HOME > メッセージバックナンバー > 2015年 > 8月 > 8月2日

勝利の凱旋

2015年8月2日(日)
新城教会牧師 岡本信弘
第2テモテへの手紙 4章5~8節

『しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。.私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。』

ハレルヤ! 主の御名を心から賛美いたします。
今、雅也先生がお話しされたように、今日、私がここに立つ予定ではなかったのですが・・・。順先生がおられれば、ここに立って今までのお礼と感謝を述べ、メッセージを語られるところですが、三十日から、先生をはじめ二十五名の兄姉がネパール宣教に出掛けておられますので、急遽メッセージをさせていただくことになりました。
出掛ける前日、順先生から電話があり、「もしものことがあったら、帰ってくるつもりではあるけど、山の上にいたら帰ってこられないから、その時は、頼む」と言われました。その次の日、病状が急変し、危篤状態になりました。
順先生も覚悟を決めて、病室にいる明先生とfaceTime(いわゆるテレビ電話)で繋いで共に祈り、「ここでネパール宣教を投げ出して帰ることはできない」という話をした時、明先生もそれを受けて、順先生は最後までネパールにとどまることになり、私がここに立っています。
明日は、凱旋式が行われますが、来られた方々のために順先生がレターメッセージをネパールから送ってこられたので、それをしばらくご覧いただきたいと思います。

ビデオメッセージ
<順師>
 みなさん、今日は、私の父、滝元明の凱旋式にお集まりいただきまして、本当に感謝しています。私は滝元明の長男、滝元順です。本来ならば、凱旋式の会場にいなければいけないはずなのですが、今私は、ネパールのカトマンズから八時間くらい離れた山の中にいます。
 昨日、私の父が急変したということで、電話をかけました。「どうしたらいいだろうか」と。彼は一生涯、宣教のために働いた男です。彼は、私たちがこのネパールにおいて宣教活動を継続することを願ってくれました。彼の遺言によって、私たちは、悲しみの中にありますけれども、彼の意志を継いで、あとネパールで一週間の予定がありますが、新城教会からの二十五名の若者たちと、またハワイからも牧師先生が参加され、また韓国、中国、国際的なチームにおいて、今ネパールは大変なのですが、このネパールのサポートと、また宣教の活動のために邁進する所存であります。
 今回、凱旋式には出席できませんでしたけれども、一般的な本葬と言われる滝元明感謝聖会には、みなさんと一緒に、もう一度、彼の意志であったリバイバルを心から願っていきたいと思っております。今日は、本当にお忙しい中、突然のことでありましたが、集ってくださいまして、心から感謝します。天国で父も、非常に感謝していることだと思います。みなさんの祝福を心から祈っています。どうも、ありがとうございました。

<開師>
 みなさん、こんにちは。凱旋式に来ていただき、心から感謝します。私は滝元明の五男の滝元開です。今、ネパールの地から、この映像を録画しています。父のために、みなさんが愛して祈ってくださり、そして愛してくださったこと、本当に感謝しています。
 七月五日に伝道から帰って来て、そして七月七日、私と娘と家内と共に病院に行きました。そして、父の診察を受けて、その診断を聞きました。余命わずかだということを聞きました。そして、その診察室から出て、そのロビーで父が最初に言った言葉は、「すばらしいなぁ!」という言葉でした。「何がすばらしいの?」そうしたら、父が言ったのは、「永遠のいのちを持っている。こんなにすばらしいことはないんだ」と言いました。
 そしてそのまた二日後に、父と、県民の森の山に行きました。父の願いは山の上に上がることだったのですが、広場で一緒に叫んで、癒やしとまたリバイバルを祈りました。祈った後に、父が言いました。「イエス様から答えをもらった。『命のことは、わたしに任せなさい。永遠のいのちを宣べ伝えるために働きなさい。』」これがイエス様から父に語られた言葉だったそうです。そのような中でも永遠のいのちを語り続けることを、伝道者である父が最後の最後まで、そのことを私たちにも伝えてくれました。
 このネパールに来る寸前、私は一日父に付きました。どこを切ってもリバイバル!そのことを叫んでいました。最後に彼が言った言葉の中で、こんな言葉がありました。「開。リバイバルは人間の常識を越えた所にあるぞ。人間の常識を働かせちゃ駄目だ。」と言っていました。神様がこれからなさるリバイバルは、そのような大きなものであると信じています。父の宣教スピリットを受け継いで、主のために、日本のリバイバル、また全世界のリバイバルのために励み続けたいと心から願っています。
 今日、この凱旋式に来てくださった皆様、本当に心から感謝します。どうも、ありがとうございます。

