『天の門を開くカギ「賛美」をしよう!』

2016年2月7日(日)
新城教会牧師 滝元開
ヨハネの黙示録3章7節〜11節

『また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。』

 ハレルヤ。感謝します。今日は朝九時から特別の賛美の集会が行われており、ザワメキの一から十二まですべての曲を一曲ずつ歌っています。三十分で一つのアルバムを歌うということなので、一曲に対して本当に少ししか割りあてがないのですが、でもとても恵まれた賛美の時が持たれていいます。今日は夕方の六時まで賛美が行われますので、是非みなさんも、食事の時間も歌われますので、食事だけ食べられる方も、喜びをもって賛美をささげてください。神様が、この日本のリバイバルのために、特別な御業を成してくださると、心から信じています。

 一九九二年二月十三に日に、愛知県民の森で聖霊が注がれて、それから新しいことが始まりました。七月九日に霊的戦いが始まって、リバイバルの戦いが本格化し、そして、幾年もの年月を経て、今年の二月十三日がいよいよ今週の土曜日です。新東名が通るということで、大きな話題になっていますが、新東名が通ることで、教会あげて喜んでいるのは、きっと、日本でもここにしかないんじゃないかと思うのですが、これほどまでに「さぁ!通るぞ!」と、心から心待ちにしている新東名。本当におもしろいですね。でもこれはただ便利になるからとか、田舎がちょっとだけ便利な街になるとか、そういったことではなくて、神様が新しい次元の扉を開かれるために、道を備えてくださると信じて、進んでいきたいと思います。

 先週の月曜日に朝礼のメッセージの中で、順先生がこんなことを言っていました。「新東名を待ち望んでいた二人の人物がいた」と言うのです。一人は、みなさんご存じのように、滝元明牧師です。「新東名、新東名」とずっと言っていました。「どこまでできたか見たいから、連れて行ってくれ。」と、何度も何度も連れて行かされました。結局、本物を見ずして天国に行ってしまいました。
 そして、もう一人おられました。それは、田中政男先生だったそうです。今日も来てくださっている吉橋さんご夫妻が浜北の教会におられた時に、先生が「もうすぐ通るから。もうすぐ通るから。」と言っておられたことを順先生が聞いたそうですが、お二人とも、日本のリバイバルのために戦って働いて、「リバイバル!」と叫び続けて、約束の地、リバイバルを見ずして天に帰られましたが、でも神様の御手の中の計画がありますので、新たな世代が、リバイバルへの道を一歩一歩進んで行きたいと願っております。

 今朝は、「天の門を開くカギ「賛美」をしよう!」というタイトルですが、週報の中には、「ガギ」と書かれてしまっていますが、私の入力間違いです。最近、コンピューターで打っていて、自分で打ったことをちゃんと確認できないんですね。怖いですね。本当に。文字を大きくしないといけないのですが、「ガギ」ってなっていて、「ガキ」じゃなくてまだ良かったと思っていますが、「カギ」ですのでご了承ください。
 「天の門を開くカギ『賛美』をしよう!」本当に、心から主を賛美していきたいと願っています。賛美をする中に、神様が新しい扉を開いてくださって、新しい御業をなしてくださると信じています。

