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『勝利、感謝、主に栄光!
~栄光が全世界であがめられますように~

2015年12月27日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
詩篇108篇1節〜5節

『神よ。私の心はゆるぎません。私は歌い、私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。十弦の琴よ、立琴よ。目をさませ。私は暁を呼びさましたい。主よ。私は、国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。あなたの恵みは大きく、天の上にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。神よ。あなたが天であがめられ、あなたの栄光が全世界であがめられますように。』

 ハレルヤ!おはようございます。ゴスペルクワイヤーの賛美、本当にすごかったですね。MIKOTOBA BUGI。クリスマスフェスティバルの時には、前に出た三人がサングラスをかけていました。かっこよかったですよ。今日はサングラスがありませんでしたので、ちょっと残念でしたが、礼拝が始まる前から主を賛美し、また、賛美して、さらに賛美してと、賛美漬けです。年末は特に賛美が続きますので、みなさんも参加して下さい。

 メッセージを始める前に、心からの感謝を申し上げたいと思います。この一年、支えていただき、祈っていただいて、この場所に立つことが出来ていることを、本当に感謝します。
 二〇一五年、本当に大きな年であったと思います。みなさんにとっても、同じかもしれませんが、今日は、すべてを主に感謝する気持ちで、礼拝を捧げたいと願っています。
 二〇一四年の最後の礼拝メッセージタイトルも「勝利、感謝、主に栄光!」でしたが、今年も、心からの感謝を持って、同じタイトルで、主の前に出たいと思います。

 先ほどお読みました、詩編一〇八篇は、「国々のただ中で」、「国民の中にあって」、「全世界で」という、聖書の持っている、世界大の世界観を現しています。個人というよりも共同体、地球全体で主をあがめ、主に感謝せよ!と、スケールの大きい言葉が語られています。
クリスチャンとは、聖書が提示している世界観を、自分のものとして生きる者達です。
 今日も主を礼拝していますが、「栄光が全世界であがめられますように」という思いで礼拝したいです。

 ちょっと話は変わるのですが、今日は、みなさんに良い知らせがあります。

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 このCDが先行発売されます。「子どもの頃の思い出」という、グロリアシンガーズのCDが、新城教会で先行発売です。この写真、いいでしょう。見開きで写真がついています。

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 24時間PPHでは、CDだけでなく、ライブもやれと言うのです。リバイバルミッションは、使える手はなんでもという感じで、二〇年ぶりにグロリアシンガーズの練習を先週しました。これ、見てください。証拠写真です。

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 みんな目が遠くなって、楽譜が見えない感じです。ちょっと悲しいところもありますけれど。

 「子どもの頃の思い出」には、グロリアシンガーズの名曲、三曲を収録しております。また、父の伝道メッセージも入っています。それは、彼の生涯、最後の伝道メッセージです。今年の七月、凱旋する一ヶ月前に、九州で語られたメッセージが収録されています。

 かつて父や、田中政男先生とグロリアシンガーズがタッグを組んで、日本のいろんな教会をめぐって、伝道集会をしました。近頃、日本の教会で伝道集会がめっきり減ったと言われます。今回、古き懐かし伝道集会というテイストで、CDを作らせていただきました。ダイジェスト版を伊藤義也さんが編集してくださいましたので、今から、ちょっとお聴き下さい。礼拝が終わりましたら販売いたします。サイン欲しいですか?あっ、いらない。そんなものはいらないと思いますが。では、お聴き下さい。

<<ダイジェスト版>>

 はい。ということで、懐かしい声も聞けました。これを誰かに差し上げたら、伝道集会をプレゼントするようなものです。ぜひ、利用していただきたいと思います。
 この一年、思いがけないことがあって、こんなCDを作ることになりました。神様の計画って不思議だなぁ、と思うのですが、私たち一人一人に目をとめ、これからも導いてくださることは確かです。
主が良くしてくださったことを、忘れてはいけません。詩篇103編一節〜二節に、大変有名な言葉があります。

