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本当の自由

2015年6月7日(日)
新城教会牧師 四元雅也
ガラテヤ書5章1節

『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』

ハレルヤ!感謝します。こうして三月十五日以来、礼拝のご用に当たらせていただけますことを感謝しています。

今日は、明先生はもう長く沖縄に行っておられますし、順牧師は埼玉、また開先生も熊本において、それぞれご奉仕にあたっておられる中ですので、みなさんも是非、その奉仕の祝福のためにお祈りしていただきたいと思います。

また、今週私は中国に行くことになりました。
この中にもご存じの方もいるかと思いますが、Cさんという兄弟です。
三年か五年くらいこの教会で私たちと共に礼拝を守っておられました。そして何年か前に中国に帰られたのですが、今まで交わりが続いておりまして、新城教会をすごく愛し、また私たちのこともすごく慕ってくれています。たまに来日することがあるのですが、その時には、新城にも顔を出してくださったりします。この度、彼が結婚することになって、「誰か結婚式に来られる人はいないか」と連絡が入りまして、誰が行くだろうかなぁ、山崎ランサム先生かな、順先生かなと思っていたら「おまえ行って来い」ということになり、新城教会の代表で行かせていただくことになりました。恵みだと思って、感謝しております。
今回、中国には一人ではなく、新城在住のご夫妻で、Cさんと親交があったノンクリスチャンの方と一緒に、三人で行って来ようかと思っておりますので、その中でも役割を果たしていくことができるようにお祈りいただきたいと思います。

今後は、環太平洋ミッションの働きの一環で、中国に扉が開かれ、働きがつながっていくようなことが起こされてくるかもしれませんので、その足がかりにもなるかもしれませんので、覚えて祈っていただけたらと思います。

メッセージとは、ちょっと外れるのですが、先週はキリスト教会にとって好ましくない事件がありました。
三月に「神社仏閣油かけ事件」というのが、全国ニュースで報道されていましたが、その容疑者として、あるキリスト教系の団体幹部に逮捕状が出たという話です。ショックでしたが、そのためにも、皆でお祈りしていきたいと思います。
新城教会は、この団体とは関係ありませんし、「霊的戦い」と「とりなし」の奉仕も、社会的に恥ずかしいことはありませんが、今まで一生懸命イエス様の御名を宣べ伝えるために働き、またその中で神様が霊的戦いを開いてくださって、私たちの働きの中で霊的戦いは大切ですし、またリバイバルミッションの全世界における奉仕の中でも、重要な働きなのですが、今回の事件と混同して、誤解する方が出ないように、キリスト教会の中でも、「やはり霊的戦いは危ない」という思いが、キリスト教界の中に浸み込んで行くことがないように、クリスチャンでない人たちにとっても、これがつまずきとならないように、みなさんで祈りしていきたいと思います。

今日は、先ほどお読みしていただきましたように、ガラテヤ書五章一節から、「本当の自由」というタイトルで、お話をさせていただきたいと思います。

『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。』

ここでも、イエス・キリストが私たちに与えてくださったものが自由であって、私たちが解放されたのでその自由を得ることができた。だから、もう一度、かつての自分にそこに逆戻りすることがないようにしなさい。奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。と勧めているわけですね。

「自由」を、今日、みなさんと考えていきたいと思うのですが、「自由」というのは、Wikipediaに書いてあったことですが、

自由(じゆう、英: freedom, liberty)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。哲学用語。日本では往生楽土、楽市楽座の語に見られるように、「楽」を「自由」という意味で使う用法があった。中国では本来、「自由」は、好き勝手や自由気ままという意味で用いられた。日本も当初は、「自由出家」や「自由狼藉」のように、中国と同じ用法で用いられていた。

