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あなたは地球の管理人 パート8
  ~神の怒りをとどめる者になろう~

2015年7月5日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
創世記18章20節〜25節

『そこで【主】は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、【主】の前に立っていた。アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。』

 ハレルヤ!おはようございます。こうして、みなさんと共に、雨の中ではありますが、主を礼拝できる事を、心から感謝します。みなさんのお祈りに支えられ、主が助けてくださっていることを感謝します。先週は、「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」というメッセージをさせていただきましたが、良くしてくださったことを忘れず、常に記念とし、日々、歩んでいきたいものです。

 先週の教会は、大変忙しい週でした。月曜日には院南枡江姉妹の召天式がありまして、すばらしい召天式となりました。
 教会は、いつも申し上げていますように、大変便利な場所です。葬式と結婚式を同じ場所でできるからです。棺が置かれた所に、花嫁さん、花婿さんが立つわけです。
 昨日は、祈り待ち望んでいた佐野満さんと、結実さんの結婚式がありました。盛大でした。すごかったです。今日は、お二人は来られていますか?おめでとうございます。

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 私が撮った写真をお見せしましょう。満君は、ガッツポーズを取っています。
 「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます。」とありますが、クリスチャン・ファミリーはすばらしいです。何十年か経って振り返ると、主が行ってくださった勝利の石塚がたくさん見えます。
 佐野家も伊藤家も、クリスチャンファミリーです。以来、何十年も経つのです。

 うちの孫もフラワーガールでデビューしました。ありがとうございました。孫が結婚する時は、おじいちゃんはどういう気分なのでしょう。
 聖書に、こんな言葉があります。これが結婚の基本です。創世記二章二十三節〜二十四節、

『人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。』

 神は初め、男を造られました。その後、男から女を造りました。すべてのほ乳類は、メスはXX遺伝子、雄はXY遺伝子です。

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 ということは、男にしかY遺伝子はありませんから、女が先では男は生まれないのです。
 しかし人間って、母親の体に形造られる時は最初、機能的には女だというのです。それをホルモンの働きでガツンガツンと壊して、男を造りあげるというのです。そうすると、どうなるかというと、こういう具合になるのです。

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 女はスイッチがいっぱい付いているのですが、男は、スイッチが取り払われ、一個だけになるようです。ちょっとジョークも含んでいますが。でも元々は、男が始まりです。おもしろいです。
 結婚すると大変です。スイッチがこんなに付いた女性と、一個しかない男性が一緒に生活するからです。私もよく分かります。家内は何でこんなに、たくさんのスイッチが付いているのだろうかと思います。私は分かっていないことがたくさんあるのです。家内によって助けてもらえるわけです。男性は、助け手として女性を造ってもらったのです。結婚は、本当にすばらしいです。
 これから二人にもいろいろあるかもしれませんが、神が結び合わせたのですから、必ずうまくいくのです。二人のスイッチが合体すると、普通ではできないことができるわけです。

 今日は、大変感謝なことに、礼拝後、洗礼式があります。それも一家揃ってバプテスマを受けるのです。ちょっと前に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と話しました。看守の一家が揃って洗礼を受けたことをお話しさせていただきました。今日は酒井孝典さんの一家が揃って、四人家族ですけれど、洗礼を受けられます。すばらしいですね。後から紹介したいと思います。こんな幸せなことはありません。
 いろんな事があって、イエス様と出会うわけですけれど、教会は、大きな家族だといつも申し上げていますが、今日は、「リバイバル感謝報告会」もあります。一年間、主が新城教会に行ってくださった、感謝をまとめて、みなさんにご報告させていただく一時です。毎年六月に行っているのですが、今年は沖縄ミッションがありまして、七月にずれこんで申し訳ありません。二〇一四年、主が大きく祝福してくださいました。私は、その中で、「ごあいさつ」の部分を書かせていただいたのですが、次のように記しました。