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』

 案外、傾向的に、人は悪い事はよく覚えています。「あの時、こう言われた。ああ言われた。」と悪い事はよく覚えています。しかし、良い事って、案外忘れやすいものです。しかし、それではいけないのです。
 特に、主が私たちに良くしてくださったことを、忘れてはいけないのです。
日本には四季があり、季節感と共に、一年の区切りをつけやすいのは、大変すばらしいと思います。主がよくしてくださった事を、もう一度思い返すことができるからです。
 今日は二〇一五年、最後の礼拝です。この一年に主が良くしてくださったことを思い返したいと思います。ちょっと喜ばしくないこともあったかもしれないけれど、それは横において、良いことを主に感謝すると、それが次につながるわけです。

 私は牧師として、毎週のように講壇に立たせていただくのですが、私にとって一番感謝なことは、今年一年間、主がみ言葉を与えてくださった事です。それは個人というより、皆様の祈りと、キリストのからだ全体から語ってくださったと信じます。
詩篇百十九篇百三十節にこんな言葉があります。

『みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。』

今年も、みことばの光、新しい理解を与えて下さった事を感謝します。しかし一方では、恥ずかしく思います。聖書を読んでいるつもりで、神様についても、少しは分かっているつもりでしたが、ちっとも分かっちゃいなかったなぁと、恥ずかしく思います。年が変わる度に、一年を振り返って、新しい事を主は教えて下さったと、心から感謝するわけです。
百十九篇百三十節をリビング・バイブルで読むと、こうなっています。

『神様のご計画が明らかにされると、それは頭の鈍い者にさえ理解できるのです。』

私のような頭の鈍い者でも、神様の計画が一方的に明らかにされると、理解できるようになるというのです。
この一年、神様の計画がどんなものだったのか、主がどんなことを明らかにされたのかを、振り返ってみたいと思います。講壇から、様々なみ言葉が語られましたが、毎週、神の計画が明らかにされた事柄が、シェアされたわけです。
 この教会には、私を含めて六名の牧師がいますが、毎週ここで語られる言葉は、神様の計画が明らかにされた結果、語られたということです。

 今年一年で、語られたみ言葉を、ご自分でも、ぜひ振り返っていただきたいと思います。新城教会のホームページでは、過去から現在までのメッセージが、すべて文字化されていますから、読んでいただきたいと思います。
文字で読むのが苦手という方は、教会員の方は、会員制のパートに入っていきますと、礼拝の模様を映像でも見ることができますし、音声でも聴くことができます。
 一年全体を振り返ると、主がどのような計画を明らかにされたのか、浮き上がってくるのではないかと思います。

私にとって、今年はどこから始まったかというと、イスラエルにとりなしに行った所から始まりました。
 教会の中で、語るのが難しいテーマは、様々な考え方があって、一つの立場を取ると、他が否定されるような領域です。難しいと思うのが、一つはイスラエル問題です。なぜなら、そこにはいろんな切り口があるからです。そしてもう一つは、やがてイエス様がこの地上に帰って来られるという再臨問題です。教会によっては、いろんな考え方があるテーマは、横に置いて、他を扱いましょう、という教会もあるわけです。
しかし、ある教会は一つの切り口だけで、真剣にそのテーマを扱う教会もあります。そこに含まれる預言は、やはり起こってみないとなんとも言えないところがあるので、真剣になりすぎるのは微妙です。
 しかしながら、イスラエルという国は、再臨と大きく関わっており、重要な役割を担っています。世界の未来とイスラエルは、大きくリンクしています。それが証拠に、世界情勢は、なんと言っても、イスラエルが中心です。あのちっぽけな、四国よりも小さな国がどう動くかで、世界の動向がいっぺんに変わります。そして、何と言っても、救い主イエス様はイスラエルにお生まれになったわけです。ゆえにイスラエルを正しく理解する努力は大切です。それは避けて通れないテーマです。
いろいろな考え方があるけれど、慎重に主に聞いて、「ここに関心を持ちなさい」と言われる領域に、フォーカスを当てなくてはならないと思います。

