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『主の夢を叶えるために!パート7
 ~全員参加の神の国プロジェクト~』

2015年10月11日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ヨシュア記8章1節〜4節

『主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け。」そこで、ヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をした。ヨシュアは勇士たち三万人を選び、彼らを夜のうちに派遣した。そのとき、ヨシュアは彼らに命じて言った。「聞きなさい。あなたがたは町のうしろから町に向かう伏兵である。町からあまり遠く離れないで、みな用意をしていなさい。』

 ハレルヤ!みなさん、おはようございます。今もすばらしい「息よ四方から」のピアノ演奏を聴いたのですが、料理人で料理は変わるものですね。いつもの「息よ四方から」とは全く違う感じでした。後藤さんは月に一度、豊川市民病院でコンサートを開いています。多くの方が、ざわめきを彼女流にアレンジした演奏で癒されています。本当に感謝です。

 今週は、楽しみにしてください。天野先生が来てくださいます。私の尊敬し、友人でもあるパスター天野が来て、すばらしいメッセージを語って下さいます。
 今日のメッセージの題、「主の夢を叶えるために!」は、去年、天野先生が来てくださった時に、「新城教会が、主の夢をかなえる教会になるように。」と、主からの預言的な言葉を語って下さいました。ある意味、あの聖会は一つの大きな転機だったと思います。私たちクリスチャンは、神の夢を実現するために存在しています。自分の夢の実現のために神様を利用してはいけないのです。神様の持っておられる夢を実現するために、私たちは存在しているのです。

 今週も、いろいろなプログラムがあります。土・日は天野先生が来て下さいますが、同時に、インターナショナル部会では、ベネレッチ先生が来られて聖会があります。日本人のパートも、インターナショナルのパートも、聖霊によって燃えていきましょう!という週です。

 そして今週は、火曜日から金曜日まで、韓国から十名の方々が新城教会を訪問してくださいます。私は八月に韓国を訪問したのですが、「アグロ−」という、女性たちのよく祈る方々の集まりで、奉仕をさせていただきました。そこで語ったメッセージが、相当彼女たちに響いたらしく、「ぜひ日本に行きたい!日本のためにとりなしたい!」と言われました。水曜日はその方々と一緒に、礼拝を持つことにしています。おなじみのチェ先生ご夫妻も来てくださいます。是非とも覚えて祈り、水曜主日礼拝にも参加していただきたいと思います。

 今週、主が大きなことを為してくださるように、天と地の狭間に立って祈る者となりたいと願っています。

 先週、私は北海道で奉仕させていただきました。くんねっぷという場所で奉仕をさせていただきました。

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北海道の東のほうですが、その辺は本当に広いです。見渡す限り畑という場所です。あまり人口は多くないのですが、その地域で一生懸命奉仕をされている先生夫妻がおられます。毎年その教会に行って、奉仕をさせていただいております。人口三千人くらいの村です。
 その教会に出入りしている方々は、皆、農家の方々です。今回は、農家のおじちゃん、おばちゃんたちがゴスペルクワイヤーを編成して賛美してくれました。

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北海道の方々の賛美を聴いて、感動しました。歌がうまいのです。新城教会のクワイヤーもうまいですが、北海道にはちょっと負けているかもしれません。
 なぜかというと、北海道の農家の人たちはいつも広い畑で仕事をしていて、大きい声を出しているそうです。広いたまねぎ畑で、「おーい!」と大声で叫ばないと聞こえません。また、夫婦で機械を挟んで仕事をしていて、大声をあげないと伝わらないし、機械は危険ですから、「危ない!」と、いつも大声を出しているそうです。それで自然と声が豊かになって、聖歌隊がうまいというのです。だんだん西のほうに向かうと、声が小さくなり、東京は分からないくらい声が小さくなります。

 神様は、すべて無駄なく働いておられます。近頃、新城教会に一人の方が来られて、その方の出身地を聞きました。そうしたらなんと、くんねっぷの隣の置戸町が出身でした。私たちは誰かが教会に来られたら、出身地にとりなしに行きたいと願っています。なぜなら人は、出身地で人格が形成され、霊的な影響も受けるからです。出身地のとりなしは、大変重要です。出身地のとりなしをすると、やはり変わります。
 私はそこにも行って祈りました。広い北海道で、地域が重なるのは、なかなか難しいことだと思いますが、すべて主が時に応じて美しい働きをされるのを感じました。

