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みことばを実行する人になりなさい

2015年10月4日(日)
新城教会牧師 上條実
ヤコブ1章21節~24節

『ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。』

 ハレルヤ!今日、こうしてまた話ができることを心から感謝します。
昨日の午後四時から本日の午後四時まで久しぶりの二十四時間連鎖賛美が行われています。全く寝ておられない兄姉がおられると聞いています。大変恵まれた賛美が行われていますので、午後からも参加頂ければと思います。それではみことばを学んでいきましょう。

 先週一週間は、皆さんにとってどんな一週間だったでしょうか?朝晩はだいぶ涼しくなりました。しかし昼間は気温が上がるため、その温度差で風邪など調子を崩されておられる方もいらっしゃるかもしれません。涼しくなったと言っても、真冬の時から比べれば、今の朝の気温は非常に暖かいと思う気温です。今は体が夏の気温に慣れていますので、真冬時には暖かいと思っても、体が夏になれているため涼しいと感じます。体の慣れと同じように、信仰生活にも慣れがあり、神に仕えている、信仰がしっかりしていると思っていても、知らない間に、信仰生活が崩れてしまっている時があります。今日はもう一度基本的な事ですが、みことばから学んで行きたいと思います。

 毎週行われる礼拝で様々なみことばが語られます。そして私たちは教えられ、励まされています。先週は滝元順牧師より、『世代を超えて、神のプロジェクトに参加しよう!パート四 ~天と地の狭間で祈る者たち~』というタイトルから、すばらしいメッセージを頂きました。はじめにどのような「世界観」でみことばが記されたのかを、よく知らなければいけないと語っておられました。聖書の霊的世界観、神様と人間の関係は、本来どのようなものなのか?聖書が書かれた当時のクリスチャンがどのように信じ、感じていたのかを、探らなければいけないと言われていました。
「御国が来ますように、御心が天で行われるように地でも行われますように」と言う、先ほどもお祈りした「主の祈り」から語られ、神の与える究極のメッセージは、「やがて新
しい天と新しい地がこの地に創造される。それがゴール。私たち人生はそのためにある。私たちはこの場に神を迎えます。それをとどめる一切の悪魔の力を打ち砕き、天が地に下りて来るように。そして私たちの人生は、神の国がこの地に完成する為にある。だから私たちは、天が人の場と一致するプロジェクトに参加し、働かせていただいている。
 天はみ心が百パーセント実現する所であるけれども、会社や家庭、また学生の方は、学校で天を引き下ろす祈りをする必要がある。様々な場所で、しめされた場所で天を下ろして、御国が来ますようにと祈らなければならないとのチャレンジを頂きました。皆さんは覚えてお祈りされましたか?

 今朝六時、私は家にいたのですが、打ち上げ花火が鳴りました。一発だけではなく、何発か鳴りました。それは新城市の西部にあたる市場台地区、野田地区にある神社の祭礼の為にならされた打ち上げ花火でした。また今週の金・土・日は、新城市の中部地区にある神社で、そしてその次の週は、私が住んでいる地域でも祭りがあります。その時は、子どもたちが爆竹花火をもって、街中でバンバン音を立てて騒ぎます。去年は小学生の子どもが、人に向けて爆竹を投げていたとか、子どもが花火に火をつけるために持っていたライターで、友達のハッピに火をつけようとしたとかで問題となり、学校から気をつけるようにとの文章が回って来ました。私としては子どもに火を「持たせる」事が問題であって、「気をつけるように」ではなく、禁止させるべきなのに、学校からは「地域の誇りであり,すばらしい伝統芸能も受け継がれています。お祭りに参加することで,みなさんもこの地域に暮らすことのすばらしさを実感できるでしょう。爆竹花火は気をつけて行いましょう」と文章が回ってくる始末です。皆さんの住んでいる場所でも、地域の祭りがあると思います。愛する方々が偶像礼拝をしています。早く霊的な目が開かれるように、偶像礼拝がどんなに大きな罪であるかということを本当に理解できるように、とりなして祈っていきたい、早くこの御心がこの地に来るように祈っていきたいと願っています。

 私は今日メッセージを語るに当たって、何を語ったらよいか祈りました。すると私の心に、先ほど読んでいただきましたヤコブの一章二十一節から二十四節のみことばが心の中にとどまりました。

『ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。』

 その中でまず、こういうことが書いてあります。

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。」

とあります。まず私たちは聖さを持たなくてはいけません。礼拝で多くのみことばを聞き、みことばによって教えられます。しかし現実の生活に戻ると忘れてしまいます。聖さを身につける必要があり、聖さを頂くためにはみことばを素直に受け入れなさいと教えています。

 私は今年、車の免許証書き換えがあり、ゴールド免許が続いています。その免許証をもらう間、講習を三十分間弱受けました。その時自動車と自転車の事故だとか、自転車同士の事故等の映像を見させられ、その時は緊張し帰る時は気をつけながら、帰ります。しかし次の日になると、もう忘れてしまいます。

『すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。』

とにかく聖さを身につけなければ行けません。「汚れ、悪を捨て去り」とあります。あなたが汚れや罪をまだ持ち続けているのならば、自ら捨てる決心をしなければいけません。そしてみことばを素直に受けいれる必要があります。そして、二十二節は、

『また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。』

毎週すばらしいメッセージを聞きますが、知らない間に忘れてしまいます。天と地の間に、暗闇の力が入り、みことばを奪い取って行きます。私たちはみことばを聞くだけでなく、実行できるようにしたいと思います。
 話は変わりますが、皆さん良くご存じの日本のことわざの中に、「絵に描いた餅」という言葉があります。
『絵に描いた餅 』
【読み】えにかいたもち
【意味】絵に描いた餅とは、実際には何の役にも立たないことのたとえ。
     また、実現する見込みがないことのたとえ。

と辞書に掲載されていました。私は今回「みことばを実行する者になりなさい」というみことばを語ろうと準備している時、信仰生活が「絵に描いた餅」状態になっていないかと点検させられました。聖書のことばは今も生きています。救い、勝利、いやし、解放など、主がなされた様々な出来事が書かれており、その神は今も生きている。またイエス・キリストを真の神として、信じ受け入れてクリスチャンになりました。しかしその神のことばであり、生きた書物である聖書六十六巻がただの『絵に描いた餅』で、何の役にも立たない、実現する見込みがないことばに成り下がってしまっています。この聖書と自分の生活とが全く食い違っている、ただの絵になってしまっています。神が様々な形で私たちに示して下さっても、信じる事ができない。実行する事ができないのです。

 また、もう一つ、日本のことわざの中に「宝の持ち腐れ」という言葉があります。
『宝の持ち腐れ』
【【読み】たからのもちぐされ
【意味】1 役に立つ物を持ちながら、使わないでしまっておくこと。
    2 才能・手腕がありながら、それを活用しないこと。

いくら高価な洋服を買っても、着なかったら宝の持ち腐れです。また様々な資格の免許を取得する人もいます。しかし一度もその免許を使うことなく、宝の持ち腐れになっている人もいます。ルカ一章三十七節のみ言葉の中に、

『神にとって不可能なことは一つもありません。』

とあります。手に入れたものを何も使用しなかったら、宝の持ち腐れです。昔メッセージのなかでこんな事をよく耳にしました。

「ある人が日本からアメリカへ船旅しました。彼はお金がない中、やっとの事で船のチケット購入し、乗り込みました。何日間もかかる航海でした。船には食堂が備えられており、そこではいつも美味しい食事が提供されていました。しかし彼は船のチケット代を支払ってしまったため、お金がなく、腹を空かせながら、羨ましそうに、いつもその食堂の前でで、食事している人たちを眺めながら、空腹に耐えていました。大分たったある日、「どうしてあなたは食堂で食べないのですか?」とある人が訊ねてきました。彼は「船旅のチケットを買い、それ以上の持ち合わせがないため食堂では食べることができないんですよ。」と語ったそうです。すると「何言っているんですか?その船のチケット代の中に全行程の食事が込みになっているんですよ。知らないんですか?」と言われたそうです。しかし気がついた時にはアメリカに着く寸前だった」

