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「イエスだけを見上げなさい」

2014年6月22日 (日)
新城教会牧師 上條実

マタイの福音書 6章31節~34節

『そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

 ハレルヤ!今日皆さんの前に立たせていただけます事を感謝しています。先週、水曜日から土曜日まで滝元明ミニストリーが行われました。水曜日は設楽町津具において行われ、木曜日は豊根村、金曜日は豊橋市、昨日は島田市のO姉宅でありました。皆さんのお祈りに支えられ、どの集会も恵まれた時を持つ事ができました。津具は百名程の方々が集いました。滝元明牧師夫妻が六十四年前に津具へ伝道に入ったことの記念集会でした。感謝な事に滝元明牧師の幼なじみや親族の方々も多く来て下さいました。集会後には「イエス様を信じたい」と言われる方や「教会に行きたい」と言われる方もいらっしゃり、本当に感謝します。
 また豊根ではK兄姉が本当にがんばってくださり、ここも百名程の方々が集う事ができました。豊橋市では百七十名の方が来てくださり、また昨日のO姉の所でのホームコンサートは六十名くらいの方々が集うことができました。毎日会場が違いましたが、全て祝福された事を感謝します。お祈りを感謝いたします。
 また今日滝元順先生とざわめきは環・関西リバイバルミッションの決起大会を下條末紀子先生が牧会されています一麦西宮教会で行っています。また滝元明牧師は今回の滝元明ミニストリーの最後の集会で静岡県富士宮市に出かけています。また山崎ランサム先生は昨日からインドのナガランドへ出かけています。来年の春くらいに、できたら環太平洋リバイバルミッションをナガランドで行いたいということで話し合いのために出かけています。各先生方の奉仕のために祈ってください。

 今日、受付でリバイバルミッションニュースを受け取られたと思いますが、この8月、9月に尼崎市、堺市、八尾市にて環・関西リバイバルミッションが行われます。そのニュースに掲載されていますように、トラクト配布が八月二日の土曜日に行われます。三つの会場前に集合し、午前十時から三時まで配布しようと計画しています。その時は新城教会からもマイクロバスを出して配布のために出かけたいと考えていますが、今その為のトラクトを制作しています。今回環・関西リバイバルミッションは尼崎をはじめとして三カ所の会場で行います。その為多くの情報を掲載しなくてはならず、どんなトラクトを作成するかを考えました。今までリバイバルミッションの大会では、多くのトラクトを作ってきましたが、二〇〇〇年には、星野富弘さんのトラクトを使いました。

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 このトラクトにすると、多くの情報を入れるスペースがあるし、星野さんは有名な方ですので、今回はこのトラクトにしようということになり、原稿をそろえました。そして、さあ印刷しましょうという段階になって、このトラクトを使用しても良いか、一応聞いてみた方が良いという事になり、販売元に問い合わせました。するともうこのトラクトはすでに販売していないので、印刷してはいけないと言う事でした。では何にしようかという事で、結局、こういうトラクトを作りました。

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 おなじみのロン・ブラウンさんのトラクトを作りました。ロン・ブラウンさんのブックレットがプレイズ出版から出ているのですが、文章を山崎ランサム先生が短くまとめ改めて作成しました。今回のトラクトはロンブラウン氏のトラクトにしましたが、二〇〇五年に行われた北関東リバイバルミッション時に使用したトラクトも読み直して見ました。そのトラクトがこちらになります。

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 この絵と詩はとても有名です。私はこれをゆっくりと読み直していた時、この表紙の文章がとても私の心の中に留まりました。一度読んでみます。

『いのちが一番大切だと思っていた頃 生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった』

 とても深いことばだと思います。私たちはいのちを求めています。いのちが一番大事だと思いがんばり続け、毎日汗を流しつつ、苦労し、悩み、悲しみつつ生きています。しかし星野さんはいのちを追い求めていた時には辛かった。いのちよりも大切なものを得た時、嬉しかったとあります。私はこのトラクトの表紙の言葉をを読み直しつつ、一つのみことばが心に浮かびました。それが先ほど読んでいただいたマタイによる福音書の六章三十一節~三十四節です。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかなどと心配するのはやめなさいとあります。マタイの福音書六章三十三節

