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聖霊によって主の証人となろう!

2015年5月24日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
使徒の働き2章1節〜4節

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

 ハレルヤ!主を賛美します。ナガランドでは、「ジェホバセー!」と三回叫びます。
Praise the Lord!という意味です。
 みなさんに祈っていただき、人生の中で最も忙しいかもと思うような、スケジュールを過ごしていますが、守られていることを心から感謝します。
 この三週間、何をやって来たか忘れてしまいそうですが、三週間前は、沖縄で奉仕をしました。十一日に新城に戻って、実行委員会があり、十二日は一日、リバイバル聖書神学校の講義がありました。翌、十三日は朝から空港に行ってナガランドに向かいました。ナガランドでは一週間、奉仕をさせていただきました。帰国したのが先週の火曜日でしたが、金曜日、土曜日と広島で奉仕があり、昨夜遅く帰って来て、今朝はここに立っています。どうなるかなと心配しましたが、みなさんの祈りによって支えていただきました。お互いに祈り合うことは、本当にすばらしいと実感しています。

 今日は、礼拝後、すばらしいことがあります。それは、「Zawameki12」がついに発売されるからです。みなさん期待してくださいね。

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 今回のジャケットです。

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 あっ、これは関係ないか。

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 子どもたちのために、ちょっとサービスしました。今から一曲、みなさんに「ホザナ」という、先ほども歌った歌を、CDからお聴かせいたします。私も昔、バンドをやっておりまして、レコーディングを何度か体験したことがあるのですが、レコーディングって本当に大変です。今回、本当によくやったなと、私の弟ですが、ちょっと褒めてやりたいくらい出来がいいですね。これだけのメンバーをまとめて、これだけの作品を作るのは、ただ事ではありません。これもやはり祈りの結果です。どこに出しても恥ずかしくない、すばらしい作品に仕上がりました。世界最高峰の人たちと一緒に、このような作品が、日本のリバイバルのために、賛美の領域に与えられたことは、本当に感謝です。感謝しつつ、聴きたいと思います。

 今回は、「サタンの手から音楽を取り戻せ!」というコンセプトです。日本全国、いや世界にまで広がっていくといいと思っています。
 ザワメキの働きも、一九九二年二月一三日、この教会に聖霊様が激しく訪れてくださった後に始まりました。天から賛美が降って来て、今回で十二枚目のCD、全部合わせたら十四、五枚になるのではないでしょうか。それを見ただけで、主が生きておられる事がわかります。この延長線上に、きっとイエス様は帰って来られるのではないかと、そんな気がしてなりません。

 今日は教会におきましては、全世界的記念日です。キリスト教会には、三つの大きなイベントというか、お祝いがあります。
 一つはクリスマスです。イエス様が生まれてくださった日です。もう一つは、復活祭です。これはイエス様がよみがえられた記念日です。そして、ペンテコステといって、聖霊がこの地に来てくださった教会誕生の記念日です。ペンテコステとは、五十番目という意味ですが、イエス様はよみがえられ、四十日間、人々の前に現れてくださいました。そして天に帰られたわけですが、その後十日目に、聖霊様が、この地に訪れてくださったのです。その記念日が今日です。復活祭から数えて五十番目の日、それがペンテコステです。
 今日は、聖霊がこの地に訪れてくださった記念日です。ということは、聖霊様の働きが最も力強く現される日であると、私は期待しています。
 今日読んだ使徒の働き二章は、その瞬間をレポートした箇所です。

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』

 弟子たちが集まって祈っていた、ただ中に、天が開かれたのです。聖霊が注がれて、一人一人が聖霊が話させてくださる通りに、「他国の言葉」で話し出したというのです。このことは、すでにイエス様によって預言されていました。
 使徒の働きの一章によりますと、

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

 よみがえりのイエス様により、預言されていました。実に、預言どおりに聖霊が来られ、人々が他国のことばで話し出したのです。
 聖霊を最初に受けた人たちは、イエス様の弟子たちを中心とする百二十人だと言われます。外国語なんかできるような人たちではありませんでした。その多くがガリラヤ地方出身の田舎者たちでした。方言はしゃべることができたかもしれないけれど、標準語もままならない、田舎者の集団だったのです。しかし聖霊がくださったら、他国のことばで、ぺらぺらとしゃべり出したのです。すると、外国人たちが驚いて、大勢集まって来て、その日三千人が、弟子たちの群れに加えられたとレポートしているのです。

