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『勝利、感謝、主に栄光!

2014年12月28日 (日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇一〇三篇一節〜五節

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』


 ハレルヤ!今日は二〇一四年、最後の日曜日です。礼拝プログラムも多少スペシャルになっているのですが、二〇一四年、みなさんと共に主を礼拝し、最後の日曜日を迎えることができ、心から感謝しています。
 二〇一四年、みなさんにとって、どんな年だったでしょうか。一年間、あっという間に過ぎてしまった印象ですが、「毎日陽が昇る。そのことを信じます。」と先ほど歌われましたが、明日がくれば、また陽が昇ります。それは神が行ってくださっています。自然界の背後に、神の支配が及んでいます。
 今日は一年を振り返り、心から主に感謝する礼拝ができたらと思っています。

 今読んでいただきました箇所に、『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。』とありました。
 主をほめたたえ、礼拝しなさいとあります。心の底から主を礼拝することは、主が喜んでくださることです。毎日曜日、ここに集い、主を礼拝出来た事を心から感謝します。

 二節に、『主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』と語られています。
 「今年、主が良くしてくださったことを、何一つ忘れるな」というのです。案外、嫌なことはずっと覚えていますが、感謝なことは、すぐに忘れてしまうものです。人間には、そんな悲しいところがあります。今年、最も印象に残っている感謝は何ですか?ちょっとお隣の方と一分間くらい、「今年、あなたにとって、一番感謝だったことは何ですか?」と、お互いに話していただきたいと思います。
 いろいろあると思いますが、感謝なことを述べ合って下さい。『主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』です。

 昨日は、新城教会のスタッフたちが集まり、一年のご苦労さん食事会をしました。一般的には忘年会というのですが、忘年会とは、年を忘れる会ですが、教会は忘年会ではなく、「一年の感謝を思い起こす会」です。主がどんなに祝福してくださったかを、一人一人証しし、楽しい一時を持たせていただきました。主の良くしてくださったことを、忘れない事が重要です。

 今日は十二月二十八日です。先週はクリスマスでした。「そういえばクリスマスだったな…」と、クリスマスは遠いかなたに消えてしまった気がするのですが、クリスマスの時期は、教会は一年のうちで最も忙しい日々です。しかし過ぎた二週間を振り返っても、本当に感謝が絶えません。
 一つだけならまだしも、これでもか!と言われるほどクリスマス集会が行われましたが、準備も動員も、いろいろな面で大変でした。しかし各パートで、皆さんが真剣に祈って下さり、助けて下さり、成し遂げられました。
 今年は、子どものクリスマス会から始まり、三百五十人ほど集まりました。でも一週間前に動員調査をしたら、新しい友達はたったの一人でした。上條先生は相当落ち込んで不信仰になったそうです。しかし一週間、子どもたちが毎日集まり、火のような激しい祈りをしていました。そして、いろんな場所にとりなしに行き、友達を誘いました。それを見て、私は絶対に祝福されると確信しました。蓋を開けたら、なんと三百五十人も子どもたちが来ました。すごかったです。

 またロン・ブラウンさんのコンサートもたいへん祝福されました。会場いっぱいの方々が集められ、素晴らしいコンサートでした。
 「レッツプレイズ」という中高生のクリスマス集会もありました。今も、中高生のダンスすごかったですね。おじさんがあんな事まねしたら、ワンフレーズで倒れるかもしれません。四人の女の子は、初めから終わりまで踊っていましたよね。踊れるのも今だけですから、十分に踊ってくださいね。今が盛りです。本当にいいなと思います。
 中高生のレッツプレイズクリスマスは、本当にすごかったです。二百名の中高生が集まりました。中高生の前でメッセージを語る身にもなってください。でも今回、よく祈って下さったので、良かったです。中高生たちが身動きひとつせず、水を打ったように静かにメッセージを聞いてくれました。「おい!みんなどうしちゃったんだ!日頃の雰囲気はどこに行ったんだ!」という感じで、メッセージを聞き、最後に主を信じる祈りをして帰って行きました。
 「大きな声でイエスの御名を呼ぼう!」と言ったら、「イエス様!」と全員で叫びました。すごかったです。心から感謝でした。
 ちょっと前後しますが、水曜主日礼拝のクリスマス集会も、開先生夫妻が歌い、しっとりした良い雰囲気でした。
 また今回は、「マミータイム・クリスマス」という、学校にあがっていない子どもたちを持つお母さんと、子どもたちのクリスマス会がありました。私は中高生の集会が一番大変な現場だと思っていたのですが、この集いで二〇分間、メッセージを語ってくれ、と言うのです。何を話したらいいんだという感じでした。この年齢の幅、本当に冗談じゃないと思いましたが、やはり祈りの力はすごいです。その時、こういうのが出て来ました。