 『ダビデのかぎを持つ方がこう言われる。』と言われているので、ダビデの鍵というのは、他でもなく賛美ですね。賛美を持つ方がおっしゃった。『わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。』主は、新しい門をこの二〇一六年に開いてくださって、リバイバルを本当にこの目で見させていただきたいと、心から心から願っています。
 もう二〇一六年が始まって、一ヶ月経ちました。みなさんにとって、この一ヶ月、どんな一ヶ月だったでしょうか。新年PPHから始まりました。今年は二十四時間のPPH、グロリアシンガーズ三十数年ぶりの再結成、ということで、ずいぶん話題になって、盛り上がりがありました。
 それで、今まで、兄たちと、一緒に練習するというよりも、一緒に話すことがなかなかありませんでした。今回、父の凱旋を機に、いろんな、今までになかったシチュエーションがいっぱいありました。一緒にお茶してケーキ食べたりしましたからね。奇跡ですね。そんなことあるのか!?みたいな。一緒にご飯を食べたり、レコーディングをして。
 レコーディングを始めたら、兄たち二人は、こう言うのです。「おまえは現役だからがんばれ。」と言うのです。がんばるけど、ベースは現役じゃないですから、私も結構いっぱいいっぱいであるのにも関わらず、「おまえが俺たちの杖だ。おまえがいないと倒れるんだから、がんばれ。」とか言われるのです。そう言われても、私も必死ですよ。今回の二十四時間、今までの二十四時間で最も疲れました。いつもは真夜中に歌ったり、山に登って歌ったりするのですが、終わってからぴんぴんしているのですが、今回終わったら、ぐったりげんなりですね。「お父さん、どうしたの?」『いやぁ、心が疲れたのかなぁ。』なんて、言っていましたが、本当に、この二〇一六年、そんな疲れた中から始まりましたが、でもこれも神様の計画の中にあるものだと信じます。
 順牧師も、望師も、それぞれギターを数年ぶりに握って、二十何年ぶりに「ピック買った!」とか言って、なかば喜びながら、でもすごいですね。あっという間に昔のように弾くのです。「俺はできん、できん(三河弁:出来ないの意)」とか言いながら、すぐにできるようになるのです。いやぁ〜すっごいなぁというか、やっぱり培ってきたものが長かっただけあって、よみがえるとあっという間なのです。すごいなぁと思いましたが、その中にも、神様の計画があると、そのことを信じています。そのこと、後からまた少し触れたいと思いますが、本当に今日もこうしてここで賛美をみなさんと共に捧げることができて、心から感謝しています。

 またお祈りさせていただきまして、ザワメキの働きも本当に日々、いろんな所で賛美を捧げています。特に、父が天に帰って、ちょうど丸半年経ちました。日本のいろんな所に行って、いろんな兄弟姉妹にお会いするのですが、みなさんが自分のことのように、「自分のお父さんが亡くなった時よりも悲しいの!」と言ってくださる方がいっぱいいるのですが、本当に一緒に悲しみを共有すると共に、そのリバイバルのバトンを今度は新たに受けて進んで行く!と、それぞれの地で、みなさんおっしゃってくださって、本当に心から感謝しています。
 ザワメキで行く先々で、みなさんが悲しみと共に、でも、賛美の中におられる主が新しいことをしてくださる!と受け取ってくださって、それぞれが新しい歩みを、それぞれの足で始めておられるなということをすごく感じます。

 昨年も、一昨年も行った、四国の小さな教会があります。十数名の教会なんですが、そこで賛美をしたら、すごくみなさん喜んでくださって、特にお年寄りのみなさんが、喜んでくださいました。ザワメキの賛美が初めてであるのにも関わらず、すごく喜んでくださって、終わってからザワメキイレブンを買って帰ってくださいました。
 そして昨年、一年ぶりにまたその教会に行きました。そうしたら、そのおばあちゃんが、またすごく喜んで私たちを迎えてくださいました。「一年間、ずっと、ザワメキイレブンを毎日聴き続けた。」と言ってくださいました。毎日CDをかける時に、「今日もよろしくお願いします。」と言ってスイッチを押し、一日聴くんですって。それを一年間、聴き続けて、今年はザワメキトゥエルブを手にして帰って行かれました。いや〜、神様は本当にそれぞれの中に、賛美の中におられる主を、それぞれの生活の中で体験するということを始めてくださっていて、すごく感謝しました。

