HOME > メッセージバックナンバー > 2014年バックナンバー > 2月 > 2月16日

『麗しの主イエスに賛美を』

2014年2月16日 (日)
新城教会副牧師 滝元開

第一コリント人への手紙 13章13節

『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』


 今日のメッセージは「麗しい主イエスに賛美を」というタイトルをつけさせていただきました。麗しい主イエス様に心から賛美をささげていく時に、神様が新しいことをしてくださると、心から信じて歌っていきたいと思っています。
 この二〇一四年、私の中に与えられている一つのテーマは、倒れたダビデの幕屋が回復すること、そのことを通して、主はリバイバルの働きを進めてくださるということを示され、そして心から賛美しています。ダビデの幕屋の回復とは、ダビデ王時代の三千年前のような賛美形態の復元ではなく、ダビデが日々戦いの中でも歌い続けていった中に主のご臨在があって、主の勝利が現されたように、私たちも日々の戦いの中で歌い続けていく時に、神様が大いなる業を成してくださると信じています。

 そして、今日与えられているみ言葉は、第一コリント人への手紙十三章十三節のみ言葉。もう一度お読みさせていただきます。

『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』

 とても有名なみ言葉です。『いつまでも残るものは信仰と希望と愛。』これは、私たち信仰者のみならず、人間、すべての人が持たなければいけないものだと思います。「信仰」信じること、そして「希望」望みを抱いて希望を持つこと、さらに「愛」を持つことの大切さ。これが人間にはとても大切なことだと思います。これを失ってしまう時に、私たちは前に進めなくなってしまうのではないかと思います。

 まず第一に「信仰」ということですけれども、私たちの主は真実なお方なので、主は必ずリバイバルを起こしてくださると信じ切っていかなければいけないと思います。しかし、目の前に現れる様々な問題を見ると、ついイエス様が見えなくなってしまい、「もう駄目だ。もうこれ以上進めない」と思うんですね。そして、もう究極的には、人生にピリオドを打たないといけないくらいの気持をサタンは持ち込むわけです。しかし、私たちが信仰をもってイエス様を見上げていく時に、イエス様は必ず祈りに答え、大いなることをしてくださるお方なので、そのことを信じて歩み続けていきたいと思います。

 今日の賛美の時間では中高生のみなさんが一緒に賛美し踊ってくださったので、本当に恵みの時でした。賛美の中にさらなる主の御業がなされて、さらに踊りをもって神の国の拡大を勝ち取り、御業がなされていくようにと祈っています。ダビデ王様も、主の御前に喜び踊ったと書かれていますので、私たちも主の御前に喜び踊る者としていただきましょう。ダンスという領域の多くが、ある意味サタンの手に奪われている現状があるように感じます。私たちは賛美を通して、神様の奪われた栄光を奪回するために賛美し、そして踊っていきたいと願っています。さらにこの教会のダンスの中にも、新しい油注ぎがあるように、ぜひお祈りいただきたいと思います。

 中高生の働きをさせていただく中で、皆でずっと祈っていることがあります。それは、M君の癒しのためにずっと祈っています。もう彼が倒れて、五年半になります。最初倒れて、生存率五%と言われて、早く彼が立ち上がるようにとみんなで真剣に祈りました。やがて彼は目を覚まし、主は彼を立たせてくださって、今は学校にも行けるようになっています。本当に大きな恵みだと思っています。
 でも、今年になって、何度も何度も彼は発作に苦しんでいます。ですから中高生のみんなで心を合わせて一生懸命お祈りしているわけですが、二週間前くらいの礼拝前に、彼が朝早く会堂に来て座っていたのです。私は彼の横に行って、毎日のように発作が起こっているのを知っていたので、「どうする?何を祈ったらいいかな?」と彼に言いました。すると、彼は何と言ったかといったら、『祈りは聞かれるから』と、彼はそう言いました。私たちは何を祈ったらいいのかと、いろんなことを思い巡らせますが、やっぱり大切なのは、「祈りは聞かれる」という、その信仰だと思うのです。信じ切って祈っていく時に、神様は必ず成してくださると信じています。ハバクク書二章三節〜四節をお読みしたいと思います。

『この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。』

 リバイバルは必ず起こる。主が必ず起こしてくださると信じていきましょう。『しかし、正しい人はその信仰によって生きる。』とありますから、信仰を持って歩み続けていきたいと思っています。