<ごあいさつ>

 主の御名を讃美します!
 今年も、「リバイバル感謝報告書」を、愛する兄弟姉妹にお渡しできますことを、心から感謝いたします。

 二〇一四年度は、今までになく、主が霊的領域の理解を広げてくださった記念すべき年となりました。
 まず第一に、私たちは「地球の管理人」であるということです。神が世界を創造されたとき、自然界の法則をも創られました。しかし神はその上に、超自然の支配権を人にゆだね、管理するよう命じられたのです。何という光栄ある立場として、人は創造されたことでしょう。委ねられた領域を、忠実に管理する教会になりたいと願っています。

 第二に、神の国到来についての理解です。主を信じるものたちは、地上でどんな苦しみがあっても天国に行ける、それを目標に歩むのがクリスチャン人生であると理解していました。それは間違いないことです。
 しかし神の国は、他の天体に出来るのではなく、この地球に、見える形でやがて到来するものであるという、確かな理解です。

 第三に、私たちは自分の夢を叶えるために存在しているのではなく、「主の夢を叶えるため」に存在しているということです。そして、主の夢とは、「主の再臨」です。

 一九九二年に霊的戦いが開始されて以来、ただひたすらに、主の命じられた戦いを戦い抜いてきました。しかし、そのゴールがはっきりと見えたのが、二〇一四年でした。
 霊的戦いが終結する日、それは、主が再び戻って来られる日です。その日は、もしかしたら間近なのかもしれません。

 もしも一つだけ、主が、私の夢をかなえて下さるのなら、それは「新城教会に属するすべての兄弟姉妹が、生きているこの世代のただ中に、主がお帰りになる」という事です。

 今まで、新城教会を愛し、支えて下さった兄弟姉妹お一人ひとりに、こころから、感謝を申し上げます。すでに始まった二〇一五年度、主の夢を叶える為に、力一杯、働いていきたいと願っています。主に栄光と賛美を捧げます。

マラナタ、主よ来て下さい!

 新城教会 主任牧師 滝元順


 このように書かせていただきました。二〇一四年は、主が大きく霊的理解を広げてくださった年ではないかと思います。もしかすると、主が帰られる日が近いのかもしれません。私たちには地球の管理人として、主が帰って来られる日まで、任された領域を管理する働きが委ねられています。しばらくこの題をつけなかったのですが、「あなたは地球の管理人!」、パート8になると思いますが、副題として、「神の怒りをとどめる者になろう!」というテーマでお話しさせていただきます。ちょっと重いテーマです。語るのに躊躇する内容もあるのですが、お聞きいただきたいと思います。

 神様は、愛なる方ですが、それ以前に、義なる方です。義とは、罪と完全に対立する反対概念です。神様は一点の曇りもない、罪のない義なる方であるというのが、聖書の主張です。神は愛のみ手をのばしてくださるけれど、人が勝手に行動していると、最終的には裁きもあるというのが、聖書が教えるところです。
 この頃の世界情勢や社会情勢を見たらどうでしょう。人類は、あまりにも勝手なことばかりやっています。誰が見たって、これは正しくないぞ!という事柄がいっぱいです。誰かが決着つけてくれないと、人類はこれからどうなってしまうのでしょう。神様が、「人類ここまで!ストップ!」と、裁かれる日があるわけです。

 聖書には、人類に対する裁きのサンプルが、すでに啓示されています。未来の裁きのサンプルは、どこから見いだすことができるかというと、今読んだ、ソドムとゴモラの街に起こった事件の中に見いだすことが出来ます。
 イスラエルに行きますと死海という、海というか湖があります。塩分濃度がものすごく高く、どんなに金槌の人でも泳ぐことが出来ます。そこに住んでいる魚は全て、塩鮭です。というのは嘘ですが、魚も住めません。死海の下に埋まってしまったと言われる街があります。天からの火で滅ぼされた町があるのです。それがソドムとゴモラです。