 聖霊が来られたのは、どのような意味があるかというと、それは人々が力を受けて、世界の国々に出て行って、福音を宣べ伝えるという象徴的な出来事でした。今読んだ使徒の働き一章八節を見ると、

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

とイエス様は言われましたが、エルサレムとは、聖霊が来られた街の名前です。ユダヤとは、エルサレムがあった地域です。その隣は「サマリヤ」という地域でした。私は一月にサマリヤに行き来ました。そして、「地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言われたのです。二千年前に、イエス様が語られた言葉ですが、それが実に今、この場に実現しています。
 今日私たちは、日本で礼拝を守っています。日本語で主を賛美しているじゃないですか。なぜかと言えば、約束が実現した結果です。彼らから見たら他国の言葉、日本語で主を礼拝し、賛美しているからです。聖書の記述を読んで、自分たちを見るならば、神の言葉が実現していることがよく分ります。
 ユダヤ人たちは、ヘブル語をしゃべっていたのです。しかし私たちは、別にヘブル語を知らなくても、日本語で礼拝できるのです。これは預言の成就です。本当にこれはすごいことだなと、私は感動しています。

 今、世界中に福音が知らされています。これは何のためかというと、マタイの福音書二十四章十四節、

『この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。』

 私たちのゴールはどこかと言えば、イエス様が再び、地上に帰って来られ、世界の王となり、世界を治めてくださる事です。それがゴールです。それを期待して私たちは日々を歩んで行かなければいけないと、近頃、話しています。
 今回のザワメキのタイトルは、「Jesus is coming soon!」です。イエス様はすぐに帰って来られますよ!という内容の歌が多く収録されています。私はこれを聴きながら、もしかしたら、イエス様が帰って来られる日は近いかもしれないなと、感じました。私の願いは今、礼拝しているみなさんと一緒に、終わりの日を迎えることです。
 「終わりの日」とは、滅びの日ではないのです。私たちにとっては、勝利の日です。イエス様が帰って来られ、人間の歴史に終止符を打たれて、本物の神の歴史が始まる日なのです。それを早めるために、教会、クリスチャンは、それを最優先として働かなければならないのです。
 そのために、何をしたらいいかと言ったら、「地の果てにまで、わたしの証人となれ!」ということです。

 私は、沖縄で奉仕をさせていただいていますが、沖縄には沖縄方言がありまして、また、民族衣装もあります。かりゆしと言いまして、私が今、着ているシャツが正装です。「今日は軽い服を着てきたな・・・」と思わないでくださいね。これは沖縄の正装です。
 私は先週、ナガランドのアンガミー族の教会に行きました。ナガランドとは、そもそも、「ナガ族の人たちの土地」という意味ですが、ナガ族と言っても、その中にさらに部族がいくつもあるのです。最大の部族、アンガミー族の人たちと会いました。彼らは山の上で礼拝しています。山岳民族のところに行くと、必ず、民族衣装をくれるのです。今回、これをもらいました。着てみたいと思います。

 これがアンガミー族の正装です。これで仲間に入ったという感じです。私は二回もナガランドに行きましたから、すでに何着もいただきました。仲間に入ったところで、奉仕させていただくわけです。今回のチームです。

 チェ先生、韓国人です。私、そしてカメイ先生という、ナガランド人です。みんな同じような顔をしています。カメイ先生は、ナガランド人ですが、日本に来て、宣教師として二十年以上働いています。私は二十年近く前から、先生とお友達でした。不思議なことだなぁと思います。先生はこの山の出身者です。標高千五百メートルくらいの所です。州都のコヒマは、家が密集しています。人口二百三十万くらいです。近所にはコンビニもあります。売っているものはオーガニック、添加物とか全くありませんから、安心です。

 インパールからナガランドに行くには、峠を越えて行きます。
 牛も一緒に歩いている、のどかな町もありました。山岳民族の人って、こっちの山と、あっちの山では、言葉が違うのです。カメイ先生はすごいです。こっちの山に行けば、こっちの山の言葉をしゃべり、あっちの山に行けばまた違う言葉をしゃべります。我々には日本語を話し、ミーティングはすべて英語です。この人の頭ってどうなってるのかなという感じです。たまには途中で混乱する時があります。私が、「先生、先生、それ日本語!」とメッセージ中、指摘したりするのですが、本当に世界には言語が多いのです。

 世界に言語がどのくらいあるかって、実ははっきりしないのです。調査によって全然違うわけです。千数百から数千と言われます。めちゃアバウトですが、一九三九年にグレイという学者が調べたところによると、二千七百九十六だというのです。しかし一九七〇年にマイヤーという学者が調べたら、四千六百から五千六百だというのです。この頃は八千とも言われます。本当に多いです。
 私たちは、日本語という言語を話していますが、この表は普段話されている言語の人口順位です。

