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子としてくださる御霊

2015年5月10日(日)
リバイバル聖書神学校長 山崎ランサム和彦師
ローマ書8章14節〜17節

『神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。だいぶ暖かくなり、今日もすばらしい天候が与えられていますが、この主が造られた聖日に、みなさんと共に神様を礼拝することができる特権を心から感謝いたします。

 どんな分野にでも、業界用語のような、特定の言葉とか、用語とか、言葉遣いがあります。キリスト教会を初めて訪れた人々は、教会に来てみると、クリスチャンの人たちが、自分があまり耳慣れないような言葉に気づくことがあると思います。初めて教会に来られた方々は、いわゆるそのようなキリスト教用語に戸惑うことがあるかもしれません。
 けれども、その使われている言葉の意味を知っていく時に、初めは耳慣れない表現も、実は深い意味があるという事が分かってくるのではないかと思います。
 そのようなクリスチャン独特な表現の一つに「兄弟姉妹」という表現があると思います。これは文字通り、血のつながった兄弟ということではなくて、クリスチャンがお互いを呼び合う一つの表現であるわけです。
 また、クリスチャンは、神様のことを「天のお父様」というふうに呼びます。こういう表現の背後には、クリスチャンは皆、ひとりの神様の子どもであり、従って、皆、お互いに兄弟姉妹であるという理解があるわけです。教会というのは、神様の家族と言ってもいいと思います。
 聖書は、すべての人間は神様によって造られたと教えていますので、ある意味では、全人類はクリスチャンであってもなくても、神様の子どもというふうに言うことができるかもしれません。けれども、イエス・キリストを信じて、クリスチャンになるということは、特別な意味で、神様の子どもになるということなのです。

 私たち家族がアメリカに住んでいた時に、近くのアメリカ人教会に通っていたのですが、ある時、その教会の牧師先生の息子さんがバプテスマを受けるということがありました。先生自ら洗礼槽にご自分の息子さんを沈めて、洗礼を授けたわけです。その息子さんが水から上がって来た時に、先生が言われたことが非常に印象的で、今でも覚えています。「彼は、私の息子です。でも今日から彼は私の兄弟になりました。」たとえ人間的な関係では親子であったとしても、キリストにあっては、兄と弟という、そういう関係になったということなのです。

 では、私たちが、私たちクリスチャンが神の子どもであるというのは、本当はどういう意味なのでしょうか。今日は、使徒パウロが書いたローマ人への手紙から、ご一緒に学んでいきたいと思います。
 今日お読みしたローマ人への手紙の八章で、パウロはクリスチャンとして生きる人生と、ノンクリスチャンとして生きる人生を対比しています。今日お読みしたのは、十四節からですけれども、その一つ前の十三節では、彼は、キリストを信じないで生きる人生を「肉に従って生きる人生」というふうに呼んでいます。
 ここに出て来る「肉」というのも、キリスト教の業界用語で、肉体とか肉欲とかいうことを意味しているのではなく、神様から離れた人間の自己中心的な性質、つまり罪深い性質のことを指しているわけです。私たちが肉に従って生きるならば、その行き着く先は罪と死であるということをパウロは言います。
 これに対して彼は、十四節で神の御霊にみちびかれる生き方について語っているわけです。それは、キリストとの深い結びつきを通して注がれる神の霊、すなわち聖霊によってみちびかれる生き方であり、そのような人生はいのちにみちびかれるというのです。十三節の所で、パウロは、『あなたがたは生きる』というふうに、簡潔に表現しています。
 この事は、ただ単に、私たちが死んだ後、永遠のいのちをいただくという、そういうことを意味しているのではなくて、今この地上での毎日の人生において、神様から与えられた人生を最高に充実した形で生きることができる。そういうことを意味しているわけです。それは別の言い方で表現すれば神の子どもとして生きるということなのです。

