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心配しないで

2015年4月5日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
マルコの福音書16章1節〜6節(リビングバイブル)

『翌日の夕方、安息日が終わると、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤ、それにサロメの三人は、さっそく、イエスの遺体に塗る香料を買い求めました。翌朝早く、日が昇るとすぐ、婦人たちは香料を持って墓へ急ぎました。ところが、気にかかることが一つあります。 どうしたら、あの大きな石を入口から取りのけることができるのでしょう。 道々、そのことばかり話し合っていました。それがどうでしょう。 着いてみると、あの重い石はどけてあり、入口が開いているではありませんか。中に入ると、右のほうに、白い着物をきた青年が座っています。 婦人たちはびっくりして、息も止まるほどでした。その御使いがおもむろに口を開きました。「そんなに驚くことはありません。 十字架につけられたナザレのイエス様を捜しているのでしょう。 あの方はもうここにはおられません。復活されたのです。ごらんなさい。ここがあの方の遺体があった場所です。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日は復活祭です。皆さんと共に、イエス様の復活をお祝いできることを、心から感謝します。復活祭のことを「イースター」とも呼ぶのですが、イースターという言葉を私は使いません。なぜなら、イースターというのは、「イオストレ」という春の女神を意味するからです。春の女神が、復活祭に置き換えられたのです。「復活祭」という言葉のほうがいいと思います。
 私たちはイエス様が復活されたという、事実に基づいて、信仰を守っています。
 今もすばらしい賛美を聴くことができました。放蕩息子の賛美、歌っていた人のことではないかと思うのですが、彼は賛美の人に変えられました。

 人生では、様々な不安があります。心配で心が満たされるようなことがあります。
 ある時、二匹の毒蛇が散歩に出かけたそうです。こんな具合でしょうか。

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 すると毒蛇が、「俺たちって、毒蛇だよな?」ともう一匹の蛇に聞きました。『あぁ、そうだ。俺たちは毒蛇だ。』と答えました。二匹は、さらに散歩を続けました。すると、また先ほどの蛇が言いました。「俺たちって、毒蛇だよな?」『そうだとも。俺たちは牙に、世界で最強の毒を持ってるんだ。この毒さえ使えば、猛獣だってイチコロさ!でも、おまえ、なんでそんな事を、何度も聞くんだ?』

 「…・さっき、俺、舌かんじゃったもんだから。」

毒蛇にも心配があるようです。

 今日、読んでいただきました聖書の箇所が、どのような場面かと言いますと、イエス様には弟子たちがいました。男性たちでした。しかし、女性たちもイエス様に従っていたみたいです。彼らはイエス様が十字架にかかり、死んでいく光景を、つぶさに目撃しました。イエス様は鞭で打たれ、槍で突き刺されて、ずたぼろになって死んで行きました。人生をかけていた人物が、目の前で死んで行く姿を見て、彼らは絶望の極みであったと思われます。
 イエス様は生前、「わたしはよみがえりであり、いのちです。」と語っておられましたから、「イエスはよみがえる」という噂が広がっていました。当時のイスラエルは、ローマ帝国の属国でしたが、ローマ帝国は誰かが遺体を盗み出したりして、一騒動が持ち上がってはいけないと危惧し、イエスさまの葬られた墓を厳重に警備しました。大きな石を入り口に置き、封印し、ローマ兵たちが立っていました。
 ユダヤには三日目に、死体に香油を塗る風習があったようです。男性の弟子たちは、初めから「墓に行って香油を塗るなんて不可能だ。ローマがいるし、行かないほうがいい!」と考えていたのでしょう。彼らは行きませんでした。それは男性的な思考ですね。
 しかし女性たちはすごいです。私は女性の方々を尊敬します。男性にはできないことをするからです。厳重な警備がしかれ、大きな石が置いてある墓に向かって行ったからです。
 彼女たちの心配事は、何であったのか、リビングバイブルで読んでみたいと思います。

『翌日の夕方、安息日が終わると、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤ、それにサロメの三人は、さっそく、イエスの遺体に塗る香料を買い求めました。翌朝早く、日が昇るとすぐ、婦人たちは香料を持って墓へ急ぎました。ところが、気にかかることが一つあります。 どうしたら、あの大きな石を入口から取りのけることができるのでしょう。 道々、そのことばかり話し合っていました。それがどうでしょう。 着いてみると、あの重い石はどけてあり、入口が開いているではありませんか。中に入ると、右のほうに、白い着物をきた青年が座っています。 婦人たちはびっくりして、息も止まるほどでした。その御使いがおもむろに口を開きました。「そんなに驚くことはありません。 十字架につけられたナザレのイエス様を捜しているのでしょう。 あの方はもうここにはおられません。復活されたのです。ごらんなさい。ここがあの方の遺体があった場所です。』

