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『すべてを生かす川

2014年9月21日 (日)
リバイバル聖書神学校 山崎ランサム和彦師
エゼキエル書47章1節〜9節

『彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。』

 みなさん、おはようございます。今日はこうして、みなさんと共に神様を礼拝できることを感謝します。また、久しぶりにこの講壇からメッセージを取り次ぐ機会が与えられていることを心から感謝しています。

 暑い夏も終わり、あっという間に秋になってしまった気がします。個人的にも、今年の夏は特別に忙しかったので、特に夏が短かったような気がしています。
 私は八月には、十日〜から十八日まで、韓国に行っていました。アジア神学協議会という、アジアのいろいろな神学校が集まって作っているネットワークがあるのですが、その協議会が主催した学会が韓国であり、そこに参加して、発表もさせていただきました。
 それから、学会の後、しばらく韓国に滞在して、みなさんもご存じのチェ・ヨンドゥ先生とご一緒させていただいて、春川にある主香教会という教会でご奉仕をさせていただきました。この教会は新城教会にも何度も訪れてくださっているイ・ビョンチョル先生が牧会されている教会です。それから、十八日の日曜日には、ソウルにあるハレルヤ教会で二回の説教の奉仕、それからその日の夜には、チェ先生が牧会されているシャローム教会という教会で説教の奉仕をさせていただきました。

 そして、韓国から帰って来ると、すぐに三週間に渡って、毎週金曜日と土曜日に、環・関西リバイバルミッションの本大会があり、そのために私もそこに行って奉仕をさせていただきました。毎週金曜日の早朝に新城を出て、関西に行って、集会を二日間して、土曜日の深夜に帰って来るというハードスケジュールでしたけれども、主の守りの中でご奉仕することができて、感謝します。また新城からもたくさんの兄弟姉妹たちが参加してくださって、心から感謝しています。

 さらに、関西でのミッションの合間を縫って、神学校でも特別なプログラムがもたれました。この礼拝でも前にお知らせしていただいたことありますが、「二十一世紀リバイバルのための神学を求めて」と題して、特別公開講座が持たれました。中澤啓介という先生を主講師としてお迎えし、順先生や望先生、私も参加させていただいて、「被造物の管理」という主題で、八月二十五日から二十七日の三日間に渡って学びがなされました。この教会からも何人かの方々が参加してくださいましたが、全国から四十名ほどの方が集って、大変中身の濃い有意義な学びをすることができたことを感謝しています。この公開講座に出られなかった方は、神学校からDVDも発売されていますので、興味のある方はぜひご利用ください。

 この夏は、このようなプログラムの他にも、いくつか原稿を書かなければいけなかったり、そうこうしているうちに、九月の神学校の授業が始まったりして、本当に息をつく暇もない忙しさでしたが、そういう中でも感謝なことに病気もすることなく、支えられていることを感謝しています。皆様のお祈りを心から感謝します。

 もう秋になってしまったわけですが、今年の夏も、本当に暑い日が続いていました。夏場の健康管理と言いますと、最近は熱中症ということが盛んに言われているのをみなさんもご存じだと思います。毎年多くの方々が熱中症で病院に搬送されたり、あるいはひどい場合は亡くなったりしているわけですが、その原因の一つが脱水症であると言われています。
 私たち人間の体の大部分は、実は水でできています。平均的な大人の体重の六十パーセントくらいは水だそうです。ところが、何らかの原因で水分が失われていって、体内のバランスが崩れてくると、様々な体調の不調を来してくるというというのです。まさに、水というのは、私たち人間の生命を維持していくために、なくてはならない物質であると言っていいでしょう。
 この水というのは、私たち人間だけではなく、すべての生き物が生きるために欠くことのできない物質です。聖書の中では、水は神様から流れてくる命の象徴として、よく用いられる言葉です。
 今日お読みしたエゼキエル書の箇所も、すべてを生かす神様の川について書かれています。今日はこの所からご一緒に学んでいきたいと思います。