 なぜか今年の始めに、主が私をイスラエルに送ってくださいました。まさか、イスラエルのとりなしから一年が始まるとは、思ってもみませんでした。

 民数記六章に、大変すばらしい言葉があります。今日のメッセージは、過去に語ったメッセージの「ダイジェスト版」みたいなメッセージですから、詳しくは語りませんので、ホームページから読んでいただきたいと思いますが、この言葉は今年の始まりの頃、何度かみなさんに紹介した箇所です。二十二節〜二十七節、

『ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」』

 イスラエルは部族社会で、十二部族から構成されていました。

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 ここに部族表があります。十二部族が示されているのですが、ヨセフ族にはマナセとエフライムがありますから、本来は、十三部族になるのです。
 しかし、十三部族と呼ばないのはなぜかというと、三番目のレビ族は、十二部族には含まれないからです。レビ族の人たちは、どういう人たちかというと、自分たちの割り当て地を持たず、神を礼拝したり、賛美して、神に仕える役割の人たちでした。
 モーセと共に出エジプトをしたアロンという人物がいましたが、その家系の人たちは、代々、祭司の家系で、主を礼拝し賛美する役割の人たちでした。

 実は民数記六章の言葉は、主がモーセに告げられたのですが、「レビ族」への命令です。
 『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
 この言葉って、素晴らしい言葉ですよね。この言葉を受け取ったら、二〇一六年も安泰です。
 しかし、この言葉は、誰に告げられた言葉かというと、レビ族の人たちに告げられた言葉でした。レビ族の人たちが、この言葉を誰に宣言するように命じられたのかといったら、イスラエル人のためです。
 イスラエル人とは、レビ族を抜いた十二の部族です。そこに、祭司たちが、「主があなたを守り、あなたを祝福されますように」と宣言すると、イスラエル全体が祝福されるのです。そして、その結果として、十二部族から外れているように見える、レビ族も祝福されるというのです。全体が祝福される為の法則です。
 聖書には、霊的法則というのがあります。霊的法則、祝福の法則をキャッチすると、人生は大きく変えられるはずです。

 このレビ族がいたことによって、イスラエル全体が祝福され、荒野にあっても守られたのです。しかし歴史の中で、レビ族の人たちもやがて消えてしまいました。
しかし、レビ族の役割は誰に渡ったかというと、教会に渡ったのです。クリスチャンに渡ったのです。
今はどうですか。世界中で主をほめたたえているのは、イエス・キリストを信じている、クリスチャンと教会です。
 私たちはレビ族と同じです。神と人との間に立ち、とりなし、神と人とを結びつける役割を負っています。

 先週もクリスマス集会がありました。本当に祝福されました。毎日のようにクリスマス会をやっていて、一週間でどれだけ太ったのかこわいです。先ほども、「背広がちょっときつくなったな。」と感じたのですが、すばらしいクリスマス集会でした。大勢のクリスチャンではない方々が教会に来られました。教会があるから、一般の方々と、救い主イエス様が結びつけられるのです。これはレビ族の役割です。

 今のみ言葉によると、『彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。』とあるのです。イスラエル人のために祈る、イスラエルの祝福を祈ったら、祝福されるとよく聞きます。その理由は、イスラエル人のために、レビ族であるクリスチャンが、教会が、関心を持ち、彼らの祝福を祈るなら、気がつくと自分たちも祝福されるということです。だから、イスラエルなんて、あんまり関係ないと考えないで下さい。多くの人は、あの国は問題を起こしている国だと思うのですが、イスラエルの祝福を祈らないといけないのです。そうすると、結果的には教会も、私たちも、祝福されるのです。ゆえに、祈りましょう!ということです。

