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心配ごとを主にゆだねよう

2015年4月12日(日)
新城教会牧師 公畑フェルナンド
第Ⅰペテロの手紙5章7節

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

 ハレルヤ!感謝します。いつも祈ってくださり、心から感謝します。今、Feel the flowの歌、すばらしかったですね。その中で、私も「もっとがんばらないといけないな」と思いましたが、その時に神様が、「あなたではなくて、聖霊様の働きです。」と言われました。
 今日のために一週間前くらいからメッセージを作っていましたが、先週、順先生のメッセージは「心配しない」でした。それで「同じテーマだなぁ。どうしようかなぁ。」と思いました。最近順先生はいろんなメッセージタイトルで、「パート2」「パート3」としていますので、今日は「心配しないで パート2」ということで、タイトルは違いますが、同じテーマで今日、話したいと思います。よろしくお願いします。

 第二次世界大戦中、ドイツと日本に対しての戦争で、三十万人のアメリカ兵の若者が亡くなりました。しかし、戦争に出たすべての兵士たちの家族のなかでは、二千万人以上の人が本国で亡くなったそうです。その死の原因とは、心配と恐れによるものでした。自分の子どもたち、自分の家の若者が戦争に出兵しているということで心配をしていたのです。心配、恐れというのは、実際の弾丸よりも力強いものなのです。戦争よりももっと強い影響を与えるものなのです。心配は、戦争よりもっと強力なものなのです。
 そして現在、世界ではさらに高性能で力強い武器が作られています。戦争の最前線でもこんなに人を殺せる武器はありません。しかし、それの七倍もの殺傷能力のある『心配』に対しては何も対策されていません。
「心配」とは、落ち着かない心の状態であり、多くの病気の原因となります。そしてその症状は、時々お医者様の診断のつかない時があります。
現代の疫病ともいえる、それが「心配」です。
 心配することは、ここにいる誰にも経験して欲しくない魂の状態であり、神様ももちろんそう思っておられます。それは時として周りの状況に左右されます。何かの約束であったり、面接であったり、試験であったり、発表会やプレゼンでであったり、仕事の応募であったり、結果待ちの検査であったり、その心配は心に影響を及ぼし、人は冷や汗をかき始めたり、頻拍になったり、息苦しくなったり、背中の痛みを感じたり、首が硬く凝ったり、食欲が落ちたり、よく眠れなかったり、胃炎になったり、恐れたりするなど、多くの事を引き起こします。でも神様は、私たちがそのように苦しむことを望んでおられません。

 私は今日、教会が、神の子どもたちが、神様は決してそれを望んでおられないということを理解してもらいたいのです。先ほど読んだ御言葉に「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」と書いてあるからです。思い煩いというのは、心配であり、苦難です。私たちに落ち着きをなくさせ、私たちの思考力を掻き立てるものであり、悩ますものです。私はこの「心配」について、今日お話したいのです。
 イエス様は、だれにも心配を負ってほしくないと思っています。神様はあなたが「私は心配でいっぱいである」ということを喜ばれません。聖書に神様はあなたに今日、出口をくださると書いてあります。第一ペテロ五章七節に、

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』とあります。

 後半、日本語の聖書ですと、「神があなたがたのことを心配してくださる」と書いてありますが、スペイン語であったり、英語の聖書を見ますと、「心配」ではなく、「保護してくださる」とか「世話をしてくださる」という意味で書かれています。

 さらに、もっと神様の考え方を理解していただきたいと思います。神様はどのような方でしょうか?私たちに対する神の愛はどのようなものでしょうか?あなた方が背負っているたくさんの事について神様は、それをあなたに背負ってほしいと思っていません。今日みなさんがこの会堂に入って来たとき、心配事や、苦悩、不安、その他いっぱいの事を持ってここに来られたことでしょう。しかし神様は、あなたがその重荷を神様の足元に置くことを望んでおられます。この聖書箇所を思い出してください。マタイの福音書十一章二十八節〜三十節、

