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主の夢をかなえる為に。パート4
~教会の中で主を賛美しよう~

2015年3月22日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ヘブル書2章11節〜15節

『聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。」と言われます。そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。料理でも素材をどう調理するかで全く違った料理ができるわけです。和風にもなるし、洋風にもなるし、中華風にもなるのです。今、「やっぱ祈りやねん」というざわめきの素材を、後藤さんは、何風でしょうか?本当にうまく調理されました。およそ「そやねん!」とは言えない雰囲気でした。主への賛美はすばらしいものだと感動しました。開先生がこの曲を作った時、今のような作風は、これっぽっちもなかったと思います。曲も、受け取る側で全く違うわけです。
 私たちの神様に対する思いも、様々な側面があって一つになります。それにより、神の栄光が現されるわけです。今朝もキリストにあって一つであることを、心から感謝します。

 今週は、新城教会にとって、超忙しい週です。しかし、教会に集う皆様方にとっては、すばらしい週になります。少しコマーシャルをさせていただきたいと思います。

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 明日と明後日は、「霊的戦い専門課程」があります。是非とも祈っていただきたいと思います。

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 水曜日はハワイから、中村裕二先生ご夫妻が来てくださいます。新しい方々をお連れいただきたいと思います。すばらしい賛美とメッセージの時になると信じます。

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 木曜日はマミータイム・スペシャルと言う、お母さんと学校にあがっていない子どもたちの集会があります。毎回、多くの子どもたちとお母さん方が来てくれます。今回は開先生夫妻の賛美もあったりして、スペシャルなプログラムです。

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 そして木・金・土の三日間、福島市の旭町幼稚園から二十数名の子どもたち、お母さん方が新城に来られます。是非、福島のために忘れないで祈っていただきたいと思います。まだまだ現地は大変です。この幼稚園の子どもたちは、震災をくぐり抜け、ずっと福島に留まってがんばっている子どもたちです。なかなか屋外に出て遊ぶ機会がないのです。そこで「年に一度は県外に出る」というプログラムがあるらしいのです。今年は、どこに行きたいかを考える中、「新城教会に行きたい」と言ってくれたそうです。そして幼稚園の子どもたちが、霊的戦いを学びたいというのです。彼らは霊的に何かを感じているのです。とりなしの祈りについて知りたいそうです。
 金曜日は、福島の子どもたちとの交わり会をします。彼らは自分の費用で来るのですが、礼拝後に箱を置きますから、心ある方は献金してあげて下さい。

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 「ザ・コール」が土曜日にあります。青年たちが一生懸命祈り、がんばって準備しています。一般の方々も参加できますから、是非とも、お越しになっていただきたいと思います。今度は、安武さんと、お友達のギタリストの方が来てくださいます。すごい集会になると思います。

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 また、みなさんに覚えて欲しいのが、「復活祭」です。これはイエス様のよみがえりを記念する日です。今年は四月五日です。「イエス様はよみがえられた!」という宣言の日です。これがウソなら、クリスチャンをやっている価値はないです。すべてが無駄になります。よみがえりは、私たちの信仰の中心にあるものです。召天者記念会もありますので、ご親族の方々をお連れいただきたいと思います。
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 案外私たちは誤解しています。イエス様は白人ではありません。
 教会はすばらしい所です。赤ちゃんからお年寄りまで揃っています。どんな政治団体も、社会グループも、赤ちゃんからお年寄りまで、一つの所に集まって一致できるグループはないのです。一致できるのは、教会だけです。

 今日のメッセージのタイトルは、今回も、「主の夢をかなえる為に」です。私たちはその為に存在しているからです。「パート4 ~教会の中で主を賛美しよう~」です。
 今も賛美しましたが、賛美は、メッセージ前の景気づけのように考えているところがあります。しかし、そうではありません。主の夢がかなえられるために、賛美は重要です。その点についてご一緒に学んでいきたいと思います。

