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主の夢をかなえる為に。パート3

2015年3月8日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
マルコの福音書 4章26節〜29節

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日も共に、礼拝を守ることができますことを感謝します。和基君の演奏、すばらしかったですね。彼はキラキラ星から始めたのですが、ここまで成長しました。今度は大学に進み、さらに専門度を深めることだと思います。私たちも、主の働きのために、熟練していきたいと願っています。

 三月、四月は、年度末、新年度という事で、新しい出会いも多くあります。今日の午後のプログラムは、ちょっと趣向をこらしまして、交わりの時となります。お昼はいつもお友達と一緒にカレーを食べるのが習慣になっているかもしれませんが、今日はいつものお友達とは一緒に食べないでくださいね。教育館の入り口でくじを配ってくれるらしいです。くじで指定された場所に行き、その方々と一緒に食事していただき、自己紹介をしたり、証しをする機会にしたいと願っています。ぜひ挑戦してみてください。そこに主の祝福が待っていると思います。

 三月、四月は、教会ではいろいろなイベントがあります。週報をよくお読みいただきたいと思います。また、今年の復活祭は、「四月五日」です。その日は、召天者記念会もありますので、今から予定に入れ、親族にもご連絡していただきたいと思っています。

 さて、今日のメッセージですが、毎回、メッセージの題について悩むのですが、今年はこの題一つで行こうかとも考えています。なぜなら、私たちは、突き詰めれば、主の夢をかなえるために存在しているからです。今回は「パート3」、次回は4になるのか分かりませんが、私たちは主の夢をかなえるために生きています。

 今読んでいただきました箇所は、神の国がどのように進んでいくのかを教えています。神様の夢は、地上に神の国が実現することです。その働きをサポートするのが、私たち、クリスチャンです。
 基本的に、神の国の実現は「自動運転」だと教えています。何しろ、それは神様の計画ですから、人間の意志とは別な所で遂行されるわけです。それが基本です。

「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

 まもなく稲作の準備が始まります。まずは種を蒔き、やがて田んぼに苗が植え付けられると、知らないうちに稲が育っていきます。それは自然の法則の中で、人手に寄らずに、稲は実を実らせるものです。私たちは毎年それを見ています。
 しかし、人手によらずに実を実らせていくのが基本ですが、そこには、お百姓さんが関わっているのです。草を取ったり、田んぼの水を調整したり、米を作るためには様々な手がかかるわけです。自然の法則、プラス、人手によって収穫にいたるわけです。
 神の国の実現も、まさにその通りです。基本的には、人手によらずに神の国は実現していくのですが、その中に、人が関わることによって、麗しく実現するのです。
 私たちクリスチャンは、神の国が実現するためのサポート部隊です。お百姓さんのようなものです。私たちは神の夢を実現するために、精一杯、今年も働かなければならないわけです。

 マルコは、三章、四章、五章で、神の国がどのように実現するかを説明し、その中で、人は何をしなければならないのかを教えているのです。この箇所は大変重要だと私は理解しています。
 まず三章で、イエスさまは、神の国を実現させるためのサポート部隊を編成されました。それが十二人の弟子たちでした。弟子たちが選ばれた目的が記されています。マルコの福音書三章十三節〜十五節、

『さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』

 イエスさまは、神の計画、夢を実現するために、十二弟子たちを自ら選び、呼び出されたのです。
 今日ここにおられるお一人一人、様々な背景と、様々な出来事で、教会に来られたかもしれませんが、自分で来たのではないのです。神に呼ばれたのです。神に呼ばれて、今日、私も、あなたも、この場所にいるのです。ヨハネの福音書十五章十六節に、大変有名な言葉があります。