英語では、「freedom, liberty」とか、そういった言葉で使われる、その日本語が「自由」です。「他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。哲学用語。」です。しかし、日本においては、「往生楽土、楽市楽座」というような言葉があるのですが、「楽」を「自由」という意味で使う用法があったというのです。「楽」というのは、「気ままである」とか「奔放である」という意味合いを持って用いられました。「自由気まま」とか「自由奔放」という言葉もありますが、好き勝手や自由気ままという意味合いに、「自由」と聞いた時に連想する人がいるように、日本においては、英語でいう「freedom, liberty」とは、ちょっと違う意味合いもあったみたいです。

でも、「自由」というのは、近代から現代にいたる社会の中で、全世界的に重要な言葉として、社会の中で、大切にされている言葉だと思います。

私たちが自由を享受して生きていくことは、基本的人権の中心テーマです。
基本的人権は憲法によって保障されているわけですが、憲法というのは、中世ヨーロッパの貴族による封建社会の中で、人権をめぐる革命が民衆中に起こって、長年にわたる幾多の戦争を経て、民衆が勝ち取って来たものであるわけです。
そして現代は、世界中のほとんどの国が、自由を基本理念として、立憲国家という、憲法によって立てられる国家を作っています。日本においても、自由は非常に大切なものとして受け止められています。
日本国憲法の中には、これらの自由が謳われています。

精神的自由/思想・良心の自由/信教の自由/学問の自由/集会の自由/結社の自由/表現の自由/経済的自由/居住移転の自由/職業選択の自由/外国移住・国籍離脱の自由/人身の自由/奴隷的拘束・苦役からの自由/令状なき不当な勾留など、正当な法的手続を踏まない不当な拘束からの自由

たくさんの自由が、憲法によって、私たちに保証されているのです。

話は変わりますが、私は最近、ある大学の講義に参加させていただいています。といっても、講議を収録したテレビ番組をインターネットで見ているだけですが。
この講議は、世界の指導者・有力者たちを輩出している、かのハーバード大学で行われた講議です。ハーバード大学は皆さんもご存じのとおり、世界大学ランキングで、長年にわたって一位を独占している、世界のトップと言える大学です。
そこに来ている学生さんたちは、私なんかと比べることもできない、エリート中のエリートです。それこそ、その大学の卒業生からは、大統領が何人も出ている、また、ノーベル賞を百人も取ったとか、そういう大学なのです。
私が見た講座は、そういうエリートたちが、千名も聞きに来るほど人気を博している講座だといいます。
それは何かというと、マイケル・サンデル教授の「政治哲学」の講議です。

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マイケル・サンデル教授は、世界的に有名な哲学博士で、アメリカでは大統領のブレーンとして、また、生命倫理委員会のメンバーとして活躍しました。著書も多数出したりしています。
ハーバード大学は、原則として講議を非公開としているため、部外者が見ることはできないのですが、あまりの人気ぶりに、今回、初めて公開に踏み切って世に送り出された特別な講議だそうです。

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それで私もハーバードの生徒と同じ講議を見ることができるようになったわけです。

普段、私にとって哲学は、木枯らし紋次郎のように「あっしにゃ、関わりのねぇこってござんす」という世界でして、ここにおられる、何人かの方もそうかもしれませんが、「哲学って、そもそも何だ?」と言われても、はっきり分からないので、哲学に触れる機会なんてないのです。
私が哲学と聞いて最初に頭に浮かぶのは、ムーミンに出てきて、「無駄じゃ、無駄じゃ」と言っている、じゃこうねずみさんくらいです。

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若い人には分からないですね。
そもそも哲学ってなんでしょう?哲学は案外つかみどころがないと思います。
哲学をやっている人たちの中でも、専門分野が違って、それによって定義も違うようなところもあると思いますが、全体としては、生きる上でのものの見方、考え方です。世界観、人生観。本当はもっと深いのかもしれませんが、自分なりに考えて分かりやすくいうと、そんなような事かなと思います。