 また北海道に行ったら、そこでも一人の牧師先生にお会いして、移動中よく車に乗りますが、北海道は遠い所は飛行機で行かなきゃならないので、飛行機で行って、その地元の先生の車に乗ったりすると、その牧師先生がどんな音楽聴いているのかなと思うのですが、その先生、一年ぶりにお会いした先生が、ザワメキイレブンを聴いてくださっていました。
 それで、先生がおっしゃるのです。「本当に、このCDで、どれだけ励まされたかわからない。慰められたかわからない。」というのです。それで、その牧師先生に、息子さんがおられるのですが、車に乗ると必ずおっしゃるというのです。「十一の十かけて。」と言うそうです。「十一の十。分かった。」と言ってかけるんですって。それは、何であったかというと、「勇気を出して」なんですが、「だから本当に励まされて、一年間歌い続けました。」と、言ってくださいました。

 それが北海道での出来事だったのですが、帰って来て、つい先日、この教会でリハーサルの前に、一人の兄弟が私の所に来て、こう言いました。その兄弟、礼拝に時々しか参加できない兄弟なんですが、「開さん。なんとか今日、十一の八を歌ってくれませんかね。」と言うのです。もう選曲しちゃったから駄目だよと言ったんですが、「いや〜、あれ、たまらなくいいんですよね。」と言うのです。「十一の八?何なの?」と聞いたら、メモを見せてくださって、「イエス・キリスト 世界の喜び」でしたが、あれがたまらなくいいとおっしゃってくださいましたが、私もそんな覚え方をしていないので、おもしろい覚え方してくださっているんだと思っておりました。

 そして、この間、岡山に行ったら、主婦のみなさんとの会話の中で、二人の方がこう言い出したのです。「うちの子どもたちは車に乗ると、『十一の四をお願いします』と言う」というのです。十一の四、何か分かりますか?「イエスの名前は勝利」だったのです。そして、もう一つは、「私は十の五がいい。」と言われて、それは「主の愛が今」でした。あちこちで十の何々とか、それぞれ言ってくださるのですが、本当にすごく感謝しています。
 神様が、この賛美の働きを進めてくださって、日本中で、決してまだ多くはないのですが、確実に、その種が地に落ちてそこで芽生え始めている姿を見させていただいております。そして、賛美の中で主が事をなされるという、信仰を持って歌い続けていく中に、神様が事をなしてくださっているので、本当に心から感謝しています。

 岡山の教会も一年ぶりに行ったのですが、そこの教会は本当に恵まれている教会なのです。私たちが前回行った時にも、子どもたちが一番前で、本当にいっぱいになって、こうやって(上を見上げて)歌うのです。どうしてこうやって歌うかといったら、ここにスクリーンが上にあるので、スクリーンを見るために、みんなこうやって歌うのです。しかも、ひしめきあって、こうやって歌うので、ペンギンちゃんのようなのです。それで、ペンギンちゃんと呼ばれているのですが、ペンギンちゃんたち、一生懸命歌うのです。その彼らが、「十一の四がいい、十の五がいい」と、それぞれ言っていたのですが、こうやって一生懸命歌っていて、彼らの姿を見て、すごく励まされました。
 私は朝ドラというのを全く見ない者なのですが、最近、「朝が来た」の中で、ペンギンの話が出て来るんですね。うんうんと頷いている方が何人かいらっしゃいますが、「ファーストペンギン」というのがいるんですね。最初に海の中に飛び込むペンギン、ファーストペンギン的な働きというのは、賛美って、結構そういう所があると思うのです。海の大海原に「さぁ、これから獲物を捕るぞ!行くぞ!さぁ、行こう!」と思うと、でもいろんな危ないものがいるので、「誰が行く?誰が行く?誰だ、誰だ!」という中で、ひゃっ!って最初に行くのがファーストペンギンらしいですが、その映像がありますが、これです。

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 誰が行くかって言って、行くのです。次の映像。

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 でも、こうやってシャチにやられてしまうという、恐ろしい現実も待っているのです。でもリスクを恐れずに挑戦するこのファーストペンギンが、大きな危険と引き替えに大きな収穫も見ることができるということで、注目されている一つのことなんです。リバイバルを勝ち取るためには、ファーストペンギンの役割を果たす人々が必要なのです。賛美の中でファーストペンギンのように、大海原に出て行く時が来ていると思っています。

