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ダビデの子にホザナ!

2015年7月19日(日)
新城教会牧師 滝元開
マタイの福音書21章9節~16節

『そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高さ所に。」こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「[わたしの家は祈りの家と呼ばれる。]と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。[あなたは幼子と乳飲み子だもの□に賛美を用意された。]とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」』




 感謝します。今朝、明牧師は自宅で礼拝を守っています。礼拝の前に少しお話ししました。すると、みなさんに今の自分の状況を伝えてくれということでした。食べることも飲むことも難しいような状況の中で、医学的には難しい、でも神様を信じて祈り続けてくださいというのが、今朝のメッセージでした。このような大きな戦い中にありますけれども、すべてを益とされるイエス様が、日本のリバイバル、世界のリバイバルを求めて来た中での一つの戦いですので、みなさんで心を一つにして、主を求め続けていきたいと思っています。

 今朝のみ言葉は、最初にお読みいただきましたマタイの福音書二十一章九節~十六節の所です。もう一度、お読みいたします。




『そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。ところが、祭司長、律法学者たちは、イ工スのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの□に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」』




「ダビデの子にホザナ」というタイトルで、今日はみ言葉を学んでいきたいと思います。

 今日もみなさんと共に賛美を捧げて、私たちの救い主であるメシア、まことの救い主であるイエス様をみなさんと共にお迎えして、賛美することができたことを、心から感謝します。

 「ホザナー!」と、心から賛美しますが、「ホザナ」というのは、どういった意味かといいますと、「神様を誉めたたえます」という意味です。また、「主よ!救ってください!助けてください!」という意味もあります。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」と、群衆は叫んだわけですが、それが旧約聖書の中にあります。詩篇百十八篇二十五節~二十六節、




『ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。』




 大群衆は、イエス様を心からお迎えした時に、「主の御名によって来られる方に!ホザナー!」と叫んだわけですが、「主よ。助けてください。救ってください。」と、叫んだのです。私たちは、賛美の中に住まわれる神様ご自身、イエス様ご自身の御力を、この二〇一五年は、さらにさらに体験させていただきたいなと思います。




 イエス様がエルサレムの地に来たわけですが、これは十字架にかかられる週でした。都に入城した日は日曜日であったようです。ロバの子に乗って入城されました。すべて旧約聖書の預言通りでした。そして入っていくと、大群衆がイエス様をお迎えして、「ダビデの子にホザナー!」と叫びました。

 当時のイスラエル、ユダヤ人たちはローマ帝国の支配の中にありましたので、いつかこの国を再興してくださるユダヤ人の王である方、メシアを心から求めていました。だから、「この方こそが、私たちの救い主だ!メシアだ!ホザナー!」と叫んだのです。

 しかし、なんとその週の金曜日、そのユダヤ人たちが、イエス様を「十字架につけろ!」と叫んで、十字架につけてしまうという事が起こりました。十字架の罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれていたのです。ユダヤ人の王を求めていたのにも関わらず、かけてしまったのはイエス様だったのです。

 しかし、今、私たちが求めているのは、ユダヤ人の王ではなくて、王の王であるイエス様。その方を心から待ち望んで、その方ご自身を心からお迎えする、そのような時が、今この時ではないかなと思っています。




 このみ言葉の中に、「ダビデの子にホサナ。」と書かれていて、イエス様が、入城されて、その後に十二節に、「それからイエスは宮に入って」と書かれているので、その並びの中ですっと行かれたように見えますけれども、他の聖書の箇所を見ると、それは次の日になっているのです。明くる日、イエス様は宮に入って行ったのです。

 そうしたら、売り買いする人たちや、両替人たちの商売の場所になっていて、その状況を見て、イエス様は、何とおっしゃったかというと、「祈りの家のはずの場所が、強盗の巣になっている。」と、そう言われました。

 今、私たちのこの時代には、神殿というのは、どこかというと、私たち一人一人なのです。私たちが神様を宿す神の宮であるわけですから、私たち一人一人の心の中を強盗の巣にさせてはなりません。