 実は今からスペシャル・賛美プログラムが用意されています。昨日、ミュージック・スクールが開講されました。始まってすでに四年くらい経ちます。毎月、将来の賛美者を養成するために頑張っています。
 講師の先生方はたいへん忙しく、終わるとすぐに東京に帰ってしまうのですが、今日は礼拝に出席しています。せっかくですから、一曲、演奏していただきたいと思います。
 ミュージック・スクールの講師陣のほとんどは、新城教会出身者です。彼らのために祈っていただきたいと思います。彼らは一般の音楽業界で働いています。音楽とは、元々神様から発生したものですが、現在、悪魔に取られています。それらを悪魔の手から取り戻さないといけないのです。
 堅志と頌は、まもなくMayJのコンサート・ツアーが始まり、全国三十箇所くらいであるそうです。キーボードの石田マリさんは、安室なんとかのキーボード。そして、EXILEの、なんとかガールスというのがあるそうですが、バンドマスターです。本当に忙しい人達です。しかし、彼らはいつも主を第一にしてやってくれています。今日の夜は、浜松でライブがあるそうです。
 頌は最近、エイベックスからメジャーデビューしました。CDも売り出し中ですから、是非、買ってあげて下さい。では、大きい拍手でお迎えください。

 はい、ありがとうございました!彼らは寝ても覚めても、音しか扱っていませんから、音に対してはたいへん鋭いです。頌ははじめ、ギターを後ろ向きで弾いていました。「前向いて弾け!」と言ったくらいですが、こんなにうまくなるとは思いませんでした。今、演奏した四人は全員クリスチャンです。一般の音楽業界のただ中で働いています。音楽を取り返すために用いられてほしいです。

 教会に与えられている賛美とは、重要な役割を担っています。今も音楽を聴いて、「あぁ気分がいいな…」と思うわけですが、賛美は、そういう役割ではありません。ヘブル書二章十二節に、

『わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。』

と記されていますが、ヘブル書の記者は、詩篇二十二篇二十二〜二十三節を引用したのです。

『私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。』

 賛美とは、神様からの命令として扱われています。「主を賛美しなさい!」と、命令されているわけです。
 ヘブル書二章十二節、『教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。』となっていますが、英語の聖書では「教会の真ん中で」となっています。私たちが教会に集まって主を賛美するのは、大きな意味があるのです。
 教会とは、私たち一人一人でもありますし、家庭も教会です。そこで主を賛美するのは、重要な働きです。
 今朝の主題聖句はヘブル書二章十一節からですが、ヘブル書二章六節〜十節は、去年、語らせていただいたメッセージの中心箇所でもありました。「あなたは地球の管理人」というメッセージを、シリーズでさせていただきました。あのメッセージは、ある意味、私にとっても、今までの視点を塗り替えるものでした。人間とは何者かという、人間の存在意義を問うものでした。去年のメッセージを思い出しながら、読んでみたいと思います。ヘブル書二章六節〜十節。

『むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。』

 この箇所は、重要なメッセージを含んでいます。「人とは何者なのでしょうか。」という問いの答えです。それは何かといったら、人とは、被造物を管理する「管理人」として造られたと告げられています。神様は天も地も何もかも造られたのですが、それらすべてを「人の足下に置いた」というのです。私たち人類は、神が造られた被造物を管理する、管理人として造られたのです。
 伝統的な理解では、「人とは何者だろうか」に関して、様々な理解がありました。しんかし、いまいち釈然としないところがありました。けれども、この箇所をしっかりと読み解いていく時、人は、神が創造された被造物を管理する存在であり、被造物のすべてを神からゆだねられた存在である事が分かります。「栄光と誉れの冠」とは、被造物を管理する「管理権」です。
 私たちの役割は何か。「人生の意義は何だろう、分からない…。」と言う人がいますが、被造物の管理人として造られたのです。去年は、その事に関して、何度も語らせていただいたのですが、その続きに「教会の中で主を賛美する」ということが掲げられているのです。

