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『あなたのエルサレムは?

2015年10月18日(日)
草加リバーサイド・チャペル 主任牧師 天野弘昌

 みなさん、おはようございます。主に大きく三回賛美をしたいと思います。ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!もう一度、最高の主に賛美をささげましょう。アーメン!

 今、順先生から過分な紹介をいただいて、どういう顔をして講壇に上ったらいいのか分からないのですが、こんな顔で来ました。
 昨年もお招きいただいて、ここには敬愛する私の大好きな、私の霊的なお父さんだと勝手に思っていたのですが、滝元明先生がいらっしゃって励まし、毎回の集会に「アーメン!」と言ってくださる先生の姿を見て、感激、感動というよりも、こんな器が日本におられるとは日本の宝だなと思っておりました。まだ悲しみの中にいる方もいらっしゃるかと思うのですが、先生が天に凱旋されて、ある意味では、すごく衝撃的というかショックで、今日はどのような顔をして来たらいいのかと、そんなことも覚えています。
 先生との出会いは、昨日も少し話をさせていただいたのですが、聖霊様による導きだったと思います。先生からいろんな事を教えていただいて、このような小さな者をリバイバルミッションにも呼んでいただき、光栄な限りでした。
 先生の後ろ姿は、まるで火の玉みたいな、火の玉と言ったら語弊があるかもしれませんが、いつも燃えているのです。私たちの教会にも何度も来てくださいました。その燃える理由は何かなと思った時、先生は、召し上がるものが私とは違うと思いました。高齢になられておられたので、湯葉とか、お豆腐のお店に予約をしました。結構高級なお店だったのですが、先生のお好みかなと思ってお連れしようとしました。すると、隣のとんかつ屋さんに目がとまられて、先生は「今日は、とんかつ食べたい!」と言われたので、予約をキャンセルして、私も楽しみにしていた京湯葉が、普通のとんかつになりました。本当に感謝でした。
 お昼は自由にお時間を過ごしたいということだったので、先生にお任せして、「夜は何を召し上がりますか?」と聞いたら、「焼き肉が食べたい。」と言われました。それで、良いお店があるので予約させていただきまして、私も肉にありつきました。その時に、「お昼に何を食べられましたか?」と、ちょっと興味があったのでお聞きしたら、「焼き豚を食べた。」と言ってですね、全部肉づくしで、先生のパワーは肉からも来ているんだなと思わされました。こんな話をしていると、メッセージがなくなってしまうといけないのですが。
 何よりも、先生は、肉を食べるだけではなく、本当に祈りの器で、何よりも、伝道のスピリットが溢れていて、それゆえに、主が天から窓を開いて、豊かな火、油を注いだんだということを、今でも本当に信じています。先生の残された足跡というか、この大きな霊的遺産が引き継がれて、次々と、お子さん、お孫さんだけではなく、この教会の開拓の草創期からずっと積み上げられた、涙の祈りと蒔かれた種が、こんなにも多くの実を結んでいることを覚えて、主の御名をあがめます。
 私たちの教会も、この教会に習いながら、ついて行きたいと思っています。やがて、追いついて、追い越したいなぁなんて、勝手に思っていますが、別に数の問題ではありません。どう考えても、追い越すことはできないと思いますが。

 今日は、「あなたのエルサレムは」というタイトルで、先ほど聖書を読んでいただいた箇所からお話をしたいと思います。これにちなんだDVDを、私はいろいろと駆使して、スーパーもつけました。大変恐縮ですが、英語圏の方も、分かると思いますが、スペイン語なのですが、アルゼンチンにも私は相当お世話になり、霊的な祝福を受けて変えられた者の一人なのです。では、拍手で、このDVDをまずご覧いただきたいと思います。ペンテコステの話です。よろしくお願いします。

<DVD再生>

 感謝します。ここに描かれている通りであります。昨晩は、ちょっと堅いお話をさせていただいたような気がします。試練についてお話をしました。冗談のように、試練なんてしれん!なんて、とてもじゃないけど言えないような現実が私たちの生活に起こりえます。しかしながら、信仰を持っている私たちには、試練を乗り越える力を神様が与えてくださいますし、時には知恵や、啓示的なものを与えて、試練を通して、患難を通して、私たちは忍耐を、また忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を与えるというお話をさせていただきました。
 実は私にとって、試練の歩みは、この二十二、二十三年の開拓伝道の中で、もう常日頃くり返されている大きな課題、問題です。
 しかしながら、このような聖会では、おそらく結構良い話をします。勝利的な話をします。主がこんな事をしてくださった!という話をいたします。しかし、毎日のようにそのようなことが起きていれば幸いなのですが、むしろ、それ以上に、問題が、戦いが、苦労が、苦しみが、痛みがたくさんあります。聖会の中でそういった、たくさんあることをシェアしたら、みなさんはたぶん恵まれないで帰って行くと思います。
 しかしながら試練を通して、神様が本当に物理的にはわずかなように思えることが、実は、私たちの霊的な内側を強め、信仰を成長させていくすばらしいものだということを覚えます。

 例えば、お子さんをお持ちの方はおわかりだと思います。子育ては大変だと思います。しかし、わずかな子どもの笑顔や喜びに感動して、親は熱心に子どもを愛を持って育てます。そのように、信仰というのは、神様と私たちの関係ですから、試練を通して、主はもっと親密な関係を、私たちと、Intimacyという言葉がありますが、私は大好きなのですが、主との深い交わりを与えてくださるのです。

 こんな前置きをいたしまして、「あなたのエルサレムは」みなさんは、ご自身はエルサレムの場所を、ちゃんと明確にされているでしょうか。今日、先ほどご覧頂きましたあの場所は、エルサレムにある二階座敷です。あの場所に天の窓が開かれて、聖霊がくだったわけです。そして、人々がつくりかえられました。そのつくりかえられた状況は、当時、ペテロはイエス様を裏切っていましたよね。しかし、つくりかえられて、偉大な神の器、命がけの器になったことが、そこに描かれた通りでありますゆえに、どんな試練にあっても、主の霊に満たされる時に、私たちは変革されます。つくりかえられます。