 そのためにも、「ダビデの子にホザナー!」と賛美していく時に、神様が私たちを聖めて、宮を聖別したように、私たち一人一人を聖別してくださると信じます。

 そんな中で、み言葉を読んで行きますと、十五節をお読みしたいと思います。




『ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。』




 と書かれています。明くる日、イエス様はその宮に入って、宮聖めをされている時、ある意味、その強盗の巣である、その悪しき者、悪霊どもを追い出すという働きをしているという時に、その横で、「ダビデの子にホサナ。」と歌っていたのです。しかも次の日なのです。大人たちは、その歌はなくなってしまったかもしれませんが、子どもたちの賛美は消えなかったのです。そして、子どもたちが、「ダビデの子にホザナー」と歌い続けた中に、イエス様ご自身の宮を聖めるという働きがなされていきました。これはすごく大きな真理ではないかと思います。賛美をし続けていく中にある大きな勝利が、この聖書のみ言葉の中にも書かれています。そして、十六節に、




『「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの□に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」』』




 これは詩篇八篇二節からの所をイエス様は引用されました。最初、律法学者たちは、イエス様のなされたいろんな事、両替人を追い出したり、売り買いする人たちの台を倒したり、かなり激しいことをされました。またそれと共に癒しもその場所でなされました。そのようなことを見て、すごく腹を立てたのですが、律法学者、パリサイ人たちが、何に対してそれをとどめようとしたかというと、子どもたちの賛美でした。

 イエス様が宮を荒れ果てさせたその状況を見て、「イエス様、なんとかしてくださいよ。掃除してくださいよ。」とは、言いませんでした。「あの賛美を止めさせてくれ。」と言っているのです。賛美の中にある力がどのようなものか。ある意味、律法学者、パリサイ人たちは、その驚異というのを感じていたのではないかと思います。詩篇八篇二節~六節、




 『あなたは幼子と乳飲み子たちの□によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。』




 幼子と乳飲み子たちの□に賛美を用意されたとイエス様はおっしゃっていますが、この詩篇のほうには、『あなたは幼子と乳飲み子たちの□によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。』まさしくその賛美の中で、敵を打ち破るという働きがこの中でなされるんだということを、イエス様はおっしやいました。

 そして、さらに、三節からの所をお読みしたいと思います。




『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』




 このみ言葉は、この二〇一五年になって、何度か語られたみ言葉の一つだと思います。特に昨年から、神様が私たち一人一人に対して、この教会に対して、「私の夢を実現するための教会。私の夢を実現しておくれ!」と、昨年、天野先生を通して語られて以来、私たち一人一人の存在価値が明確化していったような感じがすると思うのです。




 そんな中で、この「人とは何者なのでしょう。」というみ言葉が語られるようになって、私たち一人一人がイエス様の夢を実現するために、またこの地の悪しきあらゆる者を治めるために存在しているんだ!という、そういったみ言葉が与えられました。

 ですから、この二〇一五年が、先週、明牧師が二○一五年はリバイバルの出発点です!」と言っていましたが、その通りのことがなされることを信じて、今、大きな嵐のただ中にあるような状況ですが、イエス様に対する信仰を堅く持って、前進していきたいと思います。




 二〇一五年になって、いろんな事が始まりました。プレイス出版の新規事業が始まって、今日も午後からはアークホームという、お年寄りのための施設ができあがって、そこで賛美も捧げられます。リバイバルミッションの働きも、さらに拡大されています。沖縄に続き、秋にはインドのインパールとナガランドにおいてリバイバルミッションが行われます。今週は、ナガランドから九名の先生方が来てくださって、さらに、このリバイバルの火が、この日本のみならす、全世界に拡がるようにと主がしてくださっています。




