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『十字架形の神

2015年11月8日(日)
山崎ランサム和彦師
コリント人への手紙 第一 1章18節〜25節

『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。』

 ハレルヤ。みなさん、おはようございます。今日こうして、みなさんとご一緒に神様を礼拝し、また神様のみ言葉をいただくことができることを、心から感謝しています。

 私たちは普段言葉を使って生活しています。言葉は私たちがものを考えるだけでなく、自分の考えていることを他の人に伝える伝達の手段としても大切なものです。しかし、私たちは同じ言葉を使っていても、同じものを思い描いているとは限りません。人によって、あるいは文化によって言葉の持つイメージは異なっているのです。
 たとえばこんな話を聞いたことがあります。中国に進出したある日本企業がお店のディスプレイをするのに、「煉瓦造りの建物」をイメージした展示をしようと考え、現地の中国人スタッフにそのことを指示したそうですが、現地のスタッフはそのアイデアにあまり乗り気ではなかったそうです。その理由は、日中両国の「煉瓦造り」というものに対するイメージの違いにありました。日本では「煉瓦造り」というのは、おしゃれで高級な欧米風の建物というイメージがあるのですが、中国では農村などによくあるみすぼらしい建物というマイナスイメージがあって、とても商品のイメージアップにはつながらなかったということです。「煉瓦造り」というものに対する日中のイメージの違いによって、ビジネスにも影響が出てきたと言うことです。
 イメージは私たちの信仰生活や聖書の読み方にも影響してきます。たとえば詩篇42篇1節を考えて見ましょう。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、 神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」

これは賛美にもなっている有名な聖句ですが、ここにある「鹿が谷川の流れを慕いあえぐ」という表現について、しばらく思い巡らしてみてください。「谷川の流れ」と聞いて、みなさんはどういう情景をイメージされたでしょうか?ある方々は、日本に良くあるような、緑豊かな山間の渓谷にとうとうと流れる川の流れを想像されたかも知れません。けれども、詩篇の作者がこの句を書いたときにイメージしていたのはそういうものではなかったと思われます。中東に行くと、そこは基本的に砂漠地帯であり、灼熱の太陽に照りつけられた、からからの大地に溝が走っていて、その底にちょろちょろと水が流れているような川があります。このどちらの川をイメージするかによって、作者の心の飢え渇きというものはだいぶ違ってくると思います。
 
このように、信仰生活においてイメージというのはとても大切です。その中でもっとも大切なのは、言うまでもなく神様ご自身のイメージです。今日はこのことについてご一緒に考え、聖書から学んでいきたいと思います。
クリスチャンはみな神を信じている、あるいはイエス・キリストを信じていると言いますが、一口に「神」とか「イエス・キリスト」と言っても、人によっていろいろなイメージがあると思います。みなさんは神様についてどんなイメージを持っているでしょうか?少し考えて見てください。
 私たちが持っている神様のイメージのことを「神観」と言います。神観は「神学」とは異なります。神学というのは神様がどのようなお方であるかを理性的に考えるもので、たとえば「神は創造主である」「神は全能である」「神は永遠である」といった、神様についての抽象的な概念です。神観は私たちが心の中で神様をどのような人格を持ったお方としてとらえ、感じているかということです。たとえば「白いひげを生やした優しいおじいさんのような方」とか、「厳しい学校の先生のような方」といった具合です。
 私は神学校で教えさせていただいていますので、神学の大切さをもちろん否定するわけではありません。けれども、私たちの実際の信仰生活に大きな影響を与えているのは、実は神観の方なのです。なぜそうなのかを考えるためには、「信仰」が私たちの生活にどのように関わってくるのかを知る必要があります。
よく「信仰と生活」ではありません、「信仰生活」です、と言われることがあります。私たちクリスチャンの日常生活は、私たちの信仰と遊離したものであってはならない、日曜日に礼拝に来るときだけ敬虔なクリスチャンで、その他の6日間は世の中の人々と変わらない存在であってはならない、と言われます。けれども、実を言うと、好むと好まざるとにかかわらず、私たちの生活は私たちの信仰に直結しているのです。問題は、それがどのような種類の「信仰」か、ということです。
 すこし混乱して来た人がいるかもしれません。それはこういうことです。私たちはクリスチャンとして、神様について、人間について、世界についていろいろなことを信じていると言います。聖書は神のことばであると言います。また、自分でも本当にそのことを信じているかも知れません。けれども、そのように私たちが信じていると告白する内容と、私たちの実際の生き方には大きなギャップがあることがあります。なぜなのでしょうか?
すべての人は、自分が信じていると頭で思ったり告白していることがらに従って生きているのではなく、本当は心の奥底で、時には無意識に信じていることに従って生きています。
たとえばある人はファーストフードは身体に悪いから食べない方がいい、と考えています。それを家族や友人にも告白しているかもしれません。けれども、テレビで美味しそうなハンバーガーのCMを見ると、次の日にはお店に行って食べていたりします。その人は「本当は食べたくなかったんだけど、CMにつられてつい食べてしまった」と言います。けれども、実際にはこれは正確な表現ではありません。その人は心の奥底ではハンバーガーを食べたかったからこそ、食べたわけです。その人は本当のところは、ハンバーガーを食べることは良いことだと信じているのです。もっともその「良い」は、「健康に良い」ということではなく、「おいしい」とか「満足する」ということかもしれませんが。
同じようなことが、私たちの神観、神様のイメージについても言うことができます。たとえば、「神様は愛です」「神は良いお方です」ということを皆さんは信じておられると思います。それはもちろん、聖書が教える正しい神学です。正しい神学を持つことはもちろん大切なことですが、それが単なる頭の理解にとどまっているならば、皆さんの実際の生活は何も変わってこないと思います。
たとえ私たちが「神は愛です」という正しい神学を信じていたとしても、私たちの心の奥底にある実際の「神観」が「神様はいつも怒っている気むずかしい老人のような方で、私が失敗をするたびに雲の上から雷を落として私を罰しようと見張っている」というようなものだったらどうでしょうか?私たちは神様が愛であるということを頭の知識としては知っていたとしても、実際の私たちの人生は、怒りの神様に裁かれるのではないかとびくびくしながら生きる人生になってしまうのです。つまり、私たちが頭で知っている神様の知識(神学)と、心で感じている神様のイメージ(神観)は必ずしも一致していないことがあるのです。
 私たちが祝福された信仰生活を送っていくためには、正しい神学を学ぶだけでなく、聖書的な正しい神観を持っていく必要があります。ダビデも詩篇16篇8-9節で、次のように言っています。

