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天の空模様に気を配る者

2015年9月13日(日)
新城教会牧師 四元雅也
コロサイ人への手紙 3章1節〜2節

『こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。』

 ハレルヤ!今日はこの場所に立つことができますことを、心から感謝します。
 六月七日以来のメッセージということになります。三ヶ月ほどになるわけですが、この三ヶ月を振り返ってみると、個人的にもそうですし、教会においてもそうだったと思うのですが、本当に大きな転換期を迎えるような三ヶ月ではなかったかなと思います。
 六月七日といいますと、沖縄七十のリバイバルミッションが行われていた最中であったと思いますが、七十日間に渡る百を越える集会が行われました。その後、すぐに、順先生がジャマイカにとりなしに行かれたり、またナガランドから九名の牧師先生方が来られたり、また新城教会からネパール宣教に、二十六名の先生方、兄弟姉妹が出向いて行きました。伝道集会がその間にいくつかもたれて、特に上條頌兄弟、滝元堅志兄弟が中心となってバンドを引き連れて来てくださって、ザコール音楽の夜、またその前日に行われましたミュージックスクールのワークショップとか、そんな一つ一つの集会を通して大きな祝福をいただいた時でした。
 また、八月の頭からは、プレイズ出版の新規事業の一つであります、アークホームが開所され、そしてまた、デイサービスしおんもスタートしました。
その間にも、先生方は海外に行き奉仕されたり、またざわめきがいろんな所に出かけて奉仕をして、また各部会の夏のイベントもありということで、特別なプログラムが目白押しという夏だったのですが、とりわけその中でも、この新城教会にとって、大きなインパクトとなったのが、滝元明先生の病気と、闘病、そして召天ではなかったかと思います。
 六月末から病気が見つかりまして、天に帰られたのが八月一日でありましたので、約一ヶ月の短い期間に、私たちにもたらされたインパクトは非常に大きかったのではなかったかと思います。病気が発覚してから、天に帰られるまでの明先生の最後の時間を今思い返しても、私の心の中に、強烈に印象が残っています。明先生が神様を愛して、最後まで神様の業を行うということに心を向け、それを病床でも実践されていたなと思います。
 そしてまた、二回の凱旋式を経て、私たちは否応なしに『新しい時代』に突入したということを深く考えさせられ、またそれを受け入れさせられたという感じがします。
 その後、今日まで語られておりますメッセージの中でも、まさにこの新しい時代を印象づけるようなメッセージが、この講壇の上からみなさんにも語られています。たぶん、何年か経った後に、今年を振り返った時に、「あの時から新城教会は変わったな」と思えるような、そういう時ではなかったかなと思います。僕にとって、前回、この場所に立たせていただいてから、今日こうして立たせていただくまでの三ヶ月間というのは、本当に大きな意味を持つ時だったなと、今日メッセージを祈りながら考えている時に思わされました。

 三ヶ月前に何をお話ししたかを少し振り返ってみたいと思います。その時に、『本当の自由』とテーマをつけてお話しさせていただきました。『自由』という言葉を辞書で引くと、

『自由(じゆう、英: freedom, liberty)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。哲学用語。日本では往生楽土、楽市楽座の語に見られるように、「楽」を「自由」という意味で使う用法があった。』