 しかし、イスラエルと一口に言っても、中身は結構複雑です。現代のイスラエルについて、勉強すればするほど、混乱します。実際、イスラエル人って、誰なんだろうかと思います。
 以前にもここで紹介したのですが、イエス様は紀元一世紀頃におられたわけですが、イエス様は実際、どんな顔をしていたのでしょうか。イギリスのBBCが、一世紀頃のエルサレム近辺から発掘された骨を再生して、顔を作り上げました。近頃、犯罪捜査などで、顔を再現する技術が確立し、一世紀頃の人骨を再生して、当時の人たちは一般的に、こういう顔つきをしていたのではないだろうか、とレポートしました。イエス様を含む、一世紀頃のイスラエル人の男性の顔を復元したのです。すでに見られたと思いますが、これです。

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 私たちって、案外、刷り込みがあって、イエス様の顔についても、変なロマンがあるわけです。こういう顔で、みなさんの前に出たらどうでしょう?ちょっと、ぎょっとするかもしれません。この顔は、テロを起こしそうだ、という感じです。

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 イエス様がよみがえられた時。これも以前に見せましたよね。この顔のイエス様が現れて、「平安があなたがたにあるように。」と言われたらどうでしょうか?女性の方、こんなイエス様が目の前に現れ、「平安があるように、祝福があるように」なんて声をかけてもらったら、どうですか。とろけちゃうじゃないですか。もう最高!となってしまうと思います。
 でも、もしもこの顔で出て来たらどうですか?

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 「平安があなたがたにあるように。」と言われたら、瞬間的に平安を失いそうです。でも、もしかすると、イエス様は、案外、こちらの顔のほうが当たっているのかもしれません。イエス様は、アブラハム、ヤコブ、イサクの子孫ですから、人種的に白人はあり得ません。
 イスラエルに行って疑問に思うのは、ユダヤ人に白人が多いことです。なぜだろうと、素朴な疑問を持ちます。
 私はいろいろと調べてみました。白人系のユダヤ人たちは、主に、ロシアとか、東ヨーロッパに多く住んでいた人たちです。それらの、白人系のユダヤ人たちは、全てとは言いませんが、その多くが、なんちゃってユダヤ人たちです。かつて、キリスト教とイスラムに挟まれて、国全体がユダヤ教に改宗した歴史があります。その結果、以後代々、ユダヤ教徒となりユダヤ人になってしまったような人たちがいるのです。
 実際、イスラエル人を祝福しろと言われても、どこの誰を祝福していいのか分からず、複雑です。祝福しなければならないのは、ユダヤ教徒ではなく、真のイスラエル人だからです。
今のイスラエルも、大富豪、ロスチャイルド家が多大なお金を出した事により出来ました。それは、自分の利権のためでした。それが本当に、聖書の預言の成就なのでしょうか。
 ゆえに現代の正統派と呼ばれるユダヤ人たちは、現在の国家を受け入れていません。私たちが一般的な情報で、イスラエルの祝福を祈っても、敵に塩を送るような部分もあるのかもしれません。
しかし年の始めに、この場所に住む人たちの祈るなら、イスラエル人を祝福することになる、と主が教えて下さったのです。それで、私はある牧師先生と一緒に、その場所に行ったと話をさせていただきました。

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 それがどこかというと、北イスラエルの領域、イエス様の時代はサマリヤ地方と呼ばれていた街でした。ユダヤ人とは、本来、「ユダ族の人たち」を意味します。イスラエル人とは、北イスラエルとユダの全体の呼称です。ユダの人たちは、北イスラエルとは、歴史から消えてしまったと言っていたのですが、実際は、消えてはいなかったのです。ほとんどの人たちは、サマリヤ地方に残り、住んでいたのです。
 私はどこに行ったのかというと、かつて「シェケム」と呼ばれた場所に行きました。