「8 私はいつも、私の前に主を置いた。 主が私の右におられるので、 私はゆるぐことがない。 9 それゆえ、私の心は喜び、 私のたましいは楽しんでいる。 私の身もまた安らかに住まおう。」

ご存じのように、ダビデは多くの苦難に満ちた生涯を送った人物でした。人から命を狙われたり、祖国を追われたり、家庭の問題に悩んだり、自分の犯した罪に苦しんだこともあります。けれども、彼はそんな中でも神様に対する揺るぐことのない信仰を持ち続けただけでなく、その心には喜びがあったと言います。なぜでしょうか?その秘訣は、「私はいつも、私の前に主を置いた。」という言葉にあります。ここはある英訳では「私はいつも主に目を注ぎ続けた(I keep my eyes always on the LORD)」となっています(NIV 2011)。ダビデは神様が良い方であり、愛なる方であり、ダビデを愛し、守り、祝福してくださる方であることを頭の神学として知っていただけでなく、そういう神様をいつもイメージして、心の中に思い描き、このお方を見つめていたのです。つまり、ダビデは正しい「神観」を持っていたと言えます。そこから、ダビデは単なる知的な神学は与えることのできないもの、すなわちゆるぐことのない平安と喜びを得ることができたのです。
 しかし、ここで問題があります。私たちの信じている神様は、純粋な霊であって、目で見ることのできないお方です。どうやったらこの神様をイメージすることができるのでしょうか?その答えは「イエス・キリスト」です。目に見えない神様が人間となってこの地上に来てくださった、それがイエス・キリストです。
 キリスト教の神様はどのようなお方か、ということを考える時、私たちは哲学的な神のイメージ(永遠、全知全能、等)から出発して神様を考え、その神が人間になったのがイエス様だというふうに考えてしまうことがありますが、これは聖書的に言うと順序が違っているのです。
聖書が教えているのはその逆であって、人として二千年前にこの地上に来られたイエス・キリストを知ることによって、初めて目に見えない神様がどのようなお方であるのかが分かるというのです。ヨハネはこのように言っています「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)。
 だから、神様についてイメージするには、イエス・キリストについてイメージすれば充分なのです。イエス様ご自身、弟子たちに「わたしを見た者は、父を見たのです。」と言われました(ヨハネ14:9)。そしてパウロも、「御子は、見えない神のかたちである」と書いています(コロサイ1:15)。ここで「かたち」と訳されているギリシア語は「エイコーン」で、コンピューターのアイコンの語源になっている言葉ですが、英語ではimageと訳されています。神様のイメージ、神観についてお話ししましたが、イエス様はまさに「神のイメージ」そのものである、とパウロは言っているのです。目に見えない神様がはっきりと目に見えるかたちで現れてくださった方、それが御子キリストということなのです。
 目に見えない神様が目に見える形で来てくださったのがイエス・キリストである、ここまではほとんどのクリスチャンは同意されると思います。けれども、そこからさらに一歩進んで見たいと思います。ヘブル人への手紙には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」であると書かれています(1:3)。つまり、イエス・キリストのうちに表されていないような神様の本質はないのです。この、人となってこられたイエス・キリストのうちに、神様がどのようなお方であるかということが、あますところなく、すべて表されているということです。
 そして、イエス・キリストの生涯のクライマックスは、十字架でした。このことは新約聖書自体が証ししています。四福音書すべては、イエス様の受難をクライマックスとした物語として書かれています。そして、パウロの宣べ伝えた福音のメッセージの中心にも、十字架につけられたイエス様の姿があったのです。