「楽」を「自由」という意味で使う用法があったというのです。

『中国では本来、「自由」は、好き勝手や自由気ままという意味で用いられた。日本も当初は、「自由出家」や「自由狼藉」のように、中国と同じ用法で用いられていた。』

日本語で「自由」という言葉から受ける意味の中で、「奔放な」とか、「勝手気ままな」というような意味が含まれているわけです。
 でも、聖書が私たちに教えている自由、本当の自由というのは、自分勝手に生きることではない、ということを学びました。かえって私たちが自由奔放に勝手気まま、気楽に生きるのではなくて、義務を負い、それを遂行する時にこそ、本当の意味で自由なんだ、とお話ししました。
 『義務』という言葉を考えて見ると、一見、私たちを縛って、そして強制する力というか、そういう印象を受けます。『自由』とは全く反対の意味のように受け取られるのですが、そうではないわけですね。本当の『自由』とは、そういうものではない。『義務』を遂行する時にこそ本当の自由だというわけです。
 その意味は、勝手気まま、気楽な行動とは、自分の欲するままに生きて行くということ。それは一見、何にも縛られず自由であるかのような印象を受けるのですが、そうではなくて、自分の心にある自己中心な『肉欲』という主人の前で、その欲するところを行う、ある意味『奴隷』のような存在になってしまうということなのです。
 『肉欲』という、自己中心な内なる主人の欲求に従って、それを行う以外の選択肢を失ってしまうということですね。そうせざるを得なくなってあたかも奴隷のように、主人の望むところを行う者になっていく、その束縛の中で罪を行い、そして罪を行うことで平安を失い、喜びを失っていくということになります。そんなお話をさせていただきました。

 そして、また難しい言葉になるのですが、『理性』という言葉に触れました。
『理性』とは、正しいこと、悪いことを私たちが判断する上で基準となるような、いわば『心の律法』というようなもの。
そして、これは、親によって教えられて備わったものでもなく、また学校で教えられて学んだものでもない。生まれつき人間の心に備わった基準だというのです。驚くことに、心の律法、『理性』は、全人類共通であるということです。
他の誰に教えられなくても、皆同じように、正しいことを正しいと感じ、悪いことを悪いと感じるというのです。それがなぜ人間に備わっているのか。なぜ、『心の律法』を、人間が生まれつき持っているのかを、いくら学問的に追求してみても、らちがあかないというのです。全ての人間が持っているものなのに、どこからそれが来ているのか。なぜそれが備わっているのかということを、人間の頭で理解しようとしても、解明することができないというのです。それは、まさに神様ご自身から与えられて人間に備えられている一つの価値基準だと言えるのでないでしょうか。

 『神の義』という言葉が聖書の中にありますが、マタイの福音書六章三十三節。

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』

 『神の国とその義』が、まさに私たちの心の中に神様が与えてくださっている『心の律法』であるということを、私は前々回のメッセージ、三月十五日にこの場所でお話しさせていただきましたので、今日のメッセージと関連して、みなさんもホームページなどで読んでいただけたらと思います。
このように、『神の義』が私たちに与えられている。この『義』によって、正しいとされることを判断する。そしてそれを行うということは、私たち人間にとって必要なもの、幸福とか満足とか、喜びをもたらすわけですね。

 正しいことを行うということは、例えば電車の中でお年寄りに席を譲ってあげるとか、また困った顔をしている人の所に行って、「どうしたの?」と、何か手伝えることがあるでしょうかというふうに声をかけ、自分ができることをその方のためにする。その手を差し伸べるということも、私たちに与えられている自由を他人のために与えるという、そういう行為であるわけです。

 先ほどからお話しをしている「義務を遂行する」というのはどういうことかというと、正しいと判断されることのために自分を律して、「そうしなくてもよい」という自由を放棄するということであります。自分に義務を課してそれを遂行するというのは、「そうしなくてもよい」という自由を他人のために放棄することですね。そういう場所にあえて自分を持っていく。義務を自分に課して、そこに自分を持っていく。そして他者の利益になることを自分の手を持って行っていく。他者のために働いていく。その時こそ、自分が自分の意志によって、その正しいことを選び、それを行っていくという意味で『自由』なのだと。
 肉の欲の主人の欲することを、ただ奴隷のように、他の選択肢を持たずにやってしまうという、一見自由であるかのような『不自由』ではなくて、私が正しいと見ることを、自分を律して、そうしなくてもよいという自由を放棄して行っていく。その時にこそ、私たちの心には満足が来る。また喜びが来る。また平安が与えられる。そしてそれによって、良い実が結ばれていくという、そういう結果を導き出し、ひいては天国をたぐり寄せて行くという、そのような働きに繋がっていく道であります。
 こんなことを、六月七日の礼拝で語らせていただきました。