 さて、今日はさきほど読んでいただきました使徒の二章の記事から話すのですが、その前に、実はここにもアルゼンチンの方や、先ほどご挨拶いただきました仙台のほうからいらっしゃった、宣教師の方がいらっしゃって、本当に私は嬉しく思います。
 実は私は、御霊の力をいただいてから、伝道が本当に好きになりました。楽しくなりました。でも、試練と痛みと問題だらけの中、聖霊様がよく分からなかった時には、散々、敗北感といいますか、どうしていいか分からないというような状況だったのです。しかし、私は宣教師の先生や、海外に行ってそういう人たちと出会い、いろんな体験をさせていただきました。
 例えば、前にもお話をしたかもしれないのですが、宣教師の先生とトラクトをまいていました。伝道は厳しく、一枚二枚まくのに、相当時間がかかります。もらってくれないのです。もらってくれないだけではなくて、もらっても、目の前にびりびりと破いたり、ひどいのになると、ありがとう!とニコッと受け取るのですが、その後捨てて、ハイヒールで踏んづけたり、本当に「伝道やだ。僕は元の銀行員に戻りたい!」とすごく思いました。
 しかしながら、私は、宣教師と一緒に伝道している中で、本当に楽しい先生とお会いしました。日本語がまだ、たどたどしいのですが、愛を持って、魂の救いのためにと熱心でした。その先生がトラクトを一枚一枚、駅前でまいていると、なんか不思議なのですが、女性に限って、さーっと横に逃げていくのです。なんで逃げて行くのかなと思って、興味があったので、その宣教師の先生の側近くに行ったら、こういうふうに言ってまいていたのです。「みなさん、すいません。これ、およめになってください。」と言ったのです。だから、女性の方々は求婚されたと思って。おわかりになりますか?「お読み」が「お嫁」なのです。
 そういうことがあったり、日本語習いたての方が電話をかけてきたのです。どうも時代劇で日本語を覚えたようで、「拙者、スティーブンでござる。」と言ったり、訳の分からない宣教師の方々のお話で、すごく嬉しくなりました。
 そうこうしているうちに、今度は山手線に乗って、先生はお疲れになっていて、席に座ろうとして、ちょうど前の二つの真ん中が空いたのです。するとそこに座ろうとした時、女性がちょっと逃げたのです。なんで逃げたかというと、「そこ、さわってもいいですか?」と言ったのです。おわかりになりますか?「す」が「さ」になってしまったのです。それで女性はびっくりして逃げちゃったという。説明すると、かえっておもしろくないのですが、そんなことがありました。
 そればかりではなく、こういった聖会の時に、私は下手な通訳をさせていただいたのですが、その時に、なぜか分からないのですが、先生はまだ、言葉がちょうど分からなかったのでしょうね。「みなさん!主の前に近づいて、本当に聖霊の力を受けたかったら、どうか上にあがってください!」と言ったのです。本当は前に来てくださいと言うところを、上と言ってしまったのです。そうしたら、みんな会堂の二階に行って、誰も前に来なくなってしまったのです。いろいろ四苦八苦しながら、伝道って楽しいんだなと思っております。さぁ、そんな話を前置きにしながら、というか前置きが多すぎて申し訳ないのですが。

 実は、私は、今日の日本のキリスト教会の問題点は、初代教会で起きた出来事を忘れているからではないかと思うのです。ペテロたちは裏切りました。しかし、あのマルコの十六章に書かれているように、十五節で、世界宣教命令をイエス様はするのです。でもよくご覧になると分かるのですが、その前半の部分では、イエス様の弟子たちは大変ですよね。イエス様に怒られているのです。復活の主に怒られています。叱責されています。なぜならば、「信仰の薄い者よ。かたくなな不信仰な者よ。」と言われているのです。
 ところが、その後に、十五節の記事が出ています。「全世界に出て行ってすべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」と言っています。
 いかがでしょう。みなさん。普通、不信仰でかたくなで、あまり信頼できえない人に、大切な、ある意味ではこの地上の最大の、最高の命令ですよね。「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」これを知らなければ、イエス・キリストを知らなければ、救われない。明先生に聞くならば、大きな垂れ幕で、「天下にイエス・キリスト以外に救いはない!」と、いつもおっしゃっていました。坊さんがいようが、誰がいようが、関係ないですね。この「天下にイエス・キリスト以外に救いはない!」と、はっきりと言えるって、すごいなと思います。少し遠慮して、いろんな宗教の方もいらっしゃるので、遠慮して言えばいいのに、先生ほど大胆かつ、直球でメッセージを語りますから、すごいなと思うのですが、そのような救いの名、救われるべき名はイエス・キリスト以外にないので、この福音を彼らになんで託したのだろうかと、私はすごく考えさせられてしまいました。
 私も企業にいたものですから、銀行にいましたので、発注業者が納期に製品が間に合わなかったら、普通相手にしなくなるはずですね。中小零細企業の、そういった仕事をしている人はたくさんありますから、企業が発注して納期に製品が納められなかったら駄目ですよね。アウトです。そんな弟子たちですよ。ある意味では。ちゃんと主が教えて、ちゃんと癒しや奇跡や、嵐をも沈めることを目の前にして、ペテロなんか水の上を歩いちゃったりしたんですよ。にも関わらず、イエス様が復活すると約束された現実に、本当に死を打ち破って復活した!その時に不信仰とかたくなさが出ているというのは、ある意味で、私たち人間を代表しているようなものだと思います。象徴的だと思います。

 そんな人物たちに、イエス様は、なぜ福音宣教をしたか。命令をしたか。これは紛れもないのです。先ほど出て来たものです。私たちがいかに弱くて足りなくても、この力が天から降り注いだならば、この火が私たちに点いたならば、まるでカチカチ山状態ですよね。火が点いたら熱くて、うわーっと火によって走ってしまうような、そんな私たちがいることを主は誰よりもご存じで、ゆえに裏切ったペテロでさえ、命がけで専心し、献身し、主のために、宣教の為に彼の人生を捧げることができた。変革された。トランスフォーメーションされた。その大きな力は紛れもなく、天から降り注いだ二階座敷のエルサレム。聖霊降臨であります。みなさん、アーメンでしょうか。