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 一番多くの人に使われている言語はなんと言っても、中国語です。十二億人くらいが使っています。二位がスペイン語。三位が英語。日本は九位にくい込んでいます。日本には一億二千万人も人がいますから。でも、日本語って、汎用性がない、つぶしがきかない言語です。日本から一歩外に出たら、全く通じないです。一番多くの人とコミュニケーションできるのは、スペイン語と英語です。フェルナンド先生はすごいです。スペイン語と英語が、ぺらぺらですから、世界中どこでもコミュニケーションできる感じです。日本語は韓国でも通じません。

 これだけの言語がどうして出来たのでしょうか。あまりにも細分化されてしまっています。実はなぜこうなったかというと、理由があるのです。創世記にその理由が記されています。創世記十一章一節〜九節、

『さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」』

 このように記されています。人々は、はじめは一つの言葉だったのです。もしも全地が一つの言葉だったら、本当に楽ですよね。どこに行っても通じますから。もしも世界が一つの言葉でコミュニケーションできたら、人種問題はないはずです。言葉が通じれば、どこの地域の人とも自由に結婚しますから、肌の色の差は生じないというのです。
 また私たちは「文化」という言葉を使いますが、言葉が同じならば、文化も生じません。文化とは、お互いに違った生活様式がある故に、その違いを「文化」と称するわけです。でも、同じ言葉ならば、世界中、コミュニケーションできますから、そんなに差が出来ないわけです。もしも、世界が一つの言葉ならば、相当、人類は平和に暮らすのではないでしょうか。
 しかし数千とも言われる言語が生じてしまったのには、原因があるのです。言語学的にも、「言語は初めは一つだった」と言います。それは定説です。今は数千もあるけれど、しぼっていくと、一つだった!と。聖書は「はじめは一つのことばだった。」と告げています。本当に一つだったのです。それが、ある時変わってしまったのです。

 私は今回、アンガミー族の人たちの所に行きましたが、日本人のルーツは、この辺にあるな・・・と感じました。
 インパールの空港に着いたらすぐに県庁に連れて行かれ、マニプール州の副知事さんと面会しました。この方はクリスチャンの方で、今回のミッションのために、いろいろと協力してくれると、喜んで迎えてくれました。でも、この方の顔は、その辺にいるおじちゃんと変わりません。日本人とほとんど変わりません。
 その横にいる人も、日焼けしているけれど、新城の山手によくいる感じのおじさんと、あまり変わらないです。チェ先生も変わらないです。モンゴロイドという、同じ人種の人たちなのです。しかし、言葉は違うのです。
 でもこの辺に行きますと、日本人の祖先って、きっとこの辺に初めは住んでいたんだろうな・・・と感じます。なんの拍子か知らないけれど、そこにとどまることができなくて、旅を続けて、日本に入って来たんだろうなと思います。

 喉が渇いたら、みなさん何を飲みますか?水を飲みますよね。「ミズ」と言うでしょ。アンガミー語で水のことを何というかというと、「ズ」と言うのです。だから「みず」とズを強く言うと、水をくれるのです。「みズー!」と言うと、はいはいはいと、水をくれるのです。
 カメイ先生なんて、亀の井戸です。同じような名字が結構ありまして、言語的にもこの辺がルーツだろうと思われます。「全地は一つのことばであった」と聖書は記しています。みんな一緒に住んでいたわけです。その時は肌の色も同じで、文化なんて気にしないし、結構楽しくやっていたと思われます。
 しかし、ある時、それが崩れたのです。十一章三節から見ると、

『彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。』

 こんな記述があるのですが、何を意味するのかというと、一つのことばで住んでいた人たちが、町を作り始めたというのです。現代人も、町を建てていますが、人類が近代都市を建設し始めたことを意味します。
 『彼らは石の代わりにれんがを用い、』とありますが、「石」は自然の素材ですが、「れんが」は、人手を加えた、日干しれんがであったり、焼き物だったりするわけです。『粘土の代わりに瀝青を用いた。』とあります。「粘土」は自然の素材ですが、「瀝青」はアスファルトです。天然のアスファルトに石を混ぜて、現代人も道路を作っていますが、そのようなことを始めたわけです。人工の都市を建て始めた時、神様は、「ちょっと待って。」と、人間に注目したわけです。
 極めつけは、町の真ん中に塔を建てた時です。それが有名な「バベルの塔」です。

