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『主の夢を叶えるために!パート9
 ~主の戦いの勇士となろう~』

2015年11月1日(日)
新城教会 主任牧師 滝元順
マルコによる福音書1章9節〜13節

『そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。』

 ハレルヤ!こうして、みなさんと共に礼拝を守ることができ、心から感謝します。今も聖歌隊が賛美をしましたが、「今日まで守られ」という賛美でした。一人一人、今日まで守られてきたことを、心から感謝したいと思います。
 午後は新城教会恒例の運動会です。良い天気になりました。本日は教会前の駐車場が運動場になっています。楽しんでいただきたいと思っています。

 今日から十一月です。先日、新年聖会をやったばかりと思ったら、あっというまに十一月です。だいぶ寒くなってきましたが、先ほどの祈りにもありましたが、十一月は、ナガランドとインパールで、リバイバルミッションが開かれます。是非とも祈っていただきたいと思います。
 かつて日本軍はアジアの西の端、インパールまで攻め込んでいきました。そして、多くの人に被害を与えました。日本の兵隊たちもほとんどが犠牲となりました。大きな被害を与え、そして、受けたわけです。戦争って、本当に悲惨です。
 現代の日本人があまり知らないところまで、日本の軍隊は出て行って、様々なことをしたわけです。二度と戦争の国にならないよう、未来のために祈っていかなくてはなりません。

 先々週は、先週も話しましたように、おもしろいことがありまして、私は若い頃にグロリア・シンガーズというバンドをやっていたのですが、この度再結成して、新しい録音したと話しました。今から三十年くらい前に、グロリア・シンガーズは解散コンサートをやりました。
 その頃の写真が出て来まして、コンサートのために撮った写真です。

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 写真って、写真屋さんで撮るとやっぱりいいですね。この頃は、いい加減にスマホで撮ることが主流になっていますが、この写真はちゃんと写真屋さんで撮りました。だから、三十年前でも、良い写真が残っています。昔は、頭の上にあるものが、ちゃんとあったんだなぁとなつかしく思います。先ほどここで賛美リードしていた開先生、なかなかハンサムですね。私の右側に立っている弟も、黒いものがたくさんついておりまして、今とは全く違った様子です。人生とは、ある瞬間しか生きることができないわけです。けれども、このような写真で思い出を残しておくことは大切だなぁと思います。
 それで、新しいCDを作ることになって、たったの三曲ですが、父が残していったメッセージと一緒に組み合わせてみなさんに聞いていただこうと思っているのですが、新しいCDジャケットの写真を撮らなくてはいけない事になりまして、先週は写真屋さんに行って撮ってもらいました。見たいですか?見せますね。

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 はい。どうですか、写真屋さんは、マニアックで細かく指示して合わせてくれました。

 ギターの角度まで微調整されまして、真剣にやってくれました。冗談で「僕たち、ハレーション起こしませんかねぇ?」と聞いたら、「はい。そうなったら直します。」と、まじめに答えられて、ちょっと傷つきましたが。人生って楽しいですよね。時には予想外のことが起きます。父が天に帰らなかったら、こういう事も起こらなかったなぁと思って、感謝しています。クリスチャン生活は、たまには悲しいことがあっても、そこからまた新しいものが出て来ます。ですから期待がいっぱいです。
 先週も一曲、聴いていただいたのですが、今日も一曲、お聴かせしたいと思います。

 今から四十年前くらいに、一つのカセットを作ったのですが、そのタイトルが「一つの道」でした。私が二十代の頃の作品ですが、「一つの道」とは、イエス様の道です。イエス様の道を歩むなら、絶対に間違いはありませんよ!この道を共に歩んでいきましょう!という曲です。その時のリードボーカルが、先ほどの滝元開が高校生の時でした。あんまりうまくなかったですが、今回はリベンジしました。彼はやはり現役ですから、我々とはちょっと違いました。兄弟三人で歌うのは結構、声の質が似ているのです。だから、ハーモニーも結構いいですよ。だから、兄弟仲良くしたほうがいいですね。今回、ちょっと仲良くなりました。ということで、「一つの道」、聴いていただきたいと思います。

♪一つの道

この世の中に ただ一つだけ作られた 
光の道を あなたに伝えよう
イエス・キリスト この世の光 
約束の国へ ぼくらを導く

大きな主の愛は 悩みを吹き飛ばす 
大空見上げれば 心が躍るよ

この世の中に ただ一つの真実は
神のみことば あなたに教えよう
イエス・キリスト ぼくの友達
光の道を 共に分かち合おう

大きな主の愛は 悩みを吹き飛ばす 
大空見上げれば 心が躍るよ
心が躍るよ 心が躍るよ


 なかなか良いでしょう。さわやかでしょう。平均年齢六十歳のおじさんたちが歌っているというよりも、少年たちが歌っているような、さわやかさがあると、勝手に思っているのですが。
 今の歌の中にもありましたが、神のみことばを伝えましょう!という歌詞がありました。神様のみことばを日々、伝えていくことが重要です。