 しかし裁きの前に、神様はアブラハムにそのことを告げています。アブラハムは街が滅ぼされることを聞いて、真剣に、街と神との間に割り込んで、とりなしました。しかし残念ながら、このとりなしは聞かれませんでした。
 ここから、神が裁きを行う前に、神の民に情報を伝えられる事。神の民が、神と滅ぼされる街の間に立ち、とりなすことができる可能性を現しています。今後、世界がどのような動きをするのかわかりませんが、私たちは、地球の管理人として、滅ぼされるべき街があったとしても、神とその間に入って、真剣に神と交渉しなければならないのです。「神様!なんとか助けてください!」と。
 ソドムとゴモラの人口はどのくらいか分かりません。古代の町ですから、人口はあまり多くなかったと思われます。現代人は、何万人、何十万人、何百万人というサイズを想像しますが、そんなに大きくなかったと思います。アブラハムは、「もしもこの町に五十人の正しい人がいたら、助けてくれますか?」と交渉を始めました。旧約聖書では、「十分の一は神のもの」という概念があるので、もしかしたら、この町の人口は「五百人くらい」と考える人もいます。しかし、五十人も正しい人はいなかったのです。それで四十五人、三十人、二十人、十人とディスカウントして行きました。
 しかし、残念ながら、その町の滅びは実行されてしまったのです。天から火が降って町の全てが滅ぼされました。

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 ここに絵があります。助かったのは、アブラハムの親戚のロトの一家四人だけでした。しかし、ロトの妻は町が恋しくて振り返ったもんだから、塩の柱になってしまったとあります。助かったのは、ロトと娘たち二人、たった三人でした。町の正しい人は、たった三人しかいなかったということです。アブラハムが十人でやめないで、「三人いたらどうですか?」という所まで食い下がったら、もしかしたら、この街は助かったかもしれません。

 結果はともかく、町のために真剣にとりなして祈る、国のために祈ることは、大変重要なことではないでしょうか。思い通りにならないとしても、とりなしの祈りは、必ず神のみ前に覚えられるのです。
 裁きが実行された後、創世記十九章二十九節を見ますと、

『こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。』

と記されています。滅びは実行されたのですが、『神はアブラハムを覚えておられた。』と記されています。これは何を意味するのかと言えば、アブラハムのとりなしの結果なのです。神の前に出て、「五十人はどうですか?四十五人はどうですか?三十人?二十人?十人!」と交渉した、とりなしの結果です。その結果として、ロトと家族が滅びをまぬがれたのです。アブラハムが神と滅びの間に入ってとりなしたことが、家族を救い出す結果となったわけです。

 ここを見ると、「共同体に対する罪」があることに気づかされます。もしもアブラハムがとりなさなかったら、罪に汚染されない正しい人たちも含んで、町全体が滅ぼされたからです。アブラハムが神と交渉しなかったら、アブラハムの親族も共に滅ぼされたはずです。
 人が犯す罪の重さは神の前には同列なはずですが、罪の特性として、共同体を滅ぼしてしまうような性格を持った罪がある事に気づかされます。それが何かをしっかり知って、町のためにとりなして祈ることが大切です。それが家族の救いと守り、ひいては町が神の裁きから逃れる為の、重要な鍵となるのです。

 ソドムとゴモラの話は、何千年も前の遠い昔の話だと思うかもしれません。しかし、神の怒りは、今もなお、存在するのです。第二ペテロ三章三節〜七節、

『まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。』

 聖書は、「イエス様はもう一度、帰って来ます!その前に神の裁きがある!」と告げています。けれども、人々は、イエス様なんか、帰って来ないし、聖書の言葉も嘘じゃないか!と、勝手気まま、欲望のまま行動しているのが今日、この頃です。しかし人類最初の裁きは、洪水によって裁かれたのです。しかしその後起こったのが、今、扱っている、ソドムとゴモラにおける火の裁きでした。
 新約聖書が告げていることは、『今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれている』というのです。ノアの時代に神が発せられたのと、「同じみ言葉」で、神の裁きは実行されるのです。
 最初は、水の裁き、その後、ソドムとゴモラが火の裁きに合ったように、現代も同じテーマで、火の裁きが待っており、そして、終わりが来る、イエス様が帰って来られるという順序のようです。