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 バベルの塔を建てた途端、互いに言葉が通じなくなり、一緒に住むことが出来ずに世界中に散らされたというのです。神ご自身が人々を散らされたと、聖書は歴史的事実を記しています。
 人類は元を正せば、一人から始まっている、これも定説です。そこから、世界中に広がったわけです。
 なぜ塔を建てたくらいで、神様は怒るの?言葉を混乱させるようなことをされたのかな?と思うのですが、実は、この塔、ただの塔ではないのです。「遠くを見たいな」という塔ではなくて、塔のてっぺんで霊を呼ぶという、降霊術のための塔だったのです。人間って、霊的な存在と関わらないと生きていけない存在です。

 今日、私たちは、霊的な存在、父、聖霊、御子イエス、目に見えない三位一体の神様と関わりを持っています。それで生活ができているわけです。今、みなさんから、全く信仰を奪ってしまったら、途方にくれると思います。
 クリスチャンでない場合も、なんらかの霊的力と関わっているわけです。仏教だったり、神道だったり、様々な新興宗教だったり、それらは何でしょう。目に見えない世界とのつながりです。霊との関わりです。人間は、肉体を持って、現実の世界に生きているのですが、目に見えない霊的な存在と関わらないと、生きることができない存在なのです。でも、どのような霊的存在と関わるかで、人生の方向性は左右するわけです。

 バベルの塔を建てるまで、人類は曲がりなりとも天地宇宙を造った、創造主なる神と交流を持っていました。しかしこの塔を建てた時、自分の欲望を満足させるために、悪霊を呼ぶようになりました。悪霊と取り引きをするようになったのです。そのことによって、神が「これはいかん!」と言って、人々の言葉を混乱させたのです。
 人類が、初めは「ひとつのことば」であったとは、どういう意味かといったら、私たちの信じている神様は、「ことばなる神」なのです。天地もことばで造ったのです。「光あれ!」と言ったら、光ができて、地球も、この広大な宇宙も、すべてことばで造られたというのです。
 そして人間を造って、人間だけに、ことばを与えました。他の動物はことばを持っていません。「私は犬の言葉が分かる」という人がいるかもしれませんが、犬語の辞書なんてないでしょう(ネットには犬の気持ち辞典がありましたが)。いつもコミュニケーションしていれば、なんとなく、犬の気持ちもわかるかもしれません。しかし、はっきりと犬とおしゃべりできる人は、ちょっと病院に行ったほうがいいかもしれませんよね。普通は分からないです。しかし人間同士はどこの国の人だって、おしゃべりできます。辞書もあるじゃないですか。神は人間だけに、ことばをくださったのです。神様が使っていたことばをちょいと取って、人間の口に貸し与えてくれたわけです。
 全員同じことばを語っていたというのは、どういうことでしょう。神様が使用していたすべてを成し遂げるような、パワフルなことばの一端を、人間に貸して下さったことを意味します。最初、人間がもらったことばは、超強力だったはずです。無から有を生じさせるような、今では全く想像できない、すごいことが、言葉によって結構できたと思われます。
 でも、神から直接もらった創造力溢れることばを使って、悪霊を呼んだのです。それは相当危険なことだったでしょう。「彼らのやっていることを、とどめることはできない!」と神が言われたのが、何よりの証拠です。
 神がことばの力を弱めたというのが、バベルの塔のストーリーなのです。

 人類は、産業革命以前は、今とは違った価値観を持っていました。現代人の価値観は、科学技術を発展させることによって、幸せになることができるというものです。
 ナガランドに行きましたが、飛行機に乗って行きました。長い時間、飛行機に乗って行きました。
 まずは韓国に行き、韓国で四時間待って、バンコクに行き、バンコクで四時間待って、バンコクからカルカッタに行って、八時間待って、また乗り換えて、アガタラという所に行き、最終的にインパールまで行きました。合計すると、だいたい三十数時間かかりました。飛行機に乗ったり、降りたり、乗ったり、降りたり、荷物を出したり、入れたり、出したり、入れたり、本当に疲れました。そんなこと言うと、みんなナガランドに行ってくれなくなっちゃいますから、「今回は厳しかった」のです。今回はですね。なぜなら、チェ先生をお連れしましたから、わざわざ韓国経由でいったからです。みなさんと一緒に行く時には、もっと楽に行きますから。今回、楽な方法を編み出してきました。大丈夫です。楽しいですよ。一生に一回くらい行ったら、いいと思います。