 今日も礼拝において、神のみことばから学んでいきたいと思うのですが、今日のメッセージのタイトルは、「主の夢を叶えるために!」です。このタイトルでずっと来ていますが、「パート9」になりました。「~主の戦いの勇士となろう~」というサブタイトルで学んでいきたいと思います。

 人生の目的は何であるかというと、自分の夢をかなえるためではなくて、主の持っておられる壮大なプロジェクトの一員となり、主の夢をかなえるためにある!と理解すると、何のために生きるのか、これからどうなるのか分かってきます。
 そして、主の戦いの兵士となって、主の戦いを雄々しく戦っていく。そんな時、人生は変わってきます。

 先週語ったメッセージと関連があるのですが、イエス様の十字架、そして復活は、何を表しているのでしょうか。まずは「罪の赦し」を与えてくださいました。そしてもう一つ。悪魔・悪霊どもと結ばれた債務証書を、全てキャンセルしてくださった!とお話しさせていただきました。
 そんな中で、レビ記を引用させていただきました。今でもイスラエルにおいてはユダヤ人たちが年一度、「大贖罪の日」を厳格に守っているとお話ししました。それは「ヨム・キプール」と呼ばれ、今でも厳粛な日です。
 この日には何をするかというと、二頭の雄山羊を連れて来て、一匹は、神のために生け贄として捧げます。もう一匹は、「アザゼルのために」と言って、荒野に放つ儀式が行われます。
 この「アザゼル」とは、どんな意味かといいますと、「荒野に住む悪魔の名称」だというのです。ユダヤ人たちには、「荒野に悪魔が住んでいる。その名をアザゼルと呼ぶ」と考えていたようです。なんと大贖罪の日には、大祭司が、「アザゼルのため」という山羊を選んで、レビ記十六章二十一節〜二十二節に、記されている事を行いました。

『アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。』

 こんな儀式がなされていました。悪魔のいけにえとして、その山羊は、イスラエルのすべての咎を負わされ、人々の罪も何もかもその身に負わされて、荒野に住んでいるといわれる、アザゼルに生け贄として放たれたのです。
 実はこれは何を意味しているのかというと、「イエス様の十字架」を意味しているのです。イエス様が十字架にかかってくださったことによって、神様に対する罪も全て赦され、もう一つは、悪魔に渡ってしまった債務証書も無効とされたのです。私たちは悪魔の奴隷となっていたわけですが、奴隷を解放するための代価が、イエス様の十字架によって、全て、支払われたということです。実に、このアザゼルの山羊は、イエス様ご自身であったわけです。

 今日、読んでいただきました聖書箇所は、イエス様がヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた場面です。先週もお話しさせていただきましたが、「救い」の真ん中に、「水をくぐる」というテーマがあるとお話しさせていただきました。信じてバプテスマを受ける者は救われます。
 先週は、礼拝後、二人の方が洗礼を受けられました。でも、先々週、もう一人の方も受けられて、昨日も、一人の方が病床で洗礼を受けられました。長くお祈りしていた、この教会に来られている方のお父さんですが、イエス様を信じて、昨日洗礼を受けられたのです。合計四人洗礼を受けられました。本当に感謝しました。
 「信じてバプテスマを受ける者は救われる」とありますが、イエス様は罪のない神の子でしたが、私たちの代表でもありますから、私たちと同じようにバプテスマを受けてくださったのです。
 バプテスマを受けて水から上がられた時に、どんなことが起こったかというと、『天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」』
 ここを見ますと、私たちの神は、「三位一体なる神」ですが、三位一体なる神様が、バプテスマの時に現れておられるのが分かります。御子イエス様はそこにおられます。また聖霊が鳩のように下ったとあります。そして天から、「わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と、父なる神の声が聞こえました。
 なんと、三位一体なる神様が現れているのです。偉大な神、三つにして一つの神様が、ここに現れている。バプテスマは本当にすごいなぁと思います。水のバプテスマを感謝しなければいけないですね。

 私は小学校二年生の時に、あまり意味も分からなくて受けたところがありました。当時、新城教会はちょっと堅いところがあって、聖餐式は洗礼を受けないとあずからせてくれなかったので、私の小学生の頃は、食糧難で、お昼ちょっと前に行われるこの聖餐式は、少年にとってはたまりませんでした。バプテスマを受けなかったら受けさせてくれないというから、聖餐式に参加したいから、洗礼を受けたようなところがありました。でも、私はイエス様を信じていたことは確かですから、『信じてバプテスマを受ける者は救われる』とありますから、私も救われたんだなぁと思います。
 自分がバプテスマを受けた日のことを覚えておられると思いますが、大事にしてくださいね。