 今日お読みしたコリント人への第一の手紙で、パウロは彼がコリントを初めて訪れた時、そこに住む人々にどのようにして福音を伝えたかを読者に思い起こさせています。1章23節で彼は「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」と語っています。「十字架につけられたキリスト」これこそ、パウロの福音のメッセージの中心でした。使徒の働き18章を見ると、パウロのコリントでの伝道の様子が書かれていますが、そこでは彼が「イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。」(5節)と書かれています。つまり、この十字架につけられたイエスという人物こそが、旧約聖書で預言されていた救い主メシアである、とパウロは語ったのです。
 これは当時の人々には、ユダヤ人にも異邦人にもまったく理解不可能なメッセージでした。パウロは彼の語った十字架のメッセージは「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚か」だと言います(23節)。十字架はいまでこそおしゃれなアクセサリーなどにもなっていますが、当時はもっとも残酷な死刑の道具だったのです。十字架刑で処刑されるのは普通の犯罪人ではなく、国家に対する反逆罪などの特別に重い罪を犯した極悪人に限られていたのです。彼らは見せしめのために、恐ろしい苦しみを味わいながらじわじわと死んでいきました。そのような方法で死刑になった「犯罪者」が神であり救い主などという教えは、当時のローマ市民の想像を超えていたと思います。
また、十字架はユダヤ人にとっては別の意味でもつまずきとなりました。旧約聖書には「木につるされた者は、神にのろわれた者」であると書かれていました(申命記21:23)。十字架に磔になるということはある意味で木に架けられることですので、ユダヤ人は十字架刑で殺された者は神に呪われた存在だと考えていました。そのような存在が救い主メシアであるというのは、これまたあり得ないことだったのです。
福音書の受難記事を読んでいくと、ユダヤ人の指導者たちが執拗にイエス様を十字架につけるようにピラトに訴えていくことが分かりますが、それはただ単にイエス様が憎くて、できるだけ苦しい死に方をさせてやろうと思っていたからではありません。彼等はこの申命記の聖句を知っていたので、もしイエス様を十字架につけることができれば、それによってこの方が神から遣わされたメシヤなどではなく、神に呪われた存在であることを証明できると思ったのです。
ところがパウロはまさにこの聖句を用いて、十字架にかかったイエス様が私たちの身代わりに神からの呪いを受けてくださったと論じています。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)

十字架刑という呪われた処刑方法で神の御子が殺されたというのは、まさに私たちを救うための神様の驚くべき方法であったことが分かります。
すこし話が横道にそれましたが、とにかくパウロは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることは、ユダヤ人にも異邦人にも受け入れがたい方法であることを承知していました。けれどもパウロは「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」と断言します(1コリント1:18)。世の中の人には愚かさの極みに見えるような、十字架につけられたイエス様の姿にこそ、救いを得させる神の力が表されているというのです。
 この箇所でパウロは「神の知恵」と「この世の知恵」を対比して論じています。十字架に表された神の知恵は、この世の知恵の標準からすると愚かに見えるけれども、実はこちらの方が優れているというのです。

「21事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。 22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。 23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」(1コリント1:21-23)

