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沖縄の祝福を祈ろう!パート2

2015年5月3日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
使徒の働き20章34節〜36節

『あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日はゴールデンウィークのただ中ですが、共に、主を礼拝出来ますことを心から感謝します。周りの方々に「あなたを祝福します」と、ご挨拶ください。

 五月にはゴールデンウィークがあるのですが、四月から新しい年度が始まって、すぐに休みがあると、せっかく積み上げたものが崩れてしまう感じがします。孫もこの四月からこども園に行き始めましたが、行き始めたのはいいのですが、なかなか手こずりまして、「ママ僕を置いていかなで!」と、二週間くらいは泣いていたそうです。でも、彼は根が単純ですから、二週間くらい経ったら慣れたみたいで、喜んで行くようになりました。帰って来ると「あぁ楽しかった!」とか言って、二週間前とここまでなんで違うのかと思うのですが、ゴールデンウィークで仕切り直しにならないか心配です。
 でも、お休みの中、リラックスして心から主を誉め称え、礼拝ができますことを本当に感謝します。

 今日も先週に続き、「沖縄の祝福を祈ろう!」という話をさせていただきたいと思います。メッセージにはタイミングがあります。「沖縄のために祈ろう!」というメッセージは、今後私が生きている間は、二度とないかもしれません。このメッセージは、戦後七十年、沖縄リバイバルミッションが開かれているがゆえに、語れるメッセージです。

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 先週は峯田久子姉妹が召天されました。彼女は九十三才でした。三十七年間、この教会で礼拝を守られました。近頃は、腰を悪くし、教会に来られなくなっていたのですが祈りの人でした。

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 この写真、菅谷姉妹を除いて皆、すでに天にお帰りになった方々ばかりです。懐かしいですね。天国もだいぶ賑やかになったと思います。

 新城で信仰を守り通すのは大変です。田舎で仏教も強いですし、地域のしがらみもうるさいですが、三十七年間、信仰を守り通したのはすばらしいと思います。
 召天式で、おばあちゃんからプレゼントをもらいました。

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 何をもらったかというと、たわしです。おばあちゃん、自分の葬式のために、新城教会の方々のために、たわしを手編みしたというのです。まだ残っていますので、お帰りになる際に、ぜひ受け取ってください。祈りのこもった作品だと思います。クリスチャンの一生はいいなぁと思いました。死をも恐れず、永遠の世界に向かっていくのは、すばらしいと思いました。

 また昨日は、春の遠足もありました。

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キウイ食べ放題に行きまして、私は三十個くらい食べました。よく食べたなと思いますが、食べ方があるのです。キウイは周囲を食べると酸っぱいのですが、真ん中だけ食べると甘いのです。贅沢な食べ方です。捨てたキウイは羊が食べると言いましたので、ならば、羊さんにキウイを沢山プレゼントしようと思って、沢山食べました。キウイを食べ過ぎてビタミンC過剰じゃないかと思います。

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 じいちゃん、ばあちゃんも一緒に行きました。

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 みんな楽しそうに遊んでいました。賛美集会を最後にしましたが、不思議な方がご参加されていました。

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 暴れ出すかと思ったら、眠ってしまいました。賛美に恵まれたのだろうと思いました。教会は楽しい所です。


 今日は、「沖縄の祝福を祈ろう!パート2」ですが、引用させていただいた箇所は、使徒の働き二十章です。この箇所は大変重要なことを教えています。キリスト教の歴史の中で、一番重要な人物は、もちろんイエス様ですが、パウロという人物も重要です。彼によって、私たちが信じているキリスト教の基礎が作られたといっても過言ではありません。彼が生涯の中心としていたのが、

『あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」』

 彼は苦労して福音を伝えたのですが、何を伝えたかったかと言えば、なんとか弱い人達を助けたいと考えていたみたいです。自分に余力があれば、その力を弱さを持っている人達に使いたいと願っていたみたいです。
 そして、イエス様の語られた言葉に忠実でありたいと願っていたみたいです。『受けるよりも与えるようが幸いである。』という言葉を、いつも心に刻んでいたというのです。福音書には「受けるよりも与えるほうが幸いである。」と記録されてはいませんが、イエス様は、生涯をとおして『受けるよりも与えるようが幸いである。』を実践されたお方です。パウロはどこかで、イエスさまの語られた言葉を聞いたのでしょう。この言葉に感動して、命をかけたのです。
 今の時代は、与えるよりは、受ける方に関心があります。会社に行って、給料をたくさんもらったほうが幸せです。少なかったら不幸です。しかし聖書は受けるよりも、与えるほうが幸いだというのです。
 この御言葉が中心になったら、人生は大きく変わると思います。

