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Jesus is coming soon

2015年3月1日(日)
新城教会副牧師 滝元開
ヨハネ黙示録22章7節

『見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。』

 イエス様がまもなく帰られるという、こういった時代のただ中に私たちは生きているわけですけれども、そのような中で、この地上で、神様を心から賛美し、礼拝できるという、この特権を本当に心から感謝したいと思います。
 今日も私たちがお捧げした賛美を、イエス様が受け取ってくださって、そしてまた賛美の中にご臨在される主が、この礼拝の中で、私たち一人一人に訪れてくださっていると、心から信じて感謝します。

 二週前の礼拝で証しさせていただきましたが、みなさんにお祈りしていただきまして、ザワメキトゥエルブのLAでのレコーディングが無事終えられることができて、みなさんの祈りを本当に心から感謝いたします。
 イエス様が進められるリバイバルは、私たちの思いよりも早めておられるということを、すごく強く感じています。昨年の秋にここでメッセージをさせていただいた時には、「さぁ、仕事に取りかかろう!」というみ言葉でした。リバイバルのために仕事に取りかかるように主がおっしゃっておられることを、強く感じたんですけれども、私自身は、ザワメキのCD制作はもう少し先でいいと、人間的には思っていましたが、神様が「もう仕事に取りかかりなさい。次に進みなさい。」とおっしゃってくださって、ある意味、イエスさまに後押ししていただいたような形で仕事にとりかかって、準備を始めました。
 今までもCD制作の度に、神様はすばらしい奇跡、信じられないような出来事をたくさん起こされてきました。けれども、昨年の秋の時点では何のプランもなくて、全くの白紙だったので、主は今回は何をなしてくださるのだろうかと思いながら、ずっと準備を進めていったわけですが、今までになく、ある意味、困難な状況の中で、なかなか事が進まないなぁということを、とても強く感じていました。
 でも結果として、前回の報告で紹介させていただいたミュージシャンの方々が手伝ってくださることになったのですが、はっきり言ってこれはありえないことなのです。本当に奇跡中の奇跡で、普通だったら絶対にありえないという、そういった方々が来てくださって、世界の中でも、あのメンバーが一つ所に集まって、同じ部屋で一気にレコーディングをするということは、今の時代、本当になかなかないんですね。今では、それぞれが自分でレコーディングできる環境を持っていて、一つの音楽のデータに、それぞれの楽器でレコーディングされたものを、インターネットを介してデータで送り、そして、それぞれのデータを重ね合わせて一つの作品を作るというのが、今の音楽の作り方なのです。しかし、その忙しい超一流のミュージシャンである彼らが、一つ所に集まって、同じ主を見上げて、主への賛美のために「それじゃぁ祈って作ろう!」と、一緒に作ることができたことは、全く本当に普通ではありえない奇跡の出来事なのです。

 先週は東京でボーカルのレコーディングだったのですが、いつも私たちを助けてくださるジョージさんという方のスタジオで、その音源を聴いていただきました。ジョージさんが、この音源を聞いて、「今までの人生の中で、こんなにすごい音は聴いたことがない。」とおっしゃっておられました。本当に素晴らしいものです。
 神様がされようとしておられることが、いかにすごいかということを、私もあまり認識が薄かったなと思うのですが、今回、ドラムしてくださったジョン・ロビンソンという方がしてくださいましたが、東京のスタジオでもう一人助けてくださったエンジニアの方が、そのドラムの音を聴いて「どっかで聴いたことのある音だ。」と、彼が言うのです。それで彼が普段聴いているCDをいろいろ持って来て、グラミー賞で賞を取ったCDをいくつか持って来て、「やっぱり、ここで叩いている人の音ですね。」と、彼がいいました。前回も言いましたが、マイケル・ジャクソンだとか、マライア・キャリーだとか、数えきれない方々が、ある意味、世界の音楽界の最先端をいった人たちが、その方の音を求めてレコーディングをお願いするような人なのです。We are the Worldとか、Change the Worldという、とっても有名な歌がありますが、その歌の中でも彼が叩いています。今回もレコーディング中に「これはなんかChange the Worldみたいだな。」と、誰かが言ったら、「あぁ、あれは私が叩いている。」と、彼がそう言っていましたが、普通では本当にありえないような方が、まったく不思議な方法で、今回来てくださいました。誰かのツテではなくて、ただただ主によって、彼が「手伝うよ。」と言って来てくださいました。
 またその他のベースのアレックス・アルさんにしても、ギターのポールジャクソンJr.さんにしても、本当に、不思議としか言いようがない出来事の中でのレコーディングでした。
 これが普通のことではなくて、またザワメキがロサンゼルスに行って何気なくしているなということではなくて、皆様の祈りの結果の中で、起こっている奇跡なのです。いつも言っていますが、賛美の中で主ご自身がリバイバルを進められるという、その賛美が、いかに大切で、また本当にみなさんが教会あげて祈り続けてくださった結果で、さらには昨年は音楽の悪しき根源であるネパールにまで行って、みんなで歌って踊って、そこの悪しき力が打ち砕かれるように、そして世界の音楽の土台が勝ち取られるようにと、そんな願いでリバイバルを求めて進めて来る中での、ひとつの結果として、主が今回のレコーディングを与えてくださったものであると信じています。神様のなさろうとされていることは、世界を勝ち取る働きです。この教会に与えられた霊的戦いという働きの中で、この世界にある一枚岩の悪しき力が打ち砕かれるようにと、いつも言われていますけれども、賛美を通しても、現実的にそのことを主は始めようとされているんだなということを、今回も感じさせていただきました。

