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神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい。

2015年8月23日(日)
新城教会牧師 上條実
ルカの福音書10章25節~28節

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

 ハレルヤ!久しぶりにメッセージさせて頂けます事を感謝します。
 いつも私と家族のためにお祈り下さり感謝いたします。特別家内のためにお祈りして下さり感謝します。去年の後半ぐらいから少し調子を崩しておりました。地元の病院で検査をして頂きましたが異常がないという診断でした。しかし現状が変わらないため、家内の実家が東京都三鷹市にありますので、そちらの大きな病院で検査して頂いたら分かるのではないかと思い、そちらで検査して頂きました。やはり大きな病院であるため施設も最新のものが整っており病名が分かり、治療をすすめる事ができるようになりました。教会の先生方を始めスタッフの皆さんを始め、兄姉にお祈り頂き癒されつつある事を感謝します。

 そんな中で、先々週は、うちの三男が、Y姉という素晴らしいお嬢さんと、婚約することができました。わが家にとってとてもうれしい出来事であり、なぐさめの時でした。まだ具体的に何月何日に結婚するという事は決定していませんが、若い二人ですので守られますように、お祈りに加えて下さればと思います。

また滝元明牧師の為に愛を持って祈り、支えて頂き、心から感謝したします。
ご存じの通り八月一日早朝、天に召されました。七月三十一日の午前に血圧が七十まで落ちてしまったと言う事で、病院より呼び出しが来ました。私はその日最期まで付き添いをさせて頂きました。私は最期の父の姿を見ながら確かに、イエスキリストは生きていると再確認する事ができました。最期の最期まで祈りと賛美で病室は満ちあふれていました。朝四時四十分くらいに亡くなったのですが、夜中の二時ごろ、もうその時は声が出なかったのですが、私に意思表示をするのです。何?と聞くと口をパクパクしながら何かを訴えていました。私と明牧師の孫たち七人が病室にいたのですが、「水?」とか、「痛い?」いろんな事を聞いたのですが、違うと首を振るのです。私の次男が「おじいちゃん、祈って欲しいの?」と言うと、「うん。」と首を縦に振り七人で代わる代わる手を置いて祈りました。そうしたら満足そうな顔をして、それから少し休むことができました。それまでは苦しくて寝返りばかりしていましたが、ゆっくり休む事ができました。しかし三時すぎ頃から呼吸が苦しそうになり、四時四十三分天に凱旋していきました。八月三日と十四日、二回の凱旋式を行わせて頂きましたが、両日とも猛暑日でした。しかしある方々は炎天下の中、凱旋式に出席する事もなく、駐車場係を担当して下さったり、受付、会場、接待、バスの運転などなど様々な奉仕をして頂きました。高い所からですがお礼を申し上げたいと思います。皆さまの愛と奉仕により、あのような多くの方々が、全国から来て下さり、滞りなく、素晴らしい凱旋式を持つ事が出来ました。心から感謝します。

 凱旋式に来てくださった方々が書き残してくださった芳名帳と、その下のメッセージ欄を一枚一枚拝見させて頂きました。アメリカ・ネパール・韓国また、北海道から沖縄まで全国から来られており、「私は滝元明先生のメッセージで救われました。本当に感謝です。そしてその後、家族全員が救われました。」と書いてあったり、「私は先生のメッセージを通して、主のために働こう決心し、今牧師になっています。」とか、本当に多くの方が素晴らしいメッセージを残してくださいました。そのメッセージを見ながら、滝元明牧師は、主にあって尊い働きをさせていただいたなぁと思わされました。みなさんがお祈りくださって、守られ、主のために働く事が出来たと思い、みなさんのバックアップの祈りがあって、ここまで、八十五歳まで現役でご奉仕ができたんだと思わされました。

 そんな中三月の終わりに、神さまが私に語ってくださったみことばがあります。それは詩篇百二篇十三節のみことばです。

『あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。』

 『今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。』という、このみことばをいただいた時、私は「あっ!これは家内のために与えられた!」と、勝手に考えました。定めの時が来て、癒されるんだと信じました。
詩篇には「七つの悔い改め」というの悔い改めの箇所が七箇所あります。その一つが百二篇になっています。一節から十二節は、苦しみの中で、イスラエルの魂が苦しんでいる様を書いています。この時期はバビロン捕囚の最後の時です。苦しくて苦しくてたまらない状況の中で、十二節から二十二節までは、現実に、今まで孤独であったり、苦しみであったりして、大変であったが、これからは信仰に目を向けて、「定めの時が来ました。いつくしみの時が来ました。」と神を見上げ、信頼する事が書かれています。