 日本も広くて、それぞれの地域に、それぞれの文化や習慣、歴史があります。案外、日本人って、歴史を知っているようで知らないのです。日本は、どういう国ですかと聞かれたら、北海道から沖縄までと答えるのですが、北海道と沖縄は明治時代になって、日本に繰り入れられました。かつて北海道は蝦夷地と呼ばれ、日本ではなかったのです。どういう人たちが住んでいたかというと、アイヌ人が住んでいました。

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 永易先生ご夫妻は日吉信也君の奥さんの実家です。
 これは何年か前に父が行った時の写真です。

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 畑のコンテナーはたまねぎです。こういう所でたまねぎは生産されているわけですね。

 先週は大きなニュースがありました。それはTPPが大筋合意したニュースです。みなさんはTPPに関して、どのくらいの関心を持っているかわかりませんが、TPPは環太平洋の経済圏です。

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 北海道の農家は、大変心配していました。海外から安い農作物が入って来たら生きていけないと心配していました。時代って、変わっていくものです。確かなものは、ほとんどこの世には存在しません。まさかこんな経済圏ができるなんて、昔は誰が考えたことでしょう。
 私は決して変わらないものについて話しました。「一つだけありますよ。それがイエス様です!」とお話しさせていただきました。

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 少し話が飛んでしまいましたが、北海道は、元々アイヌ人たちが住んでいた場所でした。実は、日本は、今から二千年くらい前、沖縄から北海道までアイヌ系の人たちの国でした。日本人は単一民族だと思っていますが、単一民族ではありません。この考え方を捨てなければいけません。

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 その後、朝鮮半島のほうから、弥生系の人たちが入って来て占領したわけです。元々住んでいたアイヌの人たちは、北と南に追いやられて、残りました。沖縄と北海道の人たちは、DNA配列が同じであることが証明されています。現在、本州に住んでいる人たちの多くが、朝鮮半島から入って来た人たちの子孫です。日本人は、大きくいえば、縄文人と弥生人が重なってできた民族です。日本中に古墳が多くあります。残っている古墳だけで、二十万基くらいあるというのです。

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 今週は韓国の方々が来てくださいますが、韓国と日本の間には、様々な偏見があったりします。しかし元々、私たちは向こうからきた渡来人です。特に縄文人たち、アイヌ人たちに対して、大きな罪があると思います。その人たちを殺し、支配し、遠くに追いやった罪です。大きい古墳は、誰が作ったと思いますか?渡来人が作るはずはないのです。支配者は重労働なんかしませんから。建造の為に動員されたのは、縄文人たちが奴隷のよう使われたのではないかと思われます。
 日本の歴史を正しく理解しないといけないと思います。近代史なんか、ほとんど教えてくれないし、正しい歴史は教えられていません。しかしクリスチャンは、正しい歴史観と、正しい世界観を持つことが重要です。聖書のみ言葉を正しく理解するためには、大変重要だと思います。
 私は今回、置戸町に行ってびっくりしました。

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 これは中国・朝鮮人の「殉難慰霊碑」です。北海道は、中国や朝鮮から強制的に連れてこられた人たちによって、鉄道が引かれたり、炭鉱が掘られたりしました。世界の歴史は、支配のくり返しです。これからもその歴史は続くと思われます。真の平和、真の喜びはいつ訪れるのか。イエス様がこの地上に帰られ、王となって治めてくださる日が来ない限り無理です。

 私たちクリスチャンは、新しい天と新しい地の創造を願う者たちです。イエス様が地上に帰って来られて、世界の王となってくださるというゴールを目指して励んでいかなければならないのです。

 今日も「主の夢を叶えるために」と題をつけましたが、主の夢とは何か、それは、「新しい天と新しい地の創造!」です。聖書の大枠のストーリーは、天地創造から新しい天と新しい地の創造です。聖書を人生のマニュアルとしたり、生活の基準として受け取ることが多いのです。それも間違いではないのですが、目的、結論は、新しい天と新しい地の創造です。私たちが救われたのは、神様の夢をかなえるためです。

