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弱いからこそ選ばれた

2015年6月21日(日)
新城教会牧師 岡本信弘
コリント人への手紙第一 1章26節〜31節

『兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。』

 ハレルヤ! 主の御名を心から賛美します。こうして、この場所に立って共に主を賛美できることを、本当に心から感謝します。
私は、来月で五十九歳になります。あちこちに痛みがあったりして、弱ってきたなあ~と感じる今日この頃ですが、みなさんのお祈りに支えられて、健康で働けることを感謝します。
今日は、父の日です。日頃がんばっているお父さん方に、一言でもお礼を言って、感謝の気持ちを表すことができたらいいのではないかと思います。

また今日は、沖縄七〇ミッションの最終日です。今までのミッションの本大会には、いつも現地に行っていたので、ここにいるのが何か不思議な気がします。
先ほども祈りの中にありましたように、四月一日から始まったこのミッションのために、先生方が相次いで出ていかれ、明先生においては五十日間も沖縄に留まって、様々な所で祝福された集会が行われてきました。いよいよ、ファイナルの集会が開かれています。第一日目の昨日は、三時から大勢の方が来られて恵まれた時だったと報告がありました。
今日午後からは、昨日の大会の様子、そして本日のライブ映像を見たいと思います。

戦後七十年ということで、私たちだけでなく、多くの方々が沖縄に関心を持っています。昨日もいくつかの番組で沖縄のことが取り上げられていました。先週の午後、教会でも沖縄の歴史などを学びましたが、同じ日本人でありながら、日本の一部でありながら、知らないことがたくさんありました。戦後七十年経った今も、多くの人が戦争の傷跡に苦しみ、縛られている現実。これは、ただ沖縄だけの問題ではなく、日本の弱さの部分ではないかということを教えられ、今回の沖縄ミッションが開催されたということは、日本の癒し、リバイバルにつながるとても重要なことであると、あらためて感じました。

 さて今日は、『あなたが弱いからこそ神に選ばれた』というテーマで学んでみたいと思います。
 この世の価値観で考えたら「弱いから選ばれる」という考えはおかしいように思えます。スポーツの世界でも才能のある人が選ばれ、また会社の中でも力のある人が選ばれ、出世するのが通例です。
 しかし、御言葉には「弱い者を選ばれた」とあります。神様が弱い者を選んだのには、それなりのはっきりした理由があるのですが、先ほど読んでいただいたコリント第一の手紙一章二十七節に、
『知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために弱い者を選ばれた』とあります。
テレビでは、様々なものを発明したり開発したりした人、ノーベル賞を受賞した人など、能力や知恵がある人がよく紹介されます。「世の中には本当に頭の良い人がいるものだ」と感心し、「私ももう少し頭が良かったらよかったのに」と思ったりします。しかしここでは、そんな知恵のある者、強い者をはずかしめるために、愚かな者、弱い者を神が選ばれたとあるのです。
 この世の中において、知恵のある人、強い人とは、どんな人のことを言うのか、考えてみたいと思います。
時々、みなさんも、「私は頭が悪いから」と言うことがあるかもしれませんが、どこをもって頭の良し悪しを判断するかというのは、なかなか難しいところです。
 一つの判断基準は、学校の成績だと思います。私にも中・高校生時代があったわけで、テストには悩まされました。私の中学での成績は、悲惨でした。
 前にも一度話したことがありますが、私の通っていた中学校では、毎月一回、五教科の月例テストがありました。その成績で、クラスで何番かというのが出るわけです。中学二年の時の担任は、本当に変わった先生で、今だったら教育委員会で問題になるところでしょうが、成績表を渡す時に「岡本さん」と呼ぶだけでなく、「岡本さん、○番」と言って渡すのです。四十五人いたのですが、「○○さん、一番」、「〇〇さん、八番」、「〇〇さん、四十何番」と、全員に順位を言って配るのです。成績の良い人はいいと思いますが、私のように出来の悪い者にとっては、とても恐怖でした。今となっては、懐かしい思い出ですが…。
 中学二年の社会科のテストの時、私は大きな失敗をしたことがあります。学生生活のうち、最初で最後の零点を取ったのです。それは簡単なテストで、スラスラと答えを書くことができました。「それならなぜ? 名前を書き忘れたんでしょ」と思うかもしれませんが、違います。名前はちゃんと書いたのです。かなりの時間が残っていたので、隣の子と話し始めたのです。ある者は、腰掛けを後ろに向けてまで話していました。すると、いきなり担任の先生が入って来て、「今騒いでいたやつはそこに立て」と言いました。僕は真面目だったので(笑)、すぐに立ちました。ほとんどの人が話していたのに、立ったのは十人くらいでした。続けて「今立ったやつは廊下に出ろ」と言われ、教室から出されました。そのあと先生が教室に入っていき、立った十人の答案用紙を集めて持ってきて、私たちの前でビリビリビリと破ったのです。ということはつまり、白紙とみなされ、そのテストに零点がついたのです。その時の成績は散々で、家に帰って母に怒られた覚えがあります。
 このように、学校においては、「何番だから頭が良い、悪い」と決められるのです。
 また、「強い人」というのはどんな人でしょうか。スポーツで秀でた才能のある人や、信念を持って物事をやり遂げる人、また健康で体の丈夫な人などが思い浮かびます。この世では、そのような人たちが賞賛され、もてはやされますが、神様の視点は違います。
 ここにいらっしゃるクリスチャンの方のうち、問題を抱えて教会の門をくぐった方が多くおられるでしょう。健康でお金があり、家庭に何の問題もなかったら、今、ここにいなかった方も多いのではないでしょうか。
 私はクリスチャンホームに生まれ、幼い頃から教会に通っていました。しかしそれは、私の母が苦しみの中で教会を訪れたことによって、神様に出会ったゆえなのです。
 先週、順先生が「全家族みんなが幸せになるために」というテーマで語られた時、何十年も経って振り返った時に、神様の恵みがそこにあるということが分かると言っておられました。順先生も歳を取ったのか(笑)、最近は昔話が多くなったように思います。
 その話の中に、私の母 岡本キヨの名前が出てきました。召されてもう九年ほどになり、母のことを知らない方も多くなってきましたので、少しお証ししたいと思います。