という話を聞いたことがありますが、本当は資格、権威があるにも関わらず、ルカ一章三十七節で、『神にとって不可能なことは一つもありません。』と言うみことばを信じる事ができず、堂々と、このみことばを使うことをしないため「絵に描いた餅」「宝の持ち腐れ」状態で、クリスチャンでありながら苦しみ、大変な生活を送っておられる方がいます。戦わないから、みことばを宣言しないから、みことばの権威を活用しないために、苦しいだけで終わってしまっている方がいます。
 現代に置き換えて言えば、東京に行こうと思う時、良く新幹線を使いますが、その時はまず東京までの切符、チケットを購入します。私たちクリスチャンは、新幹線乗車券とともにグリーンのチケットもあるのです。どんなに帰省ラッシュで激混みの時であろうと、どんなに大きな荷物を持っていたとしても、荷物を置いてゆったりと旅を楽しみながら東京まで行く事ができるのです。しかしそんなグリーン車のチケットがありながら、なぜか激混みの自由席車で立ち続け、重たい荷物も降ろす事もできず、苦しみに耐えながらやっとの思いで東京に行くのです。同じ東京に行くにも雲泥の差です。みことばを宣言しない、みことばの権威を活用しないために、苦しいだけで終わってしまいます。みことばは生きています。今も働く力ある神のことばです。

 いつかこんな列車に乗ってみたいなと思う列車があります。それはJR九州で走っているのですが

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 クルーズトレイン「ななつ星 in九州」という電車です。外観もすごいと思うのですが、車内はこんな感じなのです。
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 一流のベッドがあり、ソファがあったり、そして車両一番後ろの所は、全部後ろがガラス張りの展望車になっています。そしてご当地の食材を使った最高の料理を楽しむ事ができるそうです。

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 ほとんどチケットが取れない状態だと聞きましたが、魅力がある列車です。私たちクリスチャンはこのような、夢のような日々を過ごす事ができるはずです。しかし、あえて、私たちはこういう所に乗り込んでしまいます。

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 東京の通勤列車に乗られた事のある方はおわかりだと思いますが、押されて詰め込まれるのです。クリスチャンでありながらこんな列車に乗り込んでおられる方がいます。また、インドにこんな列車があるみたいです。

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 落ちそうになりながら、激混みな列車で苦しみながら生活をしています。神のことばが「絵に描かれた餅」「宝の持ち腐れ」状態になっています。今日、ぜひみことばを知っているだけではなく、みことばを実行する者になっていただきたいのです。みことばを実行するという事は、聖書に素晴らしい事として書かれています。

 ヘブル人への手紙五章十二節~十四節(リビングバイブル)、

『あなたがたは、もう長い間、クリスチャンとして生きてきました。もうほかの人を教えても当然なのに、もう一度、神様のことばのイロハから手ほどきしてもらわなければならないほど、だめになっています。まるで、固形物を食べるまでには成長していないので、いつもミルクばかり飲んでいる赤ん坊みたいです。クリスチャン生活のごく初歩のところを行きつ戻りつして、善悪の区別さえ、おぼつかない状態なのです。要するに、まだ赤ん坊のクリスチャンです。あなたがたがもっと成長し、正しい行ないをすることによって、善悪の区別がつくようになるまでは、堅い霊の食べ物を食べることも、神様のことばの深い意味を悟ることも、むりでしょう。』

十四節に、『正しい行ないをすることによって、』信仰が成長していくのです。赤ちゃんは生てすぐに立つことは無理です。おっぱいを飲んだり、身の回りの世話を全部してもらいながら、少しずつ成長していくのです。親がすべて責任を持って育てます。そして少しずつ成長していく時、自分でできるようになっていくのです。私たちはこのみことばのように、成長していく器にならなくてはダメです。いつまでも赤ちゃんであってはなりません。みことばを実行、堅い食物を食べられる器になっていきたいと思います。

 またこれも余談なのですが、子どもたちと接しているとおもしろい事があります。誰が言ったとは言えませんが、先週の礼拝のことです。滝元順牧師がメッセージしている時、「ねぇねぇ!」と、一人の子が私に聞いてくるのです。『何?』と小さい声で聞くと、「権威って何?」とか、「領域って何?」とか理解できないことばを質問してきました。私は彼が解るように教えつつメッセージを聞いていました。すると一人の子どもが、「ねぇ。順先生って小さい時からあの髪型?」と言うのです。私は、思わずメッセージ中でしたが吹き出してしまいました。『なんでそんなこと聞く?』と言うと、「ふと思ったから?」と言うのです。『じゃぁ、あなたの同級生にああいう髪型の子いる?』と聞くと、「いない。」と言うのです。私は子どもに解るように説明してあげました。子どもはわからないから質問し、理解して成長していくのです。