 雪道を二人の男が歩いていたそうです。そうしたら猛吹雪になり、前も見えなくなり、先を急がないと凍え死んでしまいそうな危機に陥ったそうです。そうしたら、道ばたに一人の男が息絶え絶えで、倒れていたそうです。
 二人の男たちは倒れている男を見つけて、一人はこう言ったそうです。「この人を助けてあげよう!」しかしもう一人は、「死にかけた人に関わっていたら、全員が死んでしまう。だからこの人は見捨てて、先を急ごう!」
 二人はもめたそうですが、一人はどうしても倒れた旅人を助けたくて、そこに止まったそうです。しかしもう一人の男は、「勝手にしろ!」と言って、先に行ってしまったのです。
 もう一人は倒れた人を背中にかついで、雪道を進んで行きました。しばらく進んで行くと、一人の男の人が倒れていました。見たら、すでに息がなかったそうです。それが誰であったかといったら、先を急いだ友人だったのです。
 助けるためにがんばった人は、重い荷物を背負ったので、雪道でも体は熱くなり、寒さはふっ飛んでしまったのです。そして、彼の発する熱によって、死にそうな人も息を吹き返し、二人とも助かったと言うのです。

 受ける事が一番価値あるかのように考られている今日、そこにだけ目が止まりやすいですが、与えることを知ったら、人生は変わります。
 今日はギデオン協会のための、年に一度の献金があります。是非とも、たくさん献金してください。聖書をより多くの人達にプレゼントする働きです。今年は昨年より一冊でも多くプレゼントする気持ちで、捧げていただきたいと思います。

 さて、「受けるよりも与えるほうが幸い」という言葉と、今行われている「沖縄リバイバルミッション」を重ねて、今日は考えてみましょう。愛知県から見たら、沖縄は遠く、普段はあまり意識しないのかもしれません。しかしそんな南の島のために、私たちが祈り、宣教協力していく時、気がつくと祝福されるのです。
 こういう話は、セミナーで話したほうがいいかもしれませんが、先ほど言いましたように、タイミングがありますから、がまんして聞いていただきたいと思います。

 今日は沖縄を三つの方面から、考えてみたいと思います。それは、「言語」、「宗教」、そして「将来」の三つです。そして沖縄に関心を持ち、祈ることが、結果的に自分の祝福になることに気づいていただければ嬉しいです。

 沖縄に行きますと、三河地方にも方言があるように、「沖縄方言」があります。ちょっとみなさんに、沖縄方言を聞いていただきたいと思います。どのくらい方言を理解できるかよく聞いてください。一分間くらいです。九十三歳のおばあちゃんが、戦争について沖縄方言で語っています。



 この会衆の中で、すべて分かった方は、どのくらいおられますか?沖縄出身の方、わからないですか?ほとんど外国語の世界じゃないですか。つい最近まで、この言葉が話されていたのです。
 しかし、沖縄語を分析するとこうなります。

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 母音の「あ」は同じですが、「え」が「い」になり、「お」が「う」に変化しています。例えば「かぜ」は「かじ」になります。沖縄方言は日本語から派生した言葉だと言語学者は言います。「この言葉は元々、日本語だった。それが沖縄方言に変化した。沖縄方言は、唯一、日本語から派生した言語である。」と言語学者は主張しています。

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 しかし、人は常に自己中心です。本土で話されている日本語を中心にすれば、「え」が「い」になり、「お」が「う」になったというのですが、実は、沖縄方言は、最近の研究で、日本人が平安時代ごろに話していた言葉に似ていると言うのです。だから逆です。我々のほうの母音が変化したことになります。

 以前にもお話ししましたが、日本は、昔は縄文人たちが住んでいた島でした。そこに中国や韓国のほうから、弥生人と呼ばれる人たちが入って来て、大きく見れば、二つの人種がミックスしたのが日本人です。この場所でもどうでしょうか。お隣の人を見てください。「この人は縄文系だな」という人と、「この人は弥生系だな」という人がいると思います。

