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『まっすぐ前を見つめよう』

2014年1月19日 (日)
新城教会 副牧師 四元雅也
箴言四章二五節

『あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。』



 ハレルヤ。昨年九月の礼拝以来の奉仕となります。今日皆さんの前でお話しすることができますことを感謝します。寒い日が続いています。隣の町ではノロウイルスが集団感染するなど、健康管理に気をつけなければいけないこの頃です。お互いに祈り合っていきたいと思います。
今日はまた、センター試験が行われています。教会の中でも、受験している人がいらっしゃいますので、皆さん、そういった方のためにも祈っていただきたいと思います。

 今日は、「まっすぐ前を見つめよう」と、タイトルをつけさせていただきました。「見る」ということですけれど、人間が生きていく上で、いろいろな外からの情報を五感から得て行動を取るわけですが、その中でも目から入る情報量は最も多く、全体の八〇パーセントが「目」から得る情報だと、どこかの大学教授が言っていました。生きていくことの大部分は「見ている」ということになります。朝起きて、一日過ごし、夜になって「ああ疲れた」と言うとき、その疲れは「目」に来ます。目をつむって休むとリフレッシュし、また働くことができます。
 あるコンタクトレンズのメーカーが出している情報ですが、目から入る情報を数値化してそれを「ビット/秒」という単位で表わすことができます。例えば、音を聞くことから得られる情報量が八千ビット/秒です。ところが、目で物を見ることによる情報量は四百三十万ビット/秒と、実に聞くことの六〇〇倍近くも多くの情報が「見る」ことによって得られます。それくらい人間の五感の中で、目から入る情報は大きいということになります。

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 日本はカメラの技術では世界一です。人の目と同様の役割を持つカメラ。これは日本でもトップメーカーから出ている最高級のデジタル一眼レフカメラ、キャノンEOS-1DXという、本体だけで五〇万円以上するカメラです。報道関係の方が使っているのがこのカメラです。これを扱えたらカメラ好きも一流です。しかし、こんなカメラでも人間の目一つに及ばないのです。私はカメラが好きで、自分でもデジタル一眼カメラを持っていますが、高性能カメラは特定の条件の元では人間の目に勝る性能があります。しかし、トータル性能では人間の目の方がダントツに素晴らしいです。万能性で勝負したら、カメラは「目」には遠く及ばないのです。

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 決定的に異なるのは、目はその人の思うように「物を見せる」ということです。瞳から入る画像は、目と脳の働きによって、その人の要求する映像に変換され、その人にとって大切な情報は増幅されて認識されるのです。
目とカメラの違いでひとつ「感度」について考えてみましょう。カメラではISO感度というものがあります。高感度カメラでいえば、人間の目でははっきり見ることのできないような暗闇でも、映像をとらえることができます。しかし、そんなカメラを白昼の元に出すと、もう使い物になりません。
 人間の目もカメラと同じように光感度の調節を行い、物を見ています。人間は明るいところから暗いところに入ると、一瞬目の前が真っ暗になります。しかし、一五秒たつと、だんだん目の感度は上がり物が見えるようになります。実験によると、夜には昼の六〇〇倍もの光感度があるそうです。太陽光は新月の夜の明かりに比べて一〇億倍も明るいですが、我々はそれに対応することができるほど、明るさに対する受容度があります。専門用語でダイナミックレンジとか、ラチチュードといいますが、それが広いのです。光感度とダイナミックレンジに関して、カメラが人間の目を超えるのは難しいと思われます。また、目は脳と連動しているから、デジカメ+パソコン処理のような感じで画像処理しています。

 こんな動画を見つけました。昨年のプロ野球の一コマです。



 取った本人も驚くビッグプレーでしたが、あのピッチャーが投げた、一四〇キロ以上のボールをバットの真芯で捕らえた打球ですので、一五〇キロ以上の猛スピードで飛んでくるボールです。それを瞬時に目が反応して捕らえ、スピードを測り、体を動かしてグラブをボールの飛んでくる方向に動かし、グラブに収まる位置とタイミングを高度に計算して見事にキャッチするわけです。目が矢のように飛ぶボールを捕捉することが、あの超ファインプレーの要なのです。