 明牧師が、私に対して最後に残した言葉というのがあります。それが、七月二十八日の火曜日、ネパールに出かける三日前です。私はその日が、父と過ごした最後の日でした。その時、いろんな話を一日中しました。父のいろんな話をしながら、ここを揉めだの、あそこを叩けだの、また、これを祈れ、あれを歌え、ずっといろんなことを言っていたのですが、リバイバルのためにずっと語るのです。「はい、はい。」と、私は聞いていたら、そうしたら、ふっと私に向かってこう言いました。「あのな、開。リバイバルは人間の常識を越えた所にあるから、人間の常識を働かせちゃ駄目だ!」と、そう言いました。
 ある意味で、ファーストペンギンのような役割を果たす者には、リバイバルの中で、人間の常識を越えたような働きをしなければならないのかもしれません。父はリバイバル!リバイバル!と、ずっと叫び続けましたが結局、天からの参戦となりました。しかし次なるバトンを受けた私たちが、やはり本当に神様の御声をしっかりと受け止めて、神様が何をさせようとされているのか、何をしようとされているのか、そして、どこに行こうされているのか、どこに向かって飛び込まないといけないのかということを、それぞれが受け止めて、それぞれの大海原にこれから飛び込む時が、この二〇一六年かなと、本当に思っています。
 リバイバルは人間の常識を越えた所にあるというのが、リバイバルですので、学校で、会社で、この社会でこれをしたらちょっと違う?と思うようなことの中にあるのかもしれません。この国の中でこんなこと言っちゃったら…。というようなことがあるのかもしれませんが、しかしその中に神様ご自身が働いてくださるので、この年、主の大きな勝利が現されることを、本当に求めていきたいと思っています。

 やはり、最も大切なのは、信仰と希望と愛が大切ですが、さらに、リバイバルのためには福音宣教がすごく大切だと思います。最終的な私たちの霊的な戦いというのは、魂を永遠のさばきから引き出すという、大きな「宣教」という働きが大切であるわけで、そのためにそれぞれの場所で、それぞれの大海原に飛び込んでいかなかったらいけないのですが、そこで、宣教という働きをしなければならないのです。父が七月七日に癌宣告を受けて、そして二日後に県民の森に入って祈りました。二日後というのは、七月九日なのです。七月九日というと、新城で霊的戦いが始まった日なのです。
 その時に、父と共に行って、祈って、祈って神様からもらった言葉というのは、「命のことは、わたしに任せなさい。永遠のいのちを伝えるために働きなさい。」というのが、神様からの答えだったというのです。ですから、その霊的戦いの記念日に、主が父に最後に語った言葉の一つが、「永遠のいのちを伝えるために働きなさい。」でした。
 私たちに与えられている、この永遠のいのち、これを伝えるために私たち一人一人に与えられた、この命を、輝かさなかったらいけない時が来ているのではないかと思います。

 前後しちゃいますが、七月七日に癌宣告を受けて、前回も言いましたが、最初に言った言葉が「すばらしいなぁ!」だったのです。この場に及んで、この人、すばらしいなぁ!と言っている。しかも、結構にこにこして言っていました。「クリスチャンはすばらしいなぁ!永遠のいのちを持っているってすばらしいなぁ!」と、にこにこしながら言っていました。父は伝道者として永遠のいのちを語り続けていました。よく言っていたじゃないですか。「永遠に、永遠に、永遠に、ずっと、ずっと、ずっと!この永遠に生きられる!こんな喜びはない!」と、ずっと語り続けていて、いよいよ自分が天国の門の前に立って、父の心は喜び躍っていました。
 ですから、私たち、これから神様が遣わしてくださるその場所で、この永遠のいのちの祝福を語る者とさせていただきたいと、本当に心から願っています。