 飛行機で旅行をするのは、現代人にとって、最先端技術です。こんな遠い所まで歩いて行ったら、何年かかるかわかりません。しかし今、地球上で二十四時間以内に行けない所はありません。待ち合わせさえなければ、インドなんて、簡単なものです。飛行機に乗ったら早いです。いつも飛行機に乗るたびに、すごいなと思います。飛行機を構成している部品は、すべて手を離せば落ちるものです。しかし飛ぶというのは、すごいなと感動します。それは人間の知恵です。
 しかし昔の人たちは、科学技術を発展させたら幸せになるなんて、考えていなかったわけです。現代人にはおごり高ぶりがあり、「現代人こそ、一番進んだ、頭のいい人々だ。」と思っているのですが、それは違うのです。昔の人たちは、「科学技術なんかを発展させるよりも、霊的技術を発展させたほうが、ずっと効率がいい」と考えていたわけです。

 エジプトのピラミッドって、大きいでしょ。あんな施設、なぜ作ったのかと思います。初めは、王の墓だと思われていました。しかし近頃は、そうではないことが分かりました。あれは霊を呼ぶための施設だというのです。それも国民の総意で作ったと言うのです。みんなで「作りましょ。作りましょ。手伝います。手伝います。」と塔を建て、悪霊を呼んで、悪霊にすこし飴玉をあげると、ギブアンドテイクで、普通ではできないことが簡単にできるということを、当時の人たちは体験していたのです。
 だからシャーマンと呼ばれるような霊能者は、最先端技術者でした。空を飛んだり、瞬間的に移動するような事ができたというのです。聖書の中にも、ピリポという男が瞬間的に移動したことが記されていますが、飛行機に乗るよりも瞬間移動のほうが絶対にいいと思いませんか?ドラえもんのどこでもドアのような、パッと開けたら、おっ!インパール!あっ!沖縄!あっ!アメリカ!そんなドアが欲しいなと私は本当に思います。昔の人たちは、それをやっていたようです。産業革命以前、人類は、霊的技術を真剣に高めていたわけです。それがあるとき、科学技術にシフトしたわけです。ゆえに科学技術の根源には、オカルトがあるのです。全て連続性があるのです。
 昔は病気を治す時、霊能者のところに行って直しました。今はどうでしょうか。病気になったら病院に行って、最新の医学で治してもらいます。昔は魔術師の所に行って、悪霊を呼んで、悪霊と交渉して治してもらいました。煙を焚いて拝んだら「あっ!治った!」というなら、手術するより、そりゃいいかもしれません。でもそれは、相手が悪霊ですから、悪霊に助けてもらったら、助けてもらった以上に、被害をもたらすのです。ギブアンドテイクと言いますが、与えてくれた以上に、取られるわけです。よきものが人生から取られる、一番の原因は、悪霊との結びつきです。

 そういうことをし始めた人類に、パワフルなことばを貸し続けることは、危ないことです。「これはまずいぞ!ことばをバラバラにして、通じなくし、ことばの威力を弱めなくちゃ!」ということで、人類は世界中に散らされたと思われます。それで私たちも今、日本語をしゃべるようになったわけです。
 ことばが通じなくなったとは、コミュニケーション障害です。同じ日本語を使っていても、案外、近くの人とでも、コミュニケーションができない場合が多いのではないでしょうか。「なぜ愛し合って結婚したつもりの主人と、こんなにも言葉が通じないんだろうね。」とよく聞きます。結婚する時って、「一生、この人と連れ添って行こう!」と決断して、結婚します。でも、徐々に変わって、言葉が通じなくなるわけです。同じベッドに寝ていても、ご主人がブラジルで寝ているのとあまり変わらないくらい、距離感が広がってくるわけです。子どもともコミュニケーションができなくなる。いろんな壁ができる。これはバベルの塔と同じです。「私が悪いから…。」と、それはもちろんです。人間は努力もしなきゃいけないけれど、その背後に、シャーマニズムという、悪霊を呼ぶ行為が関わっているのです。

 偶像は、全て、霊を呼ぶための施設です。仏壇は、先祖の霊と称する霊を呼ぶための施設です。道ばたに転がっているような地蔵も、石でできていますが、手を合わせるとなにかの霊がやってくるのを日本人は知っています。石を媒体にして、霊が呼ばれるのです。神社に行って、手を叩いて鈴を鳴らすのは、霊が来てくれるようにやっているのです。パンパン!という音で、霊の注意を引くのです。
 知らないうちに日本人は悪霊を呼んでいます。その結果、コミュニケーションが阻害されるのではないでしょうか。
 そんな行動をとった人類を、ある意味、悪霊の被害から守るために、神は世界に散らされたのではないかと思います。神の愛を、そこに感じます。全員で、同じ場所で、同じことばで悪霊を呼び続けたら、人類は即、滅びたことでしょう。

