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託された種をまき続けよう

2015年4月19日(日)
新城教会牧師 岡本信弘
第二コリント人への手紙9章10節〜14節

『蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。』

 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。振り返ってみると昨年の夏以来ですが、久しぶりにこの講壇に立ち、メッセージをさせていただけることを心から感謝します。
 新しい年度になって、就職したり進学したりした方もおられますね。プレイズ出版も新規事業の一つであるレストラン部門と、おもに精神障害のある方々を支援するシャロームという事業所を四月からオープンすることができました。とかく、四月、五月は生活の変化が激しい時だと思いますが、レストランと同時に餃子屋もオープンしたこともあり、私の生活も一変しました。朝早く起きて祈ってから餃子の仕込みをし、昼間は、印刷出版の仕事をして、夕方から餃子を焼きにノブズに行き、終わってから次の日の餃子の準備をする、といった繰り返しで、家で夕食を食べられない状況です。
先日は順先生から「モーセのように、責任分担をしたほうがいい」とアドバイスをいただきましたが、まだ分担するまでの段階になっていないので、もうしばらくこの忙しさは続くと思います。しかし、基礎が固まれば、レストランに顔も出さなくてもよくなる日が来るのではないかと期待しています。そんな忙しい中でも皆さんが心配してくださり、祈ってくださるので、健康で、喜んで働けていることを感謝しています。

 少し、写真をお見せしたいと思います。

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シャローム全景。東新町の駅前にあります。
もともとカフェをやっていた建物で、それに加えて就労支援B型の働きを始めました。

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雲の柱とノブズの玄関。
 右側が餃子ノブズ、左側が雲の柱の入口です。

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 雲の柱の内部。四十席あります。
 奥に段差を設けて、ステージにできる場所があります。

 さて今日は、『託されたを種まき続けよう』という題で、新事業の証しも含めてお話したいと思います。

 先ほど読んでいただきました第二コリント九章の十節の初めに「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方」とあります。神様は、私たちに、蒔く種と食べるパンを備えてくださっている、ということです。

 昨年末のカウントダウンで二〇一五年に対する御言葉として私が語らせていただいたのは、ガラテヤ六章七〜九節でした。

『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。』

私はこの箇所から、お一人お一人が「どんな種を蒔くべきか、神様からどんな種を与えられているかということをよく祈り、あなたに託された種を無駄にしないように、一年の間に蒔ききっていただきたい」、と語らせていただきました。
 皆さんは、神様に「託された種」が何であるかを、見つけることができましたか。蒔くことができていますか?

 私の大好きな御言葉の一つに、
『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。』(ピリピ二章十三〜十四節)があります。

 レストランの建物が三月末に完成しましたが、オープン前に出来上がった店でプレイズ出版スタッフの祈り会がありました。新しくこの働きに加わってくださった方には証しをしていただいたのですが、大変恵まれ感動しました。
 私の娘もこの働きに加えられた一人で、そのとき彼女が「私の小さい頃、父が将来レストラン経営をしたいと夢を語っていたことを思い出した」と話したのです。それを聞いて、娘が何歳の時だったかな? よくそんなことを覚えていたなと思ったのと同時に、ずいぶん前から飲食事業という種が私に委ねられていたんだなぁと思いました。
 単なる金儲けではなく、スタッフ全員がクリスチャンであり、店内に賛美が流れ、時にライブコンサートが開ける、大人から子どもまでが集まる場所があったらいいなぁと漠然と考えていた夢を、この雲の柱で、主が実現してくださいました。
 私のうちに神様が志を与えてくださり、信じ進んできたことにより、神様が道を開いてくださり、このように現実の形にしてくださったということを深く感謝しています。

 私は献身して、すでに三十年以上になりますが、二十五年前に、印刷出版事業の責任を持つことになりました。しかし、二十年を経過した頃から「このままでいいのか、まだ私になすべきことがあるのではないか、このままで終わっていいのか」と思うようになりました。
実はこの新規事業は、レストランをつくろうという話が先ではないのです。あるとき教会のスタッフ会で「お年寄りが増えてきたから、教会に老人ホームがあったらいいね」という話が出たのです。何か新しい事やお金に関係する話になると、なぜか皆、私の顔を見るんですね。私が何かできるわけでも、お金を持っているわけでもないのですが・・・(笑)。
その話を聞きながら、これも私に委ねられた一つの種ではないかと思わされ、受け取りました。
 老人ホームの話が進むなかで、かねてから持っていたもう一つの夢であるレストランもできたら、という思いが与えられ、一つの建物の中に二つ同時に始めようというのが当初の構想でした。しかし、実際いろいろな手続きをしていくと、法律上の理由で、レストランと老人ホームの働きを一つの建物で行うことはできないことがわかり、別の建物にするということなりました。今思えば、よくぞここまで来たなぁと思うほど、飲食事業だけでも大変なのに、老人ホームも同時にオープンすることなど到底できなかったなぁと思い、主がいちばんよきにしてくださったと思っています。

