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天と地の礼拝

2015年1月18日(日)
リバイバル聖書神学校 山崎ランサム和彦師
ヨハネの黙示録5章11~14節

『また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日こうして、みなさんと共に、神様を礼拝することができる特権と幸いを心から感謝しています。いつも私のために、またリバイバル聖書神学校のために、尊いお祈りとご支援をいただき、心から感謝をいたします。

 聖書の中にはいろいろと素晴らしい箇所がありますが、個人的にヨハネの黙示録四‐五章(天の御座の場面)は全聖書の中で最も美しい箇所の一つだと思っています。黙示録の記者ヨハネは御霊の感動を受けて、天の幻を見せられます。彼は天に引き上げられ、そこに何があるか、何が起こっているかを見るのです。
 四章のはじめの方を見ますと、ヨハネがまず目にしたのは、一つの御座と、そこに着いておられる方、すなわち神様ご自身でした(四章二節)。神の御座は王座であり、神様が御座に着座された方として描かれているのは、神様の王としての権威と力を表しています。
ヨハネは紀元一世紀の終わり頃に黙示録を書きましたが、当時彼が生きていたローマ帝国では、世界の中心はローマであり、そこにある王座に着いている皇帝が世界を支配する存在であると考えられていました。けれどもヨハネは、神様が全宇宙を支配されるお方であり、その御座が宇宙の中心だといいます。これは黙示録のみならず、聖書全巻を貫く基本的な世界観です。地上のエルサレムにある神殿は、天にある神殿のコピーに過ぎないのです。黙示録が書かれた時代には地上の神殿は存在しませんでした。紀元七〇年にローマ軍によって破壊されてしまっていたからです。けれども、天の神殿は無傷のまま存在しており、そこでは神様が全宇宙を統べ治めておられるのです。

 それからヨハネは、御座の周りに何があるかを描いていきます。細かい描写を省略して述べますと、御座のすぐ周りには四つの生き物がおり、その周りに二四人の長老たちがいました。これらは神様に仕える高い位の天使たちを表していると思われます。これらの存在が何者なのか、また、それぞれの特徴ある姿は何を表しているのか、いろいろな解釈がありますが、それよりも重要なのは、彼らが何をしているか、ということです。
四章八~一一節には、この四つの生き物と二四人の長老は昼も夜も絶え間なく神を賛美し礼拝している、と書かれています。天の御座の周りでは、天使たちが一日二四時間、一日も休まず神様を礼拝し賛美しているのです。イザヤ書の六章にも同様の箇所があり、そこではセラフィムと呼ばれる天使が御座の周りを飛び交いながら主を賛美していたとあります。イザヤの時代も、ヨハネの時代も、そして今この瞬間も、天では絶え間ない礼拝が捧げられているのです。
 黙示録というと、遠い未来のことを書いた本というイメージがありますが、黙示録の記述のすべてが未来について書かれているわけではありません。この四~五章は今現在天において起こっている出来事を描いている、ということを覚えていただきたいと思います。

 さて、天使たちは何と言って神様を賛美しているのでしょうか?四章八節では四つの生き物が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」と言い、十一節では二四人の長老が「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」と言っています。これらのことばから総合すると、神様は聖なるお方、永遠に生きておられる方、万物を創造し、今も支配しておられるお方であり、このお方が栄光と誉れと力を受けるにふさわしいお方であると言うことです。四章では全体として、創造者としての神様が賛美されています。聖書の神様は天地万物を造り、今もそれを支えておられる神様です。この方に向かって長老たちは「主よ。我らの神よ。」と叫ぶのです。このような素晴らしい神を「私たちの神さま」と呼ぶことができるのは、何という特権でしょうか。私たちの賛美と礼拝も、この天における礼拝にならうものになりたいと思います。

 しかし、不思議なことに、この光景を見たヨハネはあまり嬉しそうではありません。五章四節で彼は泣いています。なぜでしょうか?彼は天に昇って、そこで世界の王である神の栄光を見、このお方に対して天使たちが絶え間なく賛美と礼拝をささげている姿を見ました。それは確かに素晴らしい光景でした。しかし、彼が知っている地上の現実はそのような栄光溢れる世界とはかけ離れていたのです。
 ヨハネが主から啓示を受けた時、彼がどのような境遇にあったかは、一章九節に書かれています。「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」当時ローマ帝国の中でクリスチャンは急速に増えていきましたが、同時に迫害も起こっていました。ヨハネもそのような中で、イエス・キリストについてのあかしのゆえに、エーゲ海に浮かぶパトモスという島に流刑になっていたのです。
 ヨハネも仲間のクリスチャンとともにイエス・キリストを主と信じて従っていたのですが、万物の支配者である王なる神様を信じていても、現実は何も変わらない、いや時代が進むとともにもっと悪くなっているように見えたのです。どうしてそのようなことがあり得るのでしょうか?なぜまことの神様を信じるクリスチャンたちがこれほどまでに苦しまなければならないのでしょうか?そのような中で彼は天に引き上げられ、神の御座の幻を見たのです。