 しかし、神は、回復されるお方です。「人間って、しょうがないな。悪霊なんか呼んで。滅びてしまえ!」と言われません。それで終わる方ではないのです。そんな散らされた人々を集めるために、聖霊を注がれのです。
 そこにいた百二十人の弟子たちに、普通ではしゃべることができない、世界の国々のことばを語る能力を与えたのです。そして、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、地の果て、日本にまで、福音は伝えられたのです。それはバベルの塔の呪いからの回復です。
 人々が立ち返る道を用意してくださったのです。今や私たちは、ユダヤ人たちから見たら普通ではありえない、日本語で福音を聞くことができ、イエス様を知ることが出来たのです。それは他でもない、聖霊が注がれた結果です。その間、二千年くらいの期間がありましたが、時代、時代にあって、神から委ねられた領域をクリスチャンたちが満たして来たことにより、私たちは救われたわけです。
 ということは、私たちも、次世代のために、この働きを継続しなければいけないのです。日本に福音が伝わったのは、海外の人たちが、「日本に行って福音を伝えよう!」という熱い気持ちを持って、日本に来て伝えたからです。日本語の聖書なんて、昔はなかったわけです。誰かが翻訳したのです。ギリシャ語だ、ヘブル語だという、我々には訳の分からない言語を誰かが、日本語に翻訳したから、今日、私たちは聖書を読むことができるのです。それは、言語が回復した証拠です。

 聖霊が注がれた時に、「他国のことばで話し出した。」というのは、重要な意味があるのです。ゆえに、言語の違った地域にまで、福音を伝えるという視点を持ちながら、福音を伝えていくことが、大変、重要です。
 その底に流れているのは、やはり神の愛です。神様の愛が、示されている箇所が、聖書にはたくさんありますが、特に、ルカ十章の三十節から三十七節。良きサマリヤ人の話ですが、ここには、神の愛が表現されています。今年、一月、私はサマリヤに行き、その時のことを、いろいろリポートさせていただきました。ユダヤ人とサマリヤ人の間に起こったことが、ここに記されています。ルカの福音書十章三十節〜三十七節、

『イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」』

 関係が悪くなる人って、遠い人たちとは、あまり関係は悪くならないですよね。やはり近い人と悪くなります。家庭の中なら、ご主人と奥さん、近い人ですよね。日本が国として関係が悪いのはどうでしょうか。遠い国とは、あまり関係は悪くないです。南米のアルゼンチンとか、ブラジルとか、ペルーとか、大嫌いという人は少ないです。しかしこの頃、海外の人たちが近くに住み出すと、住民トラブルが発生します。普通、遠くに離れていたら関係は悪くならないのです。近寄ると、関係が悪くなるわけです。
 特に、関係が悪くなるのが、国内というよりも、隣に住んでいる違った民族と悪くなります。民族問題は、私たちが考える以上に大きな問題です。
 当時、ユダヤ人とサマリヤ人は、異なった二つの民族で、お互い、毛嫌いしていました。前にもお話をしましたように、宿屋を貸してくれなかっただけで、イエス様の弟子たちは、「サマリヤの村を天から火を呼び下して、焼き滅ぼしてしまいましょう!」と言ったくらいです。相当嫌っていたのです。
 しかし、イエス様はユダヤ人でしたが、ユダヤ人でありながら、サマリヤ人の立場に立ち、良きサマリヤ人の話をしました。ユダヤ人が一番うまくいっていない民族を愛しましょう、と告げられたわけです。それも、とことん愛しましょうと。

 聖霊の働きは、神の愛に裏付けられているわけです。私たちも神の愛を受けて、聖霊を受ける時、隣人を愛することが出来ます。またその愛を、実践しなければならないことが分かります。
 みなさんにとって、一番近い存在で、一番関係が悪い人って、誰でしょうか。「その人を愛してください。」と神は言われます。
 同時に、日本人として、隣人を愛するということは、近くに住んでいる他の民族と呼ばれる人たちを愛することです。その時、イエス様が帰って来られる道が用意されるということです。
 近頃、リバイバルミッションでは、不思議と、国内だけでなく、韓国だったり、台湾だったり、タイであったり、ナガランドであったりと、違った言語を持った人たちの所に行って、奉仕をさせていただいています。これは本当に大事だと思います。

