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神に制限を設けない

2015年9月20日(日)
新城教会牧師 公畑フェルナンド
イザヤ書54章1節〜3節

『「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」と主は仰せられる。あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。』

 ハレルヤ!感謝します。いつも私たちのために、インターナショナル部会のために祈ってくださり、本当に感謝します。しかし、もう一つ、どうしてもみなさんに祈っていただきたいことがあります。二週間くらい前の大雨の時に、浜松で毎週土曜日に集会を持つために借りている場所が大雨の浸水被害を受けまして、そこは可美総合公園という所なのですが、この二週間その場所を使えなくなりました。電気設備自体が水に浸かってしまい、施設全体を使うことができなくなってしまいました。そして公園事務所から今週電話があり、すぐに解決策がないということで、今年いっぱいまでは使用できないということになりました。それでどうか浜松の集会をするため、他の場所を見つけることができるように、お祈りいただきたいと思います。

 それでは、メッセージに入りたいと思います。今日のメッセージのタイトルは、「神に制限を設けない。」です。イザヤ書五十四章一節〜三節を読んでいただきましたが、このイザヤ書五十四章をすべて読むなら、ここが希望と、信仰と信頼の美しい御言葉だということが分かります。これは神がイスラエルに語った預言のことばです。バビロンでの捕囚から七十年後のことであり、イスラエルが自分の土地、国に帰った時のことです。彼らはバビロンから喜んで出て来ました。もはや奴隷ではなくなり、自分の国へ帰ることができたからです。
 しかし、帰ってみると大きな衝撃がありました。そこが荒廃した土地になっていたからです。廃墟となった家々、崩れた城壁、焼かれた城門、砂漠化した土地になっていました。それをイザヤが「子を産まない不妊の女」と表現したのです。豊かでない土地について語りました。この土地は七十年間、何も産出せず、誰も種をまかず、耕さず、手を付けませんでした。それで彼らが到着した時には悲しい、重苦しい光景が目の前に広がっていたのです。私が想像するに、彼らは希望を持って帰って来たのに、失望したことでしょう。これからどうすればいいのか?これからどうなるのか?私たちの子どもたちの将来はどうなるのか?と考えたことでしょう。

 しかしこのイザヤ書五十四章を見ると、励ましから始まっています。イザヤ書五十四章一節、

『「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。』

 ここで預言者はイスラエルの民に「喜び飛び上がりなさい。」と語っています。しかしこのような哀れな状況下でどのように喜び飛び上がることなどできるでしょうか。何もない状態で、どのように始めればよいかもわからないのです。

 そして、次に預言者が励ましたことが、イザヤ書五十四章二節〜三節に書いてあります。

『あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。』


 この言葉は、廃墟の中にいた彼らにとっては、まさに希望のことばでした。これは神様がご自身の民、悲劇的風景を見ている民に与えた言葉であり、それは安心を与え、確信を与えるものでした。そして、神が新しいことをするという希望のことばでした。それは返還の時が来たこと、回復の時が来たこと、彼らの中から新しいことを神様が始める時が来たことを示しています。
 そのため、イスラエルの民は神の御心を理解しなければなりませんでした。神様が彼らをどこに導きたいか、また彼らに何をしたいかを理解する必要がありました。神様がそれを実現するには、まずイスラエルの民が神を信じなければなりませんでした。十分な信仰を持つ必要がありました。それは彼らが大きく物事を考えるため、神様を制限しないためでした。ですからこの御言葉は希望の言葉であり、信仰の言葉です。そして、いのちの言葉でもあります。なぜなら、神様は彼らを増やすとおっしゃってくださいました。彼らを豊かにするとおっしゃってくださいました。神は彼らを栄光ある、将来ある国民としてくださると言ってくださいました。もはや奴隷ではありません。
しかし彼らはそれを信じる必要がありました。今までとは全く異なった見方をしなければなりませんでした。現在を見るのではなく、将来を見る必要がありました。神が導こうとしておられ方向を見る必要がありました。
創世記十三章十四節〜十五節、

『ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。』

 このみ言葉はイスラエルの民に語られた御言葉なのですが、今日、神様が私たちに語られた言葉として用いたいと思います。神はあなたが広がることを望んでおられ、あなたの考えよりもさらに向こう側へ行くことを望んでおられます。それはあなたが置いた限界の向こう側です。神がアブラハムに語ったように、あなたが見ているもの、あなたの目で見える範囲、あなたの目が届く範囲、それを私はあなたに与えよう、と仰せられました。この言葉は、とても考えさせられる言葉です。神が働く範囲の限界、制限というのは、神様ご自身が置かれるのではなく、あなたや私が決めてしまうものなのです。
そうでしょう?あなたが制限を設け、神があなたの信じる範囲で、働かれるということです。あなたが信じるところまで、神様は働きます。
 私たちが制限を設けてしまう、いくつかの例を見て行きましょう。

 第一に、あなたは勝利に制限を設けてしまいがちです。勝利というと、戦いを考えないわけにはいけません。勝利を取るためには、戦わなくてはいけません。そして状況は関係なく、私たちが直面する、または直面している戦いについては、神はすでに勝利を約束されているということを覚えなくてはなりません。その過程というのはとても厳しいものですが、必ず勝利します。よく戦うなら、勝利があります。神の栄光を見ます。創世記から黙示録まで、聖書すべてを通して強調されていること、それは勝利です。
 一つの例を出したい思います。第二列王記十三章十四節〜十七節、

『エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んだ。エリシャが王に、「弓と矢を取りなさい」と言ったので、彼は弓と矢をエリシャのところに持って行った。彼はイスラエルの王に、「弓に手をかけなさい」と言ったので、彼は手をかけた。すると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、「東側の窓をあけなさい」と言ったので、彼がそれをあけると、エリシャはさらに言った。「矢を射なさい。」彼が矢を射ると、エリシャは言った。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。」』

 イスラエルの王は悲しみながらエリシャのもとに来ました。それはイスラエルの強い敵であるアラムがイスラエルに対抗するために出てきたからです。
何度かアラムに対して敗北をイスラエルは味わっていました。王はその預言者の所に来て、心を注ぎ出して泣き伏しました。それでエリシャは預言的に、象徴的に言いました。「王よ。弓と矢を取りなさい。東側の窓を開けなさい。」
その方向に敵がいたからです。
 そして王が弓と矢を取ると、エリシャは王の手の上に自分の手をのせました。ここで大事なことを私たちに語っています。一つ、私たちが知らなければならないことは、戦いが神によって導かれるものであるということ、そして、私たちに与えられている武器があること、それは肉の武器ではなく、またこの世のものでもない、それは霊の武器であり、神にあって、力強いものです。聖書の中には、それは敵の要塞を倒すことができる力だと書いてあります。神の武器は最高の武器です!
 王が弓に手をかけた時、エリシャは自分の手を王の手の上にのせました。これは、同じことが言えるのですが、もしあなたが神に任せるなら、神があなたを導くということです。そこであなたは効果的な祈りをすることができ、その祈りの矢は、的の中心を貫くことができるのです。そしてその祈りの矢が、的の中心を射るなら、あなたの勝利はもうすぐそこに来ています。
 それでは、もう一度、このお話に戻るます。このように王はエリシャに導かれましたが、まだ他にもありました。王が矢を射ったあと、第二列王記十三章十八節〜十九節にはこう書かれています。

『ついでエリシャは、「矢を取りなさい」と言った。彼が取ると、エリシャはイスラエルの王に、「それで地面を打ちなさい」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。神の人は彼に向かい怒って言った。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」』

 第二列王記十三章二十五節もお読みします。

『エホアハズの子ヨアシュは、その父エホアハズの手からハザエルが戦い取った町々を、ハザエルの子ベン・ハダデの手から取り返した。すなわち、ヨアシュは三度彼を打ち破って、イスラエルの町々を取り返した。』