 出エジプトからカナンの地に入るまでの物語は、天地創造から、新しい天と新しい地の創造という、壮大なプロジェクトの縮小版です。エジプトを脱出したイスラエルの民は、四十年かかって、カナンの地に辿りつきました。カナンの地に入国したのは、モーセの世代ではなく、ヨシュアの世代でした。この頃、ヨシュア記から学んでいますが、今日読んだ聖書箇所も、ヨシュア記からです。
 ヨシュアをリーダーとして、若い世代がカナンの地に入りました。しかしすぐにカナンの地がイスラエルのものになったわけではなかったのです。そこには様々な戦いがありました。それはカナン人から土地を奪い返していくストーリーです。そこは元々イスラエルの土地でしたが、長い年月、留守していた為に、カナン人たちの土地になっていたのです。それを取り戻す働きが、旧約聖書の歴史です。

 現代において、それらは何を意味するかというと、宣教の働きを意味します。世界は悪魔の支配下にあり、多くの人たちが、イエス・キリストを知らないで生活しています。私たちクリスチャンが福音を伝えるのは、宣教の働きによってなされます。宣教は、カナンの地を勝ち取った、ヨシュアの世代になぞらえられるわけです。
 それと共に、救われるとは、暗闇から光、サタンの支配下から神の支配に移されることですから、ヨシュアたちが行った現実的な戦争は、現代においては、霊的戦いに置き換えられます。悪魔が覆いとなって、人々を救いから遠ざけていますから、覆いを打ち破らない限り、光は届かないのです。
 クリスチャンの戦いは、銃を持って戦うことではないのです。霊的戦いです。人々を解放するためには、み言葉を語り、暗闇の力を打ち破る霊的戦いが必要です。

 カナンの地に入国したヨシュアとその民は、まず、エリコという町で戦いがありました。エリコの戦いは、不思議な戦いでした。

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 それは礼拝と、戦いが表裏一体となって勝利した戦いであったからです。前回のメッセージを思い出していただきたいのですが、イスラエルは荒野を旅していた時、礼拝する場所、幕屋を持っていました。祭司たちはそこで仕えていました。雲の柱、火の柱が立って、神の臨在がありました。しかしカナンの地に入ったら、礼拝のスタイルは全く変えられました。
 世代が変わると、主は、世代に与えられた目的に合わせて、礼拝スタイルも変えられるのです。神様のお姿も変わりました。雲の柱、火の柱で現れていたのが、軍隊の将軍のような姿で現れました。そして戦場が礼拝所となったのです。

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 エリコの西側にアイという町がありました。アイを攻めることになり、ヨシュアは偵察隊を送りました。偵察から帰って来たヨシュアの家来たちは、こんなレポートをしました。ヨシュア記七章二節〜三節にあります。

『ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々に次のように言った。「上って行って、あの地を偵察して来なさい。」そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」』

 エリコは結構大きな町で、必死で戦ったのですが、アイという町は、あまり大きな町ではありませんでした。偵察隊も「二、三千人兵隊を送れば十分でしょう。」と進言しました。ヨシュアもそれを聞いて、「三千人で十分だろう。」と三千人の兵隊を送りました。
 そうしたら、予想に反して戦いはボロ負けで、多くの戦死者を出しました。その戦いは予想外の戦いとなってしまいました。それが七章四節〜五節です。

『そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。アイの人々は、彼らの中の約三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった。』

 絶対に勝てると思っていたら、勝てなかったのです。がっかりしたのです。
 しかしその後、もう一度、主はアイを勝ち取る戦いを命じられました。その時の場面が、今日読んだヨシュア記八章一節〜四節までです。今話した前提を知って、ここを読むとよく分かるのですが、ヨシュア記八章一節〜四節、

『主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け。」そこで、ヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をした。ヨシュアは勇士たち三万人を選び、彼らを夜のうちに派遣した。そのとき、ヨシュアは彼らに命じて言った。「聞きなさい。あなたがたは町のうしろから町に向かう伏兵である。町からあまり遠く離れないで、みな用意をしていなさい。』