 前回も証しさせていただきましたが、その分、戦いもとても激しく多かったです。LAへ行って帰っての十二日間だったのですが、私たち的には、かつてないような長期の滞在だったのですが、一日一日が本当に戦いでした。だからその日その日を生きるのに精一杯というか、あっという間の十日間でした。もう帰って来たという感じだったのですが、でもその間の戦いは壮絶で、本当にこの戦いは主の戦いで、イエスさまご自身がまもなく帰られる前の大きな戦いを始めようとされているんだなということを、本当にすごく感じました。
 前回も話しましたが、私たちは最終日に近い日にフリーウェーを走っていました。そうしたら私たちの車の前にトレーラーが走行していて、そのトレーラーがふわっとしたのです。ふわっとしたかと思ったら、タイヤが「バンッ!」といったのです。バンッといったなと思ったら、その後、スローモーションのように見えるのですが、トレーラーがふわふわとなりました。そうしたら、タイヤの破片がうぁーーっと降って来て、私たちの車の上にバタバタバタと降って来ました。このままどうなってしまうんだろうと思ったら、そのトレーラーが体勢を立て直して左に行って、私たちの車は右側にすっと行ったのですが、本当に激しい戦いを感じました。神様ご自身は守ってくださいましたが、主の大きなご計画のその分、サタンはその働きをなんとかして妨げようとしている働きがあるなということを、すごく強く感じました。

 今日のメッセージのタイトルである。「Jesus is coming soon!」先ほども賛美しましたが、その歌をレコーディングした時のことです。この事もすでにお証ししましたが、その日はバンドによるベーシックなレコーディングの最終日でした。私はスタジオの中でガラスを隔てて彼らを見ながら歌っていました。彼らが本当に命を削っての演奏をしてくださるのです。世界を音楽で引っ張って来た人たちの力というのは、果てしないなと思います。本当にすごいなと、感動と共に歌っていたのですが、しかしこの歌が始まった途端に、なんとも言えない恐れを感じました。「その日世界は主イエスに叫ぶ。」イエス様が帰られる、イエス様が来られた時には、主の御前では私たち人間って、すごく小さな者で何もできない者で、誰が主に呼ばれて、天に引き上げられるのか、誰が残ってしまうのか、それは私たちには分からないことなんですね。ただ、本当に怖いことだなと思いながら歌っていました。
 そうしたら後ほど、家内から聞いたのですが、そのレコーディングが始まった時に、エンジニアが「今、すごい雨が降っているんだ!」と言うのです。それでドアを開けたら、ロサンゼルスは普段だいたい青い空で、さわやかな風のイメージがあると思うのですが、黒い雲に覆われて、本当に今まで見たことないような激しい雨が降って、そして雷まで鳴ってたというのです。まさしく主が声を出しておられることを感じたわけです。たった一つの曲のレコーディングのように見えるわけですけれども、主がこの終わりの時代に賛美を持って、「わたしは立ち上がって、この世界に帰る前に、この世界に栄光を現すんだ!」と、そのロサンゼルスの空に御声を出しておられるような、そんな時だったのではないなかと思いました。私もすごく恐れを感じながら賛美をしていたのですが、そうしたら後で家内が、「本当に怖かった!」というのです。
 主の御前に、私たち人間、何もできない者で、主の御前に立ったら、イエス様の十字架の血潮を仰がなかったら誰一人御前に出ることができる者はいないと思います。その日があまりにも近いこの時に、私たちは何をしたらいいのかと思いますが、ただただ主を見上げて、イエス様の十字架の血潮を仰ぐのみだなということを本当に思います。
 神様が、今回のザワメキトゥエルブを通してしようとしておられることが、いかに大きな働きかなと思っています。