 ユダヤ人とサマリヤ人の間には、かなりひどい憎しみがありました。憎しみは、人を滅ぼします。憎しみから解放され、和解するのは、本当に大事です。
 私は今回、ナガランドに行って、日本にリバイバルが起きないのは、太平洋戦争の時に日本人が犯した罪が関わっているだろうな、と強く思いました。
 ナガランドに行きますと、クリスチャンが多いのです。人口の九十五パーセントくらいがクリスチャンだと言います。前にも言いましたが、日曜日は、ちょっと感動します。歩いている人たちは、みんな教会に向かっているからです。教会はどこも満員です。山の中の教会も、どこも満員。私たちも、今回、いろんな所で集会をやりましたが、どこでも大勢の人たちが詰めかけて来ました。私が参加した教会は少なかったです。数十人でした。「今日はちょっと少ないな」と思ったら、「全員に言うと、村中の人たちが来て大変になるから、牧師とリーダーたちだけを呼んだ」というのです。みんな大歓迎してくれました。

 ナガランドのミッションのために委員会もありまして、私の一番不得意な領域でしたけれど、やらせていただきました。

 しかし、どこに行っても、老人の方がひょこっと出て来られるのです。先週の日曜日に行った村でも、おじいちゃんが出て来ました。九十二歳だったかな・・。この人は、村の長老です。この村は日本軍が占領した村なのです。ご存じのように、インパール作戦で、日本は、インドにまで入って行きました。インパールだけでなく、さらに北上して、コヒマまで入って行きました。この村を拠点として、日本軍は全体に攻撃を仕掛けました。このおじいちゃんは、「二十歳の時に日本軍が入って来た。わしは、日本人と一緒に飯を食った!」なんていうわけです。「北海道、本州、四国、九州」なんていうわけです。日本の歌を歌ってくれたりします。
 戦争は本当に悲惨だった言いました。こののどかな村が戦火に包まれ、丸焼けになったそうです。それで、みんなで逃げたというのです。しばらくして戦火がおさまったので、帰ったら、日本兵の死体がいっぱい転がっていたそうです。「日本兵の死体だらけだった。俺たちはその死体を埋めたんだ。」と、そういう方々と出会いました。昨日の話かのように話し出すのです。

 ここでも、おじいちゃんと私は和解の祈りをしました。「おじいちゃん、本当に申し訳なかったね。」と、何をどう謝っていいのか分かりません。そうしたら「今でも日本兵の骨が出る場所に連れて行ってやる。」と言って、連れて行かれました。
 この森は日本人を埋めた所だというのです。だから畑として使えないと言いました。目印の石が置いてあって、「掘ったら日本人の骨が出るぞ。」と言われました。「え〜!こんな山深い所まで、よくぞ入って来たもんだ。」とびっくりでした。
 平和な村が突然、戦火に包まれたわけです。七十年経ったと言っても、昨日の出来事のように、鮮明に覚えているわけです。私は行く先々で、「日本人です。」と言ったら、「おまえは七十一年ぶりに、この村に来た日本人だ。」なんて言われて、「そうですか。すいません。」と謝って回りました。和解の祈りをし、心を合わせるのは大事だなと強く感じました。

 実は、戦争とリバイバルは、関わっています。このナガランドにリバイバルが起こったのは、戦争が関わっているのです。今回、私たちは、リバイバルが起こった村に行きました。ここに「The Dawn of Revival」と書かれた記念碑が建てられています。「リバイバルの夜明け」という場所ですが、一九五九年三月一九日の夜、ザディマ村に、突然聖霊が下ったと書いてありました。リバイバルがここから起こったのです。そして今はクリスチャン人口が九十五パーセントにもなったというのです。
 聖霊が注がれるのには、特定の時があるようです。私たちには、一九九二年二月一三日に注がれました。ザディマ村には、一九五九年三月一九日だというのです。日本軍が入って来て、村をぐちゃぐちゃにされて、続いて、インドの正規軍によっても苦しめられ、村人たちはどうにもならないので、ジャングルの奥に逃げ込んで生活していたというのです。
 しかし、ジャングルに隠れた一握りのクリスチャンたちが祈り始めたのです。その時、天が開かれ、聖霊が注がれ、この山で始まった聖霊の働きが、今やナガランド中に広がり、九十五パーセントの人たちがクリスチャンになったというのです。