 簡単にアイを攻め取ることができると、みくびっていて、敗北しました。その後、神様が、「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。」と語られたのです。
 案外、私たちは信仰生活の中で、出来事にそれぞれの重みをつける傾向があります。「この戦いは大きな戦いだ!だから、真剣に戦わなくちゃ!」「こんなのは大した戦いじゃないから、ちょっと気を抜いてもいいかな。」と。信仰生活の中でも、また一般の生活でも、物事にそれぞれの重みをつけて、差をつけるわけです。
 しかし、それは良いことではないと神は語っています。このアイという町は小さな町だったけれど、「全員で戦え」と言うのです。全員参加で戦えというのです。『戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。』と語られています。

 私は、二十数年前に行われた甲子園ミッションや東京ミッションのDVDチェックの仕事を最近頼まれ、見ています。甲子園ミッションは一九九三年に行われたのですが、それを見ると感動します。よくぞ、こんな集会できたものだと思います。そこに出ておられる先生方も、いまでは結構、亡くなられています。田中先生も父も亡くなりました。三橋先生、松見先生とか、当時一緒に奉仕した先生方がすでに亡くなっておられるのです。死人ばかりが登場するビデオを見ている感じです。年月が過ぎるのは早いなぁと思います。甲子園ミッションは、日本の将来をかけた霊的戦いで、一丸となってやりましたよね。
 でも、あまり大きな活動でなければ、「そんなに真剣にやらなくてもいいかな。」とすぐに思ってしまいます。しかし、どんな戦いでも、全員参加で全力で戦うことを、主は願っておられます。
 「この事に関しては真剣に祈る!しかし、この事はちょっと手を抜いてもかまわない」ではないのです。神様とは、常に、全身全霊で関わる事が大切です。
 ヨシュア記八章一節の言葉って、すばらしいですね。

『主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。』

 この言葉を、新城にもいただきたいです。新城を福音化するために、全員で全力で福音を伝えなさい!この町を覆っている暗闇に立ち向かいなさい!と、そうしたらこの町を、この地を、あなたにあげますよ!という、言葉をいただくことができたら、どんなに幸いでしょう。
 また日本を勝ち取るために、全力で戦っていく時、主は日本を私たちの手に与えてくださるのです。日本はクリスチャンが少ないです。人口の一パーセント以下です。礼拝を守っている人たちは、全国に八千くらいの教会がありますが、合わせて二十数万人だと言われます。ということは、生きているクリスチャンは、人口の〇・二パーセントくらいになります。
 今、八千くらい教会がありますが、これからの十年で、三分の一は消えると言われます。なぜなら牧師たちが高齢化し、継ぐ人がいないからです。三分の一が十年以内に消えるという統計が出ているのです。寂しいですよね。
 しかし、救われている者たち全員が、主の前に出る時、この国をあわれんでくださるのです。その日が来ると信じます。
 神様の国のプロジェクトは、全員参加でなければならないことを教えられます。神様のプロジェクトは、新天新地の創造ですが、そのためには、今選ばれている者たちが、全員で力を合わせ戦う時、新しい天、新しい地が創造されるのです。
 アイで敗北したのには、一つの理由がありました。それは、ヨシュア記七章一節で、主はこんなことを語っています。

『しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで不信の罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。』

 なんと、エリコを攻めた時、アカンという人が、ちょっとあかんことをしたわけです。神様が手を付けちゃいけないというものを盗みました。そして、神様の言いつけに反した行いをしました。そのことが原因になって、後の戦いに負けてしまったのです。
 ヨシュア記七章十三節には、こんな言葉があります。

『立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。『イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。』

 教会に来ると、「罪を悔い改めて聖くなりましょう」ということを聞きます。なぜだろうと思うかもしれませんが、神のプロジェクトに参加し、敵に勝利するためには、罪を取り除くことが重要だというのです。
 私たちは毎週日曜日に集まり、自分を点検します。それは、霊的戦いに勝つためでもあります。『あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。』とあるように、霊的戦いに勝利するためには、「聖くなる」ことが大変重要です。
 案外私たちは「このくらいはいいだろう・・・」とか、「このくらいは妥協してもいいだろう・・・」と、基準ができてしまいがちです。しかし、そうではなく、常に十字架の血潮を仰ぎ、聖くなることが重要です。
 今、私たちには、十字架の血潮がありますから、旧約の時代のように恐怖に思わなくてもいいのです。罪を神の前に告白したら、赦されるのですから、常に自分自身を省みることが、敵に立ち向かい、勝利する秘訣です。