感謝します。
今は、便利な時代で、どこでもいつでも話すことができるし、映像を見ることもできます。
今日、私が礼拝メッセーを変わると言ったものの、まずいことを言ってしまったと思いました。スタッフのみなさんや家族からも、「引き受けて大丈夫なの? 泣かずに最後までメッセージできるの?」と言われましたが、「さんざん泣いたから、講壇では泣かないよ」と言い放ったのですが・・・。
突然変わったので準備も十分ではありませんが、語らせていただきます。

明先生がここでメッセージを語られたのは、七月十二日でした。それから丁度三週間、ある意味、短い間でしたが、病との戦いがありました。
この間、闘病の苦しみがありながらも、先生がいつもリバイバルを叫び、天を見上げ、主を見上げて祈っておられる姿に触れさせていただきました。
私は、だれかが事故を起こして怪我をしても、命にかかわらないのなら、そうたいしたことない。骨を折っても時間が経てば治るし、風邪をひいても数日すれば治るし、どうってことないと、あまり心配しないのですが、今回、明先生のことを聞き、本当に心を痛め祈ってきました。
先生には多くの孫たちがいて、病室では代わる代わる見守っておられました。
かねてから皆さんにも祈っていただいていたアークホームの建物が完成し、この八月一日から入居される方が来られ、九月からはデイサービスも始まっていくという時で、私は身動きがとれないような忙しさの中、病院に行きたくてもなかなか行かれず、何かしてあげたくてもできずに、ただご家族に任せていました。
そんな時、明先生が「信先生に会いたいと言っている」と言われて、いてもたってもいられなくなり、車を走らせ浜松の病院に飛んでいきました。それは、先生が召される一週間くらい前のことですが、それから何度か病室を訪れました。行くたびごとに先生がにっこりして、私を迎えてくれました。

召される四日前、丁度その日は夜、だれも付き添える人がいないかもしれないということを聞き、少しでも行きたいと思い、仕事を終えて夜九時頃でしたか、病室に行くと、この時も先生は喜んで迎えてくださいました。するとすぐに看護士さんが来られて、「点滴打ちますね」といって、手や足のいろいろなところを見ていましたが、血管が浮き出てこず、なかなか入れることができませんでした。看護士さんが、「入りませんね。どうしましょう」とつぶやいていました。その時、明先生が私を指さして「祈って」と言われたので、先生に手を置いて祈りました。すると、クリスチャンではない看護士さんでしたが、「いや~不思議ですね。牧師先生が祈ったら血管が浮き出てきましたよ。これなら点滴入りますね」と言って針を刺しました。「三十分ほどで点滴が終わりますから、終わったら連絡してください」と言われたので、「はい、わかりました。じゃあ、それまで私がついていますから」と答え、様子を見ていました。
すると先生が「トイレに行きたい」と起き上がりました。そしてベッドの横に座って「肩をもんでほしい」と言われたので、しばらくの間、肩や足や手をもんであげた後に、部屋にあるトイレにご自分で立って行かれました。それから少し話をしてベッドに横になり、点滴の中に睡眠剤も入っていたこともあり、先生は眠り始めました。私は先生が眠りについたのを確認して、来られたお孫さんに託して病院を後にしました。
召される前の日の午前中、血圧が下がり苦しんでおられると聞いてすぐに病院に駆けつけました。その時も意識ははっきりとしていて、話すことができました。安心して一度戻ってきましたが、再び血圧が下がってきたことを聞いて、息子の出(いづる)と一緒に出掛けて行きました。その時も先生は、ニコっとして私たちを微笑んで迎えてくれて、祈りのひと時を持ちました。