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』

 今日、ちょうどこの御言葉から賛美がされましたが、神様は変化をあなたに与えたいと思っています。神様はあなたの重荷をとり、神様のくびきをあなたに負わせたいと思っています。そして、神様のくびきは簡単で、軽く、目的を持ったものです。信仰のものです。祝福のものです。しかし神はあなたの全ての重荷を取りたいと思っておられるのです。ですから、「わたしのところに来なさい。」と言っておられるのです。

 そして聖書は、神様が私たちのすべての罪を負ったと書いてあります。カルバリの丘で起こった神様の力を知っておられると思いますが、イエス様が私たちのためにされたこと、私たちの咎は、すべて彼の上に置かれました。私たちの罪のすべての重荷は彼の上に置かれました。私たちの全ての重荷が置かれたのです。
 そして聖書はまた、債務証書はあなたを責め立てますが、あなたの人生で犯した罪のリストはたとえ長いものであっても、全てイエス様がカルバリの十字架で背負ってくださったと書いてあります。すべて負ってくださったのです!
また私たちの全ての病を負ってくださった事もご存じでしょうか。
イザヤ書五十三章四節〜五節、

『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』

 神様はあなたが心配事を持っているのを好んでいません。神様はあなたが罪の意識を持っていることを望まれていません。あなたが罪を持って生きていくことも望んではいません。神様はあなたが病を持って生きて行くことを望んではいません。なぜなら、この聖書箇所で神様は、すべてを引き受けると言われました!キリストが私たちの罪を引き受けてくださったと言えるでしょう。これは私たちの勝利です。キリストが私たちすべての罪を取り去ってくださったので、私たちは罪許されたものとなったのです。
 さらに信仰的に成長した人であれば、イエス様は私たちの全ての病気も持って行ってくださったということが分かります。今朝、神様は私たちの心配ごとを取り除くことに関心があります。神様は、「すべての心配ごとをわたしのところに持って来なさい」とおっしゃっています。それはちょうど包みにすべて入れて、神様の元に持っていくようなものです。御言葉は「私たちの全ての不安や、すべての負っている物や、苦難、すべての悲しみ、すべての将来に対する心配を、イエス様に全てゆだねよ。」とあるからです。なぜなら、御言葉にあったように、神様は私たちの世話をしてくださるからです。
 そして時には、この包括的な不安による動揺は、まだ私たちが知らないことにまで及ぶのです。例えば将来に対する恐れです。子どもが生まれると、あなたは子どもたちの将来に対して心配します。また明日はどうなるだろう、老後どうなるだろうと、これから来ようとする事を心配します。それは霊的に病人になったようなものです。神様はあなたがそのような重荷を持つことを好みません。神の御霊が今日この御言葉を語るようにと与えてくださいました。
 なぜなら、神様はあなたたが今日ここに問題の荷物を抱えて来たことをご存じだからです。そして少しの間、その重荷を下ろして、神様を賛美して、御言葉で力をいただいて、しかし帰る時にまたその荷物をしょって帰って行くのです。しかし、持って帰る必要はないのです!

 こういう話がありました。ある人がジャガイモをいっぱい入れた荷物を持った農夫を道で見つけ、自分のトラックに乗せてあげました。途中で、バックミラー越しにその農夫を見ると、その農夫はトラックに乗っているのに、荷物はそのまま肩に背負ったままでした。これが私たちがよくやることなのです。
 イエス様は言われました。「トラックに乗りなさい!」しかしイエス様がして欲しいことは、すべての重荷をゆだねることなのです。すべての重荷を放しましょう!だれも心配しながら生きるべきではありません。聖書はこう言っています。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。よろこびなさい。」

 私がどのようにそのような戦いに立ち向かうか、お話ししたいと思います。神様の御霊が私に教えられたことです。みなさんの助けになるかもしれません。今日始めるなら、明日は心配しない日になるでしょう。苦悩のない日になるでしょう。神様に信頼していくなら、神様は私たちの世話をしてくださいます。詩篇三十七篇五節、