 先週は、みなさんにまたお祈りいただいたんですが、四日間のボーカルのレコーディングがありました。いつもはボーカルのレコーディングはスッと行って、すぐに帰って来られるのですが、今回あまりにもロサンゼルスの戦いが激しかったので、お祈りしてもらおうと思いました。そして、皆様にも、週報でも祈っていただいて、みなさんで祈っていただくように、会う人、会う人、「祈ってください。祈ってください。」と言って、そしてお祈りしていただきました。
 私は先週、東京に行く前に、この教会のある一人のおばあちゃんに出会いました。ロサンゼルスから帰って、すぐに岡山ツアーがずっと続いて、なにしろ疲れていたのです。今日も、こんな声をしていますが、本当に疲れて、「疲れた!」という感じだったのです。そして一人のおばあちゃんに会ったら、「大丈夫か!あんたは?」と言うのです。そして、「大丈夫です。」と言ったんですが、「おい、のりちゃんは大丈夫か。のりちゃんの声は大丈夫か。」というのです。さらに、「私が夢の中で、のりちゃんがコホンコホンとしてる、そういう夢を見たから祈っとるぞ。」と、そう言ってくださいました。
 実は、先週の礼拝の時には、家内の声が出ていませんでした。本当に声が出なくて、「私は元気です。でも声は出ないですけど、明日からレコーディングですのでお祈りよろしくお願いします。」と言っているのです。レコーディング、何のレコーディングかと言ったら、歌のレコーディングなのです。だから致命的であるわけですが、これは大変なことになったなと思いつつ、みなさんに祈っていただいて、またそのために喉飴だとかいろいろいただいたりして、祈りと共に出掛けて行きました。
 今回の歌のレコーディングとはいつも違い、今回四日間、本当に戦いでした。最初は彼女がそういった声だったので、寸前まで祈りつつでしたが、歌いだしたら、やはり祈りの力はすごいですね。声が出たのです。いや~、イエス様だなと、主のご臨在を感じつつ、イエス様はすばらしいことをなさったなと思っていました。でも、日々戦いは続きました。一日目を終え、二日目の朝に、家内が「ちょっと私、歯の調子が良くない。」とか言い出したのです。あぁ、そうか、大丈夫かなと思ってですね、祈りながら、娘たちにメールして、「祈って!」と言ったら、「えっ!祈る!」と、そう言ってました。歯ごときと思うかもしれないですが、結構歌う時に全身を使うのです。歯が調子悪いと歌うのが難しいのです。あと他の骨が大変だったりすると、歌うのが難しいのです。
 そして、二日目に歌い始めたなと思ったら、彼女の歌の番になりました。そして彼女が歌い始めて、歌っていたのですが、途中で、声が消えました。あれ?声消えたなと思ったら、「すいません!歯医者行って来ます!」と言い出しました。どうしたかなと思ったら、何と、一本前歯が取れちゃったのです。差し歯なんですが、それが取れてしまいました。それでは歌うことができないので、彼女が「歯医者行って来ます!」と行ったら、東京はすごいですね。百メートルもしない所に歯医者さんがあって、それで行ってすぐにできたのです。そこにも神様の助けがあって、すぐに治療ができて、彼女は無事、事なきを得ました。