 神がご自分の計画を実現される前に、裁きがあるというのが、聖書が教える法則です。ソドムとゴモラの裁きの後、アブラハムに約束の子、イサクが誕生しています。神がアブラハムとの約束を実行する前に、裁きがあったのです。この原則は現代も変わらないはずです。人類に対する最も大きな神の約束とは何か、それは、主が再びこの地に帰って来られるという事です。しかし主が帰って来られる前に、ペテロが述べているように、火の裁きがあると警告しているのです。現代においては、このように話しても、決して、おとぎ話には聞こえません。

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 もしも第三次世界大戦が始まったらどうでしょう。それこそ、世界は薪の山と化することでしょう。人類の中で、文明を継承できる人は、どのくらい残るのでしょうか。また現在、原発が壊れて日本は苦しんでいます。放射能は目に見えない火です。世界中の原発が破壊されたら、人類は目に見えない火によって滅びることでしょう。

 しかし、ソドムとゴモラの裁きの前に、アブラハムが裁きの前に立ちはだかったのです。その願いは叶えられなかったけれど、その後も、主はアブラハムを覚えておられ、彼の親族を救い出して下さったのです。
 イエス様が帰って来られるという、最も大きな計画の直前に、神の大きな裁きがあるというのが、聖書が伝えるところです。しかし私たち管理人は、それを見過ごしてはいけないのです。アブラハムのように、その間に立ちはだかり、「主よ!人類を助けてください!私たちの国を、町を、助けてください!」と、とりなし祈る者でなければならないのです。

 ニネベという町が罪に堕落し、大変なことになりました。その事が、ヨナ書に記されています。ヨナ書一章一節〜二節、

『アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」』

 ニネベという町は、アッシリア帝国の首都でした。しかし堕落して、どうしようもない罪の街となったのです。その時、神は、預言者ヨナを遣わし、「もうしばらくしたら、この町は天からの火で滅びる!」と叫ばせたのです。彼が叫んだことによって、その街の人たちは、子どもから年寄りまで、悔い改めたのです。そして、滅びから逃れたという記録です。ヨナ四章十節〜十一節、

『主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」』

 ニネベの記録は、ソドムとゴモラから、千年以上経ったアッシリアの時代に起きた出来事です。ずっと新しい時代になります。ゆえに、町のサイズもかなり大きくなっています。現代に匹敵するほどの都市が出来ています。
 神様は街を滅ぼそうとしたけれど、ヨナによって、ニネベの町の滅びは中止されました。その時神が言われたのは、「この町には、右も左もわきまえない十二万以上の人間がいる」と言われています。町には悪い人たちもいるけれど、右も左もわきまえない人たち、それは子どもたちのことだと言われます。
 どの街でも、罪はあるけれど、まだ罪に染まっていない子どもたちも、多く住んでいます。しかし、街の罪が大きくなると、子どもたちをも含めて、全体が滅ぼされてしまうことにもなりかねないのです。またここでは、「数多くの家畜がいるではないか。」と、神が動物をも、あわれんでおられます。
 ニネベは助かりました。ソドムとゴモラは滅ぼされました。どちらの場合も、とりなし手がいました。アブラハムとヨナ、神と裁きの間に入って、神に祈った人たちがいたのです。

 イエス様が帰って来られるのが、近いかもしれない今日この頃、私たち、神の民は、滅びと神の前に入り、アブラハムのように、ヨナのように、とりなす使命があります。そのような時代に、今、さしかかっているのではないかと思われます。