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 「ダイジョバン」。何か三河弁で、「大丈夫ではない」という意味ですかね?ダイジョバンと一緒に、悪魔が出て来まして、それが本物じゃないかと思うくらいでした。彼らが出て来た途端、子どもたち全員、ビックリして泣き出しました。ちょっと刺激が強かったのかなと思いましたが、でも、その後のメッセージ、大人から子どもたちまで、真剣に聞いてくれました。本当に感謝に堪えません。

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 そしてインターナショナルのクリスマス会。見てください。このダンス。すごいでしょ。天使が本当に舞い降りたのではないかと思うくらいでした。食事もすごいでしょ。私も食べさせていただきましたが、教会にはいろいろな方がおられ、それぞれの賜物で奉仕しておられるわけです。

 この過ぐる二、三週間を考えても、「主が良くしてくださった!忘れちゃいけないな」と思います。クリスマスが終わるとコロッと忘れてしまう傾向がありますが、主が一つ一つを祝福してくださったことを感謝する時、主の御名を誉め称えずにはおられません。
 それから最近、ちょっと途絶えていたのですが、授産所から来られている兄弟姉妹と一緒に食事会を持つことが出来ました。
 何しろ、彼らはよく食べるのです。ここにいる辻森君。昔はご飯を、洗面器一杯くらい食べたものですが、もう五十五歳になりました。しかし、喰いは止まっていませんでした。食べ過ぎて、楽しすぎて、死んじゃうんじゃないか心配するくらい、楽しいひとときでした。教会で起こる事柄は、主が共におられますから心が躍ります。そして食べるだけでは終わりません。その後、彼らの住む地域のとりなしの祈りに出かけて行きました。

 みなさんにも、一つ一つ思い出があり、一年を振り返る時、心から主への賛美と感謝が湧いて来ます。詩篇一〇三篇三節から、『主は、あなたのすべての咎を赦し』とありますが、一年間を振り返れば、神の前に大きな顔をして出ることができない、罪の多い者ですが、十字架により罪赦されていることを、心から感謝しなければなりません。

 『あなたのすべての病をいやし、』とあります。病で苦しんでおられる方もおられますが、普通は、風邪を引いても治るじゃないですか。治った時、当然だと思わないほうがいいと思います。主が癒してくださったのです。大きな病になって癒された時は感謝しますが、風邪を引いて治った、インフルエンザが治ったというのを、当然のように思わないで、感謝しないといけないです。やはり病気になると、健康は本当に感謝だ、と思います。
 私も先週の日曜日、ちょっぴり風邪を引きました。ちょっと頭痛いなと思って、熱をはかったら、熱が高かったんです。びっくりした!三七度五分。七度五分で、私は駄目なのですが、「次の日からも、いっぱい仕事があるから助けてください!」と祈ったら、一日で治りました!私は自慢じゃないのですが、インフルエンザにかかったことがありません。かからないのも感謝です。
 また、病気になっても、知らないうちに治っている事だって、いくらでもあると思います。人間の体には、がん細胞が結構できているらしいですよ。発生した時、健康診断で見つかり、それを治療し始めて死ぬ人もいるそうです。この間、そんなこと聞きました。嘘か本当か知りませんが。
 でも、こうやって生きているわけです。知らないうちに癒されているわけです。礼拝に来ているうちに、癒された病も結構あるのかも知れません。悪い遺伝子が組み換えられているかもしれません。天国に行ってからイエス様に出会って、「あんたを、何度も治してやったんだぞ。この時、本当は危なかったんだぞ。だけど、わたしが癒した。」「そうでしたか!ありがとうございました!」というのが、多くあると思います。
 日頃、健康でいられることを、心から感謝したいと思います。

