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神に愛されている人よ。
安心せよ。強くあれ!

2015年1月11日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ダニエル書 10章18節〜19節

『すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」』

 ハレルヤ!おはようございます。今日も、みなさんと共に礼拝を守ることができますことを感謝します。
 今日は成人の日でしょうか。いつも適当な恰好をしている若者が、「どうしちゃったんだよ!おまえ!」というような格好をしていまして、今日は何の日だったかなと考えたら、成人の日でした。思い出せば、私にも成人の日がありました。もう何十年も前のことですが、新城市の体育館で式典があったのですが、みんな良い服を着ていたので、私はやっぱり入るのをやめました。紅白まんじゅうだけを受け取って帰ってきました。私にも、そんな成人式の思い出があります。成人式は、巷におきましては、罪を犯すスタートの日のように考えていますが、絶対にそうではありません。クリスチャンにとっては、自己責任を持って、主としっかりと結びついて歩んでいく決断の日にしなければならないと思います。
 今週は結婚式もありますし、二〇一五年、主が何か、新しいことをしてくださる気がしています。今年は多くの主にあるカップルが生まれ、教会の中に新しい扉が開かれることを心から願っています。

 今日、主題とあげさせていただきました聖書箇所は、ダニエル書十章十八節〜十九節です。十九節の御言葉は、すばらしいですね。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」という言葉です。神様が私たち一人一人に、二〇一五年に向け、「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」この言葉を語ってくださったら、すばらしいですよね。
 しかしダニエル書の言葉は、ダニエルという一人の人物に対して語られた言葉です。聖書のみ言葉を適応する前に、「神に愛されている人よ。」という言葉が、ダニエルのみなのか、全世界の人に適用できるのかを聖書全体から調べ、理解して、適用しなければなりません。

 聖書を見ますと、全世界の人たちは、神から愛されていると書かれています。この世界に住む七十億人くらいの人たち、すべてが神の愛の中にあるのです。
 有名な聖書の箇所、ヨハネの福音書三章十六節、みなさんもご存じだと思います。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

 人類は神から離れて、罪を犯して勝手な道に向かってしまいました。それは滅びの道です。しかし、神が人となられ、地上に来てくださり、人類の罪の身代わりとなって、十字架にかかって死に、よみがえってくださったのです。それは全人類のためであったのです。私も含めて、すべての人が神に愛されています。
 とりわけクリスチャンは、スペシャルです。ローマ人への手紙一章七節には、こんな言葉があります。これは、ローマに住んでいるクリスチャンたちに宛てた手紙ですが、

『ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。』

 パウロはこんな書き出しで、ローマに住んでいるクリスチャンたちに手紙を書きました。ここではイエス・キリストを信じる者は、特別に、神に愛されているということが分かります。はじめて教会に来られた方も、神様に愛されています。けれども、イエス・キリストを自分の神として信じるなら、さらに、その愛は深められ、個人的な交わりに入ることができるのです。
 ですから、「神に愛されている人よ。」という、ダニエルに語られた言葉は、私たちに語られている言葉として、信じ切っていいのです。ちょっとお隣の方に、「神に愛されている○○さんよ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」と、今朝も神様の代理として、この言葉を語ってあげてください。お隣に座っている人の名前が分からなかったら、ちょっと名前を聞いて下さい。では一分間くらい、お隣の方にこの言葉を宣言して差し上げてください。

 この言葉は、神様からのプレゼントとして与えられています。「恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」
 二〇一五年、どんな事が起こるか、予想がつきません。ちょっと心に不安がある人もいるかもしれません。しかし、「恐れるな。安心せよ。」と、主が語っておられるのです。雄々しく、強く、二〇一五年を歩んでいきたいと願っています。
 実はこの箇所は、先ほども語りましたように、ダニエルという人物が、神から語られた言葉です。ダニエルは、当時、年老いた神の預言者でした。