 この三ヶ月間、いろんなことがあり、特に八月十四日の文化会館で凱旋式が行われ、その後に、僕の心の中で一つ響いてきているみ言葉があります。ガラテヤ人への手紙一章一節、

『使徒となったパウロ‐‐私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです‐‐』

 ガラテヤ人への手紙の冒頭の箇所ですが、これを書いたパウロが書き始めに『使徒であるパウロ』と、自分自身のことを紹介しています。この言葉の中に、パウロの強い覚悟を感じ取れます。彼はガリラヤの教会に、これ以上ないくらいはっきりと、自分の立場を表明しました。
 これは、この手紙の中で出てくることであるのですが、ガリラヤの教会がその当時抱えていたいろいろな問題、特に偽の福音が入って来て、教会の人たちを惑わしている現実があったのですが、それをパウロがなんとかしたい、ガラテヤ教会にもう一度、『本当の福音』を理解させるという使命感を持って、このガラテヤ人への手紙を書いているわけです。
その書き始めにパウロが、「使徒であるパウロ」と書いたのは、どういうことかというと、「使徒である私パウロは、あなたがたガラテヤ教会の聖徒たちにこの手紙を通して、主イエス・キリストを代弁する者として、叱責し、またあるいは戒め、また命ずる。」ということです。その思いを、パウロ自身がこの冒頭の中で込めたと思うのです。「私が今から語ること、叱責や、戒めや、命令とは、あなたがたを神様にもう一度立ち返らせるために必要なことなんだぞ!」ということを、パウロはこの冒頭の言葉の中に決意しているのではないかと思います。
 教会を指導する立場、使徒というのはそういう立場なのですが、その権威を主張して、その上で、彼らに対して戒めや命令を書き送ったのです。こういった『使徒』という役職に対して、パウロが良い意味でのこだわりというか、プライドというか、そういったものを持っていたということを、伺い知ることができるのではないかと思います。

 聖書の他の箇所を見ても、パウロは自分が置かれている立場を強烈に主張しているところがいくつかあります。第二コリント人への手紙十一章二十一節〜二十三節、

『言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちは弱かったのです。しかし、人があえて誇ろうとすることなら、‐‐私は愚かになって言いますが‐‐私もあえて誇りましょう。彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。』

 これも、コリントの教会にキリストのしもべを自称する人が入って、違った教えを述べていた時に、それを正すためにパウロが言っていることです。『私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にキリストのしもべなのです。』と。

 また他の箇所を見るとパウロは、「私が持っているこの誇りを誰かに奪われるくらいならば、死んだほうがマシだ!」と、言っています。本当にこのように、パウロは自分が主にあって何者か、主にあってどういう者なのかということに対して、すごい自覚、自信を持っていたのです。

 八月十四日に、凱旋式が行われた時に、参加されていた人たちに凱旋式のパンフレットが配られていました。その中に、順牧師が書かれた、来場者への挨拶文が載せられていたのですが、その中の一つの言葉に、すごいな!と思わされる言葉がありました。それは、こんな言葉でした。

「息子である私から見た滝元明はただの男でした。しかし、彼は、神によって与えられた使命には忠実な男であったように思います。」

こういう風に、息子の視点から明先生を見ていたのですが、私は「本当にそうだったな」と思わされました。私が死んで、召天式が行われる時に、そんなパンフレットが作られるとは思いませんが、「四元雅也は主の働きのために忠実だったな」と言われるような男になりたいなと思います。

「四元雅也、彼は牧師として長く教会で働いた。しかし、結構いい加減なところがあった。」

なんて書かれたり言われたりしたら悲しいなと、そう書かれたくはないなというふうに思います。
 「使徒であるパウロ」と書いてあるように、信仰者としてここにいる全員が神様の前にお一人お一人が、「何々である誰々」と、役割があると思います。みなさん、それを自覚しておられるでしょうか。自分を見つめて、自分は神様の前で何者かと、問うて欲しいと思います。
たとえ、無学、無力であったとしても、神様の前では尊い器であります。そして、地上で神様のために自由に生きる奉仕者であることを、お一人お一人が、今日認識していただければと思います。