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

というみことばです。今までいのちを求め、何を食べようか、何を着ようか、などなど毎日生活を必死に生きています。生活に疲れ、人間関係に疲れ、学歴、容姿などを求め続けていました。しかしこのみことばは『神の国とその義とをまず第一に求めなさい。』分かりやすく言うならば、私たちの信じている「イエス・キリストを見上げなさい」イエスキリストを第一として行く時「それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」だからイエスキリストを第一にして行ったら今まで苦労し、求め続けてきたいのち。いのちは神が与えて下さるという約束です。第一のものを第一する。これがみことばです。聖書は、毎日の生活には当然心配、苦労がある。三十四節では『明日のことは明日が心配します。』とあります。『労苦はその日その日に十分ある。』とあります。決して私たちが楽にイエスさま任せで生活するわけではありません。当然毎日毎日一生懸命生きて行きます。しかしいのちを第一にしてはいけないとあります。私たちの人生は神の国と神の義をまず第一に求めて行く時、いのちが与えられるのです。星野富弘さんのことば、そしてそのベースにあるみことば。聖書。イエスキリストを第一としていきましょう。あなたはいかがでしょうか?会社のこと、家族のこと、人間関係、お金、生活、結婚など苦しんいませんか?いのちを求めていくとイエスキリストが見えなくなります。しかしイエスさまにまかせて、あの星野さんのことば「いのちよりも大切なことが知った日、生きるのが嬉しかった」とありますが、イエス様に目を向けていくということが大事です。

 皆さんは星野富弘さんがどういう方か知っておられると思いますが、写真を出したいと思います。この方です。

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 プレイズブックスにも、また一般の書店でも彼の絵がカレンダーなったり、書籍になったりしています。この方は一九四六年、昭和二十一年生まれで現在六十八歳になられます。 彼は昭和四十五年に、群馬大学を卒業し、中学校の体育の教師となりました。その授業中、体育館で生徒たちに宙返りの練習をさせている時、彼が模範演技を見せました。しかし彼は宙返りを失敗し、マットに頭から落ちてしまいました。気がついてみたら、彼はベッドの上で動くこともできない状態になってしまいました。頸椎損傷と診断されて、首より下は一生全く動かすことができない体となってしまいました。辛い、大変な状況となってしまいました。彼の著書を見ると食事する時も介助が必要、体がかゆい時、用を足した時でも介助してもらわなくてはいけない体となってしまいました。そんな星野さんを、ある時、東京から大学時代の先輩がお見舞いに来て「私はあなたに、何も言うことはできない。僕にできることはこれだ」とある本をくれました。それが聖書でした。しかし段ボールに閉まってしまいました。ある時その聖書を読んでみました。そんな中で、有名なみことばマタイの福音書十一章二十八節~三十節を読みました。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』

 このみことばが目に留まったそうです。何度も何度も読むうちに、不思議ですが心の中で温かいものを感じたそうです。今までは天井ばかりを見ていて、一度でいいから、片手が動いたらどんなにすばらしいだろうか。また自分で顔を両手で覆うことができたらなんと幸せだろうと、思っていました。また嬉しい時に感謝し、苦しい時に名を呼ぶ人がいたらどんなに心強いかとも書いてありました。私たちは何か助けて欲しい時には、「助けて!」と、周りの人たちに伝えることが簡単にできます。人のいるところに出かければ伝えることができます。しかし彼は動くことができないのです。また嬉しい事すらなく、感謝もなく辛いことしかない。そんな彼がに聖書に出会いそして、マタイによる福音書の十一章のみことばに出会い、「イエス・キリストが私を抱き上げて、私の言うことを聞いてくれてくれるような気がした。」とありました。そんな中お礼の手紙を書きたいと思うようになり、口に筆を加えてカタカナの「ア」の字を書いて見たそうです。星野さんの字を書き始めた初期の字を見ていただきたいと思います。

