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「主は私の力、私の盾

2014年5月18日 (日)
新城教会牧師 上條実

詩篇28篇7節~9節

『主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。主は、彼らの力。主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください。』

 ハレルヤ!今日、こうしてみなさんの前に立つことができることを心から感謝します。まず一言お祈りさせていただきます。

 愛する天のお父様、今日あなたのために礼拝ができますことを心から感謝いたします。そして主の前に賛美と祈りをおささげする事ができました事を感謝します。またあなたがご臨在してくださっていることを感謝します。そして、あなたがお一人一人に触れてくださっていますことを感謝をします。聖霊様が私たちに語りかけ、みことばの剣を頂く時となりますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りをおささげいたします。アーメン。

 いつも私と家族のためにお祈り下さり感謝いたします。私は、去年鎖骨を骨折したりして苦労しました。しかし、今こうして健康が支えられていることを感謝します。
 お祈りして頂いていましたが、我が家の次男のところに二人目の子どもが生まれました。女の子でした。私たち夫婦は女の子がほしいと願っていましたが、かなえられず、すべて男の子でした。しかし長男も次男も子どもが二人ずつ与えられていますが上が男の子、下は女の子となっています。なんかうらやましいなと思いますが、しかし、かわいい孫たちが与えられ、もう四人のお祖父さんとなりました。また、一番下はこの4月で中学校に入学しました。毎朝、詰襟学生服、そして重い教科書の入ったカバンを肩からさげて出かけて行く姿を見る時に、お祈りして頂いていただいていますので、守られ成長してきました。感謝します。先週中間テストが終わり、今週から部活が始まるそうです。疲れて帰って来ると思いますが、支えられていることを心から感謝いたします。

 それでは、今日読んでいただきました、詩篇二十八篇七節からみみことばを学んで行きましょう。私ははじめ、他のみことばの箇所からメッセージを語ろうと思っていました。しかし、水曜日の朝、神さまがこの詩篇二十八篇を読むように語ってくださった気がして、読みました。その時すばらしい恵みをいただきましたので、今日この二十八篇から学んで見たいと思います。