 こんな光景に出くわしたのです。女性たちが墓に向かったのは、イエス様が亡くなった事実を受け入れていたからです。墓に向かうほど、むなしいことはありません。そこは何の希望もない場所だからです。
 しかも墓は大きな石で蓋がしてあったわけですから、三日前に亡くなったイエスさまの遺体すら見る事は出来ません。
 彼女たちの心配は、ただ一つでした。『どうしたら、あの大きな石を入口から取りのけることができるのでしょう。 道々、そのことばかり話し合っていました。』と記されています。
 しかし、墓場に着いたら何が起こっていたのでしょうか。彼女らにとって最も大きなテーマであった、石はすでになくなっていました。しかも、墓の中には白い衣を着て座っている青年がいたのです。それは天使でした。そして、考えてもみなかった、イエス様のよみがえりを告げ知らされたのです。そして、よみがえられたイエス様にもお会いしたのです。

 これは何を表しているのでしょうか。日本人が教会に来る時は、目の前に大きな石がある時が多いです。どうしたら、目の前の石を取りのけてもらえるだろうか、という一心で、教会に来るのかもしれません。
 しかし、教会で何が起こるのか。心配の的であった石も取り去られるばかりか、よみがえりのイエス様と出会うのです。すごいことじゃないでしょうか。

 今日、いろいろな心配事があり、目の前に大きな石があっても大丈夫です。希望のない墓場に向かうような心境で、教会に来られた方もいるかもしれません。しかし大きな石が取り去られるだけではなく、よみがえりのイエス様と出会うことができるからです。これが聖書が告げるところです。

 今日、礼拝が始まる前に、召天者記念会が行われました。毎年、私たちは、イエス様の復活を記念する、復活祭に合わせて「召天者記念会」を行います。教会の記念会には希望があります。
 一般では、「命日」を強調します。命日って何ですか?人が死んだ日です。最悪の日を強調して、法事をやったり、先祖を拝んだりします。
 しかし、私たちは違うのです。「よみがえり」を強調して行うのです。なぜなら、イエス様がよみがえられたように、私たちも、やがてよみがえるからです。
 記念会では、かつて共に礼拝を守っていた兄弟姉妹、今では天に帰られた方々の、元気な頃の写真を見る時間があります。毎年、アルバムの写真が増えるのです。ちょっと寂しい気がします。新城教会も六十年以上の歴史がありますから、すでに百名以上の方々が先に天に帰って行かれました。今年は昨年よりもさらに人数が多くなったので、家族はまとめて写し出すようにしました。また、パワーポイントのスピードもちょっと上げました。注意して見ていないと過ぎてしまうような感じでした。
 しかし私たちには希望があります。イエス様がよみがえられたように、私たちにもよみがえりの日があるからです。また目の前にある石も、取りのけてくださるのです。
 お互いに励まし合っていただきたいと思います。「あなたの目の前の石は消え去ります!」と、隣の方々に宣言してあげてください。

 私はサラリーマン川柳が好きで、よく紹介するのですが、サラリーマン川柳って希望がないです。これが今年の一位です。

 「スッピンは ダメよダメダメ ママじゃない」
人の姿はどんどん変わっていきますよね。

 「本当の 子にも孫にも 振り込めず」
振込め詐欺どころじゃないですよ。これも寂しいです。

 「湧きました 妻よりやさしい 風呂の声」 
お風呂は毎回、「湧きました!」と明るい声で言ってくれます。

「あなた来て~ 唯一の出番 虫退治」
お父さんは大変です。

 「シニアだが リニア乗るまで 生きてやる」
なんか気迫を感じますね。最後にもう一つ。

 「再生紙 二度のお勤め 羨ましい」
人生って寂しいですね。

 しかしイエス様を救い主として信じると、寂しい川柳はなくなると思います。もう少し、希望あふれる川柳を作ってもらえたらいいなと思うのですが。

 人生って、心配の連続だと思います。一個心配の石がなくなると、すぐに次の石が落ちてくるからです。常に心配事をはね除けながら生きるのが人生です。しかし、聖書には、こんな言葉があります。大きな声で読んでみましょう。
 詩篇五十五篇二十二節、