 私たちが神様の子どもであるということは、何を意味しているのでしょうか。まずは、もちろん神様と親しい愛の関係を持つことを許されているということを意味しています。パウロは十五節で、『私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。』と書いてあります。
 この「アバ」という言葉は、新約聖書の時代にユダヤ人たちが話していたアラム語で「父」を表す言葉です。この「アバ」という言葉は、家庭で小さい子どもが父親に呼びかける時にも使われた言葉で、日本語で言うならば、「お父さん」とか、「パパ」とか、そういう親しみを込めた言い方であるわけです。福音書を見ますと、イエス様が天の神様に対して「アバ」というふうに呼びかけていたことが書かれています。
 そして、イエス様はご自分で神様を親しく父と呼ばれただけではなくて、弟子たちにも、そのように神様を「父」と呼びかけるように教えられたわけです。みなさんもよくご存じの「主の祈り」があります。イエス様が弟子たちに教えられた祈りですが、その主の祈りが「天にまします我らの父よ」という呼びかけで始まるというのは、非常に重要なことであると思います。
 私たちはかつては罪によって神様から離れ、神様に敵対している存在でした。けれども、神様は愛によって、私たちをご自分の元に招き入れてくださり、愛する息子、娘として、受け入れてくださったのです。この事が最もドラマチックに書かれているのは、おそらくルカの福音書十五章にある放蕩息子のたとえではないかと思います。父親の財産を持ち出して、放蕩に身を持ちくずした息子が、とうとう父親の元に帰ってくるのですが、彼はあまりの恥ずかしさに、「もう自分はお父さんの子どもと呼ばれる資格はない」と思っているわけです。そして彼は、父に対して、「もう私はあなたの子として呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言おうとしたのです。でも、その息子を迎えた父親は、最後まで言わせずに、彼を子どもとして受け入れ、この息子の帰還を盛大に祝ったということが記されています。
 私たちもイエス・キリストを信じて従う時に、神様との間の、そういう親しい親子関係に入れられるということなのです。ですから、私たちが祈りの時などに「愛する天のお父様」と、何気なく言っているわけですが、実はそれは当たり前のことではなくて、深い神様の恵みを表しているということです。

 けれども、クリスチャンが神の子どもであるというのは、それだけを意味するのではありません。実はこのローマ書八章におけるパウロの議論は、旧約聖書から続いている、神様のご計画と深いつながりがあるのです。八章十五節では、

『あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。』

と書かれています。
 パウロはここで、私たちがクリスチャンになるプロセスを、奴隷の身分であったものが自由にされて、子どもとしての身分が与えられるということにたとえています。
 ここでパウロが念頭に置いているのは、かつてイスラエルの民族が経験した出エジプトの出来事であると思われます。神様の祝福を全世界に取り次ぐ器として選ばれたイスラエルの民は、エジプトで奴隷の生活を強いられていました。そして彼らを解放するために、主はモーセを遣わされるわけですよね。そしてこのモーセが、エジプトの王であるパロに伝えるように神様から命じられたメッセージ、それが出エジプト記四章二十二節〜二十三節に書かれています。四章二十二節後半からお読みします。

『そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。』

 つまり、神様がイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放された目的は何かというと、このイスラエルをご自分の子どもとして、愛の関係を築き上げるためでありました。ホセア書十一章一節、

『イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。』

というふうに書かれています。けれども、その後を読んでいくと、イスラエルは神様の子どもとして、父なる神様に忠実に歩むことが実はできなかったということが書かれています。彼らはくり返し主に逆らい続けることになってしまうのです。
 神様と人間との関係を親子にたとえるのは、主がダビデに与えられた約束においても見ることができます。第二サムエル記七章十二節〜十四節、

『あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。』

 ここで、ダビデの子孫から起こされる一人の王、つまりメシアが永遠の王国を確立するということが、神様によってダビデに約束されているわけですけれども、ここでも『わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。』という表現で、いわば神様がやがて来るメシアをご自分の子どもとされる、養子にされるという事が書かれています。
 後のユダヤ教では、「神様の子どもとなる」というアイディアが、個人としてのメシアだけではなくて、民族としてのイスラエル全体に当てはめて考えられるようになっていきました。つまり、ダビデの子孫であるメシアがイスラエルを導いて、そもそもの出エジプトの目的であったイスラエルを神の子どもとするという神様のご計画を成就してくださる。これがイエス様の時代、またパウロの時代にユダヤ人たちが抱いていた希望であったわけなのです。