 この聖霊降臨が、この新城教会にも起きました。それゆえに、この教会はさらに拡大してまいりました。私たちの教会もそうです。聖霊のすばらしい力が注がれた時に、ここではあまり言うことができないような、しるしと不思議がぼんぼん起きました。ここではなんで言えないかというと、もしかしたら、おかしく思う人もいるだろうし、そんなの本当?と思って、そのまま帰っちゃったら困るからです。でも本当です。すごいことがたくさん起こりました。
 例えば、子どもたちはしょっちゅう天使を見ました。みなさん、天使は聖書に書いてあるから、紛れもない神様の被造物ですよね。でも今日、天使を見た方、どのくらいいらっしゃいますか?天使を見た方。この教会は結構いるんですね!やっぱりすごいですね!リバイバルの教会ですね。うちの教会でも、子どもたちは見るし、私が今日もみなさんに手を置いてお祈りさせていただきますが、お祈りをした時に、このお祈りの手が、子どもたちが見た時に、私ではなかったというのです。私の上に大きなイエス様がいらっしゃって、白い衣を着られて、そして白い衣を着ておられるイエス様が直接みなさんに触れているので、すごい御業やしるしや不思議が行われた!と、子どもたちが言うのです。
 聖くない私は天使を一度も見たことがありません。二代目、三代目の聖い子どもたちは、本当に天使を見たり、時には聖霊が注がれますと、まるでアルゼンチンで起きたように。私たちの教会のカーペットはワイン色なのですが、ワインのにおいが醸し出されて、そのまま聖霊の臨在を象徴するのでしょう、みんながそのにおいを嗅ぐと、笑ったり泣いたり、酒に酔っ払った状態になって、聖霊に満たされたり、人から風が吹く。扇風機から風が吹くのはあたりまえですよね。ここから風が出るのは当たり前です。でも、人から風が吹いて、例えば先生から風が吹いて、風が吹いている人の所に行くとばーっと飛んでいく。みなさんこういうの大丈夫ですか?そんなことがたくさん起きました。
 人がまるで砂鉄が磁石が引き寄せられるように、どんどん集まって来ました。献身者がどんどん起きました。それまで、三十人、五十人だったのが、一気に十倍くらいになりました。三百人。五百人。あっという間の出来事です。今まで一生懸命伝道して、一年に十人、二十人救われたらハレルヤ!と言っていたのが、一年で単位の違う数が救われました。これは一体なんだろう。絵があるのですが、みなさん太陽に吠えろの絵を見たことがあると思うのですが、撃たれた時に、「なんじゃこら」という絵です。

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 その状態です。一体これは何事ぞ。そして、この人、殉職してしまうのです。ちょっと見ましょう。

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 みなさん知っていますよね。Gパン刑事。私がこの話をしたら、宮崎の先生の奥様がこれをくれました。

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 「なんじゃこら大福」と言うのです。みなさん、これ食べたことありますか?これ、クール宅急便で送ってくるのです。うちのスタッフ、これが大好きで、なぜ大好きかというと、食べた瞬間に、この大福の中に、すごいんです。何が入っているかというと、こういうものが入っています。

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 いちごと栗とチーズです。ですから、どこを食べても、とっても微妙な味なのです。食べた瞬間に、なんじゃこら!となるので、なんじゃこら大福というのがあるのです。
 伝道していると本当に楽しいです。いろんな事を教えられます。
 そしてちょっと見てください。

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 なんじゃこらという出来事ですが、写真を見てください。この人は一度死にました。ところが、私たちのフィリピンの群れなのですが、私を葬儀に呼んだのですが、葬儀に呼ぶ前に、家族はものすごく絶叫して泣いて祈っているのです。なぜなら、このご主人が亡くなったら、家族は、フィリピンのあの貧しい地に帰らなければならない。子どもたちは私にくってかかって、「天野先生!この前、日曜学校の時に教えてくれたことは起こらないんですか!」と言うので、何かと聞くと、「ラザロという人はよみがえったじゃないですか!ラザロはよみがえったのに、なんでうちの父ちゃんはよみがえらないんですかー!」という、そういうすごいチャレンジ。その時に、私は、「あぁ、あれは聖書の話でね…。」と言ったら、「聖書の話は今起きないんですか!」と言うから、私も信仰をチャレンジされまして、私はそうだなぁと思いまして、真剣にお祈りして、でも私はちょっと、自分の内側に信仰が弱かったので、帰ってしまったのです。
 そして、しばらく落ち着いてから戻ろうと思ったら、向こうから電話がかかってきて、すごいんです。「パスター!パスター!」ってね。パスターってスパゲッティじゃないですよ。「牧師先生!牧師先生!」と言うので、どうした!と言うと、「うちの父ちゃんが生き返った!!!」ってね。すごくないですか、みなさん。この人、生き返っちゃったのです。こういったことが、私たちの教会のフィリピンとアフリカンの群れの中に三回起きました。