 以前お祈りして頂いていました、家内の母方のおじさんが、この三月亡くなりました。八十五歳でした。去年秋に脳梗塞を患い、そして少しリハビリして良くなって、もう少しで退院できるかという時でした。高熱が出て、肺炎をこじらせて、そしてその高熱が出た時に、再度脳梗塞を発症してしまいました。退院できると楽しみにしていたのに、今までよりももっと重症となってしまいました。今度はしゃべることもできず、食べ物や水分を飲み込もうとしても、肺に入ってしまうという嚥下障害を患い、今年の初めから、飲めず食べれずで、点滴のみで過ごしました。意識や頭ははっきりしていて、こちらの声は聞くこともできるし、こちらの質問には首を縦や横にふるのみでしたが、しっかりしていました。そんな大変な中で、最期にイエス様を信じて下さり亡くなっていきました。寂しさと悲しみもありましたが、叔父さんがイエスキリストを信じて天のみくにに入ることができたことは、本当に感謝な事でした。
 だいぶ前になりますが、叔母さんはよくこの教会の礼拝に出席してくれ、叔父さんも時々出席して下さいました。しかし、あるとき「もう私たちは神様仏様でやっていくから・・・・」と言われてしまいました。それからは礼拝に来ることもなく寂しい思いをしていました。私たちがその叔父さん宅に訪問して、帰る時「お祈りさせてもらってもいい?」と言うと「祈っても良い」と言って下さり、祈ってはいましたが、福音を伝えるまでにはいたりませんでした。私たちは、このご夫妻が救われるように祈り続けていました。そんな中で今回不思議なことをしてくださいました。
 ある時電話がかかって来ました。私に来てほしいというので、訪問すると「もし何かあった時の緊急連絡先をあなたにしてもいいか?」と言いました。私は「大丈夫ですよ」と引き受けました。今回叔父さんが脳梗塞になり、二人で葬儀のことや様々な事を話しあい「私たち、二人で話し合って、これから私たち教会に入らせてもらいたい。イエス様を信じていくので、祈って欲しいし、これからどうしていったらいいか教えて欲しい。」と突然言われました。叔父さんは脳梗塞の後遺症で声が出ないのですが、二人でよく話し合った結果だと言ってくれました。ハレルヤ。本当に感謝しました。そしてまず叔父さんに病室で簡単に福音を伝え、「たとえ声が出なくても、心の中で後についてお祈りして下さい」と伝え、手をつなぎ、短く区切ってお祈りを導きました。「イエス様」と言ったら、叔父さんは、頭をうなづき、手をぎゅっと握り返してくれました。続いて、「私はあなたを信じます。」「私の心にお入り下さい」などとイエス様を受け入れるお祈りをすることができました。また亡くなる当日ですが、容体が急変して危ないという連絡が来て、すぐ病院へ駆けつけました。息が荒く、とても苦しい状態でしたが、叔父さんに「聖書に信じてバプテスマを受ける者は救われる」と書いてあるので、今洗礼を受けない?」と言いました。すると頷いてくれて、そこでバプテスマを授けることができました。そしておじさんの為に病室で取りなしながら祈り、家に帰りました。その一時間後、亡くなったとの連絡が入りました。亡くなる前に合うことができて本当に良かったと神さまに感謝しました。「時にかなって美しい」事をして下さる神さまです。神さまが叔父さんを確かに救って下さり、天国に導いて下さいました。そして親族が集まる中、浜松市のセレモニー会館で私が葬儀の司式をさせて頂き、しっかりと福音を述べ伝えることができました。
 そして先週の火曜日、教会の納骨堂に納骨しました。その納骨式には叔母さんと数人の親族が集い、そこでも祈り、福音を語る時を持つことができました。本当に感謝でした。

 次の日、神さまが詩篇二十八篇を読むように語られた気持ちがして開きました。するとまず一節が目に飛び込んできました。詩篇二十八篇一節、

『主よ。私はあなたに呼ばわります。私の岩よ。どうか私に耳を閉じないでください。私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。』

というみことばです。リビングバイブルでは詩篇二十八篇一節(リビングバイブル)、

『ああ神様、どうかお助けください。神様は安全を保証してくださる岩です。神様にそっぽを向かれたら、いっさいをあきらめ、死ぬしかありません。』

とあります。私はこのみことばを読みながら、一つの賛美を思い出しました。それは子どもがよく賛美する「イエスさまを信じれば」です。私たちは神から命が与えられ、最後は二つに一つ。天国もしくは地獄。イエスさまを信じることができ、感謝だ!裁きから救われ、死も苦しみも悲しみもない天のみ国に入ることができる。しかし信じなかったら永遠の裁きの場所に行かなければならなかった。しかし、イエス・キリストの十字架と復活により、信じた時罪が赦され、神の子どもとなり、永遠の命を持つことができる。私たちは、『神様は安全を保証してくださる岩です。』この神に完璧に守られ、安全に今日も過ごすことができると読み、私も亡くなった叔父さんも救いを受けることができたことを心から感謝しました。ひとりの人がイエスキリストを信じると言うことには、大きなイエスキリストの犠牲と愛があることを覚え、主を賛美しました。

 ルカの福音書に有名なみ言葉があります。ルカの福音書十五章四節~十節、

『「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」

というみ言葉です。一人が救われた。亡くなる寸前でありましたが、何とか間に合い天国に入ることができたことを見て、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある」とあります。叔父さんも神さまに喜びを持って迎え入れられたのかなぁと想像しました。また、続いて八節からを読むと、

『また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。』

とあります。ひとりの人が天国に入る時は、天のみ使いたちが迎え入れ、それも「喜びがわき起こる」とありますから、叔父さんも天のみ使いたちに喜び迎えられた。本当に感謝します。今日一人の人が永遠のいのちをいただくという事は、どんなにか大きい出来事。いやこの出来事以上の出来事はないなと思いました。