 イエス様が成し遂げてくださった十字架の贖いは、なんのためであったのか。私たちのために、愛を現してくださったことは間違いないのですが、それ以上に、人間に与えられた「管理権の回復」である事がわかります。人は罪によって管理権を失ってしまったのですが、管理権を回復するためにイエスさまは十字架にかかって命を捨ててくださったという、十字架の意味がここに掲げられているわけです。
 地上の苦難から逃れ、天国に行くのが目的ではないのです。もちろんそれは事実ですが、人生のただ中で、神が創造されたすべてを管理する重要な役割が担わされているのです。それは自然界に関しても、霊的世界に関しても、人間の世界に関しても、神が造られた被造物を管理するという、重要な使命があるのです。

 神様が天と地を造られた時、「法則」をも造られたと、昨年、お話ししました。それが「自然界の法則」と呼ばれるものです。それは人が体験している中で、最も重いものだと思われます。神様が、地球を造られた時、法則も一緒に造られました。ゆえに地球は、法則的に、規則正しく動くわけです。
 二〇一一年三月十一日、東北に大きな地震が起きました。津波が押し寄せ、多くの人が犠牲になったことを、私たちは昨日のように記憶しています。

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 ここに津波の写真があります。これはちょっと大げさだと思いますが、でもこれに近い感じだったと思います。なぜ、大地震や津波がたびたび来るのだろうか。「その時、神様は何をしておられたんだ!」という義論が、地震の後、教会の中で多くなされたそうです。そしてその答えは、「分からない」というものだったそうです。
 ある時は、「このような津波と地震のただ中で、イエス様は何をしていたのだろう。」と問われました。そして、「イエスは地震と津波のただ中で、涙を流しておられた。」と、結論づけたそうです。しかし、「涙を流す暇があったら、助けてくれよ!」と言いたくなります。なぜ、こんなことがたびたび起きるのかと。

 しかし、自然災害は、地球の法則の中で繰り返し起こるのです。それを止める事は不可能です。災害とは、そもそも、そこに人が住んでいるから、災害になるのです。いくら巨大な津波が来ても、人が住んでいなかったら、災害にはならないのです。
 先々週、私は熊本県の阿蘇に行きました。「あっそ。」と、今、何人かの人が言っていると思いますが、菅原先生ご夫妻が伝道しておられます。

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 こちらの神学校を卒業し、立派に牧会されています。一人息子、基ちゃんも元気に育っていました。彼も生まれた直後、ひどいアレルギーで食べるものがありませんでした。本当にかわいそうでした。うちのえりぃもそうでしたが、私たちは管理者ですから、遺伝子さえ、体質さえも管理できるはずだと信じて祈った時、えりぃは癒されました。それを聞いた菅原先生たちも、自分たちの息子の為に真剣に祈りました。今年行きましたら、本当に良くなっていました。ほとんど、何でも食べることができていました。
 しかし先生方が伝道されている場所は、目の前にこういう山があります。

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 阿蘇山です。近頃、噴火したのです。これはただの雲ではありません。動画でも撮って来ましたが、はじめは小さかった噴煙が徐々に大きくなり、ちょっと怖かったです。御岳によく似ていました。そのふもとで、彼らは伝道しているわけです。火山灰は降るし、地鳴りはするしという場所でした。
 今回、私を招いてくれた理由は、「私たちは地球の管理人!」というテーマで二日間のセミナーを開いてほしいという要請でした。彼らにとっては切実です。もしも私たち人間が管理人ならば、自然界の法則の中で噴火をくり返す火山に関しても、なんらか微調整できるはずです。
 管理人とは一つの法則で運用されているただ中で、それらを微調整する役割です。法則を円滑に流す働きをするわけです。例えば、集合住宅、マンションに住んでおられる方々、そこには管理人がいますよね。集合住宅には住民規約があるわけです。しかし規約は、放っておくと正しく運用されず、バラバラになってしまいます。しかし管理人がいて、微調整することにより、円滑に運用されるわけです。
 自然界も同じだと思うのです。神様は天も地も造られました。そして天地の運行の為に「自然界の法則」をも造られ、自動運転されているわけです。神様がいちいち張り付いていなくても、天と地は自動運転するわけです。しかし自動運転させると、様々な不具合が生ずるはずです。それを調整する役割として、人を管理人として配備されたのです。
 クリスチャンとは、自然界においても、霊的世界においても、すべての領域において管理人です。阿蘇山のふもとの教会は、火山活動に関して、責任を持ってとりなし祈る使命があることを強調させていただきました。それぞれの場所に、それぞれの役割があると思います。