 ある教会に行って、「あなたはバプテスマを受けて、何か変わったことがありますか?」と、ある人に聞いたら、「何もないな・・。」と言っていました。それはちょっと悲しいですね。「あえて変わったことといったら、教会から献金袋をもらったくらいかなぁ・・・。」と言っていましたが、それでは寂しいです。信じてバプテスマを受けるのは救いにつながる、重要な要素です。
 イエス様がバプテスマを受けた直後に何が起こったかというと、一章十二節、

『そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。』

 バプテスマを受けたら、悪魔・悪霊どもの攻撃から守られるのかと思いきや、そうでもないみたいですね。なんとイエス様は、バプテスマを受けた直後に、荒野に追いやられて、サタンの誘惑を受けたというのです。しかしイエス様はみ言葉によってサタンに勝利して、誘惑に打ち勝ったのです。
 ここから多くのことを学ぶことができます。イエス様は、アザゼルの山羊の役割を負ってくださった方です。本来はアザゼルの山羊を毎年、放たなければならなかったのに、なんと神の子であるイエス様が、自らアザゼルの山羊となって、荒野に出て行ってくださったのです。共同体の罪さえも負ってくださって、悪魔に対する支払いを終えてくださったのです。
 また、バプテスマを受けて悪魔との契約が解除されると、悪魔の誘惑に勝てるということも教えているのではないでしょうか。

 新城教会は歴史が六十年以上ありますが、その間、大勢の方がクリスチャンになりました。しかし、しばらくすると悪魔の誘惑に負けて、教会に来られなくなる人たちも多くいました。なんでだろうと思いました。その時に主が言われました。「悪魔・悪霊どもと結ばれた契約をしっかりと解除する祈りをしなさい!その為にわたしは十字架にかかりました。」と言われました。これが「解放の祈り」です。
 みなさんも、教会に来られて解放の祈りを受けられたと思います。それは過去に悪魔と結ばれた契約を解除する祈りです。なんと、記録によると、初代教会でも同じ事を行っていました。そうすると、誘惑に負けないで信仰生活を送ることができるということを、ここから学ぶことができます。
 私たちは、常に霊的な戦いのただ中にあるのですが、どのようにして悪魔に勝利するのか。これは、「日頃生活の中で起こってくる誘惑に、神のみことばによって打ち勝つ」ことが、霊的戦いだということが分かります。礼拝に来ている時には、皆、罪を犯しませんよね。いいですね。この時にイエス様が帰って来られたらいいなと思います。しかし世間に出ると、様々な誘惑があるし、様々な罪のただ中に置かれるかもしれません。しかしそんな中で、私たちが誘惑に立ち向かい、誘惑に打ち勝つ時、悪魔の勢力は倒れていくのです。この世の中は罪で満ち溢れていますが、私たちが誘惑に打ち勝つ生活そのものが、霊的戦いそのものなのです。その時、敵の力は打ち破られていくのです。
 今週も、生活のただ中で、様々な葛藤や罪の誘惑があるかもしれません。しかし、それに立ち向かうことが、「霊的戦いそのものだ」ということです。ですから、罪の誘惑があったら、立ち向かう姿勢で歩んで下さい。

 悪魔・悪霊の究極的な目的は何でしょうか。それをよく知らないといけないのです。「私は悪魔の誘惑を受けて本当に大変ですよ!」と言われる人もいます。悪魔・悪霊どもは、何のために存在しているのでしょうか。それは、私をいじめるためとか、苦しみにあわせるためと考えますが、もちろんそういう側面もあるかもしれませんが、もっと大きな意味があるのです。
 霊的戦いは、いつ終結するのかというと、やがてイエス様がこの地上に帰って来られる時に終結します。その時、悪魔・悪霊どもの勢力は全て縛り上げられて、底知れぬ所に追いやられ、霊的戦いは終結するのです。イエス様の再臨と共に、霊的戦いは、すべて終わるのです。

 としたら、悪魔が一番もくろんでいるのは、私たちをいじめるとか、苦しい目にあわせること以上に、「イエス様がこの地に帰って来られるのを阻止するため」に働いていると言えます。個人的に、悪魔からの誘惑があったり、霊的戦いの中で、もがき苦しむことは何を意味するのか・・・。それは個人的な意味よりも、もっと大きな意味があると思われます。それは、あなたの戦いの勝利によって、主が帰って来られる時期が早められるという事です。悪魔はなんとしても、その時期を遅らせたいのです。霊的戦いと、主が帰って来られる日は、つながっているのです。