『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』

 前回、「神の国とその義とを第一に求めなさい。それに加えてすべてが与えられる。」というみ言葉を学ばせていただきました。実に、ヨハネ十五章も、神の国と神の義を第一にしたら、すべてが付け加えられるという概念が見事に表されています。
 主が私たちを選んでくださり、任命されたのです。それは何のためであるかというと、神の国の実現、神の正義が地上に現されるためなのです。この目的を第一にしたら、自動的に実を結び、必要もすべて付け加えてくださると約束されています。
 何かをもらうために神に仕えるのではなく、神の夢を実現するために働くなら、自動的に、必要は満たされるという、重要な霊的原則を、ここからも読み取ることができます。

 日本では、クリスチャン人口がなかなか増えないのです。いつまで経っても、人口の一パーセント以下です。なぜ、日本にクリスチャンが増えないのだろうかと、日本中の教会は四苦八苦しています。
 先週は「リバイバル聖書神学校」の卒業式があり、五名の方々が卒業されました。主のために働きたいと献身される方が、日本でも起こされていることを、心から感謝しています。
 しかし、いくらがんばってみても、なかなかうまくいかないのです。日本は仏教国だから、神道が強いからと言われるのですが、実は、日本にクリスチャンが増えない、特殊な事情があるのです。

 私は二ヶ月に一度、「教会ニュース」の原稿を書くことになっています。私は原稿を依頼されることが結構多く、原稿締め切り日は大変です。
 先日も、「舟の右側」の編集長から電話があり、「順先生、一筆書いてくれますか?」『どのくらい書けばいいの?』「そうですね。七千文字くらい…。」と言われ、書きました。そうしたら、知らないうちに載っていました。「あれ、いつ最終校正したっけ?」という感じでしたが、原稿締め切りぎりぎりまで、いつも大変です。教会ニュースも結構、忘れた頃にやって来ます。
 実は、今日が「教会ニュース」の締め切り日だったので、昨晩、今朝のメッセージを準備するより、教会ニュースの原稿を一生懸命に書きました。
 昨晩仕上げた原稿を読ませていただきたいと思います。今回のタイトルは、「あなたの宗教は何ですか?」です。ちょっと聞いていただきたいと思います。

あなたの宗教は何ですか?
 日本の宗教人口は、文部科学省の宗教統計調査によると、神道系が約1億700万人、仏教系が約8,900万人、キリスト教系が約300万人、その他が約1,000万人、合計2億900万人であると発表されています。それは日本の総人口の2倍弱にあたり、しかも、神道系と仏教系だけで2億人に迫っています。
 けれども、国民、個々への宗教調査では、「何らかの信仰・信心を持っている、あるいは信じている」と答えるのは、人口のわずか2割から3割というのですから、驚きです。なぜ、そのような結果が出るのでしょうか。

 かつて、山本七平の著した「日本人とユダヤ人」という本が、300万部のベストセラーとなりました。その中で展開された日本人論は、日本人の宗教観を再考する、大きなきっかけとなりました。山本によると、日本人は仏教徒でも神道でもなく、「日本教徒」であると述べています。そして日本人は、自分が日本教徒であることすら気づいておらず、日本人を日本教徒から他宗教に改宗させることは、大変難しいと述べています。
 では日本教徒とは何でしょうか。それは、外から入って来る宗教を、すべて自分の都合の良い形態に変化させ、利用する体質だと述べています。

 先述したように、日本には統計的に約8900万人もの仏教徒が存在します。全世界の仏教徒数は3億数千万程度と言われる中、日本は仏教大国です。事実、日本には7万5000もの寺院が存在し、仏像は30万体以上あると言われます。それは他の仏教国とは桁違いの数です。
 仏教の原点は「輪廻思想」にあります。人は死んでも49日経てば、再び、この世に転生すると教えます。もしも輪廻が事実なら、墓も必要ありませんし、先祖の霊も存在しないことになります。日本独自の仏教、鎌倉仏教は、題目を唱えれば即、極楽浄土できると教え、民衆から大きな支持を得ました。現在も、日本仏教の大半は鎌倉仏教に属しています。しかし、そこで強調されているのが「先祖供養と祖先崇拝」であるのは、なんとも不可解です。
 そんな矛盾があるのにもかかわらず、矛盾を矛盾としない体質、それが何よりも、日本教徒である証です。