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 イエス様もかつてシェケムに行かれました。イエス様の時代は、「スカル」と呼ばれていました。そこでイエス様は、サマリヤの女と出会いました。そこはかつて、北イスラエルに属する場所でした。
 このシェケムは、イスラエルの原点です。なぜなら、アブラハムがこの地に入って来たことにより、イスラエルが始まったからです。その後、シェケムにイエス様も行き、この町に大リバイバルが起こった記録がヨハネの福音書四章に記されています。その事も何回か、お話させていただいたのですが、実は、シェケムは、レビ族の住む町であり、イスラエルの十二部族の人たちが一緒に住んでいた街でした。十二部族は割り当て地に、それぞれ分かれて住んでいたのですが、シェケムだけは、十三部族が集中していたのです。
 なぜなら、そこは、「逃れの町」と呼ばれ、全部族から、問題を持った人たちが来て住んでいたからです。サマリヤの女は、曰くつきの女でしたが、逃れの町は彼女にとって住みやすかったのでしょう。

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 実はここに、今でも、イスラエル人の家系、即ち、父方だけを受け継ぎ、モーセの五書に従って儀式を行っている人たちが存在するのです。

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 実は、ユダヤ教には、ユダヤ教団とサマリヤ教団があるのです。実は、イエス様はサマリヤ教団の中に入って行かれ、ご自分が救い主であることを自ら告げられました。
「イスラエル人を祝福しなさい。」とは、現代のユダヤ教徒たちの為に祈ることにも鍵はあると思われますが、全く忘れられているような、サマリヤ教徒たちの祝福を祈るように導かれました。それは、イスラエル人全体を祝福することになり、その結果として、教会も祝福されるということを教えられました。
 サマリヤ教徒とも会って来たのですが、み言葉の戸が開かれた結果だと思います。

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 これがサマリヤ村です。かつてイエス様がサマリヤの女と出会った町が今でも残っています。イスラエル政府は「サマリヤ人」を保護しています。なぜなら、彼らは絶滅危惧種だからです。現在、七百数十人しか残っていないからです。

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 この子たちはサマリヤ人の子どもたちです。私は安息日の日に行ってしまい、写真を撮ってはいけない日だったのですが、交渉して、撮らせてもらいました。「イスラエル人を祝福せよ。」とありますが、この町の周辺に十二部族の子孫たちが、住んでいるのだろうと思い、祝福を祈ることができました。

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 この町はナブロスという街ですが、以前は、スカル、アブラハムの時代はシェケムと呼ばれていました。普通はどうでしょうか。アラブ系の街に、真のイスラエル人が混じっているとは、なかなか考えません。そんな所に入って行ったら、拉致されるんじゃないかと恐れます。多くの人たちがそのように考えています。私も以前はそのように思っていました。
イスラエル問題は人類の未来にとって、重要な問題だから、悪魔も真剣に、幾重にも、覆いをかけているのではないかと思います。
 しかし、その覆いが取られて、祈りが真のイスラエル人に集中されるとき、教会も祝福され、イエス様のお帰りにもつながるのではないかと思います。
 ぜひ、この街の人たちのために祈っください。また、サマリヤ人の救いのためにも祈ってください。

 私はサマリヤ教徒に「私は牧師です。クリスチャンです。」と話しても、嫌な顔をせず、すんなり受け入れてくれました。
一人のサマリヤ人の長老のおじいさんに、「私はクリスチャンですよ。日本から来ました。サマリヤ人の人たちって、イスラエルで最も重要な人たちではないかと思って来ました。」と言ったら、『本当なんだよ。』と彼らから、様々な歴史について聞く事が出来ました。
 それで「私はクリスチャンで、みなさんの祝福を祈っています。」と言ったら、『知っているか?イエス様は、俺たちのことを良い人だと呼んでくれたんだ。』と言いました。
ご存じのように、良きサマリヤ人の話です。彼らは、福音にも、心が柔らかい人たちではないかと感じました。そして彼らは、心から、平和を愛する人たちでした。アラブ人居住区のただ中に住んでいます。あまり、目を留められない人たちですが、主はそこに目を留めておられるんじゃないかと感じました。これからも、その人たちの祝福を祈っていきたいと願っています。
 できれば、新城教会の中高生をその街に連れて行きたいです。なぜなら、その街に難民キャンプがあるからです。時々、人が殺されるらしいですが、ボランティアが多く必要だと言われました。「中高生でもいいですか?」と聞いたら、「もちろん、いいですよ。」と言われました。いつか、そこにも連れて行きたいです。