 母はこの地域に生まれ、比較的裕福な家庭に育ち、何不自由ない生活をしていたようです。若い頃は(無神論者ではなかったと思いますが)、「神に頼る者は、弱い人だ。自分の人生は自分で切り開いていくものだ」と思っていたそうです。
 年頃になり、結婚をしました。幸せに暮らしていましたが、最初に産まれた子どもがダウン症でした。この子(康宏)が生まれたことによって、今まで自分が一生懸命努力して道を切り開いてきたけれど、人間の力ではどうすることもできないものがあるというところにぶち当たったわけです。もう七十年近くも前のことですので、ダウン症についての情報も乏しく、まわりの理解も得られないような時代でした。よくない噂が流れたりもして、母は苦しみ、何度も自殺をしようと思ったそうです。
 そのような中で、お隣のクリスチャンである見城さんに誘われ、初めて教会の門をくぐり、若き二十代の滝元明先生に出会い、御言葉を聞き、自分がいかに高ぶっていたかを教えられ、へりくだりを学ばされ、まことの神イエス・キリストに出会うことができたのです。人は、自分の愚かさを認め、弱さを認めて、初めて神に出会うことができるのだと思います。
母の証しを思い出す時に、いつもこの御言葉が頭に浮かびます。
『ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。』(第一ペテロ五章六節)
 母の場合は、私の兄である康宏がいたからこそ、自分の弱さを認めることができ、そのことによって、神に出会うことができたのです。

 みなさんにとっての「弱さ」とは何でしょうか。「自分はここが弱いな」と思っているところが、誰にもひとつくらいはあると思います。
 私は時々ダイエットすることがあります。みなさんの中には、食事を減らしてダイエットしようとすると、食べ物を見るだけでお腹が鳴って、食べたい欲望を我慢できなくなって食べてしまう人がいると思います。その時、「ああ、なんて自分は意思の弱い人間なんだ」と思うのではないでしょうか。この、食事を我慢できない人は、女性に多いのではないかと思います(そうひとくくりにしてはいけないかもしれませんが…)。男性は、食事に執着する人が女性と比べると少ないと思うので…。
 また、どんなに清い生活をしたいと思って頑張っても、毎日のように偽りを言い、罪を重ね、悪習慣から離れることができず、苦しんでおられる人もいるかもしれません。
 一方で、弱さを知りながらも、自分を弱いと認めることが嫌だ、「努力すれば自分はもっとできるんだ!」と自分を奮い立たせている人も多くいます。私はビジネスをやっていることもあって、時々ビジネス書を読みます。ちまたでは、ビジネス書がとてもよく売れるそうで、店頭にもたくさんの種類が並んでいます。それらの本の冒頭に書かれているは、「あなたはもっとできる」という言葉です。「あなたは、本当はもっとできるんですよ」と、自己啓発を促す本を読みながら、何が本当に大切なのかと考えます。
ここにおられるみなさんは、自分が弱いということは気づいておられると思います。その弱さを認めておられますか? 弱いままでよいと思っておられますか? 私たちが弱いまま前進するなら、弱いまま戦っていくなら、それは丸腰で敵に向かことであって、到底サタンに勝つことができない状態です。
時に、体調に異変を感じたり、家庭に問題が起こったり、友人との関係がぎくしゃくしたりと、次々に心くじかれることが起こる時、「もう駄目だ」と弱り果ててしまうことがあるでしょう。しかしサタンは、まさに私たちが、足りない、弱いと思っている部分に、攻撃を仕掛けてくるのです。
しかし、聖書にこうあります。
『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。』(エペソ六章十〜十三節)
 神様の武具を身につける時、私たちはサタンに立ち向かうことができ、勝利することができるということが分かります。