 『あなたのいのちを穴から贖い、』とあります。穴に落ちる寸前を助けられたということだって、人生にはあります。私のことを考えてみても、あの時、死ぬ寸前だったけれど、死ななかったということもあります。
 時々話しますが、小学校二年生の時に、私は豊川に泳ぎに行きました。桜淵の加藤ボートの前に泳ぎに行きました。それまではプールで泳いでいたのですが、川デビューでした。泳げると思ったら、泳げなかったのです。おぼれて水を飲んでしまいました。一口目は喉が渇いていたから美味しかった。しかし二口、三口飲むうちに、体が沈んでいった。小学校二年生の時です。
 今でも頭に残っています。水面がぎらぎらと輝いていました。なんか気持ち良くなって、沈んでいきました。「俺の人生も短かったな。大切な人を亡くすな…」なんて、考える余裕はなかったです。そうしたら奇跡が起こりました。沈みゆく体が、突然、浮かび上がって水面に出ました。「うわー!奇跡だ!」と思ったら、私と一緒に泳ぎに行った隣のみよちゃんという、大きなお姉ちゃんが、「あんた何やっとるだん」と言って、彼女のへその近所で、私は溺れていました。あの時に死んでいたら、私は今日みなさんの前に立つことはありませんでした。
 疲れ切った私を、母の所に連れて行ってくれました。みよちゃんが、「今日、順が、あぷあぷこいとった。」と三河弁ですが、引き渡してくれました。母が「本当にありがとう!みよちゃん!」と、財布の中から五十円玉を出していました。昔の五十円玉はちょっと大きめで、真ん中に穴が開いていました。だから覚えているのですが、お駄賃をあげていました。それ見て、ちょっとショックを受けました。「俺の命は、たったの五十円かよ!」と、そんなことを思い出します。私を、穴から救い出して下さいました。

『あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。』

 先週の明牧師のメッセージ、親父ですが、恵まれましたね。良かったです。八十五歳の老人にしては、すばらしいメッセージをしました。聖霊様が与えたメッセージです。「今、泣きたい人は泣きなさい!泣くことのできない日が来ますから!」と、再臨の日を指し示す、メッセージでした。私たちは、鷲のように新しくなるのです。
 『あなたの一生を良いもので満たされる。』というのです。クリスチャンになりますと、悪いもので人生が満たされるのではなく、「良いもので満たされる」ことを感謝しなければなりません。
 一年が終わるに際し、家族で集まり、一年に起こった主が良くしてくださった事柄を互いに、話し合う時を持ったらよろしいのではないでしょうか。

 先日、家内が私に「本当に感謝だ。」と言うのです。「今年もこうして、今まで守られて感謝だ。主は多くの祈りを聞いて下さり感謝だ。」と言いました。
 でも私はちょっとへそが曲がっていて、「何が感謝なもんか!」と言ってやりました。「まだ祈りが聞かれてない課題も、多くあるぞ!」と、ちょっといじわるを言いました。感謝なこともあるけれど、いくら祈ってもなかなか動かない、感謝できないこともあります。
 しかし感謝するって、たいへん重要です。私が「何が感謝だ!」なんて、言ったら、彼女は、ピリピ人への手紙四章四節〜七節を引用して私に話しました。

『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』

 時々、「この祈り、まだ答えられていない」という事柄があります。「神様、もう何年も祈ってきたんですよ。どうして祈りに答えて下さらないんですか。」と、感謝よりも、不平が出てしまう時があります。
 しかし、そのようなペンディングの祈りを勝利に導く、完全勝利しきっていない事柄を勝利に導く鍵が、「感謝だ」というのです。

『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』というわけです。
 私たちが祈る時、直接、「神様!こうしてください!」と訴えるのではなく、感謝をささげながら、「感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」というのです。
 神様は、人格を持っておられますから、感謝をささげることは、神の心を動かすのです。私たちの関係もそうじゃないでしょうか。いきなり、「お父ちゃん、これ買って。これやって。」と言ったら、むっとしますが、「お父さん、ありがとうね。お母さん、ありがとうね。本当にお世話になっています!」そういう言葉が来た時には、次に何かが控えています。
 先週、五歳になった孫が私の所に来て、「じいじ。大切なお話があるの。ちょっとここに座ってくれる?」と言われ、どきっとしました。五歳の孫に、「大切なお話があるの。ここに座って」と言われ、次に何を言われるんだろうと、緊張しました。しかし続いて出てきた言葉は、「弟の誕生日会があるので、プレゼントを包む紙がないからちょうだい」と言われました。いずれにしても、「前置きに感謝」は大切です。