 そして、次の詩篇百三篇を見ますと、これは有名なみことばです。詩篇百三篇一節~五節、

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

 神を褒めたたえ感謝し、赦し、癒し、救い、良いもので満たして下さると宣言しています。
百二篇はバビロン捕囚で捕まっていた時でした。百三篇は、バビロン補囚から解放され、自由となった最初の喜びの歌なのです。今年は戦後七十年ということで、良く引用される箇所です。今まで大国バビロンに補囚とされ、もうイスラエルは帰る事が出来ないだろうと思っていました。しかし神の預言通り奇跡の中で、帰還しました。今までこの礼拝でも学んできましたが、この戦後七十年、神様が新しいことを起こしてくださるという約束を信じて祈って来ました。多くの苦しみの中から『今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。』というみことばをもって、定めの時、バビロンから解放され、これからはすばらしい祝福に変わっていくというみことば
詩篇百二篇十三節

『あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。』

このみことばを頂いた直後は家内のことだけを考えていましたが、後から学ぶ中で、今年、戦後七十年に向けての祝福のみことばと感謝しました。さあこれからすばらしい奇跡や、回復、祝福が続いて行くんだと考えていました。日本に、またこの愛する新城教会に、また私の家族に、私に新しいことをしてくださる。

「いつくしみの時が来ました。定めの時が来ました。」

ワクワクしながら神の定めの時を待ち望んでいました。祈っていました。そんな中で、先ほども言いましたように、滝元明牧師が八月一日の朝早くに亡くなりました。私は正直、このみことばを受けていましたので葛藤を覚えました。定めの時、すばらしい祝福が来るというのに、なぜですか?これから幸せ、祝福。解放と思っていたのになぜ?と思いました。私たち滝元明牧師はこの教会を始めた人であり、全日本リバイバルミッションの主幹で、「リバイバル」を求め続けて来た器なのになぜ?と正直、自分の中で思いました。

 そんな中で祈っていく中で、神様が私に語ってくださったことは、「神の名は不思議」「神のなさることは不思議。」ということでした。凱旋式でも語られていましたが、モーセはイスラエルの民を出エジプトさせた人物、そしてバトンタッチしてヨシュアが使わされ、カナンの地に導き入れた。定めの時というのは、私たちの小さな信仰で、「自分の幸せ、この教会の幸せ、日本の幸せというのは、こんなものなんだ。」と道筋を描いてしまっていた。こうなれば神の祝福だと考えていました。しかしそこから外れた事がおきると文句ばかり思うのです。悲しむのです。不信仰ばかりでした。なぜこんな風になるんだ。なぜこんな事になるんだ。主の前に自分が祈っていることは、「どうしてこんななのですか。」と、不平不満、不安ばかりを訴えて祈っていました。しかしそうではない。神の計画を知りなさい。定めの時が来て、今度は新しい時代に入る。神様の計画の始まり。すばらしい祝福の始まり。慈しみの時。定めの時を待ち望みなさい。

『あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。』

 このみことばを覚え、私とこの教会、愛する日本に与えて下さったみことばであると信じていきたいと思います。

 先々週の礼拝で、すばらしいメッセージを滝元順牧師より頂きました。その中でN.T.ライトが書いた「クリスチャンとは何か」というタイトルの本を紹介頂きました。そこメッセージで言われたことは、

『「クリスチャンとは何か」についての定義を書いてある。”バプテスマを受けて教会に加わるとは、神の創造から新しい創造に至り、イエスの死と復活が中心であるような神の物語の中に参加し、神のプロジェクトの一部となることだ。”と定義している。クリスチャンとは何か、それは、神が始められたプロジェクトの一部となることだ。この頃、「神の夢をかなえるために、私たちは存在している!」と話しているが、N.Tライトが主張しているのは、私たちが霊的戦いをやって来た、結論そのものだと思う。』