 昨年の十一月には、まだ何もない更地で、業者の方々をはじめ、ちょうど神学校中でしたので、ミッションの先生方、神学生の方々も参加してくださり、起工式を行うことができました。そこに集まった方々と、この土地を、これからのすべてのことを主にお捧げする祈りをして、建築が始まりました。
 いろいろ相談しながら準備をしているなかで、ある日、シェフを務め、レストランの責任を持つことになった朏智之さんが、「十数年前に経営していた雲の柱をやめることになったとき、順先生が最後に店に来て、『ここの店はなくなるけど、いつか信先生が店を再建してくれるよ』と、ぽろっと言ったけど、まさかこんな形で実現することになるとは思わなかった。本当にうれしい」と熱く語ってくれたのです。
私は昨年まで、この話を一度も聞いたことがありませんでしたので、とても驚きました。私はレストラン経営という志を持ち続けてはいましたが、当然、私が料理を作れるわけでもなければ、知識があるわけでもありませんでしたから、主がこの働きのために、大きなご計画をもって協力者を一人一人呼び集め、一つ一つを導いてくださって、実現に向けて準備させてくださっていたのだと知り、主の御名をあがめました。
 次に、十一節にある「あなたがたは、あらゆる点で豊かになって」という箇所に注目したいと思います。
 皆さんは、現在どれだけの預金を持っていますか? 統計によりますと、日本人一世帯当たり平均千六百万円の貯蓄があるというのです。私にはほど遠い金額ですけれど・・・。皆さんはどうですか? そうしてみると、日本人は金持ちだなと思いますし、世界からもそう思われています。
 一方、毎年三万人以上の人が自殺しています(最近少し減ったそうですが)。また、変死者が年間十五万人と言われ、その死因は特定できませんが、その半数を自殺と考えると、なんと毎年十万人以上の人が自らの命を絶っていることになります。これは、世界の他の先進国に比べて十倍以上という異常な数字です。
 このことを併せて考えてみますと、お金があるから豊かであるとは言えないし、お金があるから幸せであるともいえないと思います。

 では、「豊かな人生」とは、どんな人生を言うのでしょう。
「豊かさ」「しあわせ」をインターネットで調べてみまると、それは、人の価値観によって「物質的豊かさ」と「精神的豊かさ」に分けられるようです。
“「豊かさ」とは、これという定義があるわけではなく、一人一人の価値観や心の持ち方にある。言い換えれば自分で満足できる「形」を見つけ、実践できるところに真の「喜び」を感じることができるのです”と書かれていて、なるほどと思いました。
皆さんはどんなときに豊かさを感じますか? 私は、物質的な豊かさや金銭的な豊かさより、精神的な豊かさを持っている人、特にいつも喜んでいる人を見ると豊かさを感じます。
人間は、どのように自分が豊かか豊かじゃないかということを判断するかというと、人と比較するのです。あの人と比べてどうだとか考えるわけですが、ある意味で、これが豊かさを失う要因の一つではないでしょうか。
 次のような御言葉があります。

『私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。』(第二コリント十章十二〜十三節)

ここで、比較するのは知恵のないことだと教えています。人はそれぞれ、できることとできないことがあっていいのです。私たちは誰かと競うことも、誰かと比べることも必要ありません。与えられた働きを、十分に果たすなら、満足することができ、豊かな人生を送ることができるということを、覚えてください。
『一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』(ローマ十二章四〜五節)

 教会の中には、いろいろな人がいます。パスタを作れる人、楽器を演奏できる人(先週はFeel the Flowの兄弟たちが素晴らしい演奏をしてくれました)、運動ができる人、人の話を聞くのが上手な人、その他、様々な性格、特技を持った人がいます。ちなみに今言ったものは、私が全部できないことですけれども・・・(笑)。
 時に、自分は何も捧げるものもない、何にも役に立たない、と感じることがあるかもしれません。しかし、私たちにはそれぞれ担うべき部分があります。私たちはキリストの体の諸部分であり、教会は、それぞれの部分がその役割を果たしたとき、初めて一つの体として機能することができるのですから、自分がどの部分を担っているのかを祈り、それを行ってみてください。そうするとき、教会が成長し、神様に喜ばれるのです。

 そしてさらに、最初にお読みした第二コリント九章十一〜十二節には、

『あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。』

 また、第二コリント十章十五節には、このように語っています。

『私たちは、自分の限度を越えてほかの人の働きを誇ることはしません。ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます。』