 エゼキエルという預言者は、非常に困難な時代を生きた預言者でした。彼はユダからバビロンに捕囚として連れて行かれた人々の中にいた人物であります。そして彼が捕囚の地において、預言者として活動していた期間中に、彼の故郷であるエルサレムが最終的に破壊されてしまうという、悲惨な出来事を体験するのです。
 なぜ、生ける真の神様に仕えている神の民であるイスラエルがこのような苦しみに遭わなければならないのか。神様からの答えは、イスラエルが神様から離れて罪を犯したからだ、ということでした。人々は真の神様に頼って生きることをせず、偶像礼拝に陥っていたのです。そのために、神様の臨在がエルサレムから去って行ってしまった。そのことが、このエゼキエル書の中にも書かれています。
 神様が去った後のエルサレムは、異邦人によって滅ぼされるにまかされてしまいました。そしてついに、神殿さえも、破壊されてしまうことになります。
 けれども、エゼキエルのこの預言というのは、そこで止まらないのです。どん底に落ちたイスラエルに、再び希望が語られるようになっていきます。エゼキエル書の四十章以降を読んでいきますと、廃墟になったエルサレムの街が再建され、また神殿が再び建設されていく幻について書かれています。
 歴史的に言いますと、これはユダヤ人たちが、捕囚にされていたバビロンの地から元のカナンの地へと帰って来て、そして神殿を再建するという出来事を指しているわけですが、エゼキエルが見た幻は、そういう歴史的な出来事を越えて、この世の終わりに起こる出来事について語っているとも言えるのです。
 そして、神殿が再建されていく幻を見たエゼキエルは、天使に案内されて、まるでガイド付きのツアーのように、新しい神殿がどのようなものになっているかということを、詳しく見ていきます。
 そうしていく中で、彼はかつてこの神殿から去って行ってしまった神様の臨在が再びこの神殿に帰って来るというすばらしい光景も目にします。これは四十三章に書かれている内容です。

 そして、今日お読みした四十七章に来ると、彼は思いもかけない光景を目にすることになります。なんと、神殿の中から、しかもその中心部分である聖所から、水が流れ出ているというのです。しかも、その流れが川となり、その川は遠くへ行けば行くほど水かさが増して、最後には渡ることのできないほどの大河になったというのです。この水というのは、普通の水ではない、超自然的な川であるということが分かります。

 四十七章の十二節を見ますと、その水が聖所から流れ出ていると書かれています。聖所というのは、神様がおられる場所です。つまり、このエゼキエルが見た川というのは、神様ご自身から流れ出ている川であることが分かります。
 この川が神殿を出て、どのように流れていくのかを、見てみましょう。先ほどお読みいただいた二節では、聖所から流れ出てきた川が、神殿から東に流れ出ていくと書かれています。さらに、八節〜十節を読んでみたいと思います。

『彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。』

 神殿から流れ出た川は、そこから東向きに流れて行って、やがてアラバに下り、海に入ると書かれています。この「海」というのは、何のことを指しているかご存じでしょうか。エルサレムから東に向かって行くと、そこには死海があります。つまり、ここでエゼキエルが見た、川が流れ込んでいる海というのは、死海のことなのです。
 エゼキエルの見た幻は、驚くべきことに、死海の水がよくなって、非常に多くの魚が群がるようになると言うことなのです。ご存じのように、死海というのは、「死の海」と書くように、魚は住むことができません。死海の水は、普通の海の水の六倍もの塩分の濃度を持っているために、普通、海に住んでいるような魚でさえも生きることができないのです。
 けれども、この神殿から流れて来た水がこの死海に注ぎ込んでいくと、その水が一変して、この死んだ海が生き物で満ちるようになると言うわけです。これは、なんとすばらしい驚くべき光景でしょうか。
 このエゼキエルが見た幻は、何を意味しているのでしょうか。新約聖書の中で、パウロという人は、教会を神殿にたとえています。「教会」というのは、「教会堂」とは違います。教会とは、イエス様を信じて従う、私たちクリスチャンの共同体のことを言うのです。目には見えませんが、私たち教会の全体が神の神殿である、そうパウロは手紙の中で言っています。
 この理解をエゼキエルの幻に当てはめると、どうなるでしょうか。この教会から、神様のいのちが溢れ流れて、死んだようなこの世の中に流れ込んでいく時に、この世は生きるものとなる、ということを表しているのではないかと思います。教会は、神様のいのちが溢れている場所です。それだけではなくて、そのいのちは、教会からこの世の中に流れて行って、世を生かすものとなっていく。それが、神様が望んでおられることではないでしょうか。