 目って大切だなあと思います。私も、眼鏡が近くにないだけで、生きていくことができません。手探りで眼鏡を探さなければなりません。運転もできないし、人と会っても顔がわからないので誰かわからない、眼鏡を取るだけで何もわからない。できない。
 一〇年くらい前のことですが、日帰りスキーに行きました。そのときはワンデーの使い捨てコンタクトをしていましたが、ゲレンデについて朝からゴーグルもつけずに一日中滑っていましたら、ドライアイになってしまいました。帰るときになって眼鏡に変えようとしたのですが、コンタクトが瞳にくっついて外れず、外そうとして何度も瞳をいじっているうちに、気がついたら左目が曇りガラスのようにぼやけて物が見えなくなっていました。驚いて眼鏡をはめてもやはり見えませんでした。
 もう夕方で、岐阜県の山の中のスキー場で、病院がどこかもわからない。スマホもない時代でした。困り果ててしまいましたが、帰らなければなりませんので、仕方なくハンカチで左目に眼帯をし、右目一つで車を運転して帰って来ました(交通違反ですので絶対に真似しないでください)。新城までの道中約三時間、その間はものすごく不安でした。
 新城に着いて、市内の眼科医はやっていませんでしたので、隣町の眼科医に電話しました。そうしましたら、医師の言葉はつれなく「ああ、それは大丈夫だ。もうコンタクトレンズは外れているはずだ。」と。「診てはいただけませんか?」「いやぁ来なくていい。目薬でもさして、寝たらたぶん、朝には直っているよ」と、軽く言ってくださいました。私は「診てもらえないのぉ?」て、なんだか、見放されたようで、悲しくなりました。
 仕方なく、家内に先に買ってきてもらった目薬をさして寝ました。そしたら、翌朝起きたときには医師が言った通り回復していました。本当にホッとしましたけれども、その夜の不安は今でも心に残っています。目が見えなくなることは大変不安なことです。

 前置きが長くなりましたが、今日のテキストである、箴言四章二五節

『あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。』

 このみ言葉の中から、私たちに大切な「見つめる」ことを、信仰の領域で考えます。
 年末から年始にかけて、牧師先生方から、素晴らしいみ言葉が語られました。その中で、カウントダウン・ワーシップに、岡本牧師は第一テモテへの手紙六章一九節から、

『また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』

と、お話されました。このみ言葉を読むときに、未来を見つめる「目」が必要だと思わされます。未来は、私たちの目の前にないのですが、私たちは信仰の目で未来を見つめ、それに備えて基礎を築き上げるのです。
 先日、一月五日の礼拝の中で順先生がこんなことを話しておられました。
 私たちは案外、ちっちゃな視点に目を向け、よく祈ります。自分の周りの問題とか、足下のためには真剣に祈るのですが、遠くを見て、また大きな視点で祈ることはなかなかできません。もちろん、近くを見て祈ることも大事ですが、大きな視点で祈る時に、その中に足下の問題もすべて含まれる、ですから、大きな視点で祈ることが、近くの問題を解決するカギとなることが、往々にしてあります、と。
 平均台という体操競技は、たった十センチくらいの幅の板の上で、いろんな業を披露するわけです。普通なら、落ちて頭を打って死ぬのが関の山です。けれども、細い板の上で宙返りが出来るわけです。どうして出来るのか、もちろん日々の鍛錬ですが、一つの秘訣は競技する時、足下ではなく、遠くの一点を見ているそうです。それが体がぶれず演技するために大切なのです。
 祈りも同じです。近くではなく、遠くを見ながら祈るなら、勝利がもたらされます。

 先週の日曜日の午後は、滝元望先生のセミナーが行われました。望先生の話を聞いていると、先生はとりなしの働きを世界的な視野で、何年も先を見据えながら進めておられます。環太平洋ミッションともリンクしていますし、歴史を通じての、日本と世界との関係を調査して、何年間にもわたるとりなしの計画を持ち、実行していることを知り、素晴らしい働きだと感じ入りました。
 そのように、私たちも、遠くを見据える「目」を神様に与えていただけたら良いなと思います。