 ただ、時間はどんどんどんどん過ぎていくので、その間、私も歌わなきゃ!と思って、歌い始めました。次は今日も歌ったホザナという歌で、「ホザナ!ホザナ!ホザナ!」あれは一曲歌うのに、本当に大変な歌で、あの曲を初めて新城教会で紹介させていただいた時に、「なんだ、この早口言葉みたいな歌は。」と言われましたが、それをずっと歌い続けるのは、息つぎする場所がないので、ずっと歌うのは結構大変なのです。それで力一杯歌っていたのですが、歌っていたら、今度は私の肋骨が痛くなったのです。
 どうしてかというと、実は行く前に、うちは冬場は暖炉で暖を取っているものですから、この冬は本当に忙しくて、毎年冬の休みというと必ず山に入って木を切り出して、薪を割るという、そういった休みを毎回取るんですが、この冬には全くその時間が取れませんでした。それでこのまま行くと我が家の木がなくなってしまうという死活問題だったものですから、ちょうど一日だけ月に一度の休みが与えられたので、それで山に行きました。うちの娘が付いて来てくれて、「お父さん、一緒に行く。私もいろいろやるから。」と、彼女が一生懸命、木を運んでくれたりするのです。 
 チェーンソーを持って行くのですが、「ねぇ、お父さん。私にチェーンソーの使い方を教えてよ!」と言うのです。「チェーンソーは危ないから駄目だ。お父さんがするから。」と言うと、彼女は「遣わせて!」と言うから、「駄目だ!危ないから。どうしてそこまで言うの?」と聞くと、「だってさ、お父さんが死んじゃったら、うちの薪なくなるでしょ。そうしたらそれをやるの、私しかいないじゃん!」と、彼女がそう言うのです。「いいよ、俺死なないから。死なずに九十歳まではチェーンソーやるから。」と、そう言ったのですが、それで山に入って、ずっと木を切って、山から木を切り出しました。気をつけてやったので、すべて良かったのですが、最後まで下ろして、無事に事なきを得たのです。
 でも、薪が、山の中腹、二メートルくらい上に引っかかってしまったのです。だから引っかかった薪を、棒で取ろうとしたら、取れなかったのです。下には下に落とした薪がゴロゴロあるその上にちょうど木が一本あったので、私はその木を持って、その木をぐっと掴んで上がりました。上がった途端でした「バッシッ」と取れてしまい、私は不覚にも、その二メートルの所から、ばーんっと薪の上に落ちてしまいました。落ちてどこを打ったかというと、肋骨を打ったのです。それで、やっちまった!と思って、そうしたら娘が「お父さん!大丈夫!!」とかって、後ろで叫んでいるのですが、「大丈夫。大丈夫。」と、何もなかったようにして、そして次の日にはザワメキが新城であったので、大丈夫かなとか言いながら歌ったら結構歌えたのです。守られた、主だなと思ったのですが、そしてまた次の日は東京のザワメキで、それも歌えたので、「良かったな。イエス様、守ってくださったな。」と思って、感謝したのです。
 でも、その家内が歯医者に行っている間、私は力を入れて歌っていたら、「いてぇ!」と、痛くなってしまったのです。熱を持ちだしたのです。これはまずいな。二日目。あと二日間あって、歌わなきゃいけない歌がいっぱいあって、これはまずいなと思って、今度は「お父さんの肋骨が痛い。祈ってくれ。」と、娘たちにまた言いました。そうしたら彼女らも祈ってくれて、そして、夜には湿布をはり、朝になるとだいぶおさまっていました。

 そして次の日になって、彼女もだいぶ元気になって歌い出して、そうしたら今度は私の声がガラガラになってきたのです。疲れもあるし、あばら骨にもヒビが入っているのかどうなのか、今は知りませんが、その状況の中で、大変だなという中だったのですが、でも、本当に守られて、最後の最後までレコーディングができて感謝でした。

 Jesus is coming soon! この歌は、日本で歌っても本当に、イエス様が来られるなということをすごく強く感じて、一曲歌っただけで、徒競走の百メートル走をがーっと走ったように、はぁはぁとなるくらいなのですが、そんな中でのレコーディングでしたけれども、守られて、ここまでの工程をすべて終えることができたことを感謝します。
 まだ今後も作業は続きます。これからミックスダウンという仕事と、マスタリングという仕事があるのですが、今回はそのすばらしいミュージシャンたちの音源がたくさんあるのです。多くの人に「いつザワメキトゥエルブが出るんですか?」と、みなさんおっしゃってくださるんですが、はっきり申し上げて、いつか分からない状態です。「いつです。」と言えないのです。ミックスダウンをしてくださるジョージさんも「これからミックスに入るけど、はっきり言って、これは難しい。」とおっしゃっていて、ぜひみなさん、お祈りください。「みなさんに、いつですか、いつですかと聞かれるんですけど。」と言ったら、「はっきり言って、これは分からないから、しばらく待ってくれ。」と言われていますので、みなさんお祈りください。別に隠しているわけでもなんでもなく、ただただ主の御心が百パーセント現されるようにと、一つ一つの働きを進めていますので、ぜひ最後の最後まで祈りに覚えていただければと思います。