『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』

 いいですね。主が、心配してくださるというのです。主とは神様です。天と地を造られた神様が、私たちのことを心配してくれるのです。
 心配には、「あぁ、どうしよう。どうしよう…・。」と、おろおろするイメージがありますが、神の心配は、ただの心配ではなく、解決の為の行動です。私たちのために、神が動いてくださるのです。だから、主に問題をゆだねなさいというのです。
 時々、政治家が官僚に物事を丸投げすることが批判されますが、私たちは神様にすべての問題を、丸投げしたらいいのです。

 また、こんな言葉もあります。詩篇六十八篇十九節、

『ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。』

 イエス様は常に一緒にいてくださるのです。イエス様を救い主として信じると、なんと、一緒に重荷を負ってくださるのです。
 「心配」という言葉は、ギリシャ語では「バラバラにする」という意味があるそうです。私は機械を分解するのが好きです。これは腕時計です。

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 昔の自動巻腕時計です。どうでしょうか。こんな時計を一度バラバラにしたら、普通は絶対に元に戻す事はできないです。バラバラにするのは、案外簡単ですが、組み立てることは難しいのです。
 心配とは分解するというイメージだそうです。

 以前、この教会に一人のおじいちゃんがいました。私はそのおじいちゃんが好きで、よく訪問に行きました。少し病気になって、あまり仕事ができなくなりました。訪問すると、毎回、こたつに座って、ため息をついていました。クリスチャンになって長かったのですが、こたつの上に聖書を置けばいいのですが、毎回、「家庭の医学」という本が置いてありました。
 おじいちゃんは、ちょっと頭が痛いと、家庭の医学を読むのです。「頭が痛いけど、これは脳溢血の兆候かもしれない。」とか、「クモ膜下かもしれない。」「脳腫瘍かもしれない!」とか、すぐに発展させるのです。お腹が痛いと、ただお腹が痛いだけでは済まないのです。家庭の医学の腹痛という所に、いろんな病名が書かれていますから、み言葉を読むのではなく、病名ばかり読んでいました。
 私はいつも言いました。「おじいちゃん、こんな本、読んでも楽しくないよ。人間、八十歳を過ぎたら、すでに病気に打ち勝ってるよ。」と。でもおじいちゃんは、「ダメだ。もうダメだ。俺は大きな病気かもしれない。」と、毎回言っていました。一つの問題が起きると、問題をバラバラにして、さらに拡大するのです。それで収集がつかなくなっていました。
 でもそのおじいちゃん、九十歳以上生きて死にました。晩年、心配しなければ、もっと楽しい余生を送られたのではと思います。様々な事が起きるのかもしれませんが、心配事をバラバラにしないで、すぐにイエス様に差し上げたらいいのです。イエス様に対するプレゼントは、心配事とか、悩みでも喜んで受け取ってくださるのです。こんな神様と、一緒に過ごせるのは、最高です。

 先週もストレスについて少し、お話ししたのですが、ストレスが健康に悪いと信じると、その信じ切った信仰のゆえに、死んで行ったという統計を紹介しました。本来ストレスとは、神が与えた、人生を生き抜くバネだ!という考え方もあります。
 聖書の中で、「この人ほどストレスがあった人はないだろう」と思われる人物は誰でしょうか。やはりモーセではなかったかと思われます。モーセという人物は、エジプトに四百三十年間も奴隷になっていたイスラエルを、パロの手から解放し、カナンの地まで四十年かかってつれて来た人物です。水も食べ物もない荒野に、二百万人近い人々を連れ出したと言われます。全集団を統率し、カナンの地まで連れて来るのは、相当なストレスだったと思います。
 しかし神の御手により、出エジプトは実現しました。そんな事が起こったのを、荒野に住んでいたモーセの姑、祭司イテロが聞きました。それでイテロは、モーセの子どもたちや奥さんを連れて、ある日、陣中見舞いに訪ねたことが、出エジプト記に記されています。
 行ったら、モーセは一人で何もかもやっていました。朝から晩まで、民の問題の解決に当たっていたのです。イテロがモーセを訪問したのは、出エジプトしてから二ヶ月後のことだと言われます。モーセはまだ、張り切っていました。民を目の前にして、はりきって問題解決に当たっていました。それを見たイテロはモーセに忠告したわけです。「モーセ。おまえな、一人でこんな事をやっていたら、そのうち潰れちゃうぞ。おまえがやっている仕事を、誰かに分散したほうがいい。」と忠告したのです。イテロの忠告がここに記されています。出エジプト記十八章二十一節〜二十二節、

『あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。』

 こんな忠告をしました。この忠告をモーセは受け入れ、事なきを得ました。案外、重荷や心配事を、自分で抱えすぎる傾向があります。聖書は、それを分散させなさいというのです。
 先週は「雲の柱」と「餃子ノブズ」が開店しました。プレイズ出版の新規事業です。ついに開店したのです。

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 みんな黒い服を着て、葬式の帰りみたいですが、竣工式の写真です。四月二日から開店しました。大勢の人が来て、楽しんで食べていました。

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 孫たちも一緒に行きました。たいへんおいしいです。餃子もうまかったです。
 でも私はちょっと心配しました。餃子が売れすぎて、信弘先生が朝から晩まで、餃子ばかり焼いていたからです。始まったばかりですから、彼もモーセのように力が入っていました。牧師ではなく、餃子屋になりきっていました。ドライブ・スルーには多くの車が来て、大変だな、と思いながらも、嬉しかったです。
 しかし今後、第二、第三の信先生が出て、餃子を焼かないと、きっと、信先生が焼き付いてしまうと思います。重荷は、分散しなければいけないのです。
 みなさんも、一人で重荷を抱え込まないで分散してください。特に、心配事や重荷があったら、教会にお知らせください。教会は重荷を受け取り、それをなんとかする機能を神様から委託されています。自分で抱え込まないで、教会に持って来てください。そうすると、分散しますから、重荷は軽くなるのです。
 モーセは一人でやっていたけれど、イテロの忠告により、重荷を分散し、事なきを得たのです。

 しかし、聖書はおもしろいです。モーセがどのような経過を辿ったのか、時間的な軸を追いながらレポートしているからです。
 イテロがモーセを訪問したのは、出エジプトの二ヶ月後でしたが、二年後のモーセはどんなふうになっていたのでしょう。民数記にその様子が記されています。あんなに張り切って、「俺は一人でできる!」と言っていたのが、民数記十一章十一節では、

『モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。』

 二年後には疲れ果てていたのです。「なんで民全体の重荷を、俺一人で負わなければいけないのか…。」と文句を言っています。前後を読むと分かるのですが、出エジプトした人たちが、神様からもらっていた「マナだけじゃ、もう飽きた!エジプトにいた時には焼き肉も食べられたし、にんにくも食べたし、玉ねぎも食べた。にらも食べたし、きゅうりも食べたい!」と、いろいろと文句を言ったのです。それにモーセはキレたのです。
 「なんで俺だけに、こんな重荷を負わせるんだ!」と、二年後には疲れ果てていたのです。

 問題は、分散させるとうまくいく事もありますけれど、それでもどうにもならない事が結構あります。まさにモーセも同じ体験をしました。
 その時、神様は何と語られたのでしょうか。民数記十一章十六節〜十七節。

『主はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。』

 モーセが、一人で二百万人くらいの人たちを相手にできたのは、人間的な力ではなかったのです。神の霊である「聖霊の力」だったのです。彼には聖霊の油注ぎがあったのです。だから民の問題を解決することができていたのです。
 でも二年後、油注ぎはあったけれど疲れたのです。その時、主が何と言われたのかと言うと、「七十人の長老たちを集めよ!」と言われたのです。そして、モーセの上にある油注ぎと同じ注ぎを、七十人の人たちに分けると言われたのです。
 七十人の長老たちが集まった時、主は霊を七十人の人たちに注がれたのです。七十人が、モーセと同じ油注ぎをもらい働くようになったのです。この光景が、民数記十一章二十八節〜二十九節に出ています。

『若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」しかしモーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」』

 ヨシュアとは、モーセの側近でした。モーセと同じ油注ぎが、七十人に与えられたのを見て、モーセが霊的権威を失うのではないかと心配し、「やめさせてください!」と言いました。でも、モーセは、『主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。』と言いました。モーセは、自分と同じ油注ぎが民全体に与えられたら、民はうまく進んでいくことを知っていたのです。