 先週、引用させていただいた聖書箇所は、エレミヤ書二十九章十節〜十三節でした。思い出していただけるでしょうか。もう一度、読んでみたいと思います。エレミヤ書二十九章十節〜十三節、

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』

 エレミヤという預言者が、かつて、この言葉を預言しました。「やがてこの国は、バビロニア帝国に捕囚され、人々は奴隷のような生活をする。しかし七十年経ったら、自分の国に戻してあげますよ。」という預言でした。そして神の預言は、必ず成就していくのです。

 聖書を読む時、年代とか、地理とかが分からないと、ちんぷんかんぷんですよね。しかしイスラエルに行きますと、地理とか歴史とかを知りますから、聖書が分かりやすくなります。中東の地図、ちょっと見にくいかもしれませんが、ご覧下さい。

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 バビロンとは、今のイラン、イラクのあたりです。その地方で七十年間奴隷生活を強いられました。
 実に、エレミヤの預言通りに、世界の歴史は動いて行ったのです。エルサレムの住民は七十年目に解放されたのです。それはバビロニア帝国からペルシャ帝国に支配が移った年でした。ペルシャのクロス王が、捕らわれていたユダヤ人たちを解放したのです。そのことについて、先週、お話しさせていただきました。七十年後に帰って来たのです。

 しかし、すんなりと帰って来たかというと、そうではなく、預言が実現するまでに、様々な見えない世界での戦いがあったのです。
 私たちも神の約束を手に入れるためには、約束はあっても、様々な戦いを経験します。その戦いとは、見える世界の戦いのように見えますが、実は、見えない世界での戦いです。それを聖書は教えています。
 特に、バビロンから帰るという預言の実現は、聖書の中で、たいへん大きな意味を持っています。この時にどんな事が起こったのかを知ると、神が私たちの中に持っておられる計画、原則、法則をキャッチできるのです。

 先週もお話ししましたが、今年は日本にとって、かなり節目の年です。なぜなら、太平洋戦争が終わって七十年であるからです。この頃、テレビを見ると、「今年は戦後七十年ですから。」と、よく語られています。一般の人たちも、戦後七十年を、ある意味、特別な年として意識しているみたいです。
 七十年という、一つの単位は、神が事をなされるための重要な期間です。日本が戦争に負けてから、様々なことがありましたが、七十年経ちました。二〇一五年が、ユダの人たちがバビロン捕虜となり、七十年目に解放され、神の働きがスタートしたように、日本でも、神の偉大な業が起きるチャンスなのです。
 ということは、この年、私たちクリスチャンは、神の原則をよく知り、その原則に沿って、歩むならば、神の計画を手に入れることができるはずです。そして、「そのために重要なのが祈りです!」と、先週、語らせていただきました。

 先週はいかがでしたでしょうか。祈り深い週でしたか。「あっという間に一週間過ぎてしまった…。どのくらい祈ったかな…。食事の前にちょっと祈ったかな…」なんて言う人もいるかもしれません。
 私は小さい頃から、祈ってから食べる習慣がついていますから、必ず、食事の前には祈ります。でも時々忘れます。
 私の友人のジョー先生がスタバでコーヒーを祈らずに飲んでいました。私は「祈ってないじゃん!」と言ったら、「順。五ドル以下の物は祈らんでもいい。」とか、冗談を言っていました。
 いずれにしても、日々、祈り深いということは大切です。
 祈りは目に見えない世界を勝ち取る、重要な原則です。今日も午後から、愛知県民の森で祈りの時間がもたれます。一年のはじまりを祈りでスタートしたら、必ず大きな勝利が現されます。心配や恐れがあったら、神の前に出て祈ってみてください。必ず、主は答えを与えてくださいます。