 では日本人は何を信じているのでしょうか。山本七平研究で有名な小室直樹によると、「日本人は自分の好みを神とし、絶対神に仕える事を嫌う国民である」と述べています。日本人の好きな言葉に「自分を信じる」と言う言葉があります。それはスポーツ選手たちへのインタビューの中で、必ず出てくる言葉の一つです。日本人にとって信じることができる存在は、突き詰めれば、唯一自分でしかないのかもしれません。

 けれども、いくら自分を信じても、人生は解決できない問題でいっぱいです。日本ほど、整った社会を構築している国はあまりありません。日本人は戦後、世界で最高レベルの経済、教育、医療、平和を実現してきました。しかし現在、その砦も崩れつつあります。今や自殺者は年間三万人を超え、日本は世界でもまれな自殺大国です。先日、ネットニュースに、日本には年間15万人ほどの変死者がおり、WHOでは、その半分を自殺者としてカウントするので、本来、公表すべき自殺者数は「11万人」であり、これは先進諸国の「10倍」にあたるとありました。
 もしもこれが事実なら、日本人は世界で「最も希望を失った国民」と言うことになります。ひたすら自分を信じて生き抜いた戦後七十年の結果がこれです。

 今こそ、日本人は自分の宗教を再考することが必要です。聖書は人間を創造し、生かしてくださっている唯一の神について教えています。日本人が最も不得手とする、絶対神に目を向ける中にこそ、日本の未来を約束する鍵があるのです。
 聖書に次のような言葉があります。

『イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。』 

 唯一の神イエス・キリストに目を向けるとき、人生は劇的に変化します。


 このように書いたのですが、日本人は、仏教徒でもなく、神道でもないというのです。日本人は「日本教」という宗教に入っているというのです。
 その宗教はどのような特徴かというと、宗教を自分の都合の良いように解釈し、変えていくというのです。
 現在、日本に八千九百万人も仏教徒がいるというのですが、そのほとんどが鎌倉仏教という、鎌倉時代に始まった宗派に属しています。それは小乗仏教から考えたら、異端も異端、全くの別物です。修業もなく、ただ一言、阿弥陀の名を呼んだら救われるという、これは完全にキリスト教のパクリです。しかし即成仏できるという浄土宗、浄土真宗が、最も先祖供養を熱心にするわけです。おかしいです。一発で極楽に行ったはずではないのですか。嘘八百です。それは日本人が日本教徒である証拠です。
 日本人にとって、神は誰かといったら、自分自身なのです。自分自身のために他の神々を利用しています。自分を信じろ、自分を信じろと言います。しかし、いくら自分を信じてみても、何もできません。今や日本の自殺者数は、現実には「十一万人」だというのです。先進国の中で、断トツトップ。十倍だと言うのです。信じられないです。
 私たちは、自らを省みなければならないのです。なにを省みるかと言えば、自分を中心とするのではなく、絶対的な神との主従関係です。神によって選ばれ、私たちは神に仕えていくことを、しっかりと人生の中心としておさえなければいけません。
 日本人は、教会に来ても、その体質を引き継ぎやすいのです。「神は私に何をしてくれるんだい?」と。しかし私たちは、神様の夢を実現するためのサポート部隊です。それに気がついたら、必要なものは主が全て与えて下さるのです。
 一度しかない人生、私たちは主の夢を実現するために、主に従い、働いていきたいものです。そうしたら、気がつけば、自分の夢も実現しているはずです。
 日本にクリスチャンが増えない背景に、そのような体質があると社会学者は分析しています。日本では、クリスチャンになっても、しばらくすると、「神様は私の夢をかなえてくれない。やめよう!」と言って、やめていく人が多いというのです。だからいくら救われる人がいても、一方から出て行く人がいるので、教会はなかなか発展しないと分析されています。
 ということは、日本教からの解放は、重要なテーマだと思うのです。来週は午後から「霊的戦いセミナー」で、「日本教」を扱わせていただきたいと思っています。来週の予定に、ぜひ、入れておいていただきたいと思います。