 実は、今日は嬉しいことがあります。新城教会は、私以外に、六人の牧師、副牧師により構成されています。私は一応、主任牧師ですが、他に、三人の牧師、滝元明、上條実、岡本信弘がいます。さらに、三人の副牧師もいるのです。滝元開、四元雅也、公畑フェルナンド、順不同です。
 でも、今日から三人の呼称を変えたいのです。
 副牧師ではなくて、牧師にすることに決まりました。フクを一枚脱がせるのです。それは霊的権威の問題だと思うのです。この先生方、十年以上、忠実に、がんばってやってくれています。教会全体が彼らを牧師と認めることは、教会に対する油注ぎの拡大です。しかしそれ以上に、教会全体が同じ油そそぎをもらったら、うまく行くのです。
 人生の秘訣は、やはり聖霊の油注ぎです。霊的権威をもらうことです。
 問題があると、問題解決のために人間的な手法を使うのですが、もちろんそれを聖書は否定していません。組織を作ったり、人脈を使って問題を解決しようとするのは、聖書が教えている方法の一つです。しかし、それ以上に、聖霊の力を求めなければいけないのです。聖霊の力を求め、聖霊の力が注がれると、問題は砕かれるのです。イザヤ書十章二十七節、

『その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」』

 時々、人生に、「くびき」がつけられます。くびきとは二頭の牛とか馬をつなぐ木です。それが付けられると、横にいつも相棒がいるようになるのです。例えば、悪習慣というくびきでつながれると、常に、悪習慣が人生につきまとうのです。問題というくびきでつながれると、いつも問題が付いて来るのです。逃れようとしても、どうしようもないのです。
 しかし、くびきがもぎ取られるのです。日本語の聖書では、『彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。』という訳ですが、英語のニュー・キングジェームス訳だと、『油そそぎによって砕かれる』となっています。聖霊の油注ぎによって、くびきは砕かれると。
 聖霊の油注ぎを求め、油注ぎをもらった人で、なおも暗闇の中にいる人を見たことがありません。必ず、くびきは破られるのです。みなさん、聖霊の油注ぎを求めてください。そうしたら、悪しきくびきは打ち破られ、自由になることが出来ます。家族の中に問題があったら、誰かが、家族を代表し、聖霊の油注ぎを求めて祈ることです。そうすると、家族をしばっているくびきが打ち破られ、自由になります。このように、目の前の石を取りのける方法が、聖書には多く示されています。

 新約聖書の中で大変有名なのが、マタイの福音書十一章二十八節の言葉です。この言葉は大変有名ですから、一緒に読んでみましょう。マタイの福音書十一章二十八節、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

 これは、世界中の教会の入り口の看板に掲げられているみ言葉ベストテンの一位です。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』
 「わたし」と、ひらがなで表記されているのは、イエス様のことです。イエス様が重荷を負ってくださるのです。イエス・キリストを救い主として信じるのは、問題解決の為の絶対条件です。
 イエス様と共に歩む人生は、すばらしいです。

 先ほども、若者たちが歌いました。Back2Eden、「エデンの園に帰りましょう」というバンド名です。おもしろいですね。
 私も若い頃、バンドをやっていました。この頃は年を取って来たので、昔話をするようになって、寂しいところがあります。昔、うちの親父が、メッセージの中で津具鉱山の話ばかりするもんだから、「もう何度も話したから、やめろよ」と思っていたのですが、「私も同じように昔話をするようになっちまった。残念だ。」と思います。私は昔、バンドを結構長いことやっていました。グロリア・シンガースというバンドをやっていました。けれども、私は開先生のようには作曲できません。あんまり才能がありません。グロリアシンガースで、「ワンダフルグローリー」という今ならCD、昔はカセットでしたが、アルバムを出しました。
 その時、一人三曲づつ作れと言われました。困ったなと思ったのですが、真剣に祈りました。祈ると曲って、本当に与えられるものです。それで、3曲作りました。今日はその中の一曲、以前、途中までお聞かせしたことがあるのですが、「僕の人生」という曲を聴いていただきたいと思います。歌詞が四番くらいまであります。よくも書いたものだと思います。作詞・作曲滝元順です。三十五年前のレコーディングですから、あまり音は良くありません。でもこの頃聞くと、「結構いいじゃん」と、ちょっと自慢しちゃったりします。私の葬式の時は、この曲をかけてもらおうかなという曲ですが、聴いて下さい。