 では、今日の私たちクリスチャンが神の子としていただくというのは、今お話ししたような聖書のイスラエルと、どういう関係があるのでしょうか。それは、旧約聖書の昔から一貫して続いている神様の救いのご計画に私たちも、この二十一世紀の日本に生きている私たちクリスチャンも参加させていただくということなのです。
 先ほど出エジプト記で見たように、神様がご自分の子どもとして召されたのは、あくまでも、ご自分の選びの民であるイスラエルであったわけです。イスラエル以外の異邦人は、その神様の子どもとなるご計画、また祝福から除外されているかのように見えました。ローマ人への手紙九章四節でも、

『彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。』

 と書かれています。神の子と呼ばれるのは、イスラエルの特権であったわけなのです。

 けれども、今日お読みしたローマ人への八章で、パウロは驚くべきことを言います。この手紙の読者の大部分は、異邦人からクリスチャンになった人々であるわけですが、彼らに対してパウロは、八章十五節、

『あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。』

と語っています。ここで「子としてくださる御霊」と訳されているギリシャ語は、口語訳聖書では、「子たる身分を授ける霊」とされていますが、この元のギリシャ語を直訳すると、「養子の霊」ということなのです。パウロがここで使っている「養子」、ヒュイオセシアというギリシャ語ですけれども、この言葉は、新約聖書の中ではパウロの手紙にしか出て来ない言葉です。
 この節で、パウロが言おうとしているのは、「あなたがた異邦人は、かつては神の子であるイスラエルから除外されていた人々であったけれども、今は神様の養子とされて、イスラエルと、つまりユダヤ人と同じように、神の子どもとなることができたのです。」こういうことをパウロは言っているわけなのです。
 パウロは、ローマ人への手紙九章二十四節〜二十六節でも、次のように言っています。

『神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」』

 さて、今日のこの礼拝に出席しておられるみなさん、おそらく全員はユダヤ人ではなく、異邦人のクリスチャンだと思います。私たちが神の子どもと呼ばれるということ、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である、この神様に対して、「アバ父よ」と呼びかけることができるということ、それは実は決して当たり前のことではないのです。
 私たちはいわば神様の養子にしていただいて、神の民である、神の子どもであるイスラエルに加わることが許されたそういう存在であるということなのです。

 では、どのようにして、この異邦人であった私たちが神様の養子となることができたのでしょうか。八章十五節でパウロは、『子としてくださる御霊』というふうに言っています。私たちが神様の子どもとされるのは、聖霊の働きによるのです。
 私たちがイエス・キリストを主と信じてバプテスマを受け、教会に加えられる時に、賜物として聖霊が与えられる。これは使徒の働きの二章三十八節に書かれています。そしてこの聖霊は、ユダヤ人だけでなくて、あらゆる種類の人々を神様の子どもとして、この神の家族に加えてくださるのです。ローマ人への手紙八章十六節でパウロは、

『私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。』

と言っています。
 私たちが神の子であるということは、私たちがただ勝手に思い込みで信じているとか、主張しているということではなくて、私たちの内に住んでくださっている聖霊ご自身が、「この人はあなたの子どもですよ」と証言してくださっているということなのです。
 しかも、ユダヤ人も、異邦人も、同じ御霊によって、神の子であると証言していただくことができるということなのです。この聖霊はまず、イエス様が地上で宣教された時に主の上に注がれたということが福音書の中に書かれています。そして、イエス様が復活して召天された後に、使徒たちをはじめ、信じるユダヤ人たちに注がれました。さらにそれだけでなくて、この同じ聖霊が、主を信じる異邦人にも注がれました。そういった一連の出来事は、使徒の働きの中に書かれています。
 つまり、この多種多様な人々が、皆等しく、神の子どもと呼ばれるのは、同じ御霊が働いておられるからなのです。実に聖霊は、神の子どもたちに、共通して流れている、いわば血のようなものであり、また私たちの細胞の一つ一つの中に含まれている霊的なDNAというふうに言ってもいいかもしれません。だからパウロは、「神の子であるということは、御霊によって生きることだ」というふうに語っているわけです。