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 縄文人は縄文語を話していたのです。そこに中国や韓国のほうから、他言語を持った人たちが入って来て、平安時代の頃は、混じった言語が使われていました。
 その言語の影響が日本語として全国に広がったのですが、北と南の方には古い言語が今でも残っているというのです。ということは、日本語という言語の中で、最も古いものが残っている場所がどこかと言えば、沖縄なのです。ということは、私たちのルーツが残っている大切な場所、それが沖縄だということです。私たちが沖縄のために祝福を祈るのは、日本の原点をとりなし祈ることに他ならないのです。

 現在、私たちが使っている言葉は、昔から使われている言葉ではないのです。言葉はどんどん変化するものです。この頃の若者言葉なんて、私は分からないです。今後、日本語はどこまで荒れていくんだという感じです。日本の古い言語が残っているのが沖縄です。
 ですから、日本の土台を勝ち取るためにも、沖縄のために心を尽くして祈ることは、大変重要なのです。

 続いて、「沖縄の宗教」を見ていきたいです。沖縄で一番熱心にされている事柄は、やはり「祖先崇拝」です。この辺も同じですが、沖縄は本土以上に祖先崇拝に熱心です。祖先崇拝とは何かというと、死人を神として祀ることです。
 聖書は、絶対に、祖先崇拝を認めていません。人は死んでも人です。神にはなれません。人間を造った創造主を、神として礼拝しなければならないのです。
 聖書は、死後どうなるかについて語っています。ラザロと金持ちの話を見たら、死後の世界がよく分かります。死後地獄に行った金持ちは、なんとかこんな苦しい場所に来ないように、生きている人たちに伝えたいと願ったけれど、伝えることはできませんでした。死後の世界からの願いはすべて却下されたわけです。
 これは、死後の世界と、生きている者たちは、互いにコミュニケーションはできないということです。
 しかしどうでしょうか。日本人、沖縄の方々を含め、「いやいや、そんなことない。死後の世界の人たちとも会話できるよ。」というわけです。霊能者が関わると、死者の霊が出て来たように思いますが、それは死者の霊ではないのです。その人の死に関わった悪霊が出て来ますから、祖先崇拝は、死の霊との関わりです。

 祖先崇拝は、悪霊礼拝ですが、それを支える考え方が根底にあります。小泉八雲という作家がいますが、彼がこんな事を著作の中で主張しています。
 「古代ギリシャ人と日本人はよく似ている」
 実は、古代ギリシャ人の考え方は、現代の日本人、いや、世界中の人たちに強い影響を与えています。それが、祖先崇拝の考えの根底にあります。
 古代ギリシャ人と日本人がなぜ似ているのか。それは祖先崇拝においてよく似ていると、彼は語っています。
 キリスト教、クリスチャンとは言いますが、古代ギリシャの考えの影響を受けている面が多々あります。そういう考え方を持って聖書を読んでも、正しい聖書理解には到達できないと思われます。
 実は古代ギリシャ人は、善悪の二元論という考えの中で生きていました。特に、「肉体は悪で、魂は善。人が体から抜け出したら、善になる。神になる。」という考え方でした。体とは、「魂の墓場」だと考えていたみたいです。「そんな昔の人の考え方は、俺たちには関係ない」と言うかもしれないですが、日本人はこの考え方を受け入れています。

 日本には自殺が多いと言われます。年間に三万人以上いると言われます。しかし実際は十一万人くらいの自殺者がいるというのです。なぜなら一年間に変死する人が日本には十五万人程いるそうですが、WHOでは、その半数を自殺としてカウントするそうです。そうすると、日本には十一万人程自殺者がいる事になります。
 なぜそんなにも多く自殺するのかというと、善悪の二元論が関係していると思うのです。体は悪いものだ。しかし抜け出したら、良い世界があると考えるわけです。
 生きている間に「俺を拝め!」なんて言っても、「おまえなんか拝めるわけがないじゃないか!」と言われるのに、死んだらどうでしょうか。誰でも神になって拝まれます。殺人事件を犯した凶悪犯人でも、死んだら拝まれるようになります。死んだら神になるということは、体に留まっているのは悪、抜け出たら善になるという、善悪の二元論です。
 そのように知らないうちに、私たちは古代ギリシャの考え方の影響を受けているのです。「体から出たら、何かいいことがあるのでは…。」と考えるわけです。