 最近の礼拝の中で、順牧師が三回に渡って、「世代を越えて神のプロジェクトに参加しよう!」というテーマから、素晴らしいメッセージを語ってくださっています。
神様は歴史を通じて、新天新地を実現すべく壮大なプロジェクトを動かしておられるということです。そして、私たち一人一人が、神様によって救われた時から、そのプロジェクトに加わらせていただいて、それぞれの役割を果たしていく、そういう光栄に預かっているということをメッセージの中で語ってくださっています。

 その中で、先々週、メッセージの最後の方で、こんな話をしておられました。
14日の凱旋式のために二十五名くらい新城教会に滞在されました。凱旋式の前後は教会のプログラムが幾つも企画されていて、お客様たちに正直ほとんどお世話らしいお世話ができませんでした。お食事だけ備えて、あとは良かったら教会の集会に参加してくださいみたいな感じで、彼らをお迎えして特別聖会を催すとか、お客さんを中心にしたプログラムを企画するとか、そういったことが全然できなくて、少し申し訳ないような数日間を過ごさせてしまい、悔やんでいたのです。
しかし、8月末に順牧師が韓国に奉仕に行かれたときに、その時凱旋式に来られていた先生方から、こんなお話を聞いたそうです。それは『新城にリバイバルが起こっていると感じた』ということでした。
どこにそんなことを感じたのかというと、韓国の教会には見られないような、特に若者たちがはつらつと教会の働きを担って、奉仕している姿を見て、そう感じられたそうです。
 先生方がおっしゃるには、韓国教会では、一番頑張って活動しているのは女性たちだそうです。特にご婦人たちのパワーがすごいのが韓国教会だそうです。
私が韓国の教会をたずねた時にも、そんなことを感じました。聖会があると聖書が入ったカバンを持って、そして一番前から座って、なんとか恵みをいただこう!というふうに情熱を持って参加される方たちの中には、ご婦人が多いのです。また祈りの時にも、「チュヨー!」と、本当にある意味では金切り声で祈ったりされるのも、韓国の女性信者の方が結構多かったりします。本当に女性の祈りは強いなと思った経験があります。また、私たちを接待して、いろいろと食事を提供してくださるのも、これは当然かもしれませんが、女性信徒の方たちが中心となってやってくださる方が多かったですね。

 先月の十六日に行われたザコール音楽の夜は、青年会が企画して、運営していましたので、彼らが中心になって準備していたわけですね。いろいろ前後の大きな集会もありまして、僕はあまりお手伝いできない状況で、彼らに申し訳ないなと思っていたのですが、でも結果として、青年のみなさんが自主的にいろんなことを考えて、自分から行動してくれるということに繋がって良かったです。
 またそのザコールの前のミュージックスクールもあって、若い子たちが一生懸命、楽器の練習をして、楽しそうに音楽の働きを盛り上げようと、頑張っている姿を見て、韓国から来られた先生方はすごく感銘したそうです。これは神様の業だ!と思われたみたいですね。