 一番すごいのは、大宮のある病院の霊安室に入れられていたのですが、霊安室で葬儀を待つと、うちのパスターメリリンから電話がかかってきました。しかし、彼らは、夜を徹して祈っていたんだけど、もう帰ろうと思った朝方、電話がかかってきました。また「パスター!パスター!」とね。パスター!って怖いんですよ、何かが起こった時にかかってくる電話なのです。「パスター!」と言うから、どうした?と聞くと、「オー!ノー!アメージンググレース!」とかなんとか、すごい英語なのです。「プレイズザロード!グレートゴッド!」とか、なんとかなんとか、全然分からないことを、向こうで興奮しているのです。
 そして、よく話を聞いたら、生き返ったという話だったので、病院に行きました。すると、霊安室に行ったのですが、霊安室で生き返ったのかなと思ったら、その人はいなくて、自分の元の病室に行って、朝ご飯を食べていたのです。アーメン。
 みなさん、こういう事が、日本ではあまり聞かないですが、私たちの伝道しているフィリピンや、中国や、ブラジルなんかは、しょっちゅうあることで、改めてこれはどこに違いがあるのか。もちろん、その国の神の時があるでしょうけれども、私が知っているのは、少なくとも彼らはまっすぐに飢え乾いて主の火と主の油注ぎを求めているという点は、間違いのない事実です。ですから真剣に祈って、必死なので、天の窓が開かれて、そんな御業がしょっちゅう起こるって、すごくないですか、みなさん。それが初代教会には起きたのです。
 ですから、初代教会はご存じのように、先ほど二章に出ているように、分かれた舌が一人一人の頭の上にとどまったと書かれているじゃないですか。あの分かれた舌というのは、各言語を意味し、異言、another tongue、another languageということを意味していますけれども、でもそれ以上に大切なことは何かというと、これは神の与えた新しい言葉であり、私たちペンテコステ陣営では、聖霊の満たしを表す一つのしるしとして捉えています。その異言を語り出した時に、あの使徒の二章をご覧になると分かるように、もう考えられないことが起きているし、周りの人たちはどう考えているかというと、怪しんだり疑っているのです。この聖書をよく読んでいくと、すごいですよね。怪しむという言葉だけではなくて、「惑い、あきれる」と書かれています。聖霊の力が下ると、惑い、あきれ、怪しまれるような、ちょっと正常、常識人では考えられないようなことが起きているのです。
 するとたぶん、今だったら、批判的になるだろうし、ネットに書き込まれたりして、あの教会は怪しいとか。みなさん、初代教会はもっと怪しいですよ。だって、酔っ払うし、他国の言語で話し出すし、人間の理解を遙かに超えた、ある意味では超常現象と言ったら語弊がありますが、常識を越えた非常識ではなくて、超常識的な事が起きた。

 私の師は弓山喜代馬という先生なのですが、こういう言葉を私に言ってくれました。「天野君。主のしもべというものはじゃよ。常識を踏まえつつも、超常識者たれ。これが私の言葉じゃ。よく覚えとけ。はっはっは。」そういう風に言われたのです。わかります?この弓山先生という先生は、私たちのアッセンブリーの草創期の牧師です。この先生の時代には、すごいことがたくさん起きたのです。聖霊が注がれて。
 私はその教会出身の教会員ですけれども、愛するみなさん、弓山先生の時代には、みんながあまりにも燃えて、毎週祈祷会になると、「火をつけてください!」と、順先生みたいに、「今日は二倍の火を!」と、信徒一同がみんなそうなっていて、「この先生に火をつけてください!火をつけてください!」と、信徒一同が燃えたのです。すごくないですか?みなさん。
 その側近くのご近所の方々は大変心配しました。漏れ聞こえる声に反応されて、あの教会はいよいよキリスト教というよりも、狂信的な団体になったと思われて、駅前の交番に行き、おまわりさんを引き連れて来て、確認して下さいと言われた。おまわりさんが教会の側近くに来たら、本当に声が聞こえる。もう夜遅いのに。「火をつけてください!火をつけてください!」
 そうしたらおまわりさんも、いよいよこの教会は建物自体も燃やして消失させるのかと思って、本当に心配になって、玄関から入って、ドアから入った瞬間に、あまりの聖霊様の臨在の中で、このおまわりさんはバーンッと押し倒されたのです。未信者ですよ、みなさん。でも霊を持っている人間ですから、ばーんっと倒れて、おまわりさんは人を取り締まる、義に生きる方なのに、自分にも罪があるのでしょう。その床で泣きじゃくったのです。「私の罪を赦してください。」と悔い改めが始まって、「イエス様を信じます。十字架のイエス様を信じます。」と本当に告白したそうです。そればかりではなくて、その日のうちに、おまわりさんに異言がでてきちゃって。おまわりさんは、やがて伝道師になるのです。そういった、一丁上がりの世界。分かります?
 私は、伝道がなんで楽しくなったかというと、一丁上がり、二丁上がり、三丁上がりという世界があるんだということなのです。順先生もそういったミニストリーをされていると思います。解放されて、一丁上がり!あまり表現が良くないですが、一人の魂が救われることは、天国において、大きな饗宴という、ものすごい尊いことなのですが、私はちょっと冗談っぽくいって、申し訳ありません。

 私たちの教会では何度も申し上げておりますが、今、岡山で、自分たちが育てた子どもたちが伝道していて、この十一月で十周年なのですが、開先生にもお世話になっていますし、望先生や、順先生にもお世話になっていて、明先生も来る予定になっていて、私たちの教会にもクリスマスに来る予定になっていたのに、あぁ…と思っているのですが、この岡山で伝道している子たちは、私たちの教会の伝道所、開拓伝道の最初の実なのです。そして、この子たちが、信仰がものすごく強められ、聖霊の圧倒的な力と火を受けた者たちの一人なのです。
 ゆえに、この十周年で、先々週、洗礼式をしたのですが、私たちの教会の洗礼者よりも多いので、すごくショックだったのです。二十名が洗礼を受けました。そして、この十周年で、もう教会員、百名になりました。うちの教会よりも建物も土地も大きいのです。八百坪の土地に、三百五十坪の建物を七年目で建堂してしまいました。それは、なんでそんなことができたかというと、もうこれは、紛れもなく、聖霊様の導きと恵みなのです。信仰を持って飢え乾いて祈るということに関しては、彼らは私たち以上に徹していますから、そんなことが起きます。
 そして、私はその人たちの働きを通して、あぁ、神様はやっぱり、どんな無学なただ人であっても、聖霊様の力に満たされる時に何かが始まる。すばらしい御業が起こるということを、本当に信じています。

 前にも話した里美和というプロレスラーがいます。女子プロレスラーの世界チャンピオンです。この人は、三度、防衛いたしました。大仁田厚の秘蔵っ子で、今も大仁田厚さんや猫ひろしだとか、芸能界の人に一生懸命伝道して、シャーク土屋だとか、そういったプロレスラーがいっぱい救われて、この前のクリスマスには、おもしろいタイトルでクリスマスをしました。「プロレス・クリスマス」というのをやりました。そうしたら、プロレスの世界の人がたくさん来ました。岐阜だとか、名古屋からも来ました。そして、そのプロレスラーの中にもクリスチャンがいて、賛美を歌える人がいて、そんな伝道をしています。