と語っていました。私はそのことばを聞いて教えられました。自分が思い描いている祝福は、自分の夢。「神様がこうしてくれる。ああしてくれる。」と私たちは自分の心で描いています。
しかし、私たちが神さまのプロジェクトに参加することだと聞き、教えられました。滝元明牧師が凱旋したという事は、この新城教会にとって大きな事でした。今日、私たちは神様の夢を叶えるために救われ、生かされている。神さまのプロジェクトに加わって働く。だから現状を見るのではなく。現状を嘆くのではない。暗闇の力、サタンは目を不信仰側に向けさせ、このような節目の時に混乱させようと挑戦して来ます。私たちは「神のプロジェクトの一部だ」また「神の夢をかなえるために、私たちは存在している!」と信じて、これから慈しみの時、定めの時が来る事。バビロン補囚から解放されたイスラエルの民のように。戦後七〇年の時、詩篇百三篇一節から五節のみことば通りの祝福、勝利が与えられることを信じていかなければいけないと思います。

 今回この礼拝で何を語ろうかなと祈っていたとき、もう一つのみことばが響いて来ました。それが先ほど読んで頂いたルカの福音書十章二十五節~二十八節です。

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」』

その中の有名な箇所二十七節~二十八節

『「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。』

とあります。
私たちは、「神様を愛します。」と言います。また「隣人を自分自身のように愛します。」と言います。しかし本当に、私は今回神様と交わっていく中で、本当神様を心から愛しているのだろうか?また隣人を自分自身のように愛しているのだろうか?と教えられました。神様のプロジェクトの一部になっていく。その神の与えてくださったプロジェクトを私たちが担っていくために、まず始めに、何をしなければいけないか?それはこのルカの十章二十六節から二十八節を語られたような気がしました。

 愛という言葉の反対語は何だと思いますか?憎しみ?そうではなくて、よく言われると思いますが、これは「無関心」です。愛の反対語は「無関心」です。私たちクリスチャンは、知らず知らずのうちに、暗闇の力の罠にまんまとはまり、無関心になってしまっています。眠り込んで神が見えていない状態になってしまっています。マタイ六章三十三節~三十四節

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』

私たちは神の国と義を第一として生活しているでしょうか?私は正直、本当に悔い改めなければいけないと思います。本当に神に対して愛を持っているかと言うと自信がありません。イエス様を愛していくことはみことばをそのまま信じる事。愛する事。しかしそのようにしていきたいと思っていても、現状を見ると、見れば見るほど心配ばかりでした。「神様が約束してくださって、神様がすべて責任を持ってくださる。神が握ってくださるから、あなたがすることは神を第一にすることだ」と分かっていながら、自分は人の言ったこと、ドクターが言ったこと、薬などに重きを置いて、いつも事が起こるたびに、一喜一憂してしまっています。信じ切る事が出来ていません。
今日もう一度、不安や心配を打ち砕き、ただイエスキリストだけが主である事。イエスキリストが暗闇から解放して下さり、勝利を与え、救って下さる神だと宣言しましょう。

 ですから今日、神の国とその義とをまず第一に求めて行きましょう。定めの時が来たのです。イエスキリストのプロジェクトの一部となること。神が始められたプロジェクトの一部となり神の夢をかなえるために存在するものとして、心から主を愛して行かなくてはなりません。

 そしてもう一つの大切な事は、「隣人をあなた自身のように愛しなさい」というみことばです。
滝元明牧師が天に凱旋した後、強く教えられました。「イエス様心から悔い改めます。私を本当の隣人を愛する者にさせて下さい」祈る時を持ちました。
わが家に里子がいますが、ある方は、里子を迎えて育てる事は愛がなければできませんよと言ってくださいました。何か褒められると、自分で愛があるかのように感じてしまうのです。また苦しんでいる方々の為に祈り、ほんの少しだけ行動をすると愛があると思ってしまいます。色々な方々のために祈り、とりなしたり、地域を愛して祈ったりすると、勘違いしてしまいます。隣人を自分自身のように愛することとは、いったいどういう事でしょうか?