 詩篇五十一篇十二節に、

『あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。』

とあります。ではあなたに伺います。「みなさんは救われていますか?」ほとんどの人は、「はいイエス様を信じています。」と答えるでしょう。「私はバプテスマを受けました。」ある方は「いつも聖書を読んでいます」と答えます。しかし、第二コリント二章十一節、

『これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』

とあります。イエスキリストを信じるだけで私たちは救われるのです。しかし暗闇の敵もいることも私たちは意識しなくてはいけません。今のみことば第二コリント二章十一節には、『サタンに欺かれないため、』そして、『策略をしらなくてはいけません』と書かれています。それは悪魔は、必死に私たちクリスチャンを攻撃してきます。永遠の喜びに入ってしまうことが、悪魔サタンどもは、一番嫌なことであって、どうにかしてこの暗闇の支配者たちは、救いの喜びと救いを奪い取ろうと必死になっています。聖書にはお腹の空いたライオンの中が獲物を必死に見つけるように歩き回っているとあります。私たちはいつも悪魔に狙われて、私たちクリスチャンのために策略を巡らせて、戦ってきます。あなたの信仰生活にも策略をめぐらせてきます。ルカの福音書八章十四節に有名なみことばがあります。

『いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。』

 種まきのたとえで、いばらの中に落ちた種のたとえです。芽を出し成長はしてくるのです。しかし『世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて実が熟するまでにならないのです。』とあります。あなたはイエス・キリストの救いを本当に喜んでいますか?アーメンと言えますか?悪魔はあなたのためにいろいろな策略をめぐらし、この今読んだ『世の心づかい、富、快楽』などを通して戦ってきます。私たちは生きていく中では、多くの問題、心配事、悩みなどがあります。
 先ほど叔父さんが救われた事をお証させて頂きましたが、家族、親族が全員救われていたら感謝です。一番の身内である家族の救いのために祈り、福音を伝えていく事は難しい事です。特に子どもが親に「教会に来てよ」と親を説得するのは難しいことだし、自分の子どもであるにも関わらず、「親だけ勝手に行け」と、教会に来ないこともあります。いろんな問題を見ていくと悪魔は、更にその問題を見せ、イエスさまの方に目を向けなくさせてきます。祈りながら、「今度教会に来ない?今度こういうコンサートがあるんだけど。こういう礼拝があるんだけど・・・・」と、私たちはいろいろな集会にお誘いします。しかし一言「私は教会には行かない。」と反対されたり、ある人は、教会、キリスト教に対して悪口を言われたりすると、心痛んで、「どうして分かってくれないのかな」と、考えていくうちに、知らない間に、自分が救われていること、救いの喜びを失わせ、問題ばかり見させ、あるときは人を恐れさせ、諦めてしまいます。

 また、健康の問題で、悪いところが出てくると、恐れてしまいます。また心がしなえてしまいます。薬を飲んだりして、病気が良くなって来、再度再発すると暗く、恐れに支配されてしまいます。そのため健康を気にかけて、神さまとの交わりよりも、健康面にとらわれて、良い食べ物、飲み物、サプリメント、健康法等にとらわれてしまいます。そこまで気を付けていたのに病気になると、失望と恐れなどで一杯になります。