 また、みなさんにお祈りいただいて、ザワメキトウエルブも無事発売されて、賛美の中にある力が、さらに解き放たれて、今までサタンに奪われていたリズムもメロディーも八ーモニーも奪い返して、神様に最高の賛美を捧げる時に、わたしは御力を現すよ!と、神様は約束してくださり、一つ一つの働きが導かれていることを心から感謝します。




 実は明日は、中高生の伝道集会「レッツプレイズ」があります。中高生にとっても私にとっても大きな戦いが行われます。ですから、中高生は一生懸命、そのために、毎年祈って、備えて、友達を誘うのです。このような様々な働き、様々な戦い、今までにないような事が起こり始めているまっただ中で、このレッツプレイズがあることも、神様のご計画だなと思っています。

 毎回、中学生、高校生が、何人のお友達を誘うことができるかということで、人数把握をするために、特に食事を提供するので、人数把握をするための動員を数えるのです。それで皆に聞くのですが、今回、ある一人の少年に、「何人来る?」と聞いたら、今それが二曰くらい前の事ですので、今日はどうか分からないですが、「今、確認しているので、五十人です。」と言っていました。だから、マイクロバス二台と、ひょっとしたら、そこの自家用車まで出動することになるかもしれないというのです。




 神様ご自身は、今様々な働きを、いろんな場所で始めてくださっています。小さな働きから、大きな働き、そして全世界にいたるまでの働きが、確実に動き出しているというのが、この二〇一五年だと思います。ですから、私たちはそのことを信じて、主の業が成されることを信じて、堅く立っていきたいと思います。




 十日ほど前ですが、先々週の火曜日、先週、ここで父が言ったように、父が癌の告知を受けました。その時に病院に、私と家内と娘も一緒に行きました。いろんな検査をした後に、いよいよ検査結果が出ました。そしてみんなで医師から病状を聞きました。目の前に大きな画面があり、「今の状況はこういった状況です。」と写し出されるのです。まるで映画のワンシーンを見ているようでした。「これが肝臓です。ここに六センチ~七センチ、これが腫瘍です。」そう言われました。父は、「五センチ~六センチ」と言っていましたが、父が電話で話す時、時々その大きさが変わるのです。いろんな先生に電話されていて、「僕には癌が出来てしまって、八センチ~七センチ。」と言ったり、あるおばさんには、三センチ~四センチ。」と言って、大きくなったり、小さくなったりしていますが、私か聞いた時には、六センチ~七センチの腫瘍かあるということでした。そして、「肺にも転移していて、十ある。ここにも怪しいのがある。」と言われました。

 そうしたら、父が、先生に言いました。「あと何年生きますか?」そうしたら、先生が、「人によって違う。半年から一年くらいだろう。」とおっしゃって、その現実を突きつけられました。

 そして、早速治療するために、病室に行くことになったのですが、またロビーに出ました。宣告を受けてからロビーに出て、私たちは座っていました。そうしたら父が、何を言うかなと思ったら、「すばらしいなあ!」と言い出したのです。この人、この期に及んで何を言い出すのかなと思ったら、「やっぱりクリスチャンはすばらしいなあ。永遠のいのちが与えられている。こんなすばらしいことはない。」と言うのです。死を目の前にして、父がそのような中で、「すばらしい!」と言っているのです。

 そうしたら、そんな中で、看護師さんが、車いすを持って来ました。「そうしたら、今から病室行きましよう。」と言ったら、その時はまだ元気で普通に歩いていたので、その車いすを見て、「えっ!車いすに乗るのか!僕は元気だぞ!」と言うのですが、「いや~、乗りましょうね!」と言って、乗ることになりました。そうしたら。

「生まれて初めて乗る!」とか言って、車いすに乗って。「おい!暁起-。写真、撮ってくれ!」とか言って、ヒースをしているのです。そして病室に入ったら、いろんな看護師さんたちが来るのですが、来る看護師さん皆にこう言うのです。「あのな、私の命はな、あと半年なんだ!」と、明るく言うのです。そうすると、看護師さんたちは。「なんとコメントしていいものか」と言っているのです。本当に永遠のいのちが与えられているという、この大きな祝福というのを、もう一度私たちは覚えなければと思いました。イエス様を信じて、イエス様を信じたら天国に行ける。信じなかったら地獄に行っちゃう。死の恐怖のどん底に陥れられるべく死の宣告が「天国に行ける!」という、喜びのその姿を見て、すばらしいなということをすごく強く感じました。




