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神の義を追い求めよう

2015年3月15日(日)
新城教会副牧師 四元雅也
マタイの福音書6章33節

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

 ハレルヤ!感謝します。今日、こうしてみなさんの前で、メッセージを取り次がせていただけますことを感謝します。今月は、たまたま順牧師が、日曜日に奉仕が入っている日が少ないということもありまして、今日は主任牧師が在席しておられます。ですが、他の牧師に月に一回くらいはメッセージをさせた方が良いという主任牧師的配慮で、今回は僕に機会が与えられて、みなさんの前でお話しさせていただけますことを感謝します。

 みなさんに支えられて、教会の働きも祝福の中で導かれていますことを感謝します。私は、第一青年会を担当させていただいておりますので、青年の兄姉と共に行動することが多いです。
 今は、三月二十八日(土)に行われますThe Call Spring Sweet Nightという集会のために準備をしております。またみなさんにも、覚えてお祈りしていただきたいと思います。これがチラシです。

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 ゲストが、安武玄晃さんと西田勇さんという、九州で活躍されているクリスチャンのミュージシャンでありますけれども、彼らが、今回ザ・コールで初めて奉仕してくださいます。青年会の集会ということでありますが、後ほど、青年の代表の者が、みなさんにもご案内するかと思いますので、お祈りいただきますように、お願い致します。

 今、このために、いろいろ準備をしておりまして、私も青年会の活動でなかなか忙しいです。三月八日(土)には、今回賛美の奉仕をしてくれるBack2Edenの兄たちと、青年会の兄姉にも協力してもらって、豊橋駅前路上パフォーマンスと、チラシ配布を実施しました。
 当日は、あいにくの雨天でした。雨の下でのチラシ配布は大変です。雨の中歩いている人はみんな片方の手で傘を持ち、両手が荷物でふさがっている人も少なくありません。また、雨だと みなさん家路を急ぐ雰囲気が漂うわけです。それで、「ダメだ、アウト!」という感じになるわけですが、僕もこの顔で配っていまして、あぁ、難しいな、大変だなと思っていました。
 「自分が歩いていても、こういう日は受け取らないだろうな」と思ったのですが、やはりあまり受け取ってくれる人が少ないと、だんだんダメージが効いてくるといいますか、テンションが下がってきてしまいますので、「笑顔を絶やさないようにしないといけない。がんばろう、がんばろう!」とか、「イエス様、受け取るように助けてください。」なんて、自分を奮起させ祈りながら配るわけです。
 そんな中で、すごく驚かされたことがありました。それは今度四月から新たに青年に入る新青年の兄姉が、五、六人来ておられたかと思うのですが、彼らが配ると道行く人たちの反応が全然違うのです。僕が配ると二十人に一人も取るかなぁ?というくらいなのですけど、彼らが配ると、なんと五人に二人くらいも受け取るのです!それを見て僕は、目を丸くして、「うわぁ、すげぇな!」と、本当に新しい賜物が青年会に入って来てくれて、とても嬉しく思いました。
 終わった後に彼らに感想を聞きましたら、彼らはとんでもないことを言ってくれました。「雨が降って良かったです!」と言いました。雨が降ってなぜいいのかというと、雨が降ると、豊橋駅前を歩かれた方はご存じだと思うのですが、通路に屋根がついている場所があるのです。屋根のついていない場所もあるのですが、道行く人が、雨だったので、屋根のある場所に集中して歩いてくれるということで、歩く人の密度が濃いということで、たくさんの人に配ることができたと言っていまして、同じように配っても、感想が違うもんだなぁ、と思わされました。本当にそのように、若い兄弟姉妹が神様のためにがんばってくださっていますので、またこの新青年の方たちも覚えて祈っていただきたいと思います。その方たちの中にも受験をしておられる方もいらっしゃると思いますので、またそのためにも祈っていただければと思います。

 今日はこのマタイの福音書六章三十三節の言葉です。

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

 このみ言葉からお話ししていきたいと思うのですが、このみ言葉は実は、先月の二月二十二日に、順牧師が『主の夢を実現しよう!パートⅡ』というタイトルでお話ししてくださったメッセージと同じみ言葉です。ですので、今日は、『神の義を追い求めよう』とタイトルを付けさせていただきましたが、『主の夢を実現しよう!パート二・五』と題してもいいかもしれない、順牧師のメッセージと並べるのは少々大それたタイトルかもしれませんが、サブタイトルで、そんな感じでお話しできたらいいかなと思っています。