 最近、青年会の中に始まっていることを一つ紹介したいと思います。青年会の家庭集会が月に一回あるのですが、先月、その中である兄弟が証ししていました。その方は滝元明先生のお孫さんの一人です。
明先生の闘病の時には、お孫さんたちが二十四時間体制で代わる代わる明先生の傍に付き添いをしました。体を温めたりとかお水を飲ませたりとか、そういったお世話をしていたのです。
その一ヶ月くらいの間、明先生が残りの時が短いのを悟ってか、命を削るかのように、代わる代わるお世話をしている孫たちにやっていたことがあるのです。それは何かというと、聖書クイズでした。一生懸命、孫たちに聖書クイズをしていたというのです。それで、そのお孫さんも、付き添いをしている時に、明先生がクイズを出したそうです。
「おい。モーセは何歳まで生きた?」と問われ、彼は分からないものだから、お世話をしながらシラを切ろうとすると、ずっと待ってるというのです。もう忘れたかな?と思うと、必ず「答えはどうした?」と突っ込みが入るそうです。そして、適当な答えをいうと、「違う。申命記三十四章を見ろ。」とか言って、調べさせて、「あぁ、百二十歳か。」と、そういうことを入院期間中、ずっとされていたそうなのです。それで彼らは明先生のお世話をしながら、聖書の勉強をしていたというのです。
 証しの中で彼は、「普段、聖書は読んでいるけど、いかに、ただ文章を追っているような形で読んでいたのか、深い背景とか内容について考えずに聖書を読んでいたのか、ということを痛切に感じた。」と。
そんな中で、お孫さんたちを中心に、聖書の学びの時を持ちたいという渇きが出て来たそうです。そこで自然発生的に、若い子たちの中でバイブルスタディーを持とう!と聖書勉強会が始まったのです。最近のメッセージのトレンドを意識してか、「ヨシュア会」と名付けられて、バトンをモーセからヨシュアが受け取ったように、『次の世代を担う者たち』という意味で、そういう名前をつけたんだと思うのですが、今は毎週、一つずつ聖書のみ言葉を暗唱するということをしているみたいです。そして月に一回は集まって、バイブルスタディーを持とうと、始めているそうです。教会に起きた新しい動きでありますが、がんばってもらいたいなと思います。本当にヨシュアの世代として、ますます力をつけていただきたいなと思います。

 もう一つ、青年の中で証ししたいことがあるのですが、青年会では、よく行事の案内のチラシを、青年会の兄弟姉妹に配ります。そのチラシの作成も青年の兄姉たちが順番に作ったりしているのですが、先週もチラシが配られました。これを作ったのが、中村亜央衣姉妹なのですが、それをお見せします。

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 こういうチラシを作りました。ここにクロスワードパズルが載っているのですが、これは聖書に登場する人物とか、地名とか、それをクロスワードにして、隣にヒントが書かれています。これを拡大してみたいと思います。

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 そして、例えば、縦のヒント一。『「荒らす忌むべきもの」について語った預言者は誰。』と、これを聖書の知識を呼び起こしながら解いていくのですが、答えが次の映像です

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こんな感じでクロスワードが完成するというわけです。
 先週、礼拝の時に青年会のみなさんにこれを配ったら、礼拝が終わってから、いくつか小さなグループがあちこちに出来ていて、聖書をパラパラめくりながら何とか解こうと、何人かで知恵を出し合っているような光景が見られました。感謝なことだと思ったと同時に、僕も青年担当ですので「これはここしばらく使えるな!」と思いました。先週も金曜日に名古屋の青年バイブルスタディーがあったのですが、私と夏目栄子さんと伊藤愛子さんと一時間くらい考えて、ああでもないこうでもないとクロスワードを作りまして、その集会の中でクロスワードをやりました。でも作るのは案外難しいのです。聖書人物とか、聖書の名詞という限定された範囲でクロスワードを作るというのは、一文字くらいクロスするだけなら案外簡単なのですが、一つの単語から二つ、あるいは三つクロスする問題を作ろうとすると、結構大変なことなのです。中村亜央衣姉妹は一人で考えたみたいですけど、大したものだなぁと思わされました。そんな事が今、青年会の中でちょっとブームになっているわけですが、これも新しい時代の幕開けの中で起こっている一つの出来事です。

 最近、天候ばかりが気になる毎日であります。先週のメッセージでも順牧師が、「最近雨ばかり降っている」と語られていましたが、先週も、火曜日から水曜日にかけては、この地方を台風が直撃して、浜松のほうでは浸水被害が出たということがニュースになりました。ちょうど浜松市南区に、インターナショナル部会が毎週土曜日行っている集会の会場となっている、総合公園施設の施設があるのですが、被災してこの土曜日も、また来週も閉鎖になって集会ができなくなってしまったと、フェルナンド先生から聞きました。この地域もいろいろと被害があったみたいです。
 そしてまた、木金と、本当に大変な雨が関東地方、そして東北地方に降りました。