 私たちは神に選ばれ、任命された者たちです。なんのために任命されたのか、それは、主の夢を実現するために、サポート役として選ばれたのです。
 マルコ四章を見ますと、三章を受けて、イエスさまは種まきのたとえを弟子たちに話されました。ある人が種まきに出かけたストーリーです。そして、その意味について、イエスさまご自身が解き明かされています。マルコ四章十四節〜二十節に、このように記されています。マルコの福音書四章十四節〜二十節、

『種蒔く人は、みことばを蒔くのです。みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。そもう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」』

 毎週、私たちは教会に来て、さらには日々、主との交わりの中で、聖書からみ言葉を受け取るわけですが、神のみ言葉は、種のようだというのです。
 私の家内の実家は種屋ですが、種は環境が整わないと、決して芽を出しません。
 神様のみ言葉も同じで、心の中に蒔かれても、環境が整わないと実を結ばないのです。
 良好な環境をとどめる筆頭にあげられるのが、「道ばたに落ちた種」と、象徴されています。み言葉を聞いても、すぐサタンが来て、蒔かれたみ言葉を持ち去ってしまうというのです。み言葉の種を持ち去るのは「サタンだ!」というのです。サタンは素早いようです。「すぐに」来て取り去るというのです。
 今日もみ言葉の種が蒔かれていますが、サタンに奪われないように、気をつけましょう。

 次に、種を奪い去る要素が、四章十七節に記されています。み言葉のために困難や迫害が起こると、躓いてしまいますとあります。「困難や迫害」というのです。日本でクリスチャンをやっていくには、困難や迫害は、ある意味つきものかもしれません。家族の中でただ一人のクリスチャンなら、困難や迫害は必ずあるかもしれません。村でただ一人のクリスチャンだと、困難や迫害が村からあるかもしれません。これこそ、霊的戦いだと意識し、挑戦しなければなりません。

 そしてもう一つは、十九節にあるように、「いばらの中に蒔かれる種」に象徴される、「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望」だと言われました。それらが、み言葉の種を取り去る要素となるのです。私たちは欲望渦巻く社会に生きています。常に世の心づかいや、富の惑わし、欲望がまとわりついて来ます。しかし私たちは、常に、神の国の価値観で生きなければなりません。

 しかしながら、二十節にあるように、「良い地に蒔かれる」とは、『みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。』と言われました。種が蒔かれ、三十倍、六十倍、百倍に成長したらすごいです。

 最初に、『神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。』とありますが、種は知らないうちに発芽し育ち、三十倍、六十倍、百倍と実を結ぶ秘訣は、どこにあるのでしょうか。四章、五章に、その秘訣が記されています。
 神の国の実現は、本来、自動運転だというのです。夜は寝て、朝は起きて、そうこうしているうちに、三十倍、六十倍、百倍と実が結ばれるのです。教会も、夜寝て朝起きたら、三十倍に増えていた!六十倍、百倍に増えていた!そんな楽なことはありません。みなさんの働きも、そうあって欲しいと思います。では、そのためには何をしたらいいのか。
 自動運転の実例が、実は、五章に述べられているのです。

 五章はイエスさまがゲラサという地に行き、なされた奇跡が記録されています。その結果、何が起こったのか。悪霊に支配されていた男が解放され、癒されたのです。
 そんな奇跡が起こったのにも関わらず、ゲラサの住民たちはイエスさまを受け入れませんでした。イエスさまはゲラサから追いかえされてしまいました。悪霊から解放された男一人だけが残りました。その結果が、マルコの福音書五章十八節〜二十節に記されています。

『それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。』

 これがイエスさまがゲラサという地に行って、レギオンという悪霊を追い出した結果です。イエスさまはゲラサに行って、神の国について語ろうと出かけていったはずです。しかし一人の男が立ちはだかって、霊的戦いが起きました。その結果、彼は解放され、ゲラサの街にある問題が取り去られました。しかし、街の人たちはイエスさまに恐れをなしたのでしょう。「イエスさま、この地から去って下さい。」と言いました。イエスさまは、すごすごと、戻って行かれました。
 その時男も、「イエスさま、お供したいんです。」と申し出ました。すると、「家に帰って、主がどんなことをしてくれたか、それをみんなに告げなさい。」と告げられました。男は家に帰って行きました。
 そうしたら何が起こったのでしょう。彼が解放されたことが、皆の目に明らかになり、その結果、デカポリス一帯に噂が広がったのです。

 この記述は何を表しているのでしょうか。神の国とは人手によらずに実を結ぶものである事を告げています。イエスさまはゲラサに行き、たった一人の男を解放しただけです。しかし自動運転で全体に広がり、実を結んだのです。
 デカポリスとは、「十の街」という意味ですが、十の街連合の一つの街がゲラサだったのですが、一つの街の一人の男が解放されたことによって、十の街に噂が広がり、人々はイエスさまに興味を持ったのです。
 これは、「自動運転の法則」が動いたのです。その中で、イエスさまがなされたことは何であったかというと、「霊的戦い」でした。レギオンという暗闇の力を打ち破った結果、このような結果が現れたのです。

 私たちも、イエスさまのサポート部隊として、神の国が自動的に実現していくための秘訣を学ぶことができます。それは「レギオンと呼ばれる悪霊どもに挑戦して、打ち破る」ことです。「その働きをしなさい!その時、神の国は自動運転しますよ。」という事を、全体として教えているわけです。
 イエスさまは十二弟子を召し出されたとき、何を訓練されたのたか。弟子たちの態度が悪いとか、箸の上げ下げとか、挨拶ができる出来ないとか、そんなことではありませんでした。イエスさまの訓練はただ一つ、『彼らを遣わせて福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』とあります。『彼らを遣わせて福音を宣べさせ、』とありますが、「すなわち」という接続詞を挿入するとよく分かります。それは、『悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』のです。
 福音とは、良き訪れです。「暗闇から光へ、サタンの支配下から神の支配下へ移されること」です。福音を宣べ伝えること、イコール、悪霊を追い出す権威に他なりません。イエスさまは彼らに、その手本をゲラサで見せたのです。実地で見せたのです。「神の国実現の自動運転とは、こういうものだ!」とゲラサに行き、弟子たちに対してイエスさま自らが実演して、神の国の実現を体験させたのです。
 私たちもここから多くを学ぶことができます。霊的戦いが、主が帰って来られる道を備える働きの中で、最も重要な働きであり、神の国が自動的に実現する為に欠かす事が出来ない働きなのです。、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶためには、霊的戦いがどうしても必要と、ここで教えているわけです。

 イエスさまは種まきの話をした、その日の夕方、弟子たちと一緒に舟に乗って、ゲラサに出かけて行ったのですが、その途中、湖で激しい突風が起こったとあります。マルコ四章三十七節〜三十九節、

『すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。』

 イエスさまが湖を渡って向こう岸に行こうとした時、それを妨害するかのような大風、暴風が起こったのです。この風は、限りなく怪しいです。レギオンが吹かせた風のようにも見えます。この風が、自然の高気圧から低気圧の流れで起きた風だとしても、または霊的な力が介入して起こった風にしても、イエスさまがこの時点で引き返していたら、五章は成り立ちません。多くの実を結ぶことはなかったわけです。いずれにしても、これは妨害の風であったわけです。

