え方もあるようですが、聖書全体から見れば重要な真理を述べています。マラキ書三章十節〜十二節、

『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の主は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は仰せられる──すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ」と万軍の主は仰せられる。』

 「あなたは幸せですね!」と言われるというのです。十分の一を神様のために使ってみてください、そうしたら天が開かれますよ!と語られています。十分の一の定義は厳密には難しいかもしれません。しかし収入に応じて、「神の国の拡大の為に使おう」と決断することは、心をマモンの世界から神の国へ移す、重要な霊的戦いであるように思います。
 案外、私たちの足下に、大きな霊的戦いのテーマが転がっているのではないでしょうか。
 しかし新約聖書が告げているように『ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。』という自発的な心が大切です。
 これがマモンに打ち勝つ戦いであると、はっきり分かったら、喜んでできるのではないでしょうか。
 神の国と神の義を求めなさい。…神の国の中心的概念は何でしょうか。マタイの福音書十二章二十八節、

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

 神の国の現れは、霊的な戦いそのものです。神の国と神の義を求めるとは、本質的には、霊的戦いです。そして、大きな霊的戦いがどこに存在するのか。それが、経済の領域のであり、私たちが、神の物と自分の物とをしっかりと区別する中で勝利するのです。「あなたは幸せものですね」と言われるような祝福を注いでいただきたいですね。
 私は献金のことを話すのは、あまり好きではないのですが、この頃、自分自身、気づかされました。「献金は重要な霊的戦いの領域だ!」と。

 先日、ブラジル人教会に頼まれて奉仕をしました。私は滋賀県のブラジル人教会に、年間四回もメッセージに行くのですが、新城教会のインターナショナルでもそんなに奉仕しないのに、四回もたいへんです。
 十二月の始めにも、その教会に行きました。うちのインターナショナルの人たちは結構、日本化しているのですが、そこは「ど・ブラジル人」というような感じで、新城とは文化が違うのです。
 メッセージで恵まれると、みんな「アーメン!」とか叫んで立ち上がっちゃっいます。歌舞伎なんかも感動すると、おひねりを投げるじゃないですか。その教会も同じなのです。その教会では、恵まれると、人々は立ち上がって、金を私の足下に持って来るのです。始めはびっくりして、「何これ?」と思いました。メッセージが良ければ、感動すればするほど、メッセンジャーの足下に金が積まれるのです。そうすると、メッセンジャーも、「もっとがんばるぞ~!」という感じです。教会のおひねりの文化にびっくりしました。新城に帰って来て、フェルナンド先生やイレーネに聞いたら、「そういうのは南米ではよくあるよ」と言うのです。

 先日、その教会に奉仕に行くと、「献金のことを話してくれ」というのです。私は「献金は霊的な戦いだ!」という話をしました。みんなたいへん納得して恵まれたようで、私の足下にお金が一杯集まりました。「やった!いくらあるかな・・・」と、ちょっと思いましたよ。
 しかし、これが霊的戦いだと思って、「皆さんは、私を誘惑するつもりですか?」と言って山になった金を、目の前の献金箱にすべて投げ込みました。そうしたら、もっと盛り上がって、また持って来ました。すごかったです。

 その教会は自分たちの教会堂を建てたくて、「会堂建築の為に一生懸命、献げましょう」というキャンペーンをやっていたのです。その為に献金の話しをしてほしかったみたいです。
 私は「献金は、経済の中に働く暗闇に立ち向うことだ。不正の富を勝ち取り、神のために使う宣言です!今日はみなさんが計画している献金の倍の額を献げましょう!」と言いました。新城教会では、そんなことは言えません。よその教会だから言えたのですが、そうしたらその夜、みんな一生懸命に献金しました。これは十二月の始めの話です。

 先週、そこの牧師先生から電話がかかってきました。「順先生!聞いてください!聞いてください!教会を買いましたよ!」
 『えっ?もう買ったんですか?』聞いてみると、六百坪の土地で、三階建ての建物付き、一階が二百坪、総坪数六百坪くらいの物件を手に入れたというのです。そしてすべての契約を終え、支払いも済んだというのです。

 ところでみなさん、この物件、いくらだったと思いますか?普通ならば、相当すると思うでしょう。しかし彼らは、なんと「六百万円」で買ったそうです。
 なぜかと聞くと、それは二十年前に建てられたらしいのですが、オーナーが建てた直後、ほとんど使わないまま、都合でアメリカに移住してしまったそうです。だから日本にはいないというのです。その物件、少し山の方にあり、建物があまりにも大きくて使い道がなく、二十年間、オーナーは売りたくても売れずに、たいへん困っていたそうです。

 その教会の先生は最近、祈りながら散歩していて、その物件を見つけたそうです。そうしたら、「いくらでもいいから買ってくれ」と頼まれ、六百坪の土地と、総建坪の六百坪の建物込みで、なんと六百万円で手に入れたというのです。お金持ちの小遣いで手に入るくらいの金額です。
 「すごい!」と思いました。「主が、経済の霊的戦いに勝利させて下さったですね!」と話したのですが、私たちも来年は、経済的不安ではなく、経済的にも勝利していただきたいと思います。
 神の国と神の義を第一として働くなら、必ず、経済的にも大いなる勝利をくださると信じます。

 今年一年間、みなさんの尊い献げ物によって、教会は支えられたことを心から感謝します。さらにこの働きが、世界規模で広がっていくために、不正の富を勝ち取らなければなりません。来年はそのようになりたいと、心から願っています。そのための戦いを、日々、戦い続けていただきたいと思います。
 最後に一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。私たちは神の国と神の義を第一にして歩んでいきます。あなたの国が拡大するために、私たちは働いていきます。用いてください。今日一年を感謝して御前に出ることができ、心から感謝を致します。来る二〇一四年も、神の国の拡大のために、用いてください。
 今からの聖餐式を祝福してください。またその後の献げ物も、私たちは喜んで、神の国の拡大のために献げます。すべてを感謝し、尊いイエスさまの御名を通して、祈りを御前にお献げいたします。アーメン。