 さて、ソドムとゴモラは、どうして滅ぼされたのでしょうか?その原因は何でしょうか。創世記十八章二十節に、

『そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。』

 この街には、「きわめて重い罪」があったのです。また、ヨナ書一章二節にも、

『彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。』

と記されています。やはり、何らかの原因があって、神の裁きが実行されたのです。そこには確かな原因があったわけです。それが何であるかということです。
 一般的には、街の人たちが嘘を言ったり、喧嘩をしたり、泥棒をしたり、人を殺したりと、それらが数多く積み重なって裁かれたように思います。神様が街を見て、「罪たくさんになったな!裁いてやるか。街を壊してやれ!」というようなイメージを持ちます。そうであったら、都会に住むより、田舎のほうがいいじゃないでしょうか。都会は人が大勢で、罪も多く犯されますから、罪の目盛りが早く満たされる気がします。しかし、田舎に住んでいれば、人も少ないですから、多少、罪を犯しても、神の裁きのレベルまで到達するには時間がかかると、案外、そのようなイメージを持ちます。
 しかし、聖書をよく学ぶと、「きわめて重い罪」が、ある特定の罪について語られている事がわかります。そのテーマを扱うのは、なかなか難しいのですが、今日は、勇気を持ってお話させていただきます。心に留めて、祈っていただきたいからです。

 実は、ノアの洪水の後、人類はどうなったかといいますと、ノアの三人の息子、セム、ハム、ヤペテから再スタートしました。セム、ハム、ヤペテという三人から、広がって行ったわけです。私たちも、セム、ハム、ヤペテという三人の兄弟の末裔です。もしかしたら、三人は三つ子ちゃんだったかもしれない、とも言われます。また、セム、ハム、ヤペテと、ハムは真ん中に位置していますが、末っ子だと言われます。何しろ、この三人は、ノアが五百歳の時の子どもでして、ここから人類が再スタートしたのです。

 ノアの洪水は、どうして起きたのか、前にもお話しさせていただきましたが、創世記六章を見ると、その原因が分かって来ます。これは聖書の中で、理解の難しい所だと言われるのですが、創世記六章一節〜四節、

『さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。』

 前にもお話ししたことがあるので、そのメッセージを読んでいただければいいと思うのですが、ノアの洪水の後、人の寿命が、ぐんと下がっています。

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 それまでの平均寿命は九百二十九歳でした。しかしここで、百二十歳まで落ちています。その原因が神の子らと、人の娘の性的関係だったというのです。これは難しい問題ですが、神の子らとは元天使、悪霊のことのようです。悪霊がかかわった性関係により、ネフェリムと呼ばれる人種が誕生したみたいです。それで神は洪水によって、ネフェリムを退治しようとされたと言われるわけです。

 洪水により、人類をリセットしたのですが、今度は、ノアの息子、セム、ハム、ヤペテの中から、また問題が起こったのです。それが創世記九章十八節から二十五節です。ここもまた、難解な箇所です。だいたい、聖書の重要な箇所は難解です。聖書はその理由を、隠しているようにも見えます。理由を直接的に表現していないのです。創世記九章十八節〜二十五節、

『箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」』

 どうでしょうか。ノアがぶどう酒を飲んで酔っ払って裸で寝ていたと。そうしたら、ハムという息子が、親父の裸を見たというのです。そうしたら、ノアがそれを知って、激怒し、『のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。』と呪ったというのです。カナンというのはハムの子どもで、ノアじいちゃんから見れば、孫です。ノアは孫を呪ったのです。こんなこと言われるようなら、親父と一緒に温泉にも入れませんよね。親父の裸を見ただけで、孫まで呪われるからです。実は、ハムの子孫はその後、さんざんな目にあっています。諸悪の根源は、ハム一族です。世界中、大迷惑です。
 これって、本当に訳が分からない箇所です。しかし実は、『カナンの父ハムは、父の裸を見て、』とありますが、ヘブル語聖書は「裸」という言葉を、三種類くらい、場面によって使い分けているらしいのです。

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 私が調べた所によると、「人とその妻とは、二人は裸であった」という、「裸」は通常の裸を表す"aw-rome"という単語です。

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 そして、もう一つ、危害にさらされている裸という単語があります。それは"ay-rome"という単語で表現されているそうです。