 アイという町で、戦いに負けた原因を総合し、分析してみると、一つは罪があったことです。現実的な戦争が、アカンが犯した罪によって敗北したのです。罪とは見えない世界の問題ですが、それが見える世界に大きな影響を与えることがわかります。常に聖さを求めることは、現実世界を勝ちとるカギです。

 そしてもう一つの原因は、「人間的な基準で物事を見た」ことだと思われます。エリコの戦いの時は、ヨシュアも民も、事が大きかった故に、人間的な法則は全く通用しないと考えたと思います。だから主に「どうやって戦ったらいいのですか?」と、真剣に祈ったと思われます。それ故に戦いに勝利する戦略と戦法を教えてくれました。
 しかし、アイでの戦いは、大したことない町に見えたのです。だから、主に聞かないで、人間的な判断に頼ってしまったのです。その結果、敗北を喫してしまったということです。
 人生において、様々な判断をしなければならない局面に立たされます。その時には、事の大小にかかわらず、主に聞いて、戦略、戦法をいただくことが勝利の秘訣です。
 今週もいろいろな局面に立たされるかもしれません。しかし、一つ一つのことを、人間的に決めるのではなく、主からの戦略、戦法をいただいたら勝利できます。案外、気を抜いて、「こんなのは大したことない。」と考えると、アイの戦いのように、敗北に結びついてしまうのではないかと思います。
 リバイバルミッションの働きや、様々な宣教活動においても、甲子園ミッションの時には真剣にやったけれど、今年のミッションは大したことないから適当にやればいいと考えてはいけないと思っています。
 リバイバルミッションのために祈っていただきたいのですが、来年は、四十七都道府県を巡って宣教活動をすることにしています。四十七都道府県、すべての県で集会をやりましょう!と。でも、大きなチームが出向いて行くわけではないのです。講師一人とゲスト一人くらいを遣わすわけです。「誰かが行ってくれるからいい」というのではなく、甲子園ミッション以上の緊張感を持って、全員参加で全力で戦って行く必要があると思っています。

 アイの戦いも、一度は敗北しましたが、もう一度立ち向かうように、主はヨシュアを励まし、最初の戦いでは三千人しか戦いに行かなかったけれど、ヨシュアは三万人を遣わしたと記録されています。八章三節に、

『そこで、ヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をした。ヨシュアは勇士たち三万人を選び、彼らを夜のうちに派遣した。』

 えらい違いですよね。初めは三千人だったのが、夜のうちに伏兵として派遣された兵だけでも、なんと三万人というのですから、この時は全員参加でアイを攻めたのです。ゆえに勝利したのです。全員参加の意識を持っていただきたいですね。神の国のプロジェクトは、一人も欠けることができないのです。全員参加で悪魔に立ち向かう時、勝利が来るのです。

 土・日は天野先生が来られて、聖会を持って下さいますが、去年も聖霊様が働いてくださいましたが、今年はもっと働いてくださいます。期待してください。「去年はこのくらいだったから、今年はこんなものかな・・・」という、人間的な判断をしてはいけません。全員参加で臨むとき勝利が来ることを、知っていただきたいです。「あの人ががんばってくれているからいいや、、、」ではなく、全員参加です。神の国のプロジェクトには、全員参加であることを教えられます。

 しかしアイの戦いをよく分析すると、主から教えてもらって勝利したのですが、百パーセント主からのものなのか、疑わしい面もあります。それは後に起こった事件を考慮すると浮かび上がります。
 どうしてかと言いますと、ヨシュアはアイを攻めるための戦法を軍に告げているのですが、まずは三万人の伏兵を背後に置き、残った兵たちをどのように展開させたかというと、ヨシュア記八章五節〜六節。