 今週は福島の方々が来られます。是非とも祈って上げてください。特に今回来られる方々の教会は、福島市内にあって、以前、私も奉仕させていただきました。今ドラムを演奏した寛太たちが、何ヶ月かに一度、ミュージックスクールをやっています。
 福島は原発事故の後、多くの人が県外に出ました。しかし、今回来られる子どもたちは、福島に踏みとどまっている子どもたちです。園庭もセシウムで汚染され、遊ぶことができなくなってしまいました。しかし日本のマスコミは、もう安全かのように報道しています。
 いつも思うのですが、報道を鵜呑みにしないほうがいいです。やはり現地は違うのです。ある時はテレビ局が来て、子どもたちに「園庭に出て遊んでくれ。」と頼んだそうです。「写真を撮らせてくれ。」と言うそうです。安全でもない所に出て遊んでくれと、ビデオに撮らせてくれとリクエストするというのです。ちょっと間違っているのではないでしょうか。大本営発表を鵜呑みにしてはいけないということです。私たちは管理者として、祈っていかなくてはいけないのです。どのくらい放射能の汚染が広がっているのか見当がつきません。
 福島の牧師から聞いた話ですが、福島では多くの人が精神的に病んでいるというのです。また霊的問題も多くあるというのです。福島の問題は、突き詰めれば霊的問題だというのです。霊的戦いを感じるというのです。だから、なんとか霊的戦いを学びたい、と言われるのです。何を彼らに話したら良いのか分かりませんが、祈って備えたいと思います。
 実はヘブル書二章を読み進んで行きますと、最終的には十四節、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

とあります。まさにイエス様の十字架は、死の力を持つサタンを滅ぼすためであったと述べられているのです。
 教会のただ中の賛美とは、十字架の勝利をほめたたえる賛美に他なりません。イエス様が十字架にかかり、死を打ち破り、よみがえってくださったと、その勝利を高らかに賛美しなさい、という命令です。
 まもなく復活祭が来ます、私たちは、死を打ち破ってくださったイエス様を誉め称えるわけです。それは何のためであるのか、十字架の死と復活により、私たち人類が元々与えられていた、「栄光の誉れの冠の回復」、すなわち、管理人としての使命の回復です。そのことを、主もまた、共に喜んで賛美してくださっているのです。私たちの使命の回復、それは神にとっても、大きな喜びであるわけです。なぜなら、それは、主の夢の回復に他ならないからです。

 ヘブル書二章の「私たちは管理人です。」というメッセージは、詩篇八篇からの引用です。ちょっと思い出していただきたいのですが、詩篇八篇一節〜八節、この箇所を引用し、ヘブル書の記者は「人とは何者か」について、論じたわけです。詩篇八篇一節〜八節、

『私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。』

 ここで述べられているように、『人とは、何者なのでしょう。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』とありますが、この箇所をヘブル書の記者は引用し、「私たち人類は、万物の管理者です!」と述べているわけです。続いてイエス様の十字架の意味が述べられ、そのただ中に、賛美があるのです。