 これは主が開いてくださった領域であると信じます。今まで、「イスラエル人の祝福を祈れ」と言われても、いまいちピンと来なかったし、つかみ所がありませんでした。しかし、これからはフォーカスをしぼって、サマリヤ人たちや、シェケムに住む、北イスラエルの領域に住む人たちのために祈りたいと思います。

今年、私にとって大きな出来事は、父が亡くなったことです。それもみ言葉の扉が開かれるのに、大きく関わったと思います。
 主はすべてを支配しておられます。私は父の最期を、ネパールの山中から看取ることができました。ちょうど父が亡くなる十五分位前でした。そこにはWi-Fiなんかなかったのですが、一ヶ所だけ見つかり、奇跡的につながったのです。父の最期を、遠いネパールの地からテレビ電話で、看取ることが出来たのです。それは本当に、主の大きな配慮だったと思います。

 父が凱旋した翌朝、主が私に開いてくださったみ言葉の扉は、私にとっても、教会にとっても、新しい幕開けとなりました。それがヨシュア記一章一節〜六節です。

『さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。』

 父が凱旋したその日、主がこのみ言葉を語ってくださいました。父を決して、モーセと比べることはできませんし、私たちをヨシュアに並べることはできません。しかし、ある意味、役割的には、父はモーセ的な働きをした部分もあったのではないかと思います。それは、戦後の日本のリバイバル運動を牽引したからです。「リバイバル、リバイバル、リバイバル」と、最後まで叫んで死んで行きました。しかし、残念ながら、この地でリバイバルを見ることはできませんでした。
 モーセもヘブル民族を「カナンの地まで連れて行け!」と主から言われたのですが、カナンの地に入る寸前、カナンの地が見える山の上で死んで行きました。さぞかし、モーセは残念だっただろうと思います。
 しかし、何度もここで語らせていただきましたが、私たちクリスチャンの人生の目的は何か?それは、自分の夢を実現するためではなく、主の夢を実現するための、役者の一人であるということです。
 出エジプトという計画は、モーセの計画ではありませんでした。主の計画だったのです。その中で、モーセは荒野の四十年を演じる役割、ある意味、主役のような存在でした。しかし、この計画は、元々、神の計画でしたから、モーセが死んでも、計画は次世代のヨシュアに引き継がれ、カナンの地に入ることができたのです。

 私たちも、自分の夢の実現ではなく、主の夢を実現するために、神様の大きなプロジェクトの中の一員として、それぞれのパートを演じさせていただいているということです。
父はその中で、「二〇一五年八月一日の早朝まで」という期限がついていたのではないでしょうか。
 しかし、神様が立てた、日本のリバイバルと、やがて主が帰られる計画は、決して揺るぐことはありません。新城教会が、神の計画を受け取っていたら、将来は揺るぐことがありません。父が死んだって、私が死んだって、牧師たち全員が死んだって、神の計画がある以上、必ず、働きは受け継がれるはずです。
しかし、一つの区切りがつき、次の世代に受け継がれる瞬間が大変重要であると、語らせていただきました。

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 モーセが率いた四十年は、昼は雲の柱、夜は火の柱で、主は人々を導かれました。いいですね。二十四時間、神様の存在が目で見て分かるなんて、そんなすばらしいことはありません。四十年間も昼は雲の柱、夜は火の柱で、主はご自分を現されたのです。ザワメキにもあります。
 ♪昼は雲の柱で、夜は…餃子のノブズ…
これは私の替え歌です。私は昼は雲の柱でスパゲッテイを、夜はノブズで餃子を食べる事が時々あります。主は、昼は雲の柱、夜は火の柱で、イスラエルを導いたのです。
 四十年間、主が共におられましたから、荒野にあってもヘブル民族は守られました。彼らは、神様がどういうお方かよく理解していたし、目に焼き付いていました。
 しかし、カナンの地に入った瞬間、神様のお姿が変わったと話をさせていただきました。