『私と私とともにいる民はすべて、町に近づく。彼らがこの前と同じように、私たちに向かって出て来るなら、私たちは彼らの前で、逃げよう。彼らが私たちを追って出て、私たちは彼らを町からおびき出すことになる。彼らは、『われわれの前から逃げて行く。前と同じことだ』と言うだろうから。そうして私たちは彼らの前から逃げる。』

 これは、何を再現しようとしたかと言えば、アイでの敗北を、もう一度再現しようとしているのです。少ない兵がアイの町に近づいて行くと、アイの軍隊は、「また同じように来やがった!」と町から出て来ます。その時に、ヨシュアたちは後ろを向いて逃げる。するとアイの兵隊たちは、イスラエルを追って町から出て来る。その時、三万人の伏兵が、背後からアイの兵隊を叩き、町の中にも攻め込む作戦でした。なかなか知恵を使った作戦です。前回の敗北をうまく生かして勝利する作戦だったわけです。

 しかしこの箇所を読んで、その次に起こった事件と併せると、もしかしたら、ヨシュアは、神様から百パーセント、戦法、戦略を受け取ったのではなかったかもしれないと感じました。なぜなら、神がヨシュアを責めた理由に、「敵に背を見せた」と言う理由があったからです。「おまえたちは敵に背を見せただろう・・・」と。敵に背中を見せることが、問題になっています。
 アイでの戦いは、以前の敗北を再現して、敵に背を向ける戦法だったからです。神様は大枠では、「敵に背を向けるな!」と語っておられるからです。主が一番嫌われるのは、「敵に背中を見せる」ことです。
 信仰生活でも、敵に背中を見せるな!と、主は私たちに語っておられるはずです。戦いは、常にガチンコ勝負で行け!という事です。
 案外、私たちは、敵に背を向けて、ちょっぴり妥協して、それで勝利を勝ち取ろうとします。日本でのクリスチャン生活は、なかなか大変です。偶像の行事もいっぱいです。今日も花火がそこら中で上がっています。この時期になると、「祭りです。寄付をもらえますか?」と言われます。やっぱり地域の人のことを思うと、少しくらいお金を上げたほうがいいか、と考えるかもしれません。祖先崇拝の行事も、このくらいは妥協したほうが、後からの人間関係がうまく行くという、親族おびき出し作戦で勝ち取ろう!と案外、考えがちです。日本の教会ではガチンコ勝負を避け、敵に背を向ける宣教戦略が、案外多いかもしれません。
 しかし、これは必ずしも、主が喜んでおられる作戦ではないと思います。アイでの二回目の戦い、演技ではあっても、敵に背を向けたのです。だまし作戦で勝利したのです。
 その後、イスラエルに何が起こったかというと、ヨシュア記九章三節〜六節に、こんな事が記されています。

『しかし、ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行ったことを聞いて、彼らもまた計略をめぐらし、変装を企てた。彼らは古びた袋と古びて破れたのに継ぎを当てたぶどう酒の皮袋とを、ろばに負わせ、繕った古いはきものを足にはき、古びた着物を身に着けた。彼らの食料のパンは、みなかわいて、ぼろぼろになっていた。こうして、彼らはギルガルの陣営のヨシュアのところに来て、彼とイスラエルの人々に言った。「私たちは遠い国からまいりました。ですから、今、私たちと盟約を結んでください。」』

 ギブオン人たちは、どこに住んでいたのかといいますと、ここに地図があります。

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 ギブオンは、アイの西にある町でした。本来、ギブオンも、滅ぼさなければならない町の一つでした。しかしギブオン人たちは、エリコやアイがやられたのを知って、変装してやって来たのです。ぼろぼろの服を着て、乾いたパンを持って、「私たちは、遠い所から旅して来ました。あなたたちは、本当に強い民ですから、私たちを家来にしてください。同盟を結んでください」と言ったのです。
 ヨシュアは、まんまとギブオン人たちの策略にはまったのです。「おまえたちを子分にしてやる!水を汲んだり、薪を割ったりする者たちになれ!」と、盟約にサインをしたのでしょう。ちょうどTPPにサインするようなものです。「幸せになりますよ」と言われて、サインしてしまったようなものです。
 しかしギブオン人は、遠い所から来た民だと思ったら、なんと、すぐ近くの、本来は滅ぼさなければならない民だったのです。ヨシュアはコロッと騙されたのです。騙された原因はどこにあるのかと考えました。イスラエルはアカンの罪も除き、悔い改めたのにもかかわらず、だまされたのです。これは私の考えですが、「敵に背を向けたジェスチャー」がまずかったのではないかと思います。