 それが火曜日で、そして水曜日に一つの処置をして、そしてまた帰って来ました。父は、「なんとか県民の森に行きたい!県民の森に連れて行ってくれ!」と言いました。本当は山の上に上がって、甲子園ミッションにしても、東京ミッションにしても、いろんな大会のリバイバルー・という時には、必ず山の上に上かって祈るので。

「山の上に行きたいけど、あそこの聖霊が注がれた小屋でいいから、そこまで連れて行ってくれ!」と、そう言われました。雨の降っている中でしたが、私と鈴木陽介さんとで、車いすを押して、森の中をすっと進んで行きました。「いや~、綺麗だなあ」と言いながら行きました。一度、腹水を抜いて、随分体力が落ちてしまったので、そこまで行ったのですが、そこで一生懸命祈りました。

 ちょうど雨が降っている中だったので、他のお客さんがいませんでした。ですから、もう本当に叫んで、ます小屋の中で叫んで賛美して祈りました。そして、「じやあ、今から神様から答えをもらうから、あんたたちも答えをもらってくれ。」と言われました。「それは、もらうのは自分でもらってほしいな」と思ったのですが、この際、一生懸命祈ろうと思って、父はその小屋の中でずっと祈っていました。私たちは外でひたすら叫びました。「イエス様ー。助けてください!」激しく叫んで、途中、工事のおじさんが二度ばかり来ましたが、雨の中で、カッパ着て、走り回って歌ったり躍ったり叫んでいるその姿を見て、変な人だと思っただろうと思うのですが、でも、神様は本当に祝福してくださって、祈り終わって、また小屋に帰りました。

 そして、父に答えをもらえたかと聞きました。「もらった」と言いました。「この病が癒されるか。天国に行きますか?まだこの地上に残りますか?」と、イエス様に聞いたそうなのですが、そうしたら、イエス様は何とおっしゃったかというと。 「命はわたしに任せなさい。」と言ったそうです。でも、その次に何と言ったかというと、「命はわたしに任せなさい。永遠のいのちを伝えるために働きなさい。」というのです。

 いつ天に帰ってもおかしくないような、そのようなまっただ中で、イエス様がおっしゃったのは、「永遠のいのちを伝えるために働きなさい。」と言われたそうです。イエス様のすばらしいご計画があるなということを覚えて、本当に神様に感謝しました。

 現実的には、私たちの目の前にある現状というのは、医学的な見地から見て、本当に大変な状況にあり、今は、食べることも、本当にちょっとだけなのです。先週は、すっと病院で過ごしましたが、今回、先週のこの礼拝でも言っていましたが、「孫たちが一生懸命祈ってくれた。ひ孫たちが祈ってくれた。」と、そんな映像も出ていましたが、ずっと付き沿う必要があるので、寝ずの番をする人たちもいるのです。それが全員孫たちなのです。孫たちが東京から来て、自分の仕事の合間を縫って、父の横で、一晩一緒に寝て、一晩中、もちろん苦しいので、その時の処置があったり、マッサージをしたり、いろんな事をしているみたいなんてすが、「真夜中に祈祷会をした!」 「天皇が救われるように、総理大臣が救われるように祈ってた!」とか、「真夜中に二人で賛美集会した!」とか、それぞれの孫たちの報告を受けていますが、神様のリバイバルのご計画というのが、明牧師から、この地で始まって、そしてこの教会の中に繰り広げられて、また全日本、全世界に広かっていますけれども、また、それと共に、子に、孫に、ひ孫にまで伝わっているその姿の中に、「いや~、神様ご自身のすばらしい計画、また始めようとされている計画というのがあるんだな」ということを強く感じました。