今日の御言葉は、パウロが、自分の死が近づいたことを悟った時に、自分の愛する弟子である若き伝道者テモテに送ったものです。
七節に「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」と書かれています。
七年前、滝元先生にとっての宣教のパートナーであった田中政男先生が天に召された時、私はこの箇所からメッセージをさせていただいたことがあります。
田中先生が倒れたという連絡を受け、私は明先生と一緒に病院に駆けつけましたが、着いた時にはすでに心肺停止の状態でした。その時明先生は私に、「亡くなったのは仕方がない。今は天に召され苦しみのないところにいるから」と、淡々と話しておられました。しかし、後から先生が、「田中先生を失ったことは、自分の右腕をもぎ取られたような思いだ」と言っておられるのを聞きました。そんな辛い経験をされましたが、先生は田中先生の分もリバイバルのために戦ってこられたと思います。

昨晩、メッセージの準備をしようとしましたがなかなかまとまらず、明日考えようと床についたものの、先生が自分とこの教会にしてくださったことを振り返りながら、なかなか寝付けないでいました。
最近、先生と話した時、私の手を取り、「ありがとう。岡本家がなかったら今の新城教会はなかった」と言ってくださいました。
しかし私からすれば、先生が東京から郷里に伝道に帰って来てくださらなかったら今の岡本家はなかった、今の私はないのです。

前にもお証ししたのですが、私の母がダウン症である兄の康宏を連れて、二十代そこそこの明先生のもとに(教会員も数人しかいなかったころ)、初めて教会の門をくぐったのが今から六十数年前です。そこで、先生から話を聞き、自分の罪を悟り、自分が高ぶっていることを悟り、イエスさまに救われたのです。
洗礼を受けたのは、今から59年前のちょうど今頃でした。その時母は大きなお腹をしていたのですが、明先生から川で洗礼を授けていただきました。そのお腹の中にいたのが私です。それから数日後の八月十四日、私は生まれました。(奇しくも記念会の日が十四日であることは、私にとって感慨深いものがあります)。この時から岡本家の救いが始まり、主の恵みにあずかることができたのです。

先生はこの六十年以上にわたり、日本だけでなく世界中を飛び回り、一人でも多くの魂を救いたいと出会う人みなに伝道し、いろいろな所から招かれ伝道活動をしてこられました。ウイークデイに伝道に行き、週末に帰って来られて、土曜日にはいつもクリスチャンホームの子どもたちを集め、子ども祈祷会をしていました。将来この子どもたちが教会を担い、リバイバルを担うのだという思いを持って、若い者たちの育成に力を尽くしておられました。
私もいつも先生の伝道の話を聞き、献身の思いが与えられ、小学生のころから「将来神さまのために働きたい」という思いが与えられ、今までずっと変わることなく持ってきました。それは、明先生の魂への情熱、本気で子どもたちに教育し、祈ってくださったおかげだと感じています。そのようにして、家族・親族の中に信仰継承がなされてきました。

一九七〇年、東栄町でキャンプが行われ、話し合いがもたれ、日本リバイバルクルセードが発足しました。その時私は高校生でしたが、明先生と田中先生が手を組んで、一緒に様々な所で伝道集会や研修会が開かれ、全国にこの働きが広がっていったことを覚えています。そして、このクルセードを通して、新しい主の業が、主の栄光が現されてきたのを見てきました。
また、明先生はいつも、「よそに与えたら教会が祝福される」と言い、そのことを実践しておられました。一年の大半、いろいろなところに出掛けて行き、各教会の伝道の働きをサポートしてこられました。そのことによって、この教会が祝福されてきたと感じています。