 新城教会は賛美と切り離すことができない教会です。その発端となったのは、何を隠そう、別に隠していませんが、グロリア・シンガースが始まったことにありました。私の両親は、ギターで賛美するのが大嫌いで、私と父の間には、いつも戦いがありました。「ギターなんかやめてしまえ!」と。
 当時私は、ベンチャーズというグループに惚れていました。讃美歌は嫌っていました。しかしある時、父が、ちょっと戦法を変えて、「おまえが弾いているギターで、讃美歌をやってみたらどうだい?」と言い、教会で演奏する許可を与えてくれました。
 それで今でも忘れることができませんが、ここに古い会堂が建っていたのですが、私は友達と一緒に、エレキギターで賛美をやってみたのです。その時、みんなどういう反応だったかと言ったら、今日のように拍手してくれませんでした。耳をふさいで、戸を開け始めました。大きい音は戸を開ければ小さくなると考えたのでしょうか。そんな反応でした。でも私は、めげませんでした。続けて一生懸命やりました。
 それで音楽グループ、グロリアシンガースが誕生したわけです。私は二十数年の間、賛美グループで働かせていただきました。良い思い出が多くあります。でも当時の賛美に対する私の考えは、「賛美は伝道のために大変良いツール」であると考えていました。「イエス様はあなたの救い主ですよ。あなたの罪の身代わりとなって死んでくれましたよ。」と話すのと、賛美にのせて投げかけるのと、受け取りが違い、スムーズに伝わる。だから、賛美は伝道のツールに最適だと思っていました。私たちが歌っていた歌の多くは、伝道的メッセージを含む賛美を歌っていました。
 しかし不思議なことに、そこからだんだんとワーシップ・ソングが、日本に生まれて来ました。教会に来られて長くなられる方は、賛美の歴史、日本の賛美のうつり変わりを体験したと思うのですが、聖歌とか讃美歌から、短いワーシップソングへと変わりました。私も讃美歌とか聖歌の世代に生まれましたから、別に批判するわけではありませんが、歌詞が一番から五番までとかあって、意味が分からなくなるのです。一番嫌いな賛美歌は、「隣の歌のサビに飛ぶ」というやつです。本当に歌詞が長く、嫌いでした。それにくらべ、ワーシップソングって、短くて、すんなり心に入るじゃないですか。
 日本で生まれたワーシップソングの第一号は、「いのちのパン」というワーシップソング集でした。そのカセットがシリーズで発売されました。それを一曲くらい、みなさんに聞いていただきたいと思い、昨晩、ドラえもん義也さんに頼んだのですが、なんと持っていませんでした。どういうことですか!あれらはグロリアシンガースと他の方々と一緒に、新城教会で録音されました。それから、ワーシップソングが日本の教会全体に広がって行きました。
 でも、その時の理解は、賛美は主を誉め称える事であり、主を誉め称えると主の臨在が下りて来て、温泉に入っているかのように気持ちがいい、というような理解でした。賛美は、もちろん、そのようなものでもあります。

 しかし一九九二年、この教会に大変化が起こりました。聖霊が注がれ、霊的戦いが勃発しました。それから突然、賛美が変わりました。どのように変わったかといったら、なんと、霊的戦いの武器となりました。霊的戦いの歌ばかりが出て来ました。なんだこりゃ!今までの賛美の概念に当てはまらない歌が出て来たのです。それらが教会で歌われるようになりました。「天と地を造らなかった神々は、天からも地からも滅びる!」とか、「悪魔を踏みつぶす!」とか、そういう歌に変化して行きました。突然、過激な歌となったのです。これでも賛美なのだろうか…と思いました。
 しかし、人類が被造物を管理するためには、賛美、特に霊的戦いの賛美が重要であることを理解しはじめたのです。
 実はヘブル書二章は、詩篇八篇の引用だと話しました。詩篇八篇一節〜二節には、何と書いてあるでしょうか。

『私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。』

と書かれています。その後に、「人とは何者なのか。」と、「すべての被造物を足彼の足下に置いた。」と語られているわけです。
 詩篇八篇の、『あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめる』という、み言葉を、イエス様ご自身が引用されています。どこで引用されたかというと、マタイの福音書二十一章十二節〜十六節で引用されています。
 イエス様はある日、エルサレムの宮に行かれました。そこで見た光景がどんなものだったのか。マタイの福音書二十一章十二節〜十六節に、レポートされています。

『それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」また、宮の中で、盲人や足のなえた人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」』

 これは詩篇八篇の『幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。』から引用されたのです。「力を打ち立てる」ために用いられたのが、「子どもたちの賛美」だったのです。それが、足のなえた人たちや、様々な病で苦しんでいる人たち、盲人たちの癒しなどにつながったわけです。
 子どもたちが宮の中で、教会のただ中で賛美することは、人々の癒しに関わり、万物を管理する上で重要です。そして賛美とは、ただの主を礼拝して気持ちが良くなるような、温泉に入るようなものではなく、敵を打ち砕く、「霊的戦いそのもの」であったことが分かります。
 私たちが神の宮の中で、主を思い切り賛美することは、人間に与えられた栄光と誉れの冠、すなわち、天と地を管理する上で、なくてはならないものなのです。それによって、強盗、敵の力は打ち砕かれ、イエス様が帰って来られる道が用意されるのです。
 イエス様が宮に行かれたとは、何を意味するのでしょうか。宮とは、本来は祈りの家であり、父なる神があがめられる場所です。ここに来られたのは、やがてこの地に主が王となって来られることを意味します。
 近頃、神の夢とは何かについて学んでいます。それは主がこの地に帰って来られ、この地を治められる、主の再臨です。私たちはイエス様がこの地に再び帰って来られる道を用意する者たちです。主が造られた被造物を管理し、主が宮に来られる、主が再びこの地に帰って来られるのを準備する係として、ここにいるわけです。

 イエス様が帰って来られたら、どんな地球になるのでしょうか。そのことも、何度か学んでいます。イザヤ書六十五章十七節〜二十五節。リビングバイブルで、読んでみたいと思います。この箇所は、イエス様が帰って来られ、地球の王様となった時、どんな環境になるかを、あらかじめ預言しています。こんな地球に、絶対に住みたいです。できることなら、今朝、礼拝を守っている全員が一緒に、イザヤ書六十五章が実現しているただ中に住みたいと本気で願っています。そのためにも、私たちは、真剣に賛美しなければなりません。
 イザヤ書六十五章十七節〜二十五節(リビング・バイブル)、

『わたしは新しい天と地とを造る。 それは目を見張るほどすばらしいので、もうだれも、古い天と地とを思い出さなくなる。わたしの造るものをいつまでも喜べ。 わたしはエルサレムを、幸福の都として建て直す。 そこに住む者はいつも喜びにあふれる。エルサレムとわたしの国民とは、わたしの喜びだ。 そこにはもう、泣き声や叫び声は聞かれない。生まれてすぐ死ぬ赤ん坊はいなくなる。 百歳まで長生きしても、まだ老人とは呼ばれない。 その若さで死ぬのは罪人だけだ。その時には、家を建てればいつまでも住みつける。 昔のように、外国の軍隊が侵入し、家をこわされることはない。 わたしの国民はぶどう園をつくり、取れた実を自分で食べる。 敵が横取りすることはない。 だれもが木の寿命ほども長生きし、丹精して作った穀物を、長いあいだ楽しみながら食べる。 せっかく刈り入れた物が敵の食糧になったり、生まれた子供が戦場で死んだりすることはない。 彼らは神様に祝福され、その子らも祝福されるからだ。彼らが呼ばない先から、わたしは答える。 彼らが困って相談を持ちかける時、わたしは先回りして、彼らの祈りに答える。狼と子羊はいっしょに草を食べ、ライオンは牛のようにわらを食べ、蛇はちりを食べて、人にはかみつかない。 その時、神の聖なる山では、傷つくものは一人もなく、こわれるものは一つもない。 そう神様は断言なさいます。』