 今回、この事を受けて、お祈りいただいて、みなさん、み言葉をそれぞれがイエス様からいただいて、握りしめて祈ってくださっていると思います。

 実は、昨日、父が帰って来て、ここでお祈りしました。その時に、岡本先生が祈ってくださいました。「私か与えられているみ言葉です。」と言って、そして読んで祈ってくださったみ言葉が、詩篇百二十一篇でした。今日、最初に歌った賛美のみ言葉ですが、詩篇百二十一篇一節~八節、




『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

 私の助けは、天地を造られた主から来る。

 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。

 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。

 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。

 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。

 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。』




 このみ言葉を宣言して、お祈りしてくださいました。行くも帰るにも、とこしえまでも守ってくださる。その事を信じて、祈ってくださいました。みなさん、それぞれ祈ってくださって、またいただいたそのみ言葉を握りしめて、信じ切ることが、すごく大切じゃないかなと思います。




 もう一つ、み言葉を紹介したいと思います。これは、私の娘が与えられたみ言葉です。詩篇五十七篇一節~三節(リビングバイブル)、




 『ああ神様、あなただけを頼りにしているこの私を、あわれんでください。嵐が過ぎ去るまで、御翼の陰に潜ませてください。私は、天におられる神様、奇蹟を行なってくださる神様に、大声でお願いします。すると、愛と真実の神様は、天から手を差し伸べて救ってくださるでしょう。私を亡き者にしようと、やっきになっている嘘つきどもから、救ってくださるでしょう。』




 このみ言葉が与えられたと言っていましたが、今、激しい嵐の中で、神様は御翼を広げて、私たちをその中に潜ませてくださっています。その神様は、天におられる神様は、「奇跡を行ってくださる神様です。」と、ここにあるので、私たちはその事を信じて、祈り続け、賛美し続けていきたいと思っています。




 今この時、必要なのは、やはり信仰だなと思います。またその父と言った言葉なのですが、先週、その病室で、「やっぱり最後の最後に残るのは、信仰と希望と愛だ。」と言うのです。信仰と希望と愛だ。三つが、やっぱり最後に残る。いろんな必要な物があるかもしれませんが、私たちに必要なものは、信仰と希望と愛。信仰を持つことというのは、本当にやはり大きなことだと思います。

 今回、父が山の上に上がることはできなかったので、やっぱりその代わりに行こうと思いました。父はよく夜中に上がって祈って、ご存じのように車の免許証がないので、終電で三河槙原まで電車で行って、県民の森の山の上まで行って、一晩明かして始発で帰るということを、昔よくしていました。だから、そこに行きたいんだろうなと思っていたので、「それじゃあ、父の代わりに行って来よう!」と思いました。

 ただ、私は一人で行く、そんな勇気はなかったので、また鈴木陽介さんに頼んで、一緒に行かない?」と言ったら、「喜んで。」と、一緒に行ってくださいました。そして、月曜日の夜に山の上まで登って、山の上で、叫びました。

 私が与えられてしまったみ言葉が、ヨハネの福音書の「あなたの愛する者が病気です。」という、そのみ言葉でした。ラザロが死んでしまうみ言葉だったので、「あなたが愛する明が病気です!」と叫び続けました。でも、その後に、これは死で終わるものではなく、神の栄光のためだ。ラザロはよみがえるので、別に死ぬ必要はないと思いますが、本当によみがえる以上の大きな勝利が現されるようにと、激しく叫んで祈りました。

 そして、父が、癌の悪霊をやっつけてくれと言ったので、そのために祈り出しました。その時、父がいつも山に持っていく杖が二本あるのですが、一本借りて来て、それを持って山に上がりました。そして、「癌の悪霊よ!イエスの御名によって出てけ!打ち砕く!」と祈りだしたら、癌の悪霊いましたよ。本当に。うわっ!いる!と思って、ひたすら、「出てけ!」と、ひたすら祈って、戦って来ましたが、イエス様の御前に、私たち、戦うことは、本当に大切だなと思いました。