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 帯状の雲が発達して、ずっと関東地方から東北地方にかけて、長い時間、大量の雨を落としていったということで、堤防が決壊して家が流されたりして、大きな被害を呼びました。

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 一番奥にあるのが川で、一箇所決壊して、町に水が溢れ出ています。一度堤防が決壊すると、こんなに大きな被害が出るのかということを目の当たりにしました。

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今まさに倒れそうな家の中にも、救助を待つ人たちが何人もいるというような状況で、こういった映像が、ライブで放映されて、僕もしばしニュースの映像に釘付けになったわけですが、本当に恐ろしいです。

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 浸水した中で立ち往生する中から、ボートで救出されるような人もあったようです。
 先週は大雨の中、兄弟姉妹の家は大丈夫かなと心配して祈らされましたが、今お読みしたマタイの福音書の十六章二節〜三節を見ると、聖書の時代も同じだったようです。

『しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる』と言うし、朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。』

天候に対する関心というのは、人間の永遠のテーマであるように思います。自然と向き合って恵みを享受して、時には猛威をふるう自然から、いかに生活を守り耐え抜いていくかということを考えながら、人間は生きてきたわけです。今日は晴れか曇りか、風は強いか弱いか、雨は降るかどうか、と、日々刻々変化する天候を私たちは気にしているわけですね。先週は特に気になりましたけれども。

 同様に、神様が私たちに望んでいることは、時のしるし、いわば『天の空模様』に対しての関心であります。現代は天気を左右する原理を気球規模で科学的に分析し、気象衛星など様々なツールが天気予報に役立てられています。先週起きた大災害も、予報という視点で見ると、堤防決壊の十時間くらい前に特別警報が出たりして、避難体制は事前に備え始められていました。しかし人々が避難することに結びつかないで、あのように被災された方々が出たということが、一つの課題として浮き上がっているわけです。避難指示は出したけど、それが避難に結びつかなかった。そこで人的な大きな被害も出るようになってしまった。そこをどうつなげて、避難指示を聞いた人たちを動かしていくかということが、今後の課題という話がされていました。
 特別警報が出ていたのも知らない人もいたかもしれないし、あるいは、警報が出たのは知っていたけど、家の中にいれば大丈夫だろうと思って、すぐに避難せず、初期動作の遅れが命に関わるような危険に繋がって、濁流にのみ込まれる家の中で救助を待つ、というような事が起きてしまいました。そこに今後の課題があるということです。(この後、堤防が決壊した地域には避難指示が出ていなかったことが判明し、市長が謝罪したことが報道されました)

 天の空模様も同様だと思います。普段から私たちがアンテナを伸ばして、情報を集めて、そして神様の思いを自ら判断して、自分で行動に移していくということが大切なのです。
今回の大雨のように命に関わるような危険が迫るようなことが発生すると、行政が「危険が迫っている!あなたの命を守れ!」と発表するわけですよね。そして避難を指示するわけです。行動を指示することがある。そして、いち早く避難所に逃げ込んだ方は、流されそうな家の中で救助を待つような、死と隣り合わせの事態からは逃れることができたのです。財産は失ったかもしれないけれども、最低限、命の危険からは守られることが可能になるわけです。
神様も、普段日常の生活の中では、いちいち「ああしろ!こうしろ!」という指図はされません。しかし、ここぞ!という時に、私たちの命の守りのために、また究極的には、神様のプロジェクトが実行されるという目的のために、「さぁ、今これをしなさい!」と、こうおっしゃられる、そういう時があるということです。号令をかけるのです。私たち一人一人は、その時のために召集されているわけです。
 よくこの礼拝のメッセージでも語られることがありますが、聖書で教会と訳されている言葉、「エクレシア」という言葉は、軍事用語だ、「軍隊のために召集された者たち」という意味合いがあるんだということを聞きます。神様の意志を遂行していく集団が我々であるということですよね。
今日は、その事を、もう一度、心に刻んで、そしてまた神様が与えられる目的を果たすことができるように、その『良い行い』をするために、自分を義務づけていく、義務を自分に課していくことをもう一度覚えていきたいと思います。あえて、「そうしなくてもよい」という自由を自ら放棄して、神様が与えてくださる使命を遂行していくという義務を負っていくということですね。そうする時に、それが本当の自由であり、私たちに平安をもたらす、喜びをもたらす、良き実を結ばせるということが、私たちの人生を通して現されていく。そういうことを決意する時になっていきたいと思います。