 先ほどお読みしたリビングバイブル、ヘブル五章十四節に
『正しい行いをすることによって、善悪の区別がつくようになるまでは』

と書いてあります。私たちは礼拝とか、家庭集会などで、あるいはサンデースクールに出席し、そのみことばを実行する器になっていきたいと思います。

 マタイ七章十七節~二十一節ではこのように書いてあります。

『同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。』

マタイ七章二十一節、
『わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。』

 神のみこころを行うことが、天の御国に入ることができるとあります。私たちは聖くなければ、妨げようとする悪魔に戦う事ができず、

『良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。』

 聖さがないため火に投げ込まれてしまうのです。だからみことばを読んだり聞いて、みことばを行う者になる必要があります。聖さを持ち続けて行きましょう。

 そしてその後のマタイ七章二十四節~二十七節、

『だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」』

 二十四節にあるように、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者が、岩の上に自分の家を建てることができる。」しかし「行わなかったならば、砂の上に家を建てて、雨が降ったら倒れてしまう」とあります。二十七節の最後の所では、『しかもそれはひどい倒れ方でした。』とあります。ですからみことばを行い岩の上に信仰の家を建てあげましょう。倒される事がないように気をつけましょう。

 神は日々、様々な形で私たちに語って下さって下さる時があります。その神の声をしっかり聞いて生活しましょう。みことばどおりの生活。みことばの権威を持って、宣言していきましょう。できる事から実行していきましょう。私にも子どもがいますが、小さい時、熱が出て、動けないようなひどい状況の時に、「風邪をひいたというのは、日頃体力をつけていないからだ!体力をつけなきゃ駄目だ!と叱り、苦しんでいる子どもに、今から体力つけるために外に行って走って来い!」なんて、寒い日に子どもを走らせるようなことはしません。看病してあげるのです。そして、少しずつ回復して来て、運動できる体になったら、これからの予防のために走らせたり、体力をつけさせます。同じようにできない状態の時に、「これをしなさい!」という神ではありません。できる事から実行していけばよいのです。神様はあなたの今の状況、全部ご存じです。あなたができる事を実行していけばよいのです。その都度必要に応じて語って下さいます。

 私は何度か韓国に行かせて頂きましたが、初めて行かせて頂いた時のことです。二十才頃だったと思いますが、滝元明牧師と韓国の伝道者の方と、初めて韓国で伝道会をさせて頂いた時に、私も同行しました。その時、お母さんと娘が三人いらっしゃる家にホームステイさせて頂きました。とても良くして下さったことを思い出します。その家の二番目のお嬢さんが内蔵の病気で辛いものを絶対に食べるなと医者に言われており、食事のときにキムチや韓国料理を頂いている時、お母さんに泣いて訴えていました。私は「どうしたんですか?」とお母さんに聞くと、「辛いものは食べるなと、お医者さんに言われているでしょう?」と叱ったら「キムチが食べたい」と泣いたというのです。私はかわいそうだなぁと思い、心の中で「この子のために祈ってあげたいな。」と思いました。しかし言葉も通じないしと思い、祈ってあげる事ができませんでした。そんなある日、韓国の牧師先生が一人の奥様を紹介してくださいました。その方はその牧師先生の教会の役員をされておられる方で、神さまから「預言の賜物」を頂いておられる方でした。そして日本から行った者、一人一人祈って下さいました。私に祈ってくれた後、私に「このみことばがあなたのために与えられました」と、神さまから語られた事を言って下さいました。私に「あなたは、祈ってあげたいと思った事、実行しなさいと思った時に、しなかった事がありますね?神は素直に従い実行しなさいと言われています。」と言われました。私はホームステイ先の娘さんの事を誰にも言っていませんでしたので、とても驚きました。「実行する者になりなさい。」と言われた事を覚えています。
今日あなたに神は「このことをしなさい」「この人のために祈りなさい」「この人に愛を注ぎなさい。」など語っておられるかも知れません。またみことばを読む時、あなたの心に教えられる事があると思います。実行しましょう!神様が様々な方面を通して、私たちに語ってくださった事に対して「実行する者になりなさい。」と主は言われます。

 私が昨年の暮れのカウントダウン・ワーシップにおいて二〇一五年のためにみことばを語らせて頂いた箇所がイザヤ四十二章九節です。

『先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。』

神様は、『新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。』と教えて下さいました。祈る事、実行しなくてはいけないことを先々に神様が教えてくださる。そのポイントを絶対に逃してはいけない。先々に取りなす一年にして行きたいと教えられました。もう一度今回そのみことばを思い出して祈っている時、第二列王記の六章のみことばを思い出しました。Ⅱ列王記六章八節~二十三節