 また、子どもの問題・夫婦の問題、近所付き合い、学校の問題などなど様々な問題に捕らわれてしまう人もいます。誰にもその様な問題があります。しかし問題に対して神さまの方向に向けば良いのに、悪魔の方に向いてしまいます。策略に引っかかり、世の中に目を見させてしまう、これは悪魔の策略だと思います。
 私たちでも、小さな子どもでも、太陽を見れば誰でもまぶしく見えます。しかし小さな十円玉を目に当てて太陽を見ても、その十円玉に遮られて見えなくなります。それと同じように、イエス様と私たちの間に、問題などが入るとイエスさまが見えなくなってしまいます。そして祈っているのに、なんで答えられないのかと思い、そして悪魔のささやきを聞くのです。「おまえは駄目だぞ」とか、悪魔はいろんな事を語りかけてくるのです。その語りかけを受け入れてしまい、心の蓋を閉めて、「もう無理だ」とあきらめてしまいます。しかし、今日、私たちはその落ち込んでしまったり、喜びがなくて、あきらめてしまっているところに、主からの光を与えて頂きましょう。主に触れて頂きましょう。
 イエス様によって救われるのは永遠に続く喜びです。しかし、私たちは何年生きる事ができるのか分かりません。ある人は七十年、八十年。もっと長い人もいます。永遠の喜びと、悩んで苦しんで八十年。どちらを頂きたいですか?イエスキリストを信じたら、祈りは聞かれる、また祝福を下さるという約束を必ず成就して下さるお方。私たちの生活を責任持って下さる神です。救いは永遠に続くのです。Ⅰコリント十章十三節

『あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。』

必ず今の苦しみ、問題から脱出させて下さるお方なのです。またマタイの福音書六章三十一節~三十四節には、

『そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

とあります。ここで、心配していけないわけではないのです。労苦というのもあるのです。『その日その日に十分あるとあります』とあります。ただ神の国を第一に求めなさいと言っています。神であるイエスキリストの十字架と復活を信じ、神の聖さを求め、永遠に生かされるということに目をとめて行かなくてはいけません。しかし、私たちは問題を見てしまいます。まんまと策略にはまってしまっています。毎日の生活に光が見えなくなり、「もう難しい。駄目だ」と不信仰をいだいてしまうのです。
 私は先週の火曜日の納骨式が終わった次の日の朝、神さまから詩篇二十八篇を読みなさいと促しがあり、その中でも、特に七節から九節をみことばの剣として頂きました。まず詩篇二十八篇七節には、

『主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。』

とあります。ここに、私たちの信じているイエスキリストは「私の力、私の盾」であり、私はすべての領域で助けられているのです。私たちはイエスキリストによって救われました。そしてその後、『私の心は』なんて書いてありますか?『こおどりして喜び、』とあります。そして歌を持って主に感謝しようとあります。賛美しようと言っています。今日神様の救いを喜びましょう。救いの喜びに満たされましょう。そして高らかに賛美しましょう。日々賛美の唇を頂き、感謝しましょう。マルコ四章三十九節には、

『イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。』

とあります。この頃よく読まれる箇所です。私たちはこの地球の管理人だと、みことばで教えられました。私たちは神の権威を、管理を任せていただいているのです。だから私たちは、世の思いわずらい、病、問題などに対して、「黙れ、静まれ」と、大胆に主の権威で宣言していきましょう。現状がどうであれ、宣言する時に「あなたの心はこおどりし」「私は歌をもって、主に感謝しよう。」毎日賛美できる者とさせて頂きましょう。
 今春、孫が小学校に入りました。学校がいつも楽しくてたまらないようです。昨日も我が家で一緒に食事をしたのですが、ニコニコしながら「今週は動物園に遠足行くんだ!」と、話してくれました。嬉しくてたまんないみたいでした。みんなそうだったと思いますが、小さい時は嬉しくて、後何日したら遠足と数えてみたり、前日はなかなか眠れず、親に注意され、そして朝は朝で普段なかなか起きられないのに、とても早く起きてしまうのです。なぜなら嬉しいからです。遠足とか旅行とかそんなものとは、次元の違う永遠の命をいただける。すべてを勝利し、守って下さる神さまです。
 みなさんの神様はどんな神様ですか?なんでもできる方です。いっさいの権威をもっていらっしゃる方であって、病も癒し、祈りを答えて下さる方です。そして私たちはその神、イエスキリストの権威を持った管理者です。敵に向かって「黙れ静まれ」と宣言したならば、その通りになるのです。新幹線に乗って、乗車券を買います。そして指定席も買い、その席に誰かが座っていたら。「私の席です」と言うことができます。その人は移動しなくてはなりません。指定券が私の手にあるからです。もし満員電車であっても、何も申し訳ないわけではなく、堂々と座ることができます。当たり前の権利です。それと同じなのです。私たちに与えられた「聖書」のみことばは生きています。私たちは地球の管理人です。管理人だから問題や対応しなければならない出来事が起これば、責任があります。管理人である私たちが対応しなければいけません。問題、世のわずらい、富などで目隠しにされ、管理人と言うことを、権威があることを忘れてしまい、働かない人になってしまっています。策略にだまされないで下さい。あなたは地球の管理人です。「黙れ、静まれ」と、その問題に対して宣言して勝利を頂いて欲しいのです。今週はぜひ具体的な場所にいって宣言して下さい。今までだめだとあきらめてしまっていた事に対して、あなたの口で「黙れ、静まれ」と宣言して下さい。管理人が至るところで宣言していくならば、あなたの周りが、家庭が、職場が、地域が祝福されます。変化してきます。今週は大胆に戦って進んでいきましょう。そして今日イエスキリストの救いを心から感謝して、いつも心が踊っていますように、そしていつも口に賛美があるようにしましょう。