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このように口に筆をくわえて書き続けているようです。

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 彼はみみずをはったようなカタカナの字でしたが書けたとき、「新記録が出て嬉しくてたまらなかった!」ような気持ちになったそうです。その後練習をし、字を書きそこに挿絵を描き始め、今のようなすばらしい絵を描くようになりました。この絵は人々に感動を与え、勇気を与え、生きる希望を与える存在となりました。彼はいのちを追い求めていた時は苦しかったとあります。でも彼はいのちよりも大切なものが分かったのです。それはイエスキリストです。彼は昭和四十九年ですから、一九七四年にイエス・キリストを信じるバプテスマを受け、今も多くの作品を書き続け、多くの人に深い感動を与え続けています。ルカの福音書 二十一章三十四節に、

『あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。』

 ここで『この世の煩いのために沈み込んでいる』とあります。このルカ二十一章は世の終わりについて書かれています。世の終わるような時に、放蕩や酒、そしてこの世の煩いに沈み込んでいるとあります。まもなく「マラナタ」主よ来て下さい。主が帰って来られます。今がとても大事な時であるのに、私たちは毎日の生活、世の煩いによって沈み込んでしまっています。苦しみ、多くの人が自殺をし、苦しみ、家庭が崩壊し、いのちだけを求めた結果、苦しい人生を送ってしまっているのです。今日、イエス・キリストを私たちは見上げていきたいと思います。
 今日のタイトルは「主イエス様を見上げなさい」というタイトルです。世の楽しみ、問題、快楽などなどいのちを求め続けているため苦しんでいます。今日ここにおられますほとんどの方々はイエス・キリストを信じておられます。あなたには全能の神であり、救い主であるイエス・キリストがいらっしゃるわけですから、今日神の国と神の義を第一に求めましょう。そうすれば全て加えられるのです。このイエスキリストを見上げましょう。もういのちは与えられています。くよくよしたり、悩んだり、恐れたりせず、イエス様を第一にして行ったら答えられる。与えて下さる。解決して下さる。助けてくださるのです。主を見上げましょう。続けて伝道者の書三章を開きたいと思います。これは知恵者中の知恵者であるソロモン王が書いたことばです。伝道者の書三章十一節~十四節、

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。』

とあります。『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。』とあります。私たちは神によって生かされている。どんなことでもすべて、時があり、神の計画があるのです。しかし暗闇の力である悪魔、悪霊は、私たちに策略を持って戦ってきます。策略の中で、いのちを見せてきます。『すべて時にかなって美しい。』すべてが神の中にある。み手の中にあると知りながら、イエス・キリストに不平、不満を見させられ、まんまと策略に目がとまり、苦しみ、悲しみ、世の煩いに沈み込んでしまいます。先ほどの伝道者の書の最後に読んだ箇所をリビングバイブルで読んでみたいと思います。伝道者の書 三章十四節(リビングバイブル)、

『続いて、次のことも知りました。 神様のなさることは一点の非の打ちどころもなく、何一つつけ加えたり、取り除いたりすることはできません。神様はこのことを通して、人が全能の神様を恐れるようにと願っておられるのです。』

  神様のなさることは一点の非の打ちどころもなく、何一つつけ加えたり、取り除いたりすることはできません。しかし私たちはいのちを求め、世の煩いを見て、訴え、苦しみ悲しみばかりを見てしまいます。そして『人が全能の神様を恐れるようにと願っておられる』と書いてあります。イエス・キリストを第一にし、神の国と神の義を第一にし、イエスさまを見あげていく時、神様はあなたを必ず祝福して下さいます。勝利を与えてくださいます。第一コリント人への手紙十五章三節~四節

『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと』

とあります。これは聖書の中で最も大切と行っても良い箇所です。イエス・キリストは、あなたの為に、約二千年前、あなたの代わりに十字架にかかり、身代わりとなり、滅びの場所に行き、三日目に死を打ち破ってよみがえってくださった。これが福音です。私たちはその福音を信じて、救いをいただきました。イエスキリストによって救いを頂いた私たちは圧倒的な勝利と、永遠の命を頂きました。このことを信じ、感謝し、理解はしているのですが、悪魔は、策略を持って私たちの目を下に見るようにさせてきます。この世の煩いを見させ、イエスキリストを見えなくさせてきます。私はよく子どもたちに「今、イエスさまがきたら天国に行ける?」と聞きます。中高生の子たちにも聞きます。ある子は「うーん、行けるかも」とか、「地獄かも・・・」なんて寂しい答えをする子もいます。今日信じてください。すでにイエスキリストの救いは完成してくださっています。今日までの罪がすべて赦されるのではなく、すべての罪のため、あなたが生涯犯す罪のために、イエス・キリストは罰を受け、十字架にかかり苦しみを受け、三日目に死を打ち破りよみがえってくださったのです。もうあなたの全ての罪は赦されています。そして私たちは神の子どもです。私たちの神だけを見上げ、目を留めていきましょう。マタイの福音書八章八節~九節に、