 それではみ言葉を少し見ていきたいと思いますが、今日は、「Jesus is coming soon!」
 このタイトルにすること、そのものも、主イエス様がまもなく来られるというのも、終末をあおるような、そういう事をされてきた人たちがたくさんいらっしゃったので、あまりそういうことは好きじゃないのですが、ただ今回のレコーディングを通して、イエス様が帰られる日が本当に近いなということを感じたので、このみ言葉を選びました。マタイの福音書二十四章三十二節~三十三節、

『いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。』

 マタイの二十四章は終わりのことがずっと書かれていますけれども、戦争があったり、戦争の噂があったり、飢饉があったり、地震があったり、多くの人たちの愛が冷たくなるということが書かれています。そのような事がずっと書かれている中で、「このような事を見たら、もう人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」と、そのようなみ言葉が書かれています。
 ちょうど一年前でした。二月の末でした。チェンマイでのミッションがあって、以前も何度かお話をしていますが、チェンマイの街を歩いていた時に、主から語られた言葉は、「わたしは戸口の所に立っている。」という、そういった言葉でした。それがヤコブ五章九節、

『兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。』

 この言葉が語られて、私は本当にびっくりしました。マタイの二十四章の、『人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。』イエス様はその戸口に近づいておられるという、そんな意識の中であった時に、「わたしは戸口の所に立っている。」と言うのです。今までは、だんだん近づいているという、そういった最中に、「わたしは戸口まで来ている」とイエス様がおっしゃって、本当にこの世の終わりが近いこの時に、私たちは心備え、またリバイバルのために備えていかなかったらいけない時が来ているなということを、本当に思います。

 ただ、主ご自身が来られるのは、マタイ二十四章の中にも書かれていますが、いつかというのは分からないというのです。そのことは、御使いも知らないし、子も知らないと書かれています。だから天の群勢も、イエス様が来られた時にはラッパを吹かなければいけないのですが、いつ吹くかというのは彼らも知らないのです。またイエス様も知らない。子も知らない。子というのはイエス様のことなのですが、イエス様はいつ雲の上に立たれるか、イエス様ご自身もご存じじゃないというのです。誰が知っているかといったら、「ただ父だけが知っている」と書かれているので、天の父なる神様の権威の中で、いつこの世が終わるかということは、父なる神様の権威の中で決めておられるのです。
 だからそれに備えて、きっと御使いたちも、今ごろそろそろ、「そろそろかな!」と思って、きっとラッパ軍団はラッパ軍団で、いつかないつかなと待っているのではないかと思います。イエス様も、「そろそろ雲に乗るぞ。」という、その準備をされているのではないかと思うのですが、ましてや私たちは、その父だけが知っておられるその日に備えていかなかったらいけないなと思います。

 今、言ったみ言葉をお読みしたいと思います。マタイの福音書二十四章三十五節~三十八節、

『この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。』

と書かれています。ですから、御使いも、子も知らない中で、主ご自身は帰って来られますけれども、しかしこの世界、いろんな事が今起きていますけれども、ここにはノアの洪水の前と同じように、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり、普段の自然のいとなみが世界では繰り広げられているわけですけれども、しかし、そのようなただ中に、主は、突然来られるというのです。

 そして、マタイの二十五章を見て行くと、それに対して備えをしなければいけないことが書かれています。二十五章の一節からの所では、「賢い娘と愚かな娘」について書かれています。
 五人の賢い娘と愚かな五人の娘がいたのですが、それぞれ、ともしびを持っていました。しかし、賢い娘たちはともしびの中に油を満たして、花婿なるイエス様がいつ帰って来てもいいように、お迎えする油を満たして、「イエス様、帰って来てください。」と、準備万端でした。
 しかし、愚かな娘たちは、イエス様はそのうち来るだろうと、来たらその時に準備したらいいかなと、そういった、きっと甘い気持ちだったのではないかと思いますが、ともしびの中に油がなかったというのです。そんな時に主は突然帰って来られて、突然、真夜中に帰って来られた時に、油のない愚かな娘たちは、賢い娘たちの所に行って、「私に油を分けて!」と言うのですが、その時すでに遅しなのです。ですから、愚かな娘たちが油を買いに行っている間に主ご自身が帰って来てしまったという、そういった事が書かれているので、私たちはそれに備えていかなければいけないと思います。マタイ二十五章十三節、

『だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。』

 ですから本当に私たちは、いつイエス様が帰って来られても良いように、油を満たしていただかなかったらいけないと思うのです。ルカ二十一章三十六節、

『しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。』

と書かれています。「油断せずに。」「油断」というのは、「油を断つ」と書かれていますけれども、油を絶やすことなく、主の御前に、今日も、本当に、イエス様がいつ帰って来られても良いように、それがある意味、主の道を備える私たちの心を備えるための一つの道だと思いますので、イエス様の御前にいつイエス様が帰って来てくださってもいいように、もう一度、私たちのともしび、それぞれ与えられた救いという、このともしびをかかげて、そこに新しい油注ぎを今日も満たしていただきたいと思います。

 さらに続けて、この二十五章を見ていくと、十四節の所からは、良いしもべと悪いしもべについて書かれています。十三節までの所は、「賢い娘と愚かな娘」でしたが、十四節からは、「良いしもべと悪いしもべ」です。
 神様ご自身は、私たち一人一人にタラントを与えてくださって、それぞれに、一タラント、三タラント、五タラント、それぞれ神様のために、その神様の夢を実現するために働かなきゃいけない、それぞれの持ち場、それぞれの場所の働きがあると思うのですが、それぞれのタラントがあるわけですけれども、良いしもべというのはどういったことをしたかというと、それぞれ与えられた自分のタラントを通して一生懸命働いて、忠実にがんばったのです。二十五章二十三節、

『その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

と書かれています。イエス様ご自身の喜びがそのしもべの喜びだったということで、与えられたものを一生懸命忠実に、がんばって、それをさらに増やすということをしました。
 しかし、悪いしもべは何をしたかというと、自分に与えられた賜物を使うことなく土の中に隠しておいたというのです。ここにずっと書かれていますので、また読んでいただければ分かると思いますし、もうみなさんご存じだと思うのですが、二十六節の所をお読みします。

『ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。』

ということで、主はその悪いしもべに対して、「なまけ者のしもべだ。」と言って、怒っておられます。結果どうなるかというと、この三十節に、

『役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。』

と書かれています。私たちは本当に主の御前に、この終わりの時代に私たちそれぞれがそれぞれの位置でしなければならないことを主は備えてくださっていますけれども、イエス様のためにしなければならないことというのがそれぞれにあると思います。ですからその主のための働きを与えられたものを通して、精一杯忠実に、勤勉に、役立つ働きをしていかなければいけないと思います。ローマ十二章十一節、

『勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。』

というみ言葉がありますが、勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕える、そんな忠実なしもべになっていきたいなと思います。

 またマタイの福音書に戻りますが、二十五章三十二節から最後の所ですけれども、今度は「羊と山羊」について書かれています。いよいよイエス様が帰って来られて、羊は右側に、山羊は左側に、選り分けられてしまうということなのですが、私たちがイエス様の前に立つことができるかできないかというのは、天の父が決めてくださることですけれども、本当に羊としての働きを全うして行きたいと思います。
 二十五章四十節、

『すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

と書かれています。小さい者のためにしたことが、イエス様ご自身のためにしたことになる。ここにずっと書かれているのは、病気であった時に見舞いに来てくれたか、くれないかであったり、牢獄にいた時に来たか来ないか。また渇いていた時に、飲ましてくれたか飲まさなかったか。そんなような事が書かれていますが、「いと小さき者にしたことがわたしにしたのだ。」それが主ご自身の羊か山羊かの基準だというのです。すごく恐ろしいことだなと思うのですが、私たちの日々の生活の中で、いと小さき者にした事は、わたしにしたことだということなので、本当にイエス様が帰られるその日に主の御前に立つことができる者となるために、小さき事に忠実な働きをしていきたいと思います。
 ただその小さき事に不忠実だと、どうなるかというと、二十五章四十五節、

『すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」』

 最も小さき者たちにした人たちは、「永遠のいのち」を持ちますが、そうでない人は、どうなるかというと、「永遠の刑罰」だと書かれていますので、私たちが主ご自身のいのちに輝く者となるために、主の業に励んでいきたいと思います。