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 最後にもう一つ、「恥ずべき性的な裸」があるそうです。それは"er-vaw"という単語で表現され、これはただ単なる裸ではなく、性的な罪という意味があります。実は、ハムが『父の裸を見て』という表現は、三番目の裸の単語が使われているのです。また、この『裸を見て』の『見て』という表現は、レビ記の二十章十七節と、同じ意味合いの表現方法です。

『人がもし、自分の姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘をめとり、その姉妹の裸を見、また女が彼の裸を見るなら、これは恥ずべきことである。同族の目の前で彼らは断ち切られる。彼はその姉妹を犯した。その咎を負わなければならない。』

 ここからもわかるように、「裸を見る」とは、性的な罪を犯すことを意味しているのです。
『カナンの父ハムは、父の裸を見て、』と記されていますが、これは性行為の歪曲表現なのです。これはどういうことなのでしょうか。ハムは、男じゃないですか。ノアは彼の父親であり、男性です。その間に性的関係があったということになります。

 先々週、「霊的戦い専門課程」がありました。そのために祈っていたとき、一つのテーマを扱うように主から言われたように感じて、あんまり気が進まないなと思いながらも、その領域を調べていました。そして、だいたい準備ができた、ただ中に、大ニュースが飛び込んできました。みなさんも、ご存じだと思いますが、これです。

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 「アメリカが同性婚を全面解禁した」というニュースでした。同姓の結婚を、アメリカの法律で正式に認めたというのです。結婚とは、男と女がするものだと、日本ではほとんどの人が考えています。しかし、アメリカでは、同性婚が全面解禁だというのです。アメリカが変わると、日本も必ず影響を受けます。
 この背後にあるのは、「同性愛」というテーマです。今、日本においては、同性愛について話すことが出来ますが、アメリカの教会では、もはや、この話はできないのです。スペインでもできません。私は今週、ジャマイカに行きますが、ジャマイカは世界で最も危ない国の一つですが、そこでもたぶんできないと思います。同性愛の話は、世界中の教会ではタブーとなり、できなくなっています。
 私は毎年、スペインに行くのですが、スペインの教会で奉仕する時に、「何を注意したらいいですか?」と聞くと、「同性愛の事を語らない方がいいかもしれないね」と言われました。同性婚が認められているので、「それが罪だ!」と言えば、法律に引っかかるというのです。「話してもいいけれど、帰りにその人たちが出口であなたを待っているかもしれないよ。気をつけて!」と言われました。私はテレビ放送でその話をしたかったので聞いたのですが、「危ないから気をつけろ!」というのです。
 本当に信じられない事ですが、今、世界では、同性婚が大きなうねりになり、「同姓の結婚を認めろ!」という流れになっているわけです。日本でも、そのムーブメントは、かなり盛り上がっています。しかし私たちは、どんな時代が来たとしても、聖書の言葉を基準としなくてはいけません。罪は罪なのです。
 この頃教会で、罪について語れなくなったと言われます。教会は罪という言葉を使えなくなって、「過ち」とか、「失敗」という言葉を、罪に代わって使うようになったというのです。しかし、聖書は、はっきりと罪は罪と告げています。

 実は、ソドムとゴモラは、どうして滅ぼされたのかというと、同性愛だったのです。同性愛が普通のようになってしまったことが、裁きの引き金となったのです。しかしその原点に、ハムの罪があるのです。ハムが同性愛者だったと仮定して、聖書を読んでいくと、なるほどと分かるのです。
 実は、ソドムとゴモラは、誰が作った町かというと、ハムの子孫が作っているのです。同性愛者ハムは、バイセクシャルでしたので、クシュを産んで、ニムロデという世界で最初の権力者が生まれます。そこからバベルの塔が建てられ、人々は世界に拡散して行きました。日本人もハムの末裔に含まれるのです。そしてハムの子ども、カナンの氏族から、ソドムとゴモラという、同性愛者たちの町が出来たのです。やがてその街に、神の裁きが下ったのです。
 実はこの旧約聖書の概念は、新約聖書にもちゃんと受け継がれています。それがローマ人への手紙一章に記されています。ローマ人への手紙一章十六節〜十八節、