 なぜなら、私たちは、神様が持っておられる夢を実現するために存在しているからです。また、主のプロジェクトの一員となっているがゆえに、悪魔の誘惑があり、それに打ち勝つ戦いは、イエス様がこの地に帰って来られる、究極的な目的につながっているのです。悪魔は主の再臨を阻止するために、真剣に働いているという現実を知らなければいけないのです。
 誘惑に打ち勝つために葛藤があったり、戦いがあることは、イエス様が帰って来られる道をふさごうとしている悪魔の計画を打ち破ることです。イエス様が帰って来られる日を早めるために、戦いに参加しなければならないわけです。
 モーセからヨシュアの世代になった時、カナンの地を勝ち取るための戦いが長く続きました。その戦いは、主が帰って来られ、この地を治めてくださる前に、霊的戦いがあることを示しています。

 先週もイエス様の十字架の時に起きた、信じられない事件について、紹介しました。案外、イエス様の死と復活の狭間で、目立たないのですが、実は本当にすごいことです。マタイの福音書二十七章五十節〜五十四節、

『そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言った。』

 こんな記録が残っています。これが歴史的事実ならば、超すごいことだと思いませんか?イエス様は、大声を出して息を引き取ったというのです。
 私は八月一日、親父が息を引き取る瞬間を見ました。どこで見たかというと、病院で見たのではなくて、なんとiPhoneのFacetimeで、ネパールの山の中で見ました。今の時代って、本当にすごいですね。まさに親父が息を引き取る寸前の病室から、テレビ中継をしてくれて、ネパールで見届けました。そして、ネパールから、主治医の方に、「どうもありがとうございました。」とお礼を言いました。すごい時代になったなぁと思いますが、親父の死に際は、まぁ、静かなものでした。あれ?という感じで死んでいきました。うるさかったのは、周りの孫連中でした。「おじいちゃん!おじいちゃん!がんばって〜!」と叫んでおりました。そうしたら、死にかけているじいさんから、「ちょっと静かにしてくれんか。」と言われたそうですが、本当に静かなものでした。

 しかしイエス様は、すごいですね。なんとイエス様が息を引き取られた時、「大声で叫んで息を引き取られた」というのです。死ぬ前に大声が出るくらいならば、かなり余裕がありますよね。ぐうの音も出ないで死んでいくのが常ですが、イエス様は大声を上げて、息を引き取ったというのです。
 そして、その後、何が起こったのかといったら、神殿の幕が上から下まで、真っ二つに裂けて、地が揺れ動いて、岩が裂けた。大地震が起きたわけです。そりゃ、こんな死に方、普通ではありえません。イエス様の死は、ただの死ではなかったです。

 そしてその後に起こったことが、これがまた、すごいのです。二十七章五十二節、『また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。』というのですから、普通ではありえないことです。
 なんと、主を信じていた聖徒たちのからだが、イエス様が息を引き取られた瞬間に、「墓からよみがえった」というのです。これはイエス様が神の子であった証拠です。親父が死んでも、納骨堂から誰一人も飛び出て来ませんでしたが、イエス様が死んだ時、多くの死んだ人たちがよみがえったというのです。
 そしてイエス様がよみがえった後、聖徒たちは墓から出て来たのです。よみがえっても、墓の中に三日間、じっとしていたみたいですよね。この事が事実ならば、信じられないことが人類の歴史に起きたわけです。

 聖徒たちがよみがえったことは、マタイしか記録していないのです。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書の中で、他の記者たちは、「幕が裂けた」ことは記録しています。しかし、「死人が生き返った」事は、マタイだけが記録しています。どうしてだろうかと思います。
 たぶん、「幕が破れた」のは、後からでも確認できます。しかし、「死人がよみがえった」とありますが、よみがえった人たちが、その後どこに行ったのか記されていないのです。死後の世界に戻ったのかどうかは知りませんが、これはやがて、イエス様が帰って来られる時、何が起こるのかの象徴的、預言的な表れでした。この事をつぶさに見たのは、近い人たちだけだったんじゃないかと思います。他の記者は、もしかして、しっかりとした資料を集めることができなかったのかもしれません。これは私の推測ですが。マタイは事件が起こったことを、しっかりと確認したはずです。だから記録したはずです。

 イエス様が帰って来られる時、何が起こるのか。かつて私たちと一緒に礼拝をしていた聖徒たちがよみがえるのです。新城教会の納骨堂も、かなり満員になってきたと先週お話ししましたが、百名くらいの方々の遺骨が納められています。しかし彼らも瞬間的に、よみがえるはずです。イエス様と一緒に、地上に現れるのです。永遠のいのちとは、死後のいのちではなくて、その後、もう一度、この地上によみがえってくるのが、永遠のいのちです。天国が地上に現れるのです。天がこの地に下りて来るのです。神の場が、人の場のただ中に下りて来ることが、これからの歴史の延長線上にあるのです。