 『そう神様は断言なさいます。』とあります。やがてこの歴史の延長線上に、新しい天と新しい地が創造される日が来るのです。その準備のために、私たちは地上にいるのです。なんと、その日、どんなことが起こるのでしょうか。生まれてすぐ死ぬ赤ん坊はなくなると書かれています。
 先週も、ある人の赤ちゃんが危険な病気にかかって、もしかしたら危ないと言われました。私たちも真剣に祈りました。今日聞いたら、良くなったと聞きました。良かったなと思いましたが、赤ちゃんの時代に死んでしまうような子どもたちも、世界には大勢います。私の妹も、たった三ヶ月で死んでいきました。しかし、イエス様が帰って来られる時、幼児死亡率はゼロになるのです。そして百歳で死ぬ人は「早死にだったね」と言われるというのです。
 今、何歳ですか?百歳まであと何年ありますか?しかし百歳で死んだら、罪人と言われるのです。
 祈りだって、私たちが祈る前から、『彼らが困って相談を持ちかける時、わたしは先回りして、彼らの祈りに答える。』すごいことです。「私は何十年も祈っています。」なんてなくなるのです。とりなしの祈りに行くこともなくなるのです。すぐに答えが来ますから。頭を願いがかすめただけで、願いが叶うようなものです。「ぼた餅が食べたい…あっ!あった!」という感じでしょうね。本当にすごい事が起きる。そんな時代が、私たちの歴史のかなたに用意されているのです。「それをゴールにみなさん、働いてください!」と。「これが主の夢ですよ!」と聖書は語っているわけです。
 そのために必要なのが賛美です。教会のただ中で主を賛美しなさい!それも、霊的戦いの賛美をしなさい!と教えているわけです。

 この「新しい天と新しい地を造る。」イザヤ書六十五章に大変よく似たみ言葉が、聖書の一番最後、黙示録にあります。それが黙示録二十一章の一節から五節にあります。
 しかしイザヤ書六十五章と、黙示録の二十一章は、よく似ていますが、本質的には違うのです。どこが違うのでしょうか。ちょっと読んでみましょう。黙示録二十一章一節〜五節(リビング・バイブル)、

『それから私は、新しい地と新しい空とを見ました〔そこには海はありません〕。 今までの地も空も、消え去ってしまいました。また、私ヨハネは、神様のもとを出て天から下って来る、聖なる都、新しいエルサレムに目を奪われました。 その眺めのすばらしさは、まるで、結婚式に美しく着飾った花嫁のようでした。私は、王座から大声で叫ぶ声を聞きました。 「ごらんなさい。 神様の住まいが人々の間にあります。 神様は人々と共に住み、人々は神様の国民となります。 神様自ら人々の中に住み、その目から涙をぬぐってくださるのです。 もはや、死も悲しみも叫びも苦痛もありません。 それらはみな、永遠に姿を消したからです。」王座におられる方が宣言されました。「ごらんなさい。 わたしはすべてを新しくします。」 そして、続いてこう言われました。 「これらのことを書きとめなさい。 わたしが伝えることは、真実で、信頼できるからです。』

 本当によく似ていますが、本質的に違うのです。イザヤが見た幻、そこでは新しい天と新しい地を見たのですが、そこに住んでいる人は、百歳を過ぎたら死んでいたのです。そこには、依然として死があったのです。
 しかし、ヨハネは同じような光景を見たのですが、そこには「死がなかった」と告げています。百歳では早死にだ、ではなく、ヨハネが見た幻は「もはや、死も悲しみも叫びも苦痛もありません。…死が永遠に姿を消した!」と言っているのです。
 これは何を意味するのでしょうか。神様は天と地を造られたのですが、それは三段階を経て、完成することを告げているのではないでしょうか。「はじめに神は天と地を創造した」という、その延長に現在私たちは生きています。
 しかし、イエス様が再び帰って来られる時、「新しい天と地」が再創造されるのです。悪魔・悪霊どもがいなくなり、呪われたものはなくなるのです。でもまだ、死ぬ人たちがいるみたいです。百歳で死んだら早死にだね、と言われるみたいです。
 しかしその後、もう一度神様は、新しい天と地をバージョンアップされるみたいです。その時には、死も悲しみも叫びも苦痛もありません!と言うのです。なんと、死が逃げていく、そんな世界が最終的には創造されますよ!と、告げているわけです。