 ダニエルも不安で、しょうがなかったのです。この箇所は「クロス王の第三年」の出来事ですが、クロス王の元年に、ユダの人たちはバビロンから解放され、自分の国に帰って行きました。「預言が実現した!」とダニエルは喜んでいた事でしょう。
 しかし、それから三年が経ちました。聞く噂は、帰ったのはいいけれど、エルサレムは荒れ果てていて、大変な状況だという事でした。すぐに神の宮を建てようとしたけれど、地域に住んでいた住民や、北のほうに住んでいる人たちから妨害されたのです。北イスラエルは、アッシリアに滅ぼされましたが、残った人達もいたわけです。そういう人たちがやってきて、いろいろと妨害したので、再建工事は進まないという、知らせがダニエルの所に来ていたからでしょう。
 ダニエルは、一緒に、エルサレムには帰らなかったのです。彼は年寄りで、帰る力もなかったのでしょう。だからペルシャに残り、祈りでサポートしていたのです。この時、彼は三週間も断食し、神の前に出ていたことが分かります。しかし、三週間経っても、答えはなかったのです。しかしその日、神はダニエルに、答えを与えました。それが、今日の主題の御言葉よりも、ちょっと上にある、十章十二節〜十四節に記されています。ダニエル書十章十二節〜十四節、

『彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。ペルシャの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシャの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。」』

 こんな言葉が御使いから語られ、十八、十九節では、再びダニエルに触れて、力づけ、「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」と励まされたわけです。
 私たちも時々、一つのテーマの為に、真剣に祈るのですが、「祈りがきかれないな、どうしちゃったんだろう。神は、私たちの祈りをきいていないのでは…。世界中の人があまりにも強烈に祈るから、神様も混乱しているのではないか…」などと、思う時があるかもしれません、しかし、決してそんなことはないのです。
 祈りとは、ここに述べられているように、『ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。』とあります。私たちが「この事を神の前で祈ろう!」と心を決めた日にすでに、祈りは神の前に届いているのです。
 まだ祈りの答えを受け取っていないかもしれませんが、すでに主は、祈りの課題を受け取ってくださっているのです。
 お隣の方に、「あなたの祈りはすでにきかれています!」と宣言してあげてください。「アーメン!」嬉しいですね。神の前に、みなさんの祈りは届いています。日本のためにも、真剣に私たちは祈ってきていますが、すでに神はそのことを知っておられます。

 しかしここでは、祈りの答えがこない原因についても、教えています。ダニエルはペルシャに住んでいたのですが、十三節を見てください。『ペルシャの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシャの王たちのところに残しておき、』とあります。
 「ペルシャの国の君」というのは、ペルシャを支配していた、悪霊の軍団のボスです。それが祈りの答えが届かないように、答えがダニエルの所に来ないように、立ちはだかっていたというのです。ダニエルは二十一日間、三週間、断食して祈っていました。その期間、目に見えない世界では、ペルシャの国の君が、ダニエルの祈りの答えがダニエルに届かないように、立ちはだかっていたのです。
 しかしその時、ミカエルという天使がやってきて、ペルシャの国の君を打ち破ったのです。その結果、「今、あなたの所に祈りの答えを届けます。」という場面なわけです。
 ミカエルは、天の軍勢のボスです。このペルシャの国の悪霊どものボスと、ミカエルが戦って、ミカエルが勝ったから、祈りの答えが下りて来たのです。その間、ダニエルも断食し、天の戦いに参加していたのです。
 祈りとは、「神様お願いします!」と、神の前に陳情団を送るようなイメージで考えている人が多いのです。もちろん神に「お願い」という領域もありますが、同時に、祈りは霊的戦いです。ダニエルの祈りが実現するまでに、三週間かかったのです。
 祈りは、霊的戦いそのものだと意識しなければいけません。「なかなか答えが来ない…」という領域があったら、霊的戦いを意識したほうがいいと思います。特に、日本のリバイバルや、魂の救いという、確実に神の御心の祈りが実現しないのは、霊的戦いです。日本の人たちが救われるように、家族が救われるように祈っても、なかなか実現しないのは霊的戦いです。