 その順先生が語られたメッセージの中で、
 『日々の祈りの中で、神の国を求める祈り、「主よ、早く帰って来てください。この地に、あなたの国を造ってください!」と祈ることは重要です。そしてそれと同時に、神の義が現されるように。「神の義」とは、神様の正義により、世界が治められることです。今週、神の国が一刻も早く、この地に現されるように祈ってください。「マラナタ!主よ、来てください!」と、必ず祈ってください。それと同時に「神の正義がこの世界を包みますように!」と、祈っていただきたいです。その祈りにより、主が帰られる道が用意されるのです。』
と、教えてくださいました。
 今日お話ししたいテーマは、まさにこの『神様の正義』についてです。「この世界に、日本に、神様の正義が来ますように!」と、私たちは祈らなければならないわけなのですが、『神様の正義』というのは、いったいどこにあるのでしょうか?そりゃ天国にあるでしょ!そこは神様が百パーセント支配されていることで、神様の正義もそこには満ち溢れているわけだから、その正義がこの地上に注がれるようにと、そういうふうに思われるかもしれないのですが、案外、神様の正義というのは、もっと近くにあると思います。

 最近一冊の本を読んでいるのですが、C.S.ルイスの書いた『キリスト教の世界』という本です。これはリバイバル聖書神学校の図書室から借りて読んでいるのですが、今買おうとすると、タイトルが変わっていて、『キリスト教の精髄』というタイトルで、買うことができる本です。
 この礼拝でもしばしば取り上げられています、ヒトDNA、人の細胞の一つ一つに組み込まれている情報ですよね。このDNAは二〇〇三年に全解読に成功しました。
 その時、いわゆる『ヒトゲノム計画』のチームを率いた、フランシス・コリンズという博士がいます。この方は科学者であり、同時に熱心なクリスチャンだそうです。彼はもともと無神論者で、神による世界の創造については否定していました。ですが、そんな彼がイエス様の元に導かれてクリスチャンになりました。その彼にイエス様との出会いのための大きな影響を与えたのがC.Sルイスの『キリスト教の世界』という本なのです。
 私は去年、この講壇で、天地創造とか、ビッグバンとか、進化論の矛盾点とか、科学的な視点からお話ししたりしました。そういうことを、本を読んだりして勉強する機会があったのですが、その時にこの、フランシス・コリンズが書いた『ゲノムと聖書』という本も読み、そこに、彼自身がこの本に触れて「すごく啓発された、神様を信じるきっかけになった」と述べていることを読みました。それで僕も興味を持ち、この本を読み始めたわけです。まださわりの部分しか読めておらず、また難しい本でもあるのですが、内容が深いというか、おもしろいことがたくさん書いてあり、時間がかかるのですが、読むと勉強になる本です。みなさんも興味があれば読んでいただきたいと思います。

 そこには、『自然法』というものについて述べられています。別の言い方では『道徳律』、もっとわかりやすく言うなら『良心』です。この『自然法』ということについて、C.S.ルイスという人が語っています。
 時代が変わっても、文明が変わっても、言葉や思想とか、そういったものが変わっても、そこに住む人たちの善悪の意識、そしてその規範となっている道徳は、変わることがないと書いています。
 どんな時代を見ても、道徳観をお互いに比較すると、多少の違いがあったりとかはもちろん見られるのですが、全体的には、各時代とも、違いがあるというよりは、非常に似通っている部分の方がたくさん見られるというわけです。そしてそれは、同じ根本的な基準によって成り立っていると考えるのが自然であると受け取ることができる。そんな印象を持つことができる、ということが書かれてあります。

 『善』と『悪』が『ある』ということは、人間だれでも同意すると思います。でも、この善と悪というものの規範となる、『道徳律』『自然法』というものがあるからこそ、私たちは決定的に『悪』の存在となってしまうことがなく、『善』のほうを選び取る。悪の道にひた走ることがなく生きることができる、ということなのです。そういった善悪の基準となるものがなかったら、私たちは一方的に『悪』のほうに行ってしまうのかもしれませんが、それがあるから、私たちは、行ききらずに止まることができるわけなのです。
 この根本的基準がなければ、時代と共に善悪の基準もどんどん切り替わってしまうということが起きると思います。だからこの『道徳律』は普遍的です。