 「弱さ」について考えていた時に、日本人は、人の意見に流されやすいと思わされました。日本人は、人との争いを好まない、よく言えば和を求める人種です。それは「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と表されるように、多くの人が右に行けば右に行き、左に行けば左に行くという行動をとります。伝統や文化においても、みながやっているからとか、ずっと前からやっているからと、波にでも乗るように、はっきりと意味も知らず、わからないまま行っていることが多いと思います。
 日本には多くの寺や神社がありますが、統計によると日本人の三割が無神論者と言われています。ということは、七割の人が神を信じていることになりますが、本当かなぁと疑問に思いました。
 私は昨年度、交通安全委員長をやっていたのですが、その引継ぎのための会合がありました。その会合はすぐに終わり、「みなさんで弁当を食べていってください」と、弁当が配られました。私は今まで、地域の集まりで、残って食事をしていくことはほとんどなかったのですが、どんな弁当か、開けて見てみました。十数人いた人たちはぞろぞろ帰り、四〜五人だけが残ったので、私も帰ろうかと思いましたが、開けてしまったし、その日はちょうど家内もいなかったので、食べていくことにしました。
 すると、残った区長さんや何人かの方々が、プレイズ出版の新規事業のことを聞いてきました。「岡本さん、何かあそこにでかいの建ててますね。儲かりますか? 儲けてどうするんですか? 何のためにやっているんですか?」と聞かれ、「私は自分の信じている神様のために、この事業をやっているんですよ」という話から、宗教の話になりました。私はこの時とばかりに、イエス様の証しをさせていただきました。
 短時間で多くのことは語れませんので、みなさんに一つの質問をしてみました。「みなさんは、神社や寺に行きますが、何を拝みに行くのですか? 何を信じているのですか?」。何と答えるかと思っていたら、「そりゃ〜、富沢のほとんどの人がお参りに行くのは、仏教である寺ですよ」と答えました。そこで、「でも、寺だけでなく神社にも行きますし、祭りもやりますよね。それはどうしてですか?」と聞くと、「いや、神社の祭りはイベントですよ。まぁ、仏教も信じているわけではないけどね」と言われて、続けてもう一つの質問をしてみました。
 順先生が前に話しておられたことですが、「私の知っている方が、村から突然寺がなくなっても誰も困らないし、気がつかない。身内が死んだ時に、寺に連絡して初めて寺がないことに気づく、と言っていましたが、いかがですか?」と尋ねてみました。すると、「そうだね、その通りだね。寺が消えても普段は何も困らない。気づくのは、確かに身内が死んだ時と、彼岸や盆の時くらいかなぁ。でもそれも、連絡が取れないなら取れないで、お金を払わなくていいから楽っちゃ楽だけどね」と言われました。結局、墓参りをしたり、墓掃除をしたりするのも、別に宗教心が篤いわけでも、しっかり信じているわけでもなく、「先祖から受け継いだ墓を守らなければ」と思っているだけなのだと、はっきり分かりました。最後に、「でも、岡本さんのように信じきれるものがあるというのは、すごいことだね」と言われ、信じたいという気持ちもあるのだなぁということも分かりました。
 日本人の多くは、良く言えば「協調性がある」と言われるわけですが、その協調性が、また優柔不断が、サタンの手によって操られているということも私たちは知らなければなりません。人々が知らずして行っていることであっても、サタンにとっては悪しき力を得る一つの手段であることを私たちクリスチャンは覚え、日本人の弱点をついて働こうとするサタンの働きを打ち砕き、霊的な壁が崩れるように、祈っていく必要があることを感じさせられました。

 先程から語っているように、自分の弱さを知ることはとても重要なことです。
 パウロは、コリント人への手紙でこのように語っています。

『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(第一コリント十二章二十二節)