 エリシャは王に、「矢を取りなさい。それで地面を打ちなさい。」と言いました。そして王は三回打ってやめてしまいました。エリシャは大変怒りました。なぜならエリシャはもっと王が地面をたたくことを期待していたからです。エリシャがもう充分だというまで続けて欲しかったのです。しかし三回だけというのは、三回だけアラムを打つ事になるという意味であって、またアラムが勢力を増してイスラエルの敵となることを意味していました。後の聖書箇所を見れば一目瞭然です。
 神様が私たちに伝えたいことは、あなたの勝利は保障されているということと、しかしそれがあなた自身にかかっているということです。どれだけ自分の武器を持ち続けるか、つまり祈り続けるかによるということです。

 私たちは多くの問題を持ち、祈り、また祈る必要があることは分かっています。あなたはそのために一日祈り、二日も祈り、三日祈ります。その後、教会スタッフや牧師先生に会って、あなたの問題はどうなりましたか?あなたの状況はどうですか?と聞かれます。あなたは、「良くないです、なにも変わってません!」と答えます。あなたはもっと祈り続けなくてはならないのです!「もう三日祈ったけど何も起こらない!」と言ってませんか?あなたは神様の答えが来るまで祈り続けなければいけないのです。私はあなたの状況を知りませんが、しかしこの朝、あなたはこう言わなければなりません。「私の勝利は保障されている。私は勝利に制限をもうけない!」と。隣の人に言ってください。「私は勝利を制限しない!」と宣言してください。

 そして第二に、私たちが制限を設けることは、神があなたに与えた召命に対して、制限を設けることです。
 ローマ書には神の賜物と召命は変わることがないと書いてあります。多くの場合、私たちは神が召しておられるということを知りながら、そこに制限を設けます。あなたも私も、神を制限します。神様が私たちを通して行おうとすることに制限を設けます。それは時には家族が言い訳になったり、仕事が言い訳になったりします。仕事や家族を捨てなさいとは言っていません。逆です。あなたは生きる神の器として仕事や家庭の中にいるべきなのです。神様がなそうとしていることに対して用意できていなくてはなりません!分かりますか?私たち一人一人を、神様は召してくださっています。神様がこの地上で成し遂げようとしていることへの召命があります。それは牧師や宣教師になるだけではなく、さまざまな形で神様に仕えるという召しです。
 例えば、私の召命、私の奉仕もそのように始まりました。神様に奉仕をして始まりました。最初は会堂の扉の前で歓迎のあいさつをしたり、教会を掃除したり、青年たちに教えたりしましたが、のちに神様が私をどのように用いてくださるのかということは想像していませんでした。ですからあなたの行っている奉仕を低く評価しないでください。それは、とても大きな意味あるものなのです。強調したいことは、奉仕しない人は、役に立たない者だということです。分かりやすいように言い換えるなら、神に仕える人生を送らないなら、役に立たない人生である、ということです。ですから神の召しに対し、決して制限を設けないようにしましょう!


 それでは、アブラハムの人生について素早く見て行きましょう。どのようにアブラハムが、神の召命を何度も制限したかについて見て行きましょう。
創世記十一章三十一節〜三十二節、十二章一節〜三節、

『テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』

 今お読みした最初の箇所に書いてあったとおり、アブラハムの父親が亡くなった時、神の召命がアブラムに与えられていたことが分かります。しかしウルから出て行くことを率先したのはアブラムではなく、父であるテラでした。しかし父親であるテラは偶像礼拝者であり、神の召しはありませんでした。テラはその時代のあらゆる偶像礼拝の慣習に手を出している人でした。しかし、彼が主導して、ロトを連れ、息子であるアブラハムと共にカランに行きつきました。神様はテラが亡くなるまで沈黙を保つ必要がありました。なぜなら神の召しに私たちが制限を設ける時、神様はあることをしなければいけないのです。私たちが再び活性化して、もう一度、神様の召しに立ち返るようにさせるために何かをするのです。そして、父親であるテラがなくなった時に、また神は語り始めます。これはアブラハム、おまえに対しての召命なのだよと。やがて彼はそれを理解します。しかし、創世記十二章四節〜五節を見ると、

『アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。』

 ここを見ると、またアブラムは制限を設けています。なぜならここで、ロトを一緒に連れて行ったことが書いてあるからです。神様は「あなたの故郷、父の家、親戚から離れて出なさい」と言ったにもかかわらず、彼はロトを連れて行ったのです。それはのちに多くの問題になったのです。ききんがあった時、エジプトへ行こう、と言い出したのはロトでした。そして彼らはエジプトにくだって行きました。そこは神の御心ではない地であって、彼らはエジプトで多くの問題を持つことになるのです。

 十三章に入ると、アブラハムはもう一度エジプトから出て、再び神が導く方向へ帰ります。そこで神は他の方法を用いて、ロトをアブラハムから離す必要がありました。なぜなら、アブラハムがロトを離さなかったからです。神は繁栄を用いて、両人を豊かにし、使用人たちが争うようにされ、離れるようにさせました。これが十三章の出来事です。アブラハムはここで再び神の召しに対して制限を設けてはならないことを知ります。これを皆様にも分かっていただきたいのですが、私たちの中には、それが自分の家族であっても、神の召命を制限する人がいるということです。どうやってでしょう。それは私たちがこう考えるからです。「うちの主人が神を信じるようになったら、私は洗礼を受けよう。」また「私の妻が神を信じるようになったら、教会の奉仕を始めよう。」「もし私の息子が、こうなったら・・・。」と制限するのです。
 アブラハムに対して、テラが制限となりました。ロトもです。そして今やっと彼とも離れたので、アブラハムは神の召しに答える時が来たと言えるでしょう。

 しかし十六章に来ますと、アブラハムにはまた違う制限が置かれています。ここではもうテラもいないし、ロトもいません。しかしサラがある朝アブラハムにこう言います。「私、思うのだけど、神様は必ず私たちに子どもをくださいます。でもハガル、あのエジプトから連れて来た奴隷を通してだと思うのです。私はその奴隷の主人だからその子どもは私のものになるから。」
 今度はテラでもなく、ロトでもなく、イシュマエルがアブラハムにとって神の召しへの制限となります。何ということでしょう!なぜなら、今日までこのイシュマエルの子孫たちは神の民への制限となっているのです。ですから年が若いことを理由に制限を設けないでください。また年老いたということも理由にしないでください。モーセは神の召しがあった時は八十歳でしたし、アブラハムは七十五歳でした。私たちの偉大な神に仕えるのに、私たちを制限する年齢などありません!神様はあなたを必要とされています。ですから神の召命、召しに対して制限を設けないでください!


 第三に、私たちは神の超自然性に制限を設けます。神様は召命と共に私たちに神の超自然的な力を与えようとしておられます。今の時代は、神が勝利と栄光に輝く教会を求めている時です。ここでいう教会とは、新城教会という固有名詞ではなく、この地上の全ての主の教会のことを指します。
 今、神様はあなたを用いたいのです。神様はあなたの手を用いたいと思っています。あなたの手を用いて病人をいやしたいと思っておられます。神様はあなたを用いて勇気づける言葉、慰めとなる言葉を与えたいと思っておられます。周りの絶望している人たちすべてに与えたいのです。奇跡や驚くべきことを行うためにも用いたいと願っておられます。
 しかもそれを、まずあなたの家の中から始めたいと思っています。そして、私たちの子どもたちは、家の中から、神の素晴らしい働きを見るべきです!家の中で奇跡を見るべきです!家の中で超自然的な働きを見るべきなのです!