『百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」』

 これは百人隊長のしもべが中風病みで、苦しんでおり、百人隊長はしもべのためにイエスキリストの所に出かけ「ことばをください」と言いました。イエスキリストは一緒に出かけるつもりでしたが、百人隊長は「ことばをくださったら治りますから」と言いました。彼もことばで命令すればその通り兵士は動きます。だからことばを下されば癒されると言いました。マタイの福音書八章十三節、

『それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』

とあります。『信じたとおりになるように』とあります。あなたが毎日世の煩いばかりを見続け、苦しい所ばかり見ていたら、一生苦しいままで終わってしまいます。しかしイエスキリストを信じる時、イエス様を見上げたら、私たちは主の管理者です。勝利をいただけます。「あなたの信じたとおりになる」とありますから、イエスキリストの権威を認め、信じましょう。

 私は今回このマタイ六章のみことばを読みながら、旧約聖書の有名なところを思い出しました。それは出エジプト記十四章十節から十二節、

『パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」』

エジプトでイスラエル人は奴隷生活を送っていました。その中で主はモーセを選び、エジプトの王であるパロの前に出て、イスラエルの民を去らせてくれ。解放してくれと頼みました。モーセは主の奇跡を行いましたが。そんな中でもパロは頑なでした。ある時はれんがの材料である藁も自分で調達しろと苦役を言われ、非常な苦しみの中で、過ぎ越しの奇跡でエジプトから解放されました。イスラエルの民は自由の身となりました。進んで行く中で目の前に紅海があり、前に進むことができず、後ろにはパロを先頭に、エジプトから全軍が追いかけてきたのです。目の前は海。後ろから追っ手。絶体絶命の時でした。するとイスラエルの民は今まで神の奇跡を散々体験してきたのにも関わらず「エジプトには墓がないので私たちはここで死なせるのか」と不平不満。死。恐怖を抱き叫んだのです。すると出エジプト記 十四章十三節~十四節をリビングバイブルで読んでみます。

『しかし、モーセは言いました。「みんな、こわがってはいけない。今いる 場所にしっかり腰をすえて、きょう神様がすばらしい方法で救ってくださるのを、よく見ようじゃないか。あのエジプト人を見るのも、きょうが最後だ。神様が代わりに戦ってくださる。だから、みんなは指一本、動かす必要がないのだ。」』

 これはモーセが民に語った言葉です。「もう大丈夫だ。指一本、動かさなくても良い。神さまが守ってくれる!」と語りました。すると出エジプト記 十四章十五節~十六節をもう一度リビングバイブルで読んで見ましょう。

『神様はモーセに命じました。「さあ祈るのはそれくらいにして、人々を前進させなさい。杖を海の上に差し伸べると、水が分かれて道ができる。そのかわいた土の上を歩いて渡りなさい。」』