 私は家内の調子が悪いと言うと、家内を愛していますので、家内の所にすぐに出かけて「大丈夫か?」と心配したり、対応します。また滝元明牧師が「調子悪い」「危ない!」と言った時、私はすぐに駆けつけ、どんなに疲れていても、夜中でも看病し心配します。「おまえ、妻のためならすぐに駆けつけるじゃないか?」「父が亡くなりそうだと言えば、夜を徹してでも看病するんじゃないか?」「ではもしおまえに敵がいて、その人が亡くなりそうだと言うとき、父親が亡くなるのと同じ心で愛せるか?犠牲を払えるのか?」「隣人を自分自身のように愛しなさい」というみことばが実行できているか?と、私の心に迫り、悲しくなる程でした。私は「違いますよ。家内だから。父だから。」と、家族・身内と隣人とは違うと一生懸命打ち消そうとしました。しかし聖書は「あなた自身のように愛しなさい」聖書は、特別子ども、父親は特別とは書いていない」ルカによる福音書:九章五十九節~六十節

『イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」』

とあります。父の死よりもイエスキリストを愛し、隣人を愛する姿勢がルカによる福音書ではあります。主を愛する事と、隣人を愛するって、すごく難しい。『あなた自身のように愛しなさい。』本当に重いみことばだと実感しました。

 正直、私は愛がない者です。私は父が亡くなり、看護師の方々が、父の体をきれいに処置していてくれている時、これからの段取りなどの考えながら、なぜかフッと今から三十数年前のでき事を思い出しました。なぜそんな事を思い出しただろうと今でも不思議ですが、私はあまり思い出したくない出来事を思い出しました。
私は教会のスタッフをしていました。ある日私の所に電話がかかってきました。誰からかというと、同級生の女性でした。「久しぶり?どうしたの?」と聞いたら、訳の分からないことを色々と話をし、一方的に、電話を切ってしまいました。彼女は精神的にその時病んでいたようです。
これは誤解しないで聞いて頂きたいのですし、今そんな思いは絶対にありませんが、「これで彼女も終わったな!これから苦労するぞ。」と思いました。愛のかけらもありません。他人事なのです。無関心なのです。自分は、全くその人のために祈りもしなかったし、「今同級生が、こんな電話をしてきた。」と、周りの人に言い広めました。「大変だよなぁ?精神的病気になっちゃうぞ。」と彼女を批判し、見下してしまいました。そのことを病院の控え室で思い出したのです。
家内が調子悪いとき、家内の事で、私が語ったような事を言っている人がいたなら、どんな思いをするのか。本当に私は利己的な愛しかないと思い、悔い改めました。隣人を自分自身のように愛しなさい。なんてほど遠い自分だろうと考え、「隣人を自分自身のように愛する愛をください」と祈りました。

 先ほど読んでいただいたルカ十章二十九節から三十七節には良きサマリヤ人の話が出てきます。

『しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

エリコにくだる途中、ある人が強盗に襲われて、裸にされて傷つき、倒れていた。そこに一番最初に通りかかったのは祭司でした。そして次にレビ人でした。祭司やレビ人は口では愛を語っていました。神に仕える人でした。しかし見ただけで反対側を通りすぎて行ったとあります。しかし敵国人であるサマリヤ人は、可哀想に思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してあげた。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡し『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います』とまで言いました。傷ついている人を助けるというのは、彼自身も強盗に狙われる危険性もあります。大きなリスクの中で、敵国の交わることのない、絶交している人であったのにも関わらず、サマリヤ人は、可哀想に思い愛を注いだのです。助けてあげたのです。自分はこのサマリヤ人のような事は出来ないと思いました。どんなにか理由をつけてでも反対側を通りすぎたか、人に頼んで自分は手を出さないものではないかと思いました。
電話をくれた同級生の女性のことを考えながら、「あの時、なぜ、教会に電話をくれたのだろう。」と考えました。なぜ私に電話をくれたのか。イエスキリストに助けを求めて来たのかも知れません。偶然はありません。にも関わらず、自分は全く愛がなく、「もう終わりだ。かわいそうに。」とまで考えてしまいました。本当に申し訳ないことをしたなと思います。すぐにその人の電話番号を調べてかけ直す事もできたはずです。あの当時は、個人情報保護法はありませんでしたから、全部住所も名前も出ている名簿が卒業アルバムにありました。行くこともできたと思います。家の近くまで出かけていて、彼女の祝福と癒しのために祈ることもできたと思います。しかしその当時、私は何もせずに、逆に批判してしまいました。ルカ十章二十五節に、こんなみ言葉があります。律法の専門家がイエスを試そうとして言われたことが、ルカ十章二十五節、