 どんなに厚い雲が地上を覆い、雨や雪が降っていても、飛行機でその上まで昇ると、いつも太陽が輝いています。それと同じように、地上の状況はどのように悲惨であっても、天では神様の栄光が常に讃えられています。これはある意味では慰めですが、その慰めは完全なものではありません。確かに天においては神様の栄光ある支配はつねに完全に表されていますが、地上では未だそうなっていないからです。つまり神の国の支配は、今現在は完全に地上にまでは及んでいないのです。このような天と地が分断された状態はいつまで続くのでしょうか?
 その答えは五章に記されています。そこでは天の幻に新しい展開が起こります。ヨハネは王座に着いておられる神様の右手に一本の巻き物があるのを見ます。この巻き物には、世界の歴史に対する神のご計画が述べられています。その内容は一言で言うと、神様がすべての悪の力に勝利し、天においても地においてもご自分の支配を完全に確立されるということです。しかし、そのご計画はまだ成就されていません。巻き物が封印されているということは、神様の御心が地になされることがとどめられている状態を表しています。だからヨハネは四節で激しく泣いているのです。
 しかし、その時ヨハネに天使が語りかけます。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」(五節)その言葉の通りに、ほふられた小羊キリストが登場し、神様の手から、封印された巻き物を手渡されます。小羊が巻き物の封印を解くということは、キリストが歴史に対する神様のご計画を成就させることを表しています。ここでヨハネは、独自の表現でキリスト教の「福音(良い知らせ)」の本質を語っています。「ほふられたと見える小羊」(六節)と言う表現は明らかに十字架上のキリストの死と、それに続く復活を表しています。それは私たち一人ひとりの罪のゆるしのためばかりでなく(一章五節)、世界の歴史が新しい時代を迎えるためでもあったのです。
 その結果何が起こったでしょうか?先ほどの四つの生き物と二四人の長老たちが今度は小羊の前でひれ伏して礼拝して言います。「彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」(五章九~一〇節)。神の国の支配が天だけでなく地にも及ぶ、というのはどのようにしてなされるのでしょうか?それは小羊キリストの血によって贖われた人々、すなわちクリスチャンが「王国となり祭司となって地上を治める」ことを通してなのです(一章六節参照)。

 このように見てくると、聖書にある私たちの希望は、ただ単に神様の栄光が天であがめられていて、地上の苦しい人生が終わればそのような素晴らしい場所、天国に行けるということではないと分かります。そうではなく、天における神のご支配がやがてこの地の上にも及ぶ時が来る、そして、その時私たち教会もその働きに参加させていただくことができる、ということなのです。
 五章の終わりでは、小羊への賛美が天と地に拡がり、満ちあふれる様が描かれています。

 『また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。 「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。 「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。』(五章十一~一四節)

 今や小羊を賛美し礼拝しているのは四つの生き物と二四人の長老たちだけではなく、数え切れないほどの御使い、また宇宙に住むすべての被造物が会衆に含まれます。すべての被造物が創造者なる神様と主なるキリストをほめたたえるというのは、旧約以来聖書が語ってきたビジョンでしたが(詩篇一五〇篇六節、ピリピ二章一〇~一一節)、今そのことが成就しているのをヨハネは見ます。ヨハネが見た幻のクライマックスは、天地に満ちるすべての被造物が父なる神様とイエス・キリストを声を合わせて賛美し礼拝する、という壮大な光景なのです。

 さて、これまで見てきたことは、私たちの信仰生活とどう関係しているのでしょうか?この地上の人生においては、私たちは多くの苦難があり、信仰の激しい戦いを経験しています。しかしその最中で、主を信じる者たちがともに集まって、造り主である神様と救い主イエス・キリストを賛美し礼拝する時、私たちは天における天使たちの礼拝、天地のあらゆる被造物たちの礼拝に参加しているのです。繰り返しますが、ヨハネが見た天の御座の周りでの礼拝の光景は、遠い未来に起こるできごとではありません。今この瞬間にも天の御座には父なる神様が着座しておられ、その右にはイエス様がおられます。そして天使たちがその周りで主を礼拝しているのです。その様子を心の中で想像してみてください。ヨハネの黙示録一章一〇節では、ヨハネが復活の主からの啓示を受けたのは「主の日」すなわち日曜日、主を礼拝する日であったとあります。彼がパトモス島で流刑仲間のクリスチャンと一緒に細々と礼拝を守っていた時、彼らは孤独ではなく、全宇宙の被造物とともに主を礼拝しているということが分かったのです。現代の私たちも同じように、天の礼拝に参加する特権が与えられているのです。
 しかし、先ほども見ましたように、今現在、天と地は完全につながっているわけではありません。まるで厚い雲が上空を覆っているかのように、天においてどれほど神様の栄光が表され、天使たちが美しい礼拝を捧げていたとしても、地上では依然として暗闇と悪の力が猛威をふるっているように見えます。そのような世界の中で、私たちはどのようにして天の礼拝に参加することができるのでしょうか?
 ここでヨハネの福音書の四章を開いてみましょう。サマリヤの地を訪れたイエス様は、井戸端で出会った一人のサマリヤ人の女性と会話を始めます。その中で女性はイエス様に一つの質問を投げかけます。