 「今年一年間、祈って来たのにな。あまり動いていないな…。」という事柄に関して、「あなたは本当に神様なんですか!こんなに祈って来たんですよ!おい、こらっ!」というような、やくざの祈りは駄目です。時々そういう方に出会いますが、そういう祈りは聞いてくれません。感謝しなければいけません。
 「神様、今までこんなに助けてくださいましたね。あの時は癒してくださいました。本当に感謝します!つきましては…」と、お願いするわけです。そうしたら、祈りが聞かれると告げているわけです。この手法を使って、心からの感謝と願いを主に捧げる時、主が良くしてくださるのです。

 今年私にとって、一番感謝なことは何かというと、やはり牧師ですから、こうして講壇に立たせていただき、み言葉を語らせていただけたことです。それが一番感謝です。
 「二〇一四年、語ることはあるのかな…」と思っていました。以前にも話しましたが、だいたい人は五年経つと忘れるというのです。牧師業界にあっては、五年くらい経ったら、同じメッセージを語っても大丈夫だと、この間、ある先生が言っていました。適当に語って、「今日も日曜日終わった!」ではいけないと思います。やはり、主からのみ言葉をもらわなければなりません。「イエス様が今朝、講壇に立ったら、何を語られるのか。」それを祈り、メッセージをもらわなければいけませんから、大変です。
 しかし今年一年、み言葉を与えていただいた事に、心から感謝します。私だけでなく、新城教会に属するすべての先生方も同じです。小さな家庭集会にいたるまで、語る言葉が与えられたことを感謝しています。
 詩篇一一九篇百三十節に、こんな言葉があります。

『みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。』

 みことばの戸が開くと、光が差し込むのです。み言葉は、聖書一冊全て神のみ言葉です。しかし戸が開いている場合と、戸が閉じている場合があります。読んではいても、聖霊によって戸が開かれないと、光が入ってこないのです。しかし、聖霊によって戸が開くと、み言葉が光となって届くのです。

 『わきまえのない者に悟りを与えます。』 とありますが、今年は、今までの人生の中で、最も大きなみ言葉の戸が開かれた体験をしました。それは、私たちが、地球や宇宙を管理する「管理人として造られた」ということに気づかされたことでした。
 「人間って何者だろうか」という問いに関して、み言葉から回答をもらったことです。それは、「被造物管理の神学」という情報を得たのと同時に、み言葉が実際に差し込んだのは、今年の二月でした。それもちょっとしたきっかけでした。娘が東京に行くと言って、どこに行くのかと聞いたら、東久留米のクリスチャンアカデミーに行くという話を聞いた時からでした。
 なぜなら、今のクリスチャンアカデミーがある場所で、両親は結婚したからです。でもその土地がなぜ、手に入ったかというと、偶然ではなく、神がその土地を与えたのです。その土地が宣教師たちの手に渡ったことにより、父がクリスチャンになり、母は父と結婚し、今の新城教会があり、私も生まれたわけです。あの土地が霊的に管理されなかったら、私も生まれていませんし、みなさんも今日、ここにいないはずです。くり返して詳しい事は語りませんが、ネット上にメッセージがありますから、是非読んでいただきたいと思います。あの三千坪の土地にまつわり、深い歴史と、激しい霊的戦いがありました。特定の場所が、神の手に陥るか否かで、その後の歴史が大きく変わるのです。

 昨日も、スタッフ夕食会に、九二歳になる母が出席しました。近頃では、話し出すと昔のことが多く出て来る傾向があるのですが、母に「今年一年のことを話して」と言ったら、「私は東京の女で、まさか、こんな田舎に来るとは夢にも思わなかった」と言うのです。「そして、滝元と結婚するなんて、思わなかった」と言いました。「でも結婚したことによって、新城教会があり、本当に感謝だ」と言いました。
 そして最後に何を言うかと思ったら、「一番びっくりしたのは、順が牧師になったことだ」と言いました。「彼は牧師になるはずないと思っていたけれど、牧師になり、み言葉を語っているのは信じられん」という結論でした。おいおいおいという感じでしたが、彼女にとっては、人生で一番印象に残っている事みたいです。
 すべてが奇跡みたいですが、ある土地が神のために使われるようになり、後に、こんな大きな発展があったわけです。神が土地を造られたのは、大きな意味があるということを、以前にも、お話しさせていただきました。
 私は、土地に関して、もう一度考え直さなければいけないと思わされました。創世記一章二十七節〜二十八節、