ここで、パウロは世の中の人々も神を知ろうとしていることを認めています。世界には宗教があふれていることからも、それは分かります。しかし、世の人々は自分の知恵を用いて神様を知ろうとしているので、その試みはうまくいかないというのです。本当に神を知ろうと思ったら、神の知恵に従ってそのことをしなければなりません。神の知恵とは、十字架に架けられたキリストを通してのみ、本当の神様を知ることができるということです。実際、パウロは「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」と言っています(1コリント2:2)。
なぜパウロは十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えるのでしょうか?彼は人々がわざと信じられないような難しい話しをして、救いのハードルを上げているのではありません。キリスト教は「分かる人だけ分かればよい」というエリート主義の宗教ではありません。むしろ逆であって、パウロは人々が求めていた神への道を、これ以上ないほどストレートに語っているのです。十字架につけられたイエス・キリストを知ることが、神様を知る一番の近道なのです。いいえ、本当の神様を知ろうと思ったら、それ以外の道はないのです。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました(ヨハネ14:6)。
 つまり、「十字架につけられたイエス・キリストを通して神様が分かる」というメッセージが分かりにくい、というのは、神様の側に問題があるのではなく、私たちの神観が罪によってあまりにも歪められてしまっているので、神様がご自分の本当の姿を啓示されたとき、それを認め、受け入れることができないということなのです。もちろん、神様は天地万物を造られ、支配しておられる偉大な王なる方です。けれども、この方はご自分の支配を力を持って行われるのではなく、へりくだって愛を持って仕えることを通して行われるのです。

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:42-45)

これが神様のやりかたであり、私たちの生き方でもあります。私たちの罪のために十字架にかかってくださったイエス様の姿に、神様の本質、つまりアガペーの愛が完全な形で表されているのです。10月31日は宗教改革記念日でした。1517年のこの日にマルティン・ルターが95ヶ条の論題をヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に提示したことにより、宗教改革が始まったと言われています。このルターは「十字架の神学」ということを言っています。神様の本当の偉大さ、素晴らしさは、人間にとっていかにも素晴らしいと思えるような栄光に輝く姿を通して表されるのではなく(彼はそのような考えを「栄光の神学」と呼んで否定しました)、十字架につけられたキリストの弱さと躓きを通して表される、ということです。
 そして、神様の恵みによって目が開かれた人は、この十字架につけられたイエス様に、神ご自身の姿を見ることができます。マルコの福音書は「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」と言うことばで始まります(1:1)。しかし、福音書の物語を通して、イエス様が神の子であるということは、人間の登場人物は誰一人として悟りませんでした。しかし福音書の最後になって、イエス様が十字架の上で息を引き取られるのを見たローマの百人隊長が、 「この方はまことに神の子であった」と言ったのです(15:39) 。神の子としてのイエス様のアイデンティティは、イエス様がなされた奇跡でも、また復活でもなく、十字架上の死を通して明らかにされたのです。もちろん復活はとても大切ですし、復活がなければ十字架は完結しません。けれども、復活は十字架の逆転や否定ではなく、十字架を確認するものです。十字架と復活はコインの裏表のような関係にあり、復活は十字架で明らかにされたアガペーの愛が、たしかに神の本質であることを証しする、神の「しかり」なのです。
 最初に言いましたように、神様の本当の姿は人となったイエス・キリストに表れています。そして、イエス・キリストの本質は、十字架の上でいのちを捨てた愛のうちに表れています。だから、イエス様のイメージ、特に十字架に架けられた愛のイエス様のイメージから離れて父なる神様を想像することはできないのです。神様はいわば「十字架の形をしている(cruciform)」神様なのです。聖書の中で神様について書かれているすべてのことは、この十字架のレンズを通して受け取っていかなければならないのです。
 あなたが心の中で思い描いている神様はどのようなお方でしょうか?遠く離れた、地上の細々したできごとには無関心な神でしょうか?私たちの罪や過ちのゆえにいつも不機嫌で、私たちを罰しようと待ち構えているような、恐ろしい神様でしょうか?今日、もう一度十字架に架けられたイエス様を心に思い描きましょう。イエス様は私たちがまだ神を知らず反抗して生きていた時に、私たちを愛していのちを捨ててくださいました。今も弱く不完全な私たちを受け入れ、導いてくださいます。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも変わることがありません(ヘブル13:8)。このイエス様は私たちと世の終わりまでいつもともにいてくださいます(マタイ28:20)。このイエス様の姿を、ダビデのようにいつも目の前に置いて歩んでいきましょう。

 愛する天の父なる神様、あなたの御名をほめたたえて、心から感謝します。今日も私たちは、み言葉を通して、十字架にかけられたイエス様こそが私たちの、信じ、また宣べ伝えるべき福音の中心であることを学んでまいりました。今週一週間の私たちの歩みの中で、神様がどのようなお方であるかということが、十字架にかかってくださった愛のイエス様の姿の中に完全に表されていることをいつも覚え、その主を目の前において、歩んでいくことができるように助けてください。私たちの内側に、まちがった、ゆがめられた神観があるならば、それをあなたが取り除いてくださって、聖書に現された、あの愛のイエス様の姿に置き換えてくださいますように、お願い致します。この時を感謝して、尊きイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。