 ここまで言うと、ある人は、「世界共通の『道徳律』は、社会で生きていくための人間が身につけた本能であって、そんな神がかったものではない」と反対する人がおられるかもしれません。いろいろ人間には本能がありまして、母性愛、男性が女性を、女性が男性を愛する愛であったり、食欲など、いろんな欲望が人間にはあり、それらが人間社会をいろいろと作り上げていく部分もあるわけです。でも、それが悪の方向に働いていくこともあります。しかし、『道徳律』は、そこで『善を選び取る』ための後押しとなります。

 例えば、見知らぬ人が非常に困っていた。極端に言うと、その人が水に溺れているときに、本能による衝動は、助けてあげたいという思いと、「いやいや、そこに飛び込んだら自分が危ないからやめておこう」という思いの、二つの思いの狭間に人間は置かれると思うのですが、そういう時に、自分が犠牲になってでもその人を助けてあげるように『働きなさい!』と、強く働きかける力があるのです。自分の思い以上に、他の人を助ける方向を『良し』として、自分のことを後回しにして、危険を押して飛び込んでいくように力が働くのです。それを『道徳律』と言うわけです。困っている人がいたら、自分の損得以上に『助けてあげなさい!』と訴えかけてくる、そういう気持ちを人間は生まれながらに持っている、ということなのです。

 第一コリント人への手紙二章十五節〜十六節、

 『御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。』

 そしてまた、ローマ人への手紙二章十二節〜十五節、

 『律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。──律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。──』
 このみ言葉でいう『律法』とは、旧約聖書です。この旧約聖書の教えを知っている人はその律法に従って裁かれる。しかし、それを知らない者(私たちも以前はそういう者であった)たちは、自分自身が自分の律法だと。
 そういう中で、ここに書かれていることは、可能性として、私たちがその律法に従うことができるということを述べているわけですね。そしてそれは心に書き込まれているものだというのです。心の中に、旧約聖書のような、律法のようなものが私たちの中に書き込まれていて、例え、言葉としての律法を見ることが、読むことが、理解することができなかったとしても、『心の律法』に従っていきるという可能性を人間は持っているわけですね。
 そして、その与えられている律法によって、互いに責め合ってみたり、弁明し合ってみたり、あなたは正しいとか悪いとか、そういうようなことを私たちは、その『心の律法』によって判断するのですね。そういった基準が私たちの心の中に埋め込まれているわけです。
 これを、このC.Sルイスは、『自然法』と呼んでいましたが、「自分にとって例え損であっても、善と思われることを行おうとする、動機の根本規範」ということなのです。そういったものを私たちは備えている。しかし、人間は、それを持っていても、それを行う自由と、行わない自由を持っているというところが、またユニークな所なのです。行わない事もできるという自由も与えられているわけですね。

 石を持って、石が空中に放り出されたら、直ちに落下していくことは、自然法則であり、引力が働いているわけです。この引力は、選択の余地はありません。投げたら落ちるという、決まっていることです。投げて、「落ちないでいこう!」と思っても、落ちてしまうのです。逆の立場を取ることができない法則であるわけですが、『自然法』も同じように、神様が造られた根本的な法則の一つであるわけですが、人間にとって、それは従うか従わないかという選択の自由が与えられているというのです。

 『自然法』は、神様が与えられていると今読んだ所にも書かれているわけですが、でもある人は、こういうふうに言うかもしれません。「人間が他者との共存を成し遂げるために獲得してきた社会性だ」と。