 話は変わりますが、プレイズ出版の新規事業の老人ホームとデイサービスの建物が今月中には完成して、老人ホームは八月から、デイサービスは九月から始まる予定です。ここまでのみなさんのお祈りを感謝すると同時に、引き続き、お祈りいただきたいと思いますので、よろしくお願いします。
 また、四月からオープンした飲食事業は二ヵ月が過ぎ、順調に立ち上がり働きが進められています。多くの方に来ていただき、時には入れず、並んでいただくこともありご迷惑をおかけしていますが、神様が祝福してくださっていることを感謝しています。
 餃子は、私がレシピを作り、言い出したことなので、毎日餃子を作り、週の半分くらいは夕方から夜にかけて餃子を焼いています。みなさんにも是非、召しあがっていただけたらと思います。二十七日にはライブもありますので、ご都合のつく方は、来ていただければと思います。
 そんな忙しさの中、突然、左手首が痛くなりました。「腱鞘炎ですか? 仕事のやり過ぎでしょ」と言われましたが、私は右利きですので、右が痛くなるのなら分かるのですが、左手に負担がかかるような仕事はしていないので、どうしてかとずっと思っていました。
 原因が分からず、どんどん痛みが激しくなってきたある日、餃子店も手伝ってくれている娘がふと、「餃子を毎日焼いているからじゃないの?」と言いました。「餃子を焼くのは、右手だよ」と言うと、「でも、左手で餃子のバットを持っているでしょ」と言われ、ハッと気づきました。一つのバットに餃子が七十個くらい並んでいるのですが、そのバットを左手で持って、右手で鉄板の上に並べるわけです。ずっとバットを持っているということは、かなり負担がかかっているなと気づき、それ以来、バットを机に置いて焼くようにしています。
 普段、左手を使っているというイメージがありませんでしたが、考えてみれば、食事の時、箸を持つのは右手ですが、茶碗やどんぶりは左手で持ちます。当然、茶碗やどんぶりを持っているほうに負担がかかるのです。痛みがひどくてスマホさえ持てなくなり、机の上に置いて、人差し指だけで操作をしているような時があったわけですが、そうなって初めて、左手がかなり重要な役割を果たしていることに気づかされました。
 先ほど読んだ御言葉も、今までに何度も読んでいましたが、「弱いと見られる器官」というのは、漠然と普段あまり気にしないようなところのことだと思っていましたが、どの器官にも役割があるということに気がついていないだけだということを知りました。
聖書には、
『人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。』(第一コリント八章二節)という御言葉がありますが、知っているようでも、実は知らないことばかりだと聖書は教えています。まさにその通りだと思わされます。

 さらに、第一コリント十二章二十七節には、
『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』
と書かれています。
これは、教会がキリストの体であり、ここに集っているお一人おひとりが、各器官であることを教えています。先週も順先生が教会のことを「ビックな家族」と称しておられました。この教会には、赤ちゃんからお年寄りまで、多くの方が集っておられます。私たちは、神様を中心とした一つの家族です。ですから、お互いのために祈り、いたわり、とりなし、サポートすることによって、みながたくさんの恵みを頂き、幸せに暮らすことができます。それは、教会が健全に成長しているということです。

 また、第一コリント一章二十八節には、
『この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。』
とあります。
人は、成功した時、順調に事が進んでいる時は、自分が強く、何でもできる人間、また何か持っているかのような錯覚に陥ってしまいます。しかし、私たちは、本当は何も持っていないのです。
 何も持っていない私たちが、主によって生かされていることを認め、感謝する時から、多くの祝福をいただくことができるのです。あなたは今まで数え切れないほど、主から恵みを頂いてきたと思います。『数えてみよ、主の恵み』という賛美がありますが、頂いた恵みを覚え、どのくらい神に感謝していますか。毎日、「イエス様、感謝します」とお祈りを始めるのですが、いつのまにか「イエス様、今日も守ってください。この病気をいやしてください。こうしてください。ああしてください」と、願い事ばかりになっていませんか。
 病気になったり、問題が起きた時、神様に切なる願いをするでしょう。パウロという、新約時代に大きな働きをした人もそうでした。彼には持病があり、その病気が治るように、「三度主に願った」とあります。三度主に願ったというのは、切なる願い、どうしても聞いてほしいという願いを持って祈ったことを意味しますが、癒しは起こりませんでした。
その時、パウロはこのようなことを言っています。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(第二コリント十二章九節)