 私たちは本当に、それぞれに与えられた賜物、それぞれが遣わされた場所で、主の御声を聞いて、なすべきことをなしていく時に、主ご自身の御業がなされると信じます。ただ終わりの時代で、本当に時代が今、悪い時代だなと本当に思います。
 私たちはロサンゼルスから帰って、すぐに、中国地方のツアーに出たのですが、今までのザワメキとちょっと違うことを感じました。行く先々で、問題を持った人たちがたくさんおられて、「祈ってください。」また「賛美の中で触れられますように。」と、みなさんおっしゃっておられるのです。
 まず山口県の教会に行ったら、小学校三年生の女の子が髪の毛がほとんど抜けてしまって、本当に真っ青な顔をして待っていてくださいました。彼女は白血病で、お兄ちゃんから骨髄移植を受けたけど、それでも駄目だったと言って、本当に「祈ってください!」と来て、その現状を目の当たりにしました。私たちには何もできないけど、ただ主ご自身が働いてくださるしかないなと思い一生懸命祈りました。
 またその教会の牧師先生の息子さんが、アメフトをしていて、そのアメフト中で大きな衝撃を受けて、脊髄を痛めてしまって、半身麻痺になってしまって、もう動けないのです。なんとかリハビリをして、立ち上がることはできないですが、車いすでいろんな事をすることができるようになって、車も運転できるようになっているけれども、なんとか癒されるように!と、その先生も一生懸命願っておられて、「祈ってください」と、おっしゃっておられました。
 また違う教会に行くと、本当に大変な家庭の問題がたくさんあって、「本当に今、大変なんだ。」と言うのです。お母さんがアルコール依存症でどうにもならないというのです。だからなんとかして欲しいと、家族中で来て、「今日は賛美の中で触れられるように願っています。」と、そこの牧師先生がおっしゃっていて、なんとか来るか来ないか、来ないか来るか、というような戦いの中で、結局家族中で来てくださって、本当に神様の前に一生懸命賛美して、家族みんなクリスチャンじゃないのにも関わらず、一生懸命祈って「助けてください!」と、祈っておられる、そんな姿を見ました。

 行く先々に、そんないろいろな問題を抱えておられる方が、日本中、そして私たちの身近にもある、そのような現状を私たちは見るわけですが、しかしそのような中でイエス様ご自身、この終わりの時代に「わたしの栄光を現す」と、おっしゃっておられる時代ではないかと思います。マタイ九章三十五節~三十八節、

『それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」』

 そのようにイエス様がおっしゃっています。弱り果てて倒れているような現状の人たちがあまりにもたくさん満ちている時ですけれども、そのような中で、私たち一人一人、それぞれが遣わされて行った場所で、主の栄光を現す、そのような時が来ているんじゃないかなと、そのようなことをすごく強く今感じています。

 終わりの時代が差し迫ったただ中で、イエス様がこれから私たちを通して何をさせようとしているのかということは分からないですが、でも忠実に、小さな事を一つ一つしていく時に、イエス様が帰られるその日、「Jesus is coming soon!」という、この時代のこの時に、イエス様の来られる道を平らにするためには、まず私たちの心が平らにされて、そして与えられた一つ一つの働きを忠実に全うしていく時に、イエス様の栄光が現されていくと信じています。

 最近ニュースで連日のように報道されているのが、イスラム国の事が報道されていて、やはりすごく心を痛めます。私たち、そのザワメキのレコーディングの時に、「Jesus is coming soon!」のレコーディングの最中、主が声を出しておられるその時、本当に終わりの時代を感じていたのですが、ちょうどその時、そのタイミングで、日本で何があったかと言ったら、日本で流れていたニュースはイスラム国のニュースでした。後藤さんが殺害されてしまったという衝撃の出来事でした。私たちもアメリカの地で知り「いやぁ、大変な時代だな。」ちょうどその歌とその事件が重なるように感じたので、本当に終わりの時代だなと、すごく感じています。
 最近の報道を見ると、特にクリスチャンがイスラム国の人たちに拉致されて、また殺されたりしているような、そんな現状をたくさん見ますけれども、そのような中でも、私たちは希望を失うことなく、戦い続けていきたいなと思います。
 「舟の右側」が、先週ここで紹介されて、順先生と山崎ランサム先生の記事が書かれていると、「舟の右側」という雑誌が紹介されていましたが、その中にそのイスラム国で拉致されて、そして殺害されてしまった二十六歳のアメリカ人の女の子の事が書かれていました。読まれた方もいらっしゃるかと思いますが、その女の子は人道支援のために行って、「ここは危ないから、すぐに明日もう違う国へ行こう!」という時に、彼女は捕まってしまったそうなのです。そして獄中の中で彼女が手紙を書いて、その手紙を友人に託して、友人は釈放されたのですが、その友人を通して彼女の手紙が届けられたのです。しかし彼女はイスラム国の手によって命を奪われてしまったのですが、最後にその方の手紙を少しだけ紹介したいと思います。ケイラー・ミラーさんという方ですが、その手紙の抜粋をまた抜粋したものを、少しお読みします。