 善を行うことによって個人的には損になっても、社会全体として見た時にプラスになって、結果として、社会から恵みを受け取ることができる。それを人間は長い歴史の中で自ら学び取って来て、それを実践しているだけなんだ、と。だから、自分の心の中に始めから『自然法』が備わっているのではなく、養われたものなのだ、と考える人もいます。それは人間が学習した社会性なんだ、というわけです。
 確かに、そのような一面もあります。例えば、嘘つきとか不正が横行している社会は、だんだんと乱れて豊かさがなくなり、結果として個人も不幸になっていくということがあると思います。それと比較して、正しい正直な人たちが多くいる社会は、結果として幸福になっていく。
 日本社会も一つの例ではないかと思います。日本人が国民性として持っている誠実さや勤勉さ、他の人と協調し合っていく社会性を持っているので、まことの神を信じない異教の社会であっても経済的に繁栄し、ある程度の幸せを私たちは受けることができている、そういう部分もあるわけですね。ですけれども、それは物事の本質ではないのです。
 例えば、『人間は誰でも利己的であってはならない』ということを考えたとします。すると『なぜ人間は利己的であってはならないのか』という問いが出て来ますね。そうすると、今の考え方では『それが社会、人のためになることだから、人は利己的であってはならない』となります。
しかし、一方で、『人のためや、社会のことなど考えずに、自分の利益になることだけを追い求めていけば、自分は損をしなくても済む、そうすれば社会の中で自分だけ得をすることができるじゃないか』となり、みんなが社会性を重んじてくれても、自分だけは利己的に生きていけば、みんなより得して生きることができる、という考え方がでてきます。
 そうすると、「いや、そういう利己的な考えを人間は持ってはいけない。」というふうに逆戻りになるわけです。これを「循環論法」といって、物事の本質を語っていないことになるのです。
 利己的であってはならないというのは、一般的に「そりゃそうだよな」と、誰でも同意するところですが、その原因に、単に社会性を重んじるということを持ってきても、それは役不足であり、語り尽くすことができない、計ることのできない、もっと深いものがあるのです。

 循環論法の簡単な例というのが、もう一つあります。

① 黒って何?→②白の反対の色。→
③ 白ってなに?→④黒の反対の色。・・・

 このように延々と続くということなのです。こういうのを循環論法というのですが、結局、黒の本質というのを何一つ語っていないということになりますが、利己的であってはならないというものに対する答えとして、それは社会に必要なものだからという答えだけでは、結局成り立っていかないということなのです。

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 うちには子どもが四人いるわけですが、これは下の二人です。この二人が普段は仲が良くて、よく一緒にゲーム機で遊んでみたりとか、ボールで遊んでみたりとかします。でも、本当に毎日のように、喧嘩もします。ご存じのように、うちの次男は少し背が小さいので、ライバル関係が成立するわけです。それで、毎日のように喧嘩をし、そして必ずと言ってもいいほど、一番下が泣いて、僕の所や家内の所に来るわけですね。そして、「次男があれをした。これをした。」と言うわけです。そして、次男を呼んで「こう言ってるけど?」と言うと、「三男だって同じことをした!」と言うわけです。するとお互いに「違うよ!」「やったじゃんか!」というふうになって、結局は水掛け論になっていくわけです。どっちが先にやったとか、どっちの方が悪かったとか、そういう話になっていきます。こういう話になっていくと、際限なく、黒って何色?白って何色?という世界と一緒で延々続いていくのです。
 結局、一番の本質は、「喧嘩は悪い」ということなのです。喧嘩は悪いと分かっているけどやる、というのがいかんので、親としては両成敗になるわけです。本質が分からないというのは、そういうことだと思います。

 『道徳律』とか、『自然法』とか呼ばれるものが、私たちの心の中に備えられている理由は、人間の学習とか、本能とか、そういったものを越えたものが絶対に必要になってくるのです。

 男性が女性に対して暴力的にならず、両者に一定のモラルが保たれている社会、いのちを救うために危険の中に自らを置く消防隊員。先週は東日本大震災から満四年ということで、テレビを見たりしましたが、あの中で自分の命をかけて人を救おうとする消防隊員の善意も、それが仕事だから、お金をもらっているからという、そういったこととは別の次元の、彼らの良心を見ることができるわけですね。
 また、買い物をして、おつりが多かったら、「おつりが多かったよ」と、レジの人に告げることだとか、道路を渡ろうとする子どもがいたら自分が車を走らせていても、ブレーキを踏んで横断を妨げない、会社のお金を数えるときに、誰にも気づかれずに一万円を抜き取ることができる立場であっても、それをしないことだとか、そういう『道徳律』、『良心』、この普遍的な掟というのが、私たちの心の中に書き記されている。
 これは神様によって、神様の作品である我々人間に与えられた恵みです。これがあるからこそ、私たちも幸せに生きることができる。そして、この与えられている『自然法』、『道徳律』と呼ばれているものが、『神の義』だと思うのです。『神様の正義』というものを、私たちは生まれながらにして神様から与えられているということなのです。