 さて、私たち異邦人が、ユダヤ人と共に一つの神の民、イスラエルとなり、神様の子どもとされたということは、どういう意味があるのでしょうか。もちろん私たちは、神様を父親として、日々、親しい交わりを持つことができます。それは確かにすばらしい祝福ですけれども、それだけではありません。多くのクリスチャンはそこで止まってしまっていて、神様の子どもであるということに、どのように大きな祝福と使命が伴っているかということを知らずに生きているという現実があるように思います。
 ローマ人への手紙八章十七節には、

『もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。』

と書かれています。私たちが神様の子どもであるということは、神様からいただける素晴らしい相続財産が約束されているということなのです。

 では、その相続財産とは、一体何なのでしょうか。その答えは、さらに先を読んでいくと分かります。ローマ人への手紙八章十八節〜二十二節、

『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。』

 この十八節〜二十二節の所で、パウロは突然、「被造物」という事について語りはじめます。被造物、つまり、神様が造られたこの宇宙の全体が、今は虚無に服してうめいているけれども、世の終わりに滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられると、パウロは言うわけです。
 ローマ人への八章のこの部分というのは、一見するとあまり意味のない余談のように思えるかもしれません。私たち人間が、イエス・キリストを信じることにより、神様の前に義と認められ、罪が赦され、天国に行くことができる。そのような救いの理解を持って、ローマ書を読んでいくと、確かにこの部分はパウロの議論の本筋とは関係ない、ただの補足のように思えるかもしれません。
 けれども実はこの部分は、ローマ書におけるパウロの議論の中で大変重要な意味を持っている所です。私たちの罪が赦されて魂が救われること、確かにそれは聖書が教える大切な救いですけれども、パウロが救いということで考えていたのは、人間の魂の救いだけに止まらないのです。
 創世記によると、神様は、この宇宙をすばらしく良いものとして創造されました。そしてこのすばらしい被造物世界を管理し、支配する存在として、人間をお造りになったわけです。創世記一章二十七節〜二十八節、

『神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

 神様はこのように人間を被造物世界の管理者として造り、任命されました。そしてその後で、三十一節でこのように書かれています。

『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。』

 つまり、神様が造られたこの世界というのは、人間が愛と知恵を持って適切に管理していく時に、非常に良い世界となったということなのです。
 ところが、みなさんご存じのように、最初の人間、アダムとエバは、罪を犯して神様に反逆し、堕落してしまいましいた。その結果として、非常に良いものとして造られたはずのこの世界も、呪われた存在になってしまったわけです。これがパウロがローマ書で『被造物が虚無に服した』と言っている意味であるわけです。
 聖書全体で語られている神様の救いのご計画というのは、この虚無に服した被造物の世界を元通りの非常に良い世界に回復するということに他なりません。もちろんその中には、世界の管理者である人間の回復、すなわち救いということが含まれています。
 けれども、神様の救いというのは、人類の救いだけに止まるのではなく、この被造物世界全体の回復にまで及んでいるわけです。
 しかも、私たち人間の回復というのも、ただ単なる魂の救いだけに止まるものではありません。パウロは、ローマ書八章二十三節で、次のように述べています。

『そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。』

 多くのクリスチャンは「救い」という言葉を聞くと、死んだ後、霊魂が肉体を離れて天国に行き、そこで神様と共に永遠に過ごすという、そういうイメージで考えてしまうことがあるのですが、聖書がはっきり述べていることは、クリスチャンの究極の望みというのは、私たちの肉体が復活するということなのです。
 聖書は、物質というものを、霊よりも何か劣ったものとか、あるいは汚れたもの、邪悪なものとは言ってはいません。この私たちの目に見える物質の世界は、神様が造られた良いものだという理解があるわけです。
 神様の救いの完成というのは、この被造物世界が回復し、栄光のからだに復活した神の子どもたちによってすばらしく管理され、神様の栄光を現していくということなのです。これがパウロが二十一節で、