 その事は、すでにイエス様の十字架と復活によって、始まったのです。ということは、私たちは、最も興奮する時代に生きているのです。いつイエス様が帰って来られてもいい時代です。いつ、幕が破られるのか分からない時代に生きているのです。
 神殿の幕が真っ二つに上から下まで破れたのは、何を意味するのでしょうか。それは誰でも、神の前に自由に出ることができることを意味します。
 私たちクリスチャンは、どんな時でも、イエス様の名前で父なる神様の御前に出ることができます。こんなすばらしい宗教というか、神様との交わりは、キリスト教しかありません。どんな場所でも、どんな場合にも、祈ることができるからです。嬉しいですね。

 私の家のトイレについて時々話しますが、家内は誰かから祈りを頼まれると、ちゃんと祈りを頼んだ人の写真を撮って、家に帰ってから、写真をプリントしてパウチして、トイレに貼るのです。パウチしておかないと、孫たちが来て何かをかけたりしますから。トイレに入る時、祈りの課題を祈るのです。トイレでの祈り、これでも神様は聞いてくれます。普通なら、「そんな臭い所で、俺に祈るんじゃねぇよ!多少力が入るかもしれないけどやめろ!」とか言われそうですが、そうではないですよね。トイレの中でも、お風呂の中でも、どんな場合にも祈ることができる。幕が裂けたから、私たちは神様の前に、いつでも行く事ができるのです。

 しかし幕が上から下まで裂けたのは、もっと深い意味があります。それは何かといったら、神様が住んでいる世界。これは天です。前にもお話ししましたが、それが地上に侵入してくることを意味しています。幕が裂けるとは、神様が住んでいる場が、人間の住んでいる場に重なって来て、人間が住んでいる場を、神が完全に支配する時が来ることを示しています。
 その時、何が起こるのか。死人もよみがえり、イエス様も目で確認できるのです。これはイエス様が帰って来られる瞬間のことを、十字架と重ねて、預言的に、象徴的に示したと思うのです。私はマタイの二十七章を読んで感動しました。
 もしかしたら、もしかして、私たちの生きている間に、幕が裂けることがあるのかもしれないです。そんなことが起こったら、すごいじゃないですか。出来る事なら、ぜひ、歴史のクライマックスに立ち会いたいものです。死後の世界から飛び出す役割ではなく、飛び出して来た人たちを迎える役になりたいものです。
 そのためには何が必要かといったら、イエス様が帰って来られる時期を、なんとか遅くしようとする、悪魔の働きに立ち向かうことです。

 「ちょっとテーマがでかすぎる!」と言うかもしれません。しかし、どうやって立ち向かうのかといったら、「日頃の生活の中で、誘惑に打ち勝つ!」という、一見、些細に見える戦いが、イエス様のお帰りに直結しているのです。

 今週の様々な霊的戦いに、決して負けることなく、打ち勝っていくんだ!それがイエス様のお帰りという、歴史的クライマックスにつながるんだ!ということをイメージしながら、サタンに立ち向かうなら、戦いも楽しくなるはずです。

 今、申し上げましたように、悪魔の目的は、私たちを惨めにして、私たちを苦しめる事など、あんまり考えていないと思います。一番考えているのは、イエス様が帰って来たら、自分たちは滅びなければいけないわけですから、なんとかイエス様のお帰りをとどめて、悪魔帝国の歴史がもっと延びるように、その事だけを、真剣に考えて、世界中で働いていると思います。

 悪魔は、イエス様の再臨をとどめるために、様々な手口を使っていると思うのです。ゆえに、どういう手口を使っているのかを見抜く必要があります。悪魔がすべての戦いを、「主が帰られる日をとどめる」という一点において、策略をめぐらせているとしたら、戦いを良く理解できる気がします。そのような視点で身のまわりにある、霊的な戦いや誘惑を見ると、悪魔のテーマが、浮かび上がってくる気がします。

 今日は十一月一日ですね。昨日は、十月三十一日でした。現在、私たちは十一月一日ですが、今週、私はアメリカで奉仕があって出かけますが、アメリカでは時差があって、南米でもそうですが、今は十月三十一日です。十月三十一日の夕暮れ時だと思います。私は今週、タコマの竹内先生の教会で、三日間の聖会があって、その後、ジョー先生の教会にも行くのですが、今は、十月三十一日の夕暮れ時です。
 昨日、十月三十一日の夕暮れを日本は過ごしましたが、世界には時差があります。昨日、みなさんもテレビなどで見たかもしれませんが、十月三十一日の夕暮れ時、これが東京の渋谷です。