とあります。目の前には紅海。前に進むこともできない。うしろはエジプト軍という絶対絶命の危機の中で

『主はモーセに仰せられた。「なぜ叫ぶのか。」』

と言っています。そして

『さあ祈るのはそれくらいにして、人々を前進させなさい。』

と言いました。モーセは必死に神に祈りながら、民には心配するなと言いながら、指一本でも私たちに触れることができないほどの勝利なんだよ!と言いながらも、神の前に必死に祈っていました。すると主は無茶な命令をモーセに伝えました。「前進しなさい」「前進しなさい」と命令してきました。私たちもこのようなことがあると思います。神様を分かっていながら、信頼できないのです。奇跡を起こすことのできる神だとは認めています。しかし心配で、心配で、心配でたまらず祈るのです。そんな中で、神さまは『さあ祈るのはそれくらいにして、人々を前進させなさい。』とリビングバイブルに書いてあります。
 あなたの子どもさんが毎日毎日、「大丈夫?大丈夫?」と同じことを聞いてきたら、あなたはどうしますか?初めは親切に、「こうだよ」「こうだよ」と答えるかもしれません。しかし同じ事を毎回聞いてきたら、「何回言ったら分かるの」と怒り、注意すると思います。それと同じように、主は、「おまえのためにすべてを備えてあげている。もう大丈夫だ。」と言い、人間では絶対進む方向ではない、海に持っている杖をあの海に差しのばせと言いました。
 すると、あり得ない奇跡が起こりました。海が二つに分かれ乾いた陸地が現れたのです。そしてその分かれた海に進めと言われました。海底がかわいた道となったと言うのです。土砂降りの雨が降った地面はすぐには乾きません。しかし海底だったところに乾いた陸地が現れたのです。イスラエルの民は歩いて、紅海を渡り始めました。その時神さまはイスラエル人とエジプト人の間に入って、エジプト軍は進めないように阻止していました。そして、タイミングを見計らって、そしてその雲が去りました。エジプトは一斉に紅海の中を走り始めました。しかしイスラエルの民が全部上がってしまった時に、その乾いた陸地がなくなり、波が覆いエジプトの王、パロをはじめ、すべての軍隊をなめ尽くし、イスラエルの民を追う敵は全滅しました。
 あなたの神はどんな神様ですか?あなたは分かっているのです。しかし悪魔悪霊は私たちに世の煩い、苦しみ、現実に目を留めさせて来るのです。二歳、三歳の子どもが、「今からどこどこへ行くよ」と言ったら、「やったー!」と興奮します。楽しい所かどうかもわからない場所、行ったことがない場所でも、喜んで喜んで、もうちょっと静かにしてよというくらい、車の中ではしゃぐのです。行って着いてみたら、疲れ果てて寝ているような状況の時もありますが、マタイの福音書十八章四節

『だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。』

のように、子どものような単純さ。みことばを鵜吞みにする事が大事です。私たちは主を信じ、必ず良くしてくださることを信じて、単純に喜んでいきたいと思います。最後に、ローマ人への手紙十章八節~十節、

『では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

 世の現状を見てしまうと、不安になります。そして不安なことば、不信仰のことばを語ってしまいます。しかし今日、あなたの神を見上げ、信じて行きましょう。そして『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる』とありますから、今日主に告白し続けましょう。どんな悪魔の攻撃があったとしても、イエスを見上げましょう。あなたはイエスキリストの管理者です。悪魔、悪霊に向かって「黙れ静まれ」と宣言しましょう。あなたの問題を、イエス・キリストに任せて、前進しましょう。悪魔は私たちが、前進する事が怖いのです。だから目の前の状況だけを、暗闇だけを見せてきます。しかし私たちはイエス・キリストを見上げ、幼子のように前進していきましょう。最後に皆さんと一緒にお祈りしましょう。あとについてお祈り下さい。

 愛する天の父なる神さま、今イエスキリストの名によって、イエスキリストの管理者として、宣言します。今まで世の煩いに、目を留めていたことを、悔い改めます。
今イエスキリストを信じます。イエスキリストの管理者として、悪魔に命じます。
どんな問題も、苦しみも、悲しみも、イエスキリストは、圧倒的な勝利を、与えて下さいます。私は立ち止まらず、前進します。主にあって前進します。もう二度と敵を見ることはありませんようにして下さい。アーメン

今度は私が代表して祈ります。愛する天のお父様、私たちは今まで暗闇ばかりに目を向けてしまいました。今日はもう一度、単純にイエスキリストを信じます。イエスさまだけを見上げます。私に兄姉にも、教会にも、日本にも勝利を与えて下さい。目の前にある紅海を割り、乾いた陸地を進ませて下さい。前進させて下さい。今から聖餐式を行います。この杯とパンはあなたが流して下さった血潮と体である事を、み霊によって信じます。今日、イエスさまを幼子のように信じます。イエスさま、あなたは私の神さまです。今日、私の神を信じ、見上げる時である事を感謝します。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。