 また詩篇二十八篇八節には。

『主は、彼らの力。主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。』

と書いてあります。今までお話してきたことでもありますが、あなたの神さまはどのくらいの力を持っていますか。またあなたはどのくらいだと認めていますか?あなたは神さまを小さく小さく考えていませんか?今、私の手に携帯があります。スマートフォンです。写真が撮れます。この礼拝の風景もとることができます。そして今のスマートフォンは、手で操作すればその一部分を拡大して見ることができます。実際は小さく写っていても、拡大して見ることができます。次男の上の子どもが一歳八ヶ月ほどになります。先日私が、動画を撮影して見ていたら、彼も動画をどこでどうやって動かせば良いのか知っています。一歳の子どもでも、スマートフォンを理解して使っています。私たちクリスチャンには全員、信仰のスマートフォンを頂いていると考えて下さい。ある大変な問題が起こってしまいました。さあ信仰スマートフォンを使って、あなたの神を見て下さい。対応して下さい。私たちは神さまを大きくして見て、助けてくれると信仰を持てばよいのです。しかし私たちは、これでもかと思うほど最小にしてしまい、信仰が見えないのです。あきらめてしまい、あげくの果てには、その信仰を消去。ゴミ箱行きにしてしまうのです。先日滝元明牧師のご自宅に行きましたら、昔の写真がありました。こんな写真です。これはこの場所ではなく、新城中学校の前にあった時の写真です。

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 全体写真でもある程度見てわかりますが、大きくして見ましょう。この人は誰でしょう?

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 滝元明牧師です。大きくしたら、誰だか分かるし、当時の髪型や体型もわかります。では続いて、この人は誰でしょう。

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滝元順牧師です。
 次にこの人は誰であるか分かりますか?

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これは先ほど司会をしてくださった岡本信弘牧師です。そして、最後にこれは誰でしょう?

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 これは私なのです。もう一回、最初の全員の写真を出してください。

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 全体写真では小さくてわからない部分があります。大きくしたら分ります。私たちの信仰も、大きくしましょう。神さまは何でもおできになる神です。よく子どもに、「この場所を掃除をしたら、お小遣いをあげる」と言って手伝ってもらう時があります。ある時そのお小遣いを渡す事を忘れてしまう時があります。しかし子どもはそういうことは覚えています。「この間やったお手伝いのお小遣いもらっていない」と、何日も前のことですが、請求してくるのです。「そんなこと言ったっけ?」と私たちは忘れていても子どもは覚えています。聖書に「幼子のようにならなければ神の国に入ることができない」というみことばがあります。幼子のように信じてもらいましょう。うちの子どもはお小遣いをもらえるまで、しつこく後についてきます。うるさいほど言い続けてきます。そうするとこちらが根負けして、渡す時があります。イエスさまに単純になって、みことばを信じて、管理人の権威で宣言し、成就して頂こうではありませんか?