 実はこの箇所、マタイは特殊な言葉を使っています。マタイの福音書八章では、「大暴風」という言葉が、「セイスモス・メガス」という言葉が使われています。「セイスモス」は直訳すると「地震」です。それは前にもお話しました。
 ただの波風ではなく、大地震が起こったとマタイは記しています。もしかしたら、湖付近で大地震が起こり、津波のようなのが来たのかもしれません。その時、イエスさまが「黙れ、静まれ!」と叫んだら、一発で凪になったというのです。
 私たちクリスチャンは、「自然界に対しても管理人だ。」と、昨年、お話ししました。まさに、イエスさまは自然界に対しても、霊的な世界に対しても、管理権を行使されたのです。
 マタイが述べていることが事実だとしたら、ガリラヤ湖で大地震が起き、津波が起こったのかもしれません。イエスさまは、「黙れ、静まれ!」と、それを鎮められとしたらすごいです。

 先ほども祈りの中に出ていましたが、今週は、日本は重苦しい週です。このテレビ画面を、2011年3月11日にだれもが見たと思います。

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 「東北地方太平洋沖地震宮城北部でマグニチュード八・四」、この映像を見て、大きなショックを受けました。この地震を通して、二万人近くの人たちが亡くなられましたし、今も二千人以上の人たちが行方不明だというのです。原発が壊れて、未だにコントロールされていないのが現実です。東京電力は情報を隠しています。何こそ今、起こっているか分からないです。
 さらなる巨大地震が迫っているというじゃないですか。災害は忘れた頃にやってくるとありますが、四年経って、ちょっと忘れ気味です。でも、この地域に先週地震がありました。家内が夜中に「あっ!地震だ!」と言って飛び起きました。私は全然、気づかずに寝ていました。日本は震度四くらいの地震は慣れっこになっている感じですが、ヨーロッパなんかで震度四といったら、一大事です。新聞の一面に出ます。
 クリスチャンが「黙れ、静まれ!」と地震に対して、自然災害に対して、管理する祈りをしなければいけないのです。地震によって多くの人たちが犠牲になると、悲しみが国を覆い、国は悪いほうに向かっていきます。今、日本が右傾化していると言われますが、大正の時代に関東大震災あったのですが、関東大震災を機に、日本は帝国主義に向かっていったと言われます。悪魔は災害を利用します。今週私たちは、しっかりと、日本の自然界に対して、「黙れ、静まれ!」と、宣言し、管理する祈りが必要です。

 イエスさまは、湖をしかりつけ、黙らせ、静まらせ、ゲラサの地に上陸されました。すると一人の男(マタイの福音書では二人)が墓場から出て来て、イエスさまの前にひれ伏しました。その時イエスさまは何と言われたか、五章に出ています。マルコ五章九節〜十節、

『それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。』

 イエスさまは男に、「汚れた霊よ!出て行け!」と言われ、「おまえの名前は何だ?」と聞かれました。私が名前を聞かれたら、「滝元順です。」と答えるはずです。でも、この男は「私たちはレギオンです。」と答えたのです。
 「レギオン」とは、当時、ゲラサに駐留していたローマの軍隊の一個大隊でした。六千くらいの兵を要する、軍団だったのです。それに対応するかのように、悪霊どもも、レギオンという組織を持っていたのです。彼らは武器を持って、この男を中心軸に、この地方で働いていたことが分かります。

 レギオンとは、現実的には、ローマの軍隊を現す言葉だったのですが、それは同時に、暗闇の勢力の名でもあり、ゲラサを、さらには、デカポリスを牛耳っていたのです。
 男だけが悪霊に支配されていたのかと思ったら、悪霊の軍団は、「この男から追い出さないでください。」とは願っていないのです。五章十節、