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 これなんですか。変なお面をかぶった人たちがいっぱいいて、年々、渋谷の交差点に、お面をかぶった人たちが増えているというのです。だから警備が大変だと昨日やっていました。これは何かというと、ご存じだと思いますが、「ハロウィン」です。
 ハロウィンなんて、日本では全く有名ではなかったのが、この頃、有名になって、そこら中でハロウィンパーティーをやっています。ハロウィンとは、アメリカのほうから入って来たフェスティバルのように考えている人が多いかもしれませんが、この起源、意味合いを知ると、ハロウィンはただ事ではないことが分かります。

 ハロウィンとは、十月三十一日の夜中から、十一月一日にかけて行われるものですが、世界規模です。今やアジアの諸国、ヨーロッパも、アフリカも、南米も、世界規模でなされます。普通の文化とか習慣みたいに考えているけれど、これが、どういうものかを、簡単にまとめたものがあります。これは、ヨーロッパの古代の民族、ケルト人が始めたものです。

 『ケルト人の1年の終わりは、十月三十一日で、この夜は夏の終わりを意味し、冬の始まりでもあり、十月三十一日と十一月一日を境にして、幕が開き、死者の霊が家族を訪ねて来るとされている。また、時期を同じくして出て来る、有害な精霊や魔女から身を守るために仮面をかぶり、魔除けのたき火をして焚いていた。』

 これがハロウィンです。十月三十一日から十一月一日の境目に、幕があるというのです。十月三十一日から十一月一日に移る瞬間、幕が裂けるというのです。そして死んだ人たちが出て来る祭りだというのです。
 どっかで聞いたことがある響きじゃないですか。先ほどイエス様が、十字架にかかった時に、幕が破れて、死人たちが出て来た!というのと、裏表みたいです。

 古代のハロウィンの時は、子どもたちや女性たちなどが生け贄となって、悪魔にささげられたり、様々な悪しき習慣があったのです。先祖と称する霊を家に招く行事、それがハロウィンです。これは、イエス様がやがて帰って来られ、聖徒たちがよみがえるのをとどめるための、悪魔の行事以外のなにものでもないのです。

 近頃、ハロウィンは文化のようになっていて、クリスチャンでも、仮装だけなら楽しいじゃん!と言うかもしれません。しかしこれはイエス様の再臨を阻止する祭りです。イエス様の再臨という、最も大きなテーマをとどめる大きな要素となっているのです。
 ルーツのことがよく分かると、悪魔がテーマを横取りして、自分を拝ませて、死者が戻ってくるような習慣をでっちあげていることがよく分かります。
 ハロウィンではかぼちゃの中に火を焚きます。

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 でも、かぼちゃになったのは十九世紀にアメリカからです。昔は、かぶらだったらしいです。

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 気持ち悪いね。しかし日本人は、元祖ハロウィンみたいなことを毎年、やっているのです。それが何かと言ったら、「盆」です。

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 盆も火を焚きます。八月十四日、十五日に、地獄の幕が破れて、死人が帰って来るというのです。これも、イエス様がお帰りになる日を止める習慣です。
 「どう?ハロウィンパーティー来ない?仮装して来てよ!」という誘惑があったらどうすべきでしょうか。「楽しそうだね!ちょっと非日常的なことが体験できるし、行こうかな!」ではいけないのです。誘惑に打ち勝つことは、まさしく、イエス様の再臨とつながるのです。
 悪魔は常に最終ゴールを握った上で、働いていることが分かります。
 神様と人間との間の幕が破られるのは、人類にとって最も良い事です。しかし、悪魔が住んでいる場と、人の住んでいる場を区切っている幕を破る行事、それがハロウィンであり、盆です。悪魔は、主がこの地に来られるのを、一番嫌って、自分たちがこの地に長く君臨することを望んでいるのです。その為に、「俺たちの場の幕を、もつと破ってくれ!破ってくれ!」と働いているのではないかと思われます。

 神様が住んでいる所を天と呼び、私たちの住んでいる場を地と呼ぶと、お話しさせていただきましたが、今の科学は、多次元があることを証明しています。先週も少し話しましたが、私たちは三次元に住んでいますが、三次元だけがすべてではないというのが今や、科学の定説になりつつあります。

 先日、梶田さんという人が、ノーベル物理科学賞を取りました。なんで取ったかといったら、素粒子である、「ニュートリノ」に質量があるのを発見したからです。何のことか、さっぱり分からないかもしれません。「はじめに神が天と地を造った」とありますが、物質とは、ミクロ単位で、神秘の世界があるのです。