『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」』

と、言っています。そして二十七節を読んでいくと、

『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

とあります。そして、その後二十八節、

『そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。』

とあります。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか?と質問して『神様を愛すること、また隣人を自分自身のように愛すること、それを実行しなさい。そうすればいのちを得ます』と言いました。私は一つのみことばを思い出しました。それは、マタイ三章十節、

『斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。』

 これはバプテスマのヨハネが語ったことばですが、良い実を結ばなかったら切り倒される。斧も木の根元に置かれているとあるのです。
私は隣人を愛していない、愛のない者です。とにかく切り倒されないように愛を持つクリスチャンになりたいと節に願わされました。

いつくしみの時が来ました。定めの時が来ました。滝元明牧師が亡くなったとき、皆がバトンを受け取ったと言っていましたが、ルカ十章二十七節~二十八節

『「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。』

神を愛し、隣人を自分自身のように愛する愛を頂きたいと切に祈らされました。心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、神を愛し、隣人を自分自身のように愛していくこと、このみことばの剣をしっかり握らせて頂きたいと思います。ローマ人への手紙八章二十八節、

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

とあります。私たちは神の計画の中で生きています。今、なぜここであなたは礼拝を守っていますか?ある方は自分の意志で来たかのように考えますが、神の計画の中で導かれています。また私はなぜ今住んでいる場所に住まわせていただいたのでしょうか?それは神の計画の中で住まわせていただいています。「あなたの住んでいる周りの人たちの為に祈りなさい。その地域のために責任を持って祈りなさい!」と、神様が言っているのではないかと思います。
 また、あなたは学校とか職場に通っておられる方もいると思いますが、なぜそこに通っているのでしょう。それは神の夢を叶えるために出かけていると思います。また車で通る道。私たちは様々な道を通っています。しかし意味があってその道を通っています。なぜそこを通るか。それは神がそこを通れと言っているからだと思うのです。

 今日、クリスチャンとは、自分の夢をかなえるためではなくて、神の壮大なプロジェクトの一部となって世代を越え、神のプロジェクトを背負っていく。神様の夢を叶えるために救われたと、先々週のメッセージを読み返し、私たちは、今日、どこに行くにも、何をするにも、神のプロジェクトをかなえるために「遣わされている」ということを信じ、神を信じ、周りの人たちを自分自身のように愛して生活しなければならないと思います。

 以前、滝元順牧師が、社会学者が「人間は相手を三段階で評価して生きている」と言ったことがあります。この様に三つに分けていると紹介していました。

①第一グループは人を「人」と認める領域。

②第二グループは「機械」です。銀行に行くと窓口で入出金の手続きをしてくれます。しかし今では、入出金はATMで十分できます。ゆえに、窓口にいる人は機械と同じ役割だというのです。その人がいないと、自分の生活が成り立たないので重要です。しかし存在評価としては「機械」なのです。

③第三のグループは、人を単なる「風景」としか評価していない。

と紹介していました。「隣人を自分自身のように愛しなさい」と神は言っています。今回第一グループの人は当たり前ですが、今回第二のグループと第三のグループ、機械とか風景になっている人たち対して隣人となり、その人たちを自分自身のように愛しなさいと言われているのではないかと思います。

 父が亡くなったので、この頃父のことを思い出すのですが、時々車に乗せて行くと、突然、交差点で「おぉ主よ!」と祈り始めるのです。何の為に祈っているのかなと思うと、「あの人が無事生まれるように。」と祈っているのです。それは道を横断している妊婦さんでした。私にとっては風景だったのですが彼には、人としてとらえ、その人のために祈りを置いていたのです。その差は、ものすごい大きなことだと思います。