 伝道は楽しくて、実は先ほどの牧君という伝道者は、何に救われたかといったら、私たちの教会の開拓の時に、彼は動物が大好きで、金魚を飼っていて、金魚が死んだ。そして金魚鉢を私の所に持って来ました。「天野先生、金魚が死んじゃったんですけど…。」と、泣いている。その時に、「金魚は生き返らないんですか?」と聞いたから、聖書を見て、金魚の生き返りはないなと思って、「牧君、申し訳ないけど、聖書は真理だけど、この中に金魚が生き返ったという記事はないので、ちょっと難しいかなぁ」と言いました。そうしたら、彼はもっと泣いて「そんな!人を生き返らせることができる神様を僕は信じているのに、金魚くらいどうして生き返らないんだ」と、本当に嘆いたのです。
 私はその時に、ちょっと頭に浮かんだことがあって、金魚って、尾っぽを持ってぱーっとやって、ぴっとやると、時々生き返ることを経験しているので、私はやったのです。こうやって。そうしたら、そのまま死んでいるので、これはやっぱり金魚は無理だな。あっ!そうか、聖書では七回が完全数なので、七回やろうと思って、七回。七回やっても生き返りませんでした。
 その時に私の内側にいる聖霊様が教えてくださったのは何かというと、みなさん、「わたしはあなたがたに教えた。あなたがたはわたしがしたような御業をする。いや、それ以上のことをするということをわたしは書いている。それを信じないのか。」と言われて、あの神の杖、モーセが持った杖よりももっとすごい主の御名の権利をあなたは知らないのか。私はそのことをずっと責められて、尾っぽを持って振ることをやめて、イエスの御名によって「この金魚よ!生き返りなさい!」と命じたら、瞬間に、金魚がうわぉ。これで一丁上がりでございます。何が人を救いに導くかって、本当に分からないなぁと思って。

 その噂を聞いた側近くのご婦人が来ました。原田さんというご婦人ですが、このご婦人はすごくて、鳥が大好きで、日曜日に鳥かごを持って礼拝に来た。なんてことはない、礼拝に来たのではなくて、何と言ったかというと、「うちのピーちゃんがいなくなってしまいました。ピーちゃんが帰って来たら、私はイエス様を信じたいです。」とか、そういうチャレンジをしたので、私も本当にすごい場所だなぁ。埼玉県の草加という場所は、と思いましたが、一生懸命祈りました。「ピーちゃんよ!イエスの御名によって帰って来い!帰って来い!」
 そして次の日曜日に、この方は、カゴに入れたピーちゃんと一緒に礼拝に来て、「みなさん!牧師先生がお祈りしてくださったので、ピーちゃん、帰って来ました!今日はピーちゃんも一緒に礼拝に参加させていただきます!」これで二丁上がり。

 こうやって、私たちの開拓は進んで行ったのです。また、自分の夢の中に一人の先生が現れた。これは、韓国の世界最大の教会を牧会している先生で、その先生が私にセミナーを、個人レッスンでしてくれたのです。個人レッスンでしてくれたセミナーの内容は、ほとんど覚えていないのですが、最後の最後に言ったことを覚えています。この先生、何を言ったかというと、「私は今まで、ここで勝負をしたことがない。ここで勝負した。」と言いました。それは、頭ではなく腹で勝負した。聖書の中には、「腹から生ける水が川となって」という聖霊ご自身の御力、聖霊ご自身の恵みによって、私の伝道は今日まで来たんだ!ということを、夢の中で語ったことだけを覚えている。
 ゆえに私は、みなさんにおすすめしたいのです。みなさんのこの内側は、聖霊に満たされているでしょうか。あなたのエルサレムは大丈夫でしょうか。

 聖書に戻ります。このエルサレムの出来事は、多くの人々にものすごくインパクトを与え、世界大に福音宣教の輪が広がってまいりました。なぜならば、この聖霊の恵みは、第一番目のポイントを見てください。父の約束してくださったものであるからです。天のお父様が約束した以上、絶対に成就します。みなさん、アーメンでしょうか。主は違えることがないのです。絶対に成し遂げる方です。この方が、「いと高き所から力が、都エルサレムに下るまで、あなたがたはとどまっていなさい。」と言われました。なぜ?弱い弟子たちにとって、この力ほど必要なものはないからです。この力を受けるならば、彼らは変わる!
 先ほどのDVDの中にもありましたが、この力はいったい何を意味しているかというと、簡単に言うと、真理の御霊であり、助け主であり、そればかりではなく、知恵と啓示の御霊であり、臆病の霊ではなくて、力と愛と慎みの霊であり、内住のキリストであり、パラクレートスなる共にいてくださる方であり、またデュノミス、爆発的な力であり、また宣教を与えることのできる力。すべて教え、すべてを思い起こさせてくださる方であり、英語ですと、ワンダフルカウンセラーと言われます。素晴らしいカウンセラーという意味もありますが、ワンダーというのは、ご存じのように不思議が降る。いっぱい。不思議がいっぱいに満ちているカウンセラー。私たちの人間的な弱さや足りなさを超えて、私たちのすべての必要を満たしてくださる、ワンダフルカウンセラーなる神様が聖霊様だというのです。
 さぁ、みなさん、いかがでしょうか。この聖霊さまが私たちの内に居てくださり、内住してくださることを知っている人は、どれほど力強いでしょうか。

 みなさん、あなたの内側に聖霊様が住んでおられることを、確信しますか?そう確信される方は、アーメンと言いましょう。その韓国の先生は表現しました。ジージャスクライストイジュインユー!韓国系の英語だったのです。私が言うならば、ちょっとおしゃれに言って、Jesus Christ is in you!というはずなのに、この先生は、ジージャスクライストイジュインユー!と言ったのです。すなわち、イエス・キリストはあなたのただ中にいる。イエス様はあなたのただ中にいるということを確信します?アーメンが少ないですよ〜。ハレルヤ〜。アーメンですか?私たちのここにいるのですから、隣の人に言ってあげてください。聖霊様がいらっしゃる!アーメン。
 聖霊様がみなさんの内にいらっしゃるし、みなさんの両隣の方にもいらっしゃる。すなわち、みなさんとみなさんの間にも聖霊様がいらっしゃるというこの世界は、イエス様を信じている者に伴う特権であり、恵みなのです。聖霊様がご一緒だったら何でもできる!という確信と言いますか、私の内側の確証があると、すごいのです。