 しかし、この神様の恵みを捻じ曲げて使い物にならないようにする力があります。それが罪です。テトスへの手紙一章十五節、

 『きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。』
 イエス様の血による贖いと、聖霊の注ぎがない人は、その良心さえも汚れてしまっていると、聖書は言います。そして、悪魔はまさに『逆の良心の声』となって私たちにささやきかけるわけです。そして私たちを誘惑し、罪を犯させ、心の中の『神の義』を汚そうとしています。

 最近テレビで、ある番組をやっていまして、佐藤拓哉という学者が出てきました。

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 手に持っているのはハリガネムシなのですが、この人は、ハリガネムシの世界的権威なのです。ハリガネムシ、みなさん、ご存じでしょうか。カマキリだとか、バッタの一種とか、そういうのが死んでいるのを見ると、這い出て来ています。ちょうどハリガネみたいなので、ハリガネムシというのです。これは寄生虫ですね。
 佐藤拓哉さんは、有名な学者さんです。彼はこのハリガネムシを見ていると『かわいい』というのです。
 虫に寄生したハリガネムシは何をするかというと、カマキリやバッタの仲間などに寄生し、だんだん腹の中で大きくなっていくのです。

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 この写真はコオロギですが、あの小さなコオロギの中に、あの長い生き物が収まっているのか、と思うくらいに、腹の中がパンパンになるまで成長すると、ある物質を出し、宿主の昆虫を洗脳するそうです。そして虫が水に向かって行くようにするのです。虫が水を見つけると、ぴょんっと飛び込ませるのです。そうすると、虫は水に溺れて死ぬのです。ハリガネムシは、まさに虫を自殺させるのです。ハリガネムシは、おしりの所から這い出して来て、そして、水中で自分のパートナー探しをするのです。
 実は、ハリガネムシは、水の中でしか産卵できないのです。
 産卵して、卵がかえって幼虫になると、今度は水の中でボウフラとか、そういった水生昆虫に食べられるのです。そして、ボウフラの中で幼虫のまま寄生して過ごします。
 ボウフラが成虫になると、水の中から飛び出して、蚊になったり、カゲロウになったりするわけですが、その蚊やカゲロウが、今度は、カマキリやバッタの仲間に食べられると、ハリガネムシは、また違った宿主の体内に入って、そこで成虫になって、長くなっていくわけです。
 そして、大人になりますと、洗脳物質を放出し、宿主の頭を狂わせて、水に追い込んで自殺をさせて、そしてまた新しいパートナーと出会うという、そういうライフサイクルをハリガネムシは持っているのです。寄生虫というのは、そういうふうに宿主の体内に入り込んで、宿主を自在にコントロールし、自分の子孫を増やしていくようにする、自分より遥かに大きく、複雑な体を持つ宿主をさえコントロールするというのです。

 もう一つの写真を見ていただきます。

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 これはトキソプラズマというのですが、単細胞の菌です。これは、いろんな生き物に寄生していまして、人間にも寄生します。人間の三分の一は、こいつを体内に宿しているそうですので、今日、この中の百名くらいはトキソプラズマと一緒に生きているわけですね。

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これはネズミに寄生します。
ネズミに寄生しますと、例のごとく、洗脳物質をだして、ネズミの脳を侵し、その危険察知能力を麻痺させます。それと共に、猫のおしっこの臭いを大好きにさせるのです。そうすると、どうなるかというと、ネズミは、猫を恐れなくなってしまい、近づいていくようになって、まんまと猫に食べられてしまうわけですね。

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 今度は猫の体内に入るのです。なぜそうなるかというと、これまた例のごとく、トキソプラズマは猫の体内でのみ有性繁殖できるのです。それで、繁殖して、今度は猫の糞と一緒に外に出て、その糞を何かが食べ、またネズミが食べ、という形でライフサイクルが完成するのです。

 今回、寄生虫のことをいろいろ調べまして、ここではお見せできない気味悪いものもいっぱいありましたが、寄生虫を研究すると、本当に興味深い、あんな単細胞の生き物が、あの大きく複雑なネズミをコントロールしてしまうというのです。そして、ネズミを思い通りにして、自分たちが繁殖できるようにと、こういうことをしていくわけですね。本当に興味深いことだなと思います。