 クリスチャンには、「やがて天国に行ったらすばらしい!」という考え方が強くあります。しかし聖書は、ギリシャ的な考え方で書かれている本ではないのです。ヘブル的世界観で書かれているのです。
 イスラエル人、ヘブル人は、善悪の二元論で物事を捉えてはいなかったというのです。それは、「体も、神様が造られた良いものだ。そして魂も良いものだ。」という考え方です。聖書も、そのような世界観で記されいるというのです。
 「この地上から去ったら良い世界がありますよ!」と、案外私たちは、死後の世界を優先して捉えるのですが、ギリシャ的な考え方を取っ払って、ヘブル的な考え方で聖書を読み直すと、神様は、私たちの生活のただ中に、ご自分を現してくださるという、逆のベクトルになります。
 例え死後の世界に行ったとしても、やがて「よみがえる」というところに結論があるのです。イエス様は地上に帰って来られ、この地を新しく創造して下さるのです。私たちは、外に向けてのベクトルを持っていますが、聖書は逆ベクトルなのです。神様は地上に住む、私たちのただ中にご自分を現してくださる方であり、この地に帰って来られ、私たちを支配してくださるのです。私たちの体は悪いものではなく、この体さえも、栄光の体に復活させてくださるのです。

 体は魂の墓場だ、出なければ良いものはないという、古代ギリシャ人の考えに、まんまと支配されているわけです。
 体は神が造ってくださったものであり、朽ちるもので蒔かれても、朽ちないものによみがえり、この体は栄光の体となるという、真理に心に留めることは重要です。復活の時には、永遠に地上で生きる体を造ってくださるのです。
 祖先崇拝は、魂は抜け出した後に神となり、拝まれるという考え方です。それが最も強いのが沖縄です。

 沖縄に行きますと、こちらにはないように見える信仰形態があります。沖縄の家に絶対にあるのが、火の神(ヒヌカン)です。どこの家も火の神の祭壇があります。本物の写真を見せたくないので、イラストにしました。

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 ヒヌカンを知らない人は、沖縄人ではありません。沖縄の人に出会ったら、「ヒヌカンって知ってる?」と聞いて下さい。「知らん。」と言ったら偽物です。絶対に知っているはずです。小さいですが、どこにでも拝まれているのです。
 案外、私たちは、でかい偶像に君臨している悪霊は強く、小さいのは大した悪霊ではないと考えます。しかし、何気なく祀られている偶像が、実際は国全体を掴まえている、巨大な力かもしれないのです。

 人間は、他の動物と比べて特徴があります。人間と他の動物と比べて、どこが違うのか、考えたことありますか。そんなの全て違うわ!と思っているかもしれませんが、「人間だけが、火を使う動物」なのです。火を使えることを、どのくらい感謝しているでしょうか。「火を使うことなんて当然。」私も、感謝だと考えたことはりませんでした。
 猿が火をおこして、うどんを茹でていたとか見たことはないです。いくらチンパンジーが頭が良くても、自分で火をおこして、たき火をしていたのは見た事がありません。火をコントロールできるのは、人間だけです。
 
 考古学者たちは、人類がいつから火を使い出したのかに関して、いろいろと調べていますが、いつから使い出したのか分からないというのです。考古学者が言うのには、人間は初めは火を使っていなかった。しかし地球には火山があり、そこから流れ出た溶岩が森を燃やし、その火を掴まえ、使うようになったのではないかと考えているようです。

「人類は初め火を使わなかった。しかし途中から、火を使う事を覚えた。」と学校では習います。でも、こういうのも聖書の情報と照らし合わせて、本当にそれが正しいかどうか、確かめなければなりません。
 聖書の中で、火とか炎が、いつから出現しているかを考えると、最初から出ているのです。創世記三章二十四節、

『こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。』

 人間が追放された時、すでに、いのちの木への道に入れないように、神が炎の剣を置いたというのです。
 エデンの園では、アダムもエバも神様と顔と顔とを合わせて、コミュニケーションしていたのです。しかし、楽園を追い出されてから、神様の姿を見ることが出来なくなりました。しかしその後、神がご自分をどのように現わされたかというと、「炎とか火」というテーマで、ご自分を現されたのを見ることができます。
 モーセという人物は、神から召し出されて、エジプトからヘブル人たちを解放するために用いられました。神が彼を召し出した時に、どのような姿で神がご自分を現わされたのかが、出エジプト記三章一節〜四節に記されています。

『モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。』

 神がご自分を柴の中に、「燃える火」として現されたのです。火とか炎というテーマで神はご自身を現されています。
 出エジプトした時、神がご自分が生きておられることを、出エジプト記十三章二十一節〜二十二節、

『主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。』

 昼間は雲の柱のスパゲッティー、夜は火の柱でノブ餃子という名前は、なかなか神学的に深いなと思います。それはさておき、神は火の柱で、ご自分の存在を明らかにされたのです。失楽園以後火とは、神がご自分の存在を象徴的に現すものだったのです。

 しかし、沖縄の人も、この近所の人も、火を神として拝んでいるとは、どういうことでしょう。神が『いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。』とありますが、真の神を象徴する炎自体を神として拝んだらどうでしょうか。まさに、いのちの木への道がふさがれるのではないでしょうか。

 先週、私は一冊の本を読みました。それは「火の起源」という本だったのですが、世界の神話の中に、火がどのように扱われているのかを研究した本です。世界中の神話の中に、人類が火を使うようになった話があるというのです。その神話を調べてみると、その多くに特徴があって、「動物が火をくれた」という神話だというのです。動物が人間に火をくれて、人は火を使うようになったという話が、やけに多いというのです。これもおかしなことではないでしょうか。
 アダムとエバの時から、炎が出て来ますから、神が火を人類に与えたはずです。なぜなら、アダムの子孫がすぐに火を使っていた様子が、創世記四章二十二節に出てくるからです。トバル・カインという人が、『彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。』とあります。鍛冶屋は火を使わなかったら仕事になりません。人類は、アダムとエバの時代からすでに火を使っていたはずです。
 火は誰がくれたのですか?動物ではありません。神が、人類だけが使うように、特権として火を与えてくれたわけです。
 しかしどうでしょうか。これが今、悪魔に奪われ、火が礼拝されています。それは小さい事のように見えますが、実は、神への道を塞ぐ大きな罪なのです。

 「ヒヌカン」が、どういう性格の神かというと、「お通しの神」と呼ばれ、沖縄にはいろんな神々や霊能者がいますが、ヒヌカンの名前を通して他の神々を拝まないと、祈りが通じないというのです。だから沖縄の祈りは、すべて「ヒヌカンの名前を通してお願いします」という祈りなのです。
 
 私たちは「父なる神様。」と呼びかけても、最後に「イエス様の御名を通してお祈りします。」と祈りを結びます。イエス・キリストの名前を使ったら、父なる神様の元に祈りは届くという法則です。
 しかし悪魔はちゃんとその法則を知っています。火の神の名前によって祈るように沖縄の人たちに吹き込んでいます。それをしないと駄目だと、それが文化のようになっているのです。これは、イエス様の名前を覆い隠す力となっていると思います。

 私たちにとって炎とは、「聖霊の炎」を意味します。火を拝む行為は、聖霊の火を止める力につながっているのではないかと思います。
 沖縄が火の神を拝んでいることは、父なる神、子なるイエスさま、聖霊なる神、三位一体の神に対抗する悪しき力なのです。そのことを知り、沖縄が勝ち取られる時、父なる神様への道もオープンし、子なるイエス様への道もオープンし、そして聖霊様への道もオープンする、すなわち、三位一体なる神への道が開かれることに他ならないのです。

 でも、そんなのは沖縄のことだから、こっちには関係ないよと思うかもしれません。しかし、これを知っていますか?

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 この地域に、どこにでもあるものです。それは秋葉信仰です。秋葉信仰とは、アキーバという炎の神です。浜松が総本山です。新城には秋葉の灯籠が、どこにでもあります。この近所でも、沖縄と同じように、火を神として拝んでいるのです。この近所の人たちは灯明番と言って、秋葉の灯籠に火を点けるのを行っています。この頃は火を点けないで、自動的に暗くなると電気がつくようになっていますが。この近所も沖縄と同じです。
 私たちは風景の中に、「こんなのはどこにでもある。別にどうってことない。」と思いますが、地域のリバイバルを止める力かもしれません。
 今回、沖縄を見て、私は気づかされました。沖縄ミッションで沖縄を回らせていただき、火を拝むのを見て、悪魔は巧みに聖書の真理を隠している事に気づかされました。