 昨日は猫の話をして、みなさんに本当に申し訳ないなと思うのですが、うちの猫は死にかかりました。三回も死にかかりました。007だって、二度死ぬという、なんかありましたが、私の場合は、猫が三回死にかかりましたけど、本当に主の癒しによって、今は元気はつらつ。朝四時に起きまして、私のベッドの横で、ご飯を要求して、ギャー!ギャー!と起こして、今日は本当にしばらくぶりにぐっすりと休ませていただきました。
 本当にすごいのです。あの癒やしを体験した私にとっては、すごいな!主にはできる!という信仰が必要で、もちろん神の御心のみがなるのですが、私たちの内側にいらっしゃる聖霊様は、あなたを通して、すばらしい御業や、今まであなたが与えられている持ち場、立場を変革することのできる権威と力をあなたに主は与えてくださると信じる人、もう一度、アーメンいいましょう。是非、今日、この聖霊様を飢え乾いて求めて行きたいのであります。

 さらに私がみなさんにお話ししたいことがあります。この聖霊様を求めるにあたって、祈るにあたって、是非とも知っていただきたいのは、三つの「あ」というのがあるのです。
 一つ目の「あ」は何かというと、聖書に「飽いてはならない。」という「飽きてはならない。」という言葉があります。一つ目は「飽いてはならない。」もう一つは何かというと、「あきらめてはならない。」Never give up!です。さらにもう一つは、「焦ってはならない。」という言葉であります。祈りに対して、めちゃくちゃこの三つの言葉は、私にとって有効かつ、力です。どうしてかというと、肉が弱いので、すぐに結果が出ないと、焦ったり、あきらめたりしてしまうのです。
 しかしながら私は、この焦りとか、あきらめということとの対峙というか対決をしなければならない。私は絶対にあきらめない。もちろん神様の御心がなされるのですが、昔の言葉で「人事を尽くして天命を待つ」という言葉が大好きなのです。人としてやるべきことは精一杯専心し、すべてをやり尽くし、祈りにおいても祈り尽くし、祈りきるという、戦い系の者の一人です。結果は主のものです。主は命を与え命を取られる方ですから大丈夫です。

 私はこの事を、フィリピン宣教に行った時に、すごく体験しました。そこに大きな神の器が来ました。彼は、何千、何万という人を前にして、このような証しをしました。
 「私の人生にとって、聖書のみ言葉をただひたすら実行すること、これ以外になにものでもない。これ以上になにものでもない。これだけに徹する!」と。だから、聖書は言っています。『求めなさい。そうすれば与えられる。』この言葉以上、以下は、何もない。だから求める。叩く。探す。その中で、病人に手を置けば、病人は癒される。聖書は書いている。この事を実行する!その実行の結果、たくさんの人達が救われ、リバイバルをもたらした神の器です。
 しかし、彼にとって、一番衝撃的な出来事は何かというと、もう死にかかっている人が連れて来られて、目の前でクリスチャンであると思いますが、この人が目の前で倒れかかって、ようやく車椅子から立ち上がらされて、家族が真剣に祈りを求める。その時に先生は、「分かりました!」手を置いてお祈りします。お祈りした後、バタン!!と倒れる。聖霊様によって倒されたのかなと思ったら、そうではない。係の人が調べると、その現場で息を引き取りました。
 いかがですか。みなさん。神の器。主の息子、娘として、こんな現実に出くわしたら、かなりショックですよね。癒やしを求めて来たのに。その現場で、そのまま召された。そんな現実の時に、この先生はおっしゃいました。
 「私はただみ言葉に従う者だ。だから、私はこうします。彼は、例え命がここで取られたとしても、イエス・キリストにある天国への約束があるから、必ず永遠のいのちを得て、天でまた会うことができる。」ゆえに日本ではちょっと考えられませんが、「遺体をまたいででも、次の人に手を置いて祈る。これが私の最善かつ、最高のミニストリーだ!」と言った時に、私のぼんやりしていた、くすぶっていたものが、ぱーっと突き抜けました。そうだ!と思いました!埼玉県で言うならば、私の住んでいる所は草加ですから、そうかーー!!

 みなさん、三つの「そ」というのがあるのです。私が言っているような話を受け取る時に、「そんなことあるのかなぁ?」と聞いておられる方、手をあげなくていいですよ。相当私、衝撃的ですからね。
 でも、二つ目くらいの方、結構いるんじゃないでしょうか。これ昔、キムタクが、あるテレビ番組で、「メイビー」という言葉、よく使っていましたが、メイビー。「それはあるかもね。でもね…。」くらいの、中途半端な信じ方。いかがですか、みなさん。私が今日お話ししているような内容は、かなり、ちょっと極めて特異なジャンルですね。今日は普通の礼拝ではないので、普通の礼拝で養われて、ちゃんと霊的に成熟するためには、順先生や先生たちによって、良い牧会的な説教をされているので、みなさん、もう十分だと思います。これからも続けてください。今日は私は、火を点けに来たのだから。今日はみなさん、打ち破りたいのです。そのためには、あなたの信仰の目を開かせたい。火を点けるためには、みなさんに飢え渇いてほしいのです。主にあってですね。ですから私は、この三つ目の「そうか!絶対に!」という信仰を持って欲しいのです。