 主は常に、敵とガチンコ勝負を願っておられるのにも関わらず、嘘でも、敵に背中を見せた行為が、ギブオン人に騙された原因になったかと思います。
 ギブオン人は、本来は滅ぼされる民でしたが、契約により、その後イスラエルの家来となりました。以来、イスラエルの領地に一緒に住むことになりました。
 しかし時代が進んで、二百年後、サウルという王様が王国を作ったわけですが、ギブオン人の問題が発生したのです。それが、第二サムエル記二十一章一節、

『ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。「サウルとその一族に、血を流した罪がある。彼がギブオン人たちを殺したからだ。」』

 サウルがイスラエル王国を作った時、民族意識が高揚したのです。民族意識って、本当に怖いです。あまり民族意識を強く持たないほうがいいです。民族意識を持つなら、天国人としての民族意識です。それ以外の民族意識は良くないです。必ず問題が起きます。世界で問題が起こっている原因は、強い民族意識です。サウルが王国を作った時、「イスラエル人だけが優れた民だ!」と、ヨシュア時代に入って来たギブオン人たちをいじめました。本来は、その人たちをいじめてはいけないのです。なぜなら、ちゃんと契約が結ばれていたからです。仲良くしなければいけないわけです。でも、民族意識が強くなり、ギブオン人たちをいじめたのです。
 その時に、何が起こったのか。この現実的問題が霊的な世界でも、影響をもたらしました。イスラエルに三年間、続けてききんが起こり、作物が取れなくなったのです。どこに原因があるんだ?
 普通、飢饉は、天候とか、様々な自然条件で起こります。しかし、神に聞くと、「ギブオン人たちをいじめたでしょう。だから、こういうことが起こっているんですよ。」と言われたのです。
 私たちは特定の人たちを差別したり、区別したりしてはいけないのです。イスラエルにおいて、ギブオン人はイスラエルに組み入れられた民だったのにも関わらず、民族意識が高揚して、その人たちを迫害したことにより、三年間もききんが続いたというのです。
 ダビデが、サウルの一族七人をギブオン人の手に渡し、ギブオン人がその人たちを処刑したとき、何が起こったかというと、第二サムエル記二十一章十四節、

『こうして、彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。』

 このように、長い歴史の中で起こった事柄を分析すると、神様のご性格がよくわかります。私たちの信仰生活にその法則を適用するなら、どのような事柄も全力で全員参加で戦い、罪を入れてはいけないことが分かります。また敵に背を向けたり、妥協してはいけないことも分かります。また、神は一度約束をしたら、決して約束を変えないお方です。
 これらはすべて、なんのためかといったら、「神の国の実現」のためです。そのプロジェクトに関わる条件です。私たちは、新しい天と新しい地がこの地に現れるために働いているわけですが、そのためには全員参加で、敵に対してはガチンコ勝負で、決して妥協することなく、福音を宣べ伝えて行く時、神の国は実現する事を教えられると思います。
 私たちはここから学び、もう一度仕切り直して、神の国実現のために、働いていきたいと願います。最後にもう一度、八章一節の所を読んでみたいと思います。

『主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。』

 やがてこの地球が主の手に陥る、その日を目指して、私たちは戦い続けていきたいと願っています。今から十字架の血潮を仰ぎ、聖餐式を行います。大変重要なことです。神様のみ前に出て聖めていただき、神様のプロジェクトのために参加します!と祈りたいと思います。一言祈ります。

 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。神の国のプロジェクトに全員参加で働きたいと願っています。どうか、私たちをその働きのために引き出してください。あなたの勇士として用いられますように。
 今、十字架の血潮ですべての罪を赦し、敵の前に立ち勝利を得る者として下さい。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。