 話は変わりますが、この年末年始、私はひとつ嬉しいことがありました。また、ひとつ悲しいことがありました。
 嬉しかったことは、年末に眼鏡を新しくしたことです。ちょっと今風なデザインの眼鏡になりました。それまで何ヶ月間か変えたいなと思っていました。というのも、最近私の扱い方が悪かったのか、レンズの表面に細かな筋がいっぱい入ってしまい、昼間は大丈夫なのですが、夜になって車を運転するときなど、対向車のライトが乱反射して眩しく、前がよく見えなくなってしまったのです。仕方がないので、一つ前の古い眼鏡を取り出して使っていたのですが、その眼鏡は度が弱くて、遠くがよく見えませんでした。そんなことで不便していたのですが、ある日、ある兄弟と話していたとき、そんな話をしていましたら、その方が「あの、先生、僕はひとつの眼鏡店の優待割引券を持っているんですよ。良かったら先生に使っていただけるように差し上げますよ。」とおっしゃってくださいました。「えっ!本当?」というわけで、なんと五千円分の割引券をいただきました。それで、私は眼鏡店に行き、割引券を使って、最新型で、はやりのいわゆる「PC眼鏡」と呼ばれている、パソコンや携帯画面から出る有害な光をカットする機能がある眼鏡を買うことができました。
 眼鏡を買うときに視力を測るのですが、そのときかけていた眼鏡は古いので、度が低くて遠くが見えないので、店員と相談して二度上げました。できあがってきましたら、なるほど遠くがよく見えましたので、大変嬉しくなりました。
 ところが、家に帰ってきてから、私はびっくりしました。なんと、この新しい眼鏡をかけると、聖書が読めなかったのです。そういえば、店員に言われていました。「遠くを見えるようにすると、代わりに近くが見にくくなるかもしれません」と。しかし、実際に見えなくなるのを実感したとき、愕然としました。皆さんの中にもそんなことを体験された方がおられるかもしれません。私は初めての経験でしたので、少し悲しくなりました。自分もついに老眼になったか、と。
 眼鏡を新しくしたばっかりなのに、これからどうしようかと思いました。でも、眼鏡を外して、聖書に顔を近づければ読むことができましたので、状況によってかけたり外したりしながら今のところしのいでいます。幸いその眼鏡屋さんは、レンズが合わなければ半年間はタダで度数を変えることができるので、しばらく使いながらゆっくり考えたいと思います。
 近くだけ見ていてはいけない。遠くもよく見なければと言われていましたが、私の場合、遠くが見えるようになって近くが見えなくなってしまったわけです。近くも大切なので、その場合、遠近両用でいけば良いわけです。そうすれば近くも遠くもよく見えます。

 冒頭に読んだみ言葉の前後にはこう書かれています。箴言四章二三~二七節

『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。偽りを言う口をあなたから取り除き、曲がったことを言うくちびるをあなたから切り離せ。あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。』

 切り立った山の尾根を歩いたこたがありますか?山の尾根は幅が狭いです。一メートルほどの時もあります。

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 いくつかの山の頂上を結ぶ稜線、そこを尾根といいますが、ここを歩くとき、この細い尾根だけが安全に歩くことができる道なのです。

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 ここではみな一列でしか歩くことができません。右にも左にも一点の足場となるものはなく、谷底に向かって崖のような斜面が続くのです。注意して歩かなければなりません。

 ある時、友人と高い山に登ったことがあります。片道四時間くらいかけて登ります。彼は、私と同じように目が悪いのですが、コンタクトレンズと眼鏡、そして予備の眼鏡を持って来ていました。私は彼の用意周到さに驚いたわけですが、考えてみると山の上ではコンタクトが外れてなくなったり、転んだ拍子に眼鏡が割れたりしたら、重大な問題になります。目が見えずに山を歩くことは、まずできませんし、下手をすると道を外し命取りになるわけです。彼はそんな事態を想定して三重の予防をしていたのです。

