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元気を出しなさい

2015年7月12日(日)
新城教会牧師 滝元明
使徒の働き27章22節~25節

『しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。』

 ハレルヤ!今日はドクターの勧めで座って話します。
 感謝なことに、二ヶ月ぶりに新城教会に帰ることができて感謝しています。沖縄に関しては順牧師から報告があったと思いますが、七十日間の集会、その後は九州をずっと回って来ましたが、イエス様の恵みによって本当に懐かしい新城に帰って来ることができて、心から感謝します。

 今日は一つの聖書のみ言葉を学びますが、これはみなさんに対する聖書のみ言葉であって、実は、私自身のみ言葉のように思います。人生においては、いろんな問題がありますね。本当にどうしたらいいのか、そんなような問題があります。
聖書を見ると、使徒パウロは各地を伝道して、最後にローマに行きました。使徒の働き二十三章十一節、

『その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた。』

とあります。パウロはたいへん難しい状態の中で裁判を受けて、最後はローマに向かったわけです。しかし、ローマに向かった時に、非常に大きな天候との戦いというか、十四日間も嵐が吹きまくって、絶望したとあります。聖書を見ると、「最後の望みが今耐えようとしている」と記されています。そこには二百七十数人が一緒にいたわけですが、主がパウロに現れて、「一人として失われることはない。」そして、使徒パウロが会衆に告げたことは、「元気を出しなさい」と励ましたわけです。私もこのみ言葉を読んで、非常に元気づけられました。

 皆様方にお祈りしていただいて、沖縄の七十日間の集会で私がメッセージをしたのは五十五回。その後、沖永良部からずっと回って、最後は福岡まで集会を続けたわけです。正直言って、私は、沖縄の最後のほうになって、たいへん体調を崩しました。六月十八日に大きな下痢をしました。下痢をしたので私も断食をしたのですが、今まで人生で一番長くて十日間とか、十三日間やったことがあるので、どうしたら体調が治るか分かるのですが、おかゆを食べても、何を食べても、すぐに下してしまうのです。非常に体調が悪かったです。

 沖縄リバイバルミッションは何を掲げたかというと、戦後七十年です。七十年前に沖縄は、四月一日から六月二十三日まで地上戦が行われて、二十数万人の人たちが死んだわけです。沖縄で七十日間やることによって日本にリバイバルが来るようにということでやったわけです。
 結果的に沖縄で合計百回くらいの集会をもちまして、すばらしい集会だったのですが、私は沖縄で集会を持つ前から、一つ考えていたことがありました。「これは甲子園ミッション以上の大きな戦いになる。」という考えがありました。霊的な戦いですからね。事実、いろいろと戦いがありました。

 どんな戦いがあったかというと、沖縄に重荷を持って集会開催の交渉をしたのが、上條実牧師です。集会を取るというのは一番難しいことです。私もミニストリーをやっていますから、押しかけ伝道みたいな所があるけれども、そういう戦いの中で、上條牧師の奥さんが病気になって、仕事ができなくなってしまった。非常に激しい戦いがありました。
 沖縄に行ってからも、いろんな戦いがありました。どんな戦いがあったかというと、喉が痛くなったり、契が高熱を出したり、岩井寛君が首が回らなくなったりしました。岩井寛君は、今回の八十五日間全部の集会をサポートしました。ある朝起きたら全然首が回らないようになって、接骨院なんかに行ったりしました。
家内を五月六日から一緒に連れて行きましたが、一軒の家を借りて、そこを拠点に各場所に行きました。ある日家内の耳が突然聞こえなくなりました。補聴器をしていますが、耳鼻科に行ったら、耳糞がたまっているということで、薬を入れて溶かしたりしましたが、それでも全然聞こえない。
 そして六月十八日だったと思いますが、家内が食事の後に、何かに引っかかったと思いますが、ばんっと床にたたきつけられるように倒れました。そして額を六針縫いました。それから鼻に、癌だといわれる大きなでき物がありましたが、そこから血がたくさん出ました。そんな戦いがありました。今は感謝なことに、あまり跡が見えないですが。ぶつかったおかげで、鼻の癌がなくなったみたいです。