そして、一九八〇年、今から三十五年前にこの会堂が建てられ、その献堂式は八月十五日でした(私は献堂式の前に、この会堂ができて最初の結婚式を挙げさせていただくという恵みをいただきました)。
結婚して三年目、以前からずっと持っていた献身について、明先生に相談しました。その時点で順先生をはじめ、数名のスタッフがいましたし、朝から晩まで忙しいマルイチの魚屋をやっている私から見ると、教会のスタッフはなんて暇なんだと思える状況でした(笑)。ですから、私がスタッフとしてここに入る必要があるのかと思い、「教会は会堂ができ、百名ほどのクリスチャンがいるけれど、この教会に何人のスタッフが必要ですか?」と尋ねました。その時、明先生は、「兄弟、神さまは素晴らしい五百人入る会堂を与えてくださった。でも、この教会が祝福されるためには、五百人の魂が来ても、それをケアできるスタッフがいなければ、神様はここに魂を送ることはない」とおっしゃったのです。それを聞いて、私はこの魂を獲得するために、主のために働きたいという思いで、献身を決断しました。
一九八三年に献身をして数年たった時、教会の印刷の担当になってガリ版刷りをしている私に明先生が、「将来、カラー刷りの印刷機を買って、カラーのチラシで教会の案内をしたり、僕の本がここから出版できたらいいな」と語られました。私は現実的な人間ですから、「先生、そうは言っても機械を買うには何億もかかるし技術も必要だから、到底無理だよ」と答えると、「そんなことはわかっているよ。でも、神様がそのことが私たちに必要だと思っておられるなら、祈ったら必ず与えてくれるよ」と言われました。
先生は何度かそのことを語られたので、これだけ先生が願い、ビジョンを持っておられるこのことを、もし私ができるなら少しでもお手伝いをさせていただきたいと思い、まったくの素人であった私が先生方と相談して、業務用の印刷機を購入しました。ただただ、もっといい印刷物を作りたい、先生の本を出版したいという思いだけで、一九九〇年、プレイズ出版は始まりました。

その翌年、下條先生が甲子園ミッションで集会をしたいと掲げたビジョンを、明先生が受け取られました。私にとっては、それはあり得ないことでした。他の先生方も反対しましたが、主が導き、道を開いてくださり、一九九二年二月、甲子園の近くに事務所がオープンしました。
まず、関西の先生方を集めて話をしに行くことになり、私は明先生と共に出かけて行きました。行く前先生から、「あなたが財務をやってくれ」と言われました。教会の会計をやっていただけの、知識も経験もない私でしたが、師には従わなくてはと思い、二つ返事で「はい」と答えました。でもそれは、その大変さをまったく考えていなかったというか、何も知らなかったから返事ができたと思います。
西宮に行き、そうそうたるメンバーが集まっているその中で、「財務運営を、この岡本にやらせたいと思います」と明先生が言われた時、五十、六十代の諸先生方が「こんな若造に・・・」という顔で私を見られたのを覚えています。私はその時まだ三十五歳でした。これは大変なことを受けてしまったと思いました。
それから毎日毎日印刷をしては、甲子園に何度も通い、その奉仕をさせていただきました。

事務所は据えたものの、計画性がまるでなく、さて何をしよう、何も考えていないというスタートでした。そこで一番に考えたのが、「全国に案内が必要だ。そのためには印刷物が必要だ。プレイズに印刷してもらおう」ということになりました。「印刷するといってもお金は・・・」。明先生が「お金あるよ」と言われました。「いくら?」。「百万円」。個人にとって百万円は大きい金額ですが、甲子園を借りて集会をするにはあまりにも小さな金額です。しかし先生は、「百万円もある」と言われました。「すごい!」と思いました。
印刷をして(印刷代金はたいしたことはありませんが)、全国の教会七千件ほどに送ったので発送費がかなりかかり、百万円が全部消えました。次どうしようかと考えた時、「まず祈ろう」と心を合わせてみなで祈り、全国にも祈りの要請をすると、次の月に百万円の献金が与えられました。そこで、もう一度案内を送ろうと、そのお金を全部使って残金ゼロの状態になりました。でも、そこから、様々な所から献金が寄せられ、大会を含めて一年半の間に約六億円の献金がありました。