『被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。』

ということの意味なのです。

 ここで、二十三節にもう一度注目してみたいと思います。パウロはここで、世の終わりに起こる肉体に復活について語っているのですけれども、それは同時に「子にしていただくことだ」というふうに、パウロは言っています。
 ここでちょっと疑問に思う人がおられるのではないかと思います。私たちは十四節と十五節の所で、「キリストを信じる私たちは今現在、すでに神の子とされている」ということを学んだばかりです。それなのに、どうしてパウロは二十三節では、世の終わりのことについて、その時に私たちが神の子にしていただくということを言っているのでしょうか。この疑問に答えるためには、パウロが世の終わりというものを、どのように理解していたかということを理解する必要があります。
 パウロは、イエス・キリストが来られて、十字架にかかられ、復活された時に、すでに、ある意味で、世の終わりは始まっているというふうに考えていました。けれども、最終的な終わりというのは、まだ来ていません。それは将来、キリストが再臨され、すべての死者が復活する時に起こることなのです。
 新約聖書によると、この世の終わりというのは、いわば二段階で来ます。まわりくどい言い方をすると、「終わりの始まり」というのは、イエス様が二千年前に最初に来られた時のことであり、「終わりの終わり」というのは、今度は将来イエス様が再臨される時のことなのです。
 私たちが神の子どもとされるということも、こういう枠組の中で考えることができます。私たちは今現在、キリストを信じ、聖霊を受けた時に、すでにある意味では、神様の子どもとされています。けれども、私たちは、神の子どもとしての人生をフルに生きているわけではありません。私たちが完全な意味で神様の子どもになるのは、世の終わりに栄光のからだに復活する時なのです。
 私たちはこのことを、どのようにして信じることができるのでしょうか。それは、私たちに聖霊が与えられているという事実によってです。パウロはこのことを、二十三節で、『御霊の初穂をいただいている』というふうに表現しています。この「初穂」というのは、畑で穀物を育てている時に、収穫期の最初に獲れた作物を人々は神殿で神様に授けた、その最初に獲れた収穫物のことです。この初穂が与えられたということは、やがてまもなく本格的な収穫が始まるということを保証しているものです。今現在、私たちに聖霊が与えられているという事実は、やがて世の終わりに私たちのからだがあがなわれるということの保証であるわけです。

 もう一つ私たちの復活を保証している事実があります。それは、イエス・キリストがすでに私たちに先んじて復活してくださったということです。パウロは第一コリントの十五章で、イエス・キリストの復活のことも「初穂」というふうに呼んでいます。イエス様は完全な神の子として、まずよみがえってくださいました。私たちも世の終わりには、このイエス様と似た栄光のからだに復活する希望が与えられているのです。その時、私たちは本当の意味で神様の子どもになることができるわけなのです。
 パウロはこのことを、ローマ八章二十九節、後半だけお読みしますが、

『それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。』

と表現しています。
 イエス様があがなわれた神の子どもたちの長子となってくださる。イエス様がいわば長男のような立場になってくださって、あがなわれた被造物世界の管理を導いてくださるのです。これが神様の子どもとしての教会の最終的な務めであるわけであります。

 ここまで、イエス・キリストを信じて聖霊を受けた私たちは、神様の子どもとされたということ、それは神の民、イスラエルに組み入れられる事である。そして最終的には、キリストを長子として、被造物世界を治める神様の働きに参加させていただく希望がある。そういうことについてお話をしてきました。

 最後に、これらすべてを貫く、一つの大切なテーマについて触れたいと思います。それは「愛」ということです。これまで見て来たことから、神様がこの地上における救いのご計画を進めて行くというのは、この地上において、ご自分の子どもたちの輪を広げていくことによってなされていくということが分かると思います。神様はまずイスラエルを選んでご自分の子どもとされました。その後、イエス様が来られてから、神の子どもとなる特権は、異邦人も含めて、信じるすべての人に拡大されたわけです。ヨハネの福音書一章十二節、