 昨日と一昨日、私は、広島に行きました。やはり原爆というテーマは重いです。二日間、ある教会で一人一人の解放のお祈りをさせていただきました。いろんな方が来られ、話を聞いたら、「私のおじいちゃんは原爆で亡くなりました。」という方が何人もおられました。日本も本当に大きな戦争被害に出会っているのに、なんで日本にはリバイバルが起きないのかなぁと思いました。しかしそれは、日本が過去に犯した罪が引き止めているのかなと思いました。

 私はナガランドで「おじいちゃん、すいませんでした。今年は日本人を大勢連れて来るからね!」と約束しました。だからみなさん行ってくださいね。「三十人は連れて来ますからね!」『じゃぁ、待ってるぞ!』と言われて、困ったなと思いましたが、新城教会にお願いするしかないかなと思いました。ちょっと大変かもしれませんが、こういう所に行って、現実を見て、日本の代表として、和解して、良きサマリヤ人のように愛を現すことが、イエス様が帰って来られる道を備えるために、重要な働きじゃないかと、今回、痛切に感じながら帰って来ました。

 チェ先生は韓国人です。日本と韓国って、あまり良い関係ではないでしょう。でも、クリスチャンは絶対に、お隣の韓国とか、北朝鮮とか、中国とか、悪く思ってはいけません。祝福を失います。私たちが今一つとなっているのは、すばらしいことです。山の教会でもいつも話しました。
 「みなさん、日本が一番関係の悪い国は、どこか知っていますか?韓国です。でも、今日は、韓国人の牧師と一緒に来ましたよ。韓国と私たちは一つになって、一緒に来たんです!だから、七十一年前に日本人が大きな迷惑をかけましたが、キリストの愛で受け入れてください。」と言ったら、みんな拍手してくれました。「日本人が今回、韓国人を連れて来た!」というのが評価だったのです。「この十一月は韓国人も連れて来てください!」と言われ、チェ先生は「わかりました!」と言っていましたが、その後、お腹を壊して苦しんでいました。悪魔が攻撃したなと思います。イメージを悪くして、韓国人たちを連れて来られないようにしているんじゃないかなと思いました。十一月は、韓国人と日本人が一緒に行って、祝福を祈ったら、日本にも道が開かれるかもしれないと感じました。今までいくら祈っても、なかなか祈りがきかれない事柄に勝利が来るのではないかと・・。
 時々、トイレが詰まって、汚い話ですが、いくら水を流したって流れない時があります。でも詰まりが取れたら、どっと流れて行くのです。日本はトイレが詰まっているような状態です。アジア付近でいっぱい詰まっているのです。
 でも、そこを勝ち取って行くのです。それには、他国の言葉が必要です。けれども、それこそ、聖霊様の働きだと思います。

 本当にみなさんのお祈りに支えられ、今回、このような働きをさせていただいたことを心から感謝します。私も今回、ナガランドに行く前は、「うわー、大変だな」と、やっつけ仕事だなと思っていたけれど、「あっ!これじゃいかん。本気でやらなくちゃ!」と思って、今回、チェ先生とカメイ先生と一緒に三ヶ国連合でやったのが、本当に意味深かったと感謝しています。
 お互いに、他国の言葉を話す者たちばかりですけれども、キリストにあって一つとなって、今回の働きが全う出来ました。日本だけではできないことですが、主が不思議なチームを与えてくださったことを、心から感謝しています。

 今、沖縄でミッションが開かれています。また、ナガランドでもあります。是非、祈っていただきたいと思います。また、是非とも出かけてくださいね。これは聖霊様の働きです。聖霊が注がれた原点に、「他国のことば」があります。私たちが他国のことばを使うただ中に、主はこの地に帰って来られます。

 最後にみなさんでお祈りをして、今日は聖霊様が来てくださった記念日ですから、聖霊を求めて祈りたいと思います。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。私たちに、聖霊を注いでくださり、今や他国の言葉を使って、様々な働きを、新城教会にゆだねてくださっていることを、心から感謝します。主よ、私たちの中にある他国の言葉を祝福してください。聖霊によって祝してください。この教会には、外国から来られた方々もおられます。その方々を祝福してください。インターナショナル集会も祝福してください。
 日本がかつてアジアに対して犯した罪を、赦し、聖めてください。今回、ナガランドに行って、良きサマリヤ人としての働きを担うことが出来、心から感謝します。今まで詰まっていたものが取れ、今日は教会に、新しい聖霊の流れと季節が来ていることを信じます。
 その原点となったイエス様の十字架の血潮を、今からいただきます。聖餐式を祝福してください。イエス・キリストの御名によって、祈りをお捧げいたします。アーメン。