 私たちは「十字架の勝利を賛美します!」と言いますが、何を描いて賛美しているのでしょうか。「私のような罪人のために、命をかけてくださってありがとう。」くらいにしか考えていないのではないでしょうか。
 実は、ヘブル書に記されている十字架の勝利とは、『その死によって、悪魔という死の力を持つものを滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』と告げています。この言葉は、本当に奥の深いものなのです。
 イエス様の十字架の勝利とは、やがて主が帰って来られ、新しい天新しい地が創造され統治される。しかし、さらにもう一段階進み、さらなる新しい天と新しい地が創造され、死がなくなるという、究極の天地創造を告げているわけです。私たちはそのために選ばれ、この地上で戦っているのです。十字架の勝利とは、そんなにも奥深いものなのです。
 そして、それを実現するために、神の宮のただ中で主を賛美しなさいと告げられています。管理人たちが主を賛美する、子どもたちが主を賛美する、その時、神の完璧な支配が、この地に訪れると告げているのです。その一幕、いや、その為の重要な働きが賛美です。

 最後まで残る職業は何でしょうか。やはり、賛美する人たちだと思います。新城教会は私が主任牧師で、他に六人牧師、副牧師たちがいるのですが、三人牧師で、三人は副牧師となっているのですが、この間、会議があって、私の父が「副牧師さんたちは十年以上、副牧師をやっているけれど、一枚脱がしてあげたら?」という事になり、四月から副を取りまして、「全員牧師」と呼ぶことになりました。しかし給料は変わらないし、何も変わりません。軽く言っていますが、霊的権威は広がると思います。
 主任牧師も誰かに託していいのですが、教会の借金も付いて来ますから、覚悟が必要です。
 しかし牧師たちは、天国に行ったら職業を失うのです。そこでは全員救われていますから、伝道も必要なくなるのです。霊的戦いも必要がなくなります。悪魔・悪霊どもはいませんから。やりたくても出来ません。本当に残念です。他の奉仕も、全てなくなります。永遠に残るものは「信仰と希望と愛」と言われますが、職業的に残るのは、賛美奉仕者だと思うのです。なぜなら主への賛美は、永遠に続くからです。すごいですね。この教会で最後まで残るのも賛美です。主への賛美。今は戦いの賛美です。しかし敵に勝利したら、戦いの賛美は消え、主を心から誉め称える賛美だけが残ります。天の礼拝が地に下りて来るのです。そのために、まずは霊的戦いの賛美が必要です。

 今から聖餐式を行いますが、これは何を意味しているのでしょうか。それは、十字架の勝利を意味しています。しかし、簡単に捉えてはいけないのです。私たちは十字架の勝利を、もっともっと感謝し、死が逃げていく世界にまで思いを馳せ、聖餐をいただきましょう。
 「教会のただ中で主を賛美しなさい!」。本気で、心から主を賛美しましょう。それが被造物の管理にも、イエス様の再臨にも、最終的新天新地にまでつながる、大きな働きなのです。
 最後に一言お祈りして、終わりにさせていただきます。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。今日こうしてすばらしい礼拝を持つことができ、感謝します。私たちに賛美を与えてくださっていることを感謝します。私たちは管理人として、この地に置かれています。主がお帰りになる道を用意するために、この場にいます。
 主よ、十字架の深い意味について、私たちは今日は知りました。私たちは、心の底から主を賛美します。
 今からの聖餐式を祝福してください。やがて来たるべき主、死がなくなるまでの勝利に期待し、聖餐式を行います。今からの時を祝福してください。イエス様の御名によって、お祈りします。アーメン。