『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』

 これは神の約束です。もちろん私は戦いに出てゆかなくてはなりません。毎日立ち向かうべき戦いがあります。しかしあなたの道を主にゆだねるなら、信頼するなら、神は成し遂げてくださいます!
 「ゆだねる」という意味は、神様との関係を継続させていくという意味です。聖霊様との深いかかわりがあるなら、その時に初めて、あなたは自分の道をゆだねることができます。神様を信じて出て行くことができます。
 例えば私は朝、私は祈る前にニュースを聞くのは好きではありません。まず自分が神様の前に出て、神様の前に強められてから、ニュースを聞くようにしています。先に神様の力をいただくためです。神様に強められるためです。
まず最初に神様のところへ行き神様に求めて、今日一日をおゆだねしたら、その後どんなニュースが来ても、その一日は神様がともにおられるから大丈夫なのです。お分かりいただけましたか。

 悲しいことに今日、いじめが盛んに行われています。身体や心への虐待です。これこそ悪魔が教会の中でしていることなのです。クリスチャンいじめです。しかし今日、主はあなたにこう言われます。すべてのあなたの心配を神に投げ出しなさいと。神様は言われます。「わたしに任せなさい!」と。神様が担ってくださいます。悪魔はあなたに手出しできなくなります。思い出してください。私たちは、神様の目の瞳なのですから!
毎日、戦いから解放されます。毎日です。聖書はこう言っています。
ピリピ人への手紙四章六節〜七節、

『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』

 ここには、あなたが何をしたら良いか、神様が教えています。とても簡単な事です。心配が来た時に、祈り、感謝をすればいいのです。今日みなさんに、御霊の武器である『感謝をする』ということを覚えていただきたいのです。
感謝をささげることです。
 神様に感謝をささげるとはどういう意味ですか。もし人生の中で何かあった時、主にこう言うのです。「何が起こっているか見てください!」なげいて、助けを求め、その後、こう言うのです。「主よ感謝します。私には理解できないですが、あなたが私と共におられることを感謝します!あなたの姿は見ることができないけれど、また時々あなたの声も聞こえなくなりますけど、しかし、あなたがここにおられることは分かっています。感謝します。感謝します。感謝します。」するとあなたの上に平安というバプテスマが下ってきます。聖書は全ての理解に勝る神の平安が、あなたの心とあなたの思いをイエス・キリストの内に守ってくださいます、と言っています。
 これを覚えてください。心配が来る。すると祈ります。そして、感謝をささげます。そうすると平安が来ます。

 与えられる平安とは、例えば皆が恐れの中で死んでいる中でも、あなたが穏やかにいることです。皆が不安でいっぱいな時に、あなたが穏やかにいることです。皆が心配している中で、あなたが穏やかにいることです。なぜなら霊的な武器を用いるからです。ですから心配事が来る時に、祈り、感謝をささげることで、神の平安があなたの心と思いを支配し、そしてあなたの人生に影響するのです。これは「ストレスゼロ」、「心配ゼロ」、「不安ゼロ」、神様の平安100%です。
 これまで兄弟姉妹が葬儀の中で神の平安を持っていることを見てきました。また、兄弟姉妹たちが病院で神の平安の中にいるのを見ました。表面的には全てを失うような場面でも、神の平安がありました。なぜ平安があるのでしょうか?なぜなら神様が私たちの世話をしてくださるからです。神様はあなたから離れません。私たちの世話を焼いてくださるのです。このように1日が、夜が過ぎるのです。
 あなたにはもうすでに変えられない事もありますが、あなたがするべきことは、赦し、また赦しを請い、それらを後ろに置いていくことです。なぜなら、もうすでに変えられない過去について心配するのは良くない事だからです。
夜になると、「ああしておけば良かった。」「こう言ったら良かった。」などと、しなかったことについて気にすると病気になる可能性があります。ですから、そのままにしておいてください。前を向いて進んで行ってください。目標や賞を獲得するために前を向いて進んでください。その他のものはそのまま去って行かせてください。それと一緒に立ち止まっていないでください。感謝すること、赦すこと、去って行かせることであなたの心は健康を保ちます。

