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世代を超えて、
神のプロジェクトに参加しよう!パート3

2015年9月6日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ヨシュア記5章13節〜15節、6章1節〜4節

『さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。』

『エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝が守れますことを、本当に感謝します。今も力強いヘブンリーキングダムの賛美を聞いて、励まされましたね。主が共におられます!と力強く歌って下さいました。私たちは主の勇士であると、歌ってくれました。隣の人に、「あなたは主の勇士です!」と、宣言してあげてください。「恐れることはありません!」と言ってください。
 礼拝に来ますと、私たちは日頃の恐れをリセットする事が出来ます。それはすばらしいです。

 しかし近頃、雨が多いですね。なにか、ぼやきから始まっていますが、なぜこんなに雨が多いのかと思います。今日の雨雲の様子を見たら、大きな雨雲が迫っています。

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 雨雲ってやつは、ご丁寧に、日本列島の上で雨を降らします。なにか、濡れぞうきんを日本列島の上でしぼっているような感じです。この夏は雨だらけ。「こんなに水はいらんわ。」と、神様に文句を言いたくなります。

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 今週も、ずっと雨予想です。また雨か…と。外で仕事をしておられる方々は、今週も仕事ができんぞ!という感じです。
 またどうでしょう。台風は、なぜか日本列島近所で向きを変えて、日本列島を横断したり、縦断したりするわけです。

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 見てください。今年の台風、日本をまさに狙い撃ちにしているとしか思えないコースです。日本は割に合わない島だなと思います。

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 地震も見てください。世界で起きる巨大地震の多くが、日本列島の付近で起こっています。近頃、起った地震も、こんなに多く日本近辺で起こっているわけです。

 私たちの祖先はなぜ、日本列島に住み着いたのだろうと思います。今後も気象条件や自然条件は変わりませんから、このテーマは続くのでしょう。日本列島から逃げ出したい感じです。こんなに雨が降っている国は少ないです。秋はさわやかで、家の中よりも外で過ごしたほうが、気分のいい国が多く存在します。外国では、家の中よりも外をうまく使って生活しています。日本はどうでしょうか。みんな家に閉じこもって、庭やデッキを作っても、なかなかうまく利用できません。みんな家の中に閉じこもっているから、子どもたちも引きこもってしまうのかなと思います。なぜ、こんな条件の悪い所に生まれたのかと思います。

 私は来週、もう一度韓国に行くことにしています。十八日に、韓国で、父の追悼礼拝を行うから来なさいと言われました。日本の牧師のために、韓国で追悼礼拝をしてくださるのは、異例なことだそうです。光栄なことです。韓国と日本は、時々敵対していて、感情が良くなく、日本に良い思いを持っていない人がいます。
 日本なんか地震で沈んでしまったらいいんだ!なんて、過激なことを言う人もいます。だから、私はこう話します。「みなさんの中で、日本は沈んでしまったほうがいいと思っている人、いますか?でも、日本が沈んだら、津波はお宅に行きますから。」と話します。日本は、防波堤のような役割の国かもしれません。本来人間は、大陸のほうに住んで、列島には住まないように、神が計画されたのかもしれません。日本列島の上で、地震も、津波も、雨も、台風も、何もかも受け止めて、大陸を守るように作られたのかもしれません。
 しかし、先祖が住んでしまったから、今後も過ごさなければなりません。

 しかし、神様はすばらしいです。悪いテーマを最高に変えて下さるからです。この頃、お話ししていますが、聖書が書かれた目的は何かという事です。聖書にはゴールがあるのです。
 本を読む時、どんな読み方をされますか?本を買って来て、はじめから終わりまで、順序正しく読む方もおられるかもしれません。しかし本をよく読んでいる人たちは、どういう読み方をするかというと、まずは「はじめに」を読んで、続いて、「おわりに」を読んで、それから中身を読むというのです。私はそう聞いてから、そのように読むようになりました。私は本があまり好きではなく、読まなかったのですが、「はじめに」を読むと、著者が何を言いたいのかがわかります。続いて「おわりに」を読むと、結論が書かれていますから、はじめと終わりを掴んでおくと、中身がどう転回しても、結論が頭に入っていて理解しやすいのです。