多くの祈りが積まれ、祈りのネットワークができ、献金も寄せられ、意気揚々と甲子園の集会を迎えられると思った矢先、一九九二年の二月、事務所開設と同じ時期に、この教会に聖霊が注がれました。素晴らしいことですが、一方で これは、戦いが始まる、戦いが激しくなるというサインでした。
七月に、霊的戦いが本格的に始まり、そのことをとおして教会に分裂の問題が起きました。どうしたらいいのかと思うようななか、甲子園ミッションのための決起大会が各地で始まって行きました。全国七百五十カ所で行われた中で、明先生が半分以上を担ってくださいました。そのため、明先生は一九九二年の八月、九月、十月と、毎週決起大会に出掛けておられて、日曜日に新城におられたことがほとんどありませんでした。週の半ばに一度帰ってきて週末に出掛け、また半ばに帰ってこられるという生活でした。
私たちは、先生が帰ってこられるたびに、今週はこの家族とこの家族が出て行きましたと報告しなければなりませんでした。私は若造でしたので、出て行きたければ仕方がないと思ったりもしましたが、先生はその報告を、何も言わず受け止めておられました。しかし、我が子のように育てた信仰の子どもたちが、一番大事な時に出て行ってしまったことは、先生にとって、大きな悲しみ、苦しみだったと思います。それでも先生は、その一人一人を祝福しておられました。決起大会に出掛け、リバイバルのために、主のために、日本中を駆け巡り、一心に主のために働いておられました。
そんな中、甲子園の本大会が行われました。
屋外で集会を行う場合の一番の心配は、雨です。三日目には雨が降るという天気予報でした。案の定、雨がぽつぽつと降り始めたその時、明先生の申し出により、みなが心を合わせて雨がとどめられるように祈りました。明先生はひざまずいて祈っておられました。主はその祈りに応えてくださり、甲子園球場の上だけ雨がとどめられました。
この大会には、一つの集会に三万人、述べ十二万の人々が全国から集められ、祈り、賛美しました。そこに確かに主の臨在がありました。

私は、一番奥の部屋で財務・運営の働きをしていて、ほとんど球場に出ていくことがなく、人々の様子を見ていませんでした。しかし、すべての集会が終わって門のところに立ち、あいさつをしながら、みなさんが本当に喜んで出て行かれるのを見ました。ここに主の臨在があり、祝福が注がれたことを感じ、それまでの苦労が、大変さが、すべて吹き飛んだ思いでした。今もそこで救われた多くの人々が、献身し、牧師として働き、教会を支えておられる証詞をたくさん聞いています。

私は、いつも先生のビジョンに驚かされ、大丈夫かなという思いでいました。一九九八年の武道館の時もそうでした。その二年前、明先生が「日本の中心の東京で集会をしたい」それも、「十日間やりたい」と言い出されました。一日二日はいいけれど、十日間は長いのではないかと思いましたが、それに対しては、だれも反対する人はいませんでした。なぜかと言うと、順先生も、平岡先生も、武道館が十日間貸すはずがないと思っていたからでした。それは、調べてみると、今まで連続で十日間借りているところはないから、武道館は十日間も同じ団体に貸すことはないという目算からでした。私に交渉に行ってくれと言われ、とりあえず、「一週間で聞いてみましょう」と言うと、明先生はあくまでも「十日間で聞いてきて」と言われ、出掛けて行きました。
事務所の方に、「ここからここまでの日程で、十日間貸してください」と言うと、「今は空いていますが、日曜日を二回はさんで連続十日間、今までひとつの団体に貸したことは一度もありません。でも一応書いておきます。四、五日くらいなら大丈夫だと思いますが・・・」。そして、「一年前にもう一度来てください。その時に空いていたら貸しましょう」と言われて帰ってきて、言われたままを先生方に報告しました。
大会の一年半前になった時、「今から準備しないと大会に間に合わないから、もう一度武道館に行って確約をとってこい」と言われました。明先生からは、「十日間だぞ」と何度も念を押されましたが、私は、十日間は無理だろうなぁと思いながら出掛けて行きました。
武道館に着き、「先日予約したものです。まだ一年半前ですけどどうですか?」と聞くと、向こうの方がスケジュールを確認して、あっさりと「ここからここまで十日間予約していますね。大丈夫ですよ」と言われました。私は思わず、「いや、一週間でいいんですけど」と言ってしまいましたが、「でも、十日間押さえてありますから、いいですよ」と軽く言われ、私は驚くとともに、「すごいなぁ」と、祈りの力をつくづく感じました。
武道館の集会も祝福され、毎日1万人近くの人々が集められ、集会のたびごとに多くの人が決心をして前に出ていかれる光景を見て、涙が出ました。