 今年の一月にザワメキで関西地区にお伺いさせていただきました。すごく小さな教会でした。だいたい教会員の方々は十五名くらいだと思いますが、行く前にその先生と電話でお話ししまた。土曜日午後に開催の集会でしたので、先生はこうおっしゃいました。「いや〜、土曜日だから人が集まらないかもしれない。」と、すごく心配しておられました。「でもその場所で神様を賛美する事にとっても大きな意味があると思いますので、私たちは、その場所で歌うことができるなら、本当に嬉しいので、一緒に歌いましょう」と言って出かけました。
 その教会の牧師先生は、滝元明牧師の天幕伝道で救われたそうです。背の高いジェントルマンな初老の先生です。
先生は学生時代に天幕に来て、明先生のメッセージを聞いたそうです。四十年前の明牧師のメッセージはすごかったというのです。強烈な火の出るようなメッセージをしていたので、びっくりしたそうです。そんな中、その先生は腕まくりをして、「何を語っているんだ?」と、どんと構えて座って聞いていたそうです。しかし、メッセージの中でイエス様と出会い、「俺、信じる!」と、イエス様を信じて人生が全く変わったそうです。それから「伝道する!」と、今に至るまで伝道に励んで来られました。
 そんな教会にお邪魔させていただいたんですが、先生との交わりの中で、先生は。「今までリバイバルを求めてずっと励んで来たけど、何も変わらない」とおっしゃるのです。リバイバル、リバイバルと、そのことを信じて求め、また海外からのリバイバルのためのプログラムがあれば、あの方法、この方法と、また、これがいい!と思えば、それをして、これだ!と言われれば、それをしてと、「ずっと頑張って来たけんだけど何も変わらない」とおっしゃっていました。「でも神様は真実なお方だから、神様を見上げてもう一度賛美したい。」と、そうおっしゃっていました。ですから、今回ザワメキの集会が決まった時に「ああ、これは主から来たものだ」と思ったというのです。だから、人が少なくても賛美しようと思って、先生は準備されたそうです。
 私たちが教会に到着すると、教会前の看板に、「ザワメキコンサート」という案内が貼られていました。準備してくださっているなと感謝しました。聞いたら、そのチラシを周りの人たちにすこしだけお配りしたそうです。でも、先生は何度も「今日は人が来ない。十五人の信徒の人たちの中でも、あの人も来れないし、あの人も来れないし」と、ずっとおっしゃっていました。
 集会が始まる十五分前くらいでした。なんと、四名の方が来られたのです。それはクリスチャンでない方たちでした。想定外だというのです。思いもよらずに四人の方が来たということで、先生は喜びと共に興奮されていて、「クリスチャンでない人が来たので、彼らのために集会を進めてください」と、おっしゃいました。「分かりました。そのように集会を進めます。」ということで準備していました。すると、次々とクリスチャンでない方が来られ、なんと十名くらい、半分、クリスチャンじゃない人で埋まりました。もう先生も、その教会員のみなさんも本当に喜ばれて興奮しているのが分かるのです。
 そして、さらに関西地区の兄弟姉妹で、ザワメキのことを助けてくださる方々が、あっちからこっちから来てくださったので、その教会三十名入って、いっぱいになりました。「こんなこと初めてだ」と言うのです。先生は喜ばれて、「神様が何かしようとされていると思っていたけど、神様はこんなに素晴らしいことをしてくださった」と喜んでおられました。
 集会が始まりました。先生は向かって右側の前から二番目に座っておられました。そして、左側にはクリスチャンでない方ばかりが座っておられたのですが、それにも関わらず、先生は賛美の中で泣いておられるのです。それも、はらはらと泣くのではなく、おいおい泣くのです。その姿はまるで先生がイエスさまに出会われた時のように、明牧師が「イエス様を信じなさい!」と言ったことに応じて、「俺、信じる!」と言って、イエス様の前に出たかのように、ずっと、うわーっと泣いておられ、心震わせるように、人目もはばからずに泣いておられました。
 イエス様は本当に真実なお方です。ペテロたちがイエス様に出会った時に、イエス様はペテロから舟をお借りになりました。ペテロたちの舟を借りて、陸から少し漕ぎ出して、民衆に対してメッセージを送るのですが、メッセージが終わった後にイエス様は何とおっしゃったかといったら、ペテロに対して、「もう一度、深みにこぎ出して網をおろしなさい。」そう言いました。そうした時に、ペテロが何と言ったかといったら、「私たちは夜通し働いたけど何もとれませんでした」と言ったというのです。「夜通し働いた。」ある意味、私たち日本の教会はリバイバルを求め、夜通し働くようなことをしたかもしれませんが、何もとれなかったというのが、この国の現状かもしれませんが、ルカによる福音書 五章五節〜六節、

『するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。』

とあります。イエス様の言われた通りにした時に、今までは何もなかったかもしれないけど、主のみ言葉に従った時に、破れそうなほどの大きな祝福が注がれた。
 その先生が本当に、イエス様の御前に、「私、イエス様を信じる!」と言った時に、イエス様を愛して、牧師先生になられて、夜通し働くようなことをずっとされてきて、そして、もう一度、主の御前に出て、賛美の中で涙される中で、イエスさまの愛に触れられていました。集会が終わってすごく興奮されて、先生が私の所に来て、「こんなことは、この教会で初めてなんです。」とおっしゃるのです。集会の中に一人の七十過ぎのご婦人が来られていて、その方の息子さんがクリスチャンだったらしいのですが、その人いわく、「私は教会という所に七十過ぎて初めて来た。良かった。明日から礼拝に出る」と言って帰って行かれたのです。
 神様が真実なお方なので、主は必ず事を成してくださる、そういう信仰を私たちは持ち続けていきたいと思います。サタンは、「もう駄目だ」と、私たちの耳に語りかけてくるかもしれませんが、必ず主は、リバイバルを成し遂げてくださると信じて、戦い続けていきたいと思います。

 信仰と希望と愛。二番目の「希望」ですが、私たちはイエス様によって希望を与えられています。何よりも大きな希望は、やはり、イエス様を信じたら天国に行くことができるという、大きな希望があるので、希望を持って前進していきたいと思っています。
 今、希望を持てない時代だと言われています。つい先日、一つの雑誌を見ていたら、「悟り世代」という言葉がありました。この言葉をご存じの方、いらっしゃいますか?「私は悟り世代だ」という人?知らなかったら言えないですが、これは現代の若者たちを指した言葉だそうです。彼らが生まれた時には、物質的には、もうすべての物が満ちていたというのです。しかし、そのうち不況になって、リーマンショックを通り過ぎ、絶えず「不況だ。不況だ。お金がない。」そういったことばかり聞かされ、と同時に世界にはインターネットが普及して、頭には知識がいっぱいで、自分はどうやってこの不況の中で生きていったらいいかということ分析しつつ、いろんなことを悟った子どもたちの世代のことを「悟り世代」というそうです。
 さらに、この世界、これからいい方向に進むというニュースがどこにもないので、「さぁ進むぞ!」と、そういう希望を抱いて生きることができないとうのです。そんな中、自分のしたいことといえば、自分の部屋の中でマッタリして、テレビを見て、インターネットして、好きなものを食べてと、そういった世代の人たちがたくさんいる。だから夢が持てない人たちがあまりにも多いんだということを、その雑誌の中では書かれていました。
 私たちは本当に、このような世の中の今のこの現状を見ると、確かに希望を持てないような時代の中にあるのかもしれませんが、イエス様がおっしゃっているのは、「希望を持ちなさい」ということを語ってくださっています。