『自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。』

 「地方」とは、ゲラサを含むデカポリスと呼ばれた「十の街連合から追い出さないでくれ」と願っているのです。
 ここから分かるように、悪魔、悪霊どもは、街をターゲットとして働いているという事です。見える世界でも、ローマの一個大隊、レギオンが駐留していて、デカポリスはローマ帝国の支配下にあったのです。この街々は、かつてギリシャのアレキサンダー大王によって作られた、ヘレニズム風の街でした。イエスさま時代は、ローマ帝国によって支配されていたわけです。
 しかし見えない世界からは、暗闇のレギオンが地域を治めていた事がわかります。

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 一般に、悪魔・悪霊どもは人の中に入り、人を苦しめるように考えますが、そうではないということです。
 「汚れた霊よ、出て行け!」と言われた後でも、悪霊は男の口を借りてしゃべっています。彼らが願っている事は、「この地方から追い出さないでください。」でした。
 しかしイエスさまがゲラサへ行かれ、レギオンを打ち破った結果として、福音が広がったのです。私たちも街を勝ち取るために、街を牛耳っている悪しき軍団に立ち向かわなければいけないのです。

 さて、この男と街が悪霊どもの手中に陥ったのは、それなりの理由があったはずです。何の理由もなく、こんな事にはなりません。

 私は「霊的戦い専門課程」を受け持っていますが、私の働きは、どうしてこのような霊的環境になったのかを研究し、見抜く働きです。悪霊どもが入る理由はただ一つ、罪です。罪があれば、悪魔・悪霊どもは合法的に入って来ます。そして、聖書が指摘する最大の罪は何かというと、「偶像礼拝」です。
 ゲラサは現在、とのような場所かというと、以前にも見せたことがありますが、有力候補地として、「スシータ」と呼ばれる場所ではないかと考えられています。それはガリラヤ湖の東側にあります。

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 この街をガリラヤ湖側から見ると、こんな場所です。

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 台形の平らな場所、そこにかつて街があったのです。

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 そこに行きますと、今でも、神殿跡地が残っています。私はここに、二回ほど、とりなしに行ったことがあります。それは、ギリシャ神話の神々が祀られていた神殿でした。
 この街の人たちは、こぞって神殿に来て、ギリシャ神話の神々を礼拝していました。一つの偶像に対して、街中の人たちが、ひざをかがめ礼拝していたのです。その為に、街に悪霊の軍団、レギオンが侵入していたと考えられます。その結果、街の誰が関わっても解決しない、問題が起こり、街も、男も苦しんでいたのです。
 この構図は現代の日本も同じです。街には、街中の人たちがこぞって礼拝する場所があります。今日も花火が上がっていますが、この季節になると「街中の人たちよ。拝んでくれ!」と祭りをやっています。結果、何が起こるのか。レギオンのような悪しき軍団が街に入り、人々は縛り上げられるのです。街は神の国が訪れないように、閉ざされてしまうのです。
 しかし、イエスさまはそこに行き、悪の軍団を追い出されたのです。

 この神殿には、ギリシャ神話の神が祀られていました。聖書の記述を、考古学的資料と付き合わせると、事実がよく理解できます。聖書の記述がどれほど正確であるかが分かります。ここは農耕地帯でした。また、牧畜もなされていました。
 日本で、祀られる偶像って、その土地の特徴に合わせた祭神が祀られています。この辺だと、だいたい稲作の神々が祀られています。豊穣神、農業神が祀られています。昔も同じでした。農耕地帯に祀られていた神は、ギリシャ神話の中の、豊穣神でした。
 ギリシャ神話に詳しい人がいるかどうか知りませんが、オリンポスの十二神の中に、「豊穣の女神」がいるのです。「デメテル」と呼ばれていました。それがこの神殿に祀られていたと仮定すると、聖書の記述のつじつまがうまく合うのです。
 デメテルという女神は、どういう性格を持った女神かと言えば、豊穣神で自然界を支配し、風とか雨とか、気象をコントロール出来る神だと言われ、そのテーマで人々から拝まれていました。人々が天候のために願う時は、デメテルに生け贄を献げ、願いを捧げていたのです。
 ということは、イエスさまがゲラサに行く途中、突然風が吹いたのも、頷けます。ヨブ記を見れば、サタンが出て行き、風が吹き、ヨブの子どもたちが死んだ記述があります。サタンは限定的に、気象を支配出来る事が分かります。