 最初に言ったように、私たちのいる今の世界は、あらゆる種類の戦争ができるように準備している世界なのです。例えば、薬というのも戦いです。毎日新しい薬が病気と立ち向かうために開発されています。また軍隊も戦いに向けて武器を発明しています。しかし神様が私たちに下さる武器は、心配に立ち向かうものであり、教会外の人が胃潰瘍や胃炎やストレスや不眠やセラピスト通いやマッサージに通っている中、あなたは神の平安を持つことができるものなのです。

 もうひとつ、これを言わせてください。もう一つ、あなたがすべきことがあります。心配を背負わせようとする会話から離れることです。なぜならその多くの会話の中には根拠が無く、間違った決定をするように私たちを導くからです。神様は、あなたを信仰の人として据えました。私たちは神の子どもなのです。私たちがいる所に神様の光が入ります。ですから天国の言葉で話しましょう。地獄の言葉ではなく。地獄の言葉とはなんでしょう。常に、「ああ、ああ、ああ。」と嘆く言葉です。クリスチャンの、私たちの言葉は違います。それは賛美です。
 ですから、心配のもとになるような会話は避けなければなりません。もしそのような会話に入るなら、信仰の言葉を話すべきです。変化をもたらす言葉と共に行ってください。クリスチャンのミッションはその場の雰囲気を変えることです。
 
神様がイスラエルを約束の地に送った時、十二人のスパイを送りましたが、十人はこう証言しました。「その地は素晴らしく、良いもので満ちている。しかし、そこの住人はみな背の高い人たちであり、私たちは彼らに比べてとっても小さい。私たちは彼らを打ち負かすことができない。」そのために全会衆は泣き始めました。全会衆が不安に包まれました。しかしそこには、ヨシュアとカレブがおり、「私たちは打ち負かすことができる。主が共におられるのだから」と言いました。これを私たちは知っていなくてはならないのです。主は私たちと共にいて、私たちをすべてのものから解放されるという事です。

そしてもう一つ。信仰の人と友達になりましょう。これはとても大切な事です。宗教家について言っているのではありません。私は、信仰の人、征服する人の事を言っているのです。聖書が言っていることを見たいと思います。
申命記二十章八節、

『つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」』

 あなたの友達はどうでしょうか。信仰の人でなければいけません。ですから心配から離れるには、そのような会話に入り込まない事です。その状況を変えるためには入っても構いませんが。
 また信仰の人たちに囲まれることが重要です。あなたが信仰的に落ちている時でも、その友によりあなたは立ち上がることができます。あなたにはそれができます。神様はわたしたちと共にいます。

 最後の御言葉を読みたいと思います。詩篇五十六篇九節、

『それで、私が呼ばわる日に、私の敵は退きます。神が私の味方であることを私は知っています。』

 「神様は私の味方であることを知っています。」これこそ知っておかなければならないことです。「神様は私の味方である。」それは、心配を引き起こすものが全くなくなるということではありません。また、あなたを苦しめる心配事がなくなるということではありません。
 しかし、神様がいつも私たちと共にいて、私たちの世話をしてくださいます。もし、あなたが問題に目を止めているなら、あなたは沈んでいきます。ペテロが湖の上を歩いた時と同じように。彼はその時、沈み始めたのです。しかし彼がイエス様を見ていた間は、水の上を歩けたのです!