『私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。』

 ローマ書一章十六節から見ると、「真理をはばんでいる人々がいる」というのです。私たちが真理を伝えても、全然通じない、真理をはばんでいる人々がいる。そして、その事柄に対して、神の怒りが天から啓示されているというのです。そして神の怒りが町にある!その事は、すでに啓示済みだというのです。
 ここは「義人は信仰によって生きる」とあるように、パウロはアブラハムのことを意識して記しているのです。パウロは、ソドムとゴモラ事件を意識して、ローマ書一章を記したと思われます。
 続けて二十四節から見ると、こうなっています。ローマ人への手紙一章二十四節〜二十七節、

『それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。』

 ローマ書の一章で、「真理をはばんでいる人々」、「神の怒り」、「それはすでに啓示済み」とは、「ソドムとゴモラ事件」のことです。それに続いて語られているのが、「同性愛の罪」についてです。

 今や世界は、夫婦関係も壊れ、さらにオーバーランして、同性愛の世界になってしまったのです。そうしたら、社会は成り立たなくなるのです。実際、子どもだって生まれないです。私たちは、様々な情報に接していますが、甚だしい神の怒りに触れる罪がどういうものかを知る必要があります。それが「同性愛」なのです。この罪が、火の裁きを招く、最も大きな要因となるのです。そのことを知って、神の前にとりなし、祈らなければいけないのです。
 それは共同体に関わる罪だから、町全体が滅ぼされたり、国全体、いや、最後には世界が火の裁きに合う危険性があるというのです。
 先週、アメリカで同性婚が認められた!というニュースを見て、「そんなこともあるんだ。」と、簡単にスルーしてはいけないのです。本当に、世界は憂うべき状態になったのです。放っておけば、日本も遠からず同じようになります。今こそ、日本のクリスチャンが、真剣に祈らなければならないテーマなのです。

 でも一つ、混同しないようにしなければいけない、テーマもあります。それは「性同一性障害」と「同性愛」との違いです。これを混同するとおかしくなります。その違いは次のようになります。

 『性同一性障害は、しばしば同性愛と混同されることがあるが、これらは概念が異なり、両者には根本的な相違がある。同性愛は「恋愛の対象がどちらの性別であるか」の性的指向に関する概念であり、性同一性障害は、自己の性の意識がどちらの性別であるかの性同一性に関する概念である。』

 ある人は、生物学的には男でも、心が女性の人がいるのです。自分のアイデンティティーを、男じゃない!女じゃない!という障害を持っている方々がいます。これは遺伝子の問題が関わっています。
 しかし同性愛とは、「自分は男性。自分は女性」という、しっかりとしたアイデンティティーはあるけれど、恋愛の対象が同性なのです。同性愛とは、性的嗜好そのものです。そこには、口にはできない、汚れた性的罪が関わっているのです。
 それが今、世界に広がっているのです。私たちがこの現実を知り、とりなして祈っていかなければいけないのです。

 私は、日本では、あんまりないのかと思いました。でも今回、霊的戦い専門課程があって調べてみました。この近所を調べたら、その罪がいっぱいありました。同性愛者たちが同性間で性的罪を犯す為の出会いの場所を「ハッテン場」と呼ぶのですが、その情報はネットにいっぱいです。みなさんが住んでいる町にも、必ず、あるのです。
 霊的戦い専門課程では、そういう場所に行って、とりなして祈って来ました。二十人くらいの牧師やリーダーたちと一緒に行ったら、そのような人たちがたむろしていて、本当にびっくりしました。物を見るのは目ではなく、意志で見るんだと分かりました。彼らは、自己の性のアイデンティティーではなく、ただ、同性に対する性的嗜好なのです。欲望です。日本の街々は、すでに同性愛の欲望うずまく街になっているのです。それが今、カミングアウトされて、同性婚が認められるような時代にまでなったのです。