 この二〇一四年、一月一日、我が家にとって、本当に大きな悲しみと共に、この年は始まりました。朝五時何分に電話がありました。家内の父親が「危篤です」という電話でした。昨年の十一月から肺炎をこじらせて、「もうあと一日、二日です」ということを何度も言われました。最初に「危篤」と言われ、急いで病院に行きました。でも、開口一番おじいちゃんが言った言葉は、家内に対して「どら焼きはある?」でした。私たちは彼と一緒に一生懸命祈って、賛美しました。そんな中で、おじいちゃんは、だんだん元気になりました。これなら盛り返してくれるかなと思って、祈っていました。でも、神様は、一月一日の朝、神様の時の中で、神様の元に連れて行ってくださいました。おじいちゃんが天に帰って行きました。すごく悲しい出来事でした。
 一月一日早朝、私と、家内と、娘の暁起と、三人で病院に行きました。連絡では「危篤」だと言っていたので、まさか、まだ召されてはいないだろうと思って行きましたが、おじいちゃんはすでに息をしていなくて、すべての器具が取られていて、静かに眠っていました。すごくいい顔をしていました。もちろん家内も娘も、涙して、長い時間別れを惜しんで泣いていました。でも一生懸命一緒に賛美したし、一緒に楽しく過ごすことができた。主の恵みだった。と言って、病院から帰りました。
 ずっと泣いていた娘の暁起が、病院の中で、途中から、涙を流さなくなりました。すると、帰りの車で彼女がぽつりとこう言いました。「私は幻を見た」と言うのです。どんな幻か聞くと、「おじいちゃんが先に天国に行ったおばあちゃんと一緒に『シンギング~♪ダンシング~♫』と手つないで踊ってた。」と。「あぁ!天国で踊っているんだ!」そう思ったら、もう悲しまなくていいと思ったというのです。神様は私たちに永遠という希望を与えてくださっているので、苦しみの中でも、天国という大きな希望があるので、私たちは戦い続けることができるのです。この大きな希望を掲げて戦い続けたいと思います。
 みなさんの愛に支えられて、召天式も行われましたが、本当に喜びの召天式となりました。病室でおじいちゃんが、「Singing Dancing」と、手まで動かしながら歌ってくれたので、愛唱歌を「Singing Dancing」とし、みなさんで歌いました。司式してくださった順牧師が、「葬儀でこの歌を歌うのは、体を揺すってリズムを取りたくなるので何とも難しいです。」とおっしゃっていました。本当に祝福の時でした。またおじいちゃんが苦しそうなときには、病室で、「イエス様を信じれば」という曲を流すと、「イエス様を・・・♪」という子どもたちの声で、おじいちゃんが、ガッと活気づいた時がありました。ですから、葬式の最後に棺桶を運び出す時は、その歌で送りだそうとお願いしました。そして、棺桶が悲しみの中で運ばれたのですが、そこで流れている音楽は、「イエス様を、信じれば♪」という元気な歌で送り出し、いいのかな?という召天式だったんですが、私たちの国籍は本当に天にありますので、天国にある希望を、いつまでも信じ前進し続けていきたいと思っています。

 ザワメキによく来てくださっていた一人の四十代の兄弟が、昨年天に帰られました。末期のガンで、まもなく天に帰るという時に、奥様が聞いたそうです。「死ぬこと怖くないの?」と聞いたら、何と言ったかというと「怖くないよ。扉開けて向こうに行くだけだよ」と、そうおっしゃったというのです。私たちにはいのちが与えられて、しかも永遠のいのちという希望があるので、死ぬことが怖くなく、前進し続けられるというのは、すごく大きな恵みだなと思います。信仰を持って、そして、希望を持って進んでいきたいと思います。

 そしてもう一つが「愛」ということですが、み言葉にも、『‥その中で最も優れているのは愛』と書かれていますので、リバイバルのために必要なことは、やはり、イエス様に対する愛。そして、魂に対する愛。それがすごく大切だと思います。
 そこで、愛ってなんだろうと考えると、愛することなので、愛し合うことだと思うのですが、サタンはその愛を奪おうと、あの手この手と、様々な働きをしてきます。リバイバルの「基本」それは「どこ」にあるのかというと、やはりそれは「家庭」にあるのではないかと思います。神様は、私たちの最も身近なところに愛を現してくださるお方で、そこから主はリバイバルの働きを進めてくださるのではないかなと思います。
 私の父と母も高齢の中ですけれども、ずっと喧嘩をしていないのです。今でもよく言っていますが、昔、私は子どもの頃、いろんな人によく聞かれました。明牧師が「私は家内と一度も喧嘩をしたことがない」と、そんなメッセージをするものですから、本当かな?と思う人がいて、「ねぇ、開ちゃん、お父さん、お母さん、本当に喧嘩してないかな?」と言うのです。「してないよ」と言うのですが、なかなか信じられないらしいです。本当に、喧嘩したことも「駄目じゃないか!」とか、父が母に向かって声を荒げたのを一回も聞いたことがないのです。父は、どこを切っても「金太郎飴」みたいに、どこを切っても「リバイバル」一筋の人なんですが、でもその基本は、やっぱり最も近い所が愛し合っていなかったら前に進めない、ということを、私は見ていく中で、リバイバルという神様の働きを受け取るために、私の家庭が本当にイエス様の愛の中に生きなかったらいけないなと思っています。それが夫婦であったり、親子であったり、兄弟であったり、神様の愛がそこにあふれる時に、イエス様がそこに業をなしてくださるのです。ですから、イエス様ご自身が訪れてくださるために、もう一度、リバイバルのために、愛を現していただきたいと思います。第一ヨハネ四章八節、

『愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。』

 こう書かれています。愛がない者に神様は分からないというのです。自分は愛があるなんて、なかなか言える人はいないと思うのですが、このみ言葉はある意味怖いのです。『愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。』私?愛があるかな?と思ったら、決して愛のある人間ではないので、とっても怖いなと思うのです。でも私たちが、目に見える人を愛することができなくして、目に見えない大きな方を愛することって、やっぱり難しいなと思うのです。そのためには、夫婦であったり、家庭であったり、家族、親族の中に、主の愛があふれる中に、主の御業が成されていく、そのことを信じていきたいと思っています。

 神様の愛は、ある時は厳しく、ある時は強く訪れてくださる、その愛の中で、神様は私たちにいろんなことを教えてくださると思います。ですから、その神様の愛をしっかりと受け止めて、この日本のリバイバルの働きをし続けていきたいと思います。有名なみ言葉の中に、このようなみ言葉があります。黙示録二章三節〜四節、

『あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。』

リバイバルのために、初めの愛、イエス様に出会った時のその愛。夫婦だったら、夫婦が初めて出会った時のときめき。「ときめきなんて今もう私たちにはないですよ!」というのが大半…でないことを願いますけれども、・・・どうしようかな。中高生の礼拝を最近しているんですが、彼らに話が通じるためには、通じる同じ目線での話が必要なので、いろんな話をします。
 今から四十年前の出来事をちょっと話しちゃいます。四十年前。ここに教会がありました。私は十三歳のつるつる坊主頭の中学一年生。私は中一にして百三十五センチと、思いっきり小っちゃかったのです。この辺は貧乏子だくさんで、子どもがたくさんいて、うわーっ!て、みんなで遊び回っていました。
 そんなある日、自転車に乗った一人の少女が来ました。めっちゃくちゃかわいかったんです。本当に。この田舎には不釣り合いな、「こんなかわいい子いるの!?」という、忘れもしないあの日、そんな出来事があったのです。それでその子が来て、一緒に遊んだのです。この田舎のガキたちに交じって、その女の子が一緒に遊んでくれたので、すごく嬉しくて、私は、ときめいちゃったんですよ。それで、私は今も忘れもしない、覚えているのが、昔の会堂が赤い屋根の木の会堂だったんですが、そこの会堂の床にどてっと寝転んで、天井を見ながら、「うわ〜。すごい!こんな子がいるもんだな」と思ったんですよ。実はそれが今の私の家内なんです。そんなことあるの?という感じですが、まぁ〜、初めての出会いだったのです。
 自分で何を話しているんだかよく分からなくなってきていますが‥、初めの愛。最初のときめき。それは夫婦間でも大切ですし、さらにイエス様に対する愛は、やっぱりイエス様に初めて出会った時の愛が、すごく大切だと思うんですね。

 私はクリスチャンホームに育ったもんですから、「イエス様を信じます」というのは、ずっと信じていましたし、父が毎週土曜日に子ども会をして、貧しい子どもたちを集めて、父がしたのは、「伝道者になるとこうなる」という話をずっと聞きました。毎回のように「今回はどこどこの宣教師の所に行って、こんなビフテキ食った。さぁ、君たち!大きくなったら何になる?」って言ったら、『はい!伝道者!』「どんな伝道者だ?」『先生みたいな!』と、みんなそう言いました。その告白はすごく大切で、私も「伝道者!」ビフテキ食えるし、アイスクリーム食えるし、何回も飛行機にも新幹線にも乗った。「すっげ!伝道者!」ずっとそうやって来ました。だから、私は、大きくなったら伝道者になるということに、どこにも疑いがありませんでした。小さな時から、「大きくなったら何になるの?」『伝道者!』イエス様のことを伝える者になるというのが変わりませんでした。
 でも、イエス様に初めて、「うわ!イエス様は私の神様だな」って、お会いしたのは、高校生の時でした。ある聖会の中で、県民の森の集会の中で、イエス様が現れてくださって、いっぱい人がいる中で、よみがえりのイエス様が近づいて来られたのです。そうしたら高校生の私が気づいたら、涙があふれて、心がすごく熱くなっているのです。「イエス様のために生きよう!」と思いました。それから本当にイエス様のために生きる気持ちの中で生かされて来ていますけれども、イエス様と出会ったその愛。その「初めの愛」ってすごく大切なので、その愛がもう一度回復していく時に、主がリバイバルの働きを進めてくださると思っています。それが目に見える領域の中にも、その初めの愛がもう一度あふれる時に、神様の業が成されると、本当に心から信じています。