 このみ言葉は「見張れ、心を」といいます。「見張り、見守る」と書かれています。「ここからいのちの泉がわく」と書かれています。偽り・曲がったことが、心から出る、そうならないように。なぜならば、あなたのいのちの泉が枯れないように。あなたの行く末が祝福されるために「見張り、見守る」のです。

 礼拝では順牧師をはじめとしていろいろな先生からメッセージが語られます。二年前に公畑フェルナンド先生がここでメッセージされていたことが、頭の中に残っています。
 多くの人はこの先、五年間の自分の人生はどういうものになるのだろうかと心配します。自分の将来を案じ、あらかじめそれを知ろうとします。あらかじめ知ることは人間には許されておらず、神様だけがご存じなのです。しかし、多くの人たちは占い師に会いに行ったり、星占いとか、おみくじを買ったりして、吉だ凶だ、運があるとかないとか、今日はついているとかいないとか、そんなものを信じています。
 フェルナンド先生は、こう話しました。「あなたはこの先、五年間の自分の人生について知りたいと思いますか。それでは、今、私が言ってあげましょう」と。それは何かというと、「今日、あなたが言っていることがこの先、五年間のあなたの人生になります」というのです。今日、どんな言葉をあなたが言うか、病気になることか?貧しくなることか?不安か?不平不満か?そういうことを口にしているあなたは、五年後あなたが語った言葉のようになっていきます、と。前向きな言葉や、信仰的な告白や宣言を話し、状況に対して「このようになれ!」主に御名によって命じること、そういう人は五年後必ず祝福されています。その言葉が心に残りました。
 あなたはいま、どんな言葉を口にしていますか?否定的な言葉や、不満を口にしていますか?それとも、これから来る年は良い年になると言っていますか?今年は、私にとってより良い年になると言っていますか?
 あなたの目はまっすぐ前を見つめなさい。偽りを口にしないこと。曲がったこと、後ろ向きなこと、否定的なことが心の中から出てこないように、しっかりと見守り、正しいこと、直ぐなこと、信仰の宣言を口にするとき、あなたのいのちが、内側から潤っていくのです。二〇一四年に向けて、先生方から素晴らしいメッセージが語られました。そのすべてが前向きな信仰の宣言でした。私たちは、そのみ言葉をしっかり見つめ、告白していく、それが、「心を見守り、まっすぐに前を見つめなさい」と書かれているみ言葉の意味であります。イザヤ書二章三節

『多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。』

 この「道」は山の尾根のように狭いです。「大道」ではなく「小道」を歩んでいく、神様の教えを見つめて歩いていくのは、まっすぐ見つめていないと、右や左を見つめていると、谷底へ落ちてしまうのです。
ヤコブの手紙一章二一から二五節

『ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。』

 聖書のみ言葉は、聖書全体の文脈の中で、正しく受け止められなければならない、神様の小道をまっすぐに歩くために、私たちにできることが、五つくらいあります。まずは、毎週の礼拝で神のことばを聞くことです。第二は、毎日聖書を読む、それも、選り好みせずに通読することです。第三は、家庭集会やサンデースクールなど、聖書を深く学ぶ機会を持つことです。聖書をひとりで学んでいるだけでは、わからないことがあってもそのままになってしまい、偏ってしまいがちですが、家庭集会や部会別の集まり、サンデースクールで学ぶと、他の人の意見を聞いたり、わからないところを尋ねたりして、聖書がよくわかるようになります。第四に、みことばを「覚える」ことです。聖書の大切なことばをそのまま暗記してしまうのです。そうすれば、それを思い起こし、その意味を思い巡らすことができます。また、いざという時に必要なみことばを思い返すことができます。第五番は、み言葉を「実行する」ことです。やってみて、み言葉が真実かどうか「体験」するのです。体験することを通して、まっすぐに進む力が得られます。「自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」み言葉には私たちのたましいを救う力があるのですが、その力が私たちのものになるのは、私たちがみ言葉をすなおに受け入れ、それを実行する時だと言うのです。聖書のことばの中には、まず、信じてみる、従ってみる、実行してみる、それから、はじめて理解できるものが多くあるのです。