 「七十年経ったら、あなたに将来と希望を与えます。」と、エレミヤを通して、預言が語られていたのですが、それが実現し、続いて、ユダが回復するまでには、ペルシャに残っているダニエルにおいても、同時に、エルサレムに帰還した人たちの中にも、様々な霊的戦いがあったのです。
 しかし、両者が心を一つにし、見えない世界で勝利を勝ち取った時、本当の意味で、「七十年目に、将来と希望を与えます」という御言葉が実現したのです。私たちもこの原則を、知らなければなりません。

 バビロンから帰って行った人たちには、多くの妨害がありました。すんなりと国を再興することができませんでした。エルサレム周辺の原住民や、北イスラエルの領域に住む人たちがやって来て、「街を建てるのを止めろ!神殿を建てるのを止めろ!」と工事は十数年に渡り、ストップさせられたのです。エズラ記に、その記録があります。
 旧約聖書の歴史は、いろいろな箇所に情報が散らばっているので、分かりにくいです。しかしバビロンから帰還して宮が建て直されるという軸を意識して読むと、分かりやすいと思います。エズラ記五章一節〜五節。

『さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。そのとき、川向こうの総督タテナイと、シェタル・ボズナイと、その同僚とがやって来て、こう言った。「だれがあなたがたに命令を下して、この宮を建て、この城壁を修復させようとしたのか。」そしてまた、「この建物を建てている者たちの名は何というのか。」と尋ねた。しかし、ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので、このことがダリヨスに報告され、ついで、このことについての書状が来るまで、この者たちは彼らの働きをやめさせることができなかった。』

 この前後を読むと、神の約束により、エルサレムには帰ったけれど、まだまだ戦いが継続していたことが分かります。再建工事は始まったけれど、中止させられ、その過程で、ペルシャに残っていたダニエルも、心配で、神の前に断食して祈っていた時期もありました。ペルシャで勝利があっても、エルサレムの仕事はなかなか進みませんでした。

 話は違うのですが、先週は嬉しいことがありました。プレイズ出版が始めた新事業の「雲の柱」と「餃子ノブズ」の建物の骨組みが建て上がったのです。嬉しいです。教会からお帰りになる時、途中に、セブンイレブンがありますが、その前です。工事中ですが、「雲の柱」と「餃子ノブズ」の建物です。嬉しいですね。工事がうまくいっているのは、本当に嬉しいことです。
 もしもどうでしょうか。建物を建て始めたら、地域の住民たちが来て、「おい!建てるのを止めろ!」なんて言って信弘先生の仕事を妨害したら、相当、彼は落ち込みますよね。それも、十数年間、放っておかれたら、雲の柱も、餃子もどこかに消えてしまうでしょう。多分、あきらめてしまうでしょう。

 しかし絶え間ない祈りの中、エルサレムにおいては、預言者たちの励ましにより、長く滞っていた工事が、再開されたのです。それを今、エズラ記から読みました。「ダリヨスの治世の第二年」とありますから、クロス王から数えれば、多分、三代目の王の時代に、神の宮の再建が実現したのです。結構、時間がかかったのです。

 エズラ記五章一節〜五節は、「ダリヨスの治世の第二年」まで、工事が中止させられていたのですが、もう一度、勇気をふりしぼり、工事を始めた記録です。しかしまた、同じことが起こったのです。同じ敵がやって来て、「おまえたち!何をしているのだ。工事やめてしまえ!」と、第一回目の工事同様、妨害されたのです。
 しかし、ダリヨスの治世の第二年に、再開された工事は、うまくいったのです。いろいろと妨害はあったけれど、妨害をはねのけ、神の宮と城壁が建て直されたという記録です。
 最初は駄目だったけど、二回目は良かったのです。同じ敵が妨害したのです。一回目は中止させられたのです。しかし二回目はうまくいったのです。なぜでしょう。二回目は運が良かったのでしょうか。「たまにはそういう事がありますからね」と考えてはいけません。そこには理由があるのです。