普段、生きている時には、特に役に立つというものではないかもしれませんが、自分の行く末がどうかとか、進路はどうかとか、結婚相手はどんな人がいいかとか、職業を選択する時に自分にはどんな仕事があうのだろうかとか、深く考えた時に、自分を見つめようと、自分に合った道は何だろうかなとか、そんなふうに思いをめぐらせたりする時には、この哲学というのは、役に立ってくるものなのかもしれません。
また、哲学者は、そういった、個人的な領域だけではなくて、社会全体とか、世界規模で、国としてどう立ちゆくことが善であるか。環境問題はどうかとか、核兵器の廃絶とか、貧困格差問題とか、そういったことを考えていこうとする時に、哲学者たちが「こうやっていくのが良いことである」ということを指示していく、先ほどお話しした、国の形である憲法も、哲学者の意見を聞いて作られます。そういったものが哲学ではないかと思います。
番組のことを知って、「どれちょっと覗いてみようか」と興味半分で見た具合が、これがなかなか面白かったのです。哲学がおもしろいとは全然予想していなかったので、ちょっと意外だったです。
講義の中では、日常の中で起きるかもしれないことを思考実験して、その時自分ならどんな行動を取るのだろう、その行動の中心にはどんな思いがあるのだろうと、考えるのです。

冒頭では、こんな思考実験をしていました。「路面電車の思考実験」というのですが、ちょっと映像を出していただきましょうか。

想像してください。あなたは、路面電車の運転手です。運転していると、急にブレーキが利かなくなりました。そのままスピードが増して時速百キロで暴走しています。あなたが前方に目をやると、五人の作業員たちが線路の上で働いています。そのまま行くと、その五人を必ずはねてしまいます。彼らは逃げることができません。

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あなたは絶望しかけると、不意に、脇に逸れる線路「待避線」があることに気付きます。
ブレーキは効かないが、運転席には路線の切り替えスイッチがあり、それは効くので、そちらに逃げようとするが、その先にも一人の人が線路上に立っています。

待避線の人は見内みたいですが、そうではありません(笑)
もちろん他の五人のこともあなたは知りません。全員赤の他人です。

さて、あなたならどうするでしょう。待避線に逃げて一人を撥ねるか、

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または、そのまま進んで五人を撥ねるか、

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ここで多数決をとると、後から問題が生じるかもしれませんので控えますね(笑)。
その講議では、参加者に手を挙げさせると、ほとんどの人が待避線に避けるという選択をしました。真っすぐ突っ込むと選択した人も数人いたようですが、ほとんどの人が、一人を殺し、五人を助けるという選択をしました。

それでは、もう一つ、違う状況を想像してみましょう。
今度は、あなたは運転手ではなく、傍観者です。橋の上から、下の線路を見ていました。

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すると、先ほどのように路面電車が暴走して、行く先には五人の作業員たちがいます。彼らは逃げることができません。
電車は止まれず、あなたは「何もできない」と絶望するが、ふと隣を見ると、ある男が立っていました。

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そしてなぜか、あなたの手には、リモコンが握らされ、スイッチを押すと、落とし穴があいて、その男が電車の前に落とされるようになっていました。
男が落ちて、電車は男を轢くが、その結果停車し、先の五人は助かることができる。

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または、男を落とさずに、五人が撥ねられるのをただ傍観するか。

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さて、この場合はどうでしょうか?今回は聞いてみましょうか?男を落とすという方はおられますか?ほとんどいないです。そのまま電車が通加するのを見て、五人が殺されるのをただ傍観するという方はいますか?大多数がこちらの方ですね。

講議でも同様な反応をしていました。先のケースでは、一人を殺す選択をみんなします。そして五人が助かります。しかし、二番目のケースでは、ほとんどの人が、そのまま眺める方を取るというのです。
二つとも同じように、あなたが自分でスイッチを操作し、結果一人がぬことになるのに、二番目のケースでは手を下すことにためらいが生じる。
あなたの選択によって一人が殺され、五人が助けられるということは、両ケースとも同じ、しかし、選択は全く逆になった。興味深いことです。
ここに、どんな意志が働いているのか。なぜ、逆の選択を取ったのか考えると、そこには、いくつかの道徳的な法則が私たちの心の中に働いているのです。