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 例えば、水という目に見える物質がありますが、水は蛇口から出て来ます。でも、それを化学記号で表すと、「H2O」と習いました。二つの水素と、酸素が一つくっつくと水になるのです。これをどんどん分解していくと、もっともっと小さな単位になるというのです。最終的には、素粒子になるらしいです。それは一兆分の一ミリ以下の単位になるそうです。目に見えない素粒子が集まって水になったり、食べ物になったり、私たちの体になったりするわけですね。
 今、明らかになっている情報と合わせて聖書を読むと、「はじめに神が天と地を創造した。」ということも、ただ事ではないのが分かります。すごい知恵だと思うのです。自然にできたなんて、絶対に言えないです。その素粒子にも法則があって、この頃では、質量がないと言われてきたニュートリノに、質量がある、重さがあることが分かったわけです。
 そういう事が徐々に分かってくると、人間って、神の領域にまで踏み込んでもっと解明してやろう!となるわけです。でも、そういう世界は解明してはいけないのです。人間は完全じゃないから、神の領域に手を出すと、大変なことになるわけです。その最たるものが、原子力関係ではないでしょうか。原子力は、素粒子以前のもっと大きな粒子です。

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 それに中性子をぶつけると、核分裂するわけです。分裂する時に、エネルギーが出るのです。だれが考えたんですかね。中性子を原子核にぶつけるとエネルギーが出るという法則を発見したのです。こういうことを初めに考え出した人って、どういう頭なのか分かりませんが、それで原爆が作られたり、原発が造られたのです。しかし日本では原発が壊れて、手に負えないのです。こういう領域は、すでに神の世界だから、手出ししてはいけないのです。やってはいけないことをやると、絶対に大きな問題が生じるわけです。

 しかし今では、原子核に中性子をぶつけるどころではなく、もっともっと小さい素粒子を衝突させる実験までやっているのです。そして次元が、三次元で終わりではないことが分かっています。ひも理論によると、次元は十一次元くらいまであることになるそうです。そうすると、計算がぴったりいくというのです。三次元以上の四次元の生物がいたとしたらどうですか。時間も距離も超越します。さらにその上の次元に生物がいたらどうでしょう。まったく概念を組み立てることができません。神は神秘な世界をも造っているのです。
 しかし知識の木にいたる道は、入ってはいけないと塞がれています。原子力の問題など、まさにその領域です。しかし人類は、どんどんそういう場所に入って行って、手に追えないことが起こっているのです。先日のノーベル賞なんか、素粒子の世界ですから、一兆分の一以下の物質に対する理論なのです。

 そして今、大きな問題が提起されているのですが、宇宙論などで有名なホーキング博士が「危ないからやめとけ!」と主張している実験が行われているのです。
 みなさんの中で、このことを、聞いたことのある人はいますか?私も近頃聞いたのですが、

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 CERN(セルン、サーン)という、「欧州原子核研究機構」のことを知っていた人、スイッチオン!一人。やはり普通の人は知りませんよね。私も知りませんでしたが。

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 ここで何をやっているのかというと、一周二十七キロの円ですが、地下百メートルくらいの所に山手線の沿線ほどの長さのチューブが輪のようにひかれていて、どういう実験をしているのかというと、素粒子と素粒子を光の速度くらいまでスピードアップして、衝突させる実験をしているのです。
 衝突により、素粒子にものすごい力がかかると、何が発生するかというと、宇宙の起源に関わる現象が起きるらしいのです。それが、「ブラックホール」です。それは、微少の単位かもしれないけれど、ブラックホールが形成されるというのです。この実験が近頃、セルンで始まったのです。
 ホーキングは、「何が起きるか分からんから、やめとけ!」と警告しています。他の科学者たちも警告しています。もしかすると、ブラックホールが出来て、すべてが別次元にのみ込まれてしまうかもしれません。

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 下手したら、地球だって消えちゃうようなことになるかもしれないから、やめとけ!と言っているわけです。でも、人類って怖いですね。自ら、幕をやぶりたいと考えているのです。次元の幕をやぶってやろう!と。
 セルンを作って実験を始めたら、この地域に、おばけとか悪霊がいっぱいでてきて、怪奇現象がいっぱいあるそうです。アメリカのある教会の牧師が、そのことについてメッセージしていました。とりなして祈らなくてはいけない!と。

 これは、どういう幕をやぶっているのかと言うと、悪霊が住んでいる場をキリで突いて穴を開けているようなものだと私は思います。「今現在、CERNで行われている実験はこの世の終わりを脅かす驚異である。」と、この牧師は語っていました。

 人類はどこまでいくのかと思いますが、人間の欲望で幕を破る行為です。それは、神の場が地上に下りて来るのではなく、悪魔が住んでいる場を地上に現す目的です。それが証拠に、CERNの研究所の前に、こんなモニュメントが立っています。