 聖書って、結構、複雑な構造をしていまして、エズラ記に書かれている歴史を、霊的に解析し、記録しているのは、ゼカリヤ書です。エズラ記五章一節〜五節の霊的世界での解説は、ゼカリヤ書三章一節〜五節にあります。
 復習ですが、エズラ記五章一節に、『預言者ハガイとイドの子ゼカリヤ』、そして、『エホツァダクの子ヨシュア』が出てきますよね。ちょっと覚えておいていただきたいと思います。それで、ゼカリヤ書三章一節〜五節まで読んでみますと、こう記されています。

『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。』

 ゼカリヤにしても、ヨシュアにしても、エルサレムの工事現場にいたのです。工事現場で、労働者たちを励まし、主の言葉を語り、「さぁ、主の宮を造ろう!」と現場を指揮していたのです。そうしたら敵が来て、「おい!工事を止めてしまえ!」と、妨害したのです。
 しかしその同時刻、目に見えない世界では、事が起こっていたのです。それを記録しているのがゼカリヤ書です。ゼカリヤは霊的な目が開かれたのです。どんな事が起こっていたかというと、『主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。』というのです。これを図示すると、こんな感じになると、あるホームページに載っていました。

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 主の前に大祭司ヨシュアが被告として立っていて、弁護側として、主の使いがいて、告発側として、サタンがいたというのです。大祭司ヨシュアは見えない世界で訴えられていたのです。
 その同時刻、何が起こっていたかというと、地上では敵が来て、「おい、その工事、やめてしまえ!誰の許可をもらってやっているんだ!」と、地上では「実際の妨害」となっていたのです。この事は、以前にもお話しさせていただいたので、記憶にあると思います。

 私たちは、現実の世界で、いろいろと妨害があります。「あの人は嫌な人だな…。」と見える世界のことだけ考えます。しかし、信仰生活という枠組みの中で起こる戦いは、必ず、この構図があるわけです。
 私たちクリスチャンは大祭司ヨシュアのような者です。神の前に立つ者です。しかし私たちには、私たちを弁護してくださる方がいるのです。旧約聖書では主の御使いだけですが、新約聖書になると、弁護人が増えるのです。イエス様も、聖霊様も、私たちを弁護してくださるのです。
 しかし告発者サタンは依然として訴えます。「やめてしまえ!」と言って、神の御心がとどめられるように告発するのです。

 しかし、ゼカリヤ書を見ると、第一回目は、訴えが通ってしまったのですが、二回目はうまくいったのです。それは、天における戦いが勝利した結果です。どうして二回目は勝利できたのでしょうか。
 サタンは何を訴えていたかというと、「大祭司ヨシュアの衣が汚い!」と言って訴えていたのです。衣が汚いとは、罪を現します。悪魔は私たち自身、クリスチャンを訴えることはできないけれど、もしも罪を犯すと、罪を訴えるわけです。教会に来ますと、罪について分かって、罪の悔い改めをします。それは大切なことです。
 私たちは、衣の汚れを、サタンから告発されるのです。しかし私たちが常に、十字架の血潮によって、衣の汚れをきれいにしたら、訴えることはできないのです。
 「教会に来たら、罪、罪、言うから、うるさいな。」と、私も昔は思っていました。天国に行けたら、まず最初にモーセに会わなくちゃと。彼が十戒を神様から受け取りました。「あんたがもう少しがんばって、十の戒めを五つくらいに絞ってくれたら、楽だったよ」と文句を言ってやろうと思いました。しかしそうではないのです。衣の汚れがあると、サタンに訴えられるわけです。
 だから私たちは、日々、神の前に出て、汚れを聖めていただくのです。イエス様がすでに十字架にかかり、身代わりとなってくださったことを心から感謝し、イエス様の十字架によって罪赦されていることを意識すると共に、私たちが、聖い歩みをする必要があるのです。それは重要なことです。
 今年、悪魔に告発されないためには、聖い歩みが重要です。