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』

と書かれているとおりです。

 パウロが言うように、私たち異邦人は、神様の養子となって、神の家族であるイスラエルに迎え入れられた存在です。ここで問題になるのは、神様は、元から神様の子どもであったユダヤ人と同じように異邦人である私たちも愛してくださっているのだろうかということです。
 養子になった子どもが一番気にするのは、自分が家族の一員として本当に受け入れてもらえるのだろうか。特に、養父母に実の子どもがいる場合には、その子どもたちと差別されることがないだろうか、ということだと思うのです。
 ある家庭で、養子になった子どもが、育ての親であるお母さんに、こういうふうに言ったそうです。「ママのお腹に新しく赤ちゃんができたら、私は元の所に送り返されるの?」パウロの答えはどうでしょうか?
 パウロが生きたローマ時代には、この養子縁組という制度は、社会的にとても重要な役割を持っていました。このローマの社会における養子という制度について、ある学者は次のように説明しています。
“養子にされた人物は、それ以前の環境から引き出され、すべての負債は帳消しにされ、新しい家長の息子として、新しい人生を歩み始め、家長の名字を名乗り、相続権を持つようになる。新しく父となった者は、今や養子の財産を所有し、彼の人間関係を統制し、しつけを行う権利を持つと同時に、彼を養う責任を持ち、その行動に関しても法的責任を負う。これらすべてにおいて、養子はその家で自然に生まれた子どもたちと全く同じ扱いを受ける。この養子縁組は法的な行為であって、証人によって証しされる。”
 神様が私たちを養子にしてくださったという時に、パウロが念頭においていたのは、このような社会関係であったと思います。神様は私たちを罪と死の奴隷の状態から解放してくださって、ご自分との新しい親子関係の中に入れてくださいました。私たちは、神の子どもとしての、あらゆる法律的な権利を与えられた存在であって、そのことは私たちに与えられている聖霊が証ししてくださっているのです。
 十五節でパウロは、異邦人の読者に対して、最初は二人称で「あなたがたは子としてくださる御霊を受けたのです」というふうに語っているのですが、後半になると、一人称の複数形を使って、「わたしたちは御霊によってアバ父と呼びます」というふうに語っています。パウロが「私たち」という時には、読者である異邦人だけではなくて、ユダヤ人クリスチャンも含めて、すべてのクリスチャンは同じ御霊によって、ユダヤ人でも異邦人でも神様の子どもであるということなのです。
 ローマ人への手紙二章十一節には、ユダヤ人と異邦人の関係について、こう書かれています。

『神にはえこひいきなどはないからです。』

 えこひいきのない神様。公平な神様。異邦人の使徒と呼ばれたパウロの宣教活動を支えていたのは、この確信だったのかもしれません。神様はユダヤ人も異邦人も関係なく、ご自分の愛する子どもとして、子としてくださる御霊は愛の御霊でもあるのです。
 そればかりではありません。先ほど、八章二十九節で、世の終わりには御子キリストが復活した神の子たちの長子となられるということを見ました。
 このユダヤ人と異邦人が、分け隔てなく神様の子どもになるという、それだけでもすごいことなのですが、パウロはここで、さらに驚くべき事を言っています。なんと、父なる神様は、御子イエス様が神の子であるのと同じように、私たちの人間をもご自分の子どもとしてくださると言っているのです。
 パウロは手紙のいろいろなところで、私たちクリスチャンの信仰の歩みというのは、キリストに似た存在に造り変えられていくプロセスだというふうに言っています。例えば、第二コリント三章十八節では、

『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』

とあります。
 しかもこれは、単に私たちの内面が聖められてキリストに似た人格になっていくということだけではなくて、最終的には、私たちのこの肉体も、復活のキリストと似た栄光のからだに変えられるということをパウロは言っています。ピリピ人への手紙三章二十一節、

『キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。』

 この事は、もちろんイエス様が神であられるのと同じにように、私たちも神になるということではありません。けれども、私たちは神様であるイエス様が持っておられる様々な良い性質にあずかる者となっていくということです。ここに神様の偉大な愛が現されています。父なる神様は、御子イエス様を愛されたのと全く同じように、分け隔てなく私たち信じる者を愛してくださるのです。
 イエス様が十字架に架かられる前に祈られた祈りがヨハネによる福音書十七章二十三節に書かれています。

『わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。』

 私たちが神様の愛の中で、一つになるということ、父、子、聖霊なる三位一体の神様が永遠の昔から持っておられた全き愛の関係の中に、私たちも入れられるということ、それが神様の救いの究極的な目的であるわけです。
 このような愛というのは、この世の中の価値観と対立するものです。だから今の世で、そのような愛に従って生きようとするならば、そこには当然苦しみが伴ってきます。パウロは八章十七節で、

『私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、』

と言っていますけれども、これはクリスチャンとして神の子とされた者には苦しみが必然的に付いて来ると言っています。
 けれども彼はすぐに続けてローマ人への手紙八章十八節、

『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。』

と言っています。
 もし、今、苦しみの中にある人がおられるならば、その方は、復活のイエス様を思い描いてみてください。私たちも、あなたも、その主と同じ姿に変えられて行く希望があるのです。
 けれども、そのような栄光に満ちた祝福の希望というのは、遠い将来、世の終わりになって初めて実現することではなくて、今、ここで、すでに始まっているものです。
 私たちクリスチャンが、神の家族として互いに愛し合う時に、神の国が、神様のご支配が、この地上に現れ、ある意味では、世の終わりが現在に訪れます。そしてヨハネが言うように、そのことを、この世が知るようになっていくと言います。
 教会が本当の意味で、神の家族となって、愛し合っていくということは、最も強力な宣教の働きであるのです。私たちクリスチャンが、兄弟姉妹と呼び合うこと。神様を天のお父様と呼ぶこと。それは単なるキリスト教の業界用語ではありません。もし私たちがその本当の意味を知るだけでなくて、その真理に従って生きていくならば、私たちを通して、神の国が現されて行くのです。最後にご一緒にお祈りしたいと思います。

 まず、今日、私たちは、この御言葉で書かれているように、私たち一人一人が、神様に愛された神様の子どもであるということを確認して、感謝をしていきたいと思います。そしてそれだけではなくて、私たちの人生が、ただ単なる様々な仕事やいろいろな目の前にある出来事だけに目を留めて生きて行くのではなくて、この歴史における神様の偉大なご計画に入れられている存在であるということも、確認して祈っていきたいと思います。
 そして、今、様々な苦しみの中にあったとしても、私たちの将来にはすばらしい栄光に満ちた祝福の約束が与えられているということを、もう一度、その希望を受け取っていきたいと思います。ご一緒にしばらく、この御言葉に応答して、祈りの時を持っていきたいと思います。

 代表してお祈りさせていただきます。

 愛する天の父なる神様。アバ、父よ。今日私たちが、あなたの子どもとされている、この信じられないほどの恵みと特権を感謝いたします。かつては、あなたから離れて歩み、あなたの子どもでなかった者が、あなたの子とされ、あなたとの愛の関係の中に入れられていることを心から感謝します。どのような背景から来た者であっても、どのような過去を持っていたとしても、あなたは分け隔てなく私たちを愛してくださり、私たちを「愛する子よ」と呼びかけてくださっていることを、ありがとうございます。
 私たちは神の子どもとされた真理に立って、今日も歩み、また兄弟姉妹たちと一つになって、愛の家族を築き上げて行くことができるように、助けを与えてください。そしてそれだけでなく、あなたはあのイスラエルの昔から持っておられたご計画の中に、私たち異邦人も含めてくださり、そしてやがて、この世界のすべてが回復する時に、私たちにも栄光に満ちた復活のからだが与えられ、その世界を支配するあなたの務めに参加させていただくことができる、そして父、子、御霊の神様の愛の交わりの中に参加することができる、その希望をありがとうございます。
 今様々な苦しみの中にあり、悩みの中にある方々もおられますが、私たちがその希望から決して目を離すことなく、今日もあなたから励ましを受けて歩んでいくことができるように、助けを与えてください。そして私たちのそのような姿を見て、この世の人々が、あなたがどのように愛に満ちたお方であるか知ることができるように、どうぞ教会を用いてくださいますようにお願い致します。この御言葉を感謝し、尊き主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。