 でも、現実の生活の中で、私たちはいつも、この教会を通して神様のいのちが溢れている状況を見ることができるわけではありません。また、私たち個人の信仰生活を振り返ってみても、いつも神様のいのちの水がわき上がって来ていることが実感できないこともあるのではないかと思います。
 もしかしたら、教会は、そして私たちクリスチャン一人一人は、時として霊的な脱水状態に陥っているのではないでしょうか。最初に脱水症の話をしましたけれども、「隠れ脱水」というものがあるそうです。体内の水分がだんだん失われていって、本格的な脱水症の一歩手前まで来ているのに、自分ではそれを自覚できない、そういう症状のことを、「隠れ脱水」と言うそうです。私たちも、霊的な隠れ脱水になっていないでしょうか。
 何がその原因なのでしょうか。本当の意味で、神様のいのちが教会から流れ出て、この世を生かすようになるには、何が必要なのでしょうか。
 そのことを知るためには、このエゼキエル書全体のメッセージを注意深く見ていく必要があります。聖書を正しく理解する原則の一つは、前後の文脈の中で、正しく意味を読み取っていくということです。
 神様が再建された神殿から、いのちの水が流れ出て来るわけですが、神様がその神殿を再建される前に三つのことを少なくともされていることが、エゼキエル書に書かれています。

 まず、神様がなされた第一のことは、「罪の赦し」です。エゼキエル書三十六章二十五節〜二十八節、

『わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。』

 先ほどお話ししましたように、イスラエルは神様から離れて罪を犯し、そのために裁きを受けて、エルサレムとその神殿が破壊されてしまいました。けれども神様は、イスラエルを見捨てられないで、救いの手を差し伸べられたのです。それは、イスラエル人に新しい心を与え、罪の汚れから彼らをきよめるということでした。

 三十七章を見ていきますと、有名な「枯れた骨の幻」が語られていきます。エゼキエルは谷間に干からびた骨が満ちているのを見るわけですけれども、彼が見ているうちに、その骨に肉がつき、皮膚で覆われ、またそこに神様の息が吹き込まれると、それは生きた集団となったと書かれています。これはイスラエルの民の象徴ですが、三十七章十四節には、

『わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。』

と書かれています。つまり、神様の霊、聖霊のお働きによって、神の民は生きた者となるというのです。
 新約聖書では、これは、イエス・キリストの十字架による罪の赦しと聖霊によるきよめを意味しています。ヨハネの福音書では、イエス様はいのちの水を与えるお方として描かれています。ヨハネの福音書四章で、イエス様がサマリヤのスカルという所にある井戸の側で、ある女性と出会うのですが、その時にこう言っておられます。ヨハネの福音書四章十三節〜十四節、

『イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」』

 さらにヨハネの福音書七章三十七節〜三十九節では、こう書かれています。

『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。』

 この箇所で、「生ける水の川」というのが、信じる者に与えられる聖霊であるということがはっきりと書かれています。私たちがいのちの水をいただくために必要なことの第一は、このイエス・キリストを救い主として信じ、受け入れ、そして聖霊をいただくということです。

 神様が、神殿を再建する前にされた第二のことは、「神の民をひとつにされた」ということです。エゼキエル書に戻って、三十七章十九節〜二十二節を読んでみたいと思います。

『彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族とを取り、それらをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする。あなたが書きしるした杖を、彼らの見ている前であなたの手に取り、彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。』