♪僕の人生

人生は移りゆく 季節のように変わる ある時は真冬の寒さの中
北風に立ち向かい 先に立って歩く イエス様の後ろには風は来ない

ある時は雨の中 傘も持たず歩く ゆくあてもないままに 一人迷う
気がつけばイエス様は そっと傘を差し出す 中には雲もなく 青空広がる

イエス様の後 ついて行くなら 僕の人生に恐れはない
イエス様に導かれ 歩む道は楽しい 心には喜びとやすらぎがある

焼け付く夏の日射し 喉をからし歩く 辺りには水もなく木陰もない
日射しに手をかざし 先に立って歩く イエス様の後ろには木陰が広がる

どんな季節が来ても 年月が流れても イエス様の後ろなら怖くはない
君にも知ってほしい こんな人生がある この道は続くよ 明日に向かって

イエス様のあと ついて行くなら 君の人生に恐れはない
イエス様に導かれ 歩む道は楽しい 心には喜びとやすらぎがある


 なかなかいいでしょう〜。ありがとうございます。イエス様と一緒に歩んだら、間違いありません。泣きのギターが良かったでしょう。俺が作った曲かなと信じられないですが、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』とあります。イエス様が休ませてくださるのです。
 これはマタイ十一章二十八節の言葉ですが、聖書はやはり前後を読んで、意味を捉えることが重要です。この箇所は、一人歩きしている言葉の一つだと思うのですが、ルカ十章の十七節からとつき合わせると、意味がよく分かります。ルカの福音書十章十七節〜二十二節、

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」』

 これは七十人の弟子たちが宣教に出て行った後のレポートです。なんと悪霊どもが、足下に従うのを見たというのです。イエス様は背後から、サタンが天から落ちるのを見たというのです。サタンが権威を失っている姿を見たというのです。七十人の弟子たちは、悪魔・悪霊どもに打ち勝ち、喜々として帰って来たのです。その時に語られた言葉です。ここと同じ事が、マタイ十一章に出て来ます。マタイの福音書十一章二十五節〜三十節、

『そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』

 読み比べると、ルカ十章とマタイ十一章とは、同じ場面を扱っている事が分かります。七十人の弟子たちが、悪魔に打ち勝った!という勝利の宣言を、イエス様に報告した延長線上で、イエスさまから、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と語られたのです。マタイの記録と、ルカの記録を合体すると、次のようになります。

『さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』

 これは何を告げているのかというと、霊的戦いが、重荷を勝ち取る重要な条件だということを告げているのです。悪魔・悪霊どもが、重荷を持って来ます。しかし聖霊の油そそぎを受け、悪魔・悪霊どもを、七十人の弟子たちのように打ち破っていくと、初めはプレッシャーで潰されそうな人達が、喜々として帰って来るのです。イエスさまはあなたに言われます。「わたしのくびきは負いやすいだろう。荷は軽いだろう。」と。
 私たちが主から委託された権威を使い、悪魔に立ち向かう時に、心配事、問題は消え去るのです。

 今回、「心配しないで」という、み言葉を語らせていただきましたが、組織を作ることも大事です。しかし、そこには本当の答えはありません。油そそぎを受け取ることは重要です。どうしても必要なことです。しかし、油そそぎと共に、七十人の弟子たちと同じように、悪魔に立ち向かって行く時に、「重荷は消え去る」と教えているのです。
 今日ここにおられる全員が、七十人の弟子たちなのです。悪魔に立ち向かうために出て行くなら、問題は問題でなくなります。また、教会は、それをサポートする役割です。

 最後に一つのみ言葉を読んで、終わりにしたいと思います。ガラテヤ書六章二節、と五節、

『互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。』
『人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。』

 お互いに重荷を負い合う、それが教会の姿です。重荷を負い合っていく時、勝利が与えられ、律法が全うされるのです。
 今日、私たちは、キリストのからだに属しています。キリストのからだにしっかりと属することが、問題解決のために重要な条件です。目の前の石は、必ず取り除けられます。
 それだけでなく、やがて、地上でよみがえりのイエス様とお会いすることができます。これが復活祭のメッセージです。
 今日も、聖餐式を行いたいと思います。先週もお話ししましたように、聖餐式は大変大変、重要な一時です。今日はイエス様の復活と十字架を記念し、聖餐式にあずかりたいと思います。一言祈ります。

 ハレルヤ。御名をあがめて心から感謝をいたします。今日はあなたがよみがえってくださった記念の日に、聖餐式を持つことができますことを、心から感謝します。
 今からの聖餐式を祝福してください。血潮によって悪魔に打ち勝ち、勝利を宣言します
 偶像に捧げられた食物を食べさせられたり、添加物があったり、様々な毒を盛られている現代ですが、「毒を飲んでも決して害を受けず」というみ言葉を宣言します。主の勇士として、立ち上がります。み言葉と聖霊により、聖餐を、あなたのからだとあなたが流してくださった勝利の血潮に変えてくださますように。
 今週も、雄々しく歩むことができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。