 この先生を通して、私が突き抜けたセミナーは何かというと、私たちがすべきことは、「ただみ言葉に従うこと」で、病人に手を置けば病人は癒されるという信仰を持って、手を置く。でも、癒す癒さないは主の主権なので、私が祈って死んだからって、ある意味では全き責任を持つべきものではなく、主が許されたものなのでと言い聞かせながら、次に次に癒やしのミニストリーをする者になりました。
 変な話ですが、当時の私は、三割から四割打者くらいで、結構イケてるでしょ。お祈りしたら、十人のうち、三人か四人は癒されるという経験をしました。ところが自分が死にかかって、余命半年と言われ、骨髄腫になって、骨髄バンクだとか関わって、これから治療という時に主が癒してくださって、それからは五割から六割くらいにアップしたのです。
 でも、今、私たちの教会ではミニストリーをしていて、私がお祈りする以上に、教会の兄弟姉妹たちがみんなで手を置いてお祈りをすると、だいたい八割〜九割が癒されるのです。ゆえに、信仰によって祈るならば、例え牧師や伝道者じゃなくても、信仰が働くと癒やしが起こるということを信じる人、みなさん、アーメンと言いましょう。
 それが私たちに、すべての人に火が点いたら、先生方が祈る数は限界があります。限りがあります。でもみなさんが祈り始めたらどうでしょうか。すごい事が起こるのです。どんどんと人を通して、人々が導かれて、ユダヤ人はしるしを求めると言うけれども、日本人も結構、しるしを求めます。ですから、パワースポットなんか行くと大変ですよ。霊的な別の霊によって、なにか奇跡を体験したり、不思議なことを体験するゆえに、そこにはまってしまう人がたくさんいます。
 なぜそうかというと、日本があまりにもその領域を勝ち取っていない。むしろ奪われている。教会に行ったらそんなことや、あんなことが起こる!という噂が広がったら、教会に人々が絶対に押し寄せるはずなのに、むしろ逆。病気になったらすぐ病院に行きます。もちろん病院は必要です。うちも医療関係者がいるから分かります。けれども、いつも病院だけが、垂れ幕はしないけど満員御礼ですよ。市立病院なんかも、ちょっと検査するだけでも、朝早くに行っても、午後の遅い時間まで待たされます。どうして?みんな病気に本当に弱いのです。
 しかしながら、教会で癒やしが起きたらどうでしょう。病院がもしかしたら閑古鳥が鳴くようなことがあるくらいの勢いで、病院関係者の方、みなさん、申し訳ありません。でもそれって、すばらしいことだと思いませんか。過去の初代教会は、今のように医療が発展していないがゆえに、そういったことがあったんだと思います。改めて、主のそのようなお約束を、求めるなら、是非ともそれをしっかりと受け止めていきたいと思います。

 最後にみなさんと、お分かち合いをして、お祈りをしたいと思います。

 私にとって、一番聖霊様の、極めて、すごい働きは何かというと、飢え乾いて求めたゆえに、そのことが起こりました。そしてその結果を神様が勝ち取らせてくれたんだなぁと思います。自分自身が弱くて、足りなくて、どうしようもない。疲れ果てていました。
 このような働きをさせていただく中で、本当にぼろぼろになっていました。この十月は、本当に大変恐縮なのですが、忙しくしていて、体が少し疲れを覚えていましたが、昨日寝させていただいて元気になりましたが、もう明日からすぐに私はアメリカのLAに飛びます。そして一週間に二十回の聖会をします。そしてその後、すぐにカナダに飛んで、バンクーバーに行きます。そこでも二十回やります。四十回の聖会を、この喉が持つかなぁと思っています。
 なぜそういったミニストリーをすることができるようになったかというと、実は私が、自分の教団の教区のキャンプに呼ばれた時に、いろんな青年のキャンプなどで呼ばれていた時期です。夏休みは、十回とか多い時は十二回くらいのキャンプを、ずっと動き回っていました。そしてもう休みたいなと思うんだけど、飛行機に乗って行って、そして、北海道の大雪山という、今ちょうど雪が降り積もるような場所です。そこに行きました。
 そして、一日目の聖会が終わりまして、そして二日目になって、子どもたちはみんなキャンプやなんかの楽しい遊びをして、その最後の日。二日目の夜。ここが勝負なのです。みんな、信仰の決心をするし、聖霊の火を受けたいと言って、キャンプファイヤを周りにしながら、火をー!と、聖霊の恵みを求めます。そしてその中から、献身者の表明を求める。これがある意味では、呼ばれた者として、結果が出るかどうかの大勝負なのです。
 ところが、なぜか分かりませんが、あの地域というのは、山が多くて囲まれているので、雲行きが怪しくなって来て、キャンプファイヤの直前です。びっくりしました。雨模様になったのです。そうしたら、係の人が私の所に来て、「先生。今日、キャンプファイヤ無理そうです。雨が降って来ました。」そうしたら私がすぐに言った言葉は、「先生、残念ですね。」と言って、「そうなんです。残念です。子どもたち、大変楽しみにしていたし、私たちも本当に祈って来たのに、キャンプファイヤできないのは本当に残念です。」と言って、部屋からその先生は帰りました。私は心の半分では、「やった!」という不埒な思いを持っていました。疲れていたので、今日は戦わなくて済むぞ。少しいゆっくりできるかなぁと考えていたのです。馬鹿でしょう。みなさん。