 アメリカで、公立の幼稚園に子どもを送ると、子どもが帰って来て、両親にこう聞くそうです。「お父さん。お父さんはなぜ、男なの?」「お母さん。お母さんはなぜ、女なの?」と聞かれるというのです。だから大変困ると、アメリカの牧師が言っていました。なぜなら、今やアメリカの公立の幼稚園や学校では、両親と言うと、「男+女、男+男、女+女」という三つのタイプがあると教えるからです。

 この罪は、人類のなれの果てです。火の裁きの寸前です。イエス様が帰られる寸前だよ!と告げているのです。この時にこそ、あなたはアブラハムになりなさい!あなたが町の中の正しい人、十人の一人になりなさい!ということです。
 私たちは罪を犯している人たちを裁くのではなく、神の怒りと街の間に入って、「神様どうか、助けてください」と祈るのです。大きな裁きがなくてイエス様が帰られたら、最高です。ニネベのように悔い改めたら最高です。そのために、とりなし、祈る者、これは現代における、最も大きな管理人の役割かもしれません。
 聖書を見る時、性的罪が、恐ろしいものであることが分かりますが、まさか世界が火で焼かれる罪の最大原因が、こんな所にあるとは考えてもみませんでした。さらに、我々が住んでいる地域に、すでにその罪が多くあるとは、まったく気づいていませんでした。私は心を痛めて、主の前に祈りました。「主よどうか、街に対する怒りを取り去ってください!」と。
 新城にもそういう場所があるのです。今まで霊的戦いを一生懸命して、町のリバイバルのために祈って来たけれども、いっこうに動かないのはなぜでしょうか。なぜなら、神の怒りが、町の上にあるからです。町に住むクリスチャンも、神の怒りの下に置かれてしまう側面があるのではないでしょうか。
 しかし、私たちがアブラハムとなり、とりなしていく時に、神の怒りは町から取りさられ、真理を阻む力は破られて、人々が救われ、ニネベと同じように、みんな悔い改め、町が滅びから救われたという記録が後世に残ったら、すばらしいと思います。そのような管理人になりなさいと、主が、今日のクリスチャンに語っておられるのではないかと思います。

 今日はちょっと重いテーマを扱いましたが、もしかしたら、五年後、このメッセージは日本で語れないのかもしれません。なぜなら、日本にも、アメリカと同じように、そのテーマを語れない時代が来るかもしれないからです。その前に、警鐘を鳴らしておかなければなりません。
 今日は、ちょっとショッキングなメッセージだったかもしれませんが、自分の住んでいる町の現実も調べていただき、祈って下さい。神の怒りから町がのがれることができるように、祈っていただきたいと思います。そのような人々も救われて解放されたら、本当にすばらしいと思います。
 アブラハムのように主の前に立つ者になりたいと願います。最後に一言、お祈りして、メッセージを終わらせていただきます。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。あなたは裁きではなく、私たちを救おうとされているお方ですから、感謝いたします。私たちが地球の管理人として、管理しなければならない領域を教えてくださって感謝します。
 主よ、日本にあって、町にある神の怒りをとどめる者となれますように。アブラハムと同じように、町のために祈り、とりなす者とさせてください。また、町の中の正しい者の一人とさせてください。どんなに罪がはびこったとしても、私たちは聖い生活をし、子々孫々、あなたに仕えていくことができますように。
 この教会に結婚式を与え、新しい扉を開いてくださっていることを、心から感謝します。どうか、十字架の血潮で、私たちを聖め、この町にある神の怒りをとどめてください。
 この時を心から感謝いたします。今からの聖餐式を祝福してください。今日、私たちは、罪を悔い改め、神の怒りを取り除いていただく為に、聖餐式を行います。十字架の血潮によって、町を聖めてください。
 イエス・キリストの御名によって、祝福して、お祈りします。アーメン。