 聖書も同じです。案外、聖書は、様々なストーリーが時代を超えてランダムに出て来るため、支離滅裂に感じます。いろんな人物が著者で、時代も違うし、読みにくいと思うかもしれません。しかし神が編集された書物ですから、意図があるのです。「はじめに」と「おわりに」を読むと、分かりやすいのです。

 「はじめに」どんな事が書かれているのかというと、それは創世記です。創世記一章一節、みなさん、よく、ご存じですよね。一番覚えやすい聖書の言葉ですから覚えておいてください。

『初めに、神が天と地を創造した。』

 これが「はじめに」です。続いて聖書の最後はヨハネの黙示録ですが、二十一章くらいから終わりについて記されているのですが、黙示録二十一章一節、

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。』

 これが「おわりに」です。天地創造は、創世記で完結しているのではなく、神様は何をなされたいのかと言うと、「新しい天と新しい地を創造する」事です。それが聖書の結論です。
 私たち人類は、どのような役割かというと、新しい天と新しい地の創造という、神の壮大なプロジェクトをサポートする為の存在です。サポーターとして、また、神が記されたシナリオを演じる役者の一人として、存在しているのです。そのことについてシリーズでお話しさせていただいています。「はじめに」と「おわりに」をしっかりと抑えて、聖書を読むとたいへんわかりやすいです。聖書は、新天新地の創造というゴールに向かっているのです。

 そして最悪の状態から、最高の状態を創造するというテーマを持っています。はじめ、神が天と地が創造される前も、地は混沌としていて、闇が地を覆っていました。そこに神の霊が働き始めて、天と地が創造されました。真っ暗で混沌として、秩序のない所から、秩序ある天と地が創造されたのです。
 そして、現在、地球に秩序があると思いますか?ないと思いますか?あるとは思えませんよね。なぜ秩序のない世界になってしまったのだろうか。最悪だ!という感じです。しかし、これで神は終わらないのです。この混沌とした世界を、やがて新しい天と新しい地に創造し直すというのです。そして、以前の悪いものは全て消えてしまうのです。

 教会に来られるきっかけは、どうでしょうか。混沌として、最低・最悪だ!というところから関わり始めることが多いです。しかしそこに神の霊、聖霊が動き始めると、最高のものに変えられるのです。神の計画は新天新地で終結しますから、人生も、そのテーマで動くはずです。最低・最悪が最高に変えられるのです。お隣の方に宣言してあげてください。「あなたの人生は最高になります!」と宣言してあげてください。

 人生の中で最低・最悪は、やはり、人が死ぬことだと思います。人間って、本当に悲しいですよね。ある時は楽しい家庭ができるのですが、命あるものには終わりがあるからです。
 ペットをかわいがっている人がおられるかもしれません。ある婦人が言いました。「私のワンちゃんが死んだ時、主人が死んだ時よりも悲しかったわ!」と。それはひどいなと思いましたが、子猫とか子犬とか、愛しておられる方々は、ちゃんと知っておく必要があります。ペットショップでペットを買った時点で、楽しみも買っていますが、悲しみも一緒に買っているということです。多分、ペットはあなたよりも先に死ぬでしょうから。生きているものは皆、死んでいきます。それは悲しい現実です。愛し合っている家族も、必ず別れる日が来るのです。一人欠け、二人欠けと。やはりショックです。