 以前は山の上って、激しく叫んで祈り続けることをよくしていたのですが、最近なかなかそれがなかったのですが、今回山に登って、祈って叫んで、面と向かってサタンと戦う。いや~、イエス様はここに働いてくださるな。以前は、それにすごく恐れを感じることもあったのですが、「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔は逃げ去ります。」と書かれていますので、私たちが戦うか、戦わないか。立ち向かうか、立ち向かわないか。

勝利は決まっているので、やるか、やらないか。信じるか、信じないかという所にあるのかなと、そんな気がして、もうひたすら戦いました。本当にすごく大きな勝利感を、私自身、すごく感じました。




 山から帰って、「悪魔をやっつけて来た!」という、そんな報告をしたのですが、実は昨日もまた、山に上がりました。それは真夜中ではないのですが、今回ネパールに行く、愛する兄弟姉妹と共に、山に登って、そして、共に祈りました。昨日は十八人プラスイエス様で、十九人ということで、点呼!十八!天を指さし十九!と言いながら、ずっと上がって行ったのですが、みんなで賛美をしながら上がって、彼らと共にそこで賛美をしました。

 今、日本中、世界中で祈ってくださっている祈りがあると思います。今度はこの祈りの答えがどんっと下りて来るように!と、そこに下りてくるように!と、みんなで一生懸命叫んで祈りました。本当に若い世代と共に、叫んで祈ることができました。この時こそ、イエス様は必ず勝利してくださるという信仰を持ち切ることの大切さを感じています。イエス様は癒し主です。癒すか癒さないかは、イエス様ご自身ですが、イエス様の御心は最高で、すべての時を握っておられるイエス様なので、イエス様がされることはパーフェクトなのです。でも、私たちには、私たちの願いがありますから。

 「イエス様!癒してください!イエス様は癒されます!」という信仰を持ち切って、信じ切って戦い抜かなかったらいけない!と思います。

 サタンは、恐れを入れ、不信仰を入れてきます。不信仰のゆえに、イエス様は働きたくても働けなくなってしまうので、不信仰を入れられ、もし「癒される!」と、そんなことを言って死んじゃったらどうするの?という、不必要な考えは持たなくていいのです。天に行ったら行ったでイエス様は必ず大きな勝利を現してくださいますが、この際、与えられた信仰の中で、信じ切ることって、大切かなと、すごくそんなことを、私自身は感じています。

 ヘブル書十一章一節~二節、




『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。』




 と書かれています。ですから、見える領域では望みがないような中でも、信仰を持って、それを保証してくださるというのが、信仰なのです。そして、ローマ人への手紙四章十八節~二十一節、




『彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。』




 これはアブラハムに対して主が語った言葉ですね。十九節もお読みします。




『アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。』




 と書かれています。望みえない現状の時に、信じるのが信仰だというのです。これはすごく難しいなと思います。

 今回、一つ、大きく感動したことがありました。お医者さんが父のその病状を説明してくださった最初の時と、もう一度、器官に胃カメラを入れて、治療してくださった時がありまして、その時の映像も見せてくださいました。じっくり私たちは見ることができました。その癌の状況と器官の中で、今こんな状況になっていますという、人間的に見たら、本当に難しいという状況を、事細かに話してくださいました。




 今回、クリスチャンのドクターが四名、関わってくださっているということで、すごく感謝しています。そして、その中のお一人が、今、浜松の労災病院の岩井輝という先生なのですが、その先生もすごく熱心な先生で、甲子園ミッションの時にはクワイヤーの中で歌っておられた方なのですが、そんな先生が見てくださるというのも、神様だなと思います。

 それで、その先生が、その病状説明をずっとしてくださって、「こういう状況です。」と終わりました。普通だったら、「こういう状況です。大変ですね。でもベストを尽くしますからがんばりましよう。」という、それくらいが普通かなと思うのですが、その、もうどうにもならない現状を目の当たりにさせていただいた後、先生がぽろりと言ったのは、「でもみなさん祈ってますからね。癒されるかもしれませんからね。」と言うのです。