 ここで言われているのは、南北に分裂してしまったイスラエルの王国が再統一されるということです。イスラエルの十二部族は、有名なダビデとソロモンという王様の時代までは統一王国を形成していたのですが、その後、イスラエルの国は、南のユダと北のイスラエルという二つの王国に分かれてしまいました。
 そして北のイスラエル王国はアッシリアという帝国に滅ぼされ、その民は捕囚になって連れ去られ、歴史の表舞台から姿を消してしまいました。残された南のユダ王国も、バビロンに滅ぼされ、捕囚になってしまうわけです。こうして、神様の民であるイスラエルの王国は、ずたずたに引き裂かれてしまい、かつての統一王国は見る影もなくなってしまっていたのです。

 しかし、この三十七章の幻で、神様はエゼキエルに、このように分断された神の民が再び一つにまとめられるという希望を語っておられます。ここに出て来る「ヨセフの杖」というのは、北のイスラエル王国を、また「ユダの杖」というのは南のユダ王国を指しています。この二つの杖が神様の手の中で一つになるというのは、神様の手によって分裂したイスラエルの王国が一つにされるということを表しているのです。

 新約聖書に移ると、神の民の統一というテーマの範囲がさらに広がって、今度はユダヤ人と異邦人が、一つの神の民となるというビジョンが与えられていきます。エペソ人への手紙二章十四節〜十六節、

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』

 ここでパウロは、かつて敵対していたユダヤ人と異邦人がキリストによって和解させられ、「新しいひとりの人」になるということを語っています。神様がお一人であられるならば、その神様に仕える神の民も一つでなければならない。これは聖書に繰り返し登場するテーマです。
 西洋の歴史を見ていくと、キリスト教国といっている国同士で戦争をすることが、繰り返し起こっています。そうした時に、不思議なことに、どちらの側も、同じ神様に勝利を祈っているのです。これは本来あってはならないことだと思います。そしてまた、多くの異教徒の人々をつまずかせる原因にもなっています。

 ヨハネの福音書の十三章で、十字架に架かられる直前に、弟子たちと共にした最後の晩餐の席で、イエス様は彼らにこう言われています。ヨハネ十三章三十四節〜三十五節、

『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。』

 イエス様は、私たち教会が愛によって一致する時に、世の人々は、私たちが本当の意味でイエス様の弟子、つまりクリスチャンであるということを知ると言われます。
 先ほどの箇所で見たように、イエス様を本当に信じているならば、そこにいのちが溢れているはずです。教会の一致というのは、神様のいのちが溢れるために、欠くことのできない第二の条件と言えるでしょう。


 今までに二つのことを見て来ましたが、神様が神殿を再建される前に成される三番目のことは、「悪の力に勝利する」ということです。再びエゼキエル書を見ていきます。エゼキエル書三十八章二節〜三節、

『人の子よ。メシェクとトバルの大首長であるマゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言して、言え。神である主はこう仰せられる。メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。今、わたしは、あなたに立ち向かう。』

 このエゼキエル書の三十八章と三十九章では、世の終わりに起こるべき戦いについて預言されています。このマゴグの地にいるゴグという存在が、イスラエルの地に攻め寄せて来るわけですけれども、それが神様によって打ち破られると語られています。
 ここに出て来る「ゴグ」とか「マゴグ」という存在が何を指しているのか、学者たちは、いろいろと議論して来ましたが、はっきりとしたことはよく分かっていません。ここでエゼキエルはおそらく、実在の人名とか地名について語っているのではなくて、世の終わりに現れて、イスラエル、つまり神の民を攻撃する、悪の勢力を象徴的に表しているのだと考えていいと思います。ヨハネの黙示録の二十章にも、いわゆる千年王国の最後に、サタンに惑わされてイスラエルを攻撃してくる存在として、ゴグとマゴグが登場します。つまりここでは、神様がこの世の悪と最後の決戦を行って、それに勝利されるということが書かれているのです。その結果、どうなるでしょうか。エゼキエル三十九章七節には、こう書かれています。