 一説によると、知られている全生物の半数は寄生生物だというのです。すごいですね。誰かに頼って寄生して生きる生物が、全生物の半数いる。これらの生物は自然の生き物なので、『寄生する』ということも、生態系を形成するために非常に重要で、ハリガネムシなんかも、ああやって虫を水を飛び込ませることで、実際川の生き物が餌を食べることができるのです。
 ある川では、そこに生息する鮭の餌の六十パーセントは、ああいった自殺した昆虫だそうです。だから、自殺する昆虫がいなければ、我々も鮭を食べられない。ということになるのです。おもしろいことだと思います。

 悪魔は同じようなことをすると思います。私たちの中に、罪によって心に寄生し、そして私たちの『良心』を狂わせる。良心を汚させるということなのです。

 私たちはバプテスマを受けることを通して、聖い良心が回復し、罪から離れることができる者となっていくというのです。ヘブル人への手紙十章二十二節、

『そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。』

 霊的戦いに目が開かれるということは、霊的な支配権が変えられることだといいます。それを私たちの中で理解する時に、私たちに勝利が与えられてくるわけですね。第一ペテロ三章二十一節、

『そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。』

 神を信じ、バプテスマを受けるということが、正しい良心が回復し、そして神にこれから従っていくという、その誓いをすることだということですね。またこの良心というのは、伝道にも必要であります。第一ペテロの手紙三章十五節〜十六節、

『むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。』

 先ほどお読みした第一コリント人への手紙二章十五節〜十六節、

『御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。』

 自分で自分をわきまえるということはできない。でも聖霊によるならば、心に血の注ぎを受けて、新しく変えられた者には、キリストの心が与えられる。まさに、『神の義』が心に与えられ、その心は、私たちが伝道するうえで、欠くことのできない必須のものだということですね。
 ですから私たちは、心に与えられた『神の義』というものを、決して汚してはならない。神の栄光をこの地に輝かせるために、私たちが神様の御心を行って、そして神の国がこの地上に来る『マラナタ!』と私たちは祈っていますが、そのために私たち自身がそのように慎み深く、聖い歩みをしていくということが、求められているわけですね。『神の義』を心にもって、追い求め続けなければいけないわけですね。先ほども言ったように、これに従うか従わないかということは、私たちにゆだねられているわけですが、これに従っていくことを、どこまでも追い求めていく。『神様の義』のために生きて行くということは、そういうことであるわけです。

 そしてこの、祈りが答えられるということにも、『神の義』が非常に強く影響を与えるものであるります。第一ヨハネの手紙三章十八節〜二十三節、

『愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。』

 ここに『答えられる祈りの三ステップ』とも言えるような事が書かれています。第一番目に、「心に責められるところがないこと。」そして、第二番目に、心に責められることがないということはどういうことかというと、「神の戒めを守っていること。」そして、神の戒めを守っているということはどういうことかというと、「互いに愛し合っていること。」というふうに述べています。
 心に責められるところがない、なぜなら神の戒めを守っているから。その神の戒めというのは、互いに愛し合うこと。それらを私たちが行っている時に、求めるものは何でも神からいただくことができますと、こういうわけですね。祈りが答えられる三ステップがここにあるわけですね。

 そして、『自然法』は、自分よりも他を優先するというところに、究極の姿を見ることができます。自分が得にならなくても、他を生かしていこうという、そういった中に、自然法の本質というのがあって、それこそイエス様が、「究極の律法は何ですか?」と言われた時に、「神を愛する。そして隣人を愛する。」ということをお答えになられた、そのことを表していると思います。
 私たちの祈りが答えられるということは、そういうことだと思うのです。私たちが心に『神の義』を持ち、『神の義』を行うということですね。それがされている時に、何でも求めたら与えられますよと、聖書は約束しているわけです。最初にお読みしたマタイの福音書六章三十三節、