 一九九二年の二月十三日に、主の業が始まって、そこからここまで一歩一歩導いてくださいましたけども、神様のこれからなさることに期待して、それぞれの場所に、主は共におられるので、信仰を持って、出て行って、そしてイエス様を伝える。その働きをそれぞれがしていかなければいけない時が、来ていると思います。
 主が共にいてくださる。そのための最も大きな鍵は、やはり賛美なので、賛美の中に主がいてくださいますので、是非、その主を賛美し、そして勝利を勝ち取っていただきたいと思います。

 その一九九二年二月十三日に聖霊が注がれましたが、実は、私自身に賛美が注がれたのは、それよりも二年前からなのです。一九九二年一月からでした。ある朝、突然、私の息子が、その当時、二歳十一ヶ月の時に、朝、起きてきて、こう言いました。「お父さん。僕は作詞作曲をした!」と言い出しました。二歳十一ヶ月の息子が突然、「お父さん。僕は作詞作曲をした!」と。やたら口ばっか達者で、こしゃまくれた男だったので、また何を言い出したのかなと思ったら、歌いだしたのです。「イエス様を信じれば、天国に行ける!イエス様を信じないと、地獄に行っちゃうよ!」という、楽しくておっかない歌ですが、それを彼が歌い出しました。えっ?こんな事があるんだ!?と思って、そこからですよ。そこから神様が賛美を降らせてくださって、賛美の中で、このリバイバルの備えを始めてくださって、これがまさか剣になって、サタンの力を打ち破る、特に天の門を開く鍵になるようになるものとは、その時、思ってもいなかったですが、神様は備えてくださったのです。特に、これからリバイバルのために、子どもたちに賛美を注いで、乳飲み子や幼子たちの口を通して、敵の力を打ち破る!と、詩篇八篇二節に書かれていますけど、そのような御業がなされていきますので、そのことを信じて、賛美し続けていただきたいなぁと思っています。

 創世記十五章五節〜六節のみ言葉、これは、この夏、私が、ネパールで与えられたみ言葉なのですが、お読みします。

『そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』

と書かれています。父が天に帰って、悲しみの中でのネパールツアーだったんですね。私的には。みなさんも、一緒に行ったメンバーもお腹壊したりして、結構過酷な、やられちゃった的なツアーであったのですが、でも団長である順先生が元気だったので、ツアーとしては大きな祝福と勝利だったのですが、でもあの日のことを考えると、なんか寂しくなるのです。八月一日のチトワンという、あの町。あの日の夜のことを考えると、なんか、「はぁ…。」と、寂しくなるのです。「父が天国へ行く。あぁ、父が天国に行っちゃった!」という、あの日。ただ、あの後に、山に登って、私が与えられたみ言葉が、先ほどのみ言葉で、『「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。』でした。
 これは、神様が、アブラハムに対して語った約束の言葉なのですが、自分にとって、父は、なんだか、アブラハム的な存在でした。よく、父がここで話していた中に、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、滝元明の神!」とか言っていたのですが、なんとなく、父とアブラハムが重なっていたのですが、その父が天に帰ってから、私に与えてくださったみ言葉です。
 ネパールの山の上で、数えきることのできない、本当にこの日本では見ることのできない、すごい星でした。この夏もありますので、壮年のみなさん、ぜひ一緒に行きましょう。それは余談ですが、あの日見た夜空を見上げた時の星空は、人生史上最高のものでした。その時与えられたみ言葉なのです。その星空を見た時に、「いや〜、神様がくださるのは、こういったものなんだな」ということを、すごく強く感じました。
 『彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』と書かれていますので、私たちは、本当に信仰を持って、主の御業に励んでいきたいと、心から思っています。

 その、天の門を開く鍵というのは、やはり賛美という中にありますが、音楽の中にある力というのが、さらに解き放たれなかったらいけないと思うのです。サタンは、その音楽を通して、この地を治めるということをして、また特に、サタンがこの地上に落とされた時のみ言葉が、イザヤ書に書かれていますが、イザヤ書十四章十一節〜十二節、

『あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。』


と書かれています。『あなたの琴の音はよみに落とされ、』と書かれているので、やはりサタンは自分が音楽をしていて、そして楽器まで持っていて、琴の音と共にこの地に落ちて、この終わりの時代に、激しく戦っています。
 そんな中で、私たちは、神様によって与えられた賛美を、サタンの手から奪回したリズムも、メロディーも、ハーモニーも、主に捧げていく時に、その「賛美」という剣が、すごく鋭いものになっていくと思うのです。剣の中でも、しかも、本当に研ぎ澄まされた、ピカピカに研ぎ澄まされた最先端の点のような部分、そこが賛美の中に与えられる大きな力かなと思います。研ぎ澄まされた刃って、少しでも触れてしまうだけで、ばっ!と、切り裂いてしまう力があると思うのですが、賛美の中には、そのような大きな力がありますので、その賛美をこの地で輝かせていかなかったらいけないなと思っています。

 先日、この新城教会で、「霊的戦いセミナー&実践」といプログラムがあって、その中で、私が担当させていただいた時に、その時も賛美について学びました。以前もここでお話ししましたが、ヒンドゥー音楽というのが、今の世界の音楽を、強く支配しているという話をしたのですが、ヒンドゥーの音楽というのが、結局よく調べていくと、北インドとイスラム圏の、イスラム音楽が融合してできたような音楽なのです。だから、私、今回、イスラムについても少し勉強しました。
 そうしたら、イスラムの中にある音楽も、結局、ヒンドゥー音楽を助ける大きな悪しき力になっているなぁということをすごく思いました。
 イスラムはあまり音楽というのを強調しないというか、それを悪としている部分もあります。だから、ISなんかが、楽器を燃やしたりする映像が流れているそうです。ISにとって音楽という快楽的なものを排除するという働きもありますが、でも、それも、サタンが悪しき音楽を隠していることに他なりません。たとえばコーランそのものも、よく聴くと、これは音楽だなぁと思います。コーラン聴いた後に日本の長唄というのを聴くと、そっくりなのです。日本とイスラムって、こんなに近いんだと、すごく思うのですが、その音楽の背後に働くサタンの計画の中に、私たちがそれを、それが世界中に流れてしまっているので、世界で今、流行っている音楽を、それを自分のものとして受け取っていくと、結局、その悪しきつながりというものが私たちの中にできてしまって、本来しなければいけない神様への研ぎ澄まされた賛美というのが、研ぎ澄まされるどころか、歌う中でやられてしまうということが起こってもおかしくないな!ということをすごく思います。
 ですから、私たちに与えられた毎日の中で、聴くべき音楽、聴いてはならない音楽、そして奪回しなきゃならない音楽というのがあるのかなと、すごく思っています。

 そんな中で、今回の学びの中で、もう一つしたのが、楽器についてちょっと学びました。サタンは、琴の音と共に落ちているので、いつも私たちもギターを弾きますが、ギターのルーツがどこにあるかと思ってちょっと調べたら、その一つにあるものが、やはりイスラム圏のペルシャ音楽でした。ダビデも立琴を奏でていましたが、ペルシャの楽器から世界中に広がって行って、形が変わり変わってギターになったという、そんな歴史があるようです。メロディーも、リズムも、ハーモニーも、そして、「楽器」も神様のものとして使わなかったらいけないと思います。
 そのヒンドゥーの音楽にしても、イスラムの音楽にしても、その音楽を通して何をするかといったら、目指すところは、悪しき神と一体になることを目指すのです。悪しき神々と一つになること。賛美の中で私たちと神様は一つになるようなことってあると思うのですが、しかし彼らが目指すところは、悪しき霊どもと一つになるということなので、私たちが本当に神様と一つになるために、神様によって更に聖別していただかなかったらいけないと思います。