『神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

 人間は、神から「被造物を支配しなさい!」と管理人として任命され、造られたことが分かります。そして創世記二章七節〜八節には、

『神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。』

 今年は「土地と人、どちらが大切ですか?」という話をさせていただきました。そんなこと、私は一度も考えたことはありませんでした。「土地と人、どっちが大切?そんなこと考えることもない。人が大切だ!」と思っていました。しかし、神は最初に土地を造り、土地のちりを拾って、人を造り、土地を管理するために、土地に送られたのです。わざわざ、土地のちりから人を造り、神が管理してほしい土地、すなわちエデンの園に人を送られたわけです。
 この情報から、「土地と人、どっちが大切ですか?」と問われたら、先に土地を造って、土地のちりからわざわざ人を造り、土地の管理人として置いたのですから、神の目から見たら、人よりも土地のほうに目的があるということです。「えっ!嘘だぁ!」という感じでした。
 でも、前にもお話ししましたが、もしもハワイに別荘があったとします。今日は寒いですから、ハワイの綺麗な風景でも見せましょう。これはハワイで現在、売り出し中の別荘です。

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 内部はこんな感じです。どうですか?誰か買いませんか?

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 プールもついていまして、十三億円です。今日の朝、調べました。余裕のある人は買ってください。
 しかし十三億円で買ったとしても、日本で仕事がありますから、ここに行けるのは、例えば一年のうち三ヶ月しかないとします。あと九ヶ月はどうしますか?管理人に、管理を頼むしかないです。管理してもらわないと、家って、すぐにだめになります。
 ではこの別荘のオーナーであるあなたは、別荘と管理人、どちらが大切でしょう。別荘の方が大切ですよね。
 同様に、神様は土地を造り、人間を造って、「管理して下さい」と頼みました。だとしたら、神にとって、人以上に、この地球は大切です。それを私は理解できていませんでした。しかし今年、それを理解させてくださいました。

 クリスチャンホームに生まれた私の一番いやだった事は、イエス様がやがて帰って来られるという話でした。父は、クリスチャンホームの子どもたちを集め、「イエス様が、いつ帰って来られるか分からんぞ!」と話しました。「罪を犯さないで、聖い歩みをしろ!」と話してくれました。だから私は、いつもびくびくしていました。当時、子だくさんのファミリーのただ中に住んでいて、私の隣、見城さんが十二人。その隣、岡本さんが五人。そして伊藤さんが六人。四軒だけで、日本の平均的教会以上でした。子どもたちが一杯いて、そういう中で「おまえら、喧嘩したり、嘘をついたりしていると、学校から帰ったら、お父さんもお母さんもいないかもしれんぞ!イエス様が帰って来て、みんな天国に行っちゃって、おまえら、地上に残されるんだ!」という話を聞いて育ちました。私は学校から帰って来ると、いつもびくびくしていました。
 時々話しますが、私はチェックポイントを作っておきました。隣の見城さんちに行って、十二人中、誰か残っていたら、再臨はまだか、大患難時代を共に過ごす仲間がいるとか、そういう感じでした。
 岡本さんの家は当時、「クリスチャンではない、おじいちゃん以外の誰かがいればいい」ということでした。でもある日、帰って来たら、おじいちゃん以外、誰もいなかったのです。超焦ったことがありました。そういうクリスチャンにならないようにしてくださいね。でも本当に、イエス様は帰って来られます。
 けれども、そのベクトルがどちらに向いていたかというと、天に向いていました。クリスチャンは引き上げられ、別の宇宙に行ってしまうというようなイメージでした。
 しかし聖書をよく読むと、そうではないのです。イエス様が帰って来られるとは、この土地に帰って来られるということです。地球の王として、イエス様はやがて帰って来られるというのが、聖書の結論です。
 空中再臨があったとしても、「やがて、主はこの地に帰って来られ、私たちは主と共に地を治める」のです。「主が帰って来られる」というベクトルは、上ではなく、下向きなのです。イエス様が、この地に帰って来られ、この土地に神の国を建てられるのです。
 多くのクリスチャンが、天国とは、他の天体に用意されているかのように思っています。しかし、そうではないのです。神がなぜ、地球を重要視しておられるのか。それは、この土地に、神の国を建てようと計画しておられるからです。

 聖書の神の国の概念は、他の宇宙ではありません。私たちの目の前に、「目の前」に、実現するのです。私たちのゴール。私たちがやらなければならないことは何か、それは、一刻も早くイエス様がこの地上に帰って来られ、地を治めてくださる事です。そこに、我々の祈りを集中しなければなりません。