ヨシュアは、主の姿を見て、敵なのか味方なのか、分からなかったのです。「あなたは敵なのですか?味方なのですか?」と聞いています。すると、「わたしは主の軍の将としてやって来た。ここは聖なる場所だ。履き物を脱げ!」と言われました。
なんとカナンの地に入った瞬間、神様のお姿が変わったのです。
新城教会が、ヨシュアの世代に入ったのは、父が死んでからというよりも、一九九二年だったと思われます。一九九二年に聖霊が注がれた後、主の姿が変わってしまった感じでした。だから、初めは混乱しました。しかしそれは、主は目的にあったお姿で、私たちの前に現れる事を、学ぶ機会でもありました。

 荒野の四十年間、幕屋の中では祭司やレビ人たちが、礼拝を捧げていました。しかし、カナンの地に入ってからは、礼拝のスタイルさえも変えられたとお話ししました。
 今までは幕屋の中で礼拝していたのが、なんと、礼拝が戦場に持ち出されたのです。戦いの最中に、賛美する者たち、礼拝者たちが引き出されたのです。なんと、戦いと礼拝が一体となったのです。
 これはモーセの世代から、ヨシュアの世代に切り替わった瞬間に、起こった事です。

 ある意味、今年は、この教会においても、一つの切り替えが行われました。今まで持っていた、神様に対する概念を超えていかなくてはならない部分もあるのではないかと思われます。

 振り返ってみれば、一九九二年から、賛美が変えられました。戦いの賛美に変えられました。昨日も、ザワメキの集会がありましたが、ある音楽大学の先生が、ザワメキを分析したそうです。上から降って来る賛美だと言っていますが、ザワメキは、音楽的にも結構難しいことをやっているというのです。一般的に、日本語は一つの音譜に、一つしか言葉が入らないのに、ザワメキは一つの音の中に単語を押し込んでいると言っていました。それは主がやっておられるからでしょう。
私が分析するところでは、ザワメキは霊的戦いの賛美と、再臨の賛美が多いです。まさしくこれは、新しい世代に主が与えた賛美ではないかと思います。
 私たちに今求められている礼拝は、一つの場所に閉じこもって礼拝するということよりも、外に出て、町のとりなしをし、暗闇と戦いながら主を礼拝するスタイルです。

 イスラエルも、カナンの地を勝ち取ってから、宮を建てたことにより、荒野スタイルの礼拝に戻ってしまったのです。宮の中に再度、雲が満ちた事からもそれがわかります。
その後、どうなったかというと、国は分裂し、ヨシャパテ王の時代、ユダはもう少しで、敵に占領される寸前でした。その時、ヨシャパテ王に、主が何を語られたかについてお話ししました。それは、「もう一度、聖歌隊を戦場に出せ!」でした。このスタイルは、カナンに入った時の状態です。そこに戻され、敵に勝利したのです。

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 このスタイルに戻された時、敵は打ち破られたのです。私たちは、主が帰って来られる寸前の、戦いの世代に生きています。町に出てとりなしの祈りをし、主を礼拝することが求められています。戦いの賛美のただ中で進んで行くことを、主は望んでおられるのではないかと思います。

最後に、主がもう一つ扉を開けてくださったと思ったのは、ナガランドの働きでした。インパール、ナガランドでの和解の働きは、私たちが考える以上に、霊的世界では大きなことではなかったかと思います。

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 剣を置いて、和解をし、み言葉の剣を交換するという事が行われました。

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ナガランドは周りを異教の神々に包囲されています。そこに、クリスチャン人口九十パーセント以上の場所があるのです。あたかも暗闇の中に、レーザー光線で穴を開けたようです。
 ここにもみなさんをお連れしたいと、本当に思います。深い山の中です。日本軍はよくぞ、こんな所まで攻め込んだもんだと、悪い意味で感心します。しかし、戦後、この場所に、三波に渡ってリバイバルが起こり、九十パーセント以上がクリスチャンになりました。
 それも、人の手によらずにリバイバルが起こったというのです。度重なる戦火の中で、少数のクリスチャン達が、苦しんで神の前に出て祈っている時、人の手によらずに聖霊が注がれ、リバイバルが起きたのです。
 今回、主がここに導いてくださったことは、今は理解できないけれど、主が帰って来られる道を備えるために、大きな働きではなかったかと思うのです。