 沖縄宗教で、もう一つの特徴は、「ニライカナイ思想」です。これは、「東方理想郷」を意味し、東の方にすばらしい世界があるという考えです。沖縄の人達は東の方角を一生懸命拝むのです。太陽は東から出て来ますから、太陽を拝むことにもつながるみたいですが、沖縄の人たちは東に理想郷があると考えているようです。
 聖書を見ますと、方角も何らかの意味を持っていることが分かります。
 先ほどの創世記二章八節の所を見ると、こうなっています。

『神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。』

「東の方に園を造った」と書かれています。そして、この創世記三章二十四節には、

『こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。』

と書かれています。
 アダムとエバは、エデンの園から追放されたのですが、どちらの方向に追放されたのかと言うと、東の方向です。東に人は追放されたわけです。
 東西の軸がありますが、それは太陽の道です。「東に向かう」とは、「神から離れる」という意味があるのです。西に向かうのは、神との出会いというテーマがあることにも気づかされます。
 イスラエルは、荒野で神の幕屋を作って礼拝しました。そこに火の柱、雲の柱があったわけです。神の幕屋への門が、どの方角についていたかというと、東に門がついていたのです。エデンの東側から人々は追放されましたが、東に門がついているのは、人が西に向かって帰れば、東の門で神様が出迎えて下さるのです。

 十二部族は東に宿営するユダ族を先頭に、東向きに移動したのです。鎌倉仏教に「西方浄土」という考え方がありますが、それはキリスト教のパクリです。西に向かう道は、神との出会いにつながる道なのです。
 実は今、リバイバルミッションの働きは、西へ、西へと進んでいます。日本はある意味で、イスラエルから見たら東の果てかもしれません。バベルの塔から散らされた最も大きな集団が、モンゴロイドと呼ばれる東向きの人たちでした。その最東端が日本かもしれません。
 しかし、最東に散らされた者たちが、西に向かって進んで行き、やがてイスラエルにまで到達し、東の門でイエス様と出会うのです。イエス様が再臨された時、エルサレムは首都となり、全世界を治める都になるのです。

 私は今週、沖縄で奉仕させていただくのですが、来週は帰ってすぐに、ナガランドに行かなければいけません。ちょっと気が重いです。しかし西の方に行くのです。ナガランドはネパールにも近いです。地震で被害を受けていないか、ちょっと心配です。ネパールは大変なことになっています。七月の宣教旅行はどうなるのか、祈っていただきたいです。
 この頃リバイバルミッションは、韓国、ナガランドと、西へ西へと向かっています。これは回復の道です。また、愛知県からみたら、沖縄は南、西にも当たります。東に散らされた者たちが、西に向かって進んでいく、その働きを熱心に継続しなければなりません。悪魔は、「いやいや、東にいいものがあるよ。東に向かいなさい、東を拝みなさい。」と言います。しかしそれは、神から遠ざかる道なのです。その道に悪魔は人々を導こうとしているのです。

 沖縄にある宗教を見るだけで、結構重要なテーマが含まれている事に気づかされます。祖先崇拝、拝火信仰、ニライカナイ信仰です。沖縄は、やはり日本の根源を保っている場所です。沖縄の祝福を祈ることは、実は、私たち自身の解放にもつながるのです。

 最後に沖縄の「将来」について、お話をさせていただきたいのですが、沖縄に行きますと、在日アメリカ軍の基地が多くあります。最新鋭の戦闘機が五分に一回くらいの割合で離着陸しています。だいたい島の二十パーセント以上はアメリカ軍の基地です。だから本当に大変だと思います。

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 しかし、日本に現在、アメリカ軍の基地がどのくらいあるか、考えたことありますか。沖縄にあって、他にはあまりないだろうと思うでしょう。
 しかし、なんと全国に「百三十二箇所」もあるのです。こんなにもたくさん、日本にはアメリカ軍の基地があるのです。九十近くがアメリカ軍専用の基地です。あとは自衛隊と一緒に使っているのですが、航空自衛隊の基地だけでも、これだけ多くあります。

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 日本は、陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊、そして、アメリカ軍の基地が加わりますから、日本は、世界に稀に見る軍事基地の島なのです。これから私たちが向かって行く方向を、真剣に祈らなければいけない時が来ています。