 大祭司ヨシュアが訴えられたのは、ユダ王国が歴史の中で犯してきた罪でした。大祭司は、民を代表する者ですから、訴えられたのは共同体の罪でした。「おまえたちは、今まで罪を犯してきたじゃないか。偶像礼拝をやってきたじゃないか。だから七十年間も苦しめられたんだ!帰ったかもしれないけど、神の宮なんか建てることは出来ない!」と、告発していたわけです。
 しかしその時に、彼を弁護する天の軍勢がいたのです。今、私たちの周りにも天使たちがいて、イエス様も、聖霊様も、父なる神の前でとりなして下さっています。

 ゼカリヤ書を見ると、「彼の汚れた服を脱がせよ!」「礼服を着せよ!」と言いました。
 そして、主がサタンに、「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」と言っています。
 「火から取り出した燃えさし」とは、何を意味しているのでしょうか。ユダは、七十年間、バビロンに捕らえられ、苦しめられました。燃えさしとは、「神のこらしめの期間の終了」を意味します。七十年経ったから、すべて燃えさしになっている、悪いものはすべて燃えてなくなった、罪が赦されたという宣言でした。
 これは旧約時代の話です。こういう事があったのでしょう。罪の赦しの為には、神の定めた一定期間の苦しみが必要であったと思われます。しかし七十年経ったのです。「だから、彼らを訴えることはできない!七十年経ったから!」という事なわけです。それが、二回目に工事がうまくいった、霊的理由であると思われます。
 この言葉が日本にも適用されてほしいですね。七十年前の戦争。戦争に負けたのは、日本にとっては、霊的裁きのようでした。だから日本の教会がいくらがんばっても、リバイバルは起きないし、世界で一番、クリスチャンが少ない国になってしまいました。国はどんどん悪くなり、「もう駄目だね…。」と、教会にもちょっと、あきらめムードもあります。
 しかし七十年を経たこの年に、「日本は火から取り出した燃えさしではないか。汚れた服をぬがせ、礼服に替えてあげなさい!」と、主から語っていただきたいと思います。そのためには、目に見えない世界での「霊的戦い」が必要だと、ここで教えられます。

 ここでゼカリヤも援護しています。三章五節に、「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」と言っています。ターバンというと、オリエンタル・カレーを思い出しますが、当時、大祭司は、ターバンをかぶっていたらしいです。
 ここで使われているターバンはちょっと調べたところ、聖書中、四回しか出てこない言葉らしいです。このターバンと同じ言葉と関連があるのが、イザヤ書六十二章三節です。

『あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。』

 「かぶり物」というのが、「ターバン」と同じ言葉です。主は私たちを、王のかぶり物、最も大切な働きのために召してくださるのです。
 日本教会も七十年間苦しんできたような所があるけれど、とりなしの祈りにより、聖い衣に変えられ、ターバンをいただき、神の手にある最も重要な存在として用いられる国になれるはずです。

 ダニエルが主から語られた時には、三週間も戦いがあったのは、どうしてかというと、ただ単にユダの回復だけでなく、「終わりの日に起こること」を告げるためだったのです。それは、「イエス様が再び帰って来られて、世界の王となる」という、究極的な預言まで含んでいたからです。霊的戦いは究極的預言の実現、すなわち、主の再臨とつながっているのです。
 私たちがゴールとしなければならないのは、決して、日本のリバイバルだけではないのです。主が地上に、再び帰って来られ、世界の王となるという事を、ゴールとして歩んでいかなければならないのです。

 たとえ二〇一五年、日本が神によってあがなわれ、聖められ、この国に大きなリバイバルが起こったとしても、それで満足してはいけないのです。主が帰られる道を用意するために、私たちは存在しているわけです。
 主は一つの問題の解決だけでなく、それ以上に、それを越えたところに計画を持っておられるのです。私たちはゴールに向け、働いていかなければいけないことを教えられます。