 そんな、いろいろな戦いがあったわけですが、私はさっき言ったように、私は六月十八日に大下痢をしてから、物が食べられなくなった。食べたら下痢をする。六月二十三日には沖永良部に行きました。沖縄から沖永良部まで飛行機はないのです。だから船で行きました。ロンさんと、イヴォンヌさんと、私と、岩井夫妻と、四時間半かかって行って集会をして、次にまた船で徳之島に行き、それから飛行機で大島に行き、鹿児島に行って、鹿児島から阿蘇、阿蘇から葦北、福岡に行って、大分に行ったりして、全部やったわけですが、全然食べられなくなりました。
 でも最後まで、戦いだからやり通せるように祈って来ました。一日にほんの少しだけ食べ、集会前には、ほとんど食べないでやりました。しかしイエス様に全て守られて、集会はものすごく恵まれました。断食しながらやるということですから、良い集会でしたね。すばらしい集会が与えられて、どこに行っても、「良かったです。今日は、新しい人が五十人来ました。クリスチャンが三十人でした。」とか、ある教会では牧師先生があまりにも恵まれ、おいおい声を出して泣きました。
 以前ここにいた今栄牧師の所も、六十人びっしり入ってすばらしい集会でした。大島に行っても、ここの神学校を出た人なんですが、信者が五、六人だと思うけど、公民館を借りて、集まったのは二百九十人。非常にどの集会も祝されました。

 だけど、私自身はだんだん体力がなくなっていきました。食べないから。私は考えました。下腹も痛い。それから、お腹がふくれて妊婦みたいに、腹水が溜まったということですね。正直に思いました。「これは末期癌だ。」

それで、病院に行きました。そうしたら、エコーかなんかをやって調べてもらったのですが、結論は、肝臓に影があると言う診断でした。
 それで七月五日に礼拝が終わって、下條先生の所で実行委員会があったので、出る予定だったのですが、実行委員会どころじゃないから、直接新城に帰りました。
私は、今までそんな思いになったことはないけれど、一人で泣きました。「新城に帰りたい。新城の地を踏みたい。」と、新城を思い出して泣きました。

 感謝なことに帰ることが出来、翌日、岩井勝先生の病院に行って診てもらったら、やっぱり影がある。入院して調べないといけないということで、浜松労災病院に行きました。そこには専門の先生で、岩井輝という先生がいます。岩井勝先生の従兄弟なのです。そこに行ってよく調べてもらったら「これは肝臓がんです。大きさがだいたい五センチから六センチです。手術はできません。肺にも転移している。結論から言うと、だいたい半年くらいの命です。」ということで、ある意味において、私は一般的な医学から言ったら、死を宣告されたわけです。

 私にとっては死ぬことは、あまり悲しいことではありません。イエス様にお会いできますから、感謝です。しかし、リバイバルを求めて見ないで死んだじゃ、もったいないし、それで次の日に、県民の森に連れて行ってもらいました。曇りだったけど、誰も来ていなかったから、叫んで祈りました。

 感謝なことに、どういうことか知らないけど、私が癌だとか余命半年ということが、全国で知っているのです。それで祈り会を開いてくださいました。
私だけでなく、ロンさんのためにも祈ってもらいたいですが、ロンさんはアルツハイマーです。それで、ほとんど話さない。英語もあまり出なくなってしまって、演奏は良いのですが、笑いもない。計算もできなくなってしまいました。それからリオネシアという、クリスマスに来た子も交通事故で死にそうになったのです。それで、ロサンゼルスで私のためにも断食しようということで、昨日の夜は向こうでミュージシャン達が十一人集まって、断食祈祷をしてくれました。感謝なことです。
 それから、ホーリネス教会からも「アメリカから祈ります!」とか、「ハワイでも祈ります!」とか、また、日本中で祈ってくださっているのです。西尾の伊藤牧子さんも断食して、真剣に祈ってくださっているとか、沖縄でも祈りの会を作って、私が治るように、リバイバルを見ることができるように、祈ってくださっています。大勢の人たちが、愛してくれて、ここまで来れて感謝です。