自分が豊かになるだけでなく、豊かにされた者が惜しみなく与えるようになり、さらに満ちあふれる者となることができると約束してくださっています。そして、「あなたがたの信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます」と書かれているとおり、私たちは、誰かと自分を比べる必要はありませんが、神様は私たちの信仰が成長し、私たちの働きが広げられることを望んでおられます。
私たちがこの託された領域を守り、そしてこの地域を勝ち取るために祈り、働いていく時に、主がそれに答えてくださるということに期待していきたいと思います。

時々「先生はプレッシャーとかストレスを感じたりしないのですか?」と聞かれます。先々週の礼拝メッセージで、順先生は「ストレスがあるからこそ成長できる」といったことを話しておられました。私は、順先生の意見に賛成で、心からアーメンと言いたいのですが、そんな人ばかりではないと思います。新しい事に挑戦するには勇気が必要です。順調にいくとは限りませんし窮地に立たされることもあります。大きなストレスがかかるでしょう。
 また先週は、フェルナンド先生が、心配事を主にゆだねなさい、重荷を主の足元に置きなさいと語られました。

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』(ペテロ第一の手紙五章七節)

 マタイ六章二十七〜二十八節にも、心配する必要がないと書かれています。

『あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。』

 とはいえ、頭ではわかっていてもなかなか委ねきることができなかったり、ストレスに負けそうになったりすることもあるでしょう。私たちは弱い者ですね。しかし、エレミヤ書三十三章三節の御言葉で、神様は
『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と言ってくださいます。

 私たちは、自分にできないことに心をとめるのではなく、まず、できないならできないように、自分の委ねられない気持ちをそのままを主に打ち明け、主にその悩み事、問題を聞いていただきましょう。そうするなら、神様が私たちの心を支えてくださり、理解を超えた神の助けを与えてくださるのです。

 イエス様がどんなに素晴らしい方かということは、皆さんも毎日聖書から教えられていると思います。イエス様がこの地上に来られたときに数々の奇跡を行われました。死人を生き返らせ、病人を癒されました。また、イエス様の話を聞きに来た群衆に、五つのパンと二匹の魚で五千人以上を食べさせたとあります。イスラエル旅行で私はその場所に行きましたが、ここでどうやってパンを裂いて、どうやって分けたのかなぁと思いました。しかし、これは実際に起こったことであり、神の業です。
 人には、どうすることもできない問題があります。しかし、神様はこの地球を、この宇宙を創造された方であり、私たちの想像をはるかに超えて偉大な方です。そんな力ある方が、私たちを愛し、恵みを与えてくださる神であることを覚えてください。
 そして、さらに神様があなたに願っていることは、先ほどもお話ししたように、自分のためにではなく、自分の利得のためではなく、「あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになる」ようになることです。

 このレストランのオープン前日の四月一日には、竣工式を行いました。今までプレイズ出版に関わってくださった業者の方や、現在建築にかかわってくださっている方、四十名ほどの、ほとんどの方が初めて御言葉を聞く人たちをご招待しました。そこで、この働きがどのように始まったのか、ここまで導かれたのかということを証しさせていただき、開先生ご夫妻の賛美に続き順先生にメッセージをしていただき、ある意味では竣工式というより、神様の業を多くの人に知っていただく機会になったのではないかなぁと思い、心から感謝しました。
 オープンしたレストランに地域の方が来てくださり、昨日の昼間は、大勢の方が待ってくださっていたような状況でした。しかし、まだまだ不備な点がたくさんあります。順先生がご自身をクレーマーと言われていましたが、オープン当初、毎日のようにレストランに通ってきて、モーニング・ランチ・餃子を食べ、テイクアウトまでして、すべて試してさまざまなアドバイスをしてくださいます。本当に心配してくださっているのだなあ、と感謝しています。
 この礼拝に来ている方々の半数以上は新城市以外の方で、遠くから来られている方も大勢いらっしゃいますので、日曜定休の雲の柱・ノブズに、「平日に、なかなか行かれない」と言われます。本当に申し訳ないと思っているのですが、もう少し落ち着いたら、日曜日の午後に店を開けて、教会員の皆さんにもゆっくり楽しんでいただけたらと思っています。まだバタバタしている状況ですが、改善すべきところは改善し、多くの方に喜んでいただける場所となるように、また飲食業界を勝ち取る働きとなるようにと願っていますので、お祈りください。
 そして、シャロームでの就労支援の働きも、利用する方が増え、良き支援ができるように、八月には、老人ホームとデイサービスの働きが始まりますので、それぞれの事業が祝福され、それを人々が見て、主の御名があがめられるようにと願っていますので、そのためにもぜひお祈りください。