『アラムの王がイスラエルと戦っているとき、王は家来たちと相談して言った。「これこれの所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人をやって言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラムが下って来ますから。」 そこで、イスラエルの王は神の人が告げたその場所に人をやった。彼が王に警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は怒りに燃え、家来たちを呼んで言った。「われわれのうち、だれが、イスラエルの王と通じているのか、あなたがたは私に告げないのか。」すると家来のひとりが言った。「いいえ、王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めなさい。人をやって、彼をつかまえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる。」という知らせが王にもたらされた。そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真中に来ていた。
イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」 エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。』

アラムとイスラエルの戦いの時です。アラムが作戦を考えイスラエルに戦いを挑むのですが、すべてイスラエルは作戦を知っていてやられ放しでした。まるでスパイがいるかのような状況でした。アラムの家来のひとりが「王さま。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げている。」と伝え、今度はエリシャをとらえようとしました。そしてアラムはエリシャ一人を捕まえるために馬と戦車の軍隊がエリシャを包囲しました。朝天幕から出た若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言って若い者の目を開き、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。アラムがエリシャに向かって下って来た時全員の目を見えなくさせ、アラムの人々を「私がおまえたちを探している神の人のいる所に連れて行ってあげるよ。」と言って、連れて行ったのが、サマリヤでした。サマリヤの国の真ん中に連れて行き、目を開けさせ、アラムの人たちにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」と言い、盛大なもてなしをして、帰らせました。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかったとあります。

 エリシャの神は私の神です。私が今年、与えられたみことばのように、「新しい事を私たちに告げよう。それが起こる前にあなたに聞かせよう。」とあります。私たちが、エリシャの油そそぎを頂き、先々で神に示して頂き、実行していく者とさせて頂きたいと思います。

 有名なみ言葉のルカ十章十九節、

『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』

 聖書は私たちに神の権威を授けられている。神の権威を持った私たちが、信仰もって祈る時、その通りになっていく必要があります。

 昔、韓国の先生がこの教会でメッセージをしてくださった話を、今でも覚えています。それは時計の奥の奥の奥のほうに入っている、小さな歯車が、一つ回ったら、次の歯車に力を伝え、次々と力を伝える。小さな働きだと思っていても、あなたがみことばを実行したら、次の歯車を持っている人がみことばを実行し、大きな動力を生み出すことができる。そんなメッセージでした。あなたが示されたこと、教えられたことを実行したら、敵を打ち勝つ権威をいただいていますから、その権威によって勝利を見ることができます。

 また有名なみ言葉ですが、マタイ七章十一節、

『してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』

とあります。あなたは神の子です。求める者に良いものを下さらないことがありましょうとあります。求めるた時に与えられます。

 エペソ四章九節、

『あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。』

 ここに、『学び、受け、聞き、見たことを実行したら、主が共にいて、先ほど言ったように、権威がある、求めたものは、神が必ず与えてくださるということです。
 先ほど読んだみことば、マタイの七章二十四節、岩の上に、自分の家を建てるものだということですが、みことばを実行する時あなたは守られ、揺るぐことなく、勝利を頂くことができるのです。

 絵に描いた餅のようなものではなく、宝の持ち腐れのような者でもなく、このイエス・キリストを信じ、神の特権をもって働く時大きな勝利を頂くことができます。みことばを実行しましょう。神がしなさいと言うことをしましょう。聖さをいただきましょう。そして今週まず一つを実行してみてください。みことば、神がしなさいと言うことを実行しましょう。
 今日、「これをしてほしい。これをしてほしい。」と、主が語ってくださっていることに対して、私たちは聞くだけではなくて、実行する器になっていきたいということを語らせて頂きました。これは信仰生活の基本中の基本です。最後にお祈りして、聖餐をいただきたいと思います。お祈りします。

 愛する天のお父様、今日みことばを実行しなさいと語らせて頂きました。私たちは教えられていながら、なかなか実行できない者です。赦してください。今週、実行する力、油そそぎを下さい。神様私にいつも語ってください。そしてその語られている言葉を聞くことのできる耳を与え勝利を頂くことができますように。実行できる器に、この聖餐を通して、私を造り替えてください。触れて下さい。主よ、来てください。この地に来てください。御国が来ますように。一日も早く、この地に、あなたご自身が来て下さいますように主の御名によってお祈りします。アーメン。