 先月、父が天国に行きましたが、やはり、今まで近くにいた存在がいなくなると、寂しいものです。私には四人の孫がいるのですが、孫たちにも、父の死は、結構、衝撃的なものだったらしいです。身内の死なんて、体験したことがない連中(孫たち)にとっては、結構な衝撃だったと思います。父にはひ孫が二十一人いました。彼らにとって、これは人生の試練の一つでした。
 私の四人の孫たちは、一番下は三歳、そして四歳、五歳、七歳ですが、下の方はあまり深く考えていないみたいです。この間、息子のところの娘で、たみぃちゃんという、本当にかわいい、ひょうきん娘がいるのですが、父が亡くなった後に息子が、「たみぃちゃん、週末は順じいじのところに遊びに行くよ!」と言ったら、彼女がこう言ったそうです。「えっ?順じいじは死んだんじゃなかったの?」
 私ははじめの凱旋式に居ませんでしたから、たみぃちゃんは私が死んだと思っていたようです。うちのもう一人の孫に言ったら、「ひっどーい!」と言ってましたが。
 私の娘のところに、五歳になる、かたるという、本当によくしゃべる、よく語る娘がいるのですが、ちょっとじじバカですが、彼女は結構頭がいいみたいです。小学校に入らないのに、ひらがな、カタカナ、アルファベット、漢字も少々、読むし書くのです。「いや〜、こいつはすごいかも!」なんて、だいたい皆そう考えると思うのですが、彼女は、私の父が亡くなったのを見て、少なからずショックだったようです。
 「おじいちゃんは天国に行ったよ。」と言っても、そこにはおじいちゃんの遺体が横たわっているのです。「えっ?天国に行ったって言うけど、何でここに寝ているの・・・。」だから、混乱していたようです。親がいろいろと死について説明するけれど、なかなか理解できなかったようです。極めつけは、火葬場につれて行った時です。火葬場では体を焼いてしまうでしょ。五歳の孫は、「おじいちゃん、焼かれちゃうの?熱くないの?」と、混乱したようです。「おじいちゃんの魂は、天国にいるんだよ。だから大丈夫。」と説明しましたが、人生で始めての経験ですからすぐには理解できないのです。ここに肉体はある。でも、天国に行っている。体が焼かれようとしている!どういうこっちゃ?!という感じでしょうか。
 小さな頭で、くるくる、いろんな事を考えたと思います。でも、しばらくしたら、彼女がこう言ったそうです。「あっ!分かった!もう大丈夫!」と。
 「何が分かったの?」と聞いたら、「おじいちゃんはセミと一緒だ!」と言ったそうです。セミって、知っていますか?

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 セミは、初めは幼虫なのです。でも時が来ると、背中が開いて、成虫のセミが飛び出します。

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 しかし抜け殻は置いて行くのです。

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彼女は悟ったらしいのです。「あっ!セミと一緒だ!抜け殻を燃やしたって熱くない。おじいちゃんは天国に行ったんだ!」と理解したそうです。「さすが!」と思いましたが、この地上においてはいろいろとあるかもしれませんが、地上を去った後も、永遠のいのちで生き続けるのです。

 主を信じる者たちは、どこで生きるのかというと、天国です。しかし天国というと、遠い宇宙の彼方のように思ってしまいますが、そうではないのです。天の御国、天国は、あなた方のただ中にあります、あなたの目の前にありますと、イエス様は言われました。
 今日も主の祈りの中で、「御国が来ますように、天国が来ますように。」と祈りましたが、あれは「新しい天と新しい地が、いち早く、目の前に創造されますように」という祈りです。主の祈りは、「私たちは神の壮大なプロジェクトに参加しています。そして、神の計画通りに、この地に、新しい創造がなされ、イエス様が世界の王となり、そこに住まうことができますように。」という祈りです。
 死んだ人たちは、やがてこの地上に戻って来るのです。よみがえって、新しい天、新しい地に住むのです。天国は他の宇宙ではなく、地球に出来るのです。私たちは、そこに住むのです。それを地上に作るために、神は歴史を通して働いておられるのです。
 私たちは、なんのために救われ、クリスチャンになったのかと言うと、この壮大なプロジェクトをサポートするために、クリスチャンになったのです。