 ところがみなさん、私の内側にいらっしゃる聖霊様は、私に問いかけました。『本当に残念なのか?』聖霊様は、全部私のことを知っています。力、奇跡、御業を起こすだけではなくて、私の内なるものを全部知っておられて、整えたいと思ったのでしょう。聖めたいと思ったのでしょう。私に言いました。『本当に残念なのか?』「ごめんなさい。聖霊様。あなたには嘘をつけません。家内にはよく嘘をつきますが、あなたには嘘をつけません。」と言って、本当に真摯に謝りました。「ごめんなさい。残念なんて言ったけど、ちょっと残念じゃなくて、ちょっと嬉しかったのです。ごめんなさい。僕は休めるかもしれないからありがとうと思ったのです。」と言ったら、聖霊様がしばらく沈黙されました。
 私は主との交わりが大好きです。それで主は言われました。『あなたがどうしてあちらこちらに遣わされるか知っているか?』と聞かれました。まことしやかに私は正解を頭でしっかりと分かっていたので、「主よ、あなたが私たちの教会に、こんな弱い足りないものですけれども、してくださったことを、少しでもみなさんにシェアしてお分かちして、それゆえに、みんなに希望が与えられて、日本の教会は戦っています。少しでも希望の光が与えられるように、こんな者を遣わしてくださっているんですよね?」と言ったら、しばらくまた沈黙が来ました。えっ!違うのかな!?と思いました。
 しかし、しばらくしたら、主の細き御声がなんか響きました。『わたしはそれだけではないよ。』と言われました。えーーー!と思いました。「希望を与えるために、あちらこちらに遣わしたり、慰めたりするために遣わされているだけじゃないんですね。なんでしょう!?」と、私は食ってかかるように主に聞きました。『わたしはあなたのことをよく知っている。あなたが外に行く時に、自分の牧会している教会の時よりも、真剣に祈っているので。』それまで見抜かれていてごめんなさい。
 『あなたは自分の牧会している教会をよく分かっているから、そんなに祈らないわけではないけれども、そんなに真剣に祈らなくても、分かっているよね。でも、あなたはあちらこちらに遣わされる時にそこにどういう人やどういう教会の状況か分からないので、真剣にあなたは祈って仕えることをわたしは知っている。』と言われました。
 その時に、主は言われました。『わたしはそのようなあなたが好きだ。わたしはあなたと交わりたい。あなたともっと親密な関係を持ちたいから、わたしはあなたを遣わしているんだよ。』と言われた時に、あぁーっと泣き崩れました。あまりの次元の違い。私は人間的なことしか考えていなくて、希望の光、励ましを与えるためにと思っていたのに、この方は、こんな弱い足りない者と交わりたいからこんな小さな者を遣わしてくれているなんて!と、すごい泣いて泣いて、主よ、ありがとうございます。主よ、感謝します。

 愛するみなさん、いかがでしょう。聖霊なる神様は、ただ上から力を、火を与えるだけではないのです。あなたの内側に住んでおられて、私たちを全て導いてくださり、全てを教え、思い起こさせてくださいます。この方は、あなたと交わりたいのです。
 ある先生は、しょっちゅう、なんか病気かよく分からないのですが、寝込みます。すると、いつも主と交わるそうです。その奥様は、「うちの主人はいつも寝て、教会の働きをしないで、もうほんとにっ!!」とイライラしているのです。ところがある時に、この奥様に主は語られたそうです。『あなたの夫は病んで寝ている時に、わたしと良い交わりをしているよ。それをわたしは喜び、それにわたしは祝福を与えている。』と言われた時に、この奥さんは本当にひれ伏して悔い改めをしたそうです。しばしば、私たちの主は、病気になることを許されることもあるし、試練を主が与えることもあります。その本質的な目的、目標は何かというと、この方に近づいて、この方と交わって、この方と親密な回復するために、主はそのような時をも許されるのかなと最近思います。

 私はその悔い改めの祈りをさせていただいて、「主よ、ごめんなさい。私はあなたと交わることよりも、自分のことしか考えていませんでした。本当に赦してください。ごめんなさい!」と、本当に真剣に悔い改めた時に、そのキャンプ場の担当の牧師先生がまた来た。どんどんどん!!「先生!」と言うから、「どうしました?」と聞いたら、「先生!おかげさまで、雨が止みました!今日、キャンプファイヤができます!」今度こそ本当に、「良かったですね!!!」と言うことができました。この期間の主との交わりが、私の内なるものを完全に解放しました。
 そしてそのキャンプは最高でした。なぜならば、私は主との関係がしっかりと結びあわされたので、主が臨在してびっくりするようなキャンプでした。
 私のメッセージ中に、その担当の先生の牧師先生の娘さんが、「先生いいですか?」というのです、どうしたの?と言うと、「マイクをください!」と言って、マイクを取られました。そして、「みんな見て見て見て!ほらほらほら!イエス様が!イエス様が!イエス様が真っ赤な衣を着て下りて来る!下りて来る!ほらほら!下りて来る!」私が見ても、全然見えないのです。ところが、多くのクリスチャンホームの子たちは、真っ赤な衣を着て下りて来るイエス様を見て、「うわーー!イエス様だ!」イエス様の前にひざまずいて、頭を地面につけるようにして悔い改めて、「イエス様、ごめんなさい。イエス様、ごめんなさい。」と、ずっと悔い改めて、そのキャンプファイヤの所に、自分の悔い改めた罪を、全部紙に書いて、全部燃やしたのです。
 そして全部燃やして、私は祈りを導いていたら、さっきマイクを取った女の子がまた来て、「先生、マイクいいですか?」と言うから、いいよと言ってマイクを渡したら、「みんな見て。ほら、今度はイエス様が白い衣を着て、上に上がって行く。上がって行く。ハレルヤ!ハレルヤ!」と言ったら、その子どもたちがみんな「ハレルヤ!ハレルヤ!イエス様!」なんだか講師が誰だか分からないくらいのキャンプになりました。
 その日、ものすごい人たちが救われました。ものすごい人たちが聖霊の恵みを受け、未だかつてないほどの献身者が生まれました。人間の力は、本当にわずかな微々たるものです。でも主の働き、聖霊様の働きは、本当に偉大な、壮大なものです。この方を今日、もう一度、歓迎し、心の中にいらっしゃる聖霊様が、本当に満たされ、溢れ出て、あなたの人生、生活が全く新しいものへ変革されるように、お祈りの時を持ちたいと思いませんか。

 みなさん。どうぞ、立ち上がりましょう。そして、主を求めましょう。聖霊様を求めましょう。手を上げられる方は手を上げましょう。そして、みなさんの中にある聖霊様と親しい交わりを持ちましょう。何よりも、天の窓が開かれて、初代教会のあのペンテコステの火のように、聖霊の火が下りますように。この新城教会に聖霊の火がさらにくだりますように。あの本当にすばらしい県民の森に起きた出来事がこの教会にさらに回復し、復活し、あの時の出来事以上のリバイバルの火が、今日、天の窓を開いて起こるように、お祈りをしたいと思います。「主よ!」三回賛美して祈りましょう。