 今年、私が主からもらったみ言葉は、新年にお伝えしました。黙示録二十二章十七節でした。

『御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。』

 「主よ、来てください。マラナタ。」という言葉を語らせていただきました。
 私は、こんなみ言葉をいただくとは、考えても見ませんでした。私は、イエス様は帰って来られるだろうけれど、それは、相当遠い未来じゃないかと、自分とは、あまりにもかけ離れた概念のように感じていました。しかしそうではなく、「主は近いのです。主よ来てください!」と、祈らなくてはいけないと、今年教えられ、み言葉の戸が開きました。それは、昔から聞いていたことでしたが、自分の心に光として来たのは今年でした。

 今の時代って、もしかして、本当にイエス様が帰って来られる直前かも知れません。それは、我々がどこか他の宇宙に連れて行かれるのではなく、主が帰って来られ、主がこの地を治めて下さる日が、近づいているのです。
 私たちは一刻も早く、イエス様がこの地上に来てくださり、地球の王となってくださることを、真剣に祈らなくてはいけないのです。
 いくら新城にリバイバルが起こっても、まだ、まだ、国は悪魔の支配下にありますから、絶対に国には問題が残るのです。私はリバイバルの国々を見せていただきましたが、もちろん教会は成長しています。大勢の方たちが教会に来ています。しかし、国全体を見たならば、日本以下の国はいっぱいあります。なぜ、こんなにクリスチャンが多いのに、こんなに悪いの?と矛盾を感じます。
 なぜならまだ主が、地球の王となっておられないからです。この世の君が王となって世界を治めているからです。
 真のリバイバル。それはどこにゴールがあるのか?それは、イエス様が帰って来て、この地の王となる時実現します。その時、真のリバイバルが実現するのです。日本を救いたかったら、何をしたらいいですか。それは、イエス様が帰って来て、日本の王となってくださる事です。この地球の王となることを、真剣に祈り求めないといけないのです。
 私は意外でした。そんな祈りが自分に与えられるとは、去年まで、全く考えても見ませんでした。本当に今年は、不思議な年でした。

 今、心から願っていることは、私たちの生きている世代に、イエス様が帰って来られる事です。地上で、イエス様が帰って来られる姿を見られたら、最高です。みなさんと地上で生活を共にしているただ中に、イエス様が帰って来て欲しいと、心から思います。
 今日も、若者たちのダンスを見ながら、この教会もいろんな面で、主が祝福を与えてくださったと心から感謝しているのですが、できることなら、今のチームのただ中に、主が帰って来られる日があったら、どんなにすばらしいだろう!今一緒に働き、一緒に礼拝を守っている兄弟姉妹のただ中に、主が帰って来られる、そんなすごい奇跡を見たいです。
 それが実現したら、どんなにかすばらしいじゃないですか。来年はそのことを、もっと現実的に、祈らなければならないと思います。

 先日、天野先生が来られ、新城教会に対する主のみ言葉を語って下さいました。それは、「わたしの夢を実現させてください」と、主が語られていると言われました。あのことを聞いて、私は本当に感動しました。イエス様の夢を実現する。それは何でしょうか。それは他でもない、「イエス様が再び地上に帰って来られ、世界の王となる事」、他にはありません。それがイエス様の夢であり、神の夢です。神の夢の実現のために、私たちは悪魔と戦わなければなりません。自分の夢の実現ではなく、神の夢の実現のために人生はあるのです!
 そのことを知らされたことも、本当に心から感謝します。主が帰られるその日まで、私たちは良き管理者として、働かなければなりません。
 この一年を締めくくるに当たり、もう一度私たちが、この地球の管理人として、主が遣わしてくださっていることを心に留めましょう。目の前に広がっているこの土地に、やがて神の施設ができるのです。そのために、私たちは準備しているのです。

 そのためには、まず霊的に暗闇を一掃しなければならないのです。みなさんが、今年一年、いろいろな場所でとりなしの祈りをしたのは、今まで悪魔に渡っていた土地を、管理人として主の手にお返しする働きでした。この働きを続けなければなりません。

 そのためには、「自己管理」が大切です。最後に自己管理に関して、二つ学んで、ご一緒に感謝し、祈りの時を持ちたいと思います。
 私たちはスポーツ選手と同じです。すぐれたスポーツ選手は、やはり、自分をしっかりと管理します。スポーツをやっていくためには、自分を管理しないとだめです。相撲取りなら一生懸命、稽古します。こんな写真がありました。