 十月に天野先生が今年も来て、聖会を持って下さいます。是非とも、楽しみにしてください。天野先生のメッセージ、本当に恵まれます。去年、天野先生がここに来られて、主からの言葉を語って下さいました。神様がこの新城教会に、『わたしの夢をかなえてくれ』と語っていますよと、言いました。『わたしの夢をかなえてくれ』とは、神のプロジェクトを応援してくれ!という意味です。神様が立てられた壮大な計画の一部となって生きる時、私たちの人生は変わっていくのです。
 クリスチャンになってから起こってきた、様々な出来事を思い出してください。あの一瞬がなかったら、絶対に今日はないというようなことが、いっぱいあると思います。「あれは神がシナリオを書いたとしか説明出来ない」という事が多く起きます。

 先週も、私がどうして生まれたのかについて、お話ししました。東京で、ある人が、私の母と、宣教師婦人に三千坪の土地をタダでくれた為に、教会が建って、近くに住んでいた父が、ふらっと教会に来て、クリスチャンになり、結婚して私が生まれたとお話ししました。そして、その土地をくれたのがパクさんという韓国人だった。日韓併合というような悲しい歴史があったので、新城教会があると話しました。本当に、絶妙なタイミングで神のシナリオは転回していくのです。神様が、一人一人の人生のシナリオライターです。人では考えることができない転回が人生に起こるのです。
 『新城教会六十年の歴史』でも映画に出来るくらいです。これは偶然ではないのです。神様がシナリオを書いたからです。これからも奇跡は起き続けます。
 神様の計画の一部となるならば、人では考えられないストーリーを、神様は考えておられます。人生、二転三転するかもしれないけれど、素晴らしい着地になる事間違いなしです。教会の歴史を見ても、よく分かります。今後、新天新地の創造という神のゴールに向けて、すばらしい計画が用意されているのです。その計画に参加できるなんて、そんな、すばらしいことはありません。

 しかし、イエス・キリストを知らない時代は、どういう計画の中にあったかというと、神の計画ではなく、悪魔が書いたシナリオ通りに人生は進んでいたのです。だから、悪いことが続くのです。どうでしょうか。クリスチャンになる前、悪いことの連続ではなかったですか。ある人には、これでもか!というような悪い事が続きます。それは、神様がシナリオライターではなく、悪魔がライターですから、どうしようもないです。悪い計画が、どんどん実行され、最終的には、永遠の滅びに向かうのです。
 イエス・キリストを信じるとは、人生のシナリオライターが変わるのです。新しい天と新しい地の創造という計画を持っておられる神の手によって、シナリオは変わるのです。すばらしいことが起こるのは、当然だと思います。

 各世代、神様の壮大なプロジェクトをサポートする、サポーターであると、先週もお話しさせていただきました。今日のタイトルも、「世代を越えて神のプロジェクトに参加しよう!パート3!」です。今までのメッセージの内容も読んでいただきたいと思います。神様が、それぞれに役割を分担させてくださり、主の働きを引き継いでいくのです。
 私たちの教会の創立者、滝元明は死にましたが、残されている者たちは、創立者の意志を引き継ぐのではない、と話しました。神様がこの教会に立てられた壮大なプロジェクトを受け継ぐのです。
 父の世代にはその人たちの役割がありました。この会堂、教育館、神学校、本当にうまくできていると思いませんか?北側の道路から南側の道路まで、建築関係の方なら分かると思いますが、なかなかすばらしい建築計画です。しかし建物が全て完成するまでに、三十年近くかっています。普通ではなかなか、このように計画できません。これは、神様が計画してくださったからです。
 各時代に、役割がありました。初期の方々によって、一九八〇年、この会堂は建てられました。一生懸命祈り、捧げてくださったから、この会堂ができたのです。この会堂、今でも新会堂と呼んでおりますが、新会堂でもなんでもありません。三十五年も経っています。本当に古いです。しかし、どうでしょう。古さを感じさせない斬新さがあります。それは、神様が将来を見通しておられたからです。それは一九八〇年代に元気だった兄弟姉妹の、神から委ねられたプロジェクトでした。
 一九九二年、お隣の教育館ができました。その時はその時で、精一杯用いられた世代がいました。今を生きる私たちも、神様が何を託しておられるのかをよく聞いて、役割を果たしていかなければなりません。ただ、教会堂を建てるだけでなく、ゴールは、新しい天と新しい地の創造です。それに向けて、教会が何をしていったらいいのか、主に聞く使命があります。