 実は、今日はどういう日か。五月三日。旗日!と呼んでいるかもしれませんが、「憲法記念日」です。今の日本国憲法は、一九四七年五月三日に施行されました。その記念の日ですが、先週は、戦後の政治の中で、日本が大きく舵を切った歴史的な週でした。
 先週は、本当に大きなニュースがありました。安倍首相がアメリカに行き、アメリカの上下院議員がすべて集まった議会で演説しました。それも英語でやりました。しかし、議員さんの八割は、安倍さんの英語が分からなかったとニュースに出ていました。私も英文を読んで見たら、結構難しい表現だらけでした。こんな事ならば日本語でやれば良かったと思うのですが、しかし、大喝采!でした。アメリカが日本の首相の演説を喜び、大歓迎したのです。なぜか知っていますか?

 それは日本の自衛隊が、アメリカの配下に入り、これからは世界中どこでも一緒に戦うことを、はっきりと宣言したからです。日本国憲法で止められているのにもかかわらず、その箍が外され、自衛隊は、アメリカ軍と同じポジションで「世界中で一緒に戦います!」と宣言した為に、大喝采だったのです。

 これから日本も戦争に巻き込まれることは間違いありません。後ろに、軍事産業が関わっており、戦争は必ず起きるのです。地震と同じです。周期的に、必ず地震が起こるのと同じで、周期的に必ず、戦争は起こるのです。
 こういう時代に住んでいて、一番大きなテーマとなっている基地問題を抱えているのが沖縄です。沖縄には、日本の将来がかかっているのです。それどころか、主が帰られる道というテーマも大きく関わっているのです。

 最後にこの御言葉を読みたいと思います。ミカ書四章一節〜三節に、こんな言葉があります。この御言葉は、すばらしいですよ。

『終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。』

 こんな日が来たら、どんなにすばらしいでしょうか。いつそれが起こるかと言ったら、イエス様が帰って来たその日に起こるのです。イエス様が帰って来られたら、『剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。』と言うのです。イエス様が帰って来られる日に起こるのです。私たちクリスチャンは、主の夢をかなえるために存在しているのです。この御言葉を実現するために、私たちは存在しているのです。
 しかし日本はどうですか。逆の道を選択しました。まさに東向きの選択です。「戦争やりますよ!」と宣言しました。先週は、悪しき火ぶたが切られた、歴史的な週でもありました。

 沖縄という小さな島を見る時、実に、私たちの将来にも大きな影響を与えるテーマがある事に気づかされます。
 今日最初に読ませていただきました、使徒の働き二十章三十四節〜三十六節、

『あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った。』

 弱い者を助け、受けるよりも与えるほうが幸いだという、この御言葉の実践は重要です。今、「沖縄リバイバルミッション」と共に、沖縄のために働くように語ってくださっています。
 またナガランドのためにも働きなさいと、主が語ってくださっています。ネパールのために働きなさいと。これらはみな、「受けるよりも与えるほうが幸い」という御言葉の実践です。
 また今日は、ギデオン協会の献金もありますが、これも受けるよりも与えるほうが幸いです。「今日はどこかでステーキでも食べようかな。しかし、ちょっと我慢して、聖書贈呈の為に献金しよう!」と言ったら、あなたは幸せです。
 パウロと同じように、人生の中心にこの御言葉を据えたら、あなたは幸せになります。また国にも未来があります。

 今日語らせていただきました事柄を心にとめて、沖縄のためにも祈っていただきたいと思います。
 最後に一言、お祈りさせていただき、聖餐式を行いたいと思います。みなさんでしばらく祈りの時を持ちたいと思います。今、メッセージを聞いて、祈りなさい!と語られている事柄に関して祈っていただきたいと思います。

 ハレルヤ。父なる神様、感謝します。今日は受けるよりも与えるほうが幸いだという御言葉を学びました。今日、私たちは沖縄のために、祝福を祈っています。沖縄に、祝福を与えてください。
 私たちが終わりの日、あなたが帰られる道を準備する者として、働くことができるように。その道を止めるすべての暗闇が打ち砕かれますように。
 今日は、イエス様が流してくださった十字架の血潮とよみがえりを深く信じ、やがてこの肉体が栄光のからだによみがえるその日まで、あなたの夢をかなえるために働かせて下さい。
 私たちのただ中に現れ、私たちを治めてください。今からのこの聖餐式を祝福してください。イエス様の御名を通して祈ります。アーメン。