 実は、この映像、何度もお見せしましたが、ダニエル書の記述をもとに作られたものです。

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ダニエル書二章四十五節、

『あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」』

ここで、「山から切り出された小石」が出てきます。その後、小石は全地に満ちたのです。この石は、「山から、人手に寄らずに切り出された」のです。小石とは、イエス様のことを現しているのですが、同時に、終わりの日のことも教えています。
 今回、ナガランドに行って、もしかしたら、ナガランドは、山から切り出された一つ小石的存在かもしれないと感じました。

今回ツアーの中に、斉藤さんがおられました。この間も話しましたが、二〇〇〇年「東京でスーパーミッション」の頃、彼女は足首に大きな腫瘍が出来ていて、次の週には、膝から下を切り落とす手術が決まっていました。
 栃木県の方ですが、彼女が通っている教会の先生が、「今、東京でスーパーミッションという集会をやっているから、是非、一緒に行って祈ってもらってから、手術を受けましょう!」と言って、無理やりに彼女を連れて来たのです。
今でも覚えています。その日は、代々木公園に集まって、東京一円をトラクト配布するプログラムで、集会をやっていたわけではなかったのです。トラクト配布に出かける前、木陰でみんなで斎藤さんの為に祈りました。
「どうか足をいやしてください!」と。すでに腫瘍は、足首から飛び出ていて、大きな塊だったというのです。「膝から下は切断」が決まっていた前の週です。しかし、癒されてしまったのです。

 今回、この方が、一緒にナガランドの山に登って祈ったのです。始め私は、その事に気づいていなかったのですが、帰り道に「そういえば、膝から下、切り落とすはずだったんですよね?」と話しかけたら、『そうですよ〜!』と。「あの時、切り落としていたら、今日は来られませんでしたよね!」と話しました。
 まさしく、彼女の足首に、人手に寄らずに切り出された、聖霊の小石が当たったのではないでしょうか。それで、癒されたはずです。
 斎藤さんが癒されたのは、この日のためだったと思いました。

 実は、今回のナガランドの集会が実現できたのは、ナロン先生という、タイ人の先生の紹介でした。それで、ナガランドの集会ができたのですが、ナロン先生がクリスチャンになった教会が、なんと、斉藤さんが通っている、堀田先生の教会なのです。斉藤さんをつれて来た牧師の教会なのです。鳥肌ものというか、全て主の働きはつながっています。
 ナガランドの働きも、神の大きなプロジェクトの中で、重要な位置を占めていたと信じます。いや〜、今年一年間、主が様々なみ言葉の扉を開いて下さり、ご計画を示してくださったのです。

主が良くしてくださったことを、何一つ忘れないで、心に留めながら、二〇一六年を迎えなければいけないのです。
 こんなにも偉大なことを示してくださった主に、心から感謝したいと思います。

 今から聖餐式を行いますが、聖餐式は、主に心からの感謝を献げる一時です。一言、祈らせていただきます。

 ハレルヤ。父なる神様、御名をあがめて、心から感謝します。今年一年間を振り返る時、あなたのご計画が私たちに現され、鈍い者でありますが、み言葉を理解させていただいたことを、心から感謝します。今日語らせていただいた以外にも、多くの扉を開いてくださいました。それを、心から心から感謝し、主の前に出ています。この感謝を受け取ってください。
 あなたがよみがえってくださったことにより、永遠のいのちをいただくことが出来、心から感謝します。イエス様が帰って来られる日、あなたとご一緒に、世界を治めることができる特権を、心から感謝します。今から感謝と共に、聖餐式を行います。一人一人の上に、豊かな祝福がありますように。イエス様の御名を通して祈ります。アーメン。