一つ目のケースは、結果によって、その行為が正しいか、そうでないかを判断するということです。つまり、一人を殺さなければならないとしても、五人を殺さずに済む方を選ぶという選択。これを帰結主義、または功利主義といいます。「功利主義」とは「最大多数の最大幸福」を基本原理とする倫理思想で、善悪の基準は、より多くの人がより多くの快楽とより少ない苦痛を得ることにあるとします。
つまり、最も大勢の人が最もメリットを受けるように判断していくということですね。一人を犠牲にしなければならないとしても、五人が助かるならば、その帰結(結果)を見て良しとするということですね。小を捨て、大を取る。
一人を殺すか、五人を殺すかという選択ですので、どちらにしても悲劇的だけど、みなさんは五人を殺すよりは一人を殺すほうが、まだマシだと考えたと思います。つまり、その行為によって、社会の中で、より多くの人に恩恵が与えられる事をもって、その行いを善とするということなのです。

これに対して、ただ結論が良い方を選ぶことが善とはならない、もう一つのケースがありました。ここでは、何の罪もない人を線路上に落として犠牲にするという場合に、その行為の結果に支配される五人の生死に優先して、一人を落とすことは「悪いことだ」と、私たち全員が考えたということです。単に結果が良いだけでは片付かないことが、私たちの人生にはある、ということなのです。

思考実験は、この辺でやめたいと思いますが、講議の中では、他にもいくつかのケースを紹介しながら、人間の行動を支配する原理を探っていきます。そして、その講義の中で一つの結論にたどり着きます。それは、「理性」です。

イマヌエル・カントといえば、名前を聞いたことのある人が多いと思います。私は名前くらいしか知らず、何の学者かも知りませんでしたが、この人は十八世紀に出た哲学者です。

この時代は、私が昨年から礼拝メッセージで触れた、啓蒙主義が花開いた時代です。この時代に神様を探求する神学に代わって、理性によって学問を切り開いていくという手法がメインになっていくのです。
啓蒙思想というのは、暗い所を光で世界を照らすという意味です。「暗さ」はキリスト教の迷信。奇跡や超自然現象を意味し、「光」は人間の理性をあらわしました。あらゆる人間が共通の理性をもっていると措定し、世界に何らかの根本法則があり、それは理性によって認知可能であるとする考え方、ということです。

先ほど、日本人の持つ「自由」という考え方の中に、奔放なこと、勝手気ままに振る舞うことが含まれるとお話しましたが、そこには、人間が欲するところに従って生きる、という感じを受けます。
しかし、カントは、欲望のままに生きることを自由とは呼びませんでした。むしろ、カントが言ったことは「義務に従って生きる時、我々は自由である」と言ったのです。我々が義務に従って生きる時に、我々は本当に自由であると。ちょっと逆説的な論理であるように思えます。普通義務というのは、私たちを縛るものであるのに、義務に従う時に、私たちは本当の自由だと、あの有名な哲学者は言うのです。

義務と自由は一見対立しているように思うのですが、カントいわく、「人間が真に自由である状態とは、義務という名で何かを遂行しているときだけである」というのです。その義務とは、何かというと、「自分の個人的な利益のためではなく、道徳的に良いこと」というのです。私たちが、道徳的に正しいと判断することを行おうと選択し、それを実行していく時に、私たちは、本当の意味で自由だというのです。道徳的に正しいこと行うことが自由なのです。