 そのセミナーを先日していた中で、ちょうどその時は、順先生は前半の時間には出ることができませんでした。そしてずっと説明してきて、これからギターの歴史というので、最後のギターの歴史を辿って来て、アコースティックギターが出て来たのが一九九〇年代の初頭なのです。アコースティックギターが出て来て、その次にエレキギターというのが出て来るのですが、ちょうどその頃、順先生が入って来ました。そして聞いていました。
 そして日本にエレキギターが来てブームとなったのはいつ頃かというと、一九六五年なんです。ちょうどその一九六五年というのはベンチャーズというのが来て、トゥクトゥクトゥクという、それに魅せられて、日本中の若者たちがエレキを持つというような事が起こりました。
 そして、そんな煽りを受けて、この田舎町で初めてギターを持ったのが、順先生なのです。自分でギターキットを作って、そしてギターアンプがなかったら有線放送用のスピーカーにつないだら、この地域全体にそのギターが流れたという話をよくしていますが、そんな歴史を順先生は持っていますが、六十年代のエレキブームの時代に「エレキ追放運動」というのがありました。その話をしていると、順先生が、こう言いました。「あぁ、そうそう!俺もその頃だったな。」『いつ頃、エレキ買ったんですか?』と聞いたら、「一九六五年だ!」というのです。『それで、何があったんですか?』と聞いたら、「あの時には、テレビ番組で“勝ち抜きエレキ合戦”というのがあって、あれでよく燃えたなぁ。」と言っていました。私がちょうど調べていたその資料にも、「勝ち抜きエレキ合戦、それが火を点けた!」と書かれていました。その頃、小中学生のエレキ購入禁止というのがありました。
 特に、栃木県の足利市の教育委員会の働きがきっかけで、エレキ禁止令というのが出たというのです。いや〜、すごい時代だったなって思いますね。そして、エレキギターは不良少年がするもの。そういうレッテルが貼られて、ある高校では、コンサートを見に行った高校生が退学になったという、そんな事まで起こったそうです。それで、全国で激しいエレキギター追放運動が波及していったというのが、一九六五年。

 ちょうどその時に、順先生がギターを持った。当教会の主任牧師でございますが、そして、父といろんなバトルをいろいろ交わしたらしいですが、でも、結局、そんな世の中の流れの中にも神様の計り知れないご計画というのはあったのではないかと思います。グロリアシンガーズが誕生したのが、一九七〇年でありますが、それから時が経って、二〇一六年にまた再結成して、また再びギターを持ったという中に、これなんか神様の計画があるのかなぁと、そんな学びをしながら、すごく思いました。
 父がグロリアシンガーズの盾になって、「おまえたち、がんばれ!」と言ったんですね。牧師の息子は牧師の息子で、こういった環境の中で育っているので、これが普通の環境なので、だから、この中で俺が何して悪い!という気持ちがあったんだと思います。よせばいいのに、また赤いパンツ履いたり、ロングヘアで髭生やしたりして、歌ったりしているので、「牧師の息子たちが堕落した!」とか、「悪魔の道具を教会に持ち込んだ!」と、よく言われていて、でもそれで歌い続けました。
 そして、歌い続ける中で、父がある時、一つの分岐点に立ちました。それはどういった分岐点だったかというと、グロリアシンガーズを取るか、教団を取るかという、二つに一つという、すごく大きな分岐点まで来ました。その当時の監督に「兄弟、どうするんだ!」と言われた時に、父は「はい。教団を取ります。」とは言いませんでした。結局、「息子を取ります。」と言って、グロリアシンガーズを続けさせたのです。この中にも、結局、神様の大きな計画があり「リバイバルのために歌い続けよ!」また、「そのギターを奏で続けよ!」ということを、主はおっしゃっていたのかなぁと思うのです。

 その教団とのやり取りとの中で、父が愛知県民の森に行って、神様にいただいたみ言葉があると言って、よく以前話していたみ言葉がありましたが、それはイザヤ書五十七章十九節、

『わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」と主は仰せられる。』

 このみ言葉をいただいた。「わたしがくちびるの実を創造したんだ。だから、その子どもたちに歌い続けるようにしなさい!」と語られ、歌い続けさせたゆえに、今があるのかもしれません。今では、エレキを弾いてもとがめられることなく、私たち、心から賛美していられるということは、すごく大きな主の恵みなんだなと思っています。