 冒頭にお読みしたコロサイ人への手紙の三章一節〜二節を、もう一度お読みします。

『こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。』

 この地上のことに、私たちはいろんな関心を寄せて、私たちの行動を決断していくのです。こうしたらいいかな、ああしたらいいかな、どこにお金を投資したらいいかな、今日は何を食べようかなとか、将来どういうふうにしていこうか、ということに準備して、地上のことのために、いろんなことを考えて、そして行動に移していくわけですが、私たち救われた者たちとは、それと同様に、いやそれ以上に、天にあるものを思い、それを求めていくのを、神様が私たちに願っておられるのです。地上にあることと同様に、いやそれに優先して、この天にあるものを思い、それを求めていくことです。
天にある神様の御心は何かな。これは普段のみなさんのクリスチャン生活の中でも重々心がけておられることだと思います。神様の御心はどこにあるのかなと、よく私たちは考えるわけですが、そのことを本当に私たちの選択肢の中で最優先事項として、そして神様が出される指令、その発信というものを聞き逃すことがないように祈っていきたいと思います。
 『上にあるものを求めなさい。天にあることを思いなさい。』というのは、なにか、天国をイメージして、「天国ってどんなところだろう。花が咲いているのか、天使が飛んでいるのか。自分は天国に行ったらどうなるかな。」ということをイメージしなさい、ということではなくて、今生きている私たちが生きる上で大切なことを求めていく。神様に聞いていくということだと思います。それがあなたの幸せを守り、また、平安と喜び、義の実を結ばせるという人生を築き上げていくことであることを、今日、もう一度、私たちは確認して、そしてイエス様の前に正しい行いを、本当の自由を選び取っていく、そんな者となっていきたいと思います。それではお祈りをしたいと思います。

 今日は、「天の空模様に気を配る者」というタイトルをつけさせていただきましたが、先週起きた大きな大雨による被害を思い返して、神様も私たちにそのような大きな苦しみや、また外から迫って来る様々な悪しき出来事から守られて生きて行くことを願っておられると思います。そのような中で、私たちは神様の御心を行うことを選び取っていくことができる者となっていくように、この世にある様々な肉の欲に奴隷となって従って行くような者ではなくて、本当に神様のプロジェクトが、私たちの人生を通して遂行されていくことを心から願い求めて、祈っていきたいと思います。今日はそのことを決心する祈りを、ひとりひとり神様の前に捧げる時を持ちたいと思います。
 一言、代表してお祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。天のお父様。イエス様、今、神のプロジェクトを実行する役割を担った者として、私たちが神の前にあることを、最近の礼拝の中で深く私たちは学ばされています。また、あなたが新しい世代を開き、新しい時代を開き、そのために用いてくださることを感謝します。
今、天の空模様を見極める油注ぎが一人一人の上に与えられますように。私たちの中におられ、あなたの御心を語ってくださる聖霊様が、お一人お一人の中で、その心に与えられている『神の国、神の義』を通してお語りくださいますように。私たちの周りには日々、様々な誘惑もあり、あなたから遠ざける力も働いております。そのような中から勝利して、敵である悪魔の惑わしや、偽りや、全てのまやかしをはね除けて、イエス様あなたの思いを実行していく者となることができますように、祝福してください。
 ご家庭の中に、働きや、学びや、すべての営みの中であなたが共におられ、私たちが、あなたとの関係の中に何の障害もない、あなたの御思いを受け取った時に瞬時に理解し、間髪を入れずにそれを実行していく者となることができるように、導いてください。新しい時代の中で、用いられる教会として、あなたがこの教会を、お一人お一人を祝福してくださいますように。
イエス・キリストのみ名により感謝して祈ります。アーメン。