このように、明先生のビジョンを受けて、そのことをとおして神様の恵みを私自身が受けてきました。みなさんもそうだと思います。

私は生まれた時から、明先生と共に歩ませていただいた中で、明先生のすごさは何かと考えた時、まさしく行いの伴った信仰だと思います。
ヤコブ書二章一四~一八節にはこのようなことが書かれています。

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

まさしく、明先生そのものだと私は思いました。信仰の強い人はたくさんいます。愛の溢れている人もたくさんいるでしょう。しかし、明先生ほど主を愛し、信仰を実践した人がいるだろうかと思います。

先日、平岡先生が明先生の見舞いに行った後、プレイズ出版に寄ってくださり、十四日のことどうしようなどと話し合った後、明先生のことをこんなふうに、しみじみと語っておられました。
「親父さんは、すごい人だよ。名誉欲もなければ、金銭欲もない、そして何よりも清いところがすごいよ。ここまでは、だれも真似することができないね。これまでもそうだけど、これからもこれだけの器は、もう日本のキリスト教会に出ることはないだろう」と。本当にそうだと思います。みなさんもアーメンと言われるでしょう。
私は、井の中の蛙で、新城教会から出たことがなかったので知らなかったのですが、甲子園ミッションをとおしていろいろな教会へ行くと、明先生はこんなに有名な人だったんだと思わされました。しかし、これだけ有名で多くの人から慕われながら、どこまでも謙遜であり、いつでも真実を語り続けた情熱的な先生を、私は心から尊敬し、これこそが神の選びの器だと感じています。

先生の召される前の晩も病院に行っていましたが、帰ってから寝付けずにいた時、明け方、明先生の息が弱くなったと知らせがありました。私はもう一度先生に会いに行こうと、家内と一緒に出掛けようとしたその時、召されたとの連絡が入りました。私はその時は取り乱すこともなく、ある程度の覚悟があったからかなぁと思っていたのですが、すぐに平岡先生が電話をしてこられて、一言「寂しいよな」と言われた途端、留めることのできないほど涙が溢れてきました。本当に寂しいです。

日本のリバイバルを見るまでは、と願ってきた明先生の中には、心残りがあったかもしれません。私たちも明先生の癒しを信じ祈ってきましたので、私の中にも心残りがないと言ったら嘘になるかもしれません。
しかし、今は先生が天に召され、すでにリバイバルの働きは、私たち一人ひとりにバトンタッチされています。
私たちは、これからも後ろを振り返るのではなく、先生が願った日本のリバイバル、魂の救いのために、一人でも多くの人が救われて地獄に行くことがなく、主のもとに来ることができるように、日本に必ず大いなるリバイバルが起こされることを信じています。
またみなさん一人一人に与えられた役割があり、ビジョンがあり、主の働きがあることを覚えて、ただ悲しみにくれることなく、喜んで主に仕え、主の御心を現していきたいと切に願っています。
開先生がビデオの中で、明先生が「永遠のいのちを持っている。こんなに素晴らしいことはないんだ」と語っておられたことを紹介してくださいましたが、本当にそうですね。感謝です。
明先生は、今は、死も、痛みも苦しみもないところで、この礼拝を見守っておられることでしょう。私たちは悲しむのではなく、信仰継承をし、主の業のためになお喜んで仕えていきたいと心から願います。