 彼の強さの秘密の一つは、弱さを誇りとすることから始まっています。パウロのように、弱さを認め、主がその弱さに働いてくださるからこそ、私は強いのだと知るなら、順調な時だけでなく、挫折したり、苦しんだり、悲しんだりする時にも、たとえ、自分が思ったように事が進まなくても感謝できるのです。

 私はいい加減な性格で、失敗することも多々ありました。しかし、あまりくよくよ悩まずに、前進できることは感謝です。また気が短く、そそっかしい者にもかかわらず、大きな病気やけがをすることなく生かされてきたことも感謝しています。頭も特別いいわけでもなく、秀でた能力があるわけでもない私が、こうして主のために喜んで働くことができるということは、自分の弱さを知り、できないところを主におささげし、助けていただいているからこそだと思います。
『すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。とあるようにこれは、神からあなたへの願いです。』(第一テサロニケ五章十八節)
この御言葉が示すとおり、「すべての事について感謝すること」、これこそ神があなたがたに願っておられることです。どんな時も、私たちは主に感謝して、主に従っていきたいと思います。

 そして最後に見ていきたいのは、第一コリント一章三十〜三十一節です。

『しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。』

 みなさん一人一人が、弱さを神に委ね、主にあって誇るものとなる時、勝利を勝ち取ることができるのです。
 「すべてを神様に委ねる」ことはメッセージでよく語られることですが、すべてを委ねるというのは、相手を一〇〇パーセント信頼しきっていないとできないことです。
 赤ちゃんは、他の人では不安がって泣いたりしますが、お母さんの腕に抱かれるなら、本当に信頼しきって泣きやみ、すやすやと眠ることができます。私たちは何も持っていない弱い者ですが、神様は私たちが弱い時も、足らない時も、できる時も、できない時も、いつも共におられ、私たちを抱いてくださるということを覚えて、一〇〇パーセント主に頼り、一〇〇パーセント主に委ねていきたものです。
 お年寄りの中には、「もう年をとってしまって、若い人のように奉仕はできない」と思っている人もいるかもしれませんし、また、「私は、神様の役に立ちたいし、奉仕もしたいけど、頭も悪いし、才能もないので何もできない」と思っている人がいるかもしれません。でも神様は、あなたのことを一から十まで、できることもできないことも、すべて知っておられます。ですから、主に信頼して、委ねていきましょう。

 へブル人への手紙は、信仰の書と呼ばれています。
特に十一章には、多くの戦いの勇士たちの歴史が書かれています。
十一章三十三〜三十四節には、
『彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。』とあり、彼らも時に弱さを覚えることがあったことが分かります。しかし、信仰によって進み、神によって強くされ、他国の陣営を陥れ、勝利を勝ち取ったとあります。
 私たちも弱い者ですが、信仰を持ってイエス様と共に歩む時、圧倒的な勝利者となることができます。また、神様からそれぞれに託された役割を果たすことができると信じています。

 今から、ご一緒に祈りの時を持ちたいと思います。
 みなさんの中で今、弱さを感じておられる方もいるでしょう。ある人は、家族に問題があるかもしれない。病があって、今苦しいかもしれない。また、やめられない悪習慣があるかもしれない、また人間関係に問題があるかもしれません。自分は一人で何でもできると、気づかないうちに高ぶり、気づかないうちに人を見下したりしているかもしれません。今お一人おひとり、自分の弱さを主の前に告白し、その弱さを認め、主に委ねましょう。
まず、自分の弱さのために、主に弱さを明け渡し、主が共にいてくださいと祈りたいと思います。
 また、家族の中で救われていない人のために、祈っていきましょう。先週の御言葉にあったように、全家族が救われるために、先にみなさんが選ばれてここに来ていることを覚えて、家族のためにとりなし、祈っていきましょう。救われていない、どうしても救いに導きたい家族の名前、またみなさんの友人、知人で、「この人をどうしても救いたい。地獄に行ってほしくない」、そう思う人の名前を挙げて、その人たちの救いのために祈りしましょう。
 そして、もう一つ祈りたいと思います。今日の午後には、沖縄七〇ミッションの最後の集会が行われます。前にも述べましたが、沖縄は日本の中で唯一、地上戦を体験し、多くの人が犠牲となった場所です。いまも戦争の傷跡に苦しみ、ある意味で、日本のいちばん弱い部分と言えるかもしれません。この最後の集会において、多くの人がそこに集い、心癒されるように祈りたいと思います。そして、このことが沖縄のリバイバルにとどまらず、日本のリバイバルにつながっていくことができるように、心合わせてお祈りの時を持ちましょう。