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

 という、この言葉も、『神の義』が、どういうものかを理解する時に、また深い意味を私たちに与えてくれる、そんなみ言葉になると思います。

 今日は、この『神様の義、神の正義』ということを、私たちの心の内に与えられている『自然法』、『道徳律』、『良心』という視点からお話しさせていただきましたが、私たちは本当に一人一人、その置かれた場所にあって、『神の国と神の義』が本当に私たちに与えられるように、追い求め続けて歩んでいきたいと思うのです。それが、私たちが結果として、必要なものを神から受け取り、また幸せに生きる、またこの地に神の栄光が現される、そういった働きが拡大していく大きな推進力になっていくと思います。
 ですから一人一人が自分自身をチェックして、自分の中にある『神の義』は大丈夫か。聖霊によって守られているのか。また自分はそれに従うことができているのかということを日々心に問いかけ、そして『神の義』に恥じないように、毎日を生活していくものとならせていただきたいと思います。
 そこには大きな霊的戦いもあります。悪魔はそうならないように、必死になって、「こっちの水が甘いよ。」じゃありませんが、「こっちにおいでよ。こっちのほうがあなたによって楽しい、楽だ、あなた自身が得する道はこっちだよ。」と、うそぶいてくるわけです。
 しかし、同じように『神の義』は、大きな声で、「そうじゃないよ。こっちだよ。こっちだよ。神様が喜ばれる道は、人を優先し、人のために生きることだよ。」ということを教えてくださると思います。そこには、私たちの選択が深く関わってきますけれども、いつでも神様の御心を第一として歩んでいく者となることができるように、僕自身もそうですけれども、本当に皆で励まし合いながら、また前進し続けていきたいと思います。
 そこに本当に霊的戦いの勝利も現されていくことだと信じます。これで私のメッセージは終わりです。みなさんで今からお祈りさせていただきたいと思いますが、みなさん、一度、お立ち上がりいただけますか。

 みなさんで心から今日与えられたメッセージを自分自身に照らして、『神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と、また、私たちに『神の義』がそのように生まれながらにして、『道徳律』、『自然法』という形で、神様から受け継がれて与えられているということを覚えて、それが本当に生き生きと活動する、そういう人生を歩ませていただけるように、心から神様に求めて、これも聖霊によってなされると、御子イエスの血によってなされると、そのようにも書かれていますので、もう一度、十字架の血潮を仰ぎ、聖霊を仰いで、お祈りしていきたいと思います。
 そして、このすばらしい恵みを通して、私たちがイエス様を人々に宣べ伝えることができるように、そのことも祈っていきたいと思います。では、みなさんで、しばらくご一緒に感じたことをお祈りしていきたいと思います。では、お祈りしましょう。

 一言、代表でお祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。イエス様、ありがとうございます。あなたが私たちを愛して、それぞれに命と息を与えてくださり、この人生を歩む者とさせてくださっていることを感謝します。またそのためにどうしてもなくてはならない規範である、『自然法・道徳律』と呼ばれる、そのようなものを、私たちの心の中に生まれながらに書き記してくださっていることを、ありがとうございます。これは大きなあなたの恵みです。『神の義』を私たちは持って生まれているという、このすばらしい恵みを、心から感謝します。
 しかし、私たちは長い間、罪を犯し、そしてあなたから離れ、それを理解しようとせずに、心に寄生する悪魔の声に聞き、欲望の本性に従って生きているような者でありました。しかし御子イエス・キリストの十字架、そして聖霊によって、私たちは『神の義』に立ち返り、それを心の中に回復していただいて生きる者とされていることを感謝します。
 自分の力でこれを成し遂げることはできませんでしたが、あなたの恵みによって、犠牲の愛によって、それができたことを感謝します。ですから私たちもあなたを愛し、あなたのために、私たちの心に書かれた法にしたがって、自分を優先するのではなく、あなたを、そして他者を優先する生き方を実践していく者となることができますように。主よ、どうかあなたが一人一人にその意志を与え、力を与え、そしてそれを実践していく機会を与えてくださいますように、心からお願いします。
 そしてこの会衆一人一人が、それぞれの領域で、『神の国』を、この地に現す者となることができますように。そして主よ、今週一週間喜びと共に、その一人一人が祈り求めるものは何でも与えられます!というみ言葉が実現するような、そのような一週間を送らせていただくことができますように、お一人お一人を祝福してください。
 今からは聖餐式をいただきます。ここにあなたの血潮、あなたの裂かれた肉を私たちは覚え、あなたと一体になることを通して、新しい力で満たされる時となりますように。今からの時を御手にゆだね、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。