『わたしは、わたしの聖なる名をわたしの民イスラエルの中に知らせ、二度とわたしの聖なる名を汚させない。諸国の民は、わたしが主であり、イスラエルの聖なる者であることを知ろう。』

 神様が悪に勝利されるのは、世界の人々がイスラエルの神様、聖書の唯一の神様こそが生ける真の神様であることを知るようになるためなのです。

 このゴグとマゴグが黙示録に出て来ることからも分かるように、悪に対する最終的な勝利というのは、この世の終わりに起こる出来事です。けれども、ある意味では、その勝利はすでに取られていると聖書は言っています。いつそれが起こったかというと、それはイエス様が十字架にかかられ、復活された時のことであります。ヘブル人への手紙二章十四節〜十五節には、こう書かれています。

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

また、第一ヨハネの手紙三章八節には、

『罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』

と書かれています。
 つまり、悪に対する最後の勝利は、世の終わりに起こるわけですが、イエス様がある意味では十字架の上でその勝利を取ってくださっているというのです。
私たちがクリスチャン生活を送っていく中で大切なことは、今私たちは、終わりの時代に生きているということを意識しながら生きるということです。と言っても、あまりみなさんは今が終わりの時代という実感はないかもしれません。私たちが終わりの時代に生きているというのは、明日とか来週にすぐ世界が終わってしまうということではありません。イエス様がいつ帰って来られるかは、誰も分かりませんので、もしかしたらそうなるかもしれませんが、確実に世の終わりはすぐに来るというわけではないのです。
 私たちが終わりの時代に生きているというのは、私たちは人類の歴史の最終段階の時代に生きているということです。その最終段階はいつ始まったかというと、イエス様が二千年前にこの地上に来られた時に始まりました。ですから新約聖書では、「今は終わりの時代である」ということが何度も言われています。二千年前に生きた聖書の記者たちが、「今は終わりの時代である」と言っているのは、今の私たちからすると、少し奇妙に思われるかもしれませんが、初代教会のクリスチャンたちも現代の私たちも、同じ終わりの時代に生きているわけなのです。
 この終わりの時代に特徴的なことは何かというと、聖書の中で、「世の終わりにはこういうことが起こる」と書かれている出来事が、ある意味ですでに始まっているということです。
 でも、イエス様が再び来られて、神の国が完成する時(それが本当の意味での世の終わりです)、すべてのことが完成するというのです。この世の終わりというのは、ある意味ではすでに始まっていますが、その最終的な完成というのは、まだ来ていない。そういう時代に私たちは生きているわけです。

 そして、悪に対する勝利ということも、同じように考えることができます。イエス様は、十字架と復活によって、悪魔の力を打ち砕かれました。でも、最終的な勝利というのは、イエス様が再び来られる時に実現するのです。それまでの間、私たち教会は、十字架の勝利に立って、この世にまだ存在している悪の力と戦い続けていかなければなりません。これが霊的戦いなのです。
 このように、教会にいのちが溢れるために必要な第三の条件というのは、「悪に打ち勝つ」ということです。

 ここまでエゼキエル書を通して、神様が教会という神殿を再建する前になさる三つのことを見て来ました。「罪の赦し」、「神の民の一致」、そして「悪に対する勝利」ということです。これらのことがあった後に、初めて神様の神殿が再建されていくのです。エゼキエル書で言いますと、四十章から四十二章にそのことが書かれています。
 そして四十三章に行きますと、その回復した神殿に、神様の臨在が再び帰って来ます。
 そして四十四章から四十六章までの箇所では、神殿で祭司のつとめが復活していきます。
 そして最後に、四十七章で、神様のいのちの川がその神殿の聖所から流れ出して、地を潤すようになっていくのです。

 今、私たちは、私たちの教会を通して、神様のいのちが溢れていくように、教会が世の中を生かす存在となるように祈っていきたいと思います。そのためには、私たちは教会がどのような存在であるのかということを聖書から確認して、神様の御心にかなった教会となるように努めて行かなければなりません。
 私たちはまず、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死んでくださったことをもう一度確認し、感謝をもって受け止めていきましょう。そして、ご聖霊を歓迎し、私たちをきよめ、信仰生活と教会を導いてくださるように、求めていきましょう。これがすべての基礎になっていきます。
 そして、教会が本当に一つになっていくことができるように、祈っていきましょう。私たちが主にあって、「新しいひとりの人」となったことを、確認していきたいと思います。