 第一コリント二章九節、私が大好きで、よく語るみことば

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

とあります。今日、単純に信じましょう。駄目じゃなくて、私たちが思いもつかないような、驚くばかりの祝福をあなたに与えてあげると言っています。だから管理人がこのみことばを宣言して、「黙れ、静まれ!」と、暗闇の支配者に宣言しましょう。世界中の人がびっくりする出来事が、あなたの人生に起こります。

 私たちには何の力もありません。しかし、助け主である聖霊さまは力があります。聖霊の力の「力」とはギリシャ語で、「デュナミス」というそうです。「デュナミス」とはダイナマイトの語源だそうです。ダイナマイトは、固い岩でも爆発させたら、粉々になり跡形もなくなるほどの「力」です。私たちは神の力をいただけるのです。聖霊の力を私たちはいただくことができます。ですから神の権威を私たちはいただき、力をいただいて宣言しましょう。「黙れ、静まれ!」と祈りましょう。先ほども言いましたが悪魔はいろんな策略を巡らせてきます。家族の救いのために皆さんは一番願っていることと思います。みことばを聞いて「黙れ、静まれ!」と祈りながら、家に帰ると家族が「あんた、どこ行ってたの?また教会か?教会なんかやめちゃえ!」などと挑戦してきます。また礼拝で恵みを頂き、家族とともに車で帰る時、口論になってしまったり、車をぶつけてしまったり、私たちの信仰がなくなるように、悪魔も必死になって働いてきます。

 最後に、詩篇二十八篇九節、

『どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください。』

とあります。いいみ言葉だと思います。これもリビングバイブルで見ると、もっと分かりやすかったのですが、詩篇二十八篇九節(リビングバイブル)、

『主よ、あなたの国民を守ってください。主に選ばれた者を守り、祝福してください。羊飼いとなって、いつまでも抱きかかえて運んでください。』

とあります。私たちクリスチャンは、今、このみことばにあるように、守って下さる神です。悪魔は様々な策略をくわだてても『いつまでも抱きかかえて運んでください。』とあります。主が私たちを抱きかかえて、守って下さる。助けて下さるのです。だから悪魔の策略に対して戦って、宣言して行きましょう。人生最後まで、いや永遠に私たちを導いてくださいます。

 次男の所に第二子が生まれました。上に一歳八ヶ月の男の子がいるのですが、退院した後、次男が家にいればよいのですが、ツアーに出かけてしまい、ひとりでふたりを見ることはできないと言うことで、我が家で上の子を一週間くらい預かりました。そしてやっと次男が迎えに来る日になり、やれやれと思いました。しかしその上の孫が、すこし咳き込んでいるので、病院にかかったところ、なんとインフルエンザだと診断されてしまいました。新生児の所にその息子を連れて行くことができないので、再度その子どもを預かり、看病することとなりました。やっとの思いで子どもの看病が終わり、孫が帰っていった時は、ヤレヤレと言うのと、やはり寂しい思いもしました。インフルエンザなのに、感謝な事にすごく元気で動き回ってくれたのです。しかし眠たくなるとぐずり、親がいないので寂しくて泣きました。やはり手がかかり大変な時もありました。彼が帰ってから、写真のデーターを取り込もうとコンピューターにつないだところ、おもしろい写真が写っていました。年頃の子ですので、写真は出しませんが、中一の子どもが、孫をおんぶしている写真でした。孫を下のほうにずり落ちそうにながらも、おんぶしている写真なんです。今頃おんぶというのはなかなか見る機会もありませんし、ましてや中一の子どもがおんぶしているのを初めて見ましたので、感動しました。また楽しませてもらいました。中一のの彼に「大変じゃなかった?」と言ったら、「うん?はじめは泣いていたけど、ぼくがおんぶしたら、僕の背中で寝たよ」と自慢して話してくれました。私たちは子どもが泣いていたりすると、だっこしたり、おんぶしたりして、あやします。それは子どもが安心するからです。一人じゃない、いつも世話をしてくれる人が私を守り、助けてくれると安心するのです。それと同じように主は、いつまでも抱きかかえて運んで下さると言っているのです。信じましょう。