 先週もお話しさせていただきましたが、出エジプトのストーリーは、天地創造から新天新地の創造という、神の壮大なプロジェクトの縮小版です。そこで起こった事柄をよく学ぶと、今後、神が何を計画されているのかを見てとれます。
 エジプトを脱出するとき、モーセという主役が出て、奴隷となっていたヘブル民族を連れ出しました。カナンの地に連れ戻せ!と、神からの命令を受けて、彼は八十歳でしたが、民を引き連れ、カナンの地に向かいました。
 しかしながらモーセは、カナンの地を目の前にして死んでいくのです。ネボ山という、カナンの地がよく見える山の上で、彼は百二十歳で死にました

 しかし、ヘブル民族をカナンの地に連れていくという神の計画は、決して終わりませんでした。次のリーダー、ヨシュアと、新しい世代が受け継ぎ、カナンの地に入国したというストーリー、これは神の壮大なプロジェクトの縮小版です。聖書が出エジプトのストーリーを重要視しているのはそのためです。

 イスラエルの人たちは、カナンの地に入るのに、四十年間かかりました。結構長いです。イスラエル旅行に行った方なら分かると思いますが、シナイ山というモーセが律法をもらった山からイスラエルまで、バスで、ほんの半日くらいです。砂漠を通過して、エイラットという国境の町に着くのです。
 しかし、実に四十年間イスラエルの人たちは荒野をさまよったのです。その四十年間は、辛い辛い四十年間だったとメッセージでよく聞きますが、私はそうは思いません。結構、四十年間は楽しかったのではないかと思います。なぜなら、神様が水も、食べ物もすべて用意してくれたし、服や靴もすり切れなかったし、マナばかりを食べていて、飽きて文句を言うと肉もくれたのです。遊んで暮らせた40年でした。私は現地に行ってみて、イスラエル人たちは結構楽しかっただろうと思いました。他にやることがなくて、四十年間、遊んで暮らしたようなものですから。
 それが証拠に、今でも、出エジプトのテーマとなった荒野には、ベドウィンという遊牧民たちが住んでいます。遊牧民の人たちは羊とか山羊を引き連れ、季節に合わせて、牧草に合わせ、砂漠を旅しています。荒野をぐるぐる回っています。
 イスラエル政府は、遊牧民たちをなんとか定着させたいと考えているようです。政府の人たちが遊牧民の所に行って「遊牧民のみなさん、政府があなた方のために、すばらしいアパートを作りましたから、どうぞ住んでください!」と言うそうです。ホテルなら五つ星クラスの豪華なアパートを建てて、「まずはお試しコースで一週間くらい住んでください。」と遊牧民たちをアパートに入れるというのです。
 一週間経ってから、政府の役人たちが覗きに行くと、彼らはすばらしいアパートには住んでいなくて、庭にテントを張って暮らしているというわけです。政府の役人は、「何をしているんですか!五つ星クラスのアパートを作ったのに、なぜ、外に寝るのですか?」と聞くと、遊牧民たちは言うそうです。「アパートは五つ星かもしれないけれど、外は満天の星だ!」と。
 結構、外で暮らすのは楽しいみたいです。

 荒野での四十年間、神ご自身が一緒におられるのを、常に見せてくれました。先週もお話しさせていただきましたように、昼は雲の柱、夜は火の柱で、神はご自分を現されたのです。

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 これが荒野を旅したイスラエル十二部族の様子の想像図です。真ん中に神様を礼拝する幕屋と呼ばれる神殿があり、その周りに十二部族がテントを張っていました。このようなフォーメーションで荒野を進んで行ったわけです。昼は、幕屋から、雲の柱が立っていたのです。だから、人々がそれを見れば、「主が共におられる!」と、すぐに分かったのです。夜になれば、雲の柱は火の柱にかわり、真っ赤に燃えたのです。誰にでも見える形で、神がご自身を現されたのです。
 みなさん、どうでしょうか。もしもこんな人生を体験できたら、すごいじゃないですか。神が共にいることが、常に目で確認できるからです。そんな人生なら最高です。四十年間、荒野から、他の場所に移りたくなかった理由がなんとなく、分かるような気がします。