その意味はこうです。私たちが欲望によって行動している場合、私たちは欲望による衝動に突き動かされていて、自分の意志によって行動してはいない、肉の欲に自らを律することができず、欲望のままに「動かされている」状態だというのです。
イエスさまが、ヨハネの福音書の中で、「罪のうちにあるなら、あなたは罪の奴隷である」とおっしゃいました。また、パウロが「わたしの内に真理を憎む悪が同居していて、そのため私は自分がしたい善をおこなうことができず、かえってしたくない悪を行ってしまう。私はみじめだ」と告白しています。
そのように、私たちが、私たちのこの肉の欲望によって突き動かされている時に、私たちは自分の思いによって自由に生きているのではなくて、その肉の欲の奴隷になって、主人の命じることを行っているのだから、それは自由ではないのです。
しかし、理性を持って正しいと判断することを自分で選んで、行っていく時にこそ、私たちは本当の意味で自由なんだというのです。

さらに驚くべきことは、カントは、そういった道徳的な、私たちが正しいと思うことは、主観的な思いなのですが、実際はそうではないというのです。個々の主観といった域を越え、全人類共通の究極の法則があるというのです。それが、カントいわく「理性」だというのです。カントは「純粋理性」と呼びましたが、それはどんなものによっても覆されることがないというのです。私たちの道徳的な価値観というのは、万民共通だというのです。すべての人にとって一つのものが、そこに存在していると彼は言いました。すごく興味深いことだと思いました。

私が自ら律するという点で従っていく道徳的な価値観、その元となる理性というのは、私の中にあるのですが、他者の理性も全く同一だというのです。すべての人にとって、まったく同じ理性があって、つまり、人は、全世界、一人も漏れずに、ひとつの理性をもち、それに基づく道徳規範を持っていることになると、カントは言っています。
なるほど、と思いました。これって聖書が言っていることに近い、と思いました。

考えたのは、「奉仕の喜び」です。例えば、教会でのいろいろな奉仕について考えてみましょう。教会の奉仕に限らず、世の中一般的にあるボランティア活動でも結構だと思うのですが、こういった無報酬の働きには、自分にとって無益であるはずであるにもかかわらず、それを行った後、心にすがすがしさや、喜び、充実感があるということを、みなさんも感じられると思います。これは、お金やそのほかの報酬によって代えることのできない「満足」です。
私たちが神様のため、また人のために自分を捧げて奉仕の場に進み行く時に、何の報酬も得ないのですが、心の中に喜びや満足感を持つことができる。
これはカントが「道徳のために、自らそれを選んで、その場に進み行くことこそ本当の自由だ」と言ったことにあたると思います。神様の前で、私たちが正しいことを捧げていく時に、またボランティアならば、社会のためになることができたと、そういう時に、私たちは満足感を持つ。それが自由に行動し、結果として得られるものだと思います。

ガラテヤ五章には、本当の自由についてはっきりと述べられています。ガラテヤ書五章十三節〜十四節、

『兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。』

私たちは神様を信じて救われた時に、「自由を与えられる」。また「そのために召された」と書いてあります。「召された」ということは、召集されて、その任務についたということですが、それは自分を満足させることではなくて、隣人を愛して、互いに仕え合うということのためなのです。そこに、神様の中にあるものとしての「奉仕の姿」を見ることができます。
それと、「自由」という言葉が関連づけられて記されているわけです。
さらに、十六節~二十三節で、今度は、私たちを束縛し奴隷とする肉の欲望に、支配されることがないよう、正しい行いの先に結ばれる「御霊の実」を結ぶことを教えています。五章十六節〜二十三節、

『私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。』

このみ言葉を、カントが言った「本当の自由」をヒントにして読むと、味わいが出てきます。

考えてみると、聖書はすでにカントが言った「本当の自由」について、はっきり教えています。ヨハネの福音書八章三十二節、

『そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』

ヨハネ八章三十六節、

『ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。』

またヤコブの手紙一章二十五節、

『ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。』

私たちが神様から与えられている自由の律法を心に据えて、それに従って歩んで行く。そういう人は祝福されるということですね。

哲学というのは、今お話ししたように、私たちの人生において必要なことを気づかせてくれる学問であるということを、今回の講義を見る中で思いました。
しかし、同時に、マイケル・サンデル師の講議を聞きながら、私自身としては少し物足りなさを感じました。それは何かというと、サンデル教授は、理性はどこから来たのかを説明していなかったのです。