 その後、レギオンが何をイエスさまに願ったのかというと、「豚の中に乗り移らせてくれ!」と言っています。イエスさまが許可されると、豚はびっくりして、高い所から湖に落ちて死んだというのです。ここは絶壁ですから、ここから二千匹も豚が落ちたら、相当迫力があったと思われます。

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 「いや〜、イエスさまもひどいな。誰の豚か分からないのに、殺してしまうなんて。豚の飼い主は相当損しただろうな。」と思いますが、なぜ、レギオンは豚の中に行かせてくれと願ったのでしょうか。これは「私たちをこの地域から追い出さないでください」と言っているのと同じなのです。
 実はデメテルには「聖獣」と呼ばれる、神の使いとして拝まれていた動物がいました。それが豚だったのです。だから、レギオンが豚の所にやらせてくれというのは、「俺たちを追い出さないでくれ。」ということなのです。しかし崖から落ちたのは、レギオンが滅ぼされた証拠です。
 こうやって見ますと、理由なしに悪霊どもは、地域には入ったのではないことが分かります。

 今、日本でも、いろいろなテーマで偶像礼拝がなされています。しかし、その結果、霊的な敵が街に侵入するのです。私たちは悪霊が地域に侵入する理由をはっきりと見抜き、イエスさまと同じように、暗闇に立ち向かっていく時、神の国は自動運転し、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。

 そしてもう一つ、男が墓場に住んでいたということは、何を表しているのか。実は当時の人たちが一番関心を持っていたのが、墓場で行われた祖先崇拝でした。祖先崇拝は、敵の侵入を許す大きな理由となっていたのです。
 こうやって見ますと、イエスさまの時代の霊的環境と、今の時代は、全く同じです。街の真ん中に大きな神社があり、街中が拝みに行く。そして、家に帰れば仏壇と墓を拝んでいる。祖先崇拝を熱心にやっている。ならば、日本も、悪しき霊的軍団の支配下にある事になります。

 しかし、イエスさまが見本を見せてくださったように、街を支配する暗闇に立ち向かう時、神の国の働きは自動運転し、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。弟子たちはイエスさまから、多くのことを学んだと思います。
 現代を生きる弟子たちも、ここから学び、街を支配する霊的力に勝利し、イエスさまが帰られる道を用意しなければなりません。今週は、街を支配するレギオンに立ち向かい、勝利する祈りをしましょう。
 キリストのからだが一丸となって立ち上がる時、悪魔・悪霊どもは、滅びなければならないのです。なぜなら、私たちは霊的世界においても管理者だからです。霊的な世界に関しては最も大きな権威が、管理者には託されているのです。
 今日お一人お一人が、主の勇士となり、敵の力を打ち破る働きをすることを、主は願っておられます。
 最後に一言お祈りして、メッセージにかえさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめ心から感謝します。神の国の働きは自動運転だと、学ぶことができました。そのために、私たちは何をしたらよろしいのでしょうか。特に、街を支配しているレギオンに立ち向かうことを、今日は教えられました。
 日本の多くの人たちがレギオンの支配下にあります。私たち管理者が出て行って、敵の力を打ち破ることができますように。暗闇を打ち破り、人々が救われ、解放され、ゲラサの男が解放され、多くの人たちがイエスさまに興味を持ったように、土地を改良する働きをさせてください。
 今、私たちは、イエスさまから選ばれ、呼び出されたた者として、御前に立っています。そのために、十字架の勝利を与えてくださいました。私たちが主の勇士として、戦いの勇士として、立ち上がるための聖餐式にしてください。
 すべての栄光をお返しし、尊いイエスさまの御名によって、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。