 最後に全日本リバイバル甲子園ミッション時代の資料を出しておりました時、ふと私が入力した文章が出てきました。それは一九九五年に、阪神大震災が起きました。一月十七日の朝五時四十六分。関西地区に大地震が起こり約七千名弱の方が命を落としました。あの時新城教会からマイクロバスで食糧や様々な物資を積み込んで、西宮の下條未紀子先生の教会の為に出かけました。あの時私は、新城にのこり連絡係として待機していました。私は阪神大震災がおきた時、教会へすぐに来て関係者に電話などして現地の状況を把握していました。有賀喜一先生は今大阪府に住んでおられますが、当時神戸市の須磨区に住んでおられました。そして有賀先生のご自宅にお電話をしたところ、不思議なのですが、一発で電話が通じたのです。そうしたら、奥さまが「はい、有賀です」と出られたのです。。「先生、大丈夫ですか?」と聞くと、「何がですか?」と言うのです。「地震ありましたよね?」と言うと、「あぁ、大丈夫ですよ」と、なにか素っ気ない感じというか、たいしたことがないと言う感じで、電話を切りました。なんでこんな平静におれるのかと思ったのですが、後から聞いたところ、すでに停電しており、テレビが見られない状態だったのです。なんとあのものすごい大震災で、有賀先生の家では、たしか食器戸棚のコップが一個転んだ。それだけだったそうです。だから何で大丈夫かと言うのかわからなかったそうです。そんなことあるんですか?と思いますが、主が守ってくださったんだなと、本当に思います。絶体絶命の時でも、主は、私たちを抱きかかえてくださいます。守ってくださいます。今日信じてください。あなたの神さまはどなたですか?イエス・キリストです。だから、このイエス・キリストを信じましょう。最後にリビングバイブルで、詩篇二十八篇九節を読ませていただきます。

『主よ、あなたの国民を守ってください。主に選ばれた者を守り、祝福してください。羊飼いとなって、いつまでも抱きかかえて運んでください。』

 私たちは主に生かされています。先ほど話した孫は、気分が悪くて泣き叫んでいました。そんなとき息子がおんぶしました。すると安心して、彼の背中で寝てしまい、気がついた時には布団の上に寝かされていました。同じように、私たちが大変で苦しんでいる時、イエスキリストはあなたを支え、抱き抱えてくださいます。信じましょう。今日は管理者として、あらゆる所に「黙れ静まれ」と宣言し、勝利を頂き、祝福された人生。そして永遠の命の中で安らかに、安全に過ごしましょう。お祈りします。

 愛する天の父なる神さま、今日、私たちは十字架と復活により救われていることを感謝します。永遠のいのちが与えられていることを心から感謝します。今日私たちは策略に引っかかり、あなたを小さく考えてしまい、不信仰を持ち、あきらめたり、心騒いだり、喜びもなく、賛美すら出て来ない毎日を過ごしている時があります。今日、地球の管理人として、私たちは高らかにみことばを宣言します。問題、病、など苦しみの場所、策略にやられているところに向かって「黙れ、静まれ!」と宣言します。今週はあなたが祈れと言うところに祈りをおくことができますように。今から聖餐式を行います。み霊によってジュースとパンはイエス様の血であり、肉であることを宣言します。今日イエス・キリストと信じ、あなたが共にいることを信じて、地球の管理人として、強く雄々しく立たせて下さい。感謝してお祈りいたします。
アーメン。