 先週も語らせていただきましたように、「七十年が満ちた頃」という言葉は、直接的には、ユダ、エルサレムというイスラエルに関して語られた言葉です。イスラエルの動向を通して、今後、世界は変わっていくのです。ユダヤ人は、本当に不思議な民族です。イスラエルが、これから主の手により、王のかぶり物のような国に変えられるように、祈らなくてはなりません。
 私はイエス様が帰られる準備の為に、とりなしの祈りが、国内だけではなく、世界規模でなされないといけないと考えています。特に、イスラエルのために、とりなして祈らなくてはいけないと思っています。
 しかしイスラエルのテーマは重要だから、悪魔はいくつも偽りを置いて、真実が見えなくなっています。どこに祈りをおいたらいいのか、なかなか微妙です。

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 エルサレムに行ったことがありますか。光っている所は西の壁と呼ばれる所で、かつての神殿の壁です。今でもユダヤ人たちは、イエスを救い主として信じていません。彼らは「救い主が来てくれるように」とここで、祈っているのです。そして「もう一度、神殿が建て直されますように。」と祈っているわけです。
 しかし彼らは、イエスの名前で祈っているわけではありません。ゆえに、クリスチャンが祈らなければなりません。異邦人と呼ばれている我々が、真剣に祈らなくてはいけません。
 すでに世界中のクリスチャンが、エルサレムに行き、主のお帰りを祈り、イスラエルの祝福を祈っているのですが、なかなか動ききせん。
 私はいろいろと調査する中で、一つのポイントを見つけました。かつて、北イスラエルがあった場所です。

 実は、ヨハネの福音書の四章に、イエス様がサマリヤの町に行き、一人の女と出会ったことが書かれています。ヨハネの福音書四章七節〜九節、

『ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである──』

 先ほど、バビロンからエルサレムに帰って来て、工事を始めた時に「おい!やめろ!」と妨害したのは、主に、サマリヤ人たちでした。当時から、すでに関係が悪かったのです。元々、彼らは十二部族の十部族でした。同じルーツの人たちから、妨害されたのです。イエス様の時代は、付き合っていなかったのです。今も付き合っていません。
 今も、サマリヤ人たちが住んでいる地域があります。そこが、パレスチナ自治区と呼ばれている場所です。

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 地図を見るとエルサレムから北上すると、ヨルダン川の西岸、パレスチナ自治区があります。その地域はイスラムの地域です。自治区の中心、ナブルスという場所があるのですが、そこに行くと、こんな所があります。

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二つの山があるのです。
 実は、先ほどのヨハネの福音書四章二十節〜二十一節を見ると、女が、こんな事をイエスさまに語っています。

『私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。そして、今がその時です。』

 この写真、右側がゲルジム山と言います。サマリヤの女が指さした山です。ユダヤ人たちは「エルサレムで礼拝するんだ。」と主張していました。
 しかしサマリヤ人たちは、「こっちの山だ!」と言いました。しかし、イエス様は言われました。「どっちでもないよ。霊とまことによって礼拝する時が来た。」と。
 エルサレムと、ゲルジム山に行って、「霊とまことによって礼拝する時がすでに来ている!」と山の上にのぼって、宣言したいです。そこには、サマリヤ教団といって、今もユダヤ教の儀式を行っている人たちがいます。今でも、旧約聖書と同じように、動物を殺して犠牲に祭儀をしています。ちょっと不思議な人たちです。彼らにも福音を伝えたいです。
 もう一つ、イエス様を十字架につけたのは、ローマ帝国です。ローマ帝国は、歴史の中、たいへん重要な意味を持っています。消えてしまったかと思いきや、霊的には、ローマ帝国は今も存在し、世界を支配しています。
 ところで、みなさん、世界で一番小さな国って、どこか知っていますか?ご存じでしょうか。これは実は、イタリアにあります。

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 「バチカン市国」という所です。四国とは関係ないです。バチカン市国。この国の面積は、〇・四四平方キロメートル。日本の面積の八十六万分の一です。ディズニーランドより小さいです。