 最初に、この夏、韓国に行ったというお話をしました。ちょうど韓国に滞在していた時に、八月十五日を迎えました。言うまでもなく、この日は、終戦記念日、また韓国では、光復節といって、日本の植民地支配から解放された重要な記念日であります。
 その日に私は、チェ先生のご一家と合流して、春川に行き、主香教会の夜の祈祷会に参加させていただいて、そこで今日と同じエゼキエル書の御言葉からメッセージを語らせていただきました。主の神殿が再建され、いのちの川が流れ出るためには教会が一つになる必要があると語らせていただいた時に、そこにいた牧師先生が大変感動されて、「私たちアジアのクリスチャンが一つとなって祈らなければならない」と言われました。
 そこには私も含めて日本人もいましたし、それからもちろん韓国人のクリスチャンもおられましたが、その他に北朝鮮から脱北してきた人たちが作っている教会の牧師先生も来ておられていましたので、日本人と韓国人と脱北者のクリスチャンが共に手を取りあって祈るという、本当にすばらしい時が与えられました。
 その時にある先生が言われたのですが、「このエゼキエル書の四十七章の箇所で、神様の川が流れていく時に、最初はそれは小さな流れだった。神殿の聖所からちょろちょろと流れているような流れだったが、それが進むにつれて、だんだんと水かさが増えて、最後はものすごい大河になった。この祈りの輪も、最初は小さく見えるかもしれないけど、だんだん広がって行って、やがてアジア全体に影響を与えるものとなる」と言われて、本当にその通りだと思わされました。
 それが金曜日のことだったのですが、その二日後の日曜日に、チェ先生が牧会しておられるシャローム教会で、メッセージをさせていただきました。その教会にもいろいろな背景の方々がおられて、日本人と韓国人と脱北者だけでなくて、中国人とアメリカ人のクリスチャンがいて、そこでもやはり共に祈る機会が与えられました。たった二日で、この祈りの輪が少し広がったことを見て、このような一致の働きがさらに広げられていくことを願わされました。

 みなさんも、周りの人々に対して、憎しみとか、苦々しい思い、許せない思いがあったり、あるいは壁があることを感じているならば、その壁が主によって崩されていくことができるように祈っていきたいと思います。一人の人との和解というのは、最初は小さなものかもしれませんが、やがてそれが広がって、大きなインパクトを持っていくものになることを信じていきましょう。
 そして私たちが、悪に打ち勝つことができるように祈りましょう。七十年以上も前に、大きな悪の力が日本の国を捕らえ、韓国をはじめ、アジアの国々を苦しめ、また傷つけました。そうすることによって、加害者である日本にも、未だに消えることのない罪の重荷、苦しみをもたらしました。
 また今日でも、世界では悪の力が猛威をふるっています。パレスチナにおいて、ウクライナにおいて、イラクにおいて、また中国において、北朝鮮において、人々が想像を絶する苦しみの中にいます。また、日本でも多くの人々が罪の中に捕らわれている現状を私たちは見ています。
 私たち一人一人の信仰生活も、悪の力との戦いの連続です。けれども、イエス様は十字架の上で、すでに勝利を取ってくださいました。復活の主が私たちのうちに働いてくださって、この悪の力に対して勝利を表してくださるように、祈っていきたいと思います。

 最後に、このエゼキエルの幻にあるように、神様ご自身が、私たちの教会を通して、その溢れるいのちを流し出してくださり、この世の人々を生かしてくださるように、祈っていきたいと思います。
 このエゼキエル書の四十七章に書かれている、いのちの川の幻は非常にすばらしいものですが、エゼキエルが見た幻は、これで終わってはいないのです。四十七章の後半から、最後の四十八章にかけて、何が書かれているかというと、イスラエルの十二部族に、相続地の割りあてがなされて終わっているのです。なぜ、エゼキエル書は、こんな終わり方をしているのでしょうか。

