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サマリヤを通って行かれたイエスさま
パート2

2015年2月1日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ヨハネの福音書 4章1節〜9節

『イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知られたとき、──イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが──主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである──』

 ハレルヤ!今日もみなさんと共に、礼拝を守ることができ、心から感謝しています。すばらしいバッハの曲を聞きました。感謝します。
 早いもので、二月になってしまいました。この分だと一年、あっという間に過ぎ去ってしまいますね。人生も、早く過ぎ去るものです。
 今日、週報を見ましたら、若い方には刺激的なお知らせがありました。来週は、婚約式があるみたいです。M兄弟と、Y姉妹の婚約式があります。今日、初めて教会に来られた方は、兄弟・姉妹で婚約したらまずいんじゃないのと思うかもしれません。クリスチャンは、男性のことを兄弟、女性のことを姉妹と呼び合います。別に血のつながった兄弟・姉妹ではありません。しかしクリスチャンになりますと、皆、兄弟姉妹となり、神の家族につながるわけです。こんなすばらしい特権はありません。
 今年は、多くの結婚が決まるように、真剣に祈っています。去年、私たちは若い兄弟姉妹の結婚が決まるように、とりなしの祈りを一日かけて行いました。あれから何かが変わりました。やはり祈るものですね。祈りは壁を崩します。結婚も、霊的戦いです。クリスチャン・ファミリーができることを、悪魔は大嫌いです。でも、主がつないでくださると、すばらしい家庭が出来ます。

 この教会は、ゆりかごから墓場まで、いや、天国までつながっている場所です。先週は、召天式もありました。Kさんという方でした。お年を召されて、病床で洗礼を受け、天に帰られました。私も救いのために関わらせていただき、天国に送ることができ、本当に感謝です。
 教会は、死も命も、すべて神の手の中にありますから安心です。神は私たちに、救いを与えて下さいます。聖書の救いは何かと言うと、「永遠のいのち」です。行き先がはっきり決まっていることは本当に安心です。死んでから、どこに行くのか分からないのでは、恐ろしいです。しかし永遠のいのちがあり、天国が用意されていたら最高です。今日ここにおられる方々は、行き先がはっきり決まった方々ばかりです。

 しかし、聖書の究極的な救いは、永遠のいのち以上のものです。それは何かといったら、イエスさまが再び、この地上に帰って来られて、人類の王となり、人類を統治されるという事です。神の国の実現が、人類に対する「究極的な救い」です。
 永遠のいのちだけを救いと考えていてはいけないのです。究極的な救い、主が再び帰って来られ、地球の王となってくださることを、祈らなければいけないのです。
 そして、その鍵を握っているのが、イスラエルです。イスラエルから救いが出たと、先週も学びました。今日は、先週のメッセージの続きです。先週のメッセージを思い出していただきますと、分かりやすいと思います。

 今、世界で一番宣教が困難な国は、イスラエルです。しかし、そこから救いが出たわけです。イエスさまはユダヤ人でした。ユダヤ人から出た救いによって、私たちは、今、救われたわけです。そして、イスラエル民族に与えられている賜物と召命は、変わることはないのです。そこに神が「救いの賜物」を置かれたからです。ゆえに、やがて彼らも救われる、というのが聖書の約束です。
 「救われる」とは、究極的な救い、イエスさまが世界の王となり、世界を統治される日につながるわけです。
 ということは、イスラエルを通して、主が帰って来られる道が備えられるわけです。

 世界はこれからどうなってしまうのか、心配です。今朝も悲しいニュースがありました。人質になっていた、後藤さんという方も、イスラム国に殺されてしまったみたいです。
 今、世界の戦争で使われる武器は、今までの武器とは違ったものが使われています。みなさんも今、ポケットに武器を持っています。それは何かと言うと、スマートフォンです。この頃、イスラム国が、世界の人たちを苦しめているのは、スマートフォンからも発信できる映像です。それで世界中を震撼させています。YouTubeです。みなさんもYouTubeをよく使うのではないでしょうか。あれが、武器となっています。メディアです。原子爆弾ではなく、なんと、誰でも持っているようなスマートフォンが武器となっています。これからどんな時代になってしまうのでしょうか。
 人質を救出するために、日本も一生懸命がんばったみたいですが、駄目だったみたいです。日本はどこに拠点を置いたか知っていますか。それはヨルダンでした。