 今年、賛美を通して主の業が現されるようにというビジョンが与えられて、祈っています。奪われた三分の一の領域。ルシファーが主の前に賛美をして、最も神様に近く、そして最も美しい存在で、主に賛美を捧げていたルシファーが、「私も神のようになりたい」という、その罪を犯したことのゆえに、地上に投げ落とされました。サタンになりました。そして、その手下の天使も一緒に連れて行ったので、サタンとその悪霊どもは、この地上で、人々を惑わし、この地上を治める働きをしています。なおかつ、彼は地に投げ落とされたときに「琴の音と共にこの地上に落ちた」と書かれているので、音楽という武器を持ってこの地上に落ちているのです。ですから、賛美の中で、その奪われた三分の一を回復するために、ダビデの幕屋を回復させなきゃいけないという、そういうビジョンの中で今年も賛美しています。
 でもこの間、家内と話していたら、家内がこう言いました。「私たちにできて、サタン、ルシファーにできないことがある」と。それが音楽の中であるというのです。「私たちにはあるけれど、サタンにはないものがある」というのです。何かと聞いたら、「愛だ」というのです。その通りですね。サタンには愛のかけらもないのです。愛も情けのみじんもない存在です。音楽というものを通して人々の心を掴む働きをするのです。この世界には、愛を語る音楽がたくさん出されて、それによって人々が励まされていくわけですけれども、真実な神様への愛というのを知った者でなければ、本当の音楽の中にある力、その御力があふれるというか、解き放たれることはできないんじゃないかなと思います。
 だから、私たちは心からイエス様を愛して、麗しいイエス様に向かっての心からの賛美が捧げられていく時に、リバイバルの働きが大きく前進していくと信じています。倒れたダビデの幕屋が回復されていく時に、主の勝利が現されますが、それがただ、賛美のみならず、私たちに与えられたイエス様の愛にあふれて、イエス様を愛して賛美していく時に、神様は大きなご栄光を現してくださると信じています。詩篇百三十五篇三節、

『ハレルヤ。主はまことにいつくしみ深い。主の御名にほめ歌を歌え。その御名はいかにも麗しい。』

と書かれています。『その御名はいかにも麗しい。』イエス様の名前は麗しい。その愛するイエス様を心から愛して、イエス様を褒め称えていく時に、神様はリバイバルの御業を成してくださいます。信仰をもって、希望をもって、そして愛をもって、前進させていただきたいと願っています。一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。愛する天のお父様。あなたのすばらしい御名をあがめて心から感謝します。私たちを愛し、私たちのために十字架にかかって死んでくださって、私たちを愛して、そして、その死の苦しみを受けてくださったお方、イエス様、あなたの御名を心からあがめます。そして、死の力を打ち破り、三日目によみがえってくださった主イエス様、あなたを心から褒め称えます。今日も私たちをあなたの御前に、こうして引き合わせてくださっていることを、心から感謝します。もう一度、私たちの中に、あなたへの愛を与えてください。
 私たちの願いであるリバイバル。あなたは祈りに答えて、そのリバイバルの御業を必ず成し遂げてくださる方であることを信じて、心から感謝します。どうぞ、そのために、私たちに、何よりもあなたの愛に満たされて、あなたを愛していくことができるように、また家庭の中にあなたの愛を与えてください。サタンがもたらす、そのすべての破壊の力を打ち砕いてください!夫婦の中に、親子の中に、親族関係の中にもたらそうとする、すべての破壊の力を打ち砕いてください!
 イエス様、あなたがくださる、その愛がどのように大きなものか、大きな力であるか、主よ、そのことを心から感謝します。もう一度、私たちの中に、あなたへの愛があふれますように。お願いいたします。
 そして、主よ、この地のリバイバルのために、信仰を持って、希望を持って、前進し続けていくことができるように、どうぞ助けてください。今日のこの時を心から感謝します。イエス様の御名をあがめます。尊き主イエス様の御名によって、この祈りを父なる神様の御前にお捧げいたします。アーメン。

最後に「麗しの主イエスよ」を共に賛美しましょう。

麗しの主イエスよ
麗しいイエスさま
世界にひとつの 救いの名前
麗しいイエスさま
世界であなただけ あがめられる
イエス 愛する主イエスよ
あなたをほめ歌う
麗しの主イエスよ
あなたをたたえます