講議の中で、サンデル師は、はっきり述べていました。「理性」を学問的に捉えることは、「不可能」であると。理性は学問によっては解明できない。ハーバード大学の教授は、「理性とは何なのか、どこから来るのかは解明できない」というのです。
哲学の真髄ともいえるような「理性」は、万民にひとつであり、普遍的な真理を表す言葉でありながら、学問で解明できないのです。ここに、哲学の限界があります。すなわち人間の知恵の限界、学問の限界です。

これにも、なるほど、と思いました。

みなさん、「絶対」といえるものは、この世の中に存在するのでしょうか?永遠に変わることのない普遍的なもの。他の何ものによっても揺るがされることのない、犯されることのないもの。カントやサンデル師は「理性」がそれだと語ります。でも、私は、カントやサンデル師は惜しいと思います。

私なら、私たちの道徳心の規範、絶対的な真理を「理性」とせず、「聖書のみ言葉」と言います。
そして、「み言葉は、唯一の創造者「神様」から来ます。」と答えます。

私たちに自由を与えるのはみ言葉であり、神様から出たものです。これ以上重要なことはありません。そして、私たちが、み言葉に基づき、神様の御心を行う時、私たちは本当の意味で自由であり、心に平安と喜びを与えられるのです。これが、クリスチャンライフというものです。本当に素晴らしいことです。

ここにおられる皆さんが、本当の自由を持たれるように願って、また祈っていきたいと思います。そしてこの本当の自由、先ほど御霊の実としてあげられていました、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、これらを禁ずる律法はないといわれました。この御霊の実を結び、祝福されたクリスチャン人生をお互いに歩むことができるように、祈っていきたいと思います。

それこそが「本当の自由」と、私が最初にタイトルを付けさせていただいたことだと思います。
私たちに与えられている神様のみことば、そして神ご自身から来る思いに支配されて、本当の自由を得て歩むことができるように、お祈りしたいと思います。これで私のメッセージは終わりにしたいと思います。

それでは、一度みなさんお立ち上がりいただけますか。

今日は、このメッセージを通して、私たちが何気なく生きているわけですが、そのような中で、「自由」というものがどういうものであるか、ということについて学んでみました。
今日、お話しした自由の枠に自分自身を当てはめていく時に、その自由に対して自分自身が誠実に取り組んでいたかどうか。またはそうではなく、本当は不自由なのに自由だと取り違えて肉の欲望に従っていた自分がいたかもしれません。もしそうであるならば、喜びや満足はありません。神様にある本当の自由の喜びの中に入ることができるように、みなさんでご一緒にお祈りをしてきたいと思います。

そして、お一人おひとりを通して、この国に神様の御業が現されることを願って、さらに力強く確信をもって歩んでいきたいと思います。この世の知恵や、この世の悟りは、限界がありますけれども、私たちが信じている神様の中には、本当の真実、真理があります。ですから、真理に根ざして歩むことができるように、お互いにお祈りしたいと思います。

ハレルヤ。天のお父様。今日は自由ということを哲学的に考えて、そして主よ、その中に、私たちが持っている普遍的な、内なるイエス様、あなたご自身によって与えられたみ言葉や、神の心を持って本当の自由を私たちが得ることができるように祈りました。どうか主よ、御霊によって、その思いを実行に移させ、そして肉の欲望の下の奴隷となるものではなく、真理の御霊によって自由にされた者として歩むことができるように、どうか助けてください。
ここにおられるお一人お一人の上に、平安を、また喜びを、御霊の実を豊かに実らすことができるように、あなたの祝福を注いでくださいますように、心からお願いいたします。すべてのことを御手にゆだね、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。