 しかし四十年が過ぎて、モーセが死んだ後、何が起こったかについても、お話しさせていただきました。雲の柱も、火の柱も消えてしまったのです。また、今まで降っていたマナも、降らなくなってしまったのです。自分でカナンの地から食糧を得て、食べなければならなくなったのです。神様はどこに行っちゃったのか!という感じです。
 しかし、そんなある日、リーダーのヨシュアの目の前に一人の男が現れました。それが、ヨシュア記五章十三節〜十五節、

『さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」』
 それを絵にしたのが、こちらです。

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 ちょっとこれを見ると、イメージが悪くなるから、ただの参考にしてくださいね。
 ヨシュアはその人が誰なのか分からなかったのです。神様といえば、雲の中、火の中におられると思っていたのが、カナンの地に入ったら、姿が全く変わってしまったからです。「あなたは敵なのですか。味方なのですか。」と聞かなければならない姿代わりでした。

 クリスチャン生活が長くなると、「神様はこんなもんか」という、一つの固定概念みたいなものが生まれます。そうなると、そこからなかなか離れることができなくなります。しかし神様は、固定概念で表されるような、ちっぽけな方ではなく大きな方です。神様が持っておられる役割に則した形で、私たちにご自分を現わされるお方です。ヨシュアの世代に、どのような使命が課せられたのかというと、カナンの地の奪還でした。かつて祖先が住んでいた頃のカナンとは、様変わりしていたのです。だから、神様は、ヨシュアと若い世代に、カナンの地を奪還する使命を与えたのです。

 一九九二年、ちょうど甲子園ミッションの前の年でしたが、突然力強く聖霊様が私たちの所に訪れて、霊的戦いが始まったのです。その時、本当にとまどいました。
 その時に現れた神様の姿は、今まで私たちが想像していた姿とは、全く違った軍の将のような姿で現れたように感じました。この世界は、誰の支配下にあるのかと言うと、悪魔の支配下にあるのです。私たち人類がその事に気づかない限り、悪魔の思うつぼです。悪魔は、私たちに、偽りというテーマで近づいて来ます。私たちを騙して滅びの道に連れて行きます。
 しかしその日から主が悪魔の偽りを暴き、この地を悪魔の手から奪還しなさい!と語ってくださり、早、二十数年が経過しました。

 その後、主が何を語られたのかというと、ヨシュア記六章一節〜四節に記されています。軍の将として現れた主が、ヨシュアの世代に願われたことは、エリコという町を勝ち取ってくれ!ということでした。
 ヨシュア記六章一節〜四節、

『エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。』

 現地に行くとよく分かりますが、荒野を旅したイスラエルが、カナンの地に入る場合、エリコ。英語でいうと「ジェリコ」という町を勝ち取ることでした。
 この町にはオアシスがあって、強い民族が住んでいました。そこを攻め取らない限り、西に進んでカナンの地全体を手に入れることは決してできない、どうしても避けて通ることができない戦いがジェリコの戦いでした。
 ある意味、私たちも、イエス・キリストを信じる時に、どうしても避けて通ることができない戦いがあります。その時、勇気を失ってはいけないのです。それを勝ち取る時、あなたにとってのカナンの地が手に入るのです。

 エリコという強大な町をどうやって勝ち取るのか。それは大きな問題でした。すでにエリコの住人たちは、戦争の準備を整えていました。イスラエルの人たちが荒野を旅して、この町に入って来ることが事前に分かっていました。六章の一節に、

『エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。』

 完璧に準備を整えて、緊張感が伝わってきます。しかし、戦いを前にして、神が語られたのは、『見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。』と、言われたのです。
 私たちには時々、信仰の戦いがあります。「これを越えなければどうにもならない。」という信仰の戦いがあります。しかし私たちが主と共に立ち向かう時に、戦いが始まる前から主は、私たちに語ってくださるのです。「わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」と。
 すでに、敵をあなたの手に渡されていますよ!と。神様の壮大なプロジェクト、新しい天と新しい地に向かって、様々な戦いがあるかもしれないけれど、すでに神はあなたの手に敵を渡したと。霊的戦いは、戦う前に決着がついている!ということです。

 しかし、この戦いを戦うためには、神様の方法通りに戦う必要がありました。エリコの兵隊たちと、イスラエルの軍隊との戦いは、現実の戦争でした。しかし神様が、この戦争の戦術としてイスラエルに語ったのが、六章三節〜四節です。

『あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。』

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 祭司とは、神を礼拝する為の存在です。その人たちが雄羊の角笛を持って、神の契約の箱を持ち出して、その後に槍や剣を持った兵隊たちがついて、六日間は、一日一回町を回れ!と言われたわけです。それも黙って、回って帰って来いと。角笛だけ吹いて戻って来るのです。それを六日間続けてやるのです。
 そして、七日目は、七回回って、祭司たちが角笛を吹き鳴らしたら、その日は、軍隊が、ワォーーー!!と気勢をあげて叫んだら町の城壁が崩れて、町を勝ち取ることができる!という戦術を与えたのです。普通ではありえないです。こんなことをして、現実の戦争に勝てるわけがありません。
 でも、神様の戦術を受け取って、その通りにやった時、巨大な町、ジェリコを勝ち取ることができたのです。
 この歴史的に起こった勝利から、私たちはいろいろと学ぶことができます。人生の中で、敵に打ち勝つ秘訣は何かというと、神様から戦術、戦略をいただいて、その通りに行動したら必ずうまくいきます!ということです。
 イエス・キリストを信じる前、自分の頭でああでもない、こうでもない、と考えて、戦略を立てるわけですが、イエス・キリストを信じる時、神様から戦略をいただくことができる。その通りにやったら、目の前に立ちはだかる問題だって、勝ち取ることができますよ!ということを意味しています。

 旧約聖書の中の実際的な戦争は、新約の時代においては、「霊的戦い」です。霊的戦いにどのように勝利したらいいのか。軍の将である主に聞き従い、軍の将から戦略、戦術をもらって戦いなさい!ということを、意味していると思われます。

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 角笛を吹き鳴らしていたのは、誰かといったら、祭司たちでした。兵隊たちではなかったのです。祭司たちだったのです。祭司たちは、今までどこで仕えていたのかというと、天幕の中で、神を礼拝する役割を担っていた人たちでした。
 しかし、新しい世代になって、神の姿が変わった時、祭司らの働き場所さえ変えられたのです。今までは天幕の中であったのが、外に出て一緒に戦うようになったのです。これは何を意味しているのかというと、今までの礼拝のスタイルが変わったのです。

 礼拝って、どのように考えておられますか?クリスチャンは礼拝に対して、ひとつの固定概念とイメージがあります。礼拝とはこういうものだと。今日も私たちはここで賛美しました。主の臨在が訪れ、ある時は、賛美の中で涙があふれたり、心の底から主を誉め称えたい気持ちに駆られます。そしてこれが、真の礼拝スタイルのように考えます。
 一九九二年、あの日が訪れる前、新城教会の礼拝に賛美の祝福が訪れました。賛美が本当に祝福されて、礼拝の中で主の愛に触れられて、神様を礼拝するというのはこういうものだ!と一つの固定概念が出来ました。
 しかし、一九九二年、霊的戦いが始まってから、礼拝の概念を主は変えられたのです。ジェリコでの戦いは、戦いイコール礼拝だったのです。なんと、礼拝のスタイルさえも変えられたのです。今までは、幕屋の中で主を賛美して礼拝するような、限られた空間で行うのが真の礼拝のように考えていたかもしれません。それが、戦いそのものが礼拝であると、彼らが考えてもみなかった礼拝スタイルを、新しい世代に主は与えたのです。
 今、私たちにとっての礼拝は、どこにあるのでしょうか。もちろん教会で集まって賛美するところにも存在します。しかし新しい世代の、神のプロジェクト最終ステージにおける礼拝は、霊的戦いイコール礼拝だということです。
 町に出て行って、とりなして祈る祈り、ある時には霊的拠点に出かけて祈る祈り、それが、すなわち礼拝だということです。その時、町は勝ち取られ、カナンの地は、主のものとなるのです。