 詩篇五十七篇八節に、

『私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。』

と書かれています。サタンが琴の音と共に、この地に落ちて、そして賛美が奪われたわけですが、でもダビデ王様は、また再びその琴の音を奏でて、神様に賛美して戦い続けたのです。そして、そんな中で語ったみ言葉が、今のみ言葉で、

『私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。』

 賛美し続ける中でリバイバルが起こるんだ!ということを、ダビデも語っています。
 ですから、特にこの二〇一六年、当教会の主任牧師が再びギターを手にしましたので、暁を呼びさます働きが、この年、主によってなされていくと、信じています。最後に、最初に読んだみ言葉の八節をお読みしたいと思います。黙示録三章八節、

『わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

と書かれています。『だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。』イエス様ご自身が、そのダビデのかぎを持ったお方が、『だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。』というのが、今年、私に与えられたみ言葉ですが、必ず新しい門が開かれて、新しい業がこの年、起こされると信じています。

 そのために与えられた神様からの武器として、賛美というものが与えられていますので、その賛美を心から捧げていきたいと思います。そして十一節もお読みしたいと思います。

『わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。』


と書かれています。『わたしは、すぐに来る。』イエス様は、まもなく私たちのこの地に帰って来ようとされていますけれども、『あなたの冠をだれにも奪われないようにしなさい。』と書かれています。そして、『あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。』私たちは永遠のいのちというものを持っています。
 そして、与えられた武器を通して、新しい天の門が開かれる御業が、この地に現されることを信じて、賛美し続けていきたいと、心から願っています。

 今週の土曜日は、二月十三日、特別、その日を記念して、様々な働きがなされます。子どもたちが県民の森に行って、祈ります。そしてまた、第一青年が、午後はずっと賛美して、そして、夜の七時半から、バスに乗って新東名をずっと賛美して、この地を勝ち取るという、鍵を開くための働きがなされますので、参加できる方は是非ご参加いただければと思います。参加できない方も、時を同じくして、是非、この地のリバイバルのために、みなさんのそれぞれの場所で、主への賛美を捧げ続けてください。
 賛美の中に力があるというのが、本当にきっと、私たち、まだ経験していないほどの大きな力が、本当にその中にあると思います。研ぎ澄まされて、もう考えられないほど、信じられないほどのことが、これから主はなそうとされていますけれども、「それを、わたしは、その中でするから!」とイエス様はおっしゃっているので、その事を本当にみなさん是非受け止めていただいて、みなさんのそれぞれの家庭で、職場で、学校で、地域で、歌い続けていただければと、本当に心から願っています。一言お祈りします。

 ハレルヤ。愛する天のお父様。あなたのすばらしい御名をあがめて、心から感謝をいたします。今日は、特にあなたご自身を、心からの賛美を持って礼拝できる、この大きな恵みを心から感謝します。主が、この地に訪れてくださって、新しい主のリバイバルの働きを始めてくださったことを感謝します。
 それと共に、あなたがこの地に、特に、賛美という大きな祝福も与えてくださり、ザワメキの十三枚のCDもこの地に与えてくださったことを、心から感謝します。
 主が特に、この地の上に、大きなご計画を持って、リバイバルを用意してくださっていることを信じて感謝します。私たちはその事を信じて、今日も歌っています。歌い続ける力を与えてください。
 また今週は特に、それぞれの家庭の中に、地域の中に、一人一人の生活の中に、今まで以上に賛美が溢れる週とさせてください。その賛美を研ぎ澄まさせてください。その賛美を通して、暗闇の力が打ち破られるという業を私たちの生活の中で体験することができるように助けてください。主よ、その事を見させてください。
 今日はこのような恵みを与えてくださった主に心から感謝します。主に心から期待しつつ、尊きイエス・キリストの御名によって、この祈りを父なる神様の御前にお捧げいたします。アーメン。