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 「こういう飛行機には乗りたくない」という感じです。本当に、この飛行機は飛べるのでしょうか。
 私たちも、神から遣わされた管理人として、しっかりと自分を管理し、外の管理に当たらなければならないです。
 その第一番目が、まずは「唇の管理」です。ヤコブ三章二節、

『私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。』
とあります。そして六節に、
『舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。』

 唇が管理されないといけないですね。神を賛美する唇で、悪い言葉を語ったり、人の悪口を言ったり、嘘をついたり、汚れた言葉を語ったり、否定的なことばかりを語っていると、管理人としての資格を失うのです。
 先日、教会に古くから来られている方の家を訪問させていただきました。そうしたら、ご夫婦でこう言われるのです。「順先生、不思議なことがあるんですよ。夫婦で人の悪口を言うと、口内炎ができるんです!」と言いました。そのご夫妻は、人の悪口を言うと、夫婦そろって口内炎ができるというのです。しかし悪口をやめると、口内炎が治るというのです。その方は、神様に愛されていますよね。口内炎が出来ると、「あぁ、悪かったな」と悔い改めるからです。口内炎ができたら、「ちょっと悪いこと言ったかな…」と、それはどうか分かりませんが、やっぱり唇を管理しなければなりません。
 今年、私はどのくらい、唇を管理できたかなと思うと、語りながらも、なかなか複雑なところもあります。やはり聖霊によってのみ、舌はコントロールされます。「聖霊がくだった時、分かれた炎の舌が現れた。」とありますが、やっぱり聖霊を受けることです。管理人は舌を、聖霊によって支配していただく、火の注ぎを受けなければならないです。

 管理された舌を持ち、会社に行って、家庭に行き、様々な地域に行き、舌を持って宣言するのです。「悪魔よ、よく聞け!この土地から出ていけ!ここは主がやがて神の国のために使われる土地だ!」と。「主がお入り用なのです」という言葉がありますが、神からの言葉を、宣言する者にならなかったらいけないのです。

 もう一つ管理しなければならない領域があります。それが、経済の領域です。
 今日、午後からは、リバイバルミッションニュースの発送作業がありますので、手伝っていただきたいと思いますが、私は一月に出るリバイバルミッションニュースの巻頭言を書いています。是非、読んでいただきたいと思いますが、こんなふうに書きました。来年の一月に出るので、「今年」と表現していますが、

<リバイバルミッションニュース1月号巻頭言>
 いつもリバイバルミッションのために支えてくださっていますことを、心から感謝します。甲子園ミッション以来、ここまで働きを継続できているのは、ひとえに、主のあわれみと、多くの教会、聖徒たちの尊い捧げ物によるものであることは言うまでもありません。心の底から感謝すると共に、今年も続けてサポートをよろしくお願い致します。
 二〇一五年は、太平洋戦争後、七十年の記念の年です。ユダがバビロンに捕囚され、七十年後に解放されたように、霊的解放年となるよう、一同力いっぱい、がんばって奉仕したいと願っています。
 今年は、国内外三箇所、沖縄、ナガランド、インパールで働きを計画しています。いずれも、戦後七十年を象徴する意味深い場所ばかりです。しかし、この三箇所のためだけでも、総額一千五百万円ほどの資金が必要です。その他の運営費も含めると、必要経費は膨大です。主のための働きと経済は切っても切れない関係です。もしも借りに、リバイバルミッションに今年、一億円の宣教資金があったら、働きは大きく広がることでしょう。しかし、私たちを含め、日本の宣教団体は、資金不足に苦しんでいます。本当に頭が痛いです。
 同時に、経済の世界は、悪しき支配下にあることを、クリスチャンならば誰でも気づいています。社会に起こる問題も、教会に起こる問題も、その根底には、必ずと言っていいほど、金銭問題が絡んでいます。経済的必要と、霊的領域を、どのようにすりあわせ、経済を正しく管理したら良いのでしょうか。
 聖書には、賢い管理人と、不正な管理人の二種類が登場します。それも、経済に関わるストーリーの中で、取り上げられています。賢い管理人とは、主が帰って来られるその日に、経済を正しく管理しながら、主のために働いている人たちのことです。
 イエス様はルカの福音書十六章九節〜十三節で、『そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。』と語られました。一見、意味不明の箇所ですが、これは、地上の富を賢明に扱えと語っておられる箇所です。その中で主は、不正の管理人を引き合いに出し、賢い管理人である弟子たちは、富ではなく、神に仕えることが根本で、そのためには、地上の富をも有効に利用し、福音のために用い、御国に入るものたちを多く作るべきと、世の富の必要性についても語られたわけです。それと共に、神と富、マモンに、同時に仕えることはできない!と、厳しく弟子たちを戒められました。
 経済の世界は、主が語られたように、今でも不正の富の世界です。最も身近でありながら、最も知られていないのが、金融システムの成り立ちです。現代社会の金融システムが形成された背後に、何があったのでしょうか。かつてのイングランド銀行総裁、ジョシュア・スタンプ卿は、金融のすべてを知り尽くした男でした。しかし彼は次のような言葉を残しています。「現代の銀行制度は、貨幣を無から作りだす。その手口は、これまで発明された詐欺の技術の中で、最もおどろくべき代物である。銀行は不正によって作られ、罪の内に生まれた。銀行家は地球を所有する。」スタンプ卿の言葉からも分かるように、経済の世界は、マモンという富を支配する、悪霊どもの手中にあることは明らかです。
 では、どうやって、私たちは、悪魔の手にある経済を霊的に勝ち取り、主のために管理することができるのでしょうか。それが献金です。なぜなら献金は、マモンが支配している領域に、神の領域を宣言する、ある意味、最も激しい霊的戦いだからです。不正の富から勝ち取った富の一部を、主の手に渡し、神の国に人々を招くために用いられる献金は、経済界を霊的に管理するために重要な管理です。そしてそれが賢い管理人の姿です。
 そして今年は、不正の富を多く勝ち取り、主の働きのため、力いっぱい捧げましょう!