 さて、イエス様は私たちを子と呼んでくださり、いつも心配してくださり、皆さんの幸せを願って恵みを与えようとしてくださっていますね。親は子どものことをいつも気にかけているのですが、人間である私たちは、時々「めんどうくさいな」と思うことがあります。しかし神様は、私たちが何度要求したとしても、どんな無理難題を言っても、「面倒くさいから、あとにして」ということはありません。私たちが祈ったときには、それをすべて漏らすことなく聞いていてくださいます。それがすぐに実現しなかったり、解決しなかったりしても、神様は私たちが一言祈ったことでも、思ったことでも、すべて記憶しておられるということを、ぜひ覚えていてください。
第一ヨハネの手紙四章九〜十節には、神様がどんなに私たちを愛してくださっているかが書かれています。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』

あなたを救うために、いのちまで投げ出してくださったイエス様のために、私たち一人一人は何ができるでしょうか。

『「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。』(マタイの福音書二十二章三十六節)

この御言葉を、皆さんもよく知っていると思います。私たちにできること、それはまず、神を愛すること、そして隣人を自分自身のように愛することです。
 私は、神様から愛されているからこそ、私を愛してくださっている神様を何とか喜ばせたい、神様のために力になりたい、そして神の夢を何とか実現したいと切に願っています。そして、一人でも多くの人が喜んで信仰生活を歩み、その周りにいる人たちがそれを見て主の御名をあがめる働きをさせていただくために、種を蒔き続けていきたいと願っているのです。

 最近、タンポポがあちこちに咲いているのを見かけます。タンポポは、花が咲き、種ができて風に乗って舞いあがり、さまざまなところに落ちて花を咲かせます。「こんな所に!?」というような、アスファルトの割れ目でも花を咲かせます。それは、タンポポの根が何メートルにも伸びるからだそうです。それによって水がないように思われる場所でも花を咲かせることができるわけですが、神様はこんな小さなものにも気を配っておられるんだなぁと思わされました。
 しかし、その種も、地に蒔かれなければ成長することができません。私たちに与えられた種も、手に持っているだけでは成長することも、芽を出すこともありません。まず私たちに必要なのは、与えられている種を蒔くことです。蒔かなかったら何も変わりません。時には、「こんな所に種を蒔いても花は咲かないだろう」と思われることもあるでしょう。しかし、そのような所にも神様は「種を蒔きなさい」と言われます。
祈りにおいても、家族・親族のために、病気の癒やしや問題の解決を祈ることや自分のやっていることが、無駄に思えることがあるかもしれません。しかし、成長させてくださるのは神です。
カウントダウンのメッセージで、自分の蒔くべき種に気づかされ、今それを蒔いている最中の方もおられるかと思います。また、「いや〜まだ蒔いてなかった。手の中にたくさんある」という方もおられると思います。しかし、「蒔き続けなさい」と言われる主に信頼し種を蒔くなら、神様の助けによって、その種が芽を出し成長し、そして実をならせることができるのです。それはいつ実を結ぶのかはわかりませんが、成長させてくださる主に期待して、種を蒔き、水や肥料をやり、雑草を取り、手入れをしてまいりましょう。

 皆さんに託された種は何でしょうか。神様が「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ」と言われるように、私たちは選ばれており、それぞれに目的があり、託された種があります。そしてそれを私たちが信仰を持って蒔く時に、大きな収穫を得ることができる、また主の栄光を見ることができるのです。
自分の手の中にどんな種があるか、一度考えてみましょう。そして、その種を喜んで蒔くことができるよう祈りましょう。時に蒔くのに困難な場所があるかもしれません、躊躇することがあるかもしれません。私たちは弱い者です。しかし、主は、私たちにその力を与え、そして私たちが主の助けの中で、神様の御心の中で、蒔くべき時に、蒔くべき場所に蒔く時に、神様は私たちには不可能のように見えても、神にとって不可能なことは一つもありません。神様はそこから芽を出し、そして成長させ、実をならせることができるという信仰を持って、祈っていきたいと思います。
 そして、それぞれに与えられた種をもう一度確認し、自分のためではなく、周りにいる親族や友人や誰かのために、何かのために、主のためになるように蒔き続けるように祈りたいと思います。お一人お一人、主の前に与えられた領域を果たすために、皆さんでご一緒にお祈りしましょう。
私たち一人一人が主の栄光を表すために、つぶやかず、信仰をもって進んでいくなら、満ちあふれる者になることができます。そして、それを見た人が神をあがめ、主の栄光を見ることができるのです。