 今、日本の教会の礼拝スタイルは、どのようなスタイルでしょうか。みんなで集まって主を礼拝すると気持ちいいね・・・というスタイルです。それももちろん礼拝です。しかし一歩進んで、霊的戦いイコール、それが礼拝だ!そこに気づかなければいけないと思います。

 やがてイスラエルは、エルサレムに神の宮を作りました。ソロモンが、そこで最高の礼拝を捧げました。しかしその後、何が起こりましたか?国は分裂してしまいました。
 ユダ王国の時代に、ヨシャパテという王様が出て来ますが、この王様は人間的な方法で、北イスラエルと政略結婚を交わしたりして、国の平和を保とうとしていました。その中で、思わぬ所から敵が攻めて来たことが第二歴代誌二十章に記されています。アモン人、モアブ人、セイル山の人々という、かつて出エジプトした時にイスラエルの通過を拒否した民族です。その民族が大挙して押し寄せて、絶体絶命!という危機に陥りました。もう駄目だ!国はおしまいだ!
 しかし、神が何をヨシャパテに命じられたかというと、第二歴代誌二十章を読んでいただきたいと思いますが、第二歴代誌二十章二十一節〜二十二節、

『それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。』

 これは「エリコの戦いを思い出せ!」ということです。新しい世代、ヨシュアの時代は、礼拝さえも変えられたのです。しかしそのことを、後の世代は忘れていたのです。
 町を勝ち取るための祈り、それが神様が望んでおられる礼拝スタイルではないかなと、この頃、私は感じています。

 私の母とミセス穐近は、東京の東久留米で、アメリカで見た幻と同じ光景の場所に出会ったそうです。その時の事がクリスチャンアカデミーの歴史の本に書かれていました。二人はジェリコ祈祷をやったというのです。かつては若かった二人の女性が、ヨシュアと同じように、靴を抜いで裸足になって、六日間は一周して、七日目は七周したというのです。そして、「この地は主のものだ!」と宣言して祈ったそうです。その結果、その土地を手に入れたと記されていました。
 私は昨年、そこに行ってみました。「ここを七周したのか。俺も七周しようかな・・。」と始めましたが、二周でやめました。今は家がいっぱい建っていて、「変な男がぐるぐる回っています。」と言われそうだったので、やめました。結構広い場所でした。ここを七周したのか、ほとんど変人だなと思いました。でも、神様が与えてくれた戦術、戦略の通りにやると、勝ち取れるということです。

 今、私たちはヨシュアの世代として、主がどのような形で、私たちの目の前に現れておられるのか、どのような礼拝を求めておられるのかを、もう一度深く考え、主が持っておられる偉大なプロジェクトをサポートし、この目で、主が帰ってこられるのを、見たいものです。
 神様の壮大なプロジェクトの中で、今後も歩んで行く決断をして、最後にみなさんと共に聖餐をいただきたいと願っています。


 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめ、心から感謝をいたします。今、私たちを、ヨシュアの世代としてくださっていることを信じて、心から感謝します。主よ、私たちの礼拝さえも変えられることを信じます。
 私たちは、あなたが立てられた計画通りに、あなたのプロジェクトのサポーターとして支える者とさせてください。あなたは三日目によみがえってくださいました。このよみがえりを記念して、今から聖餐式を行います。この聖餐式を通して、私たちが主のプロジェクトの一員であることを、確認できますように。感謝を持って、イエス様の御名を通して祈りをお捧げいたします。アーメン。