 十年前くらいだと思います。新幹線の車両の種類で、ゼロ系という車両に乗って、父と一緒にリバイバルミッションのミーティングに出かけて行き、ミーティングを終えて、日帰りで新幹線に乗って帰ってきました。私は疲れていまたので、新幹線の中で休んでいました。通路を挟んで斜め前で、一歳くらいの子どもさんとお母さんが折られたのですが、その子どもが泣き叫ぶ声で目が覚めました。お母さんはおろおろして、一生懸命あやすのですが、一向に泣き止まずにいました。愛のない私は、その時何を考えたかというと、「うるさいなぁ。なぜデッキに出て行かないんだろう?非常識な人だと思っていました。すると隣にいた父は立ちあがり、デッキに出かけて行きました。私はトイレかなと思ったのですが、ゼロ系で、覚えている方も多いと思いますが、紙の袋に水をためて戻ってきました。それを持って来て、自分で飲むのかなと思ったら、通路の反対側の奥さんに「おい、これを飲ませろ。」と言うのです。私は、「親父、やめろ。そんなこと、恥ずかしい。おせっかいな!」と思ったのですが、父は「この子は、喉が渇いたんだ。飲ませて見なさい。」と言っているのです。奥さんはキョトンとしているのです。「私は七人も子どもを育てたからな。分かるんだよ。この子はのどが渇いて泣いているんだよ。飲ませなさい。」そして「あそこに座っているのは、私の息子だよ。」と言っているのです。そして飲ませたら案の定、泣き止みました。「私はたくさん育てたから分かるんだ。」とか言い、喜んでいました。奥さんは感謝して、挨拶をし、それで終わりかと思いました。すると今度は、またおせっかいな父が立ち上がりました。そして、どこに行ったかというと、アイスクリームを買って来ました。私と父二人で旅をしているのに、手には、三つのアイスクリームを持っていました。なんで三つだろうと思っていたら、またその奥さんの所に行って、「おい、子どもとあんたで食べなさい。」と、ひとつを渡しているのです。奥さんは「いいです。そんな申し訳ありませんから、いいです。」と断っているのです。私はまたその光景を見て恥ずかしく思いました。なんて変なおじさんなんだと思いました。「この子は甘い物を食べたら元気になるから。」なんて言いながらあげている姿を見て、見も知らずの人に、無料の水ならまだしも、アイスクリーム迄と考えると、若い奥さんもさぞかし父は不審人物に見えたと思います。私も隣にいて恥ずかしくて仕方がありませんでした。皆さんご存じのように、押しの強い父は、その人にアイスクリームを渡し、その後「私はキリスト教の牧師なんだ」と言いながら、カバンからトラクトと本を取り出し、「これ読んでくれ。私が書いたから。」と言って渡していました。
 私は父の行動に恥ずかしさを覚えましたが、今考えると私には機械のグループや風景の人であっても、父には人として見えていました。隣人を愛する行動を取っていたのです。私たちがキリストの愛の中で、キリストを本当にしっかりと信じ、愛し、隣人を自分自身のように愛し、行動していけるクリスチャンになって行きたいと思います。

 自分の身内が調子悪ければ自分自身のように愛します。利益が生まれるとすぐに出かけて行きます。しかし愛のない者にならないように神のプロジェクトの一部を常に担える器となるように、まず「愛」というみことばの剣を握りしめて、働いていきたいと願います。自分の家族の救い。癒し、問題のために祈っていると思いますが、更に枠を神さまによって広げて頂き、自分自身のように愛していける者となるように祈りましょう。良きサマリヤ人のように敵であるような人物にも愛を注ぐ事のできる者となりましょう。神のプロジェクトに参加できる器となっていきたいと思います。またこの聖餐式をいただく時に、私のために命をかけてくださり、救い出してくださったイエス様が今も生きておられる事を心から感謝して、聖餐をいただきましょう。自分を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさいとありますから、愛のないところは、悔い改め、今日、神のプロジェクトの一部を担う器となれる様にお祈りしたいと思います。


 愛する主よ、愛のない者が語りました。赦してください。あなたを愛し、人を自分自身のように愛する。口では簡単に言えますが難しいことです。しかし主よ、私はあなたのプロジェクトに参加したいと切に願います。あなたの夢をかなえる器とさせて下さい。愛を持って働く器にかえて下さい。私のために命をかけてくださったイエス様のすばらしい聖餐を今からいただきます。これを通して、聖霊様、一人一人に触れてください。人間的な努力ではなく聖霊さまに触れて頂き愛ある者として造り替えて下さい。この聖餐を受けるときに聖霊の大きな満たしをいただく事ができますように。愛をいただく時になりますように。今、この聖餐を祝福してください。イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。