 一つの話をして終わりたいと思います。一つのクルージング船の乗客たちが、氷山が船の近くに迫っているのを見ました。乗客の皆の頭にはタイタニックの事が浮かびました。その噂は船中に広がりました。「タイタニックみたいに沈んでしまう!沈んでしまう!」と。皆、氷山にぶつかる、この船は沈むと恐れました。恐怖でいっぱいになりパニックになりました。
 その中、あるクリスチャンが出てきて、船長がいるキャビンのところへ走って行きました。そこは一般の人は立ち入り禁止のところでした。しかし、そのクリスチャンが遠くからその船長をのぞいて見てみると、その船長は何をしていたでしょうか。何と船長は口笛を吹いていました。そして穏やかに船を操縦していました。そして船長がそのクリスチャンを見ると、にっこりと笑いました。何も言葉は発しませんでしたが、その笑顔が「大丈夫だよ。」ということを表していました。
 私たちを不安にさせる噂が私たちのところに来ることがあります。しかし、朝、まず神様の前に出て、また心配事を神様の前に持って行くなら、イエス様という船長のところに行くなら、イエス様の笑顔を見ることができます。なぜならあなたの世話をしてくれているのは彼なのですから。それであなたは、「すべて順調だ」と言ってそこから出てくるでしょう。私の人生の船は決して沈まないという確信が持てます。全てが順風満帆なのですから。
 誰かが聞くかもしれません。「どうしてそんな事がわかるのですか?」あなたは答えます。『私は船長を見たからだよ!』と。船長はあなたに何を言ったでしょう?船長は何も言いませんでした。しかし、彼は穏やかでした。神様は決して心配はしていません。神様は穏やかです。怖がっているのは悪魔のほうです。なぜなら今朝、この教会の全ての心配がイエス様の足下に置かれ、イエス様がすべてそれを持って行ってくださるからです。今日、あなたに言います。今日、あなたが帰る時、あなたの車は軽くなります。なぜなら、今日ここに荷物をすべて置いていくからです。イエス様の足下に置いていくからです。全ての思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。

 それでは、お祈りしましょう!どうぞ、目を閉じてください。

 今日、心配ごとを持ってここに来られたかもしれません。あなたがここに来た時、主はあなたが心配という重荷を背負ってきているのをご覧になりました。それでこの御言葉をあなたに語れと言われたのです。もう神の子どもたちには心配はありません。聖書はこう言っています。『あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。』そしてまた、こうも言っています。『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。』ですから、あなたの荷物を取って主に言ってください。「主よ。これが私の苦悩です。これが私の心配事です。」と。神様の前に出して下さい。「主よ、これによって私は眠れません。これが平安を持つことを邪魔しています。このような境遇、このような状況、言われたあんな言葉、この診断書、この逆境、この戦い、全てを神様の上に置きます。」と。なぜなら彼はあなたを気遣ってくださるからです。
 それでは、何分か自分で取ってくださり、そしてあなたの自分自身の言葉で神様に言ってください。「これが私の重荷です。あなたの前に置きます。これを持って帰りたくはありません。」どうぞ、そのようにお祈りしてください。

 主よ、今朝、私たちのすべての思い煩いをあなたの前に置きます。すべての心配事や、悩みを掻き立てるもの、あなたの民を悩ませるものを引き取ってください。あなたが言われたように、あなたの上にこれらを置きます。罪の意識や、病や、心配や、重荷をあなたの足元に置きます。あなたは私たちに休息を約束されました。私たちの面倒を見てくださると約束されました。心の平安と共に家に帰りたいと願っています。私の未来はあなたの御手の中にあります。私の家族もあなたの御手の中にあります。私の配偶者もあなたの御手の中にあります。子どもたちも、家の経済も、私の全ての願いも同じように御手にあります。聖書はこう言っています。『天が地よりも高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。』と書いてある通りです。ですから、私はあなたに信頼します。あなたに百パーセント信頼します。あなたの中に休息を覚えます。私の心をあなたの平安で満たしてください。あなたの重荷を取り去ってください。そして喜びで満たしてください。イエスの名前によって祈ります。アーメン