 という、巻頭言を書かせていただきました。私たちは管理人として、主に仕えるために、自分自身を管理しなければなりません。自己管理しなければならない領域は、「唇と経済」ではないかと思われます。私たちは唇の実によって刈り取るものが多くあります。また、経済のただ中に身をおいていますが、今話したように、経済界はマモンという、最強の悪しき力の手中にあるわけです。「教会に来て献金かよ!」と言わないで下さい。不正の富を勝ち取って、その一部を神の手に渡たす、勝利の瞬間です。不正の富が勝ち取られて、主の為の活動が拡がり、神の国に入る人たちが増えるという、一見矛盾しているようだけど、これこそ、重要な管理です。

 今年もみなさんの捧げ物と犠牲によって、教会活動を続けることができました。心から感謝します。これは霊的戦いの中でも、最も激しいものの一部です。金銭の管理って、すごく大事です。誰かから、お金を借りて、全然、返す気がない人って、時々いますが、そういう人って完璧に、戦いに負けています。人から借りたら、絶対に返さなければいけないのです。
 父がクリスチャンになった時、十円借りっぱなしにしていた罪を示され、悔い改め、イエス様を信じたとよく語りますが、それは結構重要な事柄なのです。人の物と自分の物を区分けできないと、神の持ち物と自分を区分けして管理できないわけです。経済の領域の霊的戦いは、最大の戦いです。なぜなら、社会活動のすべてが経済活動に集約されているからです。
 教育、医療、軍事、科学、何もかも、よりよい経済活動のためです。神々も、「儲かりますように」という、経済界の手下です。
 そのただ中で、不正の富を勝ち取り、神の手に渡す作業は、大きな霊的戦いであり、管理人として働くために、重要なポイントです。
 今年そのことを教えられ、私はがんばって献金しました。今まで、献金していなかったわけではないけれど、今述べた事柄を意識して献金しました。「勝ち取ったものを、神の手に渡します!」という思いで献げました。私は、自分自身で驚いています。

 良い管理人となり、舌を聖霊によって制していただき、経済を勝ち取り、主の手にゆだねる良き管理人でありたいです。そうしたら必ず、未来は開かれます。主の夢を叶えるために働くのです。そして、気がついたら、自分の夢もかなっているはずです。
 そのような働きを、これからも続けていきたいと願っています。最後に一言お祈りし、聖餐式を持ちたいと思います。


 ハレルヤ。主よ、感謝します。一年の締めくくりの日に、心から主を礼拝できますことを感謝します。今、いろいろ語らせていただきましたが、主よ、ひとりひとりが良い管理人として、良き働きを進めることができますように。この土地を、主が帰って来られた時には、主の手にお返しすることができますように。今から聖餐式を行います。この聖餐式を祝福してください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。