 今日、神様の召しがあります。社会の重圧の中に、暗やみの中に、私たちが見たり、生きている中にあります。神様は私たちに、ただ神を信じること、また大きなことが起こると信じることを求めています。私たちは有名な牧師先生がこの教会に来るのを待つ必要はありません。神様のすばらしさを見るために、有名な牧師先生を待つ必要はないのです。ガンのいやしであったり、腫瘍が消えたり、慢性的病気のいやしであったり、経済的困窮を乗り越えるなどの奇跡は、あなたを通してもできるのです!聖書には、「ただ信じなさい。そうすれば、神の栄光を見る!」と書いてあります。


 第四に、私たちは神の世代について制限を設けます。イザヤ書五十四章三節をお読みします。

『あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。』

 どのように国が変わってほしいですか?日本がどのようになって欲しいですか?今は神様が素晴らしい世代を起こしている時だと思います。多くの若者たちがドラッグや、悪事や暴力に向かっている中でも、神はこの民の中に若い世代を起こし、約束の世代を起こして、それを、彼らを通してされようとされている御心があるということを私は確信しています。
 しかし神様は、親世代にもそれを与えておられます。親世代が、彼らの背中を押す必要があります。また牧師やリーダーたちを起こし、神の世代を見させます。神の世代を制限してはいけません!なぜなら、神は何世代にもわたる神だからです。神は一人の人物のみを通して働きません。神様は何世代にもわたって計画をして、働かれるのです。ですから、アブラハムの神と呼ばれます。しかしそれでは終わりません。なぜならその後、イサクの神、ヤコブの神と呼ばれているからです!それと同じように、モーセの時代が終わった時、ヨシュアが続きました。
 あなたがいるこの教会というのは、あなたの子どもたちがどこにいようとも、世代の教会です。あなたは正しい場所にいるのです。しかしあなたは、父として、母として、理解しなければならないのです。今、三節でお読みした通り、今は時なのです。それは、私たちの子どもたちがこの国を相続し、荒れ果てた町々に住むようになる時である、ということです。

 最後にイザヤ六十一章九節をお読みしたいと思います。

『彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。』

 これをあなたとあなたの子孫への約束として受け取ってください。あなたの勝利に制限を設けないでください。あなたの召しに対して制限を設けないでください。神様の超自然的性質に制限を設けないでください。また神の世代に制限を設けないでください!私たちがその世代をささげる時、神様はその世代を用いて、考えてもみなかった事をしてくださると信じています。

 それでは、お祈りしたいと思います。

 主よ、私たちはあなたのされようとすることに対して制限を設けません。勝利に対しても制限しません。どうか時々、疲れ果てたと言ったことを赦して下さい。今、宣言します。今この時にでも、あなたは奇跡を起こすことができると宣言します。家に着いた時、偉大なことが起こり始めると宣言します。
 今日、あなたの御言葉は真実であると宣言し、偉大なことが起こることを信じます。今週起こると信じます。これからあなたの勝利を見ると信じます!私たちに置かれたあなたの召命を知ることができますように。あなたに従います。あなたの思う通りに用いてください。あなたが用いたい場所で、あなたが用いたいと思う時に、あなたに仕えます!
 あなたの超自然的な力を与えてください。聖霊様が私たちを通して働かれ、奇跡や驚くことをしてくださると信じます。主よ、宣言します。奇跡が私の体に今日、起こり始めると宣言します。私の家族から、私の家の経済から始まります。あなたは変わらないお方であり、同じ神様であるからです。
 そして今主よ、私たちの子どもたち、子孫をささげます。それは、あなたの栄光のために用いていただくためです。次の世代を通して、この国があなたを知るようになりますように!それを宣言します。私たちの子どもたちは、一生の間、あなたに仕えると宣言します!例え彼らが今、あなたから遠く離れている状態にいても、あなたのあわれみが彼らのいる所まで届くことを信じます。そして、彼らがあなたの足下にひれ伏すことを信じます。そして、あなたに仕えることを信じます。すべての栄光をお返しし、イエス様の名前によって祈ります!アーメン。