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 これは、ヒンズーのシヴァ神です。ヒンズーでは三つの神がいて、シヴァとヴィシュヌとブラフマーですが、シヴァとは、破壊神です。何もかも破壊してしまう存在です。ブラフマーとは、再創造神だというのです。ヴィシュヌは、世界の維持のための神だそうです。これも三位一体なる神を裏返しにしています。
 CERNに、シヴァ神で世界を破壊して、ブラフマーで再創造するという概念が存在している事がわかります。

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 CERNの中はこうなっているそうです。まさしく悪魔の力、そのものです。これはある意味で、この世の終わりが近づいている現象です。これも、幕を破るというテーマです。

 私たちが知らないうちに、悪魔は着々と、イエス様が帰って来る道を塞いでいるのです。
 しかし私たちが、主の勇士となって、毎日起こって来る様々な誘惑に打ち勝つと、悪魔の策略は打ち破られるのです。生活のただ中に起こる誘惑に勝利すると、イエス様が帰って来られ、この地に神の国が実現するのです。
 今週も目の前の戦いを無視しないで、忠実に主に仕えていきたいと思います。

 これでメッセージを終わりたいと思いますが、今から二十年くらい前に、「みことばの剣」というデボーション小冊子を毎週発行していました。教会スタッフたちが書いていました。けっこう負担が大きいのでやめてしまったのですが、でも長いこと続けたので、何年分もあるので、いつかまとめたいな、と思うのですが、先日、今から二十年以上前の、ある人が書いた原稿を手に入れました。こんなふうに書いてありました。


『見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。』黙示録二十二章十二節のみ言葉を引用し、「報い」という題で書いていました。

 突然オレンジ色をしたオーロラのようなひだが私を包み込み、なんとも形容しがたい不思議な、それでいて厳粛な空気が、辺り一面に流れ始めた。隣の席に座っていた主人に語りかけた。「北欧でもないのにオーロラが見られるなんて不思議だね。」と、同時に、「あっ!再臨だ!」どちらかともなく、叫び声をあげた。みるみる天が開け、霧のようにも見える荘厳な光が、あたかもスポットライトにでも照らされるかのように、天空から、私の上に、主人の上に、降り注がれ始めた。
 その時、こう語る声を聞いた。「このように、あなたがたが行なった、すべての事に対して、わたしが報いる時が来るのだよ。あなたの働きは私の前に隠されていないよ。」と。そして、その霧のように注がれ始めた主の報いの中で、私は喜びと感謝と新しい希望に溢れていた。
 そこで、はっと気がつくと、なんとそれは夢だったのだ。私は、厳粛な思いで、布団の上にひざまずき、祈りをした。黙示録二十二章十二節と十三節を、主は私に与えてくださった。この夢の後から、主に対する私の態度が一変したのは言うまでもない。
 しかし、人間とは、いや、私は弱い者で、喉元過ぎれば熱さを忘れる三日坊主なので、いつしかこの夢も霧のように消え果て、元に戻ってしまっている自分を今更ながら恥ずかしく思い、反省しながらペンを走らせている次第である。たかが夢、されど夢。いずれにせよ、私にとっては、非常に説得力のある、身震いするような一夜の出来事であった。

『なぜなら私たちは、キリストの裁きの座に現れて、善であれ、悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからである。第二コリント五章十節』


 こんな原稿が出て来たのですが、誰が書いたのかなぁと思ったら、「滝元享子」とありました。私の家内だったのですが、これが本当に起こったらすごいですよね。主は、戦いの中で苦労したことも、皆覚えていて、あなたに報いを携えて、あなたの所に訪れますよ!と、約束しているわけです。『見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。』と。それが近づいています。

 最終コーナーにさしかかっている時代を生きることができて、心から感謝します。この立場を確認すると共に、日々の戦いに、雄々しく挑んでいきたいと願っています。
 最後にみなさんとご一緒にお祈りをして、聖餐式をしたいと思いますが、「主よ、私を主の勇士として用いてください!」と、しばらくの間、ご一緒に祈りの時をもっていきたいと思います。ご一緒に祈りましょう。


 ハレルヤ。天の父なる神様、感謝します。あなたはまもなく帰って来られます。幕が破られる日が来ることを、心から感謝します。この日に向かって、私たちは日々の生活の中の霊的戦いを雄々しく戦います。
 今週もどうか、誘惑に打ち勝たせてください。今からイエス様、あなたが流してくださった十字架の血潮と裂かれた肉をいただきます。死を打ち破ってよみがえってくださったイエス様と一つとなって、聖霊の力で戦いに勝利することができますように。今からの聖餐式のひとときを祝してください。聖霊とみ言葉によって、この聖餐式を行います。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。