 また、逆に聖書には、見なくてよい物に目がとまって、心を奪われ、見つめ続けてしまったので祝福を失った人がいます。
 ヨシュア記に出てくる、アカンがその筆頭です。この時代、イスラエルは神様からの約束の地「カナン」に入って行きました。イスラエルは、神がともにおられる軍隊として、その地で悪を行っていた七つの民を聖絶することを求められていました。
 最初のエリコでの戦いを首尾良く勝利し、次の町アイの戦いへと進み出たのですが、アカンが神様が取ってはならぬと命じられたぶんどり物を自分のために隠していたのです。そのために、戦いに敗れてしまいます。神様はアカンの罪を暴かれました。アカンが民の前に引き出されたとき、彼はこう言いました。ヨシュア記七章二一節

『私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります。』

 彼は「見た」ことに端を発し、罪を犯して神の義の故に裁かれ、石打ちの刑に処せられたのです。
 あの素晴らしい王様ダビデも、あるとき城壁の上から、見てはならぬ女性の入浴する様を見てしまい、欲望を抑えることができなくなって姦淫の罪を犯してしまいました。
 見てはならない物を見てしまうと、今度は欲しくなり、掟を破ってでも、奪い取ってでも手に入れようとしてしまうのが人間の弱いところです。アカンの罪・ダビデの罪は、見なければ良い物を見てしまったことから始まり、誘惑に負けてしまいました。見たことで自分の居場所を見失ってしまった。心におおいが掛けられ、神様の御心がわからなくなってしまうのです。Ⅱコリント四章三から四節には、悪魔が私たちの目におおいを掛け神様の栄光の光、福音の光が見えなくさせられている、と書かれています。私たちは、そうならないように、心を見守ることは、私たちの責任であります。

 もうひとつ、人間の目とカメラとの違いは、人の目には一八〇度近い視野がありながら、「見つめる」とき、一点に集中することができること。周りを見えなくする。一点を見つめ、他のものを視野から除くこと。カメラにはそんな機能はありません。視野に入る物を一様に映し出すだけです。
 最近のカメラは、顔認識機能があります。カメラに人の顔を記憶させ、カメラを向けたときに、覚えた人がいると、ご丁寧に顔の横にその人の名前まで出てきます。そして、その人がほほえんだ時を狙って自動的にシャッターをカメラが切るのです。スマイルショットが簡単に撮れるのです。
都会の街に出ると、あちらこちらに防犯カメラがあって、それにも顔認識機能があります。その気になれば、名前も個人情報さえも映像から引き出すことができます。うかうか街も歩いてられない時代です。しかし、これも人間の目の認知能力と比較したら幼稚な物です。

 私は、時々家内と、子どもたちの運動会や、学習発表会などを見に行きます。そんなとき、何百人といる生徒たちの中から自分の子どもを探すのは至難の業です。そんなとき家内の検索眼に驚かされます。私が、「どこにいるのかな?」と目を凝らして巡らせている間に、たいてい「あそこにいた」といって見つけ出します。「右側の塊の真ん中くらい」とか言われるのですが、それでも私は見つけることができません。母親が子どもを見つけ出すのはすごい能力だと思います。愛しい者、興味のある物にすごい検索能力を発揮するのではないかと思います。自分の心を占めているものには、人間は本能的に目を向け、また追尾するのです。そこも、カメラとは違います。

 去年の12月に行われた子どもクリスマス集会で、ひとつ我が家に快挙がありました。毎回子どもクリスマスの目玉プログラムとなっている、プレゼント抽選会で、我が家の小学生の子ども二人、それと、ついでにいとこの男の子にもプレゼントが当たったのです。そんなことは、今まで十何年間の参加履歴の中でも初めてでした。当然、子どもたちは大喜びしました。
 当たった物の中にガンプラがありました。ご存じですか?ガンダムのプラモデルという意味です。