『女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」』(ヨハネの福音書四章一九~ 二〇節)。

サマリヤ人はイスラエルの北王国がアッシリヤに滅ぼされた後、その地に残った住民と外から移住してきた異民族との混血によって生まれてきた民族だと考えられています。彼らはモーセ五書、しかも彼ら独自の編集がなされたものしか聖書として認めず、ゲリジム山に彼ら独自の神殿を建てて礼拝を行っていました。その神殿はこのエピソードの一〇〇年以上前に、ヨハネ・ヒルカノスというユダヤ人の支配者によって破壊されていましたが、サマリヤ人たちは依然としてゲリジム山を正統的な礼拝の場所として主張していたのです。
そこで、サマリヤの女性はイエス様に、ゲリジム山とエルサレムと、どちらの場所で神様を礼拝することが正しいのか、と問いかけるのです。これに対してイエス様は、次のように答えます。

『イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」』(二一‐二四節)

 「礼拝場所としてふさわしいのはゲリジム山ですか、エルサレムですか?」という女性の問いかけに対して、イエス様はどちらともお答えになりません。そうではなく、「霊とまことによって父を礼拝する」ことが重要だと言われます。そのように礼拝を行う人々が「真の礼拝者」だというのです。

 ところで、「霊とまことによって礼拝する」とはどういう意味でしょうか?これはただ単に「心の中で真心を持って礼拝する」という意味ではありません。原文のギリシア語にあるプネウマという言葉は「霊」とも「御霊」すなわち聖霊とも理解することができ、さらに、文法的にはここでの「霊」と「真理」は同じ存在を指していると考えることができますので、この箇所は「真理である聖霊において礼拝する」とも訳すことができます。ヨハネの福音書一六章一三節で、イエス様は真理の御霊を送られると語られました。また、黙示録四章二節でも、ヨハネは「御霊に感じ」て天に引き上げられ、そこで行われている礼拝に参加したのでした。
 ここでサマリヤの女性が尋ねているのは、別の表現を使えば、「神様を礼拝すべき真の神殿はどこですか?」ということです。聖書の中で、神殿とは神と人が出会う場所、天と地が重なる場所です。ゲリジム山の神殿はユダヤ人によって破壊され、エルサレムの神殿もこの福音書のできごとから数十年後にローマ人によって破壊されることになります。では人々が神様に出会うことのできるまことの神殿とはどこにあるのでしょうか?ヨハネの答えは「イエス・キリストご自身が真の神殿である」ということなのです。
 ヨハネの福音書では様々な形で、イエス様がエルサレムの神殿に代わる存在として描かれています。二章では神殿でものを売り買いする人々を追い出された後、ユダヤ人たちに対して主は「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」(一九節)と言われました。作者のヨハネは、これはイエス様の復活のことをさして言われたのだと解説しています(二一節)。つまり、ヨハネの福音書においては、真の神殿とはイエス・キリストご自身を指しているのです。実際、黙示録では、世の終わりに天から下ってくる新しいエルサレムについて、こう書かれています。「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。」(黙示録二一章二二節)

ここまでをまとめますと、霊とまことによって礼拝する真の礼拝者とは、イエス・キリストという神殿において父なる神様を礼拝する人々です。そして、キリストという神殿において礼拝するとは、真理の御霊に導かれて礼拝するということなのです。ちなみに、パウロも同じことを少し違う表現で書いています。彼は教会のことを神殿にたとえていますが(Ⅰコリント三章一六節)、教会とは聖霊によってキリストのからだに組み入れられた人々の共同体にほかならないのです(Ⅰコリント一二章一三節)。
さらに、イエス様はこの女性に対して、人々が霊とまことをもって父を礼拝する真の礼拝が行われる時がくる、いや今がその時だと言われました(ヨハネ四章二三節)。このような礼拝は昔からいつもあったわけではなく、歴史上のある時点から、すなわちイエス様が来られ、十字架と復活のできごとがなされて初めて可能になったのです。
ここで、黙示録の天の王座の間の幻に戻りましょう。

『彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」』(五章九~一〇節)

 九節で、天使たちが「新しい歌」を歌った、と書かれています。これは天国で作曲された賛美歌の最新作という意味ではありません。歴史の中で決定的に新しいことが起こり、新しい時代が始まった、そのことを歌った歌という意味です。言うまでもなくそれは、小羊であるキリストがほふられてよみがえったできごとを指しています。
 つまり、黙示録における「新しい」できごとが始まった「時」と、ヨハネの福音書において真の礼拝が始まるとされる「時」は同じ時、イエス・キリストの時を指しているのです。一〇節ではキリストのみわざによって贖われた人々、つまり私たちクリスチャンは、王国また「祭司」とされた、とあります。祭司の務めは神殿において神様を礼拝することです。その神殿とはイエス・キリストご自身にほかならないのです。

 ここで、天において神様の王座の前で行われている礼拝と、地上で私たちが捧げる礼拝がどのように結びついているかが明らかになりました。世界中どこにいても、またどのような教派に属していたとしても、あるいはどんな環境で礼拝を持っていたとしても、私たちが真理の御霊によって神様を礼拝する時に、私たちはイエス・キリストというまことの神殿において父なる神様を礼拝する真の礼拝者となることができるのです。

 世界には、公に神様を礼拝することができず、個人の家で隠れるようにして細々と礼拝を守っている人々もいます。中には、同じ場所に集まって礼拝ができず、インターネットを通して礼拝を守っているような群れもあります。けれども、すべての礼拝は、それが霊とまことによってなされるなら、天において神様の御座の周りで絶えず主を賛美している天使たちの礼拝とつながっているのです。私たちのささげる礼拝が、どんなに少人数であっても、みすぼらしい建物や施設であっても、ヨハネのように迫害の中にあっても、私たちは孤独ではありません。
 イエス・キリストにあって神様を賛美し礼拝する時に、私たちはいつでも世界大、いや宇宙大の聖なる公同の教会の礼拝、永遠に途絶えることのない礼拝の会衆の一部となっているのです。だから私たちの賛美や礼拝が無駄になることは決してありません。そして、私たちがそのようにして礼拝していく時、天と地がつながり、この地に神の国が表されていくことになるのです。そのことを信じて、今日も主を礼拝していきましょう。

 みなさん、ご起立いただけますでしょうか。これから、ご一緒にお祈りの時をもっていきたいと思いますが、まず、その場で目を閉じてみてください。そして黙示録でヨハネが見た天の王座の間の幻を心の中で思い浮かべてみてください。何度も申し上げましたように、黙示録の四章と五章に描かれている光景というのは、遠い未来に実現する約束ではなくて、今現在、天において進行中の霊的な現実であることを覚えていただきたいと思います。そして今、私たちが真理の御霊によって、この天における礼拝につながっていることを信じていきたいと思います。
 今、毎日の生活の中で経験しておられる様々な問題、戦い、悩み、苦しみをしばし忘れていただきたいと思います。そして天の御座に着いて、すべてを支配しておられる、王なる神様の栄光、そのすばらしさに目を留めていきましょう。そしてその周りで絶えず主を賛美している天使たちの声に、耳をかたむけていきたいと思います。
 それでは、ご一緒に一曲賛美をしたいと思います。

「栄光イエスにあれ」
栄光 栄光 イエスにあれ
栄光 栄光 イエスにあれ
み座にいます 子羊よ ほむべきお方
あなたは統べ治める とわに正義をもって

 ご起立のまま、最後にお祈りをしたいと思います。いつもの礼拝では、メッセージの最後に説教者の先生がお祈りをもって締めくくってくださいますけれども、今日は、この黙示録の四章と五章に出て来る天の会衆の賛美の祈りを告白して、最後の祈りに代えたいと思います。
それでは、今この瞬間にも神様の御座の周りで進行している天の礼拝に参加している思いを持って、心を込めて告白していきたいと思います。スクリーンに聖書箇所が出ますので、ご一緒に、心を込めて、告白していきたいと思います。
 まずは、造り主なる父なる神様への賛美を捧げていきたいと思います。

ヨハネの黙示録四章八節、
『「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」』

ヨハネの黙示録四章一一節、
『「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」』

次に、救い主である小羊イエス様に対する祈りを捧げていきましょう。

ヨハネの黙示録五章九~一〇節、
『「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」』

ヨハネの黙示録五章一二節、
『「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」』

最後に、父なる神様と子なるイエス様の両方に、心からの賛美を捧げ、最後にアーメンをもって終わりましょう。

ヨハネの黙示録五章一三節、
『「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」』アーメン。

主に限りない賛美の拍手を捧げましょう。ハレルヤ!