 娘が、フェイスブックに私のことを出したら、何人の人が応答してくれたかというと、一万二千五百人が「見ました、祈っています」と、すばらしいことです。韓国のチェ先生も、韓国で私が行った所に全て知らせて祈ってくださっています。
 今朝は、京都から毛利先生が来て私を診てくださったり、岩井先生が今朝、私に点滴を打ってくれて、今は点滴打ったばかりでここに出て来ています。これが終わったら、午後から入院しなければなりませんが、ここまで導いてくださったことを感謝です。

 今、みんなが祈っているから、簡単に死んだら申し訳ないと思っています。だから必ず勝利して、リバイバルを見ないといけないと考えています。
ですから、使徒パウロが生きる希望がなくなってしまったどん底で、「元気を出しなさい。」と告げたように、今日は元気を出して、ここにおります。

 それから、全日本リバイバルミッションと新城教会が、八月十四日に、新城でリバイバル聖会を開きます。分かりやすくいうと、これは生前葬です。しかし、それは切り捨てて、その時には、本当のリバイバルが来るように祈りたいと思います。
 正直言って、これは私にとって大きな霊的戦いです。
 昨日も、私の家で祈祷会を持ちました。孫たちが集まって祈ってくれました。写真が出ますが、

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 孫たちが夕べ、真剣に祈ってくれました。ありがたいことです。一人一人、悪い所に手をおいて祈ってくれました。こんなに孫が私を愛していたかと思うくらい、真剣に祈ってくれました。

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 これは、私のお腹のために祈っている所です。

 それから、ひ孫たちも集まってくれました。ひ孫たちも一人一人手を置いて、「おじいちゃんが元気になるように」と、祈ってくれました。
聖書の中に、「神を信じなさい。山に向かって海に入れと言ったら入る。」とありますから、やはり信じなきゃいかん。私もみんなに、「信じましょう!」と言っているから、信じなかったらいけない。

 ですから、私は考えました。人間的に考えたら難しいけど、旧約聖書を見ると、イスラエルはエジプトに四百三十年間奴隷になっていましたが解放され、徒歩だけで六十万、実際は二百万くらいの人たちが紅海を渡った。すごい神様でしょう。四十日の間、マナを降らせ、天からうずらを送ったり、すごい力を持っている神様だから、みなさんも一つ、日本にリバイバルが起きることを信じてください。信じますか?信じますか?勝利することができるように、祈っていきたいと思います。神様が良くしてくださると信じます。

 結論として、今年は二〇一五年は日本のリバイバルの出発点。二〇一五年は日本において新しいことが起きる。あのバビロンから捕囚された人たちがエルサレムを再建したように、二〇一五年を機して、リバイバルが起きると信じましょう。
 だから一人一人、目を覚ましてもらいたいのです。みなさん、僕みたいに「もう半年です。」なんて言われたら、金なんか魅力ない。貯めたいとも思わないし、美味しいものを食べたって、美味しいとも思いません。一番すばらしいことはやはりイエス様です。恋するイエス様、一緒にいられて感謝です。

 私は家内と六十五年、一緒に伝道した。感謝なことです。これからの期待は、新城教会の中にもリバイバルを見ることです。二〇一五年はリバイバルの年です!ということです。本当に信仰を持っていきたいと思います。

 これから、みなさん覚えて祈ってください。祈っている人たちは、悪くなるために祈る人はいないと思いますから、みんな良くなるように祈っていますから、祈ってもらいたいと思います。
 これで話は終わりますが、僕の話を終える前に牧師先生たち、前に出て来てください。私に手を置いて祈ってもらいたいです。私のために、みなさんもこちらに手をあげて、癌が死滅するように祈ってくださいね。

<牧師たちの祈り>

 ありがとうございました。感謝します。今日は順牧師はいませんが、最初に電話がかかってきて、あちらこちらにとりなしに行ったり、祈ってくれました。すごく愛を感じまして、順牧師が祈ってくれた時には涙を流しました。あんなこと初めてです。

最後までしっかり癒されるように祈ってください。では、私の話は終わります。ハレルヤ!