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 このガンプラは、私が子どもの頃からありまして、このモデルは僕も作ったことがあります。当たった物は教会のある兄が献品してくださった物でした。
 その日以来、子どもたちにガンプラの火がついてしまったのです。年末になり、子どもたちが言うのです。「お父さん。ぼくねぇ、ガンプラが欲しいんだ。誕生日の時になにも買わなかったでしょ?またクリスマスプレゼント分と正月も併せて、ガンプラ二つ欲しい。」というのです。すると上の子も「僕も欲しい」と言いだし、結局、その日以来、我が家に五体のガンプラがやってきました。

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 居間に飾られています。これを見て、皆さんどのモデルかわかりますか?ちなみに、左後ろからいいますと、戦国アストレイ・ガンダム、ビルド・ガンダム・マークⅡ、ウィング・ガンダム・フェニーチェ、前列にいきまして、左からストライク・フリーダム・ガンダム、そして、ガンダムXマオウです。私は聞いても全然わかりません。ガンダムしか頭に入りません。見ても同じにしか見えません。しかし、子どもたちはこれを識別するわけです。ガンプラの種類はなんと一〇〇〇種類以上ということです。この先どこまでガンプラフィーバーが続くのか考えるとちょっと恐ろしいです。プレゼントが当たったことも善し悪しです。子どもたちにとっては楽しい遊びですが。ヘブル人への手紙一二章二節には、

『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』

 私たちも、イエス様の「顔」をいつも認識し、見つめ続け追尾し続けなければなりません。

 よくテレビの番組で、おもしろ動画を紹介しています。「猫とレーザーポインター」という動画があります。



 このように、猫は、飼い主が手にして揺らすレーザーポインターの光を捕まえようと、何度でも飽きもせずに追いかけます。猫じゃらしのように揺さぶると、猫もハンターの本能をむき出して必死で追いかけ回します。その必死な様が大変愉快です。
 私もあの猫のようになりたいです。主人であるイエス様が、レーザーポインターを持ってチャカチャカしながら「こっちへ、あっちへ」と動かされる、その通りに後をついて動いていきたいものです。イエス様は意地悪な動きはしませんので、イエス様が導かれるように動きたいです。

 先週の礼拝メッセージでは、順先生がお話ししておられました。年末年始に先生方から2014年の指針となるみ言葉が語られましたが、順牧師はこれを忘れないように、毎日の祈りの中で、語られたみ言葉を一まとめにして、宣言されているそうです。その文章が紹介されていましたが、今日も紹介してみましょう。これは、六人の牧師先生と順牧師が年末年始に語ったメッセージの中心テーマを、箇条書きのようにしたものです。これを、順牧師は忘れないように毎日宣言しておられるそうです。

主よ。今日も未来に備え、良い基礎を築きあげさせてください。
純粋に主に仕えさせてください。
今日も天が開きますように。
すでに開かれている天の破れが、さらに大きく広がりますように。
今年は成就と再建の年となる事を宣言します。
いのちの日の限り、恵みといつくしみとが追って来て、
閉ざされていた扉が開かれる年となりますように。
今日も、下に根を張り、上に実を結ばせてください。
賛美の領域に、新しい変化を起こしてください。
私は暁を呼び覚まします。
今年は、経済的に祝福されることを宣言します!
世界経済を支配するマモンの力を打ち砕きます!
私に、神のものと人のものを、しっかりと区別させてください。
マラナタ。主よ、来てください!

 順先生を見習って、皆さんもこの文を忘れないように、心に留めると良いと思います。
 冒頭に読んだみ言葉、箴言四章二五節、

『あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。』

 どうか、今年一年間、僕を含めて、ここにおられるすべての方の目が、前をしっかりと向いていますように。前を向き続けていますように。下向きや横向き、後ろ向きにされてしまうことのないように、イエスキリストの御名によって宣言します。どうか、まっすぐに進み、右にも左にも曲がることがないように。一心にイエス様と、主のみ言葉とに集中して歩くことができますように、互いに励んで参りましょう。