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 人口は八百人です。世界最小国が、バチカン市国です。
 では、世界最大の国はどこか知っていますか?世界最大の国。面積的にはロシアですが、霊的に世界最大の国は、実は、バチカン市国です。
 アメリカの大統領や、世界中の首脳が、ローマ法王に会いたいのです。不思議に思いませんか。こんな小さな国の法王になぜ会うのか。彼が宗教家だからではないのです。実は、バチカンは、面積は小さいけれど、世界最大の国です。人口は八百人ではなく、実に、十二億人なのです。それはカトリック教徒の数です。カトリック教会とは、ただの教会ではないのです。それは、国なのです。バチカンを頂点とする、国です。カトリック教徒は、バチカン市国の国民なのです。
 なぜ、世界の首脳が彼に会いたいのか。そこには理由があるのです。世界で一番情報を持っている国、どこだか知っていますか?やはりアメリカです。CIAなんか、すごい情報を持っています。スパイがいっぱいいて、世界中で情報を収集しています。イスラエルの「モサド」も有名で、多くの情報を持っています。しかしそれ以上に情報を持っている国があります。それが、バチカンです。
 なぜなら、バチカンは、世界中にカトリック教会があり、教徒がいるからです。
 ほとんどの国にバチカン市国大使館があり、カトリック教会は世界中にあります。

 例えばCIAがどこかの地域の情報を取るためには、スパイを遣わし、誰かを買収し、情報を得ます。でも、バチカンは違うのです。その国のカトリック教会に電話をするだけでいいと言うのです。そうしたら、その教会に来ているおばちゃんたちが、現場に行って生の情報を取ってくるのです。世界一、確かな情報を持っている国、それがバチカンです。
 私はそれを聞いてびっくりしました。それで、世界の首脳たちが彼にすり寄っている理由が分かりました。バチカンほど、小さいけど、大きい国はないのです。確かな情報を持っている国も、他にないのです。
 ということは、やはり、その国の為に祈らなければいけないのではないですか。バチカン市国は、ローマ帝国の流れを引き継いでいるのです。イエス様が帰って来るのは、鉄と粘土が混ざった足首の時代です。そこに人手によらず切り出された石が転がって来るのです。鉄、それはローマ帝国です。今やローマ帝国は世界中に散らばっていて、影響を与えているのです。
 経済の世界もそうです。バチカン銀行は世界一、闇の金を握っている銀行です。
 イスラエルとバチカンのとりなしは、結構大きなテーマだと思います。末の時代、主から知恵をいただいて、主が帰って来られるために何をしたらいいのか。特に戦後七十年という時に、主の前に出て、目に見えない世界で戦いをし、悪魔の訴えを取り下げ、主の御心が現され、神の国が広がっていくように、祈り続けていかなければいけないのです。

 今から、聖餐式を持ちたいと思いますが、聖餐式は、衣を洗うときでもあります。イエス様が私たちの罪のみがわりとなって、十字架にかかって死んで、よみがえってくださった。「主よ、私の衣を洗ってください。感謝します!罪も赦してください!聖いターバンをかぶらせてください!」と、主の前に祈り、主の前に出る時に、勝利者となることができます。今から聖餐式の時が祝福されますように、一言お祈りさせていただきます。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。このような歴史的時代に、生かされていることを感謝をいたします。あなたが十字架で裂いてくださった肉体、流してくださった血潮、心から感謝します。
 今日、私たちは大祭司ヨシュアのように、主の前に出ています。イエス様の十字架の血潮のゆえに、私たちは罪赦され、主の前に出ることができる恵みを心から感謝します。今週、私たちは、白い衣を着て、歩むことができますように。
 今、十字架の血潮によって、もう一度、私たちの衣を聖めてください。今、何らかの訴えがあったら、罪赦されて、訴えが取り下げられますように。今からの聖餐式を祝福して、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。