えっ!?この場に及んで、「祈ってますからね。癒されるかもしれませんからね。」と、彼がそう言われたのです。私たち以上にドクターは、その大変な現状をご存知なのにもかかわらず、「癒される」と言われる、信仰というのはこれだな!と、本当に強く感じました。

 望みえない時に望んで信じ切ることが信仰なので、この年がリバイバルの出発点となると信じて祈っていきましよう。一人の命をとどめてください!ということだけではないと思っています。日本のリバイバル、世界のリバイバルの、ある意味、リバイバルの原点みたいな人が、病のただ中にあって戦っています。このリバイバルの戦いが進んで来て、この二〇一五年、戦後七十年という大切なこの時、特別、今年の八月十四日に、滝元明リバイバル感謝聖会というのが開かれることになりました。記念聖会ではなくて、リバイバル感謝聖会という名前になりましたが、本当にとても大きなタイミングだと思います。戦後七十年で、八月十五日は終戦記念日という、その前の日に、その聖会が開かれるわけですが、神様が持っておられる、そのご計画が百パ-セント現されるように、信仰を持って、祈り続けていきたいと、本当に思っています。




 最後にもう一つ、お読みしたいと思います。マルコの福音書十一章二十二節~二十四節。これは、明牧師が今年の二月十五日にここで語られたみ言葉です。お読みします。




『イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わす、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』




 このみ言葉を語ったわけですが、私たちはこのみ言葉を信じて、「山よ動いて、海に入れ!」と宣言したいと思います。本当にイエス様はこのみ言葉を通して救ってくださって、永遠のいのちという、すばらしい恵みをすでにくださっていますが、さらなる主の栄光がこの地に現されるために、み言葉の約束をくださっています。そのことを信じて、み言葉を掲げて、今週も主の戦いを戦い抜いていきたいと思っています。




 私は癒されると信じています。昨晩はここでザワメキがありましたが、賛美しながら、一つのことを思っていました。昨日から父は家に来ていたので、そこの扉が開かないかな?と、何度か思いました。「ハレルヤー治った!」と言って、そうやって来ないかなと思っていたのですが、昨日は来なかったのですが、いつのタイミングで父が癒されるのか分からないですが、イエス様ご自身にとって不可能なことはありませんので、信じ切って行きましよう。

 またイエス様はパーフェクトなお方で、悪いことを何一つなさらないお方なので、その方に信頼して歩んでいきたいと思います。いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。信仰をもって、希望をもって、主にある愛をもって、前進していきたいと思います。一言お祈りさせていただきます。




 ハレルヤ。愛する天のお父様。あなたのすばらしい御名をあがめて、心から感謝します。あなたご自身のすばらしいリバイバルのご計画が、この年、用意されていることを覚えて、心から感謝します。どうぞ、主よ、この地に、あなたの栄光を現してください。「ダビデの子にホサナ。」と子どもたちが歌い続けたように、主よ、私たち、あなたを賛美し続ける者であることができるように。賛美の中で、闇の力が打ち破られる業を見ることができるように助けてください。今、主よ、明牧師のお腹の中が癌にむしばまれて、癌の巣になっています。強盗の巣のようになっていますが、私たちは主よ、あなたを信じて、あなたを歌い続けていきます。どうぞ、あなたの御業を現してください。あなたは変わることがないお方であることを心から感謝します。私たちはどうしていいか分からないような状況にありますが、ただあなたに目を注ぎます。あなたご自身が御業を現してください。

 「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」と、あのヨシャパテが歌ったように、私たちが今日、あなたを歌に、あなたの業を成し遂げることのできる者であるように、御心を成し遂げることのできる者であることができるように助けてください。今日の、この恵みを心から感謝し、主に期待し、尊き主イエス様の御名によって、この祈りを父なる神様の御前にお捧げいたします。アーメン