 みんなへ
 この手紙を届けてくれるようにと、彼女たちにお願いしました。なんと言っていいのか分かりませんが、知っていただきたいのは、私は安全な場所にいて、無傷で、健康状態も良いということです。最大限の敬意と親切さとを持って扱われています。
 ママがいつも「最後の最後にあなたに残るものは神様しかないのよ。」と言っていてくれたのを思い出します。今、あらゆる意味において、創造主に自分自身を捧げる、それしかないのだということを経験しています。絶望的な状況の中にあっても、神様ご自身とみんなの祈りによって、優しく包まれているように感じています。
 私は闇の中にあって光を見ました。そして、獄中にあっても自由になれることを知りました。私は感謝しています。どんな状況にあっても、良いことはあり、時にはそれを見いださなければならないのです。
 私は毎日毎日祈っています。みんなが神様が側におられるのを感じ、また神様にゆだね、愛で結ばれ、互いに支え合っていけますようにと。みんなのことはまるで十年も引き裂かれているかのようで、とても恋しいです。
 私の解放交渉には応じないでください。たとえ多くの時間がかかったとしても、他に選択の余地があるのならば、そちらを選んでください。
この事で決して重荷を負わないでください。私はくじけません。どんなに長引いたとしてもあきらめません。みんなに再会できるという望みは私の強さの理由でもあるのです。どうか堪えてください。痛み苦しみを神様に委ねてください。私は強くあってほしいと願っていると思います。それはまさに、私がしていることです。
 私のことで恐れないでください。祈り続けてください。私も祈り続けます。そして、神様の導きによって、私はもうすぐ再会できるでしょう。ケイラー

 こんな手紙が届けられたのですが、結果としては彼女は命を奪われてしまった状況にあるわけですが、今のこの世界で現実に起こっているこの現状というのは、私たちが今まで経験したことのないような文字通り世の終わりを感じさせられるような出来事が起こっています。けれども、私たちは今、そのような時代に生かされているということは、神様の選びの中で、神様の許しの中で、私たちはここに立たされているので、そのことをもう一度覚えて、主の帰られる道を備えるために、もう一度油を満たして、忠実なしもべとなって、本当に主に喜ばれる、「いと小さき者にした事は私にしたことだ。」とイエス様に言っていただける、そのような者になることができるように励んでいきたいと、心から願います。一言お祈りします。

 ハレルヤ。愛する天のお父様。あなたのすばらしい御名をあがめて心から感謝します。今日こうしてあなたの御前に、賛美を捧げ、あなたを礼拝する、この大きな恵みの中に私たちを生かしてくださっていることを心から感謝します。ここまで主が守り捧げてくださったことを心から感謝します。
 今日は、Jesus is coming soon!と、イエス様がまもなく帰られることを、主よ、もう一度覚え、またそれにそなえるためのみ言葉を学ぶ、このような機会が与えられたことを心から感謝します。主がここにおられるお一人お一人、私たち一人一人を選んでくださって、ここに居させてくださっていることを、心から感謝します。
 あなたがしようとしておられる、この終わりの時代のリバイバルが、私たちが思っている以上に遙か高く大きく、すばらしいものであることを信じて、心から感謝します。その事を信じてもう一度、あなたの前に立つ者となることができるように助けてください。
 主よ、命が狙われるような、そのような時代の中に私たちはいますけれども、そのような中でも、希望を失うことなく、どのような中でも信仰を持って歩み続けていくことができるように助けてください。今日の時を心から感謝します。もう一度すべての栄光を主にお返しし、尊きイエス・キリストの御前によって、この祈りを父なる神様の御前にお捧げいたします。アーメン。