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 なぜヨルダンに置いたのかというと、意味があります。イスラム国の事件も、結局のところ、イスラエルが絡んでいるからです。ヨルダンは、アラブ諸国とイスラエルをつなぐ、緩衝役の国だからです。イスラエルとも、アメリカとも関係がつながっていて、なおかつ、イスラム諸国とも強いコネクションがあるからです。ヨルダンがなくなってしまうと、中東情勢は大変なことになるのです。だから、拠点を置いているわけです。また逆にいえば、イスラム国も、ヨルダンが壊れてしまえば、イスラエルとの直接対決になりますから、揺さぶりをかけているわけです。
 究極的に、世界の問題の中心にイスラエルが座していると言っても過言ではありません。イスラム国の問題は、国際的に大きな問題ですから、イスラエルは現在、あえて沈黙しています。しかし、問題の中心には常に、イスラエルがいます。それは、究極的な救いも、この国次第で変化するからです。世界の歴史も変わって行きます。
 ということは、私たちクリスチャンが、究極的救いの完成のために、イスラエルのために、とりなし、祈らなくてはいけないのです。イスラエルなんて、八千キロも、九千キロも離れた国で、「俺には関係ない」と言わないでください。主の再臨のために、重要な国です。

 先週も、一つのみ言葉を紹介させていただきました。民数記六章二十二節〜二十七節、

『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」』

 「イスラエル人の祝福を祈れ」と命じられたのです。誰に命じられたのかというと、「アロンとその子らに、この事を告げて言え。」と言われました。それは、どういう意味でしょうか。

 少し、復習になるかもしれませんが、イスラエルは一人の人物、アブラハムがカナンの地に入ったことにより、始まりました。先々週、私は、旧約時代に「シェケム」と呼ばれた町に行きました。

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 今日、お読みしたヨハネ四章で、イエスさまがスカルの町に行かれたと記されています。スカルとは、旧約時代の町、シェケムです。
 今はナブロス(Nablus)という名前になっています。創世記十二章五節〜六節を読みますと、

『アブラハムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。』

と記録されています。シェケムに、アブラハムが入ったことによって、やがて、イスラエルができたわけです。私は、結構重要な場所に行ったわけです。

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 これが、アブラハムが最初に入った、カナン人の遺跡です。イスラエルは、ここから始まったわけです。一人の人物が、シェケムに行ったことにより、その後、大きな事が起こりました。アブラハム、イサク、ヤコブと代が続き、ヤコブから、十二人の子どもたちが生まれました。

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 聖書を読んでいると分かると思いますが、ヤコブはやがて「イスラエル」と名前を変えられました。そして、十二部族となったわけです。
 私は滝元明・清子から生まれた子どもですが、七人兄弟です。七人の子どもたちが結婚し、子どもを生み、子どもが子どもを生んで、明部族も、今では、だいぶ増えました。何百年も経てば、相当大きくなるわけです。みなさんも、同じです。昔は部族社会が中心で、人々は集まって住んでいたわけです。
 十二人の息子たちから広がり、エジプトで四百三十年も住んでいましたから、相当大きな部族となりました。それがイスラエルです。
 ヨセフは、十二部族の中に入っていないというか、ヨセフの子どもたち、「マナセ族」と「エフライム族」が入っています。そうなると十三部族になります。しかし十二部族となぜ呼ぶかというと、この中で三番目の息子レビは、十二人の一人なのですが、部族としては数えないからです。
 十三部族は、モーセによって引き出され、昔アブラハムが住んでいたカナンの地に帰ったのです。そして十二部族には、それぞれ割り当て地があったのですが、レビ族には、割り当て地はなかったのです。
 この頃も、遺産の分配で揉め事があります。しかしレビ族には、割り当て地がなかったのです。「なんだ、レビ族は損だな」と思うかもしれませんが、レビ族には、重要な使命が与えられていたゆえに、割り当て地がなかったのです。
 申命記に、こんな言葉があります。申命記十章八節〜九節、

『そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である──』

 この言葉、すごいじゃないですか。レビ族は、どのような役割を担っていたかというと、十二部族から外されたように見えるけれど、彼らの役割は、「十二部族を祝福する役割」でした。レビ人たちが、「十二部族を祝福します!」と宣言すると、イスラエルは祝福を受ける、そんな役割を負っていたのです。その結果、レビ族も祝福されたのです。
 彼らには、割り当て地はなかったけれど、最後になんと書いてありましたか?「主が彼の相続地である。」とありました。
 主ご自身が、彼らの相続地だったのです。土地も建物も、何もないけれど、主が、 レビの相続地となられたのです。すばらしいですね。

 私たちクリスチャンは、何もなくても、主、自らが相続地です。レビ族は、十二部族の中には入っていませんが、彼らがいたことによって、国全体が祝福されたのです。彼らには祝福する役目が与えられていたわけです。
 十字架の救いが完成された今、その役割は、クリスチャンであり、教会です。

 イエス・キリストを信じた者たちは、ちょうどレビ族のようです。神と人との間に入り、とりなしをし、礼拝をし、賛美する役割です。クリスチャンは、レビ族のような役割で用いられるのです。私たちが、主を礼拝し、賛美するのは、アロンとその子どもたち、レビ族の役割を担っているのです。
 私たちの相続地は、主ご自身です。ということは、私たちがレビ族の役割なら、何をしなければいけないのでしょうか。それは、先ほどの民数記六章二十二節〜二十七節につながるのです。
 私たちが、イスラエル人を、『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』と祈ると、「クリスチャン、教会を祝福してあげます」となります。

 究極の救い、祝福とは何でしようか?イエスさまが再び、地上に帰って来られ、世界の王となり、すべてを治められる事です。それが究極的な救いであり、また祝福です。
 イエスさまがこの地の王となり、治めて下さる地球に住んでみたいと思いませんか?アーメンが少ないですね。住みたくないのでしょうか?死んで天国に行くのもいいですが、生きている間に、イエス様が帰って来られ、世界の王がイエスさまという地球に住んでみたいです。そんな国に住めたら、そんな幸せはないです。究極的な幸せです。
 今、世界の王は、なんだかイスラム国のテロリストみたいです。彼らが投稿する、あの残虐なYouTubeの映像で、みんな震え上がっています。あの背後に、悪魔がいるのです。悪魔・悪霊どもがいて、人々を苦しめているのです。
 でも、このような世界を終わらせるためには、どうしたらいいのでしょうか。いくら日本が軍備を拡大しても無理です。アメリカがいくら、最新鋭の武器をもって中東に出て行ったって無理です。有志連合を作って、イスラム国を爆撃したって、絶対に無理です。憎しみは、憎しみを呼ぶだけです。さらに新しいテロが起こるし、世界はどんどん混迷を深めるに違いありません。この路線上に、明日はありません。

 でも一つだけ希望があるとしたら、それは、イエスさまが地上に帰って来られ、この地の王となられる事です。元々、神がこの地球を造られましたから、「人類の歴史はこれまでだ!もう終わり!」と、イエスさまが来て、王となってくださったら、すべての戦いは終結します。
 悪魔・悪霊どもは捕まえられ、地獄のどん底に落とされます。すると病も消え、争いも消え、すばらしい地球が誕生するのです。それが究極の救いです。
 そのために私たちは、アロンと子らの役割、すなわち、レビ族の役割を果さなければいけないのです。私たちは、神と人との間に入り、国々の間に入り、ある時には、悪魔・悪霊どもの間に割って入り、とりなし祈り、暗闇の力を打ち破り、主を礼拝し、主がお帰りになる道を備えるのが使命です。それは重要な仕事です。
 この働きを、今年はさらに前進させなければなりません。私たちは主が帰られる道を用意するために存在しています。これが主が持っておられる夢の実現です。そのために存在していることを深く認識する必要があります。

 今日、午後からセミナーを行います。イスラエルについてご一緒に学びたいと思います。
 甲子園ミッションが終わった時、主がイスラエルツアーのアイデアを下さいました。それは日本からイスラエルに行って、とりなして祈るツアーとしては、過去、最大だったと思われます。六百名くらいの方々がイスラエルに行って、日本のリバイバルのために祈りました。あれは預言的な働きだったと思います。
 でも、その頃は、イスラエルについて祈れと言われても、漠然としていて、あまり知識がありませんでした。でもこの頃、主が、イスラエルの祝福を祈ることを教えてくださっています。それも、どこに視点を持って祈ったらいいかを教え下さっています。

 先週もイスラエルとは、元々、十二部族から構成された「部族国家」であるとお話ししました。しかし今、一般的に、イスラエルとか、ユダヤ人と言いますと、南のユダ王国の末裔だけを指しています。

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 紀元前十世紀に、一つの王国であったイスラエルは、二つの国へと分裂しました。それが、北イスラエルと南ユダです。北イスラエルは、十の部族。ユダ王国は二部族、ユダ族とベニヤミン族でした。北には十部族が属していたわけです。
 その後、アッシリアという国が、北イスラエルに攻め込み、北イスラエルは消滅してしまったと言われていました。

 しかし、詳しい歴史的な調査をしてみると、そうではなかったのです。彼らは残っていたのです。今でも、イスラエルにおいては、南ユダと北イスラエルの分断の歴史を引きずっています。

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 壁があり、壁を越えることができないのです。壁の向こう側にはアラブ人たちが住んでいます。
 アラブ人とは、一体、どういう人たちなのかというと、アブラハムがシェケムに入ったとき、カナン人が住んでいたとありましたが、その人たちとイスラエル人、または、アッシリアから来た人たちとの混血の人たちです。
 しかしイスラエルの十部族の中で、唯一神をかたくなに礼拝し続けていた人たちも残っていたのです。そのことについては先週話しました。また午後からも、お話します。

 イエス様の時代、ユダヤ人とサマリヤ人とは、つきあいをしていなかったというのです。イスラエルの唯一の神を礼拝する為に、ゲリジム山を聖地として礼拝していた人たちでした。彼らはユダヤ教徒ではなく、「サマリヤ教徒」と呼ばれる人たちでした。
 イエス様が、スカルの町に行って、出会った女性がいます。イエス様は、旅の途中、スカルの町に立ち寄りました。

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 旅の疲れで、井戸のそばで腰を下ろして休んでいたと記されています。こんな所を読みますと、ちょっとほっとしますね。イエス様も体に疲れを覚えたのか・・・、喉が渇いたのか・・・、とね。イエス様は神様でしたが、地上に来られた時には、人間と同じになって下さったんだなと安心します。これは映画のワンシーンを切り出した映像です。

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 暑い中で、イエスさまは、この女性と会話を始めるわけです。そして、いのちの水を紹介されるわけです。
 サマリヤの女は、イエスさまとの会話の中で、何を話題にしたのかというと、礼拝場所についてでした。ユダヤ人はエルサレムのシオンの山で礼拝していました。サマリヤ人は、ゲリジム山で礼拝していました。彼女は、「どっちが本物の礼拝所ですか?」と問いかけました。礼拝の対象に関しては、全く論議されていません。北イスラエルの人たちも、南ユダの人たちも、礼拝の対象は、唯一の神を礼拝していたからです。サマリヤの女が話題にしたのは、「どっちが本物の礼拝所なのか?」でした。
 しかし、イエス様は、礼拝場所を問題にされませんでした。それを越えて、場所にとらわれない、「聖霊により、イエス・キリストを中心として、神を礼拝する」新しい時代について語られたのです。そのことを宣言されたわけです。

 今、どうでしょうか。私たちはどこでも礼拝できます。今日は新城教会に来て礼拝していますが、別に、教会堂に来なくたって、心からの礼拝を捧げることができます。それがいつから始まったのかといったら、スカルの町で女とイエスさまの出会いから始まったのです。今、私たちは場所にとらわれずに、どこでも聖霊によって主を礼拝できます。すばらしい特権です。これはすごいことなのです。
 私は時々、クリスチャンのお宅を訪問させていただくのですが、トイレを借りることがありますが、トイレに祈りの課題が貼ってあることがあります。我が家のトイレ、またお貸ししますからお越しください。そこには、祈りの課題がいっぱい貼り付けてあります。誰が貼っているかというと、家内がトイレで祈っているらしいのです。
 普通なら、神様、怒るんじゃないですか。「そんな臭い所で俺に祈るな!多少力は入るかもしれないけれど、そんな所で祈るな!」と、言われそうです。また風呂の中でお湯に浸かりながら祈るのも、乙なものです。その祈りだって、主は聞かれます。
 これはサマリヤで、イエス様が、女に会ったときから始まったのです。私たちと北イスラエルとは、深いつながりがあるのです。

 ここからもわかるように、イエスさまの時代、ユダヤ教徒と、サマリヤ教徒がいたということです。
 私は今回、サマリヤ教徒の人たちに出会って来たと先週話したのですが、「イスラエルを祝福して祈りなさい」とは、本来、北イスラエルと南ユダ、十二部族を祝福しなくてはいけないのです。ユダヤ人とは、そもそも、ユダ王国の人たちという意味ですから、その人たちだけに関心を持って祝福の祈りをしても、片手落ちです。
 特に北側の人たちを真剣にとりなし、祈ってあげなくてはいけないなと強く思いました。彼らはアラブ人の中に住んでいます。アラブ人の人たちは、イスラエル人と混血した人たちです。その方々のために、とりなし祈らなくてはいけないと思います。

 イエス様の時代は、国が分裂してから、何百年も経っていました。それで両者の間には、深い溝ができていたのです。
 先週もお話ししましたが、「ヨハネ・ヒルカノス」という王が、二つの拠点で礼拝を捧げているのは良くない。一つの山に礼拝場所を統一しよう!と、BC一二八年、ゲリジム山で礼拝している北イスラエルの人たちを襲い、彼らの神殿をめちゃくちゃに壊してしまいました。そして大勢のサマリヤ教徒たちを殺しました。
 でも、武力で統一しようとすると、残るのは傷だけです。サマリヤ人たちはゲリジム山の、元あった神殿の廃墟の上で、ずっと礼拝を続けたのです。
 その後、イエス様が現れました。ヨハネ四章に書かれている、「ユダヤ人とサマリヤ人はつきあいをしていなかった」という記述は、そのような歴史的な悲しい背景があったからです。しかしイエスさまの時代も、二つの場所で礼拝は継続されていたのです。
 でも、ユダヤ人というのは、長い歴史の中で、北イスラエルのサマリヤの人たち、特にサマリヤ教徒の人たちのことを嫌っていました。あんなの本物の礼拝じゃない!と言って、別の民族かのように嫌っていたのです。

 新約聖書を、「ユダヤ人はサマリヤ人を嫌っていた」という視点を持って読みますと、結構おもしろいです。マタイ十章で、イエスさまが十二人の弟子たちを、宣教に送られた記事があります。マタイの福音書十章五節〜六節、

『イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。』

 一見すると、イエス様もサマリヤ人たちを差別しているように見えます。しかし実際は違うのです。この時、イエス様は弟子たちと一緒に行動されなかったのです。ユダヤ人である十二弟子だけを、宣教に送られました。もしも彼らだけでサマリヤ人や、異邦人の所に行ったら、面倒が起こる可能性があったのです。それで規制されたと言うのです。
 ルカ九章を見ますと、弟子たちがサマリヤ人に対して、どんな感情を持っていたか、よく分かります。ルカの福音書九章五十一節〜五十六節、

『さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町に入り、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。そして一行は別の村に行った。』

 弟子たちがサマリヤ人に対して、どんな感情を持っていたかわかりますか?イエスさまはエルサレムで十字架につくために、そちらに向かっておられました。サマリヤ人たちは、自分の所にイエス様は来てくれないということで、へそを曲げたのでしょうか。それでイエスさま一行に、宿を貸してくれなかったというのです。今なら、スマホで宿泊を予約できるかもしれませんが、当時はわざわざサマリヤの町に入って行って、「今晩、泊まりたいのですが。」と頼んだら、「おまえたちには宿は貸さん!」と、サマリヤ人たちが、弟子たちに断ったわけです。
 すると、ヤコブとヨハネは、烈火のように怒って、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言いました。これは過激な発言ですよね。しかしイエス様は、それを「戒められた」のです。

 新約聖書を、よく読んでいきますと、イエス様はユダヤ人でありながら、サマリヤ人のような振る舞いをされ、サマリヤ地方に目を向けておられた事がわかります。イエスさまは、当時の流れに流されていないお方でした。これは、普通ではなかなか難しいことです。日本に住んでいて、日本の流れに染まらず、しっかりと真理に軸足を置くのは、なかなか難しいのと同じです。イエス様は、すごいです。
 当時の風潮は、「サマリヤ人なんか殺してしまえ!」というような、対立の風潮であったと思われます。しかしイエスさまは温かい目で、サマリヤ人を見ておられたのです。

 ユダヤ人とサマリヤ人の話で、有名なのはなんと言っても、ルカ十章に記されている良きサマリヤ人の例え話だと思います。当時対立していた二つの民族の中で、イエス様が語られた例え話です。ルカの福音書十章二十五節、

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」』

 どうしたら、永遠のいのちを得ることができるかという問いから、この良きサマリヤ人の例えは始まります。
 イエスさまの答えは、神を愛しなさい、そして隣人を愛しなさい。神を愛することと、隣人を愛することは、切り離す事はできないという話でした。そして隣人を愛する具体的例として、この例え話をされたのです。
 この良きサマリヤ人の話は、イエスさまが創作された話です。イエスさまの考えを、一つのストーリーとして、表現されたのです。ここをみなさんで見て行きたいと思います。
 ルカ十章三十節から、紙芝居風にして見ていきたいと思います。

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 『イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

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 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

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 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

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 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

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 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

 ネットに出ていた絵を使いました。ある人が旅の途中、強盗に襲われたというわけです。最初は祭司が来たのです。そしてレビ人も通ったのです。しかし彼らは、倒れている人を見過ごしにしてしまったのです。けれども、サマリヤ人が来て、彼を助け、宿屋にまで連れて行き、すべてお金も払って、とことん助けたというわけです。
 それで、律法の専門家に、「この三人の中で、誰が倒れていた人の隣人となったか」と問いかけたのです。この例えをイエスさまから聞いたのは、ユダヤ人の律法の専門家、パリサイ人だと思われます。登場人物は、「祭司、レビ人、サマリヤ人」の三人です。普通なら、「サマリヤ人です」と答えてもいいはずです。しかし律法の専門家は、「サマリヤ人」と言う言葉さえ、使うのが嫌だったようです。
 「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えているわけです。そうしたら、イエスさまは「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われました。

 この例え話、律法の専門家は、当時のユダヤ人とサマリヤ人の感情から見て、どのように感じたのでしょうか。これをわかりやすくするために、日本人に置き換えて話すとよく分かります。ちょっとひんしゅくかもしれませんが、あえてお話しします。
 近頃、日本と韓国、日本と中国、あまり関係がよくないですね。残念です。ユダヤ人とサマリヤ人の関係みたいかもしれません。近頃はどうでしょうか。憲法改正!というような国粋主義者も、結構多く出ています。
 例えば、憲法改正大賛成!私は真の日本人!というような国粋主義者がイエスさまの所に来たとします。「永遠のいのちをもらうためにはどうしたらいいですか?」と聞いたとしたらどうでしょう。そうしたら、イエスさまは、良きサマリヤ人と同じような話を、日本でされたとします。
 ある人が、東京から大阪まで旅をしている途中、強盗に出会って倒れたという設定です。瀕死の重傷を負って倒れていると、最初に、安倍首相が来たというわけです。しかし、倒れている人をちらっと見たけれど、知らんぷりして行っちゃったのです。助けてくれなかったのです。
 そうしたら次に、誰にしましょうか。石破さんくらいにしましょうか。石破さんが来ました。「あ!石破さんだ。助けて!」と叫んでも、そばを通り過ぎていったのです。
 そうしたら、日頃、日本と対立関係にある、韓国というと韓国系の方もおられますから、今日はやめておいて、中国にしましょう。中国人が観光旅行中、倒れている人を見て、かわいそうに思い、その日本人を手厚く助けたという話に置き換えたらどうでしょう。
 さて、安部さん、石破さん、中国人の中で、倒れていた人の隣人になったのは誰ですか?と問われたらどうですか。
 自分が尊敬している政治家たちをすべて悪者にして、いつも敵対している国の人をヒーローにしたら、相当、国粋主義者は頭にくると思われます。
 律法の専門家が、イエスさまからこの話を聞いたとき、我々が感じるのとは違う感情が沸き上がったはずです。
 今ちょっと日本人に置き換えて話しましたが、自分が一番尊敬している人を悪役にし、憎んでいる人をヒーローにして話を組み立てられたら、カチンとくるはずです。だから、「サマリヤ人だ」とは言えなかったわけです。「あわれみをかけた人」と、結構、ふてくされているわけです。
 しかしイエス様は言われました。「あなたも行って同じようにしろ!それが永遠のいのちを受け取る秘訣だ!」と。
 普通では入って行かない、目を留めないサマリヤ人たちに、イエス様は軸足を置いておられたことが、よくわかります。

 私たちも同じではないでしょうか。永遠のいのちをいただくために必要なことは、やはり日本の全体的な流れに流されず、常に真理に立って、世界を見なくてはいけないということです。
 イスラム国が出たり、テロリストが出たり、様々な敵が出てくると、私たちはつい報道がすべてみたいになってしまい、流されやすいですが、やがて主が帰って来られ、この地を統治してくださることがない限り、世界はうまくいくはずはないのです。私たちは、主が帰られる事を、真剣に祈らなければいけません。
 イスラエルといっても、だいたいの人は南ユダだけを考えています。北のことなんか、消えてしまったかのように、誰も関心を持たないわけです。しかし私たちは、アラブ人の為にも、祝福を祈らなければいけないのです。

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 パレスチナ自治区は、イスラエルの占領下にはあるのですが、この地に住んでいるアラブ人たちは、自治権を持っています。
 だから、警察官も二通りいるのです。現地人の警察官と、イスラエルの警察です。この二種類がいるのです。アラブ人同士のいざこざは、自治区の警察官が対応するわけです。しかし政治的なこと、民族問題が絡んでくると、イスラエルの警察官が関わってくるわけです。
 私たちはアラブ人のツアーガイドを頼んで、ナブロスという町に行きました。自治区の中を走っていたら、対向車がライトをチカチカさせるのです。「これは何?」と聞くと、スピード違反の取り締まりでした。どこの国でも同じだなと思いました。スピード違反の取り締まりがあると、パッシングして教えてくれるわけです。それも対向車全員が教えてくれるのです。そうしたら、ガイドが言いました。「ユダヤ人の警察官に捕まってたまるか!俺たちは仲間内で助け合っている。」と言いました。自治区の中には、アラブ系の人たちが住んでいますが、平和がありません。サマリヤ教の人たちも住んでいます。

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 右側の白い服を着ている人たちです。彼らは唯一の神を礼拝しています。ユダヤ教と同じ神を礼拝しているのです。今でも、礼拝場所が違うのです。イエス様の時代と同じ状況です。

 私たちクリスチャンは、どこでも祈ることができるわけです。私は、エルサレムと、ゲリジム山に行って、ヨハネの四章を宣言しました。「今の時代は、どこでも、イエスキリストによって、礼拝できるんだ!私たちは、霊とまことによって礼拝する者だ!」と、み言葉を宣言して来ました。このような時代にあって、誰も目に止めない、サマリヤの人たちのために祈りを捧げることは、イエス様が帰られるために、大変重要ではないかと感じました。

 「新城教会では、イスラエルのこと、祈ってくれませんね。」と、時々言われます。祈っていないわけではないのです。祈るなら、真実を祈りたいのです。祈る視点がずれていたら、いくら祈っても無駄になります。何を祈ったらいいのかを、真剣に求めて祈って行きたいです。この頃徐々に、主が、ポイントを絞ってくださっているような気がします。
 イエス様が帰られる日が、それだけ近いのかもしれないなと感じます。午後からのセミナー、ふるってお出かけいただきたいと思います。

 クリスチャン、教会は、祭司であり、レビ人です。良きサマリヤ人の話では、祭司とレビ人が機能していませんでした。当時のユダヤ教においては、祭司もレビ人も全く機能していなかったのです。真理からずれていました。
 また、イエスさまは、特にパリサイ人たちに対して、大変厳しい指摘をされています。私たちはしっかりと、役割を受け取り、イスラエルの祝福を祈るのです。
 最後に一箇所読んで、終わりにしたいと思います。第一ペテロ二章九節、

『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』

 今、我々はイエス・キリストを信じたことにより、『選ばれた諸族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。』とあります。まさしくレビ族を主が選ばれたのと同じように、私たちを選んで下さったのです。それは『ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』と告げられています。私たちの使命は、神が私たちになしてくださった、このすばらしい福音を伝えることです。
 それは、異邦人にも、ユダヤ人にも、イスラエル人にも宣べ伝える使命があるのです。

 私は、ゲリジム山の山麓に住む、サマリヤ人の所に行って、サマリヤ教のおじいさんと話をしました。そしてイエス様の話をしました。そうしたら、先週も話をしましたが、サマリヤ人のおじいさんが「イエス様は、俺たちのことを良い人だと言ってくれたんだ!」と言いました。この人たちって、案外、心がやわらかいかもしれないなと思いました。この人たちの救いを祈らなくてはと思いました。
 イエス様が、スカルの町に行かれた時、リバイバルが起こりました。イエス様は自ら、この女に、自分がキリストであることを、直接、伝えられました。
 『イエスは言われた。あなたと話しているこの私がそれだ。』と。イエスさまが自ら、キリストであることを伝えられたのは、この箇所だけです。あとは、「あなたはわたしのことを、誰だと思いますか?」と弟子たちには言われました。しかしサマリヤでは、しっかりと「わたしがキリストです。」と告げられたのです。
 サマリヤ人たちの所にイエスさまが超自然に現れ、「わたしが神だよ」と、彼らの前に立ってくれたらいいなと思い、祈って来ました。もしかしたら、彼らは、イスラエルの救いの鍵かもしれません。

 何をとりなして祈ったらいいのか、しっかりと主から聞き、イスラエルのために、とりなしたいと思います。今から、聖餐式を行います。主が来られる日まで、聖餐式を続けなさいと言われました。イエス様が帰って来られるその日まで続けろ!と。
 一言お祈りして、今日のメッセージにかえさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。
 私たちは、できることなら、私たちの生きている間に、主が帰って来てくださる事を期待して祈ります。地球の王がイエス様である、そんな世界に住みたいと願っています。それを早めるために、何をしたらいいのか教えてください。
 皆で礼拝を持つことができ、心から感謝します。私たちに、レビ族と同じ、すばらしい役割を与えてくださり、心から感謝します。今から聖餐式を行います。祝福してください。尊い主イエスの御名を通して、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。