 このことを考える前に、私たちは神様の救いというものを、どういうイメージでとらえているか、考えてみたいと思います。別の形で質問しますと、みなさんは天国をどういうイメージで捉えていますか。天国はどういう所だとお思いになるでしょうか。
 ある人々は雲の上のふわふわした所で、天使がハープを弾いているようなイメージがあるかもしれません。また別の方々は、花が咲き乱れている野原のような所を想像するかもしれません。いずれにしても、すばらしい環境の中で、永遠に楽しく暮らすというイメージを持つことが多いのではないかと思います。
 けれども、実は聖書が言っている永遠のいのちというのは、そういうものではないのです。今日は時間の関係で詳しくお話しすることができないのですが、まず聖書は、私たちが永遠に肉体を持たない霊の状態で生きるとは書いてありません。聖書が教えている永遠のいのちというのは、私たちの肉体が復活して、新しい天と地において、神様と共に永遠に生きるということなのです。
 では、そこで、私たちは何をするのでしょうか。私たちは、永遠の夏休みのように、日々遊んで暮らすわけではありません。もちろん、そこには完全な喜びと幸福があるわけですけれども、私たちには、その新しい天と地で、なすべき仕事が与えられるのです。それは、神様が創造される新しい被造物の世界を治められる時に、その働きに参加させていただくということであります。
 この夏、中澤先生が来られて、被造物管理の神学ということについて教えてくださいましたけれども、私たちは、新しい被造物の管理者になるということです。

 このエゼキエル書の最後に、相続地の割りあてについて書かれているのは、まさにそのような意味があるのではないかと思います。神様のいのちの川が流れ、世界を生かすようになる時に、私たちはその地を受け継いで管理していく務めが与えられるのです。いいえ、その働きは、今すでに始まっているとも言えると思います。
 私たち一人一人の信仰生活を通して、また教会の働きを通して、神様のいのちが流れ出し、周りの人々が生きることができるように。そして、私たちの生活の場が、神様の祝福があふれた場所と変えられていくように祈っていきたいと思います。

 エゼキエル書の最後は、こういう言葉で終わっています。エゼキエル書四十八章三十五節、

『町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる。」』

 一番大切なことは、私たちと共に神様がいてくださるということです。日々、神様と共に歩んでいく時に、私たちの人生が、教会が、神様のいのちを取り次ぐ者になっていくことを信じて祈っていきたいと思います。最後に、お祈りをさせていただきます。

 愛する天の父なる神様。あなたの御名をほめたたえ、心から感謝いたします。今、私たちの教会が、あなたのいのちを取り次ぐ存在として、この地に与えられていることを感謝します。あなたのご臨在のうちに、あなたのいのちがあり、そのいのちが私たちを生かし、またこの世を生かしていくものであることを御言葉が語っていることを感謝します。
 どうか、今週一週間の私たちの一人一人の歩みを通して、あなたのいのちが流れ出て、周りの人々も、地域も、また国も、世界も、生かす者となっていくことができますように。そのために私たち一人一人を、そしてこの教会をお用いくださいますようにお願い致します。
 そのために、イエス様の十字架によって、私たちが罪を赦されたことを、もう一度、しっかりと受け止めることができるように、また御霊によって、一人一人をきよめてくださいますようにお願い致します。
 また私たちの間にあるすべての隔ての壁を打ち壊し、あなたにある「新しいひとりの人」として、一致を与えてくださいますように、お願いします。
 そしてこの神様の働きを妨げようと働くすべての悪の力に対して、今週も私たちが十字架にあって勝利することができるように、どうぞ導いてください。
 そして、今週一週間の私たちの歩みの中に、いつもあなたがおられ、「主はここにおられる」と、私たちが確信を持って、宣言することができるように、導いてください。